前回の記事に書いたイエナのカール・ツァイス光学博物館を見た後は、同市内にあるオットー・ショットの邸宅、SCHOTT Villaへ向かった。

ショットの邸宅は現在、ミュージアムとして公開されており、Schott AGが管理している。

オットー・ショットは「イエナ・ガラス」を開発し「ショット硝子工業」を創立した化学者である。

1933年、ヒトラーが政権を獲得すると、ショットのガラス工場もナチスの管理下に置かれたが、ショット自身はナチ党とは距離を置いていた。戦後、ロシア軍がイエナに迫ると、アメリカ軍はショット硝子工業の経営者及び技術者41人に西ドイツのHeidenheimへ移住するよう命じた。彼らは最低限の身の回りの物だけを手にトラックに乗せられ、涙ながらにイエナを後にしたという。

サンルームに張られたスクリーンでショットについてのショートフィルムを見ることができる。

オットー・ショットは考古学に造詣が深く、古代ギリシアやローマの考古学調査に資金援助していた。邸宅内にはショットの考古学コレクションが展示されている。

前の記事にも書いたように、イエナにおける光学産業の発展は、ショットが自らのガラス研究の成果をエルンスト・アッべに提示したことがきっかけだったが、その際にショットがアッべに宛てた初めての手紙が見られる。

直筆のドイツ語の手紙、特に年代の古いものはとても読みにくいことが多いのだが、ショットの筆記は判読しやすく、私にも読めた!

このショットの邸宅は戦後、ロシア軍がめぼしいものを持ち去った後、DDR時代には幼稚園として使用されていた。ドイツ統一後に一旦、空き家となり、その後大掛かりなリフォームを経て、現在の状態となっている。


 

 

久しぶりにベーリッツにあるサナトリウム廃墟、Beelitz-Heilstättenへ行って来た。

ベルリン・ブランデンブルクでは廃墟ツーリズムが人気だが、この廃墟は規模が大きく、ベルリンからのアクセスも良いことから特にポピュラーだ。20世紀初頭、結核患者の療養施設として建設された建物群である。

 

 

我が家から近く、今住んでいるところへ引っ越して来た10年前、散歩の途中に偶然見つけた。当時はまだ観光化されておらず、そのときは人通りもほとんどなかったので、ボロボロに崩れた暗い建物の内部に見える病院の名残りに背筋がゾーッとしたのを覚えている。現在はフェンスに囲まれており、入場料を払って見学する。140ヘクタールの敷地には、かつての療養施設や外科病棟、食堂、自家発電所などの多くの建物が崩れかかった状態で残っているが、現在は複数の所有者が異なるツアーを提供している。

今回はBaum & Zeitが敷地内に建設した空中遊歩道(Baumkronenpfad)を歩いてみた。

 

高さ40メートルのタワーの上からは、敷地内のほぼ全体を見渡すことができる。

 

遊歩道の高さは地上23メートル。このような遊歩道が整備されて観光地化されたことで、以前のように「見てはいけないものを見てしまった」ときのようなドキドキ、ゾクゾクずる感じは失われたが、廃墟を真横から見たり、上から覗き込むことができるようになった。

 

 

 

遊歩道を歩いた後は、ガイドツアーに参加した。いろいろなツアーがあるが、今回参加したのは「外科病棟ツアー」。このサナトリムが建設された背景には、19世紀の終わりに産業の発展に伴ってベルリンに大量の労働者が流入したことがある。急激に人口が増えて住宅難となり、多くの人々は劣悪で不衛生な住環境で生活していたため、結核が蔓延した。ビスマルクにより健康保険制度が創出され、結核患者の療養施設として作られたのがこのサナトリウムである。約1200人の患者が収容可能で、当時は国内最大規模だった。

1900年から1930年までは、主として健康的な生活により免疫力を高めることが「治療」であり、栄養のある食事、自然に囲まれた静かで空気の清浄な空間が提供され、リラックスや運動が中心だった。現在のクアハウスの原点と言えるかもしれない。1930年からは外科治療が試みられるようになり、その後、最初の抗生物質であるストレプトマイシンが発見されるまで続けられた。

 

 

 

 

手術室。天井はガラス張りで光がたくさん入る造りになっており、換気扇も備わっている。

 

薬品などを入れてあった戸棚。

 

 

現在は荒廃しきっているが、当時は近代的で美しい建物であったことが伺える。

 

第一次・二次世界大戦中は負傷兵の治療のための病院として使われ、アドルフ・ヒトラーも入院していたことがある。第二次世界大戦後はソ連軍が使用した。1990年の末から翌年の春にかけてはエーリッヒ・ホーネッカーもここで病に伏せていた。

 

外科棟ツアー以外に、サナトリウムでの日常生活を知るツアーやフォトツアーなどもある。詳しくはこちら

 

先日、ドイツの公共放送、ARDでロベルト・コッホの時代のベルリン医科大学を舞台にした連続ドラマ(下動画)を放映していたのを見たばかりなのと、そのドラマに出てきた青い痰壷をこの間訪れたドレスデンの衛生博物館(記事はこちら)を見たこともあって、頭の中でいろいろ繋がって面白かった。

 

このドラマには、ロベルト・コッホ、エミール・フォン・ベーリング、北里柴三郎(日本人俳優)などが登場する。

 

このサナトリウム廃墟のあるベーリッツは白アスパラの名産地で、子ども連れで楽しめる大きな観光農園、Spargelhof Kleistowがある。農園のすぐそばの森の中には本格的なロープアスレチック場も人気。白アスパラの季節に農園と廃墟見学を組み合わせるのがオススメ。

 

 

 

 

最寄の町、ポツダムからベルリンへ出るときにはいつも、都市間を結ぶRegionalbahnという電車を利用する。この電車はブランデンブルク市が始発で、フランクフルト(オーデル)が終点なのだが、ときどき終点がEisenhüttenstadt(アイゼンヒュッテンシュタット)となっていることがある。

私は、このアイゼンヒュッテンシュタットという町が以前から気になっていた。アイゼンヒュッテンシュタット。名前の響きに惹かれるものがある。どんな町なのだろうか。

 

しかし、誰かがアイゼンヒュッテンシュタットについて話しているのを聞いたことがない。誰も話題にしていないが、ベルリン行きの電車にそのまま乗っていれば行き着く町。どうしても気になるので、調べてみた。すると、この町は実は特別な町であることがわかった。しかも、誰も話題にしていないどころか、アイゼンヒュッテンシュタットを大いに話題にしている人がいるのである。それは、トム・ハンクスである。

 

アイゼンヒュッテンシュタットというのは、第二次世界大戦後、旧東ドイツ(DDR)で誕生した初の社会主義モデルシティであった。社会主義の理想の元に誕生した計画都市である。DDRの工業を支える拠点として、ここに新たに大規模製鉄所、Eisenhüttenkombinat J.W. Stalin(スターリン製鉄コンビナート)が建設され、その労働者25000人が生活する町として作られた。ロシアのマグニトゴルスクがモデルとなったという。単なるベッドタウンではなく、政治的な機能が重視され、人々が社会主義の実現のために「活動」することを目的とした空間作りがなされた。この町は当初、スターリンシュタット(スターリンの町)と名付けられたが、後に製鉄(Eisen)の町だからということでEisenhüttenstadtに改名されたそうだ。

 

このアイゼンヒュッテンシュタットを、俳優のトム・ハンクスが訪れたらしい。しかも、ハンクスはトークショーでアイゼンヒュッテンシュタットについて、熱く語っているではないか!

 

 

これは、行かなくては!!

 

ということで、アイゼンヒュッテンシュタットへ行って来た。この町は旧東ドイツの中でも特に東にある。

 

 

 

旧東ドイツの町というのは、面白みのないプレハブ団地が並び、それが老朽化してパッとしない景観になっているところが少なくない。社会主義時代の計画都市だというアイゼンヒュッテンシュタットは、その最もたるものなのではないかと想像していたのだが、実際に行ってみると、イメージとは違っていた。

 

まず、メインストリートであるリンデンアレーにあるツーリストインフォメーションで町の地図をもらう。

 

 

町の中心部は4つのWK(Wohnkomplex)という居住区に分かれており、観光案内所を出発点に徒歩で回ることができる。さっそく、WK Iから歩いてみた。

 

シンプルな四角いアパートが並んでいる。

 

記念広場のモニュメント。ここはかつて「ドイツ・ソヴィエト友好広場」と呼ばれていたそうだ。

 

広場をぐるりとアパートが囲んでいる。この建物は同じ旧社会主義国ポーランドのワルシャワで見たアパートの造りとそっくりだ。

 

WK IIに入ると、建物の雰囲気が変わった。

 

 

 

この居住区では建築にクラシックな要素が取り入れられ、なかなかお洒落である。

 

中庭はどこも、とても広々としている。

 

かつて「Aktivist」という大食堂だった建物。すごいネーミングだなあ。現在は左側の一部のみがレストランになっている。

 

WK IIIへ進もう。

 

この居住区では、出窓など「ドイツらしさ」が取り入れられ、ややロマンチックな雰囲気。

 

 

WK IVは外装のリノベーションが済んでいないため、散策ルートに含まれていなかった。メインストリートに戻る。

 

 

メインストリートはいかにもDDR!である。ベルリンの壁崩壊直後に訪れた旧東ドイツの雰囲気がそのまま残っている感じで、妙に懐かしい。

 

 

 

 

 

いや〜、なんか、いい感じだね。

 

町の作りを見て歩くだけでもかなり面白いのだが、この町には大変興味深いミュージアムがある。

 

Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR (DDR日常文化資料館)

 

保育園の建物を改装したミュージアムで、DDR時代の東ドイツ市民の生活について知ることができる。同じようなミュージアムはベルリンにいくつもあり、どれも興味深いが、ここもかなりオススメである。中は写真撮影は禁止なので、展示の内容を紹介できないのが残念。

 

このようにアイゼンヒュッテンシュタットは特徴ある町で、歴史的遺産として訪れる価値がある。日本人にはおそらく全くといっていいほど、そしてドイツ人の間ですら知名度が高くないが、トム・ハンクスに「発掘」され、Iron Hut City(Eisenhüttenstadtの直訳)として米国で紹介されたのをきっかけに、観光地として売り出そうとしたようだが、いまひとつ成功していないようだ。

 

ポーランドとの国境の町、フランクフルト(オーデル)市からわずか25kmなので、フランクフルトを訪れる人には是非、足を延ばして欲しい。

 

 

 

 

 

春の訪れとともに、出かけたい欲が急激に高まって来た。

冬の間も観光ができないことはないが、ドイツの冬は日が短く、すぐに真っ暗になってしまう。天気が良くない日が多い上に、観光できる時間が限られるとなると、遠出しにくい。特に、屋外や地方のマニアックな観光スポットは、観光客が少ない冬季にはサービスを休止しているところが多い。冬は旅行好きにはもどかしい季節だ。

 

3月の声を聞いたら、居ても立ってもいられなくなった。ようやくシーズン開幕だ。さて、週末にはどこへ行こう?

 

訪れたい場所リストの中から狙いをつけたのは、ブランデンブルク州南部とザクセン州東部にまたがる地域、ラウジッツである。褐炭の豊富なこの地域は、まだドイツが東西に分かれていた頃、旧東ドイツ(DDR)のエネルギー産業を支える重要な工業地帯だった。1990年のドイツ統一後、旧東ドイツの産業は急激に衰退し、多くの発電所や工場が閉鎖されたが、施設のいくつかは産業遺産に指定され、観光スポットになっている。特に、褐炭採掘場や関連施設を結ぶ「エネルギールート」は、ラウジッツ産業観光のハイライトであるらしい。よしっ、このスポットのどれかを見学に行こう!

 

しかし、やはり少々気が早かったのか、スポットの多くは4月にならないとオープンにならない。なかばがっかりしつつ、どこかないかと片っぱしからリンクを開いてチェックしていたところ、3月から訪問者を受け付けているスポットがようやく見つかった。Erlebniskraftwerk Plessa (プレサ発電所ミュージアム)である。ウェブサイトを見ると、個人ガイドツアー申し込み可とある。早速、オンラインで私と夫の二人分を申し込んだ。

 

翌日、ミュージアムから電話がかかって来た。

「ハロー。こちらはプレサ発電所ですが、ガイドツアーに申し込まれたのはあなたですか」
「はい、そうです」
「明日、ツアーをご希望とのことですが、他の週末にしてもらえませんかね?」
「エッ!?明日は無理なのですか?」

張り切っていたのに、いきなり出鼻をくじかれた。

「無理っていうか、冬の間、ミュージアム閉めてたもので、水が出ないんですよ。水道管のトラブルがあって、まだ修理してなくて」
「できれば明日伺いたかったんですよね。水が出ないと、ツアーに支障があるんでしょうか」
「トイレに行っても、流せないですよ」
「トイレ?問題はそれだけですか?」
「まあ、そうです」
「トイレなんて、いいですよ。どうにかしますから」
「そうですか?だったらいいけど。じゃあ、明日、お待ちしてますね」
「はい、よろしくお願いしますっ!」

よかった。無事、ツアーを実行することができそうだ。

翌朝、早起きして車に飛び乗った私と夫は、ブランデンブルク州を南下し、プレサへ向かった。

 

 

 

到着。大きくて全体を一枚に収めることができないが、煙突が2本ある赤レンガの建物である。

 

 

 

ツアー予約時刻の10分ほど前に着いたら、まだ門が閉まっていた。カメラを持って周囲をウロウロしていると、中年男性のグループが声をかけて来た。

「あなたもここで写真を撮るんですか?」
「私たちは見学ですよ。写真も何枚か撮るつもりですが」
「私たちは写真を撮る目的で来たんですよ、ベルリンから。ここ、凄いって聞いたからね」

ベルリンの一眼レフ愛好家のグループらしい。

まもなくミュージアムの人が自転車に乗ってやって来て、ツアーが始まった。

プレサ火力発電所は1927年に運転を開始し、ドイツ統一の2年後に閉鎖された。現在、ほぼ操業開始時のままのかたちで残っている発電所としては、欧州で最も古いものの一つだという。

 


褐炭を積んだワゴンがここに入るとワゴンの側面が開き、褐炭がレール左右の穴に落ちる。

 

褐炭を運び入れるのに使われた車輌

 

運転席

 

しかし、冬場には褐炭がワゴンの中で凍りつき、うまく落ちないことがよくあった。そんなときにはワゴンよりも高い位置に設置したStöckerbühneと呼ばれるプラットフォームから長い鉄棒でワゴンにくっついた褐炭をつついて落とす作業が必要だった。そこに展示してある棒は長く、恐ろしく重い。こんなものを誰が持って作業できるというのだろうと不思議に思ったが、兵士が動員されていたという。

 

 

穴に落ちた褐炭はいったんそこに溜めておき、そのうちの一定量がそのさらに一段下に落ちて燃焼炉に運ばれるのだが、ここでも側壁に引っかかってうまく落ちないことがある。引っかかった褐炭は壁の外側についた三角形の窓を開け、棒で落とす。この作業は女性労働者がやっていたそうだ。

 

 

そして、褐炭はこのようなコンベヤーで燃焼炉に運ばれた。

 

建物の中はどこもかしこも、すごい光景である。年代物の設備の多くがかなり良い状態で保存されている。ガイドツアーの内容も興味深いが、工場萌えフォトグラファーには堪らない場所に違いない。実際、ベルリンから来たフォトグラファー達は興奮して写真を撮りまくっていた。機関室の隅にはモダンなシステムキッチンが備えてあったので不思議に思い、なぜそんなものがあるのかとガイドさんに聞くと、ときどきこのミュージアムはパーティ会場として貸し出しするのだという。赤や紫の照明で照らせば最高にクールだろう。

 

一つ一つ説明を加えると記事が長くなりすぎるので、ここからは写真のみ。残念ながら私はこの手の写真が得意ではないので(他の写真も別に上手くはないが、、、)、マニアックさがうまく伝わらないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

私はこのコントロールルームに痺れてしまった

 

東ドイツの産業史という観点からも非常に興味深いミュージアムである。DDR時代、この発電所は多くの地域住民を雇用していた。発電所での仕事の大部分は重労働である上に、建物内は熱気や粉塵が酷く、健康への影響も相当であっただろう。その代わり、賃金は比較的高く、年金の条件も良かったという。発電所の閉鎖により人々は職を失ったが、この建物がミュージアムとして一般公開されるようになり、現在はかつての被雇用者数の約1/3にあたる人数が働いている。

 

さて、発電所の見学を終えた私たちは、周辺を探索してみた。

 

発電所のすぐ隣はソーラーパークになっている。これも時代を感じさせる光景だ。褐炭による発電はエネルギー効率が低く、環境への負荷も非常に大きい。プレサ発電所のエネルギー効率はなんと、わずか18%。しかし、旧東ドイツ時代には褐炭という資源に頼らざるを得なかった。環境保護など二の次であったに違いない。

 

発電所から少し離れた場所には、発電所と褐炭採掘場の事務所と思われる建物があった。

 

そして、その先は森なのだが、森のでこぼこ道を車で走っていたら木々の向こうに湖が見えて来た。ふと湖面に目をやり、

 

な、なんだあれは!?

 

衝撃的な光景に慌てて車を止め、外に飛び出した。なんと、湖の水が真っ赤なのである。

 

 

 

まるで血のように赤い!!一体、なぜ?

 

 

 

「わかった、これは褐炭の色だ!」と夫が叫んだ。なるほど、、、。不思議な景色である。

 

この後、近郊の露天掘り場を見るつもりだったのだが、森の中で迷ってしまい、残念ながら見つけられなかった。その代わりにLauchhammerという場所にこんなものを発見!

 


これもこの地方の産業遺産の一つで、Biotürme(バイオタワー)と呼ばれるものらしい。ここにはDDRの重工業の礎となった巨大なコークス工場があった。工場が廃止され、設備が解体されたとき、この24のタワーのみが残された。なぜコークス工場なのにバイオタワーなのかというと、コークスを製造する際に出るフェノールを多く含んだ汚水をこのタワーの中でバクテリアを使って浄化していたから。それにしても、たいして何もなさそうな田舎にこんなものが突然そびえ立っているのだから凄い。

 

このように、ラウジッツ地方には面白い産業遺産がたくさんあるのだ。宮殿や教会のような、いわゆる美しい建物とは一線を画す観光スポットだが、DDRの産業について知ることができ、大変興味深い。