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イーダー・オーバーシュタインでの休暇の最終日。旅の目的だった鉱石観光は無事終了し、中途半端に時間が余ったので近郊のブンデンバッハ(Bundenbach)にあるケルトの集落、アルトブルク(Altburg)へ行ってみることにした。1971 年から 1974 年にかけブンデンバッハの丘の上に紀元前170年頃に建設され、ローマ軍に占領されるまでケルト人が生活を営んでいだ集落の遺跡が見つかった。その集落の一部が再建され、オープンエアミュージアムになっている。

ケルト集落は観光鉱山Herrenbergから5分ほど歩いたところにある。鉱山入り口でチケットを買うと、受付の女性に「主人がミュージアムを案内します。バイクですぐに行くので先に行っていてください」と言われたので、山道を歩き出す。

斜面を少し登ると台地に出た。柵に囲まれた藁葺きの建物がいくつか並んでいる。それがミュージアムだ。

ガイドさんがバイクに乗ってやって来た。アルトブルクのケルト集落はおよそ1.5ヘクタールの台地に建設され、周囲は厚い壁と溝に囲まれていたことが明らかになっている。最も高い場所には有力者が住んでいた。その一角に5棟の住居と5棟の倉庫の建物が再建されている。

この台地で発見されたのは地面に開いた掘立柱を立てるための穴と柵溝だ。全部で3500ほどもあった穴の位置から当時の住居の配置を計算し、建物を再建した。この集落はカエサル率いるローマ軍に占領され、ローマ帝国の領土に組み込まれることになったが、その際に破壊行為が行われた形跡はなく、徐々に衰退し消滅したと考えられている。

左側が倉庫の建物。右が住居

メインの建物が展示室

オリジナルの地下室が残っている。右側に3段ほどの階段が見える。この地下室の用途は明らかでないが、宗教儀式が行われたのではないかと考えられている

亜麻から繊維を取り出す道具(Flachsbrecher)

このミュージアムでは毎年夏にケルト祭りが催される。またその他のイベントなども通じ、ケルト文化を伝えている。

ケルト文化に典型的とされる安全ピン

別の建物の内部。えっ、普通に住めそうじゃない、ここ?と思ったら、イベント時などに運営者が寝泊まりすることがあるそうだ。テーブルや椅子はケルトの資料に基づいて作製されたものだけれど、奥のベッドはIKEAのものだとか。

パンを焼く竃

ミュージアムの閉館時間が近づいていたのでガイドさんはさっさと案内を終了したかったようで、早口のさらっとした説明で終わってしまった。ギリギリに行った私たちが悪いが、もうちょっと詳しく聞きたかったなあ。

というわけであまり多くはわからなかったけれど、ドローン動画を撮影したのでケルト人が生活していたのはどんな場所なのか、雰囲気を感じてもらえれば。

ケルト関連の観光スポットはマンヒンクのケルト・ローマ博物館に続いてこれがまだ2つ目。これからもっといろいろなケルト関連スポットを訪れたい。

ケルト集落から西方向を眺めると、中世の城、Schmidtburgの廃墟が見える。以下はおまけの写真とドローン動画。

上から見たところ

 

先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)

すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。

 

この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。

メインフロア。広々していて見やすい展示だ。

ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。

墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。

マンヒンクのケルト陶器

焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた

 

イノシシやカバは神聖な生き物とされた。

ケルトの樹木信仰を表す黄金の木

紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖

マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。

展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!

経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??

 

このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。

ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm

 

この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。

常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。

特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。

見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。

 

ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。