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TERRA.vitaには自然や地質学的な見どころが多いが、それだけではなく、歴史や考古学の重要スポットもある。TERRA.vita特集の最終回の今回は考古学スポット、カルクリーゼ(Kalkrise)のVarusschlachtミュージアムを紹介したい。

前回の記事で紹介したバークハウゼンの恐竜の足跡を見に行くために車を走らせていたとき、”Varusschlacht”と書かれた看板を見かけた。私はそれが何を意味するか知らず、そのままスルーしかけたが、夫が「へー、Varusschlachtの現場ってこの辺か〜」と呟いた。「何それ?」「ほら、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの場だよ」「ん?それって、もしかしてトイトブルク森の戦いってやつ?」「そうそう、それ!」「あれっ?でも、トイトブルクの森って、ここよりももうちょっと南じゃなかったっけ?」「それがね、戦いの現場がどこだったのか長いことわかってなくて、トイトブルクの森のデトモルトのあたりとされていたけど、わりと最近、その現場らしい場所が見つかって、トイトブルクの森とはちょっと離れていたらしいよ」

へー、そうなんだ。なんかよくわかんないけど、せっかく通りかかったから行ってみる?

Varusschlacht(日本語では「ウァールスの戦い」や「ウァルスの戦い」と表記されるようだ)の現場とされる場所は、オスナブリュックの北17kmほどに位置するブラームシェ(Bramsche)という町の一部、カルクリーゼ(Kalkrise)にある。看板を見ながら行くと、ミュージアムがあった。

 

 

 

「ウァルスの戦い」の背景を先にざっくりまとめておこう。

「ゲルマン人」という概念は2世紀にケルト人による記述によって初めて歴史に登場し、その後、古代ローマ人が使うようになり定着した。しかし実際には、ゲルマン諸部族は部族ごとに分かれて生活し、それぞれの部族名のみで自らを認識していた。当の本人達は「オレたちゲルマン人!」というような統一的なアイデンティティは持っていなかったのだ。それどころか、部族同士でたびたび衝突していたほどで、一致団結して非ゲルマン系の民族と戦うという発想は希薄であった。古代ローマ帝国はそんなゲルマン諸部族の住む地域、つまり彼らが勝手に「ゲルマニア」と呼ぶ地域を支配下に置こうと、紀元7年、プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスをゲルマニア総督として派遣する。ゲルマニアにやって来たこのウァルス総督はわりあいと穏健派で、力づくでゲルマン諸部族を征服しようとはせず、かれらをうまく手懐けているかのようだった。特にケルスキ族の長とは親交が深く、共に食事をし酒を酌み交わすことすらあった。というのも、ケルスキ族の長の息子アルミニウスは、幼少期にローマに人質に取られ、ローマ式の教育を受けて帰って来た青年だった。帰国子女(?)なのでラテン語もペラペラで役に立つ。しかし、そんな一見、平和的な空気の裏で自由を愛するゲルマン諸部族は「ローマ人にコントロールされたくない!」「貢ぎ物ばかりさせられて、たまったもんじゃない」と不満を募らせていた。

ウァルス総督に信頼を寄せられていたアルミニウスだったが、頭はローマ人でも心はやっぱりゲルマン人であった。密かにゲルマン諸部族をまとめ、ローマ軍打倒計画を企ていたのだ。そして、紀元9年、アルミニウス率いるゲルマン軍は森の中でローマ軍を待ち伏せ攻撃し、ほぼ全滅させるという大勝利を収める。裏切られて敗北し、ショックを受けたウァルス総督は自害した。これが「ウァルスの戦い(Varusschlacht)」だ。ローマの歴史家タキトゥスはかの有名な著作「ゲルマニア」の中でこの戦いについて記述した。でも、その具体的な場所は書かなかったので、戦いの場所がどこだったのか、はっきりしたことは長いことわからなかった。きっとここだろうという候補地がなんと700箇所くらい上がっていたらしい。1987年、英国人のアマチュア考古学者がカルクリーゼで古代ローマの銀貨と武器を発見。それをきっかけにカルクリーゼにおける考古学発掘プロジェクトが開始した。

それでは博物館を見ていこう。

博物館の展示はローマ人とゲルマン人の社会や文化の違いの説明から始まっている。ローマ社会は周知の通り、ヒエラルキーが明確である。それに対し、

ゲルマン人は部族ごとに暮らし、統一的な王や皇帝はいない。部族によっては貴族階級的な集団がいたり、明確なリーダーがいる場合もあったが、多くの部族については詳しいことはわかっていないらしい。タキトゥスによると、ゲルマン部族にはお役人は存在せず、何かあれば新月の夜にディング(Thing)と呼ばれる会議を開いてみんなでどうするかを決めていたそうだ。でも、ゲルマン人に関して残っている当時の記述はほぼすべてローマ人目線のものなので、本当に書かれている通りだったのかはわからない。

ゲルマン人はローマ人のように整備された都市を作らず、小さな集落を作って暮らしていた。画像のような長屋を人間と家畜のスペースに区切って、一つ屋根の下で生活するのが一般的だった。

このように立派なローマ兵士の武装具と比べ、

ゲルマン戦士の装具はミニマル。ゲルマン人は組織化された軍隊を持たず、戦いへの参加は各自の自由意志に委ねていた。

 

カルクリーゼでは17世紀から、しばしばローマの金貨が見つかっていた。1885年に歴史家 Theodor Mommsenの依頼を受けた鑑定家 Julius Menadierが、それらの金貨はウァルスの戦いの際に兵士らが失ったものであると結論づけたが、そのときには兵器は発見されず、決定的な証拠にはならなかった。1987年にTony Clunnが大量の銀貨を発見したことで、ここがウァルスの戦いの現場であった可能性が急激に高まったのである。

また、その翌年にはローマの鉛弾とみられる小さな楕円形の物体が発見される。

そして、1990年、カルクリーゼの森に幅およそ15m、高さおよそ40cmの土塁の跡が見つかった。

その後の発掘調査で出てきたものの中で特に注目を浴びたのが、このローマ騎兵の鉄のマスクである。また、動物の骨も多く見つかり、その中にラバの骨も混じっていた。ラバは雄のロバと雌の馬を交雑種である。ゲルマン人はロバを飼っていなかったので、ラバが生まれたはずはなく、ローマ人が連れて来たと考えられる。

このように、カルクリーゼでローマ軍とゲルマン軍が衝突した証拠がいろいろ出て来たことはわかったけど、組織化された軍隊の優れた装具と武器を身につけたローマ兵士達がそれとは比べ物にならないほど原始的なゲルマン軍にあっさりと破れたのはどうしてだろう?

それは、カルクリーゼの地形にあった。カルクリーゼの周辺一帯は沼地で、地盤が柔らかく歩くのがめっちゃ大変。しかも、アルミニウスがローマ軍をおびき寄せた日は嵐で視界も悪かった。ゲルマン軍は小高い砂地の丘の縁に土塁を築き、その後ろに隠れて上から一斉に槍を投げてローマの兵士らを次々と倒したのだった。戦いは3日間続き、2万人もの犠牲者を出した。

一通り展示を見た後、ガイドさんについてフィールドを歩く。背後に見える森はゲルマン軍が隠れていたとされる場所。手前の四角い石はローマ軍が行進した道を示している。

この土塁の後ろにゲルマン軍が

 

ところで、アルミニウスという名前はゲルマン系の名前ではない。彼はローマに人質に取られていたためアルミニウスというローマ名を与えられたが、もともとはなんという名前だったのか、誰も知らない。ドイツの歴史において、アルミニウスに対する評価は時代とともに変化した。ドイツ民族の誇りとして英雄視された時期もある。その際に、ドイツ人の英雄の名前がローマ名ってどうなのよ、ということで、ヘルマン(Hermann「戦士」の意味)と呼ばれるようになった(現在はまたアルミニウスという呼び方が一般的)。普仏戦争後のドイツのナショナリズムの高まりの中では不屈のシンボルとして特に崇められ、1875年には当時、ウァルスの戦いの現場と推測されていたデトモルト(Detmold)に高さ54mに及ぶヘルマン像が建てられている。

 

カルクリーゼの発掘調査は今も続行中だ。この日は休日だったので、考古学者らもお休みで、現場は防水シートで覆われていた。ガイドさんが「最近、またすごいものが見つかったんですよ。9月25日にプレスリリースがあるので期待してくださいね」と言っていたので楽しみにしていた。

昨日発表されたプレスリリースによると、2018年に出土された大きな金属の物体を分析したところ、ローマ兵の鎧であることが判明したそうだ。ほぼ完全に保存されており、しかも、それを身につけていた兵士は手錠で両手を首のあたりに固定されていたこともわかった。これについてもまとめると長くなり過ぎるので、またの機会にしよう。興味のある方はこちら(英語ページもあり)を参照してください。前述のようにこのあたりの土壌は水分が多いので発掘調査はかなり大変らしい。まだまだ多くのものが埋まっていると推測されるそうで、今後の進展が楽しみだ。

これにてUNESCOグローバルジオパークTERRA.vitaの3つのスポット紹介を終わります。ジオパークには他にもたくさんの見どころがあるので、また行きたいな。

このところドタバタと忙しく、ちょっと時間が経ってしまったが、まにあっくドイツ観光ラインラント編の続き。

三日目はケルンから南西に35kmのツュルピッヒ(Zülpich)へ行った。目的はローマ浴場の遺跡と、そこに作られた入浴文化博物館(Museum der Badekultur)だ。

ツュルピッヒは古代にはTolbiacumと呼ばれる村で、複数の街道が交差する場所にあった。2世紀にここに浴場が建設され、拡張されながら4世紀の終わりまで存続したらしい。およそ400m平米の広さのこの遺跡は1929年に初めて発掘され、90年代に本格調査が行われた後、2008年ミュージアムとして公開された。

Römerthemen Zülpich – Museum der Badekultur

この辺りは 紀元85年から約500年間、ゲルマニア・インフェリオル(Germania inferior)と呼ばれる古代ローマの属州だった(地図の濃い色の部分)。州都は、コロニア・アグリッピネンシス 、現在のケルン。そこに下のモデルのような浴場施設が存在していたのだ。

古代ローマ人はギリシアから浴場建築を取り入れ、少しづつ改良しながら独自の入浴文化を作り上げていった。紀元前100年頃のギリシアの浴場にはすでに床暖房技術があったが、ローマ人がそれを完成させたそうである。

これがツュルピッヒのローマ浴場の実物。

小さな平たいレンガが積み上げてある。床下で床板を支えていたもので、これらのレンガの柱の間を温められた空気が移動していた。

床板の残っている部分。

浴室にはカルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)という3種類がある。カルダリウムには浴槽があった。お湯の温度は約40℃、室温は50℃、湿度は100%。テピダリウムには浴槽はなく、室温約25℃。ここでは温かい床の上で寛いだり、マッサージや垢すりなどの施術を受けた。フリギダリウムには熱い風呂に入った後に体を冷やす冷水プールがあった。

火を起こす場所

フリギダリウム

じゃーん!これが古代ローマの浴槽だ。

排水口


遺跡の一部はガラス張りで、上を歩くことができる。

浴場断面図モデル。ローマの浴場は午前11時頃に開き、男女別に利用時間が設定されていたそう。

ローマのお風呂4点セット。取って付き洗面器、油壺、リネンの手ぬぐい、それにstriglisというブロンズ製の垢すり道具(一番左)。こんな道具で一体どうやって体を擦るのかと思ったら、、、。

こうやるんだって。うーん、使いやすかったのかなあ?

トイレ。立派なことに水洗。流すのにはお風呂の残り湯を使っていたそうだ。

排水路

遺跡だけでもかなり見応えがあるけれど、この博物館は結構大きくて、ここから先は中世から現代までの入浴文化についての展示が続く。これがかなり面白く、全てをメモすることはできないので、帰りにミュージアムショップで入浴文化史の本を買ってしまった。内容を紹介したいところだけれど、あまりに長くなってしまうので、また改めて別の記事にしたいと思う。

でも、せめて面白い浴槽を二つ紹介しよう。

70年代の蓋つきの浴槽。家具っぽい。

Schaukelbad(ゆりかご風呂?)

さて、ここまでは常設展示の内容で、特別展示室では「東西ドイツの風呂文化」というのをやっていた。

東西ドイツを隔てる壁に見立てた仕切りが中央に

この展示も面白かった〜。

東ドイツのタンポン

旧東ドイツの典型的な浴室風景

この特別展示では、Freikörperkultur(自由な肉体の文化、FKK)と呼ばれるドイツの裸文化に関する東西ドイツの違いに重点が置かれていて、それが興味深かった。FKKというのは、ドイツに住んでいる人なら恐らく誰でも聞いたことがあり、また目にしたこともあるであろうヌーディズムのこと。ドイツではサウナは基本的に混浴で水着の着用は禁止。タオルも体に巻かずに下に敷くのが原則だ。異性の目を気にせず全裸になる人たちが少なくなく、海岸や湖にはFKKビーチと呼ばれるヌーディスト専用のビーチもある。こうしたドイツのヌーディズムは元々は19世紀のドイツ帝国時代に始まった。当時の衣服は現在の普段着よりも手の込んだ作りだったため、窮屈で煩わしく感じていた人たちも多かったらしい。なんとなくわからないでもないけれど、やはり当時は白い目で見られるような行為であったようだ。その後のワイマール共和国時代には自由で健康的なライフスタイルを求めヌーディズムに憧れる人々が現れた。これは性的で後ろめたさを伴う裸体とは別のものである!という意識からFreikörperkulturという言葉がこの頃、生まれたそうだ。

ナチスの時代にはアーリア民族を他民族と区別し、優位性を強調するためにFKKが利用されたが、第二次世界大戦後、再定義されることになる。旧西ドイツでは1949年に「ドイツFKK連盟」が結成された。しかし、アデナウアー時代には「公衆の面前でパンツを脱ぐのは不可」と禁じられた。旧西ドイツではFKKは一般的に批判の対象であり、一部の人々が実践するにすぎなかったが、60年代後半のヒッピームーブメントの流れの中で、抗議の象徴として裸体を晒す若者らが登場した。

一方、旧東ドイツでは事情が異なった。独裁政権下で自由を奪われ息苦しい生活を強いられていた国民は、衣服を脱ぎ捨て自然の姿に返ることに心の解放を求めた。東ドイツ政府もやはりFKK組織を禁じたが、組織化されない個人レベルのヌーディズムは取り締まることが難しく、それどころか政府高官らまでも裸になりたがったため、1953年に禁止が解除される。その後老若男女に広がって「東ドイツのFKK文化」が社会に定着することになった。

FKKは現在も根強い人気があり、良い季節になるとFKK用のビーチで裸で日光浴をする人たちの姿が見られる。そこでは性別も年齢も関係なく、自然と一体化する感覚を楽しんでいるようだ。(決していかがわしいものではないので、誤解のないようお願いします

そんなわけで、古代ローマの浴場遺跡を見学し、その上入浴の文化史も学べるツュルピッヒの入浴文化博物館は充実した博物館である。かなり気に入った。

先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)

すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。

 

この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。

メインフロア。広々していて見やすい展示だ。

ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。

墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。

マンヒンクのケルト陶器

焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた

 

イノシシやカバは神聖な生き物とされた。

ケルトの樹木信仰を表す黄金の木

紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖

マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。

展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!

経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??

 

このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。

ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm

 

この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。

常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。

特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。

見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。

 

ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。