前回のまにあっくドイツ観光では、フランクフルトのゼンケンベルク自然博物館でメッセル・ピット化石地域で発掘された化石の数々を堪能した。

化石って面白いよね!ということで、今回は自分で化石を探してみることにした。実は過去に2度、化石集めをしたことがあった。1度目はデンマーク、モン島の海岸でベレムナイトの化石を拾い集めた。2度目は南イングランドのジュラシック・コーストで化石探し。どちらも楽しかったが、ガイドツアーには参加せずただ個人的に探しただけだったので、今回はもうちょっと本格的にやってみたいなあと思い、夫と共に化石ハントの週末エクスカーションに申し込んだ。(エクスカーション提供は、Geo Infotainment

化石探しができる場所はドイツにたくさんある。今回参加したのは、北バイエルン地方アルトミュールタール(Altmühltal)での二日間のエクスカーションだ。アルトミュールタールは日本では「ゾルンホーフェン」という呼び方の方が知られているかもしれない。ゾルンホーフェンはアルトミュールタールにある小さな地域の名で、その一帯からはジュラ紀の化石を多く含む「ゾルンホーフェン石灰岩」が産出される

ゾルンホーフェン石灰岩は古代ローマの時代から浴場の壁や床材、彫刻や暮石用の石として使われていた。19世紀にはリトグラフ(石版印刷)に盛んに使われた。現在は主にタイルに加工され、建材として世界中へ輸出されている。こうしたことからアルトミュールタールには石灰岩の採石場が多くあり、絶好の化石ハンティングスポットが集中しているというわけ。

 

さて、エクスカーションの一日目はMörnsheimにある観光採石場 (Fossilien Besuchersteinbruch Mühlheim)へ連れて行ってもらった。入園料を払えば誰でも化石探しができる。見つけた化石は持ち帰りOK 。ただし、万一、恐竜を発見した場合には園外に持ち出しませんという書類にサインさせられた。(笑)

Mörnsheimの地層はジュラ紀後期のチトン期の地層で、石版石灰岩(Plattenkalk)が重なっている。

こういう板状の石灰岩を一枚一枚剥がして、間に化石が挟まっていないかどうかをチェックするのだ。

小型のハンマーで塊の側面を叩くと隙間ができるので、隙間に道具を差し込んでパカッと開く。

小さいアンモナイト!アンモナイトは中生代の示準化石なので、たくさん見つかるよ。

今度は大きいのが見つかった!

化石は特に地層中のSchiwammschichten (sponge beds)とRosa Schichten (pink beds)という部分に集中している。前者はカイメンの層ことで、貝やウニ、腕足類(Brachiopoda)や植物などの化石が多く埋まっている。後者の層は鉄分を多く含むため赤っぽい色をしていてわかりやすい。主にコッコリソフォリッドという原生生物の死骸が堆積してできたものだそうだ。この層からはアンモナイトや魚、爬虫類などの化石がよく見つかる。

でも、初心者がアンモナイト以外のものを見つけるのはなかなか難しい。一枚一枚割って中を見て、何もなくてガッカリの繰り返し。

あれっ、これは?海藻か何か?と思ってガイドさんに聞いてみたら、これはマンガンなどが結晶化したデンドライトと呼ばれるもので、よく化石と間違えられるが好物だとのこと。なあんだ。でも、綺麗だよね?

残念ながら一日目はそれほど収穫がなかったが、石版石灰岩を剥がすのは初めての体験だったので楽しかった。

売店にはいろんな化石が売っていた。

 

二日目は贅沢にも3箇所の採石場を回った。一日目と違い、観光採石場ではなく、産業用の採石場で、通常は一般人は入れない。Geo Infotainmentが入場許可を取ってくれていた。

すごく広い採石場。ここの岩はMörnsheimのような石版石灰岩ではなく、ブロック状の礁性石灰岩で、簡単に割ったり剥がしたりできない。大きなハンマーで塊を叩いて割らなければならないのだ。

このような力仕事は非力の私には到底無理、、、、。ということで、夫と分業することに。視力の良い私が岩の間を歩き回って化石の入っていそうな石を見つけ、「ここになんかあるよ!」と叫ぶと夫がハンマーを持ってきて石を割る。

一見、乾燥して見えるけれど、前日の夕方に雨が降ったので、地面はすごくぬかるんでいて大変だった。履いていた靴はドロドロに。化石探しはとても楽しいけれど、汚れたくない人、日焼けしたくない人にはおすすめしないわ。

ベレムナイトだ!でも、これを取り出すのは至難の技。

割れちゃったので、アンモナイトのパズルになった。

わざわざ石を割ったりしなくても拾える化石もある。ウニはいたるところに落ちていた。トゲのないタイプがほとんど。

2箇所目の写真を撮り忘れた。ここは3箇所目。

石の表面にベレムナイトやアンモナイトが乗っていて、簡単に剥がせる!

二日目は朝9時にホテルを出発して夕方の4時まで、みんなお昼ご飯も食べずに黙々と作業していた。私と夫は完全な初心者だったけど、他の参加者は化石ハンター歴が長い人も多かった。ガイドさんとその奥さんなどはGPSデータ付きの化石ガイドブックの情報を手がかりにヨーロッパ中、化石ハントをしているそうで、休暇は化石のあるところにしか行かないと言っていた。マニアックだなあ。

 

家に帰って戦利品を広げる。

アンモナイトはたくさん採れたけれど、アンモナイトは種類がたくさんあるから、どれが何なのかわからない。これらは採ってきたままの状態で、プロはこの後、プレパレーションという清掃・補修作業をするらしい。Geo Infotainmentではプレパレーションのワークショップにも参加できる。

これはなかなか良くない?アンモナイトの内部に結晶ができている。

ベレムナイトは取り出しにくいか、落ちているものはボキボキ折れてしまっているのがほとんどだった。バルト海海岸で拾う方が簡単だ。

でも、綺麗な断面を見つけた。

これはウニ達。ボタンみたいで可愛い。

これらは貝かと思ったら、腕足類だと他の参加者が教えてくれた。

 

初の本格的(?)化石ハントはこんな感じで、まあ、まずまずの成果だったのかな。今回エクスカーションに参加してみて、ガイドさんの説明を聞いたりアドバイスしてもらったのがとても良かったし、趣味の集まりというのも情報交換できて楽しいものだなと感じた。南ドイツにはアルトミュールタールだけでも化石探しのできる場所がたくさんあり、その他の地域も含めると相当多くのスポットがあるようだ。今回は大人向けのエクスカーションだったが、小学生の女の子も一人参加していた。ファミリー向けの化石スポットもあるので、子どもづれのお出かけにも良いと思う。もちろん、自分で化石を探さなくても、化石博物館もたくさんあって、見るだけでも楽しい。

 

化石に関してこの記事に書ききれなかったことをnoteで配信中のポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」でお話ししました。お聴きくださると嬉しいです。

まにあっくドイツ観光裏話4 化石の宝庫ドイツを満喫しよう!

フランクフルトへ行って来た。15年ほど前まで近郊にしばらく住んでいたことがあり、私にとって馴染みのある町だ。大きな町で外国人も多い。しかし、フランクフルトはそれほど人気の高い観光地ではない。というのも、近代的な高層ビルの建ち並ぶフランクフルト中心部の街並みはあまりドイツらしくないのである。国際空港があるのでアクセスは便利だけれど、フランクフルトをじっくり観光する旅行者は少ないかもしれない。

私もフランクフルトは嫌いではないが、正直なところ、それほど魅力を感じていたわけではなかった。先日、風邪を引くまでは。

風邪で体がだるかったのでソファーでごろごろしながらネットでドキュメンタリー番組を見てやり過ごした。現在のドイツの国土が46億年の地球の歴史の中でどのように形成され、変化して来たかという内容の地質学史ドキュメンタリーで、とても面白かったのだ。

フランクフルトを例に取ると、現在フランクフルトのある場所は3億2000万年前は高い山の上だった。それが2億5000万年前には広大な砂漠の中心となり、 1億8000万年前には海の底に沈み、5000万年前には熱帯雨林が一帯に広がり、2万5000年前には氷河で覆われ、そして2000年前には深い森となった。現在はモダンな国際都市である。様々な環境を経て今の姿があるんだなあと感心してしまった。まあ、考えてみれば当たり前のことなのだけれど、摩天楼がシンボルのフランクフルトを恐竜が走り回っていたこともあったと想像すると、なんだか不思議な気がする。そういえば、フランクフルトのゼンケンベルク自然博物館(Senckenberg)には大きな恐竜の骨がたくさん展示されていたなあと思い出した。それで、久しぶりにまたゼンケンベルク自然博物館へ行きたくなったというわけである。

ゼンケンベルク博物館は地質、植物、動物、人類、古生物など自然史を広範囲に網羅する総合博物館で、ドイツに数多くある自然史博物館の中でも最大規模を誇る。有名な博物館で日本語の情報も多数あるから全体的な説明は省き、ここでは私が特に見たかった古生物学の展示を紹介することにしよう。

まずはゼンケンベルク自然博物館のハイライト、恐竜の間へ。ここの恐竜コレクションはドイツ国内最大だ。

通路には世界各地で見つかった恐竜の足跡が展示されている。これはイグアノドンの足跡。(ボリビア、白亜紀後期)

ブラキオザウルス(スイス、ジュラ紀後期)の足跡。

恐竜の間には、竜脚類(Sauropodomorpha)、獣脚類(Theropoda)、装盾亜目(Thyreophora)、鳥脚類(Ornithopoda)、角竜類(Marginocephalia)の5種に属する恐竜の骨が展示されている。

言わずと知れたティラノザウルス(獣脚類、米国)。

トリケラトプス(角竜類、米国)。

モンゴルで発見された恐竜の卵。他国で発見されたものばかり紹介してしまっているが、ドイツにも恐竜は存在した。ドイツの恐竜について知りたい方は、こちらをどうぞ。(ドイツ語)

恐竜だけでなく、他にも象目やクジラなどの大型生物の骨がたくさんで見応えがある。

象目の進化と移動に関する説明も面白かった。

ところで最近私は化石に興味があって、いろんな博物館で化石を眺めているのだが、ゼンケンベルク博物館の化石コレクションもとても面白い。

イチョウの化石。ヨーロッパ人は17世紀の終わりまでイチョウという植物の存在を知らなかった。日本を訪れた博物学者、Engelbert Kaempferが1691年に発表した書物「日本誌」に紹介されたのが初めてだそうだ。その後、日本からもたらされたイチョウはヨーロッパで非常に珍重され、文豪ゲーテに愛されたことでも有名だ。しかし、実はイチョウはドイツにも生息していたのだ、約2億5000万年前に。ヨーロッパではとうの昔に絶滅してしまったため、イチョウは「生きた化石」と呼ばれる。このように「ヨーロッパでは絶滅したが、アジアやアメリカ大陸では今も生息している」植物は他にも多くある。というのは、ドイツを含めたヨーロッパもかつては熱帯・亜熱帯の環境を経験したが、氷河期に暖かい環境を求めて南に移動しようとした植物の多くがアルプスやピレネーを超えられず、またヨーロッパとアフリカを隔てる海を渡ることができずに絶滅してしまった。だから、現在のヨーロッパの植生はアジアやアメリカなどに比べて種類に乏しい。しかし、ヨーロッパでは冷涼な現在の気候からはかけ離れた、暖かい環境に特有な生物の化石がたくさん見つかる。

そしてなんと、とここからがこの記事の本題なのだが、フランクフルト近郊には世界有数の化石の宝庫、メッセル採掘場(Grube Messel)がある。メッセル採掘場はフランクフルトから南に20km、ダルムシュタットの北8kmの場所に位置する火口湖で、湖の底にはオイルシェールが埋蔵する。かつてここではオイルシェールの採掘が行われていた。採掘事業が廃止された後、湖を産業廃棄物の処理場にする計画があったが、地質学的な重要性が高い場所であることを理由に反対運動が起こり、ゴミ捨て場計画は中止された。そして1995年、メッセル採掘場はドイツ初のユネスコ世界自然遺産に登録された。ゼンケンベルク自然博物館にはメッセル採掘場に関する展示室があり、発掘された多くの化石が展示されている。

メッセル採掘場で発掘された化石の数々。植物から昆虫、魚、両生類、爬虫類、哺乳類とあらゆる種類の生物がほぼ丸ごとの姿で発掘されていて、目を見張るばかりである。

ウマの祖先、プロパラオテリウム。

アリクイ。他にもワニやオポッサムなど、現在は南半球でしか見られない生き物の化石も数多く見つかっている。画像を数枚しか紹介できないのが残念。(本当にすごいので、是非、こちらを見てみてください。)

ドイツには化石の採れる場所がたくさんあるらしいとは気づいていたが、こんな素晴らしい場所があるとは今まで知らなかった。フランクフルト近郊に5年も住んでいたのに、、、。メッセル採掘場へ是非とも行きたくなった(情報はこちら)。

ますますドイツの地質学が面白く感じられて来た。6月には化石掘りワークショップに申し込んだので、とても楽しみ!

(2023.1.17追記) 

この記事を書いてから約4年半後、とうとうメッセル採掘場へ行って来た。

ビジターセンター

メッセル採掘場はグローバルジオパーク、ベルクシュトラーセ・オーデンヴァルトの真ん中に位置している。このあたりは現在、花崗岩質の緩やかな丘陵地帯だ。およそ4800万年前、火山の噴火によって、ここメッセルにマール湖と呼ばれる火山湖が形成された。長い年月の間にさまざまな生き物の死骸が湖の底に沈み、それが化石になったのである。メッセルではこれまでに始新世(約5,600万年前から約3,390万年前まで)の良好な化石が1万点以上も見つかっており、現在も年間3000点ほどがあらたに発掘されているという。

ちなみにマール湖の「マール」というのはドイツ語のMaarがそのまま地質学用語になったもので、ドイツにはマール湖がたくさんある。特にアイフェル地方はマール湖が豊富だ。まるでレンズのような美しい姿に魅せられてマール湖めぐりをしたことがある。そのときの記録はこちら

 

さて、ガイドツアーに参加して、採掘場の敷地を見学することにしよう。

Grube Messelと呼ばれるかつてのオイルシェールの採掘場

ついにやって来たメッセル採掘場。12月だったので寒々としていて、雪もちらちら降っていた。始新世にはこのあたりはサルが飛び交い、ワニが泳ぐ亜熱帯気候だったなんて、とても信じられない。ふと、コスタリカで見た火山湖の景色が頭に浮かぶ。

熱帯コスタリカの火山湖

メッセルもかつてはこんな景色だったのかな。

メッセルのオイルシェールの地層から発掘された化石のサンプルをいろいろ見せてもらう。

特に多いのは魚の化石

オイルシェールは脆く崩れやすいので、化石は樹脂で固めて保存する方法も取られるようになった。オイルシェールの地層がどのようにつくられ、そこでどのように化石が形成されていくのかについてはこの過去記事に書いたので、ここでは割愛しよう。

カメの甲羅化石

メッセルでは後尾中のカメの化石も見つかっている。メッセル採掘場で発掘された化石はメッセル化石・郷土博物館、フランクフルトのゼンケンベルク博物館やダルムシュタットのヘッセン州立博物館をはじめとする多くの博物館に分散所蔵されている。そのうち全部見て回れるといいなあ。

 

 

このところドタバタと忙しく、ちょっと時間が経ってしまったが、まにあっくドイツ観光ラインラント編の続き。

三日目はケルンから南西に35kmのツュルピッヒ(Zülpich)へ行った。目的はローマ浴場の遺跡と、そこに作られた入浴文化博物館(Museum der Badekultur)だ。

ツュルピッヒは古代にはTolbiacumと呼ばれる村で、複数の街道が交差する場所にあった。2世紀にここに浴場が建設され、拡張されながら4世紀の終わりまで存続したらしい。およそ400m平米の広さのこの遺跡は1929年に初めて発掘され、90年代に本格調査が行われた後、2008年ミュージアムとして公開された。

Römerthemen Zülpich – Museum der Badekultur

この辺りは 紀元85年から約500年間、ゲルマニア・インフェリオル(Germania inferior)と呼ばれる古代ローマの属州だった(地図の濃い色の部分)。州都は、コロニア・アグリッピネンシス 、現在のケルン。そこに下のモデルのような浴場施設が存在していたのだ。

古代ローマ人はギリシアから浴場建築を取り入れ、少しづつ改良しながら独自の入浴文化を作り上げていった。紀元前100年頃のギリシアの浴場にはすでに床暖房技術があったが、ローマ人がそれを完成させたそうである。

これがツュルピッヒのローマ浴場の実物。

小さな平たいレンガが積み上げてある。床下で床板を支えていたもので、これらのレンガの柱の間を温められた空気が移動していた。

床板の残っている部分。

浴室にはカルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)という3種類がある。カルダリウムには浴槽があった。お湯の温度は約40℃、室温は50℃、湿度は100%。テピダリウムには浴槽はなく、室温約25℃。ここでは温かい床の上で寛いだり、マッサージや垢すりなどの施術を受けた。フリギダリウムには熱い風呂に入った後に体を冷やす冷水プールがあった。

火を起こす場所

フリギダリウム

じゃーん!これが古代ローマの浴槽だ。

排水口


遺跡の一部はガラス張りで、上を歩くことができる。

浴場断面図モデル。ローマの浴場は午前11時頃に開き、男女別に利用時間が設定されていたそう。

ローマのお風呂4点セット。取って付き洗面器、油壺、リネンの手ぬぐい、それにstriglisというブロンズ製の垢すり道具(一番左)。こんな道具で一体どうやって体を擦るのかと思ったら、、、。

こうやるんだって。うーん、使いやすかったのかなあ?

トイレ。立派なことに水洗。流すのにはお風呂の残り湯を使っていたそうだ。

排水路

遺跡だけでもかなり見応えがあるけれど、この博物館は結構大きくて、ここから先は中世から現代までの入浴文化についての展示が続く。これがかなり面白く、全てをメモすることはできないので、帰りにミュージアムショップで入浴文化史の本を買ってしまった。内容を紹介したいところだけれど、あまりに長くなってしまうので、また改めて別の記事にしたいと思う。

でも、せめて面白い浴槽を二つ紹介しよう。

70年代の蓋つきの浴槽。家具っぽい。

Schaukelbad(ゆりかご風呂?)

さて、ここまでは常設展示の内容で、特別展示室では「東西ドイツの風呂文化」というのをやっていた。

東西ドイツを隔てる壁に見立てた仕切りが中央に

この展示も面白かった〜。

東ドイツのタンポン

旧東ドイツの典型的な浴室風景

この特別展示では、Freikörperkultur(自由な肉体の文化、FKK)と呼ばれるドイツの裸文化に関する東西ドイツの違いに重点が置かれていて、それが興味深かった。FKKというのは、ドイツに住んでいる人なら恐らく誰でも聞いたことがあり、また目にしたこともあるであろうヌーディズムのこと。ドイツではサウナは基本的に混浴で水着の着用は禁止。タオルも体に巻かずに下に敷くのが原則だ。異性の目を気にせず全裸になる人たちが少なくなく、海岸や湖にはFKKビーチと呼ばれるヌーディスト専用のビーチもある。こうしたドイツのヌーディズムは元々は19世紀のドイツ帝国時代に始まった。当時の衣服は現在の普段着よりも手の込んだ作りだったため、窮屈で煩わしく感じていた人たちも多かったらしい。なんとなくわからないでもないけれど、やはり当時は白い目で見られるような行為であったようだ。その後のワイマール共和国時代には自由で健康的なライフスタイルを求めヌーディズムに憧れる人々が現れた。これは性的で後ろめたさを伴う裸体とは別のものである!という意識からFreikörperkulturという言葉がこの頃、生まれたそうだ。

ナチスの時代にはアーリア民族を他民族と区別し、優位性を強調するためにFKKが利用されたが、第二次世界大戦後、再定義されることになる。旧西ドイツでは1949年に「ドイツFKK連盟」が結成された。しかし、アデナウアー時代には「公衆の面前でパンツを脱ぐのは不可」と禁じられた。旧西ドイツではFKKは一般的に批判の対象であり、一部の人々が実践するにすぎなかったが、60年代後半のヒッピームーブメントの流れの中で、抗議の象徴として裸体を晒す若者らが登場した。

一方、旧東ドイツでは事情が異なった。独裁政権下で自由を奪われ息苦しい生活を強いられていた国民は、衣服を脱ぎ捨て自然の姿に返ることに心の解放を求めた。東ドイツ政府もやはりFKK組織を禁じたが、組織化されない個人レベルのヌーディズムは取り締まることが難しく、それどころか政府高官らまでも裸になりたがったため、1953年に禁止が解除される。その後老若男女に広がって「東ドイツのFKK文化」が社会に定着することになった。

FKKは現在も根強い人気があり、良い季節になるとFKK用のビーチで裸で日光浴をする人たちの姿が見られる。そこでは性別も年齢も関係なく、自然と一体化する感覚を楽しんでいるようだ。(決していかがわしいものではないので、誤解のないようお願いします

そんなわけで、古代ローマの浴場遺跡を見学し、その上入浴の文化史も学べるツュルピッヒの入浴文化博物館は充実した博物館である。かなり気に入った。

前回の記事で紹介したエッセンの「ルール博物館」ではガイドさんにルール地方の産業史について説明を受けたが、そのとき私はこんな質問をした。

「エッセンにはきっと、アルバイター・ジードルンクがありますよね?どこか近くに見に行けるジードルンクはありませんか?」

アルバイター・ジードルンクとは労働者のための集合住宅のこと。近代以降、ドイツで多くの従業員を抱える企業により建設されるようになった「社宅」である。

工業が発達したエッセンには大企業クルップ社を始め、多くの企業がある。きっと面白いジードルンクがあるのではないかと思い、尋ねてみたのだ。

「マルガレーテン・ヘーエ(Margaretenhöhe)」を見に行かれてはいかがですか。正確には社宅ではなく市民のための住宅ですが、ドイツで初めて作られたガルテンシュタット・ジードルンクの一つですよ」

そうガイドさんは勧めてくれた。20世紀半ばからイギリスの田園都市をモデルとするガルテンシュタットと呼ばれる閑静な住宅街がドイツ各地に作られるようになった。その先駆けとなったジードルンクの一つ、「マルガレーテン・ヘーエ」はクルップ社3代目当主フリードリッヒ・アルフレット・クルップの未亡人、マルガレーテ・クルップが娘の結婚を記念して私財を投じ、市民のために建設させたものである。

ここがガルテンシュタット、マルガレーテン・ヘーエの入り口

マルガレーテン・ヘーエはエッセン南部の高台にある。

マルクト広場

マルクト広場横の長屋風住宅

マルガレーテン・ジードルンクの広さは115ヘクタール。1909年から1938年にかけて建設されたブロックIと戦後の1962 年から1980年に建設されたブロックIIに分かれている。

ほのぼの

ガイドさんから聞いたように、このジードルンクはクルップ社の従業員のための社宅ではなく(従業員の社宅は別のところに建設された)、公務員や自営業者など市民のための住宅として建てられた。庭付きの住宅は当時、大きな注目を集めたことだろう。

もちろん、今現在も普通に市民が住んでいる。

 

キヨスクも可愛いね

ジードルンクは建物を見るだけでも楽しいが、このようなジードルンクが次々に建設された時代の社会背景や人々の生活を想像するとより面白い。この頃に企業の従業員の福利厚生制度の基盤が作られ、また、文化的な生活が一般市民の手の届くものになっていったんだね。

近々、東ドイツのガルテンシュタットも訪れる予定で、とても楽しみである。

ラインラント地方二日目はエッセンのルール博物館(Ruhrmuseum)へ行って来た。「ルール」とは、中学の社会科で習ったあの「ルール工業地帯」の「ルール」である。ルール地方は豊富に埋蔵する石炭を原料に鉄鋼業や化学・機械産業が発達し、近代から戦後まもなくまでの間、ドイツ最大の工業地帯だった。今では石炭産業はすっかり衰退したが、炭鉱や関連施設が産業遺産として保護されており、マニアックな観光スポットの密集地帯となっているのだ。

今回訪れたルール博物館は、ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群第12採掘坑にある。選炭施設の建物が博物館になっている。

 

ツォルフェアアイン炭鉱第12採掘坑

「ツォルフェアアイン」とは関税同盟の意味。ルール地方のかなりの部分は、かつてプロイセンの支配下にあった。しかし、プロイセンの他の領土とはかなり離れていた上に、ルール地方の他の部分は複数の領邦がモザイク状に分割統治していたため物流がスムーズではなく、1834年に関税同盟が結成された。炭鉱名のツォルフェアアインはこの関税同盟にちなんでつけられたもの。

ルール博物館の建物

ツォルフェルアイン炭鉱の第12採掘坑の建物はバウハウス様式だ。それまで産業施設は実用重視で、醜悪な外観が当たり前とされていたが、建築家Fritz Schuppが設計したこれらの建物群は産業施設に初めて「美しさ」を持たせた産業建築の傑作とされている。敷地内には国際的なプロダクトデザイン賞であるレッド・ドット・デザイン賞を受賞したプロダクトが展示される「レッド・ドット・デザイン・ミュージアム」がある。

ミュージアムの入り口は地上から24mのフロアにあり、このような長いエスカレーターを上がる。エスカレーターに乗っただけですでになんとなくワクワク。

受付でチケットを買い、「ガイドツアーはありますか」と聞くと、「すぐに始まりますよ」とのことだったので申し込んだ。でも、月曜だったせいか、私の他に参加者はいなかった。ガイドさんに「では1時間半、館内をご案内します」と言われてびっくり。ツアー料金3ユーロで1時間半のプライベートガイドツアー?なんて贅沢な!(ちなみにツォルフェアアイン炭鉱には複数の種類のガイドツアーがある。私が申し込んだのはルール博物館のツアー)

地上24mのフロア、ミュージアムのエントランス手前のスペースには巨大な選炭設備。

早速、ガイドさんの説明が始まった。これは採掘した原炭から廃石を分離し精炭を取り出すための装置(Setzmaschine)。水の入った水槽に原炭を入れると、軽い石炭が上に浮かび、重い石は沈む。石を取り除いた後の精炭は粒径ごとにふるいにかけられ、それぞれの用途に利用される。コークス製造や製鉄用に使うのは粒の大きな塊炭で、コークス製造の際に発生するガスは化学産業に利用された。そういえば、ケルンの北、レヴァークーゼンという町には化学工業・製薬会社大手のバイエル社本社がある。

 

向こうに見えるのがミュージアムの入り口

オレンジ色に光る階段を降りて下のフロアへ行く。このオレンジ色は燃える石炭をイメージしているそう。

カッコいいねえ。

ルール博物館は製炭設備やルール地方の炭鉱業の歴史のみならず、氷河期から始まるルール地方の自然史、考古学、歴史、社会文化、そして現在のルール地方の地域経済や産業化で破壊された環境の再生に到るまでのあらゆる分野を網羅した総合博物館である。さらには鉱物・化石コレクション、文化人類学コレクション、写真ギャラリーもある。内容があまりに濃くて、1時間半に及ぶガイドツアーの間は写真も取らずに話を聞くのに集中したけれど、最後は時間が押せ押せになってしまった。ツアーを終えてから、また一人で最初から展示室を回った。

ルール地方の全盛期の1857年には、この地方にはなんと300もの炭鉱があったそうだ。しかし、1957年に政府が補助金を打ち切ると、失業者が溢れた。また、環境汚染が深刻化したことから、抜本的な構造変化が求められるようになる。現在もなお失業率は高いが、負の経験から得たノウハウや技術を活かして再生可能エネルギー技術や石炭採掘による地盤沈下で傾いた建物を真っ直ぐにする技術など、この地方ならではの特殊産業の育成に力を入れている。

2000年のエッセン市の地下水水質調査のサンプル

この地方には石炭を取り出した後の捨石を積み上げたいわゆる「ボタ山」が丘陵風景を作っているが、捨石はわずかに粉炭を含んでおり、それが酸化してゆっくりと燃えるので、気温が比較的高い。だから、ルール地方は地中海と似た植生なのだって。言われて見れば、確かにラインラントの植物はブランデンブルクと随分違うなと移動中の車の中から景色を見ていて思ったんだった。

ボタ山は緑化が進んでいて、現在、ルール地方の60%が緑地である。保養地・リクリエーションエリアとしての再開発も積極的に行われている。ボタ山にはモニュメントや娯楽施設が建設され、ちょっと変わった観光エリアになっている。(このサイトでいろんな面白い写真が見られる)

ボタ山「ハニエル」の円形劇場

屋内スキー場。建設当時は世界一の長さだったそう。今ではドバイに負けた

工業化は地域の環境を大きく破壊してしまうが、産業が衰退し、しばらく放置されると自然が回復して来る。そうして新たに生まれた生態系は破壊以前の環境とは異なり、周辺地域とも違う特殊なものとなる。そのような自然環境を「industrial nature」と呼ぶらしい。そういえばこちらのスポットを訪れたときにも同様の話を聞いた。とても興味深い。

そして、ルール地方にはもう一つ、大きな特徴がある。それはマルチカルチャーであること。産業の発展に伴い、この地方には古くから多くの移民が流入した。なんと現在、62もの民族が共生しているという。エッセンにはシナゴーグもモスクもあり、また、Hamm-Uentropという町にあるヒンズー寺院はインド国外最大規模だそう。そんなわけで、ルール地方の人々は異文化に寛容だと言われている。

さて、このペースでゆっくり説明していると日が暮れてしまうので、詳しく説明したいけれど残りは写真のみで急ぎ足で紹介しよう。

石炭展示コーナー

巨大アンモナイトコーナー。最大のものは直径180cm

石炭紀の見事なシダの化石

約3億年前のシギラリアの幹

凄いアンモナイト

これは化石ではなく最近のもので、紅海のパイプウニ

ナミビアのギベオン隕石。ナミビアはドイツの植民地だった

考古学コーナー

文化人類学コーナー

地方都市の博物館がこんなに凄い展示品のオンパレードなのは意外に思えるかもしれないが、エッセンの博物館は戦前、ドイツ国内屈指の博物館だったそう。工業地帯だから文化とは縁遠いというイメージは正しくないようだ。

メルカトルの地球儀

ところで、エッセンといえば、巨大企業クルップ社が有名だ。展示はまだまだあるけれど、キリがないのでこのくらいに。

最上階にはパノラマルームというものがあって、これがまたすごい。

歩いて見て回れる

ガイドツアーと合わせて合計3時間くらい博物館にいたかな。博物館を出た後は、せっかくなので敷地内を一周した。

Red Dot Design Museum。残念ながら月曜日は閉まっていたけど、外観だけでも十分カッコいいよね。

コークス工場

昼間行ったので、ツォルフェアアインのライトアップされた姿は見ることができなかった。でも実は、7月に別の用事でまたここに来る予定になっているので、その時には是非、Red Dot Desigh Museumとライトアップされたツォルフェアアインが見れるといいなあ。

ツォルフェアアイン炭鉱遺産群は、産業技術に関心のある人、デザインが好きな人、工場写真を取りたい人、歴史好きな人、鉱物や化石のコレクションが見たい人etc. ほぼどんな人にとっても面白い観光スポットではないかと思う。

 

 

ラインラント地方へ行って来た。ラインラントの主要都市の一つ、ケルンは私の古巣である。ドイツに来て最初の7年間を過ごした懐かしい町。ラインラントは今住んでいるブランデンブルク州とはかなり違い、様々な民族が共存し文化の混じり合うミックスカルチャーな地方だ。そのためか人々のメンタリティも一般的にオープンで気さくな感じがする。久しぶりに来た私もすぐに景色の中に溶け込める気がした。この辺りは人口が密集しており、観光スポットが充実している。

ではさっそく「まにあっくドイツ観光ラインラント編」、行ってみよう。最初はデュッセルドルフ近郊、Mettmannにあるネアンデルタール博物館から。

ネアンデルタール博物館はネアンデルタール(ネアンデルの谷)にある。その名を聞けば誰もがピンと来るだろう。そう、ネアンデルタールは、旧人「ネアンデルタール人」(正式名称、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis))の骨が発掘された場所である。

Neanderthal Museum

1856年、ネアンデル谷のフェルトホッファー洞窟で石灰岩を採掘中の労働者が洞窟の地下60cmほどの深さに人骨が埋まっているのを発見した。全部で16ピースの骨は頭蓋骨が洞窟の入り口に向いた状態で埋まっていた。

実は、ネアンデルタール人の骨が発掘されたのはこの時が初めてではなく、それ以前にもベルギーやジブラルタルでも見つかっている。しかし、それらは科学研究の対象とはなっていなかった。ネアンデル谷での化石発掘の3年後、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表し、センセーションが巻き起こったことから、たまたまタイミングよく見つかったネアンデル谷の化石が注目を浴びることになったそうだ。しかし、石灰岩採掘の際に洞窟ごと切り崩してしまったので、化石の正確な発掘場所がわからなくなってしまい、そのまま長いこと忘れ去られていたそうだ。1997年と2000年にネアンデル谷で考古学調査が行われ、1853年に発見されたものと同じ人骨のピースが新たに見つかり、ようやく発掘場所が特定された。ネアンデルタール博物館ではネアンデルタール人についてはもちろんのこと、人類史全般について展示している。

ネアンデルタール人の使っていた石器。これまでに他の考古学博物館で見たホモ・サピエンスの石器とは形が違う。ホモ・サピエンスのはもっと細長くて先端が鋭いものが多かったけれど、ネアンデルタール人のものは手のひらにすっぽり収まりそうだ。握り方や手の動かし方が違ったのだろうか?

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの頭蓋骨が並べて展示してある。

ネアンデルタール人の頭蓋骨

ホモ・サピエンスの頭蓋骨

ネアンデルタール人は目の上の出っ張りが発達していて(眼窩上隆起)、おでこが平ら、頭の形もホモ・サピエンスほど丸くない。ホモ・サピエンスは耳の後ろの骨に大きな突起があって、顎が前に出ている。

ネアンデルタール人の歯の多くにはこの図のような溝が見られる。道具を使って歯と歯の隙間を掃除していた跡らしい。

この博物館の展示で特に面白いのは、ネアンデルタール人を始めとした化石人類を実物大に3D復元していること。

アウステロピテクスさん

ホモ・エレクトスさん

ネアンデルターレンシスさん

今、地球上の人類はホモ・サピエンスだけになってしまったけれど、かつては複数の種類の人類が地球上にモザイク状に共存していたのだよね。

ドレスアップしたネアンデルタール人さんとツーショット。ネアンデルタール人男性の平均身長は160cmくらいだそうなので、私のパートナーでも違和感ない!?

人類、皆兄弟。集合写真も撮れます。

これはタンザニアの火山灰に残っていた36万年前のヒトの足跡。1974年にエチオピアで発見されたルーシーと同じアウステラロピテクス・アファレンシスのものだそう。

壁画に関する展示は、展示スペースの下に穴が開いていて、洞窟の中に入った気分で展示を見ることができてなかなか良い。

他にも前回こちらの博物館で見た穿頭(トレパネーション)に関する説明や、地球の環境変化と人類の適応、世界で見られる様々な埋葬習慣についてなど、いろいろ興味深い展示があった。

さて、博物館を見終わったので、ネアンデルタール人の化石が発見された場所を見に行くことにしよう。博物館からデュッセル川沿いに400メートル歩いたところにある。

フェルトホッファー洞窟は切り崩されて今は存在しない。かろうじてその一部が残っているだけだ。

発掘場所。えっ、これだけ?と一瞬、拍子抜け。

でも、ネアンデルタール人が食べていたと思われる植物が植えられた区画があったりなど、当時が想像できるような工夫がしてある。

 

石の寝椅子から高さ20mを見上げると、そこが洞窟があった場所

 

大人目線でレポートしたけれど、ネアンデルタール博物館は家族連れに人気のお出かけスポットのようで、賑わっていた。展示もわかりやすく、周辺には小さな動物園や遊歩道もある。

 

まにあっくドイツ観光ラインラント編はまだ続きます。

今回のまにあっくドイツ観光は、ベルリン在住イラストレーターでブロガーのKiKi(@KiKiiiiiiy )さんとのコラボ企画!KiKiさんは旅行好きで、インターレイルパスを利用して一人で欧州を旅行してしまう行動力の持ち主だ。旅の情報をブログやTwitter、Instagramで発信されているが、文章しか書けない私(今のところね)と違って、旅の印象を素敵なイラストにされている。それだけでなく最近は動画も手がけているとのこと、是非一度コラボさせて頂きたいと思っていた。その第一弾として、今回はベルリンの南のBaruthという町外れにあるGlashütteへKiKiさんと一緒に行って来た。Glashütte とは「ガラス小屋」を意味するが、この集落はガラス作りの長いがあり、現在は村全体がミュージアム(Museumdorf Baruther Glashütte)になっているのだ。

 

Baruthのガラス生産の歴史は18世紀に遡る。1715年、大きな嵐で一帯の森の木がたくさん折れてしまった。思いがけず大量の木材が得られたため、別の場所に予定されていたガラス製造所をここに建設することになった。木材はガラス作りに必要な炭酸カルシウムの原料として、また燃料としても欠かせないものだった。

ガラス博物館

村の西の入り口を入ってすぐのところにガラス博物館がある。まずはここから見ていこう。

Baruthのガラス製造所ではランプシェード用の乳白ガラスを主に生産していた。ガラスを白く曇らせるには羊の骨を粉にして入れるんだって。羊の骨にはリンが多く含まれていて、それを混ぜることでガラスが白く濁る。他の色のガラスを作るにはクロム(緑)、銅(赤)、コバルト(青)、木炭(黄色)、マンガン(紫)などで着色する。

ガラスの材料の70%は砂だが、この地域は砂の豊富な土地でもある。1万5000年ほど前に氷河の溶けた水が川となって現在のブランデンブルク州を流れた。水域の端に砂が溜まって砂丘ができた。

工場の中にはガラス製造の様々な道具が展示してある

吹きガラス実演コーナー

 

加熱炉で焼いたガラスは冷却炉で歪点(約550度)付近まで冷やす

私は黄色いガラスが気に入った

これはエルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンスの発明したガラス用のジーメンス炉。レンガが組んであるが、この蓄熱式の窯の導入により燃料を大幅に節約できるようになり、ガラスの大量生産が可能となった。

ジーメンス炉のモデル

技術的なことだけでなく、Baruthのガラス製造の文化史の展示もあって興味深かった。20世紀には労働者のための住宅が建設され、体操クラブなどの部活が奨励されるなど福利厚生が整えられていく。しかし、防災対策はほとんど取られていなかったので、肺や皮膚、目の病気を患う人が多く、1919年の時点での労働者の平均寿命は45歳。作業中にビールを飲むのも普通で、アルコール依存症になる人も多かったそうだ。

 

ミュージアムショップ

隣の建物は魔法瓶の発明に関するミュージアム

村のメインストリートに面した建物の多くは観光客向けのショップになっている

かつてガラス製造所の労働者の住宅だった建物

ギャラリー兼ショップ

フエルト小物の店

陶器のお店はカフェも併設している

ハーブの店の店先

東ドイツ時代の国営スーパー、Konsumの建物を利用したご当地デリカの店

村には樹齢500年の木がある

迷子石を並べた小さな公園

迷子石って何?という人は、ぜひこちらの記事を読んでね。

村の学校だった建物。現在はペンション

とこのように、盛りだくさんで一日楽しめる。KiKiさんと私は朝の10:30くらいから17:00過ぎまで村を満喫した。お昼ご飯画像も載せておこう。

シュプレーヴァルト名物のきゅうりのピクルスが入った酸味のあるスープ

ベルリンから日帰り圏内で可愛いものの好きな人におすすめ。子連れレジャーにも良いので、是非行ってみてね。KiKiさんが近々イラスト&動画をアップしてくれる予定なので、期待していてください。

追記: KiKiさんの作った動画がアップされました。とても素敵なので是非見てくださいね!

 

 

一気に気温が上がってようやく本格的に春になった。お出かけシーズンの到来だ。とはいっても私は季節や天気に関係なくいつもウロウロしているのだけれど、、、、。

今回は私が住んでいる地域の観光スポットを紹介しよう。それは、Märkisches Ziegelmuseum Glindowというレンガ博物館。うちのすぐ近くなのに、行ったのは今回が初めて。「レンガ博物館なんて面白いの?」と思われそうだけれど、これがかなり面白かった。ホフマン窯の中を見学できるのだ。

まずはいつものようにロケーションから。

地図の通り、レンガ博物館はグリンドウ湖という湖に面したところにある。

Märkisches Ziegelmuseum Glindow

この塔が博物館。長い伝統を持つレンガ工場、Neuer Ziegelmanufaktur Geltowに隣接している。1890年に建てられたもので、当時工場で作られていたいろいろなレンガが使われている。博物館という名前がついてはいるが中は小さく、見るものはそれほど多くない。でも、ここで入館料を払うと係の人が隣の工場を案内してくれる。

Glindowのレンガ生産の歴史は古い。Glindowという地名はスラブ語に由来し、「粘土に富んだ土地」を意味するそうだ。古文書によると遅くとも15世紀にはレンガを生産していた。18世紀にはプロイセン王家が工場を所有し、ポツダムを中心にプロイセン時代の建築物の多くにGlindow産のレンガが使われた。

いろんなレンガ。色の違いは粘土に含まれる鉱物の種類と含有量による

実はこのレンガ工場は特別かつかなり重要な工場である。なんと300年前の製法を今も守り続けているドイツで唯一のレンガ工場なのだ。ドイツには教会や修道院、城など文化財に指定されている建物が多くあるが、老朽化したり戦争で破壊を受けたりしたため、修理・修復の必要なものが少なくない。しかし、現在ではそれらの建造物が建てられた頃とはレンガの製法が変わっており、当時と同じようなものを作ることができない。Glindowのこの工場ではそのような建物に特化して伝統の製法でレンガを作り続けている。そして、ドイツ全国だけでなく、なんとフランスやベルギー、スエーデンなど欧州のいろんな国からも注文を受け、カスタムメイドの高品質のレンガを生産しているんだって!

作られたレンガは船に乗せて運搬した

工場敷地

塔の中で展示を見ながら説明を聞いた後、工場に案内してもらった。ところが、工場の中は写真撮影厳禁と強く言われてしまった。残念〜。これは外から撮ったもので、真ん中に見えるのはホフマン窯というものである。こちらの記事にも書いたが、ホフマン窯とは1858年にフリードリッヒ・エドアルド・ホフマンが特許を取得したレンガの焼き窯で、独立したいくつもの区画が煙突を取り囲むように並ぶのでリングオーブンとも呼ばれている。この窯の発明以前は焼成ごとに窯が冷えるのを待っていたが、ホフマン窯では区画に順番に火を移すことで連続で焼成ができるようになった。大量生産を可能にしたこの画期的な技術は日本へも導入されている。(参考

ガイドツアーではレンガ生産過程の最初から最後までの設備を一通り見せてもらえる。これがすごく面白い。一番興奮したのはホフマン窯の中に入ったこと。写真を撮ることができなかったので説明のしようがないけれど、うちに遊びにいらっしゃる方は、よければこのミュージアムにご案内します。一見の価値がありますよ。

釉をかけたカラフルなレンガも

焼成温度は900〜1200℃。1300℃を超えるとレンガがこのように溶けてしまう

床材見本

円形、ひし形、六角形などいろんな形がある

素敵だな〜。でも、上述したようにこの工場は主に文化財用の高品質レンガに特化していて、一般人が自宅用に購入するには高価過ぎる。うちの最寄りの工場だからうちのテラスのレンガはここで注文するか、というわけには残念ながらいかないようだ。でも、地元の伝統ある産業について知るのは興味深い。ちなみにレンガ生産の最盛期にはGlindowにはなんと76もの窯があった。レンガ職人の仕事はハードで、冬場などは高温の窯とマイナス気温の外を出たり入ったりと体への負担が大きく、平均寿命は48歳くらいだったとのこと。

 

帰り道のロータリーに何やらレンガが積んである

 

寄付者の名前?

 

こちらも是非合わせてお読みください。

タイルとストーブ生産で栄えた町、Veltenのストーブ博物館

 

 

 

先週まで異常に寒く、3月の末だというのに雪まで降っていたのだが、今度は突然20度近くに気温が上がり、まるで初夏のよう。おかげで気分もすっかり夏!(これはドイツにありがちなフェイントだとわかってはいるのだが)

ドライブ日和だ。こんな日に家に閉じこもっているのは野暮である。仕事の手を止めてちょっと出かけることにした。行き先は自宅から車で50分ほど西へ移動したZiesarという小さな町にある城、ツイーザー城(Burg Ziesar)に決めた。目当てはその城の中にある聖ペテロ・パウロ教会。いつだったかそのチャペルの内装の写真を目にして以来、是非とも見に行きたいと思っていたのである。

 

ツィーザー城は城といっても山の上に建っているわけではなく、平城だ。全体像は写真に撮れないのだけど、広場を中心に弧を描くような造りをしたなかなか立派なお城。

聖ペテロ・パウロ教会

城内はミュージアムになっている

城の建物の端には塔が建っている

早速、教会の内部を見せてもらう。

うわー、美しい!このなんとも言えない独特の色合い、ドイツの教会では珍しいのではないか。

エッサイの根

私が住んでいる地域は近世になってから発展したので、中世の建造物は少ない。だからたまに遠出してこういう雰囲気を味わうと新鮮。

これだけでもかなり満足したけれど、せっかく来たのでミュージアムも見て行こう。ミュージアムの建物はかつての司教邸で、建物についての展示と特別展示を同時進行で見られる。この建物の目玉は「中世の床暖房設備」だ。

ミュージアム一階の床に穴が空いていて、下に何やら見える。

地下の釜で火を焚いて建物を温めていたようだ。この炉は1300年頃に作られたものだそう。古代ローマには「ハイポコースト」と呼ばれる床暖房のセントラルヒーティング設備があったそうだが、それと同じようなものなのだろうか。

階段を降りて地下を覗いてみる。

 

温めた空気を建物全体に回すパイプの役割を果たしたトンネル。

特別展示のテーマは「ブランデンブルク州のキリスト教化」。先日、ブランデンブルク市の考古学博物館の展示でも見たが、もともとここら辺(東北ドイツ)はスラブ民族の定住地だった。彼らは独自の自然宗教を信仰していたが、8世紀以降に進出して来たキリスト教徒に服属させられ、次第にキリスト教文化に呑み込まれていった。

初代神聖ローマ皇帝、カール大帝。

 

カール大帝の遠征戦争(ザクセン戦争)においてキリスト教徒らと戦い、亡くなったスラブ人の頭蓋骨。おでこの部分に割れ目がある。

この洗礼桶でスラブ人たちが強制的に洗礼を受けさせられた。

12世紀には現在のブランデンブルク州へ大量のキリスト教徒が移住し、各地に町を作っていった。教会も次々に建設されたが、最初から石造りの立派なものを建てたわけではなく、初期には木造が多かったらしい。写真はHaseloffという村で発掘された当時の教会の壁の一部。

 

ミュージアムを見た後は塔にも登って見た。

塔から下を見下ろす

 

あー、面白かった。このお城の情報は日本語のガイドブックにないのはもちろんのこと、ドイツ語でもこの地方に特化したガイドブックでなければ載っていないと思う。でも、チャペルは一軒の価値がある。首都ベルリンからも自動車なら1時間ほどなので、おすすめ。ちなみに、ツィーザー城を見学すると、そのチケットでレーニン修道院博物館ブランデンブルグ大聖堂博物館ブランデンブルク市パウロ修道院博物館(ブランデンブルク市考古学博物館)の入館料が1年間、半額になる。

 

復活祭の連休だったのに、風邪を引いてしまった。だるくてまともなことができないので、ウダウダとベッドの中でドキュメンタリーでも見て過ごすしかない。公共放送局ZDFのサイトにアップロードされている過去の放映番組の中から面白そうなものを探す。すると、私の好きな学術ジャーナリスト、Harald Lesch氏による「未解決の考古学の謎(Ungelöste Fälle der Archaeologie)」という番組が目に留まった。Lesch博士は宇宙物理学者だが同時に自然哲学者でもあり、非常に話の面白いコミュニケーターだ。以前は天文学の番組がメインだったが、最近では幅広い分野をカバーしている。今ちょうど考古学の面白さに目覚めつつあるところなので早速視ることにした。番組は前半と後半に分かれており、前半で紹介されていたミステリアスな円錐状の「ベルリンの金の帽子(Berliner Goldhut)」が特に魅力的だった。その実物がベルリンの先史博物館(Museum für Vor- und Frühgeschichte)にあるという。先史博物館はベルリン新博物館(Neues Museum)の一部で、これまでに何度か訪れているのだけれど、この不思議な帽子の存在にはどういうわけか気づいていなかった。

すぐに見に行ける場所にあると聞けば当然、見に行きたくなる。二日ゴロゴロして体調もそろそろ良くなったので、早速行って来た!

 

新博物館はベルリンの博物館島にあり、ネフェルティティの胸像を始めとするエジプト・コレクションを持つドイツ国内で最も素晴らしい博物館の一つだが、新博物館についての情報はネット上にも豊富にある(参考)のでここで長々紹介するまでもないだろう。今回は売り場直行とさせてもらおう。

これが「ベルリンの金の帽子」だ。骨董品市場に出回っていたものを1996年にこの博物館が買い取り、展示物として一般公開するようになった。実物はどのくらいの大きさかというと、高さ74.5cm、重さ490g。相当に長いとんがり帽子だね。

これまでに類似のものがドイツとフランスで全部で4つ見つかっているらしい(「ベルリンの金の帽子」は写真の一番右)。最初の「金の帽子」が発見されたのは1835年4月29日にさかのぼる。南ドイツのSchifferstadtで野良作業中の労働者が偶然掘り出した。これらは紀元前800〜1000年頃に作られたと推定されるそうだ。

「ベルリンの金の帽子」の表面をびっしりと覆う模様には規則性が見られる。ドイツでは紀元前からすでに天体が観測されていたことがわかっており、考古学者らはこの金の帽子を飾る模様は暦なのではないかという仮説を立てているそうだ。青銅器時代後半の中央ヨーロッパでは太陽信仰が広がっていた。大きさからいって、神への捧げものというよりは人間が実際に被っていた可能性が高く、天体崇拝の儀式の際に使われたのではないかと考えられている。(世界最古の天文版ネブラ・ディスクについても過去記事に書いているのでよろしければお読みください)

 

(Wikipedia: Berliner Goldhut)

先端部分のギザギザした星型の部分は輝く太陽を意味し、その下の段の鎌と目のようなシンボルは月と金星を意味する。その下の丸い模様は太陽と月のシンボルだと書いてある。木製の型を使って金床上で金塊をハンマーで叩いて薄く延ばしながら円錐に形成し、表面にスタンプのような道具を使って裏側から押し出して装飾を施したようだ。そういえば私は考古学は全くの素人だが、昔、文化人類学を勉強していたことがあり、ケルンの文化人類学博物館で3ヶ月ほど実習生として働いた。その時、オスマントルコの金属製装飾品のカタログ化をやらせてもらった。表面の加工を観察して分類したことを思い出したが、残念ながら細かいことはもう忘れてしまったなあ。装飾品を眺めるのは楽しいものだ。自分ではあまり身につけないけど。

ドキュメンタリーによれば、天文学はメソポタミアやエジプトで発達し、現在のトルコやギリシアを経由してヨーロッパ伝播したことがわかっており、金の帽子もメソポタミアから運ばれて来た可能性がなきにしもあらずだという。面白いなあ。この謎はいつか解き明かされるのだろうか。

今回はこの帽子を見るのが目当てだったので、他の展示物はさらっと見るに留めた。何しろ新博物館にはおよそ9000点の展示物が展示されているのだ。一気に見てインプットすることは到底無理!でも、大丈夫。年間ミュージアムパスがあるんだもんね。見たいものだけじっくり見るというのは旅先ではもったいなくてなかなかできないものだ。そう考えると、地元の博物館を繰り返し訪れて徹底的に見るのも悪くないかもしれない。

 

先日、ミュンヘンへ行った帰りにアウトバーン沿いの考古学博物館、Kelten Römer Museum Manchingに寄り、現在、頭の中がプチ考古学ブームである。この「まにあっくドイツ観光」で過去に考古学的観光スポットをいくつか取り上げているが(カテゴリー「考古学」)、私は以前は実はそれほど考古学に興味があったわけではなかった。単なる博物館好きで、「考古学の博物館だから見よう」というよりも、「博物館だから見よう」というノリだ。でも、博物館とは面白いもので、全く知らないジャンルの博物館を一つ二つ見ただけでは今ひとつピンと来なくても、数をこなすに従って「あ、これ前に見た〇〇と関係あるやつだよね?」「前に行ったことのあるあの場所のことでしょ」などと次第にそのテーマが自分ごとになっていく。自分には関係ないと思っていた世界が自分に関係ある世界に変わっていくのだ。

ってことで、今回は自分の住むブランデンブルク州の考古学博物館へ行ってみよう!

ブランデンブルク州の考古学博物館、Archäologisches Landesmuseum Brandenburugは修道院(Paulikloster)の中にある。

いい感じ。この博物館は「ブランデンブルク州考古学博物館」なので、リージョナルミュージアムである。ドイツには博物館がたくさんあるが、特定のテーマについて地域を問わずに幅広く扱う博物館もあれば、地域に根ざした情報を扱う博物館もある。数でいうと後者が圧倒的だ。外国人として訪れる場合は「ドイツ〇〇博物館」と「ドイツ」が付いている博物館の方が全国もしくはユニバーサルな情報を網羅していてとっつきやすいと思う。地域の博物館の場合、その地域の予備知識があるか、そのテーマに特に強い関心があれば楽しめるが、そうでなければあまりピンと来ないかもしれない。しかし最近、私は地域の博物館の魅力をじわじわと感じるようになった。もともと地図好きなので、どこになんという町があるのかなどはだいたい把握しているが、それぞれの地方のイメージが立体感を帯びて来て面白い。

この博物館では約1万年前から近代までのブランデンブルク地方の人類史を知ることができる。

ポツダムのシュラーツという地区で発掘された氷河期の牛の骨。シュラーツというのは東ドイツ時代の高層団地が並ぶ地区なので、そこにかつてはこんな立派な牛がいたのかと思ったら、なんとなく可笑しかった。今自分が知っている世界は今の世界でしかないのだなと。当たり前だけどね。

穴の開いた頭蓋骨。この石器時代の男性は穿頭(trepanation)と呼ばれる脳外科手術を2度受けていたらしい。穿頭のテクニックにはいくつかあるが、この例では下図のように、石器を使って頭蓋骨表面を削って行くSchabertechnikと呼ばれるテクニックが使われた。

石器時代の頭蓋骨にはこのような穿頭の跡が見られるものが結構あるらしい。なぜこのような頭の手術を行ったのかは明らかになっていないが、慢性頭痛などの治療だったと考えられている。図では周囲の人たちが患者の体を押さえつけているが、想像すると恐ろしい。よくも生き延びた人がいるものだ。

青銅器時代の青銅製のボタン。展示室では青銅器作りの実演動画を流していて、それも興味深かった。

考古学ジオラマ。ブランデンブルクの地面を掘るとそれぞれの地層からこういうものが出て来ますよというモデルだ。

最終氷河期の地層から出て来たマンモスの牙。

青銅器時代の地層から見つかったラウジッツ文化(紀元前1400年前ぐらい)の壺。

紀元700〜1100年くらいまで、ブランデンブルクにはスラヴ人が定住していた。スラヴ人の墓から出土されたもの。考古学博物館なのでどうしても人骨などの展示が出て来る。また、人骨の扱いなどに対して日本人の感覚とは少し異なるところもある。こういうのが苦手な方はすみません。

これは紀元9〜10世紀にスラヴ人がニーダーラウジッツ地方に建設したRaddusch城のモデル。

Raddusch城は再建されて観光スポットになっている。内部直径38 m、外部直径 58 mのこの城の周りには約5.5mの幅の堀。内部には二つのトンネルを通って入る。城の中庭には14mほどの深さの井戸があるそうだ。今度見に行きたい。

スラヴ人が定住していたブランデンブルクだが、12世紀になるとキリスト教徒たちが侵入して来て、ブランデンブルクは「ドイツ化」されていく。1157年に神聖ローマ帝国の領土である「ブランデンブルク辺境伯領」が成立。次々と城や町が作られて行った。この博物館が入っている修道院の建物もブランデンブルクのキリスト教化の流れの中で建てられたものだ。

また頭蓋骨の写真になってしまうけれど(すみません!)この頭蓋骨が被っているのはTotenkronenと呼ばれる死者の冠である。中央ヨーロッパでは16世紀から20世紀にかけて未婚のまま亡くなった女性に冠を被せて埋葬する習慣があった。(こちらの記事でも紹介しています)結婚式を挙げることなく亡くなってしまった女性への慰めと処女性を保ったことへの褒美の意味合いがあったらしい。

今度は近代。

ターラーと呼ばれるプロイセン時代の大型銀貨。フリードリヒ大王の肖像が彫られている。これは硬貨の歴史コーナーで見たものだが、この展示もかなり興味深かった。

ブランデンブルクのボトルマーク。

これを見てかなり前に訪れたガラス作りを見学できるオープンエアミュージアムを思い出した。その時にはなんだかよくわかってなくて記録も取っていないのだけれど、おそらくこういう瓶も生産していた場所なのだろう。気になるので近々また行ってみよう。

特別展ではヨーロッパの古楽器の展示をやっていて、それも面白かった。たくさん写真を撮ったけれど、キリがないので1枚だけ。これは青銅器時代の太鼓。

 

いつものことながら、このブログで紹介するのは博物館の内容のごく一部でしかなく、それも私個人が特に興味を引かれたものを紹介しているのに過ぎない。見る人が変われば着目点も異なるので、印象もまたそれぞれに違いない。このブログを目にした人が記事をきっかけに紹介した場所またはその人の身近にある観光スポットを訪れ、その人の視点での面白さを発見してくれたらいいなあ。

 

先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)

すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。

 

この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。

メインフロア。広々していて見やすい展示だ。

ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。

墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。

マンヒンクのケルト陶器

焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた

 

イノシシやカバは神聖な生き物とされた。

ケルトの樹木信仰を表す黄金の木

紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖

マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。

展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!

経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??

 

このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。

ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm

 

この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。

常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。

特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。

見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。

 

ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。

 

ここのところ仕事が立て込んでいたり、珍しく風邪を引いたりでちょっと間が空いてしまった。前回の記事ではドイツの航空学パイオニア、オットー・リリエンタールを取り上げた。記事でも触れたように、オットー・リリエンタールは航空学の分野で類を見ない功績を残しただけでなく、蒸気機関やボイラーを始めとして数多くの特許を取得するなど、マルチタレントだった。しかし、オットーの溢れる才能の開花には幼少期から一心同体だったとされる弟グスタフも大きく貢献した。オットーの業績のかなりの部分はグスタフとの活動によって生み出されたものだ。グスタフもオットーと並ぶ航空学のパイオニアである。

しかし、前回の記事では主にオットーにスポットを当て、グスタフについてあまり触れなかった。というのも、オットーほどは知られていないが、グスタフもまた、驚くほど才能に恵まれ、その守備範囲の広さではむしろ兄を凌いだのではないかと思われる非常に魅力的な人物なのだ。私はオットーにも感銘を受けたが、より強く惹かれるのはむしろグスタフの方かもしれない。そこで、オットーとセットではなくグスタフはグスタフとして個別に取り上げたかった。

 

兄と同様、アンクラムのギムナジウムを卒業したグスタフは、ベルリンの建築学アカデミー(現在のベルリン工科大学の前身)に進学した。普仏戦争の勃発のためアカデミーは中退したが、その後、発明家、教育者、建築家、社会改革者など複数の顔を持ち幅広いキャリアを築いた。兄のオットーが蒸気機関やボイラーなど工学分野で活躍したのに対し、グスタフは芸術的な方面で優れた業績を残した。代表的なのは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」と呼ばれる積み木の発明である。(下の写真の一番下。写真が’暗くてすみません)

グスタフはこの積み木の製法を実業家、アドルフ・リヒターに売却し、リヒターは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」の名で商品化した。これが世界的な大ヒットとなり、リヒターは大儲け。残念ながらグスタフ自身はこの積み木からはほとんど利益を得られなかったようだ。しかし、グスタフは今度は次の写真の右のような木製のモジュラーおもちゃを考案し、これまた大ヒットとなる。このモジュラーおもちゃはLEGOやフィッシャーテクニックなど、現代の組み立て系おもちゃの元祖とされているそうだ。

画期的な建物づくりおもちゃを開発したグスタフは、おもちゃではなく本物の建物の設計者としても頭角を現すようになる。当時のドイツは社会が大きな構造変化の最中にあった。産業革命により都市の人口が増え、劣悪な住環境で病気が蔓延するなど都市問題が深刻化していたことから、労働者のために「ジードルンク」と呼ばれる集合住宅が建設されるようになった。グスタフは建築家としてはもちろん、社会改革者としてもこの運動に積極的に関わった。ドイツ、特にベルリンのジードルンク群は現在、観光スポットとして人気があるが、そのうちの一つ、ライニケンドルフドルフ地区のフライエ・ショレ(Freie Scholle)は、グスタフが創始者となった労働者建築協同組合のジードルンクである。このジードルンクは後に建築家ブルーノ・タウトにより拡張され、現在はこんな感じで残っている。(写真はジードルンクのごく一部)

 

また、グスタフはベルリン近郊オラーニエンブルクに1893年に創設されたドイツ初の菜食主義者ジードルンク「エデンの建設にも深く関わっている。エデンジードルンクの建物に使われた建材はグスタフの発明品だそう。この「菜食主義者ジードルンク」の話も掘り下げるとかなり面白そうなテーマなので、いつかエデンへも行ってみたい。

と思っていたら、グスタフ・リリエンタールの設計した建物はごく身近にもあった。私はベルリンの隣町、ポツダム市郊外に住んでいるのだが、ある日ポツダムをぶらぶらと散歩中に面白い形の建物を見つけ、なんとなく写真を撮った。家に帰って来てから、「変わった建物だったけど、何の建物なのかな?」と思い調べてみると、なんとグスタフの手によるものだったのだ。

このVilla Lademannは1895年に建てられたもの。なんとも夢のあるお屋敷ではないか。これを発見したことで、ますますグスタフに興味が湧いた。調べたところによると、リリエンタール兄弟が住んでいたベルリン、リヒターフェルデ地区にはグスタフの設計した住宅がたくさん残っているらしい。それは探しに行くしかない!

Lichterfeldeはこの辺り。

グスタフはまず自分の家族用に英国のタウンハウスから発想を得た小さな家を建設した。ベルリンやポツダムで競って豪邸が建てられていた当時、こじんまりとしたグスタフの家は嘲笑の種だった。しかし、身丈に合った家を建てるべきだというのがグスタフの考えだったらしい。

Tauzienwegのリリエンタールの家

個性的な家の多い通りにおいてもひときわ味があるのですぐにわかった。しかし、この家はその後かなりリフォームが加えられており、オリジナルとは随分違ってしまっているらしい。この家にはグスタフ一家は2年半ほどしか住まず、その後はこちらの家に引っ越した。

ここには現在も子孫の方が住んでおられるらしい。グスタフの設計した住居は見た目が魅力的であると同時に実用的な造りだそうだ。見た目が良いだけの高価な建材は使用せず、庶民に手の届く快適な住居をコンセプトにしていたという。リヒターフェルデ地区には全部で22棟を建設したが、現在は残っているのはそのうちの16棟。

では他の建物も見ていこう。数が多いのでコメントなしね。

 

あ〜、楽しい。逆光だったり木が邪魔だったりで写真が撮れないものもあったけれど、全棟見つけることができた。こんな素敵な建物を考案できるグスタフ・リリエンタールはきっと魅力的な人だったのだろうなと感じる。この記事で紹介したのはグスタフの業績のごく一部である。もっと詳しく知りたいな。今後の課題としよう。

しばらく前にベルリンにあるドイツ技術博物館を久しぶりに訪れた。

何度も行っている博物館だが、規模が大きいので一度に全てを見ることはできず、行くたびに発見がある。前回特に興味を引かれたのは航空技術に関する展示だった。その中でドイツの航空パイオニア、オットー・リリエンタールについて知った。

オットー・リリエンタールは一歳違いの弟グスタフと共に知られる19世紀の発明家である。二人は幼少期から空を飛ぶことに強い憧れを持ち、鳥の飛行をつぶさに観察してハングライダーを設計し、無数の飛行実験を行なったことで知られる。緻密な研究と実験の結果をまとめたオットー・リリエンタールの「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)」は世界中で注目を浴び、後に初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟にインスピレーションを与えた。

「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔」。写真はアンクラムの「オットー・リリエンタール博物館」で撮影したものだが、同様のものがベルリンのドイツ技術博物館でも見られる

ワクワクするなあと思いながら帰宅途中に日本食材店に寄り、そこに置いてあった日本語のフリーペーパー、「ドイツニュースダイジェスト」を何気なく手に取ると、偶然にもベルリン在住のライター、中村真人氏によるリリエンタール兄弟についての記事が載っていた。

リリエンタール兄弟と大空へ夢

中村氏の記事を読んで、ますます興味が湧いた。リリエンタール兄弟の生誕地アンクラムにはリリエンタール博物館(Otto Lilienthal Museum)があるという。行ってみよう。

アンクラムはベルリン中央駅から電車で2時間半ほど。小さな町で、第二次世界大戦で町の大部分が破壊されてしまったため、古い建物はほとんど残っていない。正直に言って、それほど魅力的な町とは言えないかもしれない。でも、今回私が見たいのは街並みではなく、リリエンタール博物館だからね。

駅から300メートルくらいのところにあるが、全く目立たない。

中に入ると、受付の前はショップと喫茶スペースになっている。右脇に小さな展示室があり、リリエンタール兄弟の生い立ちやキャリアに関する展示や動画が見られる。テーブルの上にはリリエンタールの写真アルバムなどの資料も置いてあり、面白くて真剣に見てしまった。

オットーと弟のグスタフはとても仲の良い好奇心旺盛な兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。両親はアメリカへの移住を計画していたが、実現する前に父親が急死してしまい、母子家庭となった。母親は教育熱心で、兄弟はアンクラムのギムナジウムを卒業後、オットーはポツダムの工業学校を経てベルリン王立工業アカデミーへ、グスタフはレンガ職人の訓練を受け、ベルリンの建築アカデミーへ進学した。それぞれ技術者と建築士となっても兄弟は幼い頃からの夢を捨てることなく、飛行翼をひたすら作り、空を飛ぶ実験を続けた。その主な資金源となったのはオットーが発明し、特許を取得したボイラーと蒸気機関である。

リリエンタールのボイラーはコンパクトで安全、値段も手頃だったようだ。

オットーの発明品は多岐に渡り、なんと全部で25もの特許を取得している。リリエンタール機械工場の創始者として経営にあたる傍ら、次々とハングライダーを設計・制作し、2000回を超える飛行実験を行なったというのだから、とてつもないエネルギーの持ち主である。

弟のグスタフも兄に負けずとも劣らぬ豊かな才能と創造性の持ち主で、彼のキャリアもものすごく面白いのだが、この記事ではグスタフの偉業には敢えて触れないでおく。グスタフはグスタフで別記事で取り扱いたい。

さて、そろそろ1階の反対側の展示室に進もう。

鳥のように空を飛べたらと夢想したのは、もちろんリリエンタール兄弟が初めてではない。古くはギリシア神話のイカロスに始まり、世界中の様々な場所で多くの人が空を飛ぼうと試みた。しかし、その中で確かな学術的基盤に基づいた観察と実験の蓄積により航空工学の礎を築いたリリエンタールの功績は大きい。

メインの展示室は半地下にあり、吹き抜けの天井にたくさんのリリエンタールのグライダーモデルがかかっている。オリジナルは断片しか残っていないそうで、ここで見られるのはリリエンタールの設計図を元に作ったもの。

 

 

これらはほんの一部。

展示室には実験コーナーもあり、いろいろな物理実験ができる。

片っ端からやってみた。

飛行シミュレーターもやってみた。あっさり墜落したけど。

これは「リリエンタールのコックピット」。乗ってみて良いと書いてあったので、もちろん乗ってみる。しかし、これは大変な代物である。両方の木の輪っかに脚を一本づつ通して乗り、両手でハンドルをつかむ。お尻は宙に浮いたまま。膝から下と上体を動かして操作する。こういうのに乗って空を飛ぶ実験をしていたなんて、落ちたら危ないじゃないか、、、。展示室には私の他は誰もいなかったので一人で遊んでいたが、誰かが見たら謎の東洋人のおばさんと思われたかもしれない。

リリエンタールの飛行実験の様子を動画(無音)で見ることもできる。いやー、すごいわ。天才とバカは紙一重と言うけれど、周囲の人々の目にはどう映っていたのだろうか。子どもの頃から兄と一心同体となって空を飛ぶ夢を追いかけていた弟のグスタフも、最後には「もういい加減にしたら。妻も子どももいるんだし」と助言したそうである。しかし、そんなアドバイスには耳を傾けず実験を繰り返したオットーは、1896年、「Normalsegelflug」と名付けたグライダーで250mの飛行に成功しながらも、4回目の飛行中に突風に煽られてバランスを崩し墜落、首の骨を折って亡くなってしまう。48歳だった。アメリカでリリエンタールの訃報を知ったライト兄弟は、後に遺族を訪ね、偉大なる先駆者への敬意の印として未亡人に見舞金を渡したとのこと。

博物館の2階はリリエンタールの飛行実験を撮影し続けた写真家、Ottomar Anschützの作品が展示されている。

家族と共に

 

簡単な紹介になってしまったが、リリエンタール博物館は小さいながらも情報量が多く、ウェブサイトも大変充実している。

博物館を出た後、アンクラムの町を歩いた。リリエンタール兄弟のゆかりの地を見てから帰ろうと思ったのだ。

父親が亡くなった後、リリエンタール兄弟は母と妹と一緒にこの家に移り住んだ。現在はあまりパッとしない(失礼)肉屋になっている。

リリエンタール兄弟の通ったギムナジウム。現在の校名はもちろん、リリエンタール・ギムナジウム。

校庭に面した建物には空を飛ぶリリエンタールの絵が。

 

オットー・リリエンタール記念碑。

 

リリエンタール兄弟モニュメント

この日は寒かったけれど、楽しかった。しかし、私のリリエンタールをめぐる冒険(大袈裟)はここでは終わらない。

リリエンタールが飛行実験を行ったのはベルリンやその近郊の丘である。最初に紹介した中村真人氏の記事にあるように、ベルリン市内のリリエンタール公園にも記念碑が設置されているが、1891年にリリエンタールが記念すべき最初の飛行実験を行ったのはポツダム近郊のDerwitzという小さな村だ。うちから近いので見に行って来た。

Derwitz村

村の中心地(といっても、すごく小さな村なので中心部がほぼ全て)には石碑が建っている

肝心の丘のモニュメントはどこにあるのだろうかとキョロキョロしたが、わからない。自転車に乗って通りかかった住民に尋ね、「あっち」と指さされた方へ向かって歩く。しかし、丘にはそれらしきものは見当たらない。しばらくウロウロし、ようやく探し当てた。

あれだ!

地味すぎて遠くからでは全くわからかった。この記念すべきリリエンタールの初飛行の場を知っている人は、一体どのくらいいるのだろう?

リリエンタールが初めて空に向かって飛んだ場所に私も立って見た。鳥の真似をしようなんて、私にはその発想のかけらすらない。でも、夢を持つこと、夢を追いかけることは素晴らしいことに違いない。自分もやりたいことをもっとやらないとなあ。私にもやりたいことはたくさんあるが、命を賭けたリリエンタールの壮大な夢と比べれば夢のうちにも入らない。リスクだってほとんどない。せっかく生まれて来て、そんな小さな夢すら追わずにどうするのよ、などと言ってみる。

グスタフ・リリエンタールについては後日書きます。

 

去年の10月にMeyenburgという町の服飾博物館を見に行った。そこでは1900〜1970年代の女性の服装の歴史を知ることができ、面白かった。似たようなものが他でも見られないかなと検索したところ、ベルリン工芸博物館(Kunstgewerbemuseum Berlin)にもヨーロッパ服飾史の展示があるらしい。工芸博物館は去年の暮れに購入したベルリンの年間ミュージアムパスで入れる。これは行くしかない!

場所はベルリンフィルハーモニーの裏手。

1867年にロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を手本にして建設されたこの博物館では中世から現代に至るまでの工芸品を見ることができるのだが、今回はその中の服飾に的を絞ることにした。

1730年代から1970年代までの女性の衣装及び装飾品が陳列されている。18世紀のヨーロッパではフランスがファッション界を牽引しており、当時の富裕層の女性のドレスといえば優美な「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」。胴部をコルセットで締め付け、スカート部分はパニエで横方向に広げていた。

1770年以降はフランスの啓蒙思想やイギリスの生活様式の影響により、新しいタイプのドレス、ネグリジェドレスが流行した。フランス革命後は簡素なハイウェストのシュミーズドレスに。着やすそう。

 

しかし、1840年代に入ると再びウエスト締め付け、スカートふんわりスタイルに逆戻り。

イギリスの昼間外出用ドレス。スカートを広げるためにはペチコートを重ね着する必要があったが、クリノリンと呼ばれるフレームが発明されたことでスカートはどんどん大きくなって行った。

舞踏用ドレス。踊りにくそう。

夏用ドレス。布地は薄いけれど、ドレープたっぷりで暑苦しそう。(自分が着ることを想像すると文句ばかり言ってしまう。

 

こちらは1880年代のインフォーマルなハウスドレス。インフォーマルなハウスドレスって部屋着のこと?それでこの形とは、当時の女性はさぞかし大変だったこと。自分では何もしなくても良い裕福な女性限定だったのだろうが、これでは家でゴロゴロしているわけにもいかない。

何しろ後ろがこれだから、、、。バッスルスタイルと呼ぶのだそう。

ひ〜。振袖の着付けも窮屈で辛いけど、こういう下着を長時間つけていたくはない。

コルセット。

ストッキングまでこんなに紐がついて、、、、。

ギャー。どうやって履いたの?足首部分が細すぎる。

1900年頃のSライン舞踏会用ドレス。少しシンプルになってほっとした。このデザインになると現代のドレスに通じるものがあるね。

でも、靴は妙に小さい。日本の現代のサイズだと22くらいだろうか。

黄金の1920年代のファッション。開放的で躍動的なギャルソンヌスタイルへ。

この頃の靴のデザインはもう現代のものと変わらない。

1940年代オフィスファッション。

あっ、これ可愛い。と思って見ると、イヴ・サン・ローランのデザインだって。こんなのは今着てもおかしくなさそう。

1950年代はやっぱり明るく楽しいね。

1960年代。母親のタンスの奥に眠ってそうなスタイルの服。もうここまで来るとヨーロッパの服飾史というよりもグローバルだろうか。

1970年代。個人的にはこれが一番気に入った。この未来感がいい。現在から見ると未来ではなく過去なんだけれど、それでも未来感があるよね。

 

展示された衣装や小物は美しかったし、興味深い展示だったけれど、女性とはどうあるべきかという時代の価値観がファッションに反映されていて女性の生き方について考えてしまった。現代でも米国ファーストレディの衣装が云々されたりするが、どうにも複雑である。お洒落は素敵なものではあるけれど、あまり期待されても困るというか、お洒落をするもしないも個人の自由が許される時代と立場でよかったとしみじみ感じた。

 

夫のライプツィヒ日帰り出張に便乗して、またライプツィヒへ行って来た。前回のライプツィヒ訪問では学校博物館でナチスの時代や旧東ドイツの学校教育について知り、とても興味深かった。私がドイツに来たのはベルリンの壁崩壊後だし、旧東ドイツに住むようになったのも10年ちょっと前からなので、旧東ドイツ(DDR)を実際に体験してはいない。しかし、旧西ドイツで生まれた私の夫の両親は西ドイツへ逃げた東出身者で、ときどき会話の中にDDRの話が出ることがある。私自身もごく短期間ではあったが、壁崩壊からまもない頃に東側でホームステイをした経験があり、DDRとはどんなところであったのか、気になってしかたがない。

これまで、ベルリンやその他の町のいろいろなミュージアムでDDR関連の展示を見て少しづつその姿を掴みつつあるのだが、ミュージアムごとにテーマの絞り方が違うので、全体的な戦後の歴史の流れをきちんと把握しているわけではない。そこで、今回はライプツィヒ現代博物館(Zeitgeschichtliches Forum Leipzig)へ行った。

 

町の中心部にあるので、アクセスがとても楽。

この博物館は、かつて西ドイツ首都だったボンに1994年に開館した歴史博物館、Haus der Geschichteの姉妹博物館の一つ。嬉しいことに入場無料だ。

展示フロアは2階が常設展示スペースで、1945年以降の旧東ドイツの歴史について展示している。年代順展示ではなくテーマ別展示でフロアをテーマごとにパーティションで仕切ってあるので広いのか狭いのかよくわからない。展示の仕方としてはややわかりづらい気がしたが、内容はとても興味深かった。

戦後のドイツ人追放により難民となってドイツ本国へ強制移住させられたドイツ人の数。現在、シリアなど紛争地域からの難民の受け入れを巡ってドイツの政策が国内外で激しく議論されているが、ドイツは他民族を難民として受け入れて来ただけでなく、同胞である難民を受け入れ、社会に統合して来た過去がある。戦後、東欧諸国からの民族ドイツ人を受け入れ、冷戦時代には西ドイツは東ドイツからの避難民を受け入れた。同胞を受け入れることと他民族を受け入れることは同じではないが、流入者の社会への統合という課題に常に向き合って来た歴史があるのだなと考え入ってしまった。戦後のドイツ人の強制移住については、ドイツ在住のギュンターりつこさんがその時代を生きた方へのインタビューに基いた素晴らしいブログ「月は登りぬ」を執筆されている。本当に貴重な体験談で、更新を楽しみにしているブログ。

これは連合国軍政下で行われたドイツの非ナチ化において公務員などの要職につく人々とナチ党との関わりを審査するために使用したアンケート用紙。

戦後、東ドイツはソヴィエトを手本に計画経済への道を進むことになる。私はこの「まにあっくドイツ観光」を始めてから旧東ドイツのいろいろな町へ行くようになったが、あちこちの博物館を眺めていて気づいたことの一つは「DDR時代には町や地域ごとに産業を分担していた」ということだ。例えば、ドイツ光学産業の発祥地、ラーテノウの光学博物館で、「旧東ドイツ時代のメガネはすべてラーテノウで作られていた」という文面を目にして「えええ?100%?それでは独占ではないの?」と一瞬びっくりして、その後に「あっ、そうか。社会主義時代は計画経済だったんだった!」と思い出した。

東ドイツ計画経済のマップ。ドイツ再統一後には旧東ドイツの産業が衰退して多くの失業者を生んだが、設備の老朽化や技術の遅れだけが原因ではなく、産業が地域ごとに固定され、いわゆるリスク分散ができない状態だったことも一因だったのかな。

1953年に東ベルリンで起こり、東ドイツドイツ全国に広がった労働者による政府に対する抗議行動、Volksaufstand。多くの死者を出すことになったこの暴動はソ連軍が出動して鎮圧された。

DDR時代の生活の様子。このような家具は現在はレトロな家具として結構人気があったりする。窓の外にはPlattenbauと呼ばれる高層のアパート群が建ち並ぶ景色。こうした光景は東ドイツだけではなく旧社会主義国の都市部ではどこでも見られるもので、どことなく日本の工業団地に似ていないこともない。最初にPlattenbauに住む夫の親戚を訪ねたとき、子供の頃、従兄弟が住んでいた社宅に遊びに行ったときの記憶がフラッシュバックした。西育ちの夫は「典型的な社会主義建築だよ」と言ったが、私はなんとなく懐かしさを感じたものだ。

ドイツ社会主義統一党(SED)の会議室。

政治犯輸送車。

写真は撮らなかったが、70年代にライプツィヒを中心に高まった平和・環境保護運動、そしてベルリンの壁崩壊を導くことになった反体制運動についてにも大きな重点が置かれていた。ライプツィヒは戦後の東ドイツの歴史において大きな役割を果たした町だ。ここにHaus der Geschichteの分館が置かれているのも頷ける。

「オスタルギーグッズ」。オスタルギーというのは郷愁を意味するドイツ語、ノスタルギーと東を意味するオストを組み合わせた造語だ。東ドイツの人々は日本人にはなかなか想像のできないような体制の下で長い年月を過ごし、そして自らの行動によって体制を打ち破って現在があるわけだが、今となってはDDRの時代をちょっと懐かしく思うという人も多い。もちろん、当時の社会体制を肯定しているわけではないはずだが、辛かった時代もDDRに生きた人たちにとっては大切な人生の一部であり、アイデンティティを形作る要素であることには変わりがないのだろう。

3階の特別展示フロアでは東ドイツのコミックに関する展示をやっていて、これも面白かった。

DDRのコミック、Mosaik。東ドイツでは出版物に対し厳しい検閲が行われていたが、このコミックシリーズだけは正真正銘面白い読み物だと子供達は夢中になった。1955年に初登場してから20年の間に223巻まで出版されるという人気ぶりだったという。

3人の小人Dig とDagと Digedagが繰り広げる冒険旅行は東ドイツ市民が行くことができなかった国々への想像をかき立て、夢を広げてくれた。

アメリカシリーズ、アラビアシリーズ、テクノロジーシリーズなど数多くのシリーズがあり、面白いだけではなく、なかなか勉強にもなる内容らしい。このコミックは現在も東西問わず根強いファンがいる。

しかし、子供達が漫画に夢中になることを好ましく思わない大人がいるのはどこでも同じなようで、旧西ドイツでも旧東ドイツでも「子ども達を漫画の悪影響から守ろう」運動が繰り広げられた時期があったとのこと。漫画のような低俗なものを読むとバカになる、不良になるとコミックを燃やしたり、コミックを持って来たら良い本と交換してあげますというキャンペーンをやったりしていたそうだ。

 

展示のごく一部しか紹介できなかったが、ドイツの戦後史、旧東ドイツの歴史の概要を知るのに良い博物館だと思う。個々のテーマについて詳しく知りたい場合には、それぞれのテーマについてもっと掘り下げて展示しているミュージアムがたくさんあるので補うと良いだろう。

この博物館は残念ながら1/29からリニューアルのため休館になるので、ギリギリ間に合って良かった。ボンにある現代史博物館の本家、Haus der Geschiteには20年以上前に一度行ったきりだが、また行きたくなった。

 

 

 

今年初めてニーダーラウジッツ地方へ行って来た。ニーダーラウジッツはブランデンブルク州南東の旧東ドイツ時代には豊富に埋蔵する褐炭でエネルギー産業を支えていた地方だ。ドイツ再統一により褐炭の採掘場や関連の工場、発電所の多くは閉鎖されたが、いくつかは産業遺産として保存され、観光化が進められている。そうした褐炭産業関連のスポットを巡る250kmに及ぶ観光ルートは「ラウジッツ産業文化・エネルギー街道」と名付けられている。ドイツに150以上ある観光街道の1つなのだ。

私はこれまでにそのうちのプレサ(Plessa)の 発電所ミュージアムやコトブス(Cottbus)のディーゼル発電所ミュージアムを訪れた。また、街道沿いではないが、やはり褐炭関連のオープンエアミュージアムFerropolis、褐炭採掘で掘り起こされた迷子石を集めた公園Findlingspark Nochtenにも行ってみたが、どれもとても面白い。ドイツの観光街道は日本ではロマンチック街道やメルヘン街道が有名だが、ラウジッツは褐炭観光というかなりマニアックで興味深い観光ができるのが魅力なのである。

さて、今回訪れたのは産業文化・エネルギー街道の目玉の一つであるオープンエアミュージアム、F60。なんとこのミュージアムでは褐炭の露天掘り場で実際に使われていた高さ74m、長さ502mという巨大なコンベアブリッジを歩いて渡ることができるのだ。周辺に大きな町はないのでアクセスは結構大変。

Lichterfeldという村が最寄りの村で、こんな感じ。

ドイツの村の作りにはいくつか種類があって、これはシュトラーセンドルフ(Straßendorf)というもので、1本の通りの両脇に民家が並び、一番向こうに教会が建っている。ブランデンブルクではこのタイプの村をよく見かける。過去記事で紹介したが、変わった集落タイプとしては広場を中心に丸く家が並ぶルンドリンクというのもある。

 

さて、集落のすぐ向こうはもうミュージアムである。視界に巨大なコンベアブリッジ、がどーんと登場した瞬間、思わず歓声を上げてしまった。しかし、あまりに大きすぎて駐車場からは全体像を撮ることができない。

ビジターセンターでガイドツアーに申し込むとこのコンベアブリッジに登ることができる。ツアーには何種類かあり、私たちは90分間のロングツアーに参加することにした。ロングツアーではコンベアブリッジの先端まで歩いて渡れるのだ。しかし、そもそもコンベアブリッジって何?という人は下の図を見て欲しい。

 

ちょっと見にくいかもしれないが、ビジターセンターに貼ってあった褐炭の露天掘り採掘場の写真だ。地下に埋まっている褐炭を掘り出すためには、まず掘削機で表土を剥ぎ取らなければならない。剥ぎ取った表土はすでに褐炭を掘り出した後の穴に入れて表面を均す。新しく剥ぎ取った表土はそれ以前に掘った穴に入れ、次に剥ぎ取る表土はこれから掘る穴に入れる、という要領で土を掘っては埋め、掘っては埋めしながら採掘用の溝は周辺にどんどん移動して行くのだが、この際に表土をこちらからあちらへと運ぶのがコンベアブリッジである。写真の左側から右に伸びる長い橋のようなものがそれだ。なぜF60という名前がついているかというと、ここで実際に採掘が行われていたときの溝の深さが60mに達していたから。このコンベアブリッジは世界でも最大規模のものなのだが、実際に使われていたのはなんとわずか15ヶ月だったらしい。通常はコンベアの寿命は40年ほどだそうだが、F60が建設が始まったのはベルリンの壁が崩壊する直前の1989年で、このコンベアブリッジが導入された炭田は1992年に閉鎖されたため、ほとんど使われないままお払い箱になってしまったというわけ。しかし、全部で5台建設されたF60のうち残りの4台は現在も稼働中だ。

 

では、登ってみよう。見学は高いところが平気なら子どもでも大丈夫だが、ヘルメットは必ず着用しなければならない。

コンベアブリッジの上まで登ったら、橋を歩いて先端まで行く。足場の網は目が細かく、左右の柵も結構な高さがあるので怖さは感じなかった。ところどころで立ち止まってガイドさんの説明を聞きながら進んで行く。

途中で後ろを振り返ったところ。このコンベアベルトで表土を運んでいたんだね。

渡っているときには歩くのに忙しくて周辺を眺める余裕があまりなく、先端についてようやく景色を眺めた。

ラウジッツ地方の露天掘り褐炭採掘場の多くは現在、人工湖になっている。このあたりは「ラウジッツ湖水地方(Lauziter Seenland)  」と呼ばれ、リゾート地として開発が進められているのだ。観光を新たな産業にすることで褐炭産業の衰退による人口の減少に歯止めをかけ、地域を活性化させることが狙いだ。

左の地面にソーラーパネルが並び、向こうには風車が見える。リゾート開発だけでなく、褐炭による火力エネルギーから再生可能エネルギーへの転換も進められている。

湖周辺にはビーチ、ボートハーバー、キャンプ場などを整備していく計画で、2005年からは湖での遊泳も解禁となった。(でも、湖水は今のところPH3.2と結構な酸性だそう、、、) また、湖面には宿泊施設としてハウスボートを浮かべる計画である。ハウスボートと言われても日本ではあまりピンと来ないかもしれないけれど、ドイツでは水上で宿泊できるハウスボートが人気で、エネルギー自給自足のハウスボートの開発も進んでいるのだ。

こうした再開発プロジェクトは地域に経済的メリットをもたらすと期待されているが、実はもう一つ大きな意義がある。それは環境保護としての側面だ。褐炭の大規模な採掘でこの地方の自然はすっかり破壊されてしまった。しかし、そのような環境にも「絶滅が危惧される動植物の繁殖地」としてのメリットがあるのだという。人がいなくなった場所には野生が戻って来る。実際、渡り鳥やオオカミなどが多く観察されるようになっており、自然保護団体、Naturschutzverbund Deutschland(通称NABU)が中心となって自然保護プロジェクトを次々と立ち上げているようだ。これについてはまた改めで掘り下げてみたいと思った。

さて、再び橋を渡って地上に降りよう。

晴天とはいえ、1月の寒空の下、90分歩いたらすっかり手が冷たくなってしまった。でも、すごく面白かったので大満足。

 

近頃、ベルリン周辺の都市の面白さがじわじわとわかって来た。ストーブ生産で栄えたフェルテン、光学産業の発祥地ラーテノウ、旧東ドイツ(DDR)の計画都市アイゼンヒュッテンシュタットなど、特色ある町が多い。たいして何もなさそうに見える場所でも、行ってみると実は歴史的に重要な町だったことが判明するのである。2018年のまにあっくドイツ観光第一回目はベルリン中心部から南西に35kmほどのところにあるケーニッヒ・ヴスターハウゼン(Königs Wusterhausen)へ行って来た。

 

 

町の中心部にお城がある以外はそれほど見栄えのしない町だが、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンはドイツの歴史においてかなり重要な役割を果たしている。なぜかというと、ここは「無線の町」で、ドイツのラジオ放送はケーニッヒ・ヴスターハウゼンから始まったのだ。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの丘で初めて無線通信実験が行われたのは1911年。デンマークの技術者、ヴォルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen)により開発されたポールセン・アーク送信機を使った送信実験だった。実験がうまく行ったことから1915年に送信所が建てられ、軍事通信が開始される。1919年からは帝国郵便の事業の一つとなり、本格的な設備が建設された。その後、いろいろあって(下で説明します)、現在は事業を行なっていないが、残った送信所の建物が無線技術博物館(Das Sender- und Funktechnikmuseum)として一般公開されている。

博物館入口。

メインの展示室では無線通信技術の発展とケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業の歴史に関する展示が見られる。

軍事通信で始まったケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業は1920年12月22日に歴史的な瞬間を迎える。ローレンツ社製のポールセン・アーク送信機を使い、ラジオ波に音楽の生演奏を乗せて放送したのである。郵便局の職員数名が集まり、ピアノといくつかの弦楽器、クラリネットを演奏し、歌を歌った。このクリスマスコンサートは英国、オランダ、ルクセンブルクや北欧などでも受信され、好評を得た。しかし、この時はまだドイツ国内では一般人がラジオを聴くことは法律で禁じられていたそうだ。

クリスマスコンサートの演奏が行われたスタジオのセット。

1923年にはラジオ放送が解禁となり、1926年からは毎週日曜日に音楽を放送するようになる。これはSonntagskonzerte(サンデーコンサート)として親しまれた。

当時、歌手は音響を良くするため、バスタブの前にマイクを置いて歌った。楽器奏者や歌手にとって、観客のいない状態で本番生演奏をするというのは慣れないことで、最初はなかなか難しかったらしい。

初期のラジオ受信機。

いくらか改良されたもの。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼン送信局の設備は急速に拡張され、1926年には近隣のZessenにも新たな送信所が建設された。1929年にはドイツ発の短波放送が開始される。しかし、ナチスが政権を握ると、ラジオ放送は政治的プロパガンダの道具として利用された。

ナチス時代のラジオ受信機、Volksempfänger。「Volks(フォルクス)」というのは「国民の」という意味。

このようにドイツのラジオ放送の発祥地となったケーニッヒ・ヴスターハウゼンであるが、東ドイツのあらゆる産業と同じように、第二次世界大戦敗戦後、ロシア軍によって一旦解体され、旧東ドイツ時代に復活し、そしてドイツ再統一により廃業という運命を辿る。ああ、いつもいつもこのパターン、、、。

 

展示室は他にもいくつかあり、無線通信の様々な設備が見られる。

 

 

 

機械室にも入ってみよう。

機械室は現在はコンサートホールとして使われている。後ろや横の棚には古いラジオがずらり。

 

 

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの送信所のモデル。

全盛期には全部で22本あった鉄塔のほとんどは、すでに解体されてしまっている。

でも、一番高い243メートルの鉄塔、Mast 17は残されている。真下まで行ってみよう。

近くには古い給水塔も建っている。なかなかいい感じだ。

現在は給水塔としては使われておらず、記念物に指定されている。中はカフェ・ビアガーデンになっているようだ。では、コーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったのだけれど、残念ながら現在、修理中でカフェはお休みだった。残念!

こちらのサイトで給水塔の内部の動画が見られる。

こんなわけで、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンも興味深い町だということがわかり、とても満足。