前々から欲しいと思っていた本を購入した。石材を見ながら街を歩く活動をしておられる名古屋市科学館主任学芸員、西本昌司先生の『東京「街角」地質学』という本だ。ジオパークや石切場に石を見にいくのも楽しいけれど、街の中でも石はいくらでも見られる。建築物やインフラにいろんな石が使われているから、見てざっくりとでも何の石か区別できるようになれば楽しいだろうなあと思って、この本を日本から取り寄せた。読んでみたら、想像以上にワクワクする本だ。石についての説明もわかりやすいし、特定の種類の石が使われた背景も面白い。さっそく自分でも街角地質学を実践してみたくなった。

とはいっても、東京へ行けるのはいつになるかわからないので、まずは住んでいるドイツの町で使われている石材を見に行くことにする。この目的にうってつけの”Steine in deutschen Städtchen(「ドイツの町にある石」)”というガイドブックがあるので、これら2冊をバッグに入れてベルリンへGo!

“Steine in deutschen Städtchen”のベルリンのページでは、ミッテ地区のジャンダルメンマルクトという広場周辺で使われている石材が紹介されている。地図上に番号が振られ、それぞれの番号の場所の石材の名称、産地、形成された時代が表にされているので、これを見ながら歩くことにしよう!

と思ったら、ジャンダルメンマルクトは2024年4月現在、工事中で、広場は立ち入り不可。いきなり出鼻を挫かれた。でも、広場周辺の建物を見て回るのには支障はなさそうだ。

まずはマルクグラーフェン通り(Markgrafenstraße)34番地の建物から見てみよう。

1階部分にアインシュタインカフェというカフェが入っているこの建物は、1994-96年に建造された。地階とそれ以外の階部分の外壁には異なる石材が使われている。

地階部分はイタリア産の蛇紋岩、「ヴェルデヴィットリア(Verde Vittoria)」。

上階部分はCanstatter Travertinというドイツ産のトラバーチン。シュトゥットガルト近郊のBad Cannstattで採れる石で、本場シュトゥットガルトではいろいろな建物に使われているらしい。

 

次に、広場の裏側のシャロッテン通り(Charlottenstraße)に回り込み、フランス大聖堂(Franzözischer Dom)前の石畳を観察する。

フランス大聖堂前の石畳

ここのモザイク石畳に使われている石は大部分がBeuchaer Granitporphyrという斑岩。ライプツィヒ近郊のBeuchaというところで採れる火山岩で、ライプツィヒでは中央駅や国立図書館の建物、諸国民戦争記念碑(Völkerschlachftdenkmal)などに使われているそうだ。

そこから1本西側のフリードリヒ通り(Friedrichstraße)には商業施設の大きな建物が立ち並んでいる。例えば、Kontorhausと呼ばれる建物は赤い壁が特徴的だ。

使われているのは南ア産の花崗岩で、石材名はTransvaal Red。花崗岩というと以前は白と黒とグレーのごま塩模様の日本の墓石を思い浮かべていたけれど、ドイツでは赤い花崗岩を目にすることがとても多い。石材用語では「赤御影石」と呼ばれるらしい。

建物のファサード全体と基礎部分では、同じ石でも表面加工の仕方が違っていて、全体はマットな質感、基礎部分はツヤがある。これは何か理由があるのかな?地面に近い部分は泥跳ねなどしやすいから、表面がツルツルしている方が合理的とか?それとも単なるデザインだろうか。

 

連続するお隣の建物ファサードには、縞模様のある淡いクリーム色の石材が使われている。

この石材は、イタリア、ローマ郊外チボリ産のトラバーチン、Travertino Romano(トラベルチーノ ロマーノ)。ローマのトレヴィの泉やコロッセオに使われているのと同じ石。ベルリンでは外務省ファサードにも使われている。『東京「街角」地質学』によると、東京ではパレスサイドビル内の階段に使われているらしい。

トラバーチンという石を『東京「街角」地質学』では以下のように説明している。

トラバーチンは、温泉に溶けていた石灰分(炭酸カルシウム)が、地表に湧き出したところで崩壊石として沈澱し、積み重なってできたものである。その沈殿は常に同じように起こるのではなく、結晶成長が速い時期や不純物が多く混ざる時期などがある。そのため、木に年輪ができるように、トラバーチンにも縞模様ができるのである。(出典: 『東京「街角」地質学』

なるほど、縞の太さや間隔は一定ではない。小さい穴がたくさん開いている(多孔質)のも、トラバーチンの特徴だ。

 

その隣の建物との境に使われている石は緑色。緑の石というと、蛇紋岩?

ガイドブックによると、ヴェルデヴィットリアとなっているから、最初に見たアインシュタインカフェのファサードと同じ石ということになる。随分色も模様も違って見えるけれど。

180-184番地の建物はガラッと違う雰囲気。建造年は1950年で、東ドイツ時代の建物だ。クリーム色の部分はドイツ産の砂岩(Seeberger Sandstein)で、赤っぽい部分は同じくドイツ産の斑状変成凝灰岩(Rochlitzer Porphyrtuff)だ。

このRochlitzer Porphyrtuffという石はとても味わい深い綺麗な石である。なんでも、この石は多くの重要建造物に使われていて、国際地質科学連合(IUGS)により認定されたヘリテージストーン(„IUGS Heritage Stone“)の第1号なのだそう(参考サイト)。ヘリテージストーンなるものがあるとは知らなかったけれど、なにやら面白そうだ。今後のジオサイト巡りの参考になるかもしれない。ちなみに、Rochlitzer Porphyrtuffの産地はザクセン州ライプツィヒ近郊で、Geopark Porphyrlandと呼ばれるジオパークに認定されていて、石切場を見学できるようなので、近々行ってみたい。

 

さて、次はこちら。

1984年にロシア科学文化院(Haus der russischen Wissenschaft und Kultur)として建造された建物で、建物のデザインはともかく、石材という点ではパッと見ずいぶん地味な感じ。

でも、よく見ると、地階部分のファサードには面白い模様の石が使われている。

Pietra de Bateigという名前のスペイン産の石灰岩で、日本で「アズールバティグ」と呼ばれる石に似ている気がするけれど、同じものだろうか?

 

道路を渡った反対側には、フリードリヒシュタットパッサージェン(Friedrichstadt Passagen)という大きなショッピングモールがある。

ファサードは化石が入っていることで有名な、「ジュライエロー」の名で知られる南ドイツ産の石灰岩。ジュライエローについてはいろいろ書きたいことがあるので、改めて別の記事に書くことにして、ここでは建物の中野石を見ていこう。この建物は内装がとても豪華なのだ。

大理石がふんだんに使われたショッピングモールの内装

地下の床に注目!いろんな色の石材を組み合わせて幾何学模様が描かれている。この建物の建造年は1992年から1996年。ドイツが東西に分断されていた頃は東ドイツ側にあったフリードリヒ通りにおいて再統一後まもない頃に建てられた建物アンサンブルの一つだが、その当時はこういうゴージャスな内装が求められたのだろうか。

白の石材はイタリア産大理石「アラべスカートヴァリ(Arabescato Vagli)」で、黒いのはフランス産大理石「ノワールサンローラン(Noir de Saint Laurent)」。ちなみに、大理石というのは石材用語では内装に使われる装飾石材の総称で、必ずしも結晶質石灰岩とは限らないから、ややこしい。”Steine in deutschen Städtchen”には「アラべスカートヴァリ」は結晶質石灰岩で「ノワールサンローラン」の方は石灰岩と記載されている。

赤い部分はスペイン産大理石(石灰岩)、Rojo Alicante(日本語で検索すると「ロッソアリカンテ」というのばかり出てくるのだけど、スペイン語で「赤」を意味する言葉だからロッホと読むのではないのかな?謎だー)。

こちらの黄色いのはイタリア、トスカーナ産のジャロ・シエナ(Giallo di Siena)。およそ2億年前に海に堆積し、圧縮されてできた石灰岩が、2500万年前のアペニン山脈形成時の圧力と高温下で変成して結晶質石灰岩となった。

 

同時期に建てられたお隣のオフィスビルは、ファサードに2種類の石灰岩が組み合わされている。色の濃い方がフランス産のValdenod Jauneで、クリーム色のがドイツ産のジュライエローだ。

でも、ファサード以上に目を奪われたのはエントランス前の床の石材だった。

床材も石灰岩づくしで、濃いベージュの石材はフランス産のBuxy Ambre、肌色っぽい方も同じくフランス産でChandore、黒いのはベルギー産Petit Granit。Chandoreは白亜紀に形成された石灰岩で、大きな巻貝の化石がたくさん入っている。

このサイズの化石があっちにもこっちにもあって興奮!

そして、花崗岩(Granite)ではないのにGranitとついて紛らわしいPetit Granitもまた、白亜紀に形成された石灰岩で、こちらも化石だらけなのだ。

サンゴかなあ?

これもサンゴ?大きい〜!

これは何だろう?

化石探しが楽しくて、人々が通りすぎる中、ビルの入り口でしゃがみ込んで床の写真を撮る変な人になってしまった。ここの床は今回の街角地質学ごっこで一番気分が上がった場所だ。街角地質学をやりに出て来て良かったと感じた。ただ、ベルリンで街角地質学をやる際、困ることが一つある。それは、ベルリンの町が汚いこと。このフリードリヒ通りはまだマシな方ではあるけれど、せっかくの素晴らしい石材が使われていてもロクに掃除がされていないので、ばっちくて触りたくないのだ。写真を撮るとき、化石の大きさがわかるようにとコインを置いたものの、そのコインをつまみ上げるのも躊躇してしまう。

 

さて、2時間近くも石を見ながら外を歩き回ったので、さすがにちょっと疲れて来たので、初回はこの建物で〆よう。Borchardtというおしゃれ〜なレストランが入っている赤い砂岩の建物である。

この砂岩はRoter Mainsandstein(直訳すると「赤いマインツの砂岩」というドイツ産の砂岩で、ドイツ三大大聖堂の一つ、マインツ大聖堂はこの石で建てられている。この建物は1899年に建てられており、ファサードの装飾が目を惹くが、石的に注目すべきは黒い柱の部分だ。

うーん。写真だと上手く伝わらないかな。光が当たるとキラキラ輝いて、とても美しい。ノルウェー産の閃長岩で、石材名は「ブルーパール(Blue Pearl)」。オスロの南西のラルヴィクというところで採れるので、地質学においては「ラルビカイト(Larvikite)」と呼ばれる岩石だ。東京駅東北新幹線ホームの柱や東海道新幹線起点プレート、住友不動産半蔵門駅前ビルの外壁にも使われているとのことで、東京に行ったときにはチェックすることにしよう。

 

それにしても、世の中にはたくさんの石材があるものだ。少しづつ見る目が養われていくといいな。

 

関連動画:

YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」で過去にこんなスライド動画を上げています。よかったらこちらも見てね。

登別温泉で集まった家族はそれぞれの家に帰り、再び二人になった私と夫は小樽へと向かった。

小樽といえば運河や風情ある歴史的街並みが人気である。市の中心部には明治時代初期から昭和初期にかけて建てられた石造建築物が数多く残っている。

栄町通りの石造建築

どうして小樽市には石造りの建物が多いのだろうか。小樽には水族館やウニ丼やガラス細工など、他にもいろんな魅力があるけれど、今回はジオ旅行ということで特に石に着目してみることにした。事前に親戚が送ってくれた日本地質学学会の地質学雑誌第125巻に掲載されている「巡検案内書 小樽の地質と石材」という資料が参考になった。

運河沿いの倉庫群などに代表される小樽の石造建築は木骨石造と呼ばれる、木材でつくった枠組みの間に石材を積み重ねた構造である。明治時代から港町として発展した小樽市では、多くの倉庫を建造する必要があった。蔵といえば伝統的には土蔵だが、当時、冷涼な気候の北海道では米作りがまだそれほど普及しておらず、土蔵の土壁に必要な稲わらが不足していた。また、小樽では大火事が度重なり、多くの建物が被害を受けたこともあり、耐火性のある石材を使った建物が多く建てられたらしい。そうした建物には、石材として「小樽軟石」と呼ばれる、柔らかくて加工しやすい凝灰岩(火山灰が堆積してできた岩石)が主に使われた。

小樽市西部の桃内という地域にかつての小樽軟石の採石場があるらしい。探しに行ってみよう。

小樽市中心部から国道5号線を余市方面に向かって進み、塩谷海水浴場で国道を降りて笠岩トンネルを抜けると、海岸に桃岩と呼ばれる特徴的な岩が視界に入る。

奥に見える丸みのある岩が桃岩。桃のような形と言われればそのようにも見える。その右手のなだらかな斜面にもかつては大きな岩山があったという。現在は私有地のようで、桃岩へ向かう道にはロープが張られていて近づけない。

桃岩を望遠レンズで撮ったのがこの写真。地面から1/3くらいの位置にラインが見え、その上とで見た目が違っている。こちらのサイトによると、下部は軽石凝灰岩で、上部は軽石凝灰岩および凝灰質砂岩。と言われてもピンと来ないのだけれど、細かい違いはあれど、全体として火山灰が海の底に堆積し、固まったものと考えていいのかな。

右側の斜面もズームインして見てみた。石を切り出した跡がわかるような、わからないような。やっぱり近くで見ないといまひとつ理解できない。

ちなみに、小樽の石造建築物には札幌軟石という石も使われている。小樽へ来る前に、札幌の石山地区に残る札幌軟石の採石場跡も見て来たのだ。

 

こちらの採石場跡は公園になっていて、近くで岩肌をみることができる。なかなか壮観だ。同じ軟石でも札幌軟石と小樽軟石とでは色味や質感が少し違うように見える。札幌軟石の方がすべすべしている印象。約1,000万年前~約500 万年前の水中火山活動によって水底に堆積してできた小樽軟石とは異なり、札幌軟石は約4 万年前に火山噴火物が陸上に堆積してできたもの。小樽軟石よりも粒が均質で、石材としてより高級だそうである。でも、見た目的には小樽軟石の方が味わいがあって好まれたとか。そんな違いも考えながら小樽の石造建築を一つ一つじっくり眺めて歩いたら楽しいかもしれない。

街歩きだけでも充分楽しい小樽だけれど、せっかくなら絶壁と奇岩が織り成す複雑な小樽の海岸線を海側からも見てみたい。そう思って青の洞窟までのクルージングツアーを予約した。ところが、当日の朝になって、今日は波が高いので青の洞窟までは行けませんとクルーズ会社から連絡が、、、。楽しみにしていたので、がっかり。運河内のクルーズなら可能とのことだったけれど、それだとジオ旅行の目的が果たせないので、クルーズはやめて陸地から海岸の景色を楽しむことにした。

まずは小樽市街の北にある「おたる水族館」近くの祝津パノラマ展望台へ。写真は展望台から見た小樽海岸の絶壁である。色と形が印象的。崖の斜面が黄色っぽいのは、海底火山活動による熱水で地層が変質したため。

そしてそこから突き出す岩塔。周りの地層よりも硬くて侵食されにくい岩が残ってこのような景観になるらしい。

 

次は海岸へ行ってみよう。車で西に移動し、赤岩山の麓にある出羽山神社から山中海岸へ出る斜面を降りた。

坂道はかなり急だった。この日は気温が30度くらいあり、鬱蒼と茂った植物をかき分けて進むので、暑くてムシムシする。海に辿り着く前に汗だくだあ。

山中海岸

どうにか海岸に到着。大きくてゴツゴツした岩がゴロゴロしている。遠くに見えるのはオタモイ海岸の崖。

山川の景色。うわー。海岸の大きな岩はここから崩れて落ちて来たのかあ。

岩はマグマからもたらされた熱水で変質し、薄緑色や赤茶けた色をしている。

結晶ができているところは熱水が通った跡。

 

しばらく海岸で石を眺めたり風に当たったりした後は、再び汗だくになり、虫に刺されながら降りて来た山道を登って車に戻る。国道5号線をさらに西に進み、忍路半島に向かった。

忍路湾船着場の奥に見える恵比寿岩。船着場付近に車を止め、そこから山道を登って竜ヶ岬まで歩いてみた。

切り立った崖の上に恐る恐る立った。全体的に黄色っぽい崖の表面はグレーの角ばった大小様々な塊で覆われている。それらは水中に噴出した溶岩が急激に冷やされて表面が収縮し、内側から砕けたものだそう。

丸みのある大きなグレーの塊は、溶岩が水中に噴出して固まった枕状溶岩。

表面のあちこちには溶岩中のガスが抜け出した跡の穴が開いている。こんな高い崖のてっぺんで枕状溶岩などというものを見るのはなんだか不思議な気がする。今、私が立っている場所は、かつては海の底だったのね。

竜ヶ岬からの眺め。すごい景色だなあ。

ボートクルージングはできなかったけれど、陸上でいろんな景色を見て、小樽周辺の景観は海底火山活動によって創り出されたものだと感じることができた。ここまで調べてまとめるのがやっとで、理解が追いついていない部分が大きいけれど、はるか昔の火山活動があって小樽周辺の地形や地質があり、その過程で形成された岩石の一部が石材となって現在まで続く小樽市の街並みをかたちづくったのだなあ。地形や地質と人々の営みや文化との繋がりを考えるのは面白い。

 

この記事の参考文献:

北海道大学出版会 『札幌の自然を歩く 第3版 道央地域の地質あんない

北海道大学地質学会北海道支部 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地質と地形

地質学雑誌 第125 巻 第5 号 巡検案内書『小樽の地質と石材』(PDF)

スコットランドのモダニズムに触れる旅、前回の記事にグラスゴー出身の建築家/デザイナー/芸術家、チャールズ・レニー・マッキントッシュのインテリアデザインをウィロー・ティールームで鑑賞したことを書いた。今回はマッキントッシュデザインの鑑賞に訪れた2つ目のスポット、マッキントッシュ・ハウス (The Mackintosh House)について記録しておこう。

マッキントッシュ・ハウスは、マッキントッシュが妻であり、創作活動のパートナーでもあった画家マーガレット•マクドナルド・マッキントッシュが自らデザインし、1906年から1914年まで生活していた家を再現したものである。現在のサウスパーク・アベニューに建っていた彼らの家は取り壊されてしまったが、そこからわずか数十メートルの位置にマッキントッシュのオリジナル家具を使い、できるだけ忠実に再現されたという。現在はハンタリアン美術館の一部となっていて、見学することができる。

マッキントッシュ・ハウス外観。1906年設計でこの外観!?

マッキントッシュは妻マーガレットとその妹のフランシス、そしてハーバート・マクネアと共に”The Four (四人組)”の名で呼ばれ、グラスゴー発のモダンデザイン「グラスゴースタイル」を生み出したことで知られるが、当時のグラスゴーでは建築家としてそれほど評判が良かったわけではなかったそうだ。マッキントッシュのデザインは自国よりもドイツやオーストリアで高い評価を得ていたという。

斬新な外観には驚かされたが、中はとても良かった。当時、スコットランドの家において一般的だったという模様のある壁紙やカーペットなどはなく、全体がすっきりとしている。

1階のダイニングルーム

家具は1890年代から1900年にかけて作られたものだそう。ここでもマッキントッシュのデザインを象徴するハイバックチェアーが使われている。

黒いマントルピースの暖炉

後ろから見たハイバックチェアー

マッキントッシュがデザインしたカトラリー

2階に上がると、暗い色でまとめられた1階とはガラッと変わり、書斎は白と黒のコントラストが効いた空間だ。

扉に真珠母が埋め込まれたデスク。

今、写真を見ながらこれを書いていて初めて気づいたが、窓枠にも色ガラスのようなものが嵌め込まれている。マッキントッシュは光の効果を取り入れるのを好んだのだろうか。色ガラスの飾りやステンドガラスを各所に使っている。

書斎から続く応接間は白メインで明るい。今見てもまったく古さを感じさせないのがすごいなあ。

白いマントルピースの上に飾られたパネルは、妻マーガレットの『白いバラと赤いバラ (“The White Rose and The Red Rose”)』と題された作品。マッキントッシュのインテリアデザインはマーガレットのアートと切り離すことができない。マッキントッシュのデザインした空間においてマーガレットの作品が大きな役割を果たしているだけでなく、二人はまた、多くを共作しているからだ。

こちらは応接間の暖炉。マッキントッシュは日本文化から大きな影響を受けていた。マントルピースの上には日本絵が飾られている。

キャビネットのドアの内側にはバラの花と女性が描かれている。バラは1900年頃のグラスゴースタイルのシンボルだった。マッキントッシュ夫妻の作品には抽象化されたバラのモチーフが繰り返し使われている。

今まで知らなかったが、「チャールズ・レニー・マッキントッシュ」というバラの品種があるそうだ。

3階のベッドルーム。ベッドはマーガレットとの結婚に向けてマッキントッシュがデザインした。

ベッドの中央枠に嵌め込まれた色ガラスを通して光がベッド内に差し込むようにデザインされたそう

吹き抜けは展示スペースとして使われ、600作品を超えるというハンタリアン美術館のマッキントッシュコレクションの中からいろいろな作品が展示されている。

ウィロー・ティールームのためにデザインされたハイバックチェア

ウィロー・ティールームとマッキントッシュ・ハウスという二つの場所を見て、マッキントッシュのデザインの特徴がいくらか見えて来たのと同時に、当時のグラスゴーでは広く受け入れられなかったというのもわかるような気がした。今見ても新鮮さを感じるのだから、きっと、早過ぎたのだろうなあ。

 

この記事の参考文献:

John McKean, “Charles Rennie Macintosh  Pocket Guide” (2010)

 

スコットランドのグラスゴーへ行って来た。グラスゴーは同じスコットランドのエジンバラほど観光地としてメジャーではないが、行ってみると見応えのある美術館や博物館がいくつもあった。かつて、大英帝国第二の都市として栄えたグラスゴーは第二次世界大戦後、産業の衰退による深刻な不況に陥り、治安の悪い都市として知られていたが、近年はアートの町として注目されるようになった。町中にストリートアートが見られ、UNESCOの City of Musicにも認定されるなど、斬新で活気ある町だ。

 

そんなグラスゴーで目当てにしていたのは、19世紀の終わりから20世紀初頭のグラスゴーで建築家、デザイナー、芸術家として活躍したチャールズ・レニー・マッキントッシュ (Charles Rennie Macintosh)のデザインだ。私が住んでいるドイツはモダンデザインを生み出した「バウハウス」という芸術学校が存在したことで知られているが、スコットランドのグラスゴーもまた、「グラスゴースタイル」と呼ばれる独特なモダンデザインを創出したという。チャールズ・レニー・マッキントッシュはその中心的担い手だった。グラスゴー市内にはグラスゴー美術学校 (Glasgow School of Art)の校舎をはじめとするマッキントッシュ設計の建築物や、彼の手がけたインテリアデザインの見られる場所がたくさん存在する。それらをできるだけたくさん見て回りたかった。

が、残念なことに、マッキントッシュ建築の最高傑作とされるグラスゴー美術学校は修復工事中でカバーがかかっていて見られず、ライトハウス (The Lighthouse)も閉鎖中だった。そんなわけで、マッキントッシュの建築は鑑賞できなかったが、インテリアデザインの方はかなり楽しめたので記録しておこう。

まず、最初に訪れたのは、ソーキーホール・ストリートのウィロー・ティールーム (Willow Tea Rooms)。マッキントッシュがパトロンであった実業家、ミス・クラントンの依頼を受けてデザインし、1903年にオープンしたティールームだ。

4階建てのウィロー・ティールームの1階部分と2階部分のファサード。

このティールームが誕生したとき、グラスゴーは繁栄のピークにあった。産業革命によって造船業や綿工業などの産業が急速に発展し、世界最大の都市の一つとなっていた。1888年に初の国際見本市が開催され、豪奢な建物が建ち並ぶ華やかな町に成長したグラスゴーだったが、1870年代までは外食の場は上流階級紳士のためのプライベートクラブや労働者用のパブがほとんどで、女性が楽しめる場所はほとんどなかった。1875年に紅茶のブレンドや販売をビジネスにしていた事業家スチュアート・クラントンがグラスゴーに初めて小さなティールームをオープンし、紅茶とケーキやパンを提供し、人気となる。その頃、スコットランドを含む英国で禁酒運動が激しくなっていたいたこともティールーム文化の開花を後押しした。スチュアート・クラントンの妹、キャサリン•クラントン(ミス・クラントン)もティールーム経営に乗り出した。ミス・クラントンは前衛的なアートの支援に意欲的で、自らの経営するティールームのデザイナーに、グラスゴースタイルの先駆者、マッキントッシュに白羽の矢を当てたのだ。マッキントッシュはミス・クランソンのティールームをいくつも手がけているが、その中でこのウィロー・ティールームは建物の外部及び内部デザインから家具までをトータルデザインしている。

1階の道路側のティールーム

1階は道路側と奥の2つのエリアに分かれている。道路側は女性のためのティールームで、白を多く使った明るい空間にデザインされている。

マッキントッシュの家具デザインの中で代表的なのは、背もたれの高い「ハイバックチェア」。高い背もたれで広空を区切り、テーブル周りにパーソナルで心地よい空間を創ることを意図したそう。

ティールームは奥のランチルームへと続いている。ランチルームは男女共に利用することが想定され、ティールームよりも暗めの落ち着いた空間にデザインされている。マッキントッシュは「女性のためのスペースは明るく、男性のためのスペースは暗く」というコンセプトを持っていたそう。

事前にマッキントッシュについて読んだら「アール・ヌーヴォーの建築家」と記述されていたけれど、私にはアール・ヌーヴォーは曲線的というイメージがあったので、白と黒が基調で、コントラストがはっきりしていて直線のラインが目を引くティールームの内装を見て、あれっと思った。むしろ、アール・デコ?その一方で、装飾には柔らかい曲線が用いられている。デザインに詳しくないのであくまで個人的な感想だけれど、直線と曲線のバランスが絶妙だなと思った。このティールームのあるソーキーホール・ストリートの「ソーキー」というのはスコッツ語で柳を意味する言葉だ。だから、壁などの装飾には柳のモチーフが使われている。でも、かなり抽象化されていて、説明されなければ私は柳だとは気づかなかったかも。

2階に上がる階段から1階を眺めたところ

2階のティーギャラリー

バラ垣をイメージした壁

ギャラリー奥の暖炉

建物は4階建てで、この上には女性用のより豪華な”Salon de Luxe”、そしてさらに上には男性用のビリヤードルームがあるが、現在、一般公開はされていないのか、見ることはできなかった。

ティールームの隣の建物はミュージアムおよびショップで、そこでもマッキントッシュのデザインを見ることができる。

ミュージアムに展示されているSalon de Luxeのドア

マッキントッシュのデザインに直接触れたのは、このウィーロー•ティールームが初めてだったので、全体的な雰囲気を見て「へーえ。これがマッキントッシュのデザインかあ」と感心しただけで、ハイバックチェアがあること以外にはどの部分が特にマッキントッシュらしいのかはよくわからなかった。この後、グラスゴーの各地で見たマッキントッシュの家具やインテリアに、繰り返し使われるフォルムがあることに気づく。

続きは次の記事に。

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

パナマ運河を見学した後、再びUberを利用してパナマシティに戻った。次に訪れるのは、もしパナマに行くことがあれば必ず見たいと思っていた博物館、Biomuseoだ。生物多様性博物館とも呼ばれている。

そもそもパナマに来た目的は主にパナマの自然を楽しむことである。熱帯の国パナマは私の住んでいるドイツや故郷日本では見られない動植物が豊富に違いない。以前訪れたことのあるオーストラリアやタイ、インドネシア、コスタ・リカの熱帯雨林でカラフルな鳥や昆虫、花を見て感動したが、あらかじめ現地の生態系について少しでも知っておけばより楽しめるのではないか。そう思って、Biomuseoをまず見ておくことにしたのだ。

Biomuseoは2014年にオープンしたばかりの博物館で、アマドール・コースウェイという人工の細長い半島にある。見ての通り、目を見張る斬新な設計のカラフルな建物だ。設計者はフランク・ゲーリー。8つのテーマのギャラリーからなる建物を美しい公園が囲んでいる。

最初のギャラリーは生物多様性ギャラリー。パナマの国土は南北アメリカ大陸を繋ぐ東西に細長く伸びた地峡で、その地理条件がパナマの生態系をとても特徴的にしている。熱帯雨林と熱帯雲霧林、マングローブの森には1000種を超える蘭、約150種のパイナップル科植物、100種以上のシダ植物、そして数多くのフィロデンドロン、ヘリコニア、ユリ科の植物が生育する。パナマが原産の木は300種を超え、中央ヨーロッパの6倍にも及ぶそうだ。動物も哺乳類だけでおよそ240種、鳥や虫や魚の種類は想像を超える豊かさだろう。しかし、森林破壊や動物の密猟などで多様性がどんどん失われていっている。生物多様性ギャラリーではパナマにどのような動植物が生息し、それぞれがどの程度絶滅の脅威にさらされているのかをパネル展示で知ることができる。

 

シアターPanamaramaではパナマの自然を3面及び床面の大画面に映し出される映像で感じることができる。これ、すごく良かった。

 

地峡ギャラリー(Building the Bridge)の展示はパナマの国土がどのようにして形作られたかを示している。かつて南北アメリカ大陸の間には隙間があり、太平洋と大西洋は繋がっていた。太平洋プレートがカリブプレートの下に沈み込んでいく圧力と熱によって海底に形成された火山が海面から突き出して島となった。次々と現れる島々が次第に繋がってできたのがパナマだ。

約7000万年前の海底にあった枕状溶岩

約300万年前、パナマの国土が形成され南北アメリカが陸続きになったことで、それぞれの大陸の動物が大規模に移動して種の交換が起こった。これを生物学ではアメリカ大陸間大交差と呼ぶようだ。第4のギャラリー「The Worlds Collide」では北から移動して来た動物たちと南から移動して来た動物たちがパナマ地峡で出会う様子がダイナミックに示されている。なるほど、生物多様性博物館がパナマにあるもう一つの理由が理解できた。

ワクワクするディスプレイ

 

5つ目のギャラリーである建物の中央広場で人類が登場する。パナマに辿り着いた人々がどのように土地を利用し生活して行ったかを示す考古学及び文化についての展示だ。

 

海のギャラリー。パナマは太平洋とカリブ海に挟まれているが、二つの大きな水槽がそれぞれの生態系を示している。カリブ海と太平洋では同じ海でもいろいろな違いがある。カリブ海のサンゴ礁は様々な生息環境を提供するため、魚の種類が多い。透明度の高い海水の中では魚は主に視覚情報を使ってパートナーを探す。だからカリブ海の魚はカラフルだ。派手な模様は色とりどりのサンゴの間でのカムフラージュにも役立つ。それに比べ、太平洋の魚は見た目が地味だ。周辺環境がわりあい均等なので、多様性がカリブ海よりも低い。しかし、太平洋の魚の多くは集団で泳ぐため、それぞれの種の個体数が多い。

 

こちらがカリブ海の環境で

こちらが太平洋の環境

海の中って本当に綺麗で面白いなあ。私はスノーケルしかできないので、ダイビングは憧れである。

Biomuseoにはその他に生態系のネットワークを示す展示、パナマの生態系と世界の生態系のネットワークを示す展示がある。また建物の外の公園ではパナマの植物や生き物を眺めながら散策できて、最高である。

これでパナマシティで絶対に見たかった場所2つを見ることができたので、首都を離れ、パナマを探検することにしよう。アルブロック国内空港でレンタカーを借り、さあ出発だ。目指すはコスタリカとの国境近く、ボケテ高原である。

 

 

当ブログ、ここのところシチリア旅行のレポートが続いていたが、あまり知られていないドイツ、特にベルリンとその周辺のブランデンブルク州を発掘するYouTubeチャンネル、「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」も引き続き更新している。

探検隊チャンネルの動画作りは、相棒の久保田由希さんと私が興味のあるテーマを持ち寄って、一緒に作業するスタイル。共通の興味が多い私たちだけれど、テーマによっては由希さん寄りだったり、または私寄りだったりとバランスはその都度違う。これが楽しいのだ。お互いに相手の興味から学ぶことが多くて、世界が広がっていく。

過去記事で東ドイツ時代の団地「プラッテンバウ」について作成した動画を紹介したが、ドイツの「団地」に関連する動画をさらに2本、アップした。

団地はもともとは由希さんの守備範囲。私は「なんとなく気になるな」程度だったけれど、チャンネル開設以前から由希さんが熱く語るのを聞いているうちに興味を持つようになった。ドイツには日本の団地建設に影響を与えた団地が多くある。ベルリンにある6つの団地はUNESCO世界遺産に登録されている。そうした建物が作られるようになった社会背景や流れを知るのはとても面白い。

新たに公開した2本のうち1本は、「ジードルング」と呼ばれるドイツの集合住宅とはどのようなもので、いつ頃、なぜ作られるようになったのかを解説した以下の動画。由希さんが時間とエネルギーを注いでリサーチしてくれて、私もすごく勉強になった。

以下は公開したばかりの最新動画で、ベルリンの世界遺産団地を一つ一つ紹介している。

 

探検隊チャンネルのメインテーマの一つになりつつある建築物。これからもいろんな時代やタイプの建物について調べていきたい。

 

パンタリカのアグリツーリズモで3日間を過ごした後、今度はシチリア島南東部のオリエンタタ・オアジ・ファウニスティカ・ディ・ヴェンディカリ自然保護区(Riserva naturale orientata Oasi Faunistica di Vendicari)のアグリツーリズモに移った。

私が住んでいるドイツ東部のブランデンブルク州には自然保護区がたくさんあり、いろんな野生動物が見られるので気に入っている。ドイツとは気候の違うシチリア島で自然保護区巡りをすれば、ドイツでは見られない生き物が見られるのではないかと密かに楽しみにしていた。ヴェンディカリ自然保護区は特に野鳥が多いと読んだので是非行ってみたかったのだ。

しかし、結論から言うと、いくつか回ったシチリア島の自然保護区はそれほど積極的な保護活動がおこなわれているようには見えなかった。これはあくまで個人的な印象だし、雨が多く緑豊かなドイツと乾燥したシチリア島を同列に見るのはフェアではないかもしれないが、いろんなカナヘビを見た以外は期待したほど多くの生き物を目にしなかった。

でも、ヴェンディカリ自然保護区では少なくともフラミンゴの群れが飛んでいくのを目撃できたし、アグリツーリズモの食事が素晴らしかったので、まあ満足かな。

さて、シチリア島南端から海岸に沿って北西に移動し、次に目指すはアグリジェント(Agrigento)の考古学地区、「神殿の谷(Valle dei Templi) 」だ。

アグリジェントはかつてアクラガスと呼ばれる古代ギリシアの植民都市だった。南東に70kmほど離れた都市ジェーラ(Gela)とロードス島からの移住者によって紀元前581年に建設されたアクラガスは、競馬の飼育で知られる富める町だった。僭主テロンが支配した最盛期(紀元前488〜472年)には人口20万人にも及ぶ大都市に発展していた(現在のアグリジェントの人口は6万人弱)。この町に生まれた哲学者エンペドクレスは、アクラガス市民は「まるで明日死ぬかのように食べ、永久に生きるかのような家を建てていた」と描写したという。紀元前406年にカルタゴ軍によって破壊されるまでは、市民は相当にゴージャスな暮らしぶりだったらしい。アグリジェント市の南部にはそうした古代都市アクラガスの栄華を感じさせるギリシア神殿群が残る。

考古学地区から眺めるアグリジェントの町

1984年にUNESCO世界遺産に登録されたこの「神殿の谷」、これまた広大で圧倒的!

右に見えるのはカストレ•ポルーチェ神殿

神殿の谷で最も古い(紀元前6世紀に建設)ヘラクレス神殿

コンコルディア神殿。ドーリス式神殿の中で最も保存状態の良い神殿 の一つ。1748年に復元された。

崖の上にそびえるユノ・ラキニア神殿

考古学公園の南側、眼科広がる景色を眺めていたら、なぜだかふとエジプトへ行ったときのことを思い出した。ここまで来ると、アフリカが近いと感じる。

公園内には考古学博物館もあって見るべきものが盛り沢山なのだが、今回のシチリア島・エオリエ諸島旅行はこの時点ですでに3週間近くに及んでいたので、すでにかなりの情報過多でとてもじゃないが処理しきれない。もうちょっとよく地中海の歴史を勉強してから出直した方が良さそうだ。それにしても、シチリアの歴史的・文化的コンテンツの驚くべき豊かさよ。もっと知りたいけど、沼にはまりそうでちょっと怖い。そんなことを考えながら神殿の谷を散策した後はレアルモンテ(Realmonte)海岸の白い崖、スカーラ・デイ・トゥルキ(Scala dei Turchi)の見える宿に泊まった。

この崖は、鮮新世ザンクリアン期に起こった洪水で堆積した有孔虫の化石を含む泥灰土でできている。スカーラ・デイ・トゥルキというのは「トルコ人の階段」の意味。トルコからやって来た海賊がこの崖を登って攻めて来たことに由来するそうだ。トルコにもパムッカレという同じような石灰棚の名所があるのを思い出した。

そろそろシチリア旅行も終わりに近づいている。

 

 

まだまだ続くシチリア島旅行。パンタリカのアグリツーリズモに宿を取っていた私たちは、パンタリカの岩壁墓地遺跡を見た翌日、シラクーザを訪れることにした。宿で一緒になった旅行者夫婦に「シラクーザの観光名所の多くはオルティージャ島に集中している。特にドゥオモ広場は必見だ」と強く勧められていた。オルティージャ島海に突き出たシラクーザの発祥地でとても美しく、ドゥオモ広場の他にもアポロン神殿やマニアケス城など見どころが多い。

でも、私にとってはオルティージャ島よりもネアポリス地区(「新市街」の意)にある考古学公園(Parco Archeologico)の方が面白かった。

行ってみて仰天。この公園、凄すぎる!市街地にギリシアやローマ時代の遺跡がどーん!と、まとまって存在している。

まず、「天国の石切場(Latomia del Paradiso)」と呼ばれる古代の石切場に度肝を抜かれた。町の真ん中なのに、石灰岩質の岩盤が剥き出しになっている。紀元前6世紀から神殿などの大規模建造物のためにここで石が切り出されていた。

石切場の中はヘルメットを装着して見学する。歩いているの私の大きさからそのスケールが想像できることだろう。良質の石は地表付近ではなく深いところから切り出す必要があった。作業に従事したのはカルタゴ軍やアッティカ軍からの捕虜だった。現在、石切場跡の周辺には草木が生い茂り、まるで楽園のようだから「天国の石切場」と呼ばれるようになったらしいが、当時は天国どころか地獄だっただろう。トンネルの中はじめっとしていて、岩肌にはところどころ苔が生えている。

石切場の奥には「ディオニシオスの耳(Orecchio di Dioniso)」と呼ばれる、これまた巨大な石窟がある。高さ23メートル、奥行きは65メートル。中は真っ暗で湾曲している。この洞窟の中ではほんの小さな音でも増幅されて大きく聞こえる。古代ギリシアの植民都市であったシラクーザの僭主ディオニシオスは疑り深い性格で、捕虜たちのヒソヒソ話を聴くためにこの洞窟に彼らを閉じ込めたという言い伝えがあるらしい。洞窟のかたちもまるで耳のようだから、「ディオニシオスの耳」とは上手い呼び名をつけたものだなと思う。

こちらは公園内のギリシア劇場。直径138m、推定観客席総数は1万5000席。紀元前5世紀からここで喜劇や悲劇が上演されたが、ローマ時代には演劇は流行らなかったので、剣闘士の闘技会場に作り変えられて使われていたそうだ。

こちらはローマ時代の円形競技場。アレーナの中心部には特殊効果のための地下装置を設置したとされる穴が開いている。古代のイベントの特殊効果って?まさか、光のショーなんてやっていたわけはないし、どんなものだったんだろう?シラクーザといえばギリシアの科学者アルキメデスの故郷。当時から技術が発達していたというから、いろんなカッコいい仕掛けが観客の目を楽しませていたのだろうね。

考古学公園は広大なので、隅から隅まで歩こうとすると大変である。暑いし、石の坂道を登ったり降りたりしてヘトヘト。シチリア島はどこへ行っても坂道で、しかも地面が硬いので、連日歩き回っているとだんだん腰がバキバキに硬直して来る。土地柄、深々としたソファーに座れるような場所もほとんどなく、カフェやレストランの椅子も硬くてなかなか辛いものがある。公園内にはまだまだ他の見所もあるのだが、先にオルティージャ島も歩いた後だから、もうギブアップ。

 

 

 

 

今回の旅行のテーマは火山だったので、エオリエ諸島滞在中は火山にばかり注目していたが、シチリア島の北に連なるエオリエ諸島にあるのは火山だけではない。リーパリの町を歩いていたら、グリェルモ・マルコーニ通り(Via Guliermo Marconi)脇の空き地のようなところに、なにやら気になるものが並んでいる。

思わず立ち止まり、まじまじと見た。石でできた蓋付きの箱が並んでいる。これは何?側に小さな看板があり、「ギリシア・ローマ墓地」と書いてあった。ということは、これらの箱のようなものは棺桶ということになる。小さな町の住宅街の空き地のようなところにギリシアや古代ローマ時代の棺桶が、あたかもついこの間置かれたばかりのように並んでいる様子に驚いてしまった。

後で知ったことには、この空き地のような緑地はディアナ考古学公園(Parco Archeologico di Diana)という公園の一部である。リーパリ島では1948年からシステマチックな考古学調査がおこなわれている。この公園のあるディアナ地区で古代墓地(ネクロポリス)が発見された。上の写真の左奥に見える石の壁は、4世紀にギリシア人入植者によって建設された市壁の一部らしい。1954年から約20年間、発掘調査を率いた考古学者ルイジ・ベルナボ・ブレアとマドリン・キャバリエが、1971年にこの考古学公園と旧市街中心部、リーパリ城内のエオリエ考古学博物館(Museo Archäologico Regionale Eoliano)を設立した。 ディアナ考古学公園という名称は、ネクロポリスが建設された当時エオリエ諸島で栄えていた文化、ディアナ文化にちなむ。

ネクロポリスからは整然と並ぶ2600を超える墓が発掘されている。古い時代の墓の上に新しい時代のものが重ねられた状態で見つかったらしい。見つかった棺の一部がこの公園に展示(?)されているということなのだろうか。

気になって、エオリエ考古学博物館へも行ってみた。

考古学博物館入り口

エオリエ城の敷地はなかなか広くて、要塞や大聖堂など見どころがたくさんある。考古学博物館もいくつかの建物に分かれてい流。小さな島の博物館なのに規模が大きくて驚く。ここには先史時代からのエオリエ諸島の歴史が詰まっているのだ。地中海の考古学研究においても重要な博物館であるらしい。エオリエ諸島は平地がほとんどなく、ゴツゴツとした岩ばかりで人が住むのに適しているようにはあまり思えないのだが、紀元前5500年頃から人が定住していたことがわかっている。特にリーパリ島は黒曜石が豊富に採れることから、新石器時代にはその交易で栄えた。その後、ギリシアの植民地となり、古代ローマに征服され、838年からは150年間にわたり、サラセン人の支配下に置かれる。1082年にはノルマン人に支配され、イタリアのファシスト党時代には反体制活動家の流刑地となっていた。現在の人口は1万3000人に満たない小島なのに、なんと劇的な歴史なのだろう。

考古学博物館の敷地内にある青銅器時代の集落の跡

博物館を全部回る時間がなかったので、気になっているネクロポリスに関する展示と地質学のセクションのみを見た。

敷地の奥にディアナ考古学公園とは別の考古学公園があり、そこにも棺が並んでいる。

こちらの公園では、半円を描くように棺が配置されている。

博物館内に展示されているリーパリ島のネクロポリスから出土した紀元前6〜4世紀の土器の棺

なるほど、石の棺桶だと思ったものは土器の棺を入れる容器だったのだな。岩だらけのエオリエ諸島では地面に穴を掘って棺を埋めるのは大変だから、頑丈な石の入れ物に入れて地上に置いておいたのだろうか?

ギリシア時代の墓石

棺桶や墓石ばかり見ていたが、この博物館には重要な展示物が他にもたぶん、たくさんある。時間がなくて全部の展示室を回れなかったし、もし全部見たとしても、予備知識がなさ過ぎて大量の情報を処理できそうになかった。家に帰って来てからそれなりに調べようとしたのだけれど、イタリアについてはやはりイタリア語の情報が圧倒的でなかなか難しい。もう二度と行けないかもしれない場所だから、せっかくの貴重な機会だったのにと思うと残念。いつか何かのきっかけでここに展示されているものについて知り、「ああ、あのとき〇〇を見てくればよかった!」と悔しく思うのかなあ。
まあ、そんなことを言ってもしかたがないので、わからないものだらけの環境に身を置いたときには、何か一つ、気になるものを見つければ良いとしよう。そして、そのときにはうまく把握できなくても、いつか別方向から近づけることがあるかもしれないから、少しでも気になることはわかる範囲で書いておこう。

水中考古学のセクションに展示されている160個のアンフォラ

さて、そろそろエオリエ諸島滞在も終わりだ。これからシチリア島へ戻り、さらに旅を続けよう。

ドイツから4日かけてシチリア島へやって来た。カラブリア州のメッシーナ海峡をフェリーで渡るのだが、ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)から対岸のメッシーナ(Messina)は目と鼻の先で、20分ほどで着く。陽光にきらめく青い海の向こうに雄大なエトナ火山のそびえるシチリア島が近づくのを船上から眺めるのが楽しみだ。

と思ったら、港に着いた瞬間に空が急に暗くなり、出港と同時にまさかの大雨である。視界はグレー一色、何も見えない状態でシチリア島に到着した。メッシーナから最初の目的地カターニア(Catania)方面へは高速道路を南下するだけだが、路面のコンディションが良くないので前の車の飛沫が凄まじい。シチリアはインフラが良くないだろうと想像していたが、早速、それを実感することになった。

カターニアはエトナ火山の麓にあるシチリア島で2番目に大きな町だ。今回の旅行では都市は避けると言いながらカターニアに向かったのは、シチリア旅行に飛び入り参加することになった娘をカターニア空港でピックアップしなければならなかったのと、旅の事前準備として読んだ本、「シチリアへ行きたい(小森谷慶子、小森谷賢二著)」にカターニアが「溶岩でできた」町だと書かれていたので、その街並みを是非見てみたかったのだ。

カターニアはかつてギリシア人の植民市として発展した町だが、その当時から現在に至るまで、エトナ火山の噴火の影響を受け続けて来た。1669年の大噴火と1693年の大地震では壊滅的な被害を負い、18世紀にバロック様式で再建された。

大雨の後のドゥオーモ広場

町は全体的に黒っぽく、独特の雰囲気を醸し出している。

地面のあちこちが黒い火山灰で汚れている

ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街には美しい広場と大聖堂、城や宮殿、考古学博物館など見所がたくさんある。しかし、それらの観光名所についてはガイドブックやネット記事などに日本語の情報がたくさんあるので、このブログでは私の個人的な興味に沿って話を進めたい。

ヨーロッパでは古い建物の漆喰が剥がれて中の建材が剥き出しになっているのを目にすることがよくある。私が住んでいる北ドイツでは中のレンガが見えるが、カターニアでは溶岩だ。

すごい!

建物だけでなく、石畳や、

 

花壇も溶岩でできている

うおー!

と変なことに盛り上がってしまう。石造りの建物が多いヨーロッパに住んでいると、「町の景観はその土地の石がつくる」と感じるようになった。その町のある地域の自然条件によって多く採れる石材が異なるからだ。石が違えば町の色も質感も変わる。だから、知らない町を訪れるときには「どんな石の町だろう?」と気になるである。

カターニアの町は17世紀末にエトナ山の噴火で破壊されたと先に書いたが、旧市街のあちこちにギリシア時代や古代ローマ時代の遺跡が見られる。

ローマ帝政時代の円形競技場、Anfiteatro

全体の一部しか発掘されていない状態だが、総客席数はおよそ15000席と推定されるそうだ。当時の人口がどのくらいだったのかわからないが、こんな大きな競技場があったのだから繁栄していたんだなあ。黒い玄武岩でできたこうした古代建造物の名残を見ると、カターニアはまさにエトナ火山が生んだ町なのだと感じるのである。

競技場のエントランス

ローマ劇場(Teatro Romano di Catania)も見応えがあった。

 

 

溶岩という視点でカターニアの町を見た。それではエトナ火山を見に行くことにしよう。レポートは次回の記事で。

 

 

 

ドイツに暮らしていて面白いと思うことの一つは、いろいろな時代の建物があることだ。首都ベルリンには実に様々な時代に建てられた趣の異なる建物が不思議な調和を生み出している。

過去数十年間に建てられた近代的な建物は日本の都市にあるものとそう大きな違いはないが、それよりも古い建物は装飾が凝らされていたり、日本では見かけないフォルムや質感だったりでいくら眺めていても飽きることがない。

けれど、ドイツの歴史をほとんど知らずに街歩きをしていた頃は、そうした古い建物をすべて「西洋建築」というたった一つのカテゴリーで認識していて、どれがいつの時代のものなのかまったく見当がつかなかった。最近になってようやく、建物を外観からいくつかのグループに分類して認識できるようになって来て、ますます街歩きが楽しくなっている。

建築史におけるそれぞれのエポックは、単なる美的意識の移り変わりではなく、それぞれの時代の技術革新や政治、イデオロギーとも関わっていることがおぼろげながら見えて来た。

ベルリン・ブランデンブルク探検隊」では、相棒の由希さんが建物好きなこともあって建物をメインテーマの一つにしているが、今回は旧東ベルリンのカール・マルクス・アレーを中心にスターリン建築を取り上げた。長年ベルリンに住んだ由希さんが撮影した東ベルリンやワルシャワのスターリン建築と、私の手持ちの東ドイツの他の町や本場モスクワのスターリン建築の写真を合わせて以下のスライド動画ができた。スターリン建築は個人的には好みの建築様式というわけではないけれど、インパクトが大きいし、それらが建てられた背景はやはり興味深い。動画で紹介したものだけでなく、旧社会主義国のあちこちに類似の建築物がたくさん残っていることだろう。今後、もっと見る機会があればいいな。

 

 

私が住んでいるドイツ東部には団地が多い。いや、団地はどこにだってたくさんあるのだが、ドイツ東部の団地は特徴的である。規格化されたプレハブ工法の高層アパートがずらりと立ち並ぶ。都市という都市で見かける光景だが、特にベルリンやコットブスなどの大きな都市における団地の規模たるや圧倒的である。

そのような高層アパートは社会主義国であった旧東ドイツ(DDR)時代に建設されたもので、俗に「プラッテンバウ(Plattenbau) 」と呼ばれる。旧西ドイツにも第二次世界大戦後に建設された高層アパートの団地がないわけではないが地域が限られており、数も旧東ドイツほどは多くない。だから、「プラッテンバウ」はしばしば社会主義の象徴として語られる。ドイツが再統一された現在はダサい建物とみなされがちな「プラッテンバウ」であるが、私にはずっと気になる存在だった。なぜかというと、プラッテンバウが並ぶ団地を見ていると、なんとなく郷愁を覚えるのだ。どことなく昭和的というか、、、。いや、ここはドイツ。昭和という時代はここには存在していなかった。でも、プラッテンバウは私が育った昭和の時代によく目にした団地の風景にちょっと似ている。

「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」の相棒の由希さんは団地ファンで、やはりプラッテンバウがずっと気になっていたという。ならば、プラッテンバウを探検しようではないか。

というわけで、スライド動画「東ドイツの”The 団地” プラッテンバウ」が完成。動画では旧東ドイツで多くのプラッテンバウが建てられた背景やプラッテンバウの様々なタイプ、そしてベルリンとブランデンブルク州のいろいろな団地を紹介している。

特に紹介したかったのはプラッテンバウの聖地ともいえるベルリン北東部のマルツァーン地区の巨大団地だが、それらしい写真を撮るのにちょっと苦労した。というのは、地上から撮影したのではなかなかその規模の大きさを伝えられない。そこで、マルツァーン地区にある園芸博覧会跡地の広大な公園、”Gärten der Welt“の上を走るケーブルカーに乗り、その中から団地の景色を撮影することにした。ところが、乗ってみたらケーブルカーのガラスは黒っぽい遮光ガラスでガックリ。あ〜、これじゃまともな写真撮れないよ〜。しかし、乗った以上は引き返すこともできない。仕方なくそのまま乗っていたら頂上駅の横に大きな展望台があるのに気づいた。

あそこなら撮れる!階段を駆け上がり、展望台から見た景色は、、、、、圧巻であった。

 

 

 

先月、バルト海へ休暇に行って来た。今年初めての旅行である。長い長い旅行制限が続いた後、ようやく遠出をすることができ、短い期間ではあったが満喫した。

滞在したのはダース地方のプレーローという村である。


ダース地方はバルト海に突き出たブーメランに似た形をした細長い半島の中心にある。半島名はFischland-Darß-Zingst。長い名前なのは、かつて3つの別の島だったFischlandとDarßとZingstの間に砂礫が堆積して一続きの陸地になったからだ。自然環境が素晴らしく、半島の東部のZingstは写真ツーリズムで有名で、私も一度写真ワークショップに参加したことがある(そのときに書いた記事はこちら)。プレーローはこじんまりとした静かな村で、Zingst方面へもFischland方面へも移動しやすく大変気に入った。

お天気に恵まれたので、サイクリングをしたり、海に入ったり、野鳥を観察したりと野外活動を大いに楽しんだ。


 

ダースにはいくつかの村があるが、ぶらぶらと歩いているうちに気づいたことがある。とても可愛らしい民家が多く、特にドアが他では見たことのない素朴な可愛さなのだ。

こんな感じ

気になっていたところ、地元の書店でこんな本を見つけて、即買い!

「ダースのドアの小さな本」と題されている

タイトルの通り、ダース地方の伝統的なドアについての本でとても素敵で興味深い。そして、裏表紙を開いたとき、「ヤッタ!」と思わず声が漏れた。

なーんと、滞在しているプレロー村の可愛いドアのついた家のマップが載っているではないか。これはもう、「ドア探検」に行くしかないよね?家から持参した自転車に飛び乗って、かわいいドアを探しに行ったのであった。

数が多くて全部は見切れなかったけれど、ドアのオーナメントにはいろんなモチーフのものがあり、また同じかわいいドアでも時代によってデザインに流行があることがわかって大変面白かった。その探検の成果をまとめたものが以下の動画である。

 

スライド動画には載せきれなかったダースのドアの画像を「ドアギャラリー」にアップしたので、興味のある方はぜひ見てね。

 

 

YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」に10本目のスライド動画をアップしました。今回のテーマはブランデンブルク州カプート村(私が住んでいる村です)にある物理学者アルベルト・アインシュタインの別荘です。

ベルリンから公共交通機関を使って片道約1時間のところにあるアインシュタインの家は、ユダヤ人建築家コンラート・ヴァクスマンの設計によるものです。ヴァクスマンは後に米国に亡命し、バウハウスの創立者で近代建築の巨匠とされるヴァルター・グロピウスと共にプレハブ住宅の普及に大きく貢献します。

アインシュタインはヴァクスマンが設計した家とカプート村をとても気に入っていました。現在、家は週末のみ一般公開されていて、ガイドツアーで中を見学することができます。

カプート村のアインシュタインの家のウェブサイト

この家についてはたくさんの情報があって、20分ちょっとの動画には収まりきらなかったので、こぼれ落ちた内容の一部を補足として動画の下に書きます。まずは是非、動画を見てみてください。

補足)

アインシュタインの家を設計したヴァクスマンは、「この家のインテリアにはバウハウスの家具がぴったりですよ」とマルセル・ブロイヤーがデザインした椅子など、バウハウスの家具をアインシュタインに奨めました。でも、アインシュタインは家具までモダンなもので揃えるのには違和感があったようで、その案は採用せず、手持ちの家具を運び入れて使ったそうです。

1932年にアインシュタインがカプートを去った後、この家は様々な用途に使われました。最初に利用したのは、隣の敷地にユダヤ人の子ども達のための学校を設立していたユダヤ人教育者、ゲルトルート・ファイアーターク(Gertrud Feiertag)でした。ファイヤータークが運営する寄宿舎付きの学校では、主にベルリンに住むユダヤ人家庭の子どもたちが学んでいました。ユダヤ人への迫害が強まる中、ベルリンはユダヤ人の子どもが安心して学校に通える環境ではなくなっていたからです。また、親が先に外国へ移住し、生活の基盤が整ってから子どもを呼び寄せるつもりで子どもを預けているケースもありました。そのうち、他の地域からも庇護を求めてユダヤ人の子どもたちがカプートへやって来るようになります。米国に渡ったアインシュタインは弁護士を通じてファイアータークに家を託し、家は学校の一部として使われました。

しかし、1935年、アインシュタインの家はナチス政権により没収され、カプート村に売り渡されます。ユダヤ人の子どもたちを守るために戦ったファイアータークは1943年、アウシュビッツの強制収容所に送られ、そこで命を落としました。その後、家は幼稚園教諭の養成所や兵士の宿舎として使われるなどいろいろな時期を経て、70年代の終わりに重要文化財に指定されました。1979年に痛んでいた家の修復工事が終わり、アインシュタインの生誕100年を記念して開かれた式典の際には、(地元の人の話によると)家の中にバウハウスの家具が展示されされたそうです。このときアインシュタインはすでに亡くなっていましたが、設計者のヴァクスマンはこの式典に参加しています。ヴァクスマン家の修復状態には内心ちょっと不満があったそうですが、バウハウスの家具を置きたいという彼のかつての希望はこのときようやく実現したと言えますね。

 

先日、YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」にブランデンブルク州で最も人気の観光地、シュプレーヴァルトについてのスライド動画をアップしました。私も相棒の由希さん(@kubomaga)も大好きで何度も足を運んでいるシュプレーヴァルト。自然環境が特殊で、少数民族ソルブ人が多く住んでいることから文化的にも異色なとても魅力的な地域です。ベルリンから他の地域へ遊びに行きたいけれど、どこへ行こうか?と迷ったら、ここ!

今回はシュプレーヴァルトはどんな場所なのかをざっくりとご紹介しました。シュプレーヴァルトには四季折々の独特な伝統行事があり、掘り下げていくととても奥深い地域なので、また改めて、続編動画でそれぞれの季節の魅力をお伝えしていくつもりです。

 

 

ベルリンから南西に40kmほどのところにあるヌテ・ニープリッツ自然公園が好きで、よく遊びに行く。美しい湖がいくつもあるのだ。その中の一つ、ブランケンゼー(Blankensee)の近くに、以前から気になる建物があった。

 

体育館を二つ並べたようなこの建物は何なのだろう?デザインから察するに、ヴァイマル共和政時代に建てられたものではないかと思われるが、古びたレンガ造りの建物が多い田舎の風景の中にドーンと立っていて、場違いな感じがする。何かの格納庫だろうか。でも、このエリアにかつて大きな産業があったとも思えない。謎である。画像検索で調べたら教会だということがわかって驚いた。

教会の名前はヨハニッシェ・キルヒェ(Johannische Kirche)。かつてはEvangelische-Johannische Kirche nach der Offenbarung St. Johannisという名称だったそうだ。「聖ヨハネの啓示を受けた福音主義のヨハネ派教会」とでも訳せば良いのだろうか?耳慣れない言葉だ。それとも、私がキリスト教の知識に乏しいから知らないだけだろうか?それにしても、この外観である。何か特殊な背景があると見て間違いなさそうだ。

最近、”Die Mark Brandenburg“というブランデンブルク州の歴史雑誌が気に入っているのだが、そのバックナンバー、”Lebensreform in der Mark(ブランデンブルクにおける生改革運動*注1)”を手に取ったら、偶然、この教会についての記事が載っていた。生改革運動(Lebensreform)とは、19世紀半ば以降、急激な近代化に反対してスイスやドイツを中心に広がった自然回帰をキーワードとする社会改革運動で、現在、特徴的なドイツの生活文化とみなされているものの多くがこの時期に芽吹いたようである。たとえば、ドイツ全国にある自然食品店、レフォルムハウス(Reformhaus)はこの運動に端を発している。30年前、ドイツに来て初めてレフォルムハウスの看板を目にしたとき、「はて?どういう意味だろう?」と不思議に思ったのをよく覚えている。その頃、reformという言葉から私が連想できたのは「住まいのリフォーム」だけで、住まいとは何の関係もなさそうなのにreformと書いてあるその店が気になって中に足を踏み入れてみた。店内に並べてあるのは健康食品やオーガニックの食品、自然化粧品などで意味がわからず、「健康なものを食べて体をリフォームしようという意味だろうか?」などと、おかしな解釈をしていた。ReformhausのReformが19世紀の生改革運動から来ていると気づいたのは、ずっと後になってからだ。

さて、上記の雑誌によると、ブランケンゼーの近くにある古くて新しい謎の建物は1926年に「聖ヨハネの啓示を受けた」ヨーゼフ・ヴァイセンベルク(Joseph Weißenberg)により建てられた。ヴァイセンベルクはシレジア地方の貧しい家に生まれたが、幼少の頃から予知能力がある不思議な子どもだとみなされていた。また、ヒーリングの能力があり、ヴァイセンベルクが病人に触れると病気が治ったというエピソードがたくさん伝えられている。ヴァイセンベルクは成人後、左官などいくつかの職を経験した後、ベルリンのプレンツラウアーベルクでヒーラーとして開業する。急激な社会変化の中での閉塞感や生活苦、環境汚染などから心身を患う人が多かったのだろうか、いろいろな代替医療やスピリチュアルな施術が世に溢れた時代だったようで、ヴァイセンベルクは「ベルリンの奇跡のヒーラー」として注目を浴びた。やがて、宗教的指導者としても活動するようになり、マイスターと呼ばれて崇められるようになる。第一次世界大戦直後、ヴァイセンベルクは「もうすぐ大インフレになる」と予言し、「金を持っていても価値がなくなるから、今のうちに私に預けなさい」と言って信者らから金を集めた。その資金でブランケンゼー近くのグラウという地域に土地を購入し、人々が安心して暮らせる町を建設すると言い切ったのである。

教会の建設はこうして始まった。約1000人を収容できるという大きな教会の二つのアーチ型天井は「Zwei Lebensstützen brechen nie. Gebet und Arbeit heissen sie.” (祈りと労働は決して折れることのない生の二つの柱である)」というヨハニッシェ・キルヒェの教理を象徴しているそうだ。そしてヴァイセンベルクは教会に隣接するエリアに自らの理想に基づく集落「フリーデンスシュタット(平和の町)」の建設に着手した。しかし、予言通りインフレがやって来ると、資金が足りなくなり、信者らは集落建設を続行するために金の結婚指輪をヴァイセンベルクに差し出した。だから、フリーデンスシュタットは結婚指輪で建設された町と形容されることもあった。集落には学校や病院、博物館やカフェも作られ、近代的なインフラを持つコミュニティが実現した。

 

ざっとここまで読んで、その集落を見に行きたくなった。ブランデンブルク探検仲間のCKさん(@CKCKinT)にこの話をしたら、CKさんは「その集落に行ったことがあるよ」と言う。「医者の診療所が入ったセラピーセンターがあって、宗教的な独特の静かな雰囲気がある。ボロボロの小さな集落なのに、田舎には珍しい自然食品の店があって不思議な感じ」だそうだ。ますます興味深い。そこで、CKさんに案内して貰いながらその集落を散歩することにした。

ということで、ブランデンブルク探検隊、フリーデンスシュタットにGo!

 

集落は少し奥まったところにある。集落内に入ると、真っ先に古びた建物が目に入った。かつて役場だった建物らしい。一部の窓にカーテンがかかっているが、現在、誰か住んでいるのだろうか。シーンとしていて、人の姿は確認できなかった。

 

「神とともに始まり、神とともに終わる。それが真の人生である」

 

その隣にはセラピーセンターがある。1996年に再開されたそうだが、小さな集落にある医療機関にしては随分立派だ。ドアを開けて中に入ってみたが、患者がいるのかいないのか、建物の中はひっそりとしていた。

セラピーセンターの内部に飾られたヴァイセンベルクの胸像。壁には”Krankheit ist Geist(病は精神だ)”と書かれている。宗教的な言葉なので、どういう意味なのかはよくわからない

 

集落には当時、約40棟の建物が建てられ、およそ500人が生活していたそうだ。しかし、ヨハニッシェ・キルヒェの信者の数はそれよりもずっと多く、復活祭の礼拝には2万人もの信者が訪れたという。1920年にはヨハニッシェ・キルヒェの支部は全部で20ほどあったようだ。

かつて”Goldene Sonne(金の太陽)”という名前のレストランだった建物。丘の上に立っているので、きっと日当たりの良いレストランだったのだろう。でも、今はすっかり古びて陰気な姿になっていて、太陽という名前は似つかわしくない。というのも、小さな聖地フリーデンスシュタットの平和な日々は長く続かなかった。1933年にナチ党が政権を掌握すると、ヨハニッシェ・キルヒェの活動は禁じられ、集落の建物は国家秘密警察の管理下に置かれたのである。

 

かつての学校。かなり大きな建物で、600 – 700人の児童が学んでいたらしい。階段の前に設置されている説明パネルには「バウハウススタイルで建てられた」と書いてある。当時は体育館や実験室もある近代的で清潔な学校だったらしい。うーん、すっかり荒れ果ててしまっていて、うまくイメージできないぞ。

 

集落で一番大きい建物は高齢者施設だった建物だ。これは再建したものなのでオリジナルと全く同じではないかもしれないが、1930年に大都市でもない集落にこんな立派な高齢者施設が作られたというのには驚かされる。1940年、ナチ党の武装親衛隊が占領し、第二次世界大戦後はソ連軍が兵舎として使った。現在はフリーダ・ミュラーハウスと呼ばれ、公共スペース付きの住宅になっている。

 

四角い広場を囲んで立つ、廃墟化したソ連軍の兵舎

 

これは1970年にソ連軍が建設した将校の娯楽施設。東ドイツ時代、フリーデンスシュタットはソ連の基地として使われたため、ソ連軍が建設した建物が集落のもともとの建物と混じっている。1994年にソ連軍が撤退した後、フリーデンスシュタットは宗教団体ヨハニッシェ・キルヒェに返還され、コミュニティとして再出発した。この建物は現在はコミュニティスペースとして使われている。ナチ時代とそれに続く東ドイツ時代にはどこかでひっそりと生活していた信者の一部がフリーデンスシュタットに戻って来ているそうだ。現在のフリーデンスシュタットの住民は約500人。全員がヨハニッシェ・キルヒェに属しているわけではないだろうが、現在、ドイツ全国にヨハニッシェ・キルヒェのメンバーは3000人ほどいるとされているので、フリーデンスシュタットは再びヨハニッシェ・キルヒェの本拠地となっているのかもしれない。

かつての牛舎。集落には農園もあった

 

集落の自然食品ショップ

集落は全体的にボロボロで、よそ者の私には現実感が薄く、映画のセットかなにかのように感じられるのに、中心部にある自然食品の店だけはまるで都市の一角のような存在感を醸し出している。店の外壁には十字架がかかり、レフォルムハウスならぬレフォルムカウフと書かれた看板がかかっている。

かつて、当時の基準では先進的な町だったフリーデンスシュタット。今、その姿を想像するのは難しい。でも、荒廃しているエリアにありがちな殺伐とした空気は感じられず、どこかおっとりとした雰囲気の漂う不思議な場所である。周辺も含め、人口密度の低い地域だけれど、集落はこれからも引き続き少しづつ補修されて活気を取り戻していくのだろうか。毎年12月には教会でクリスマス市が開かれているとのこと。今年はパンデミックのため開催されないだろうが、来年、または再来年、フリーデンスシュタットのクリスマス市を覗いてみたい。

 

ブランデンブルクにとても詳しいローゼンさん(@PotsdamGermany)に興味深い関連サイトを教えて頂いたので、参考資料として貼っておきます。

ヨハニッシェ・キルヒェに関する短い番組:

Johannische Kirche in Trebbin

現在の信者の方によるポッドキャスト:

Reportage “Weißenberg I”

Reportage “Weißenberg II”

 

*注 Lebensrefomには「生改革」「生活改善運動」など複数の訳語があるようです。定訳がはっきりわからなかったので、ネット上で見つけた複数の学術論文に倣って「生改革」という訳語をあてました。

今年の7月に友人のライター、久保田由希さん(@kubomaga)との共著で出版した「ベルリン・ブランデンブルク探検隊シリーズ 給水塔」(詳細はこちら)でブランデンブルク州内の給水塔44基を紹介した。その中の1基、アンガーミュンデ(Angermünde)の給水塔は現在、宿泊施設として再利用されている。ページ数の関係により、本の中では詳しく紹介できなかった(P.41に掲載)ので、ここで改めて紹介したい。

アンガーミュンデの給水塔

 

給水塔に泊まるって、どんな感じだろう?と気になり、先日、この塔に実際に宿泊してみた。アンガーミュンデ市はベルリンから北東およそ70km。給水塔は駅の真ん前にある。

 

1901年に建設されたこの給水塔は2007年に大掛かりな改修工事が行われ、現在は宿泊施設となっている。ホテルではなく、キッチン設備のあるアパートメントタイプの宿だ。(ウェブサイトはこちら

 

敷地内に入り、塔の裏手に回ると、外付けのエレベーターと階段があり、アパートメントに直接アクセスできるようになっている。タンク部分には塔の管理人さん一家が住んでいて、借りられるのはその下のレンガで覆われた部分で、2つの階それぞれ丸ごとがアパートメントになっている。私たちが予約したときには両階とも空いていたので、2つのうちの上の階を借りることにした。

着いたのが夜だったので、こんな感じ。真ん中が居間、居間の奥がキッチンとダイニングスペース、反対側がベッドのあるスペースになっている。落ち着いた温かみのある内装だ。

キッチン&ダイニングスペース

 

なんと、キッチンの窓からはもう一つの小さな給水塔が見える!

 

泊まってみて、快適さに驚いた。床暖房で足元ポカポカ、ソファーも深々として気持ちが良い。家具はどれも質の良いもので、こだわりが感じられる。

 

塔を輪切りにした円形アパートメントで円形で、真ん中部分がフロアとなっているのが面白い。向こう側に見えるドアの後ろはバスルーム。左側の緑のドアを開けると、

階段で下に降りることができる。これぞ「塔に住んでます」という感じでワクワクする。

 

給水塔の絵が彫られたフロアの家具

 

階段から地階に降りてみた。出入り口付近には観光パンフレットがたくさん置いてある。アンガーミュンデ市は小さい町で、市内にはそれほどたくさん見所があるわけではないが、周辺にはUNESCO自然遺産に登録されたブナの森(Buchenwald Grumsin)やSchorfheide-Chorin自然保護区Unteres Odertal国立公園など多くの自然保護区が広がり、拠点として便利だ。車があればあちこちへ足を延ばすことができる。でも、車がなくても大丈夫。アンガーミュンデからは各方面へ観光バスが出ている。(情報はこちら

給水塔情報&グッズコーナーがあった。アンガーミュンデ給水塔110周年には記念グッズがいろいろ作られたようである。

こんなカレンダーもあったとは。給水塔の本を書いた私が言うのも変だけど、マニアな人たちがいるもんだねえ〜。

地階はメゾネット構造になっているので上ってみよう。

ミーティングスペース?ここで給水塔ファンの人たちが作業をしたりするのであろうか。

椅子がすごい!!!

大変な凝りようだ。なんかもう、給水塔愛がビシバシと伝わって来る。現存する給水塔は貴重な技術遺産であり文化財である。それを大切に守り継承していこうという強い意思が感じられて、圧倒される。それにしても、改修にはかなりのお金がかかったに違いない。(工事の様子は塔のサイトのこちらのページから見ることができます)

 

裏庭には子どもの遊び場とバーベキューができるスペースがあるのだが、遊び場にまでミニ給水塔が設置されている。

 

こだわりが半端ないね。

 

フロアに置いてあったこの雑誌を手に取ってみた。これまた驚くほどマニアックである。「ドイツ国際給水塔協会(Deutsch International Wasserturm Gesellschaft)という団体が発行しており、ドイツ国内の給水塔に関する最新情報や会員による給水塔見学バスツアーの報告、世界各国の給水塔特集などが掲載されている。この号ではオーストリアと仏ブルターニュ地方の給水塔群の紹介、ドローンで撮った給水塔画像のほか、キリギスタンの高置給水タンクが3ページにわたって解説されている。キリギスタンまで行ったんかい!

 

こんなわけで、給水塔アパートメントってどんな感じかな?というくらいの気持ちで泊まってみたアンガーミュンデの給水塔はとても快適かつマニア心を大いに満たしてくれる素晴らしい宿であった。一つだけ難点を上げるとすれば、駅の側なので、ホームを流れるアナウンスがまる聞こえなことかな。音に敏感な人だと気になるかもしれない。それ以外は文句なしどころか、大満足だった。良心的な料金設定も嬉しい。これからも愛され続けて欲しい給水塔である。

 

 

 

7月に友人のライター、久保田由希さんとの共著で「ベルリン・ブランデンブルク探検隊 給水塔」を出版しましたが、幸いにも多くの方が興味を持ってくださり、久保田さんが日本へ持ち帰った分は数日で売り切れ、ドイツ国内の在庫も残りごくわずかとなりました。ご購入くださった皆様、ありがとうございます。心よりお礼を申し上げます。

極めてマイナーな内容ということで限定部数しか印刷していませんでしたが、電子版が完成しましたのでお知らせいたします。紙の本同様に電子版もベルリン在住のデザイナー、守屋亜衣(@ai_moliya)さんが担当してくださいました。

紙の本に収録した内容(全48ページ)に、電子版ボーナスページ4ページを加筆しました。価格は980円。私のオンラインショップ「まにあっくドイツショップ」からご購入頂けます。1回のご購入でpdfとePubの両方をダウンロード頂けます。

そして、これまでに「給水塔」をご購入くださった方、これからご購入くださる方全員にプレゼントがあります!!

プレゼント1

紙版・電子版をご購入のみなさまに、私がGoogle My Mapsで作成した「ドイツ全国の主な給水塔マップ」をシェア致します。ベルリンやブランデンブルク州以外の州にも給水塔がたくさんありますので、ドイツの他の地域にご旅行される方、または滞在中の方にご利用頂けると嬉しいです。

プレゼント2

すでに紙版をご購入くださったみなさまに、電子版ボーナスページのpdfを差し上げます。ご注文頂いた際にお知らせくださったメールアドレスまたはSNSのメッセンジャー経由でこちらからご連絡致しますのでお待ちください。

そもそもこの本を作ることになったきっかけは、2018年に私のポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」の中の「まにあっくカフェ」に久保田由希さんをゲストとしてお招きし、久保田さんが好きな塔の魅力についてたっぷりと語ってもらったことでした。

まにあっくカフェ 3 塔について語ろう

まにあっくカフェは、いろんな人からその人の好きなことについてお聞きすることで視野を広げたいという趣旨でやって来たものですが、久保田さんからこのときお話をじっくり伺うまでは私は塔にそれほど大きな関心を持っていませんでした。その一年半後に久保田さんと一緒に給水塔の本を作ることになるとは、思いもしませんでした。なんだか不思議ですが、まにあっくカフェという企画をやってよかったなとしみじみ思います。

そこで、今回、電子版を発売するにあたり、久保田さんとのまにあっくカフェの第二弾を収録しました。

まにあっくカフェ 9 「ベルリン・ブランデンブルク探検隊 給水塔」電子版発売記念トーク

よろしければ3と9、合わせてお聞きください。

久保田さんのブログの関連記事はこちらです。

ライターの久保田由希さんと私とで結成した「ブランデンブルク探検隊」、これまで隊員は私たち二人だけだったけれど、ツイッターで隊員を募集したところ、嬉しいことに何人かの人達が名乗りを上げてくれた。先日、その中の一人、ローゼンさんから「これからポツダムのアルベルト・アインシュタイン学術研究パークに散歩に行くけど、一緒にどう?」と探検活動への誘いの電話がかかって来た。何を隠そう、ローゼン新隊員はポツダムの公式観光ガイドの資格を持ち、ポツダムに関する知識なら右に出る者はいないエキスパートである。探検隊にとって超強力な新メンバーだ。そのローゼン隊員にポツダム散策に誘われたら、そりゃ行かないわけがない。

というわけで、久しぶりにアルベルト・アインシュタイン学術研究パーク(Wissenschaftspark Albert Einstein)へ行って来た。研究パークはポツダム中央駅から緩やかな丘を登ったところにある。テレグラーフェンベルクと呼ばれるこの丘には19世紀後半、その小高い立地を利用して王立の天文学や気象学の研究施設が造られた。1879年には世界初の天体物理観測所、Astrophysikalisches Observatoriumが完成。また、1920年代には建築士エーリヒ・メンデルゾーンによって設計されたアインシュタイン塔(Einsteinturm)があることでも知られる。

 

 

 

パークの守衛さんにもらった写真入り地図。敷地内には歴史的な建造物の他にヘルムホルツ・ドイツ地球科学研究センター、アルフレート・ヴェーゲナー極地・海洋研究所、ドイツ地質学研究センター、ポツダム気候影響研究所など多くの研究所の建物がある

 

パークの中心地にある、3つのドームがシンボルの旧王立天文物理観測所の建物は残念ながら工事中だった。この建物は1881年にこの建物の地下室で初めての干渉測定実験をした物理学者アルバート・マイケルソンにちなんでマイケルソンハウスと呼ばれている。

マイケルソンハウスの北側には北塔(Nordturm)と呼ばれる塔が立っている。見て、ピンと来た。ハハーン、これは給水塔だね?たまたまドアが開いていたので中に足を踏み入れると研究所の人がいた。この塔は給水塔ですか?とローゼン隊員が聞くと、研究所の人は「いや、違います。ただの塔です」と言う。ただの塔って何?「塔を建てたからには目的があったはずですよね?」とツッコむローゼン隊員。私も「今は給水塔でなくてもかつては給水塔だったのでは?」と言ってみたが、「いやいや、給水塔なんてここにはないですよ」と言う返事。

うーん、、、。でもさ、こんな大きな研究施設に給水設備が備わっていなかったわけないよねえ?絶対どっかにあったはず。首を傾げながら守衛さんにもらった説明パンフレットに目をやると、「北塔はかつて給水塔だった」とちゃんと書かれているではないか。やっぱりね!

 

こちらの建物は屈折望遠鏡(Großer Refraktor)。マイケルソンハウスと同じ黄色い高温焼成レンガが美しい。1899年にここに設置された屈折望遠鏡の口径は80cmで、当時は世界最大を誇った。

 

たくさん建物があって全部は紹介しきれないので、私の好きなものを優先で紹介しよう。

 

見よ、この素晴らしい建物を。これはポツダム気候影響研究所の建物で、木の板を貼ったファサードが素敵。正面からではわからないけど、この建物は上から見るとクローバーの葉のような形をしているそうだ。エネルギー効率に優れたエコな建物で、すぐ横には電気自動車用の充電ステーションがある。

 

 

そして、この研究パークの目玉はなんといってもアインシュタイン塔!

この建物は、太陽の重力場では光の波長が長波長側にずれるという、アインシュタインの相対性理論において予測された赤方偏移という現象を実証実験するために建てられたものだ。ところが、ここでの実験はうまくいかなかったという。実験では赤方偏移と同時に青方偏移という短波長側へのズレも同規模で起こり、互いの効果が打ち消しあってしまうので、赤方偏移を実証することができなかった。

正面から見たアインシュタイン塔

案内パンフレットによると、曲線を多用した躍動感あるアインシュタイン塔の外観は、音楽に造詣が深かった設計者メンデルゾーンがバッハの音楽から着想を得て実現したという。

入り口のガラス越しに見えるアインシュタインの顔像
ドイツ地質学研究センター内に置かれたアインシュタイン塔のモデル

プロイセン科学アカデミーの会員となってベルリンで教鞭を取っていたアインシュタインは1930年にこの研究パークから5kmほど離れたカプート村に別荘を建て、そこで夏を過ごした。カプート村は私が住んでいる村なので、ローゼン隊員に「今日、チカさんはアインシュタインと同じルートでここに来たんじゃない?」と言われて、あっ、確かに!とちょっと感動。しかし、周知のようにアインシュタインは別荘建設からわずか2年後の1932年に米国を訪問したまま、ドイツには戻らなかった。そしてアインシュタイン塔を設計したメンデルゾーンもまた、1933年に英国を経てパレスチナへ移住し、最終的には米国に渡っている。

 

ところで、アインシュタイン塔の前の地面には、ヒトの脳をかたどったブロンズ製のオブジェが埋め込まれている。実際のヒトの脳よりもずっと小さいので、真剣に探さないと見過ごしてしまうのだが。このオブジェは3sec-Bronzehirn (3秒のブロンズの脳)と呼ばれていて、心理学者エルンスト・ペッペルの意識理論からインスピレーションを得たベルリンのアーチスト、フォルカー・メルツが作成したものだという。それはどんな理論なんだろうとちょっと検索してみたところ、私たち人間が感じている時間の連続性というのはたぶん錯覚に過ぎない、という理論らしい。人間の意識は実はわずか3秒しか持たず、その3秒づつの内容をつなぎ合わせることであたかもそれらが連続しているように感じるだけ、だとか。詳しく調べていないので誤解があるかもしれないが、どうもそんな理論らしい。

でも、その理論がアインシュタイン塔となんの関係があるんだろう?そういえば、さらにこの脳のオブジェから着想を得て書かれた推理小説というものも存在する。”Kellers Gehirne Ein Telegrafenbergkrimi“と題されるポツダムのご当地推理小説で、実は以前なんとなく気になって買ってうちの本棚にあるのだけど、まだ読んでいない。読まないと。

それにしても、建築家メンデルゾーンがバッハの音楽を聴いてインスピレーションを得、アインシュタインの相対性理論実証のための塔を建て、それとどういう繋がりなのか知らないが、心理学者の理論からインスピレーションを受けたアーチストが脳オブジェを作り、その脳オブジェから着想を得た作家が推理小説を作り、、、、。様々な異なる脳をした人たちの間でアイディアがリレーのバトンのように受け継がれ、世界が形作られていく。そして、私がその壮大なリレーに想いを馳せながらこうして駄文を書いてブログにアップし、それをまたどこかの奇特な方が読んで、もしかしたらちょっと刺激を受けて新しい何かを生み出す可能性だって全くないとはいえない。ああ、世界のなんと不思議で素晴らしいことよ。アイディアが泉のように湧き出し絡み合う研究パークの豊かさよ。

はっ!どうやら妄想ワールドに入りかけているようだ。暑さのせいかもしれない。

 

パーク内には素敵なカフェもある。カフェのテラスでコーヒーフロートでも飲んで涼を取ろう。

 

ポツダムのアインシュタイン学術研究パークは静かな森の中にあり、規模も散策にちょうど良い。建物を眺めるだけでも楽しいし、パンフレットや立て看板の説明を読めば知的刺激をたっぷりと得ることができる贅沢極まりない空間だ。

 

お知らせです。

このたび、ベルリンを拠点に長年活躍されて来たライターの久保田由希さんと一緒に自費出版で「ベルリン・ブランデンブルク探検隊シリーズ 給水塔」を出版しました!

町歩きが趣味の久保田さん、ブランデンブルク州内をあてもなくうろつくのが大好きな私。似たようなことが好きだよねと、二人で探検隊を結成しました。ベルリンの周辺に広がるブランデンブルク州は観光地としてはほとんど知られていません。その未知のブランデンブルク州を歩き、面白いもの、素敵なものを見つけたら写真を撮ってお互いに見せ合う。ときどき一緒に知らない町へ行ってみる。楽しいので、「#ブランデンブルク探検隊 」とタグをつけてTwitterで発信し始めました。最初は面白半分だったのですが、いざ名前をつけたら結構真剣に。

「ベルリンとブランデンブルクの給水塔をテーマにした本を作ろう!」

気づいたらどちらからともなく言い出し、私達の本づくりプロジェクトは走り出していました。

でも、なぜそもそも「給水塔」なの、って?

ご興味のある方は、以下の記事をお読みください。

半年ほどかけて作業し、ついに出来上がりました。

A5版、オールカラー全48ページ。久保田さんがベルリンを、私がブランデンブルク州を担当し、両州合わせて85基の選りすぐりの給水塔を紹介しています。掲載写真はすべて、自分達で撮影しました。文章も分担して書いています。それを、デザイナーの守屋亜衣(@ai_moliya)さんが素敵な本に仕上げてくださいました。表紙の写真は久保田さんのお気に入りの給水塔の一つ、ベルリン・マリーエンドルフ地区の給水塔。

裏表紙にはブランデンブルク州の3つの給水塔(ベーリッツ、ニーダーレーメ、プレムニッツ)。

本を作ると決めた当初は、給水塔の写真をひたすらたくさん撮影してカタログのように並べるつもりでした。給水塔って見た目が素敵だよね、というのがそもそも始まりだったから。でも、給水塔巡りをしているうちに、私たちの中で何かが変化していきました。給水塔は見た目の魅力だけでなく、それらが建てられた背景もとても面白いのです。なぜそこに給水塔が建てられたのか。それはいつ建てられ、それから現在に至るまでの間、誰にどのように使われて来たのか。給水塔を通してベルリンそしてブランデンブルク州各地の過去が見えて来ます。給水塔というものに着目しなければずっと知らないままだったかもしれないベルリンとブランデンブルクの面白さ。それを伝えたいと思いました。

だから、この本は写真で様々な形状の給水塔を紹介しながら、それらの背景についても説明しています。

目次と掲載給水塔マップ

本書を手に取ってくださった方が実際に掲載給水塔を見に行くことができるよう、所在地情報も記載しています。首都ベルリンには数多くの給水塔があるので、ベルリンにお住いの方、または旅行で来られる方に一味違う町歩きのヒントを提供する一冊に仕上がったのではないかと思います。ブランデンブルク州はかなり広く、実際に見て回るのは難しいかもしれませんが、日本語の情報が極めて少ないブランデンブルク州とはどんなところなのか、想像を巡らせ、足を運ぶきっかけにして頂ければ幸いです。

すごくニッチでマニアックな内容ですが、Twitterで事前告知したところ、多くの方にご予約を頂きました。ありがとうございます!!ドイツ及び欧州在住の注文者の方々には発送を開始しています。日本にお住いの方はもうしばらくお待ちください。

ご購入希望の方には価格10ユーロ(日本円価格は1200円の予定)+ 送料実費でお送りいたします。Twitterのメッセンジャーから私(@ChikaCaputh)または久保田さん(@kubomaga)までご連絡ください。もしくはこの記事のコメント欄をご利用ください。(自費出版のため完全限定部数で印刷していますので、在庫がなくなり次第、販売を終了致します。あらかじめご了承ください)

さて、このようにして出来上がった「ベルリン・ブランデンブルク探検隊シリーズ 給水塔」ですが、完成と同時に久保田さんは長年住んだベルリンを離れ、日本へ本帰国されました。ベルリンを拠点に数多くの素敵な本や記事を執筆されて来た久保田さんがベルリンを離れることを残念に思われる人がたくさんいるでしょう。私ももちろん、その一人です。でも、久保田さんが日本に拠点を移されても、探検隊は解散ではありません。ベルリンやブランデンブルクと久保田さんの縁が切れるわけではなく、またちょくちょく戻って来てくださるそうです。

ですから、私たちの「ベルリン・ブランデンブルク探検隊シリーズ」は続きます。今後、いろいろなテーマで展開していく予定です。