UNESCO世界遺産ドロミテ旅行、前回の記事の続き。

プレダッツォのドロミテ地質学博物館を出るときに館内にあった観光パンフレットの中にブレッターバッハジオパーク(Geoparc Bletterbach)というジオパークのパンフレットがあるのに気づいた。地図で確認すると、そう遠くない。その日はヴェローナ空港からドイツの自宅に帰ることになっていたが、飛行機の時間まで少し時間があったので寄ってみることにした。

パンフレットによると、ブレッターバッハ(Bletterbach)とはコモ・ビアンコ山(ラディン語ではヴァイスホルン)から流れる川が数千年の年月をかけて形成した深い峡谷の名である。ジオパークはいくつかのハイキングルートから成り、峡谷を歩きながら険しい崖の地層を観察することができるらしい。4000年という大きな時間スケールの中でかたちづくられたドロミテ山塊の内部を覗くことができるというわけ。それは是非とも歩いてみたい。

ビジターセンターの建物

ビジターセンターでハイキングルートについて聞いてみたところ、いくつかのルートがあるが、峡谷を歩くルート(以下の地図の赤いラインのルート)は1周するのに3、4時間かかるという。そこまでの時間の余裕はなかったので、残念ながら諦めることに。でも、谷を見下ろすビューポイントまでだったら1時間あれば往復できますよということだったので、ファミリー向けの短いハイキングルート、the Saurian trailを歩くことにした。

かつてここに生息した古生物や峡谷の地層を構成する岩石の情報を読みながら、緩やかな山道を20分ほど歩くと、崖を見下ろすビューポイント、Butterlochに着く。

ブレッターバッハの峡谷には岩石の層序がそのまま保存されており、剥き出しになった崖にその重なりを見ることができる。主な岩石層はコモ・ビアンコ(ヴァイスホルン)山の山頂から順に、浅い海に堆積した石灰藻の遺骸から成る白っぽい岩石のContrin formation、2億5200万〜2億4500万年前に海岸沿いで堆積した石灰岩、泥灰土、砂岩そして珪質粘土岩の細かい層から成るカラフルなWerfen formation、ペルム紀に珊瑚礁で生成された、石膏を含む Bellerophon formation、斑岩の侵食と堆積によってできた砂岩の層であるGardena sandstone、そしてその下にある、2億8000万年〜2億7400万年前の火山噴火によって堆積し、砂岩の元となった石英質斑岩、Borzano quartz porphyryだ。

それぞれの岩石層と、それらが形成された時期の環境についてはビジターセンター内の展示に詳しく説明されている。Werfen formationとBellerophon formationの境目は、古生代ペルム紀と中生代三畳紀の地質時代上の境目と一致している。Bellerophonというのは、この時代に生息していたカタツムリの名前である。ペルム紀末のおよそ2億5100万年前に起こった生物の大量絶滅で地球上の海の生物の約90%、陸上生物の約70%が絶滅したとされる。ジオパークの地層から見つかる多くの化石からは絶滅した生き物についてだけでなく、大量絶滅の後、生命がどのようにして再び繁栄していったのかを知ることができ、世界的にも稀な学習の場となっているのだ。

ペルム紀に生息し、大量絶滅によって地球上から消えた爬虫類、パレイアサウルスの模型

パライアサウルスの足跡

火山岩、堆積岩、そして多様な変成岩から成るドロミテは「岩石の本」だと言われる。ブレッターバッハ・ジオパークは2016年から欧州宇宙機関(ESA)の宇宙飛行士らの訓練の場としても使われている。

峡谷ハイキングしたかったなあ。今回は時間が足りなくて残念。また今度!

 

ドロミテの地質について、ドイツ語の良いドキュメンタリーが見つかったので貼っておこう。

 

この記事の参考資料:

Geoparc Bletterbachのウェブサイト

UNESCO  パンフレット ドロミテ

イタリアのドロミテへ行って来た。東アルプスに属する山岳地帯ドロミテは2009年にUNESCO世界遺産に登録され、ハイシーズンにはかなり混雑するらしいが、6月上旬はシーズンには少し早く、滞在したのがPie Falcadeという小さな村だったこともあり、とても静かだった。この数年、すっかりジオ旅行にハマっているけれど、今回の旅は友人と会うのが主な目的で、滞在場所も友人が決めてくれたので、ほとんど下調べをせずに現地入り。それでも、軽くハイキングしてドロミテの自然の雄大さを感じることができた。

Passo di Valles峠からCol Margheritaハイキングルートを歩き、途中で振り返ったところ

 

途中の山小屋レストランRifugio Lareseiのテラスからモンテ・ムラツ方面を眺める

ドロミテの名は、18世紀末、この地方を訪れたフランス人地質学者デオダ・ドゥ・ドロミューDéodat Guy Sylvain Tancrède Gratet de Dolomieu)が、新しい岩石を発見したことに由来する。カルシウムとマグネシウムから成るその岩石はドロミューの名に因んで「ドロマイト(苦灰岩)」と名付けられた。うすい灰色をしたドロマイトは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が衝突してアルプス山脈を形成する以前に、両大陸の間にあった熱帯の浅い海海に堆積した石灰岩中のカルシウムがマグネシウムに置き変わることでできたものだ。

そうしてできたドロマイトは長い年月の間に氷河や風、水で浸食を受け、尖峰を代表とする特異な自然美を作り出している。

というところまではドロミテへ行く前にもなんとなくは知っていたけれど、実際に現地に行ってみると、「ドロミテはドロマイトでできた山」なんていう単純な説明で片付けられるような場所ではないことがわかった。その成り立ちはものすごく複雑そうだ。ほんの数日、ハイキングしたりドライブしながら景色を見ただけでも風景の多様さに驚かされる。ドロマイトは海洋性の堆積岩だが、そのほかに斑岩など明らかに火山性のものも多く目にした。一体ここはどうなっているのだろう?

ダイナミックに褶曲した地層

パネヴェッジョ湖 (Lago di Paneveggio)の北側の山の岩も気になる

景色に圧倒されて、帰る前にざっくりとでもドロミテの成り立ちを把握したくなったので、プレダッツォ(Predazzo)という町にあるドロミテ地質学博物館(Museo Geologico delle Dolomiti in Predazzo)へ行ってみた。

田舎の公民館のような建物が地質学博物館

ドロミテの地質学博物館がなぜこの小さな町にあるのかというと、ここがドロミテの地質学研究の発祥の地であるかららしい。現在、この博物館が建っている場所から数十メートル離れたところには、かつて、”Nave d’Oro” (Golden Shipの意)という名のホテルがあった(現在は取り壊れていて存在しない)。19世紀、各国から地質学者たちがやって来てNave d’Oroに集い、ドロミテ山塊の調査を行ったのである。

ドイツの地質学者・博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトもここで調査をおこなった。

ベルリン出身の研究者、Fedor Jagorのノートブック

北のリエンツァ川、西のイザルコ川およびアディジェ川、南のブレンタ川と東のピアーヴェ川に囲まれたドロミテはいろいろな分け方があるようだが、この博物館の展示によると、ドロミテ山塊は9つのエリアに分けられる。

それぞれのエリアごとに地質学的特徴が異なり、やはり「ドロミテとは〇〇」とひとまとめに語ることは無理があるようだ。私たちが滞在したPia Falcade村は①と②と③の間、つまりドロミテのど真ん中に位置している。

1階フロアにはドロミテの各地に特徴的な岩石が展示されている。

ドロミテの岩石と地層は、海における堆積物の堆積と火山活動、そして造山活動という異なるプロセスを経て形成されて来た。

Dolomia principale

ドロミテ地方全体に見られる、ドロマイトが大部分を占める岩石層 、Dolomia principale(ドイツ語ではHauptdolomit)は、中世代後期三畳紀(約2億3700万年前から2億130万年前)の浅い海に堆積物が積み重なって形成されたもの。厚いところでは2200 mにも及ぶ。この時期にはさまざまな海洋生物や陸上生物が進化し、繁栄した。化石化したそれらの遺骸を含むドロミテの地層は、その後の新生代に起こったアルプス造山運動によって海面から高く押し上げられ、地表に露出した。山なのに海の生き物の化石が見つかるのはそのためである。

かつて、ドロミテの明峰ラテマール山は環礁だった

 

かつては環礁だったラテマール山の地層中に見つかった化石

魚の化石

 

ドロミテのあちこちで火山岩を目にする理由もわかった。上述のようにドロマイトが形成される以前のペルム紀は火山活動が非常に活発な時期だった。ドロミテでおよそ2億8000万年前に始まり2000万年間も続いたスーパーヴォルケーノの噴火活動は直径70kmにも及ぶボルツァーノカルデラを形成し、2000km2を超える広大な地域に大量の火山性堆積物を積らせたのだった。ドロミテの火山岩のうち特に多い石英質斑岩は、ドロミテの多くの町の石畳に使われている。

以上は博物館の展示(イタリア語、英語、ドイツ語の3ヶ国語対応)と、博物館ショップで買ったドロミテの地質史の本からわかったこと。でも、ドロミテの地質史はとても複雑で、ドロミテ地方のごく一部を見ただけで全体について把握するのはかなり難しい。ショップで買った本はよくまとめられているように思うのだけれど、残念ながらイタリア語版しかなく、GoogleLensをかざしてドイツ語に翻訳しながら読んだので、正確に理解できたかどうかは、ちょっと自信がない。でも、今後のさらなる理解のためにわかった分だけでもまとめておこうと思った次第。

 

ドロミテのジオパークGeopark Bletterbachの記事に続く。

 

この記事の参考文献:

Emanuelle Baldi (2020)   “Dolomiti    La Formazione di una Meraviglia della Natura

UNESCO  パンフレット ドロミテ

 

パレルモ港から夜行フェリーでナポリへ移動し、そこから北上してエミリア・ロマーニャ州で一泊し、ドイツの自宅に戻って来た。旅行記は前回の記事で終わりだが、今回のシチリア島とエオリエ諸島ロードトリップについてまとめてみよう。

1. まず、旅行記ではほとんど触れなかった食事について

シチリアの食べ物は本当に美味しかった。イタリアではそもそも食べ物の当たり外れはほとんどないし、地方ごとに郷土料理が発達しているのでどこで何を食べても美味しいけれど、私にとってはシチリア料理は今まで経験した中で最も素晴らしかった。何が良いかというと、あっさりしていて胃腸に負担がかからない。主張のある味というよりも、魚介類の出汁が効いていてしみじみと美味しい。

一番気に入ったのは「パスタ・コン・レ・サルデ (Pasta con le Sarde)」というイワシのパスタ。見た目は地味だけれど、実に美味しいシチリアの定番料理。イワシの他にアンチョビ、干し葡萄やフェンネル、松の実などが入っていて、チーズではなく炒ったパン粉がかかっている。この意外な組み合わせが絶妙なハーモニーを生み出していて旨い!お店によって味がかなり違うので、食べ比べするのが幸せだった。

シチリアでは英語はあまり通じず、イタリア語のメニューを見てもなんだかさっぱりわからずに適当にお店の人の勧めるものを注文することもあった。

適当に頼んだらマグロのからすみのパスタが出てくるとか、最高なんだけど。

甘味で気に入ったのはダントツ、カンノーロ(Cannolo)。筒状のクッキーの中にリコッタチーズのクリームが詰まっている。

ドイツのイタリア食材店でもよく売っているお菓子。でも、本場のは全然別物だと思った。その場でクッキーに冷たいクリームを詰めてくれる。チーズクリームだけれどさっぱりしてて、こんなに大きいのにぺろっと食べられてしまう。

なんでもかんでも美味しいので一つ一つ挙げているとキリがない。ただし、朝食は甘いものしかないことがほとんどで、それはちょっと(いや、かなり)辛かった。朝食はドイツの方がいいな〜。

2. 宿について

いろんなタイプの宿に泊まった中でアグリツーリズモが良かった。アクセスの悪い場所にあることも多く、ピークシーズンを過ぎていたため宿泊客は私たちだけということもあった。なのに夜になると、美味しいご飯を食べにどこからか人が集まって来る。ドイツでは経験したことのない現象で興味深い。

 

3. 移動について

私たちはドイツからほぼ全ルートを自家用車で移動した。観光地以外の場所も見たい私たちには正解。食材をたくさん買って帰るつもりだったので、車がないと難しいという理由もあった。美味しいオリーブオイルやその他の農産物を生産者から直接買うことができて満足である。でも、リーパリ島は坂道の勾配が大き過ぎて、運転した夫は大変だったと思う。シチリア島でも街中はカオスなので、よほど運転に慣れている人以外は車での移動はやめた方が良さそう。

 

4. 観光について

今回の私たちのメインテーマは「火山」で、火山地形を中心に観光した。エオリエ諸島の7つの島のうち、4つ見ることができたし、エトナ山もいろんな方面から楽しめたので大満足である。でも、当初の計画では自然だけ見られれば良いと思っていたのだけれど、古代ギリシアやローマの遺跡を見たらやっぱり面白くなった。シチリア島にはギリシア神殿や劇場などの遺跡が驚くほどたくさんある。青銅器時代の遺跡やフェニキア人の遺跡もあって、考古学的な見所に的を絞ったとしてもいくらでも見るものがありそうだ。さらに、バロックの街並み、アラビアの影響を受けた建物,etc.と文化的、美術的資源の多さ、多様さは半端でなさそうだったけれど、残念ながら私に下地がないので、もったいないけれど今回はほとんどスルー。でも、この旅をきっかけに地中海の歴史に興味が湧いたので、勉強してからまた来ようと思う。今回はパレルモを見なかったので、次回はパレルモを中心に建築物を見たり、博物館巡りができたらいいな。

5. 残念だったこと

何のトラブルもなく、とても楽しい旅だった。一つだけ残念に思ったことは、ゴミが多いこと。これまでいろんな国を旅行して来て、貧しい国へも見て来たので路上のゴミは見慣れているつもりだったけれど、シチリアのゴミは凄まじい。メジャーな観光地は比較的きれいなので、そういう場所にしか滞在しなければ見なくて済むかもしれないが、車で移動すると国道沿いに何十キロも延々と続くゴミの山に慄く。

人々のモラルの欠如だけでここまでの状態になるとは思えないので、構造的な問題なのだろうと想像する。とても気になって調べてみたら、シチリアにはゴミの焼却施設がないとか、ゴミの分別は導入されたが、プラスチックのリサイクル率は10%台だと書いてあるサイトがあったが、イタリア語が読めないので英語やドイツ語から得た情報で、確かなことはわからない。原因は何であれ、ショッキングで悲しい光景だった。

 

6. その他、シチリアならではの注意点

歩きやすい靴は超重要。シチリアはどこへ行っても硬い。坂が多く、地面は石ばかりなので、クッションの効いた歩きやすい靴を履いていないと、だんだん体が硬直して来る。幸い、履き慣れたスニーカーを履いていたので足は痛くならなかったが、地面が硬いだけでなく、なぜかシチリアの椅子は硬い椅子ばかり。深々としたソファーにはほとんど遭遇せず、宿でもレストランでも椅子は板張りかプラスチックだったので、筋肉を緩める機会がなくて背中がバキバキになってしまった。今度シチリアへ行くときはクッションを持参することにする。

 

これでシリーズ「シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ」は終わりです。いつかまたシチリアへ行きたい。

 

 

3週間に及ぶシチリア島とエオリエ諸島の旅を終えて帰路につく前に、最後に寄りたかった場所がある。それはトラパニとパレルモの真ん中あたりにある小さな海辺の村、トラッぺト(Trappeto)村。観光地として知られている場所ではない。人口3000人ほどの小さな自治体だ。なぜ、そんな村に寄りたかったのかというと、50年前に夫が両親とともに一夏を過ごした場所だから。

夫の両親は東ドイツ出身で、ベルリンの壁ができる少し前に西ドイツへ逃亡した。着の身着のまま東ドイツを脱出したため、最初のうちは経済的に大変苦労したそうだ。金属加工職人としてのスキルを持っていた義父は、やがて刃物生産で有名なゾーリンゲン市の刃物工場に職を得、安定した生活ができるようになったが、東ドイツに残った親や兄弟に西側の物資をせっせと送る日々が続き、経済的に余裕があるとは言えない状態だった。高度成長期にあった西ドイツでは海外で休暇を過ごすことが一般的になりつつあり、太陽を求めて遠くスペインやイタリア、ギリシアまで出かけて行く人が増える中、義両親はどこへも出かけたことがなかった。

義父の勤めていた工場にはシチリア島から出稼ぎに来ている男性たちがおり、義父はその一人、サルヴァトーレという名の男性と特に親しくしていた。ある日、「あーあ、自分もイタリアやスペインに休暇に行きたいもんだよ」と義父が呟くと、サルヴァトーレ氏が「だったらシチリア島へ行ったらいい。僕の家を使っていいよ」と気前よくシチリア島のトラッぺト村にある自宅の鍵を貸してくれたのである。そこで、義父は取れるだけの休暇をまとめて取り、妻と当時5歳の息子を連れてシチリアへ出発した。まだ自家用車を持っていなかった頃のこと、ゾーリンゲンから電車やバスに揺られて行ったという。

トラッぺト村は貧しい漁村だったが、村の人たちは義両親と夫を「サルヴァトーレのドイツでの同僚一家」として大変歓待してくれたという。3人はサルヴァトーレ氏の家でのんびりとした、とても楽しい夏を過ごしたらしい。義母によると夫も村の子どもたちと毎日遊び回っていたそうだ。

質素ではあったけれど、太陽と青い海を満喫した6週間。素晴らしい思い出だと義両親は今でもとても懐かしがっている。夫は50年前のその夏のことをほとんど何も覚えていないが、両親と旅行に出かけたのはそのたった一度のシチリア休暇だけなので、シチリア島は夫にとって特別な存在であるらしかった。だから、今回、シチリア島へせっかく来たのなら、是非ともトラッペト村を見てみたいと思ったのである。

 

トラッペト村の小さな港。着いたのがお昼過ぎでシエスタの時間だったからか、村は静まりかえっていた。

夫は感慨深げな表情であたりの景色を眺めている。「少し思い出した気がする、、、」

50年前に夫が両親とともにこの海で遊んだ後しばらくして、サルヴァトーレ氏は結婚し、ゾーリンゲンを離れた。義両親もまた引っ越したのでそのまま疎遠になってしまい、現在、サルヴァトーレ氏がどこで何をしているのかはわからないそうだ。もしかしたら、この小さな村のどこかに今、サルヴァトーレ氏がいるのかもしれない。探してみようか?と夫に言ってみた。今はサルヴァトーレ氏も高齢になっている。「自分のことを忘れてはいないかもしれないが、お互いに顔もわからないからなあ」と夫は首を横に振った。

 

港にレストランがあった。近づくと何やら看板のようなものがかかっている。その文字を読んでびっくり!

「ゾーリンゲン市トラッペト地区」と書いてあるのだ。これは一体どういうことだ?この黄色い看板はドイツの地名標識にそっくりである。でも、なぜゾーリンゲンの標識がシチリア島に?それに、トラッペトはもちろんゾーリンゲン市の一地区などではない。

気になって調べたところ、興味深いことがわかった。西ドイツは第二次世界大戦後、「ガストアルバイター(ゲスト労働者)」という名で外国から多数の出稼ぎ労働者を受け入れたが、その初期はイタリアからの移住者が多かった。トラッペト村は最初にガストアルバイターを送り出した村の一つで、男性たちは集団でゾーリンゲン市に渡っていたのだった。

現在、当時のドイツのガストアルバイター政策はその後、社会問題を生み出したと否定的に語られることが多い。その是非についてここで論じるつもりはないが、良いことばかりでなかったことは想像できる。しかし、「トラッペト村からのガストアルバイター達は真面目な働き者で、職場での関係は良好だった」と義父は常々言っていて、個人レベルでは義父とサルヴァトーレ氏の間のような心温まる交流もあったのだ。そして、この黄色い地名標識がそれから50年経った今もここに置かれているということは、トラッペト村の元ガストアルバイターにとってもゾーリンゲンでの日々はきっと悪い思い出ではないのだろうと思わされ、関係ない私もなんだかちょっと嬉しかった。

夫が義両親に「今、トラッペト村にいるよ」と電話したら、義母が「村に入ってすぐのところ、右側に食料品店があるでしょう?」と言うのだが、それらしきものは見当たらなかったが、小さなカフェがあった。

記念にカフェで取った軽食。コーヒー味の冷たい飲み物があまーくて、独特の味だった。この味が私に取ってのトラッペト村の思い出になるのかもしれない。

高齢となった義両親はもう旅行に行くことはできない。彼らの代わりにここへ来ることができて良かった。さあ、ドイツへ帰ろう。

 

 

ドイツを出発して車でイタリア半島を南下し、シチリア島に渡ってそこからエオリエ諸島へ行き、再びシチリア島に戻って海岸地域を時計回りに移動しながら南西のレアルモンテ海岸までやって来た。帰る日は決めておらず、疲れたら帰路につくつもりだった。3週間が経過し、毎日かなりの距離を動き回ったのでそろそろ体力の限界に近づいている。スカーラ・ディ•トゥルキの白い崖を眺めながら泳ぎ、「明日はドイツに帰ろう」と決めた。

夜行フェリーでパレルモ港から出発することにしたので、あと丸一日ある。シチリア島の西海岸、トラパニ(Trapani)からマルサラ(Marsala)にかけて広がる天日塩田を見てから帰ることにした。西シチリアの沿岸部には3000年に渡る採塩の伝統がある。交易の民フェニキア人がシチリアに入植した時代から、塩は「白い金」と呼ばれて珍重されていた。近代以降の都市化に伴う環境破壊や1965年にこの地方を襲った大洪水によって塩田が被害を受けたことなどにより採算が取れなくなり、今では大規模な採塩産業は廃れてしまったが、塩沼は自然保護区に指定されていて、小規模ながら伝統的な塩づくりが続いているという。保護区の一つ、 Naturreservats Salinen von Trapani und Pacecoにある塩博物館(Museo del sale)に立ち寄ってみることにした。

風車のある建物の内部が塩博物館で、伝統的な天日採塩についての展示や道具などを見ることができる。

塩田という言葉は知っていたけれど実際に見るのは初めて。

海岸沿いに四角く区切られた深さの違う池が並んでいる。

海水は「アルキメディアン・スクリュー」と呼ばれるポンプを使って陸に引き入れる。

博物館内のモデル。風力でスクリューを回転させる。

それぞれの池は水路で繋がっており、大きくて深い池からより小さく浅い池へと順に海水を移動し、太陽熱で水分を蒸発させて塩分を濃縮していく。太陽に恵まれ、アフリカからの熱風が吹くシチリアの気候だからこその採塩法だ。

池の一つは水がピンクっぽい色をしていた。ハロバクテリアという高塩環境下で生育する細菌が原因らしい。

最後に結晶池で結晶化させた塩を収穫する。今まで天然塩にあまりこだわったことがなかったけれど、見学して面白かったのでお土産も兼ねて塩を買った。普段食べている精製塩との味の違い、わかるかな?(自信ない)

トラパニ近郊の塩田風景はなかなか印象的だった。ここからパレルモ港へ向かうが、フェリーの出港までにはまだ時間がある。シチリアを離れる前にあと1箇所だけ是非とも寄りたい場所があった。それは、パレルモ近郊のトラペット(Trapetto)という村だ。

 

 

 

パンタリカのアグリツーリズモで3日間を過ごした後、今度はシチリア島南東部のオリエンタタ・オアジ・ファウニスティカ・ディ・ヴェンディカリ自然保護区(Riserva naturale orientata Oasi Faunistica di Vendicari)のアグリツーリズモに移った。

私が住んでいるドイツ東部のブランデンブルク州には自然保護区がたくさんあり、いろんな野生動物が見られるので気に入っている。ドイツとは気候の違うシチリア島で自然保護区巡りをすれば、ドイツでは見られない生き物が見られるのではないかと密かに楽しみにしていた。ヴェンディカリ自然保護区は特に野鳥が多いと読んだので是非行ってみたかったのだ。

しかし、結論から言うと、いくつか回ったシチリア島の自然保護区はそれほど積極的な保護活動がおこなわれているようには見えなかった。これはあくまで個人的な印象だし、雨が多く緑豊かなドイツと乾燥したシチリア島を同列に見るのはフェアではないかもしれないが、いろんなカナヘビを見た以外は期待したほど多くの生き物を目にしなかった。

でも、ヴェンディカリ自然保護区では少なくともフラミンゴの群れが飛んでいくのを目撃できたし、アグリツーリズモの食事が素晴らしかったので、まあ満足かな。

さて、シチリア島南端から海岸に沿って北西に移動し、次に目指すはアグリジェント(Agrigento)の考古学地区、「神殿の谷(Valle dei Templi) 」だ。

アグリジェントはかつてアクラガスと呼ばれる古代ギリシアの植民都市だった。南東に70kmほど離れた都市ジェーラ(Gela)とロードス島からの移住者によって紀元前581年に建設されたアクラガスは、競馬の飼育で知られる富める町だった。僭主テロンが支配した最盛期(紀元前488〜472年)には人口20万人にも及ぶ大都市に発展していた(現在のアグリジェントの人口は6万人弱)。この町に生まれた哲学者エンペドクレスは、アクラガス市民は「まるで明日死ぬかのように食べ、永久に生きるかのような家を建てていた」と描写したという。紀元前406年にカルタゴ軍によって破壊されるまでは、市民は相当にゴージャスな暮らしぶりだったらしい。アグリジェント市の南部にはそうした古代都市アクラガスの栄華を感じさせるギリシア神殿群が残る。

考古学地区から眺めるアグリジェントの町

1984年にUNESCO世界遺産に登録されたこの「神殿の谷」、これまた広大で圧倒的!

右に見えるのはカストレ•ポルーチェ神殿

神殿の谷で最も古い(紀元前6世紀に建設)ヘラクレス神殿

コンコルディア神殿。ドーリス式神殿の中で最も保存状態の良い神殿 の一つ。1748年に復元された。

崖の上にそびえるユノ・ラキニア神殿

考古学公園の南側、眼科広がる景色を眺めていたら、なぜだかふとエジプトへ行ったときのことを思い出した。ここまで来ると、アフリカが近いと感じる。

公園内には考古学博物館もあって見るべきものが盛り沢山なのだが、今回のシチリア島・エオリエ諸島旅行はこの時点ですでに3週間近くに及んでいたので、すでにかなりの情報過多でとてもじゃないが処理しきれない。もうちょっとよく地中海の歴史を勉強してから出直した方が良さそうだ。それにしても、シチリアの歴史的・文化的コンテンツの驚くべき豊かさよ。もっと知りたいけど、沼にはまりそうでちょっと怖い。そんなことを考えながら神殿の谷を散策した後はレアルモンテ(Realmonte)海岸の白い崖、スカーラ・デイ・トゥルキ(Scala dei Turchi)の見える宿に泊まった。

この崖は、鮮新世ザンクリアン期に起こった洪水で堆積した有孔虫の化石を含む泥灰土でできている。スカーラ・デイ・トゥルキというのは「トルコ人の階段」の意味。トルコからやって来た海賊がこの崖を登って攻めて来たことに由来するそうだ。トルコにもパムッカレという同じような石灰棚の名所があるのを思い出した。

そろそろシチリア旅行も終わりに近づいている。

 

 

まだまだ続くシチリア島旅行。パンタリカのアグリツーリズモに宿を取っていた私たちは、パンタリカの岩壁墓地遺跡を見た翌日、シラクーザを訪れることにした。宿で一緒になった旅行者夫婦に「シラクーザの観光名所の多くはオルティージャ島に集中している。特にドゥオモ広場は必見だ」と強く勧められていた。オルティージャ島海に突き出たシラクーザの発祥地でとても美しく、ドゥオモ広場の他にもアポロン神殿やマニアケス城など見どころが多い。

でも、私にとってはオルティージャ島よりもネアポリス地区(「新市街」の意)にある考古学公園(Parco Archeologico)の方が面白かった。

行ってみて仰天。この公園、凄すぎる!市街地にギリシアやローマ時代の遺跡がどーん!と、まとまって存在している。

まず、「天国の石切場(Latomia del Paradiso)」と呼ばれる古代の石切場に度肝を抜かれた。町の真ん中なのに、石灰岩質の岩盤が剥き出しになっている。紀元前6世紀から神殿などの大規模建造物のためにここで石が切り出されていた。

石切場の中はヘルメットを装着して見学する。歩いているの私の大きさからそのスケールが想像できることだろう。良質の石は地表付近ではなく深いところから切り出す必要があった。作業に従事したのはカルタゴ軍やアッティカ軍からの捕虜だった。現在、石切場跡の周辺には草木が生い茂り、まるで楽園のようだから「天国の石切場」と呼ばれるようになったらしいが、当時は天国どころか地獄だっただろう。トンネルの中はじめっとしていて、岩肌にはところどころ苔が生えている。

石切場の奥には「ディオニシオスの耳(Orecchio di Dioniso)」と呼ばれる、これまた巨大な石窟がある。高さ23メートル、奥行きは65メートル。中は真っ暗で湾曲している。この洞窟の中ではほんの小さな音でも増幅されて大きく聞こえる。古代ギリシアの植民都市であったシラクーザの僭主ディオニシオスは疑り深い性格で、捕虜たちのヒソヒソ話を聴くためにこの洞窟に彼らを閉じ込めたという言い伝えがあるらしい。洞窟のかたちもまるで耳のようだから、「ディオニシオスの耳」とは上手い呼び名をつけたものだなと思う。

こちらは公園内のギリシア劇場。直径138m、推定観客席総数は1万5000席。紀元前5世紀からここで喜劇や悲劇が上演されたが、ローマ時代には演劇は流行らなかったので、剣闘士の闘技会場に作り変えられて使われていたそうだ。

こちらはローマ時代の円形競技場。アレーナの中心部には特殊効果のための地下装置を設置したとされる穴が開いている。古代のイベントの特殊効果って?まさか、光のショーなんてやっていたわけはないし、どんなものだったんだろう?シラクーザといえばギリシアの科学者アルキメデスの故郷。当時から技術が発達していたというから、いろんなカッコいい仕掛けが観客の目を楽しませていたのだろうね。

考古学公園は広大なので、隅から隅まで歩こうとすると大変である。暑いし、石の坂道を登ったり降りたりしてヘトヘト。シチリア島はどこへ行っても坂道で、しかも地面が硬いので、連日歩き回っているとだんだん腰がバキバキに硬直して来る。土地柄、深々としたソファーに座れるような場所もほとんどなく、カフェやレストランの椅子も硬くてなかなか辛いものがある。公園内にはまだまだ他の見所もあるのだが、先にオルティージャ島も歩いた後だから、もうギブアップ。

 

 

 

 

タオルミーナ(Taormina)からエトナ山公園周辺をドライブしながら火山による地形を見て回った後、一足先にドイツに戻らなければならない娘をカターニア空港へ送り届け、私と夫はさらにシチリア島ロードトリップを続けることにした。

次に向かったのはパンタリカの岩壁墓地遺跡(Necropoli di Pantalica)。パンタリカはカターニアの南のイブレイ山地に位置する。アナポ川やカルチナラ川が刻む渓谷の間にある台地である。そのパンタリカには大規模な古代墓地遺跡(ネクロポリス)があるという。リーパリ島で見たギリシア・ローマ時代のネクロポリスもとても興味深かったが、パンタリカの古代墓地はさらに古く、岩壁に紀元前13世紀から紀元前7世紀まで使われたと考えられる墓穴がなんと5000以上も残っているという。それは是非とも見に行きたい。

パンタリカでは、アグリツーリズモ(Agriturismo)と呼ばれる農家の宿に泊まった。今回のシチリア・エオリエ諸島旅行では、アパートメントタイプの宿、B&B、アグリツーリズモといろいろなタイプの宿泊施設を利用してみたが、その中でダントツ気に入ったアグリツーリズモ。コロナ禍のこともあり、なるべく田舎の空いているところがよかったので利用したのだが、景色のいい静かな場所で広々とした部屋に泊まれる上に、そこで育てている新鮮な野菜を使った美味しい料理を出してくれるのがいい。アグリツーリズモにもいろいろあって設備やサービスはまちまちのようだけれど、少なくとも私たちが今回利用したところはどこもとてもよかった。プールがあったり、馬やロバに乗れたり、アクティビティが充実しているアグリツーリズモも少なくないようだ。コンセプトがすごく気に入ったので、今後、イタリアを旅行する際はいろんなアグリツーリズモを泊まり歩きたい。

さて、パンタリカの岩壁墓地遺跡はかなり広範囲に散らばっていて、行き方は何通りかあるが、基本的には渓谷の小道を長時間ハイキングすることになる。私たちは東側からアナポ川沿いを往復15kmほど歩いた。

アナポ川

ゴツゴツした石灰岩に開けられたトンネルをくぐり抜けて進む。中は真っ暗なので懐中電灯が必要

一帯は自然保護区に指定されている。いろんなカナヘビがいて楽しい

しっぽが切れてるのも

茶色く見えるのは紅葉ではなく、山火事で焼けた跡

絶壁に圧倒されながら2時間ほど歩いた。

そしてついに岩壁に開いた墓穴が見つかった!

シチリア島の先住民族は、もともとは海岸付近に集落を作って生活していたが、外部から人が侵入するようになると、海辺の集落を捨て、内陸部の山の中へ避難して住むようになった。パンタリカに形成された集落は規模が特に大きいものだったと考えられているが、この古代墓地(ネクロポリス)と関連のある集落の跡はまだ見つかっていないらしい。しかし、ネクロポリスからはギリシアのミケーネ文化の影響が見られる陶器や装飾品などの副葬品が出土しており、それらは50kmほど離れたシラクーザの考古学博物館に展示されている。

それにしても、あのような崖の上の、一体どうやってアクセスしたのかわからないような場所にわざわざ穴を掘って死者を埋葬したのには、どういう意味があったんだろう?パンタリカの岩壁墓地遺跡はシラクーザとともにユネスコ世界遺産に登録されている。でも、そのわりにはパンタリカのネクロポリスに関する詳しい情報が少なくて、なんだかよくわからない。後日、もう少し良くわかったら書き足すことにしよう。

2時間半ほどアナポ・バレーを歩いたら、パンタリカ・ネクロポリス駅に着いた。といっても、これはかつてこの谷を列車が走っていた頃の名残である。小道はまだずっと先まで続いていたけれど、見たかった墓穴も見られたことだし、ここから来た道を引き返して宿に戻った。

この日もよく歩いたなあ。

 

 

約1週間滞在したエオリエ諸島。堪能したので再びフェリーでシチリア島に戻り、タオルミーナ(Taormina)へ移動した。

タオルミーナの町は海沿いでありながら、タウロ山という山の中腹、およそ標高200mにある。ピークシーズンを過ぎていたのでそこまで人が多くはなかったが、メインストリートにはブランドショップが立ち並び、緑の多い、小綺麗でお洒落な雰囲気で、シチリア島きっての観光地である。

ドゥオモ広場

が、私たちはエオリエ諸島で坂道ばかり歩いていたので、すでに坂道に疲れていた。それに、1週間分の洗濯物が溜まっていて早く洗いたい。コインランドリーの場所を調べたら、アパートメントから山を20分くらい登った先だと気づき、ゲッソリである。道が狭くて車で移動するのも簡単ではないので、娘と洗濯物を入れたエコバックを肩から下げてノロノロと坂道を歩き、町外れのコインランドリーでやっと洗濯を済ませてホッとした。そんなわけでタオルミーナでは休憩モードで、あまり積極的に観光しなかった。ロープウェイで海岸に降り、ベッラ島(Isola Bella)でスノーケリングしたり、アパートのプールで泳いだりして過ごした。

タオルミーナについてはそれほど記録することがないが、一つだけ書いておきたいのはこのギリシア劇場についてだ。この劇場にはギリシア時代のオリジナル部分はほとんど残っておらず、大部分がレンガで修復されている。その点ではシチリア島の他のギリシア劇場ほど古くないが、海を見下ろし、同時にエトナ山を仰ぎ見ることのできるこの立地はやはり特別だ。

シチリア島の多くのギリシア劇場同様、この劇場でもよくコンサートが開催されているようだ。エトナ山を背景に古代の劇場の観客席に座ってパフォーマンスを鑑賞するなんて、想像しただけで素敵だなあ。もしまたここに来ることがあれば、そのときには観劇したいものだ。観劇中に噴火が見えたらダブルパフォーマンスだね、と冗談を言いながらエトナ山の方を眺めていたのだが、

実はまさにこのときエトナ山は噴火していたのだった。この角度からは黒煙は見えないので気付いていなかったのだが、後から知り合った人に「9月21日にエトナ、噴火したよね。うちの車に火山灰が降ったよ」と言われて気になってこのサイトを見たら、私たちがこの劇場に立ってエトナを眺めていた朝に確かに噴火していた。

さて、前置きはここまでにして、本題に進もう。書きたいのは、タオルミーナから国道185号線を北西に車で30分弱のところにあるアルカンタラ渓谷(Gole del’Alcantara)についてである。

柱状節理が見たくてこのジオパークへ行ったのだが、想像以上にすごい!この玄武岩の岩はエトナの北にあるネブロディ山脈からアルカンタラ川が流れる谷へエトナ山の噴火による溶岩流が流れ込んでできた。1万5000年前から4000年前の間に少なくとも3つの溶岩流が谷を流れ、それらが重なった場所では50mもの厚みの岩体となった。柱状節理は溶岩が冷えて縮むときに割れ目ができることで形成されるが、この深い渓谷も、冷えて固まった溶岩表面の亀裂に川の水が入り込み、長い年月をかけてゆっくりと亀裂を押し広げてできたものであるらしい(どうやってできたのか知りたくて、このイタリア語動画を日本語とドイツ語に自動翻訳して見ながら一生懸命考えたけれど、翻訳が不完全なので理解が間違っているかも)。これもまた、シチリア島の母なる火山、エトナ山の噴火活動が生み出した景色なんだなあ。

ほぼ垂直の岩壁の高さはおよそ25メートル、幅は狭いところで2メートルくらいかな。ガイドツアーの参加者らがヘルメットを被り、長靴を履いてざぶざぶと水の中を歩き、奥へ入っていく。ツアーに参加しなくても歩くことはできるけれど、水がすごく冷たいので、素足だと結構つらい〜。

 

 

 

アルカンタラ渓谷を歩いた後は、そこからエトナ公園の周りを西周りにぐるっとドライブすることにした。

アルカンタ川の別の地点、Cascate Alcantaraの景色。水がない川底を見るのも面白い。

 

さらにドライブ。1981年のエトナ山の噴火時にはエトナ山公園の北の郊外にあるランダッツォの町まで溶岩流が到達した。

ランダッツォに流れ着いた溶岩流の跡

この溶岩流でランダッツォのワイン畑は壊滅的な被害を被った。溶岩流はアルカンタラ川の岸辺にまで迫り、もし川に流れ混んで水と接触すれば大爆発を起こす危険があったが、幸いなことにその一歩手前で止まったそうだ。

火山周辺地域での危険と隣り合わせの生活をこうして目にすると、日本のことも思わずにはいられない。

さて、エトナ山公園の周りを1周することで、いろんな角度からエトナ山を見ることができた。ロープウェイで登り、タオルミーナの劇場から眺め、噴火が生み出した様々な景色を歩き、、、、。たっぷりとエトナ火山を観察することができた。火山探検はこの辺でそろそろ終了して、ここから先はシチリア島の他の魅力を味わうことにしよう。

 

今回の旅行のテーマは火山だったので、エオリエ諸島滞在中は火山にばかり注目していたが、シチリア島の北に連なるエオリエ諸島にあるのは火山だけではない。リーパリの町を歩いていたら、グリェルモ・マルコーニ通り(Via Guliermo Marconi)脇の空き地のようなところに、なにやら気になるものが並んでいる。

思わず立ち止まり、まじまじと見た。石でできた蓋付きの箱が並んでいる。これは何?側に小さな看板があり、「ギリシア・ローマ墓地」と書いてあった。ということは、これらの箱のようなものは棺桶ということになる。小さな町の住宅街の空き地のようなところにギリシアや古代ローマ時代の棺桶が、あたかもついこの間置かれたばかりのように並んでいる様子に驚いてしまった。

後で知ったことには、この空き地のような緑地はディアナ考古学公園(Parco Archeologico di Diana)という公園の一部である。リーパリ島では1948年からシステマチックな考古学調査がおこなわれている。この公園のあるディアナ地区で古代墓地(ネクロポリス)が発見された。上の写真の左奥に見える石の壁は、4世紀にギリシア人入植者によって建設された市壁の一部らしい。1954年から約20年間、発掘調査を率いた考古学者ルイジ・ベルナボ・ブレアとマドリン・キャバリエが、1971年にこの考古学公園と旧市街中心部、リーパリ城内のエオリエ考古学博物館(Museo Archäologico Regionale Eoliano)を設立した。 ディアナ考古学公園という名称は、ネクロポリスが建設された当時エオリエ諸島で栄えていた文化、ディアナ文化にちなむ。

ネクロポリスからは整然と並ぶ2600を超える墓が発掘されている。古い時代の墓の上に新しい時代のものが重ねられた状態で見つかったらしい。見つかった棺の一部がこの公園に展示(?)されているということなのだろうか。

気になって、エオリエ考古学博物館へも行ってみた。

考古学博物館入り口

エオリエ城の敷地はなかなか広くて、要塞や大聖堂など見どころがたくさんある。考古学博物館もいくつかの建物に分かれてい流。小さな島の博物館なのに規模が大きくて驚く。ここには先史時代からのエオリエ諸島の歴史が詰まっているのだ。地中海の考古学研究においても重要な博物館であるらしい。エオリエ諸島は平地がほとんどなく、ゴツゴツとした岩ばかりで人が住むのに適しているようにはあまり思えないのだが、紀元前5500年頃から人が定住していたことがわかっている。特にリーパリ島は黒曜石が豊富に採れることから、新石器時代にはその交易で栄えた。その後、ギリシアの植民地となり、古代ローマに征服され、838年からは150年間にわたり、サラセン人の支配下に置かれる。1082年にはノルマン人に支配され、イタリアのファシスト党時代には反体制活動家の流刑地となっていた。現在の人口は1万3000人に満たない小島なのに、なんと劇的な歴史なのだろう。

考古学博物館の敷地内にある青銅器時代の集落の跡

博物館を全部回る時間がなかったので、気になっているネクロポリスに関する展示と地質学のセクションのみを見た。

敷地の奥にディアナ考古学公園とは別の考古学公園があり、そこにも棺が並んでいる。

こちらの公園では、半円を描くように棺が配置されている。

博物館内に展示されているリーパリ島のネクロポリスから出土した紀元前6〜4世紀の土器の棺

なるほど、石の棺桶だと思ったものは土器の棺を入れる容器だったのだな。岩だらけのエオリエ諸島では地面に穴を掘って棺を埋めるのは大変だから、頑丈な石の入れ物に入れて地上に置いておいたのだろうか?

ギリシア時代の墓石

棺桶や墓石ばかり見ていたが、この博物館には重要な展示物が他にもたぶん、たくさんある。時間がなくて全部の展示室を回れなかったし、もし全部見たとしても、予備知識がなさ過ぎて大量の情報を処理できそうになかった。家に帰って来てからそれなりに調べようとしたのだけれど、イタリアについてはやはりイタリア語の情報が圧倒的でなかなか難しい。もう二度と行けないかもしれない場所だから、せっかくの貴重な機会だったのにと思うと残念。いつか何かのきっかけでここに展示されているものについて知り、「ああ、あのとき〇〇を見てくればよかった!」と悔しく思うのかなあ。
まあ、そんなことを言ってもしかたがないので、わからないものだらけの環境に身を置いたときには、何か一つ、気になるものを見つければ良いとしよう。そして、そのときにはうまく把握できなくても、いつか別方向から近づけることがあるかもしれないから、少しでも気になることはわかる範囲で書いておこう。

水中考古学のセクションに展示されている160個のアンフォラ

さて、そろそろエオリエ諸島滞在も終わりだ。これからシチリア島へ戻り、さらに旅を続けよう。

とうとう、エオリエ諸島滞在のハイライトとなるイベントとなるストロンボリ島へ行く日がやって来た。

ストロンボリ島は火口からひっきりなしに真っ赤なマグマのしぶきを吹き上げる「ストロンボリ式噴火」で知られる火山島である。夜間は闇の中で山頂が明るく光るので、「地中海の灯台」とも呼ばれている。そのストロンボリ火山に登る計画だった。

ストロンボリに登ろう!と言い出したのは夫で、私もそれに同意したものの、実は不安があった。「ストロンボリ火山に登る」というフレーズにはなぜかすごくハードな響きがあって、自分にできるようなことではないのでは?という気がしていたのだ。リーパリ島からストロンボリ島へは多数のツアーが出ているが、登山ツアーを提供しているのはMagmatrek 一社だけで、他のツアーはボートで島の近くへ行くだけである。そう聞くと、なんだかますますハードコアなイメージである。Magmatrek社のオフィスで「誰でも登れますか?」と聞いたら、「山に登り慣れている人なら」という返事が返ってきた。歩き慣れているとは自信を持って言えるが、山登りの習慣はない。うーん、大丈夫かな。

ストロンボリ火山は標高約900m。しかし、危険防止のため、観光客は標高400mのところにある展望台までしか登れなくなっている。それを聞いてちょっと安堵。400mならヴルカーノ島のフォッサ火山と変わらないのでいけるかな。

しかし、「夕方から登り始め、展望台で暗くなるのを待って噴火を見てから下山します。帰りは暗いのでヘッドランプか懐中電灯を持参してください」との説明にふたたび自信がなくなった。闇の中の下山なんて、経験したことないよ。やっぱり相当ハードなツアーなんじゃ?

「何をゴチャゴチャ言ってるの。大丈夫だって。行ってみてダメそうと思ったら、その時点でやめればいいだけ。予約するよ!」と夫がツアー参加を申し込んだので、ヴルカーノ島での登山の2日後にストロンボリ火山に登ることになった。

 

お昼頃、リーパリ港から少数の他のツアー客とともに小さなボートでストロンボリ島へ向けて出発。このボートが結構、揺れる。

1時間ほどでリーパリ島とストロンボリ島の間にあるパナレーア島に着いた。ここで休憩。パナレーアの美しいビーチでしばし泳ぐ時間がある。真っ青な海。普段なら喜んで水に飛び込むところだが、私は泳ぐのはパスしよう。ここで無駄に体力を使ってはならないのだ。ストロンボリに登れなくなる!それに、泳いだ後、シャワーは浴びられないのだから、塩でベタベタの体で登山することになってしまうではないか。不快要因は一つでも取り除いておきたかった。

その後、ボートはパナレーア島の港へ回った。レストランで腹ごしらえするために上陸する。でも、どの程度食べたらいいものか。何も食べなければ力が出なくて登山できないし、かといって食べ過ぎても体が重いだろう。この時点でもまだ「ストロンボリ火山に登る=ビッグチャレンジ」という先入観で頭がいっぱいの私である。

このパナレーア島は面積わずか3.4km2ほどの小さな島だが、近頃、とても人気があり、ミリオネアの別荘地になっているとか。うーむ、確かに綺麗な島だけど、このような孤島に住んで何をして過ごすのだろう?とちょっと不思議に思わないでもない。

ああ、そうか。ストロンボリ島を眺めながら遊べるっていうのがポイントなのか。確かに特別なロケーションではある。お昼ご飯を食べた後、私たちは再びボートに乗り、ストロンボリ島へ向かった。パナレーア島付近には海底からブクブクと火山ガスが噴き上がっているのを見られる場所があった。すごい!

さらにボートに揺られること30分。ストロンボリ島が近づいて来た。

あれに登るのか?本当に?(まだ疑ってる)

険しい姿に圧倒される。港に到着し、ボートを降りるとMagmatrek社のスタッフに「教会の前で登山ガイドが皆さんを待っているので、行ってください」と言われたので、指さされた方に向かって皆で歩き出す。すでに坂道だった。「これって、もう登山始まってるのかね?」などと言いながら15分ほど坂を登ったところに教会があった。ガイドさんの説明を聞き、登山靴とストックを借りて、いざ出発。「今日はアフリカからシロッコという熱風が吹いているので、夜でも暑いです。20分ごとに休憩しますが、体調が悪くなったら無理をせずに下山してください。ストロンボリに登るのは素晴らしい体験ですが、具合が悪くなってまで登る理由はありません」。えー、やっぱりそんなにキツいの!?

教会を出発してしばらくの間は硬い石畳が続いた。太陽に向かって歩かなければならず、すでに17:00近いのに暑い!ひえー、もうすでに疲れたよ。こんなんで登り切れるのか?

しかし、しばらく歩くと方角が変わり、日陰になった。これなら意外と大丈夫そう?

立ち止まってストロンボリ町と小島ストロンボリッキオ(Strombolicchio)を見下ろす

だんだん急になり、この先は写真を撮っている余裕はなかったが、心配したほどハードではなく、2時間後、無事に北西側の展望台に到着した。

展望台から見た火口

海底へと続く谷、シアーラ・デル・フオーコ(Sciara del fuoco)。海に日が沈んで行く。

今か今かと固唾を呑んで噴火を待つ。

おお!

15分に1回くらいの間隔で起きる噴火を言葉なくじっと見つめて過ごすこと1時間半。

夜空に燃える火口を本当に見ることができた。こんな体験ができるなんて、なんだか信じられない。登って本当によかった。

何度かの噴火を楽しんだら、さあ下山だ。

懐中電灯で足元を照らしながらの夜の下山も、生まれて初めての体験でなんだか楽しい。こんな歳になっても新しい体験ができるんだなあと良い気分で山道を下る。それに登るのも大したことなかったしね!

と言うのはまだ早かった!帰り道の長いこと長いこと。行きとは別のルートで、緩やかだけれど、その分、長い。8kmもあった。最後の方はもう疲れて嫌気がさして来た。やっと教会に着き、登山靴とストックを返却したが、そこで終わりではないのだ。港まで歩かなければならない。ボートに乗り込んだときにはもうヘトヘト。そして、再びモーターの爆音の中、2時間近く激しく揺られてリーパリ島へ帰るのだ。シートには背もたれがないので眠ることはできず、背筋を伸ばして座っているのも辛い〜。朦朧とした頭で「噴火を見られて感動したけど、こういうのは1回でいいや」「旅行でハードな体験をするたびに寿命を縮めているのでは?」「いや、でも、快適なことしかせずに長生きするよりも、面白い体験をたくさんしてその結果、多少早死にすることになっても、その方が生きる意味があるのでは?」「これでいいのだ」などと考えながら波に揺られていた。

港に着いたら、すでに23:30。そこから車を止めてある場所までまた坂を登り、山の上のアパートメントに戻り、そしてシャワーを浴びなければ寝られない。さすがにうんざりしたが、どうにかこうにかこの冒険の日を無事に終え、深い眠りについたのであった。

 

 

 

リーパリ島をぐるっと一周し、海でも何度か泳いだので、今度は日帰りでエオリエ諸島で3番目に大きい島、ヴルカーノ島(Isola Vulcano)へ行くことにした。火山のことを英語でvolcano、ドイツ語ではVulkanと言うが、それらの言葉の由来はこのヴルカーノ島である。そもそもなぜこの島がIsola Volcanoと呼ばれるようになったかというと、ギリシア神話ではこの島には火の神、へパイストスの鍛冶場があるとされた。ギリシアの神「へパイストス」に対応するローマの神は「Vulkanus」である。

ヴルカーノ島へはリーパリ島から観光ツアーも出ているが、リーパリ島とヴルカーノ島との間は頻繁に連絡船が行き来しているので、それを利用することにする。車はリーパリ島へ置いていくのでヴルカーノ島を自力で回ることはできないが、きっと現地ツアーがあるだろう。

ヴルカーノ島の港

ヴルカーノ島に到着。まずは観光案内所でパンフレットでももらおうかと思ったが、そのようなものはなかった。

港から集落への道

島に上陸すると、強い硫黄臭が鼻につく。ヴルカーノ島では古代ローマ時代から硫黄が採取されていた。キツくて危険で健康に悪い硫黄の採取作業は、古代ローマ時代には奴隷が、近代には囚人が担った。しかし、1880年から19990年にかけて起きた最後の噴火の際、硫黄の採取施設はすべて崩壊したそうだ。この噴火時に大規模な森林火災が起き、住民はボートでリーパリ島へ避難したという。

ヴルカーノ島には泥浴場があると読んだので、まずはその浴場を探しに行こう。地図を見ると、港からは目と鼻の先のようだ。

泥浴場は現在、閉鎖中だった。ガッカリ。

娘が「綺麗な洞窟があるらしいよ。それを見に行こう」と言う。案内地図を見ると、東の海岸に確かに洞窟があるようだが、陸路で到達できるようには見えない。島の西側のビーチへ行けば、そこからボートツアーが出ているのではないかと推測し、ビーチSpiaggia Sabbie Nereに向かう。

黒い砂のビーチの奥にボート乗り場があった。持ち主と思われる男性が何人か立っていたので、「洞窟に行くツアーはあるか?」と聞くも、言葉がまったく通じない。シチリア島もエオリエ諸島も基本的に英語はあまり通じないのだ。しかし、娘がどうしても行きたいと言うので、夫が諦めずに片っ端から船長風の人に声をかけていったら、ようやく洞窟までボートを出してもらえることになった。1時間クルーズで一人10ユーロ。さあ、真っ青な海とダイナミックな海岸線を眺めながらの小クルーズの始まりだ。

迫力ある崖の景色

「あの岩はライオンの横顔に見える」とか、、、

「あれはゾウの足にそっくり」とか、船長がいろいろ説明してくれたようだが、イタリア語がほとんどわからないので、他にどんな話をしてくれたのかは不明。こういうとき、現地の言葉がわからないと本当に残念。

そうこうしているうちに、見たかった洞窟、グロッタ・デル・カヴァッロ(Grotta del Cavallo)がいよいよ近づいて来た。

中はどのくらい深いのだろうか。遠くからだと暗くて中がよく見えない。洞窟の少し手前でボートを一時停止してもらったので、青い青い水に飛び込んで少し泳ぐ。最高。

泳ぎ終わってボートに上がると、船長がボートを洞窟の前に寄せてくれた。水面になにかがきらめいている。

 

うわー!

光って見えるものは水面に浮いた細かい軽石だそうだ。軽石と言われればそうかと思うけれど、まるでイルミネーションのようで美しく、魔法を目にした気分だ。ここでボートは来たルートを引き返し、出発したビーチに戻った。1時間ほどとはいえ、10ユーロで普段はできないことができたのだから、悪くない。

しかし、ヴルカーノ島でのアクティヴィティのハイライトはこれからである。vulcano(火山)という言葉の語源となったこの島で最も大きな火山、ヴルカーノ・デッラ・フォッサ(vulcano della Fossa)に登るのだ。

後ろに見えるのがヴルカーノ・デッラ・フォッサ

標高は391m。山頂付近には大きなクレーターがあり、グラン・クラテーレ(Gran Cratere)とも呼ばれる。赤っぽい山肌に斜めに通った黒いラインが登山道で、左上の煙の出ているところまで登るつもり。登山道はそれほど急ではないが、日陰がなく黒い地面が太陽光を吸収して熱いので、昼間登るのはやめたほうが良いとガイドブックに書いてある。夕方4時まで待って登り始めることにした。

午後4時過ぎでも暑ーい!あっという間に超汗だくになり、体力を奪われる。強い日差しにクラクラし、なんでこんなことやってるんだっけー?と叫びたくなった。

でも、1時間ほど頑張って登り、見下ろした景色の素晴らしさは感動的で、報われた。

ヴルカーの島の向こうにリーパリ島とその後ろにサリーナ島が見える。

そしてリーパリ島の東側にはうっすらとパナレーア島とストロンボリ島が見えるではないか。これはすごい!こんな景色、初めて見たよ。

山頂には直径500mほど、深さ200m のクレーターがある。

火山ガスの刺激臭が強くて、むせてしまった。長居はせずに下山しよう。

暑い中、登るのに1時間、降りるのに30分、港に戻るのにさらに30分くらいかかって結構疲れたけど、楽しかった!リパーリ島へのボートが来る時間まで、港のそばのレストランで美味しいご飯を食べて大満足である。充実してるなあ。

ところで、火山の噴火様式の一つに「ブルカノ式噴火」というのがあるが、それはこのヴルカーノ島(ブルカノ島とも表記される)でよく見られる噴火様式のことで、粘り気の強い溶岩の火山で爆発的な噴火が特徴である。桜島など、日本の火山にも多いタイプ。別の噴火様式に「ストロンボリ式噴火」があるが、それもこのエオリエ諸島の一つ、ストロンボリ島の火山が名前のもととなっている。

次回はいよいよそのストロンボリ火山に挑戦だ。

 

シチリア島でエトナ山を軽く見た後、カターニアを離れ、エオリエ諸島(Isole Eolie)へ向かった。エオリエ諸島は海底の火山活動によりティレニア海南部に形成された、リーパリ島(Isola Lipari)、サリーナ島(Isola Salina)、ヴルカーノ島(Isola Vulcano)、ストロンボリ島(Isola Stromboli)、パナレーア島(Isola Panarea)、フィリクーディ島(Isola Filicudi)及びアリクーディ島(Isola Alicudi)の主要7島から成る火山弧である。

シチリア島からはミラッツォ(Milazzo)の港からフェリーが出ている。シチリアを経由せずにイタリア本島のナポリ港から直接行くことも可能だ。

車ごと乗り込み、1時間ほど船に揺られていると、エオリエ諸島のうち最もシチリア島に近いヴルカーノ島が見えて来た。

ヴルカーノ島の港

うわー!美しい景色に気分が一気に高揚する。青い海に飛び込みたーい!しかし、私たちが滞在するのはこの島ではなく隣のリーパリ島。もうしばらくの我慢である。

ヴルカーノ島から20分ほどでリーパリ島に到着した。事前に調べたところ、リーパリ島はエオリエ諸島の中で最も魅力的というわけではなかったが、7つの島の中で一番大きく道路も発達していて、またボートで他の島へも移動しやすいのでリーパリ島を拠点とすることにしたのだ。港のそばに島唯一の町があり、宿泊施設やレストランが集中している。しかし、私も夫もうるさい場所が苦手。町から少し離れた山の上にアパートメントを予約していた。

町からの直線距離はたいしたことがないが、細い蛇行した坂道はとてもきゅうで、舗装されていない部分も多い。車で上るのはなかなか大変だった(といっても運転したのは夫なので、私がした苦労ではないのだけれど)。通りに名前はなく、ナビで見ても宿の場所がわからないので管理人に電話したらバイクで迎えに来てくれた。

坂道を上るのはちょっと大変だけど、アパートメントのテラスからの眺めは抜群だ。ここで約1週間を過ごすことになる。やりたいことはたくさんあるが、まずは泳ぎにでも行こうか。

最寄りのビーチは上の地図の緑アイコンのSpiaggia Valle Muriaというビーチである。「坂を降りればビーチ」と管理人はこともなげに言ったが、そんなに楽な話ではなかった。坂道というか、崖のようなところを15分くらい降りると海岸に着く。行きはまだいいけれど、帰りはその崖をまたよじ登って来なければならないのだ。ちょっとひと泳ぎするだけでやたらと疲れる。これがハードモードなエオリエ諸島滞在の始まりであった。

リーパリの石のビーチ

誤解のないように付け加えると、島にはCannetoのビーチなど楽にアクセスでき、観光客向けに整備されたビーチもある。でも、自然を楽しみにエオリエ諸島に来たわけだから、アクセスの良い場所だけ見るというのもなんだか違う気がするしね。

上の写真の右側に白とグレーの層が縞状に重なった崖が写っているが、リーパリ島の地表は軽石と黒曜石で覆われている。白っぽくてスカスカの軽石とガラス質の黒曜石は互いに似ても似つかない見た目だけれど、どちらも同じ流紋岩質のマグマが冷えて固まってできた岩石である。黒曜石といえば石器時代、ナイフや槍の先端などの素材として使われた岩石で、黒曜石が豊富に採れるリーパリ島はその交易で栄えたのであった。今でもリーパリ島の主な土産物として黒曜石のアクセサリーがたくさん売られている。

 

また、リーパリの軽石もとても上質で、主に建材などの用途に世界中へ輸出されて来た。現在は主に島の北東部の石切場で採取されている。

軽石や黒曜石だけでなく、リーパリ島では粘土鉱物カオリナイトも採れる。リーパリ島におけるカオリナイトの利用は紀元前3-4世紀に遡る。島に入植したギリシア人が土器作りに使っていた。第二次世界大戦後から1970年代初めにかけては主にセメントの材料として大々的に採掘されていたが現在はもう採掘は行われていない。その跡地を歩いてみよう。

噴気孔と思われる穴があった。リーパリ島には現在、活発な火山活動はない。

石切場の奥まで歩くと、海へ続く道が延びている

普段住んでいるドイツでは日常的に散歩をしているけれど、同じ散歩でもリーパリ島ではまったく違う体験だ。平坦で直線的な北ドイツとは対照的に起伏が激しく表情豊かな風景に圧倒される。

海岸線も複雑だ。

絶景スポットBelvedere di Quattracchiから眺めたリーパリ島の美しい入江

 

以下は夫がドローンで撮影した写真。かなり高いところに登って撮っているので、危ないから真似しない方がいいです(私もドローン免許持っているけど、恐ろしくてこんなの絶対に撮れない)。

 

島の南部へ行ってみると、そこにも軽石の石切場があった。

 

島の南の先端近くには地質学観測所があり、そこからはヴルカーノ火山がよく見える。

よし!次に向かうのは、あの島だ!

 

 

 

 

 

「火山」がテーマのシチリア・エオリエ諸島ロードトリップ。前回の記事に書いたように、まずはシチリア北東部、エトナ火山の麓の町、カターニア(Catania)の溶岩でできた街並みを見た。その後は実際にエトナ火山に行ってみることにした。

地中海地域では最も高く、また世界で最も活動の活発な火山の一つである。頻繁な噴火によって標高は常に変化しているが、現在の高さはこちらのサイトによると3329mだそう。エトナ山とその周辺はエトナ山自然公園(Parco dellÈtna)という国立公園になっている。(以下のGoogleMapをズームして見てください)

カターニアからはツアーも出ているが、私たちは車があるので自力で行くことにした。エトナ山に登るにはエトナ公園の北側と南側からアクセスする方法がある。カターニアからは公園の南側のニコージ(Nicolosi)という町を経由するのが便利だと現地の人に教わり、ニコロージ方面に向かって、いざ出発。

途中で車を止め、小高くなった場所に上がって眺めた景色。地表の一部が溶岩流に覆われている(グレーの部分)。山麓の火山性土壌は肥沃で柑橘類や葡萄などの栽培に適しており、シチリア島の中で最も人口密度の高い地域の一つだが、恵み多い生活はリスクと隣り合わせでもある。最近では、2001年の大きな噴火の際に溶岩流がニコロージ市のわずか4km手前まで到達したそうだ。

溶岩流で崩壊し、埋もれた家屋

20kmほど緩やかな山道を登って行くと、山岳ホテルや土産物屋、駐車場のあるリフージョ・サピエンツァ(Rifugio Sapienza)に着く。そこからロープウェイ(Funivia Dell’Etna)に乗ることができる。この地点ですでに標高1900mを超えるので、夏でも肌寒い。この日はそれほどでもなかったけれど、風が強い日なら余計に寒いと思うので防寒対策が必要。でも、もし上着を忘れてもロープウェイ乗り場で登山靴と上着を貸し出しているので大丈夫。

 

黒々とした山肌を眺めながら標高2500mの高さまで登る。

ロープウェイの降り場にはミニバスが停まっている。バスでさらに登り、登山ガイドさんと一緒に歩くツアーが用意されているのだが、2017年に起きた噴火で、取材中のBBCのクルーや火山学者、観光客が噴石で怪我をする事故があり、現在は山頂まで行くことはできないことがわかった。残念!もちろん安全第一なのでしかたがない。でも、噴火口を見られないのであればツアーに参加してもあまり面白くないかな?と思い、ツアーには参加しないことにした。

ロープウェイ降り口付近から見た、どこまでも広がる真っ黒な景色。大きな火山だと実感する。周辺を見回すと、右側の小山に登っている人たちがいる。私たちも登ってみることにしよう。

下から見ると結構な急斜面に見えたが、登ってみたらたいしたことはなく、あっという間に上に着いた。この小山はピアノ・デル・ラーゴ(Piano del Lago) という火口丘だ。どんな感じか見たい方は以下の動画をどうぞ。

 

 

 

周囲をぐるっと歩く。ふと夫の背負っているリュックを見たら、テントウムシが1匹止まっていた。え?なんでこんな植物もない場所にテントウムシ?下界からうっかり連れて来ちゃったのかな?と思ったが、後でガイドブックを読んだら、火口周りは温かいので、テントウムシがたくさんいると書いてあった。へえー。

火山国、日本出身の私にとっては火山は珍しい存在ではないけれど、ドイツ生まれの娘には大変なインパクトのようで、「登って良かった!」と大喜びしている。来た甲斐があった。もちろん、私もエトナ山に登れてよかった。

まあ、登山といってもロープウェイに乗って少し小山を登っただけなのでイージーモードだ。しかし、私たちの火山旅行はまだまだ序の口。これからさらなる興奮が待っているのである。エトナ公園は広く、ビジターセンターやいろいろな見所があるようで、たっぷり時間をかけていろんなアクティビティを楽しむことができそうだ。私たちも後に改めてエトナ山を別の角度から見ることになるのだが、その前にシチリア島の北側、ティレニア海南部に連なるエオリエ諸島に向かうことにした。それについては次の記事で。

 

 

 

ドイツから4日かけてシチリア島へやって来た。カラブリア州のメッシーナ海峡をフェリーで渡るのだが、ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)から対岸のメッシーナ(Messina)は目と鼻の先で、20分ほどで着く。陽光にきらめく青い海の向こうに雄大なエトナ火山のそびえるシチリア島が近づくのを船上から眺めるのが楽しみだ。

と思ったら、港に着いた瞬間に空が急に暗くなり、出港と同時にまさかの大雨である。視界はグレー一色、何も見えない状態でシチリア島に到着した。メッシーナから最初の目的地カターニア(Catania)方面へは高速道路を南下するだけだが、路面のコンディションが良くないので前の車の飛沫が凄まじい。シチリアはインフラが良くないだろうと想像していたが、早速、それを実感することになった。

カターニアはエトナ火山の麓にあるシチリア島で2番目に大きな町だ。今回の旅行では都市は避けると言いながらカターニアに向かったのは、シチリア旅行に飛び入り参加することになった娘をカターニア空港でピックアップしなければならなかったのと、旅の事前準備として読んだ本、「シチリアへ行きたい(小森谷慶子、小森谷賢二著)」にカターニアが「溶岩でできた」町だと書かれていたので、その街並みを是非見てみたかったのだ。

カターニアはかつてギリシア人の植民市として発展した町だが、その当時から現在に至るまで、エトナ火山の噴火の影響を受け続けて来た。1669年の大噴火と1693年の大地震では壊滅的な被害を負い、18世紀にバロック様式で再建された。

大雨の後のドゥオーモ広場

町は全体的に黒っぽく、独特の雰囲気を醸し出している。

地面のあちこちが黒い火山灰で汚れている

ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街には美しい広場と大聖堂、城や宮殿、考古学博物館など見所がたくさんある。しかし、それらの観光名所についてはガイドブックやネット記事などに日本語の情報がたくさんあるので、このブログでは私の個人的な興味に沿って話を進めたい。

ヨーロッパでは古い建物の漆喰が剥がれて中の建材が剥き出しになっているのを目にすることがよくある。私が住んでいる北ドイツでは中のレンガが見えるが、カターニアでは溶岩だ。

すごい!

建物だけでなく、石畳や、

 

花壇も溶岩でできている

うおー!

と変なことに盛り上がってしまう。石造りの建物が多いヨーロッパに住んでいると、「町の景観はその土地の石がつくる」と感じるようになった。その町のある地域の自然条件によって多く採れる石材が異なるからだ。石が違えば町の色も質感も変わる。だから、知らない町を訪れるときには「どんな石の町だろう?」と気になるである。

カターニアの町は17世紀末にエトナ山の噴火で破壊されたと先に書いたが、旧市街のあちこちにギリシア時代や古代ローマ時代の遺跡が見られる。

ローマ帝政時代の円形競技場、Anfiteatro

全体の一部しか発掘されていない状態だが、総客席数はおよそ15000席と推定されるそうだ。当時の人口がどのくらいだったのかわからないが、こんな大きな競技場があったのだから繁栄していたんだなあ。黒い玄武岩でできたこうした古代建造物の名残を見ると、カターニアはまさにエトナ火山が生んだ町なのだと感じるのである。

競技場のエントランス

ローマ劇場(Teatro Romano di Catania)も見応えがあった。

 

 

溶岩という視点でカターニアの町を見た。それではエトナ火山を見に行くことにしよう。レポートは次回の記事で。

 

 

 

2020年からパンデミックで自由に旅行ができない日々が続いていたが、EU内共通のデジタルワクチンパスポートが導入され、ようやくドイツの外に出かけられるようになった。とても嬉しい。そこで、久しぶりの本格的な旅行としてイタリアのシチリア島へ行ってきた。ドイツの自宅から車でシチリア島に渡り、シチリア島を周遊しティレニア海に浮かぶ火山島群、エオリエ諸島を巡るロードトリップ(一部は船)である。全行程3週間、満喫したので忘れないうちに記録しておこう。

旅行規制が緩和されたとはいえ、まだパンデミックが収束したわけではないので、当面は「ピークシーズンを外す」「人の多い都市部や人気観光地は避け、主に自然を楽しむ」を我が家の旅の基本方針とすることにした。

 

今回の旅の目的地になぜシチリア及びエオリエ諸島を選んだのか?

数年前から、長期の旅行に出るときには何かしらテーマを設定することにしている。2020年の2月には「火山」をテーマにニカラグアへ行く予定だった。ところが直前にパンデミックが起こり、泣く泣くキャンセルすることに。そのときには1年くらい待てば行けるかなと考えていたのだが、現状では中米方面には当分行けそうにもない。そこでニカラグアの代わりに欧州最大の活火山、エトナ火山のあるシチリア島とそのすぐ北にある火山性のエオリエ諸島に行こうということになったのだ。

 

なぜドイツから2200km以上も離れたシチリア島まで自宅から車で行ったのか?

私と夫はロードトリップが大好きで、一緒に旅行するときは自宅から車で行ける場所へはマイカーで、そうでない場合も現地の空港でレンタカーを借りて回る。車の旅を選ぶ理由は以下の3つだ。

  1. 夫が運転好きで、長距離の運転も厭わないから。
  2. 車があると、都市や観光地以外の場所も見て回れるから。
  3. 荷物が多いから。

夫は都市よりも圧倒的に自然を好み、私もメジャーな観光地よりマイナーな場所を探索するのが好きなので、能動的な移動手段が不可欠なのである。そして、旅行のスタイルもハイキングしたり野鳥を観察したりなどアクティブ系なため、道具がいろいろと必要になる。トレッキングシューズや双眼鏡、超望遠レンズのついたカメラ、そして最近はドローンを持って行くこともあり、車でないと運搬が大変だ。また、旅先でも化石を採集したりなど、持ち帰るものも多くなっている。幸い、夫は運転が苦にならないタイプで、知らない国でも悪路でもへっちゃらなのが助かる。

自宅からオーストリアを抜けてイタリア本島を南下し、カラブリア州ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)の港から車ごとフェリーでシチリア島のメッシーナ(Messina)に渡り、帰りはパレルモ(Palermo)から夜行フェリーでナポリ(Napoli)へ移動、そこから北上して帰って来た。シチリアへ到着してからの移動ルートは以下のマップの通りである。エオリエ諸島のリパリ島へも車ごとフェリーで渡り、その他の島へは小型ボートで移動した。

 

今回はひとまずここまで。