YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」に10本目のスライド動画をアップしました。今回のテーマはブランデンブルク州カプート村(私が住んでいる村です)にある物理学者アルベルト・アインシュタインの別荘です。
ベルリンから公共交通機関を使って片道約1時間のところにあるアインシュタインの家は、ユダヤ人建築家コンラート・ヴァクスマンの設計によるものです。ヴァクスマンは後に米国に亡命し、バウハウスの創立者で近代建築の巨匠とされるヴァルター・グロピウスと共にプレハブ住宅の普及に大きく貢献します。
アインシュタインはヴァクスマンが設計した家とカプート村をとても気に入っていました。現在、家は週末のみ一般公開されていて、ガイドツアーで中を見学することができます。
この家についてはたくさんの情報があって、20分ちょっとの動画には収まりきらなかったので、こぼれ落ちた内容の一部を補足として動画の下に書きます。まずは是非、動画を見てみてください。
補足)
アインシュタインの家を設計したヴァクスマンは、「この家のインテリアにはバウハウスの家具がぴったりですよ」とマルセル・ブロイヤーがデザインした椅子など、バウハウスの家具をアインシュタインに奨めました。でも、アインシュタインは家具までモダンなもので揃えるのには違和感があったようで、その案は採用せず、手持ちの家具を運び入れて使ったそうです。
1932年にアインシュタインがカプートを去った後、この家は様々な用途に使われました。最初に利用したのは、隣の敷地にユダヤ人の子ども達のための学校を設立していたユダヤ人教育者、ゲルトルート・ファイアーターク(Gertrud Feiertag)でした。ファイヤータークが運営する寄宿舎付きの学校では、主にベルリンに住むユダヤ人家庭の子どもたちが学んでいました。ユダヤ人への迫害が強まる中、ベルリンはユダヤ人の子どもが安心して学校に通える環境ではなくなっていたからです。また、親が先に外国へ移住し、生活の基盤が整ってから子どもを呼び寄せるつもりで子どもを預けているケースもありました。そのうち、他の地域からも庇護を求めてユダヤ人の子どもたちがカプートへやって来るようになります。米国に渡ったアインシュタインは弁護士を通じてファイアータークに家を託し、家は学校の一部として使われました。
しかし、1935年、アインシュタインの家はナチス政権により没収され、カプート村に売り渡されます。ユダヤ人の子どもたちを守るために戦ったファイアータークは1943年、アウシュビッツの強制収容所に送られ、そこで命を落としました。その後、家は幼稚園教諭の養成所や兵士の宿舎として使われるなどいろいろな時期を経て、70年代の終わりに重要文化財に指定されました。1979年に痛んでいた家の修復工事が終わり、アインシュタインの生誕100年を記念して開かれた式典の際には、(地元の人の話によると)家の中にバウハウスの家具が展示されされたそうです。このときアインシュタインはすでに亡くなっていましたが、設計者のヴァクスマンはこの式典に参加しています。ヴァクスマン家の修復状態には内心ちょっと不満があったそうですが、バウハウスの家具を置きたいという彼のかつての希望はこのときようやく実現したと言えますね。