先日、1900年前後の裕福な市民の生活文化を知ることができる博物館、ハイン邸を紹介した。(記事はこちら

同じベルリン北部のプレンツラウアーベルク地区ドュンカー通り(Dynckerstraße)にも類似の住宅博物館がある。ほぼ同じ時代のものだが、ハイン邸との違いはハイン邸が資産家フリッツ・ハイン氏が自身と家族の住居として建てさせたものであるのに対し、ドュンカー通りの建物は賃貸アパートであったという点だ。どのように違うのだろうか。見に行ってみよう。

 

 

 

ミュージアムのある建物の入り口

プレンツラウアーベルク地区は現在はお洒落なカフェやショップが多く、ベルリンの中でも人気の高いエリアだが、1900年前後の状況は全く違っていた。急激に産業が発達していたベルリンへ周辺の地方から多くの労働者が流入し、大変な住宅難を引き起こしていた。1850年にはベルリンの人口は40万人ほどだったが、それが1900年頃には200万人弱まで膨れ上がっていたというのだから凄まじい。ドュンカー通り77番地のこの建物は1895年に建築大工マイスター、ハインリッヒ・ブルンツェルが賃貸用に建てたアパートで、通りに面した棟(Vorderhaus)と奥の棟(Hinterhaus)とがいわゆる「ベルリンの間(Berliner Zimmer)」で繋がっている。(ベルリンの間についてはこちらの記事を参照)そのうち、通りに面した棟の一部がミュージアムとして一般公開されている。通りに面した棟の方が家賃が高く、労働者の中でも比較的経済的にゆとりのある人たちが住んでいたそうだ。

 

通りに面したアパートは3部屋の作りで、入り口を入ってすぐの部屋はグーテ・シュトゥーべ(Gute Stube)と呼ばれるとっておきの部屋である。内装は資本家階級のスタイルを真似ているが、ずっと質素である。部屋の角に置かれたタイルストーブもとてもシンプルな造りだ。グーテ・シュトゥーべはクリスマスやイースター、来客時など特別なときにしか使わない部屋だから、このストーブにも普段は火を入れない。暖房費がばかにならないという理由もあった。通常はキッチンのストーブが暖房がわりだった。

「ストーブのタイルはフェルテンのものですか?」とミュージアムの人に聞いたら、「あら、よく知っていますね。今、説明しようと思ったところ」という返事が返って来た。そう、ベルリン近郊にはタイルやタイルストーブの生産で有名だったフェルテンという町がある。タイルストーブ生産は戦後、衰退してしまったが、フェルテンにはストーブ博物館があり、数多くの逸品が鑑賞できる素晴らしい博物館なのだ。以前、記事にしたので、興味があれば読んでみてください。

タイルとストーブ生産で栄えた町、VELTENのストーブ・陶器博物館

 

25kmほど離れたフェルテンからベルリンへ、タイルは馬車で運ばれた。輸送に鉄道が使われるようになったのは1893年以降のことだ。

 

アパートの賃貸人が何度も入れ替わったので、壁が重ね塗り直され、天井縁の細かい装飾も半ば埋まってしまっているが、画像の四角い部分のみオリジナルが復元されている。当時は内装に暗めの色を使うのが流行だったそうだ。

 

グーテ・シュトゥーべの他は寝室と台所である。当時の賃貸アパートの家賃相場は年間400〜800マルクだったとのこと。今だといくらくらいだろうか。寝室には家具やリネン類が展示されている。まだゴム紐のなかった時代だから、ズボンや下着類は紐で締めるスタイル。寝るときには男性も女性もナハトヘムト(Nachthemd)と呼ばれるネグリジェタイプの寝間着を着ていた。展示されているのは古いリネン類なのに、黄ばみがなく真っ白なことに感心してしまう。

台所

暖房器具の役割も果たした調理ストーブ。鍋の底は丸くなっていて、ストーブ台のレンジにはめ込むように置く。レンジは鍋底の大きさに応じてリングを取り外して調整できるようになっている。手前の丸い蓋つきの道具はワッフルメーカー。アイロンは熱した鉄の塊を中に入れて熱くする。昔のものはなんでも重いよね。

冷蔵庫。上の蓋を開けて氷の塊を入れ、扉の中の食品を冷やす

この頃建設されたベルリンのアパートでは窓の下にこのような奥行きの浅い棚を作ることが多かった。壁際の窓のすぐ下だから涼しくて食品の保管に適していただろう。

労働者の住まいにはバスタブはなく、このようなたらいに湯を張り、家族順番に入るのが普通だった。頻繁ではなく、せいぜい週に一度、大抵は土曜日が入浴日だった。

トイレ。なぜか便器の上の壁にテレビが設置されている。当時のベルリンの水事情についての動画が見られるというので見せてもらうことにした。細長い空間の床にマットが置いてあって、「どうぞ座ってご覧になってください」と言われたので、笑ってしまった。マットに座って、便器を前に動画を見るというのも何だかなあという感じであるが、興味深い内容だった。19世紀後半まで人々は井戸水をポンプで汲み上げて使っており、汚水は垂れ流しだった。そのため不衛生で、コレラやチフスなどの病気が蔓延していたが、1877年、パンコウ地区にベルリン初の給水塔が稼働を開始する。また、医学者ルードルフ・フィルヒョーが都市計画家ジェームズ・ホープレヒトとともにベルリンに近代的な上・下水道を整備したことで市民の水事情は劇的に改善した。ちょうど今、私は給水塔巡りをやっているところなので、タイムリーな話題だった。給水塔については、改めて記事化するつもり。

通りに面した家賃の高い方の棟にはこのように各戸にトイレがあったが、家賃の安い奥の棟では、住民は階ごとに廊下のトイレを共同で使っていた。2〜3部屋に家族だけでなく、わずかのお金と引き換えに赤の他人を寝泊まりさせることも珍しくなかった。自分でアパートを借りるお金のない人は、他人の借りたアパートの片隅で寝させてもらっていたというわけだ。でも、床の狭いスペースであっても得られればまだマシで、それすら見つけらず路上での生活を余儀なくされる人が大勢いた。この博物館に近いフレーベル通り(Fröbelstraße)には1886年、ホームレスの人々を夜間、収容するための公共施設「Palme」が作られた。一晩に平均2000人、最高で5000人もが利用したという。

これまで何回かにわたって19〜20世紀初めのベルリンの住文化をテーマとする博物館を訪れ、当時の生活の様子を興味深く見て来たが、実際には文化的な生活を送ることができたのは全体の一部で、多くの人は劣悪な住環境での生活を強いられていたのだなあ。そして、都市部のこのあまりにも大きい格差が近代住宅へと続くその後の新しい住宅建築のスタイルを生み出していったのだろう。この後の時代についても、少しづつ見ていきたい。