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日本がGW中で、日本から新規の仕事が入ってくる可能性がない。このタイミングを利用して、かねてからやりたいと思っていたことを実現させることにした。

それは、ドライブ一人旅である。

車の運転をするようになって、かれこれ15年近くにもなるが、実は私は長いこと近場専門、一般道路オンリーのドライバーだった。スピードが怖くてアウトバーンを走れない。つまり、マイカーでの遠出が一人ではできなかったのだ。幸い、夫は運転が大好きなので、一緒に行動するときにはいつも運転を担当してくれる。しかし、夫には行きたい場所と行きたくない場所があり、そのため彼の気が進まない場所には行くことができないという問題があった

アウトバーンで運転恐怖症を克服すれば、一人で好きな場所へ行ける。そう思いつつ、アウトバーンデビューするまでに恐ろしく時間がかかった。最近ようやく片道100km程度なら一人で遠出するようになったので、この調子なら、もっと遠くまで行けそうだということで、数日の予定でテューリンゲン地方へドライブ旅行をすることに決めたのである。目的はもちろん、マニアックな観光スポットを訪れること。(マニアックではない普通の観光地も好きなので、それも含めて)

 

今朝、自宅を出発し、まず向かったのはイエナの光学博物館、Optisches Museum Jenaだ。

イエナは、1848年、かの有名な光学機器メーカー、カール・ツァイス社の創立された町である。ツァイス社は第二次世界大戦後、ドイツの東西分断により、西ドイツのカール・ツァイス・オプトンと東ドイツのカール・ツァイス・イエナの二つの会社に分かれて発展した。ドイツ統一後は再び統合され、現在のカール・ツァイス本社は旧西ドイツのオーバーコッヘンに置かれている。ややこしいことに、ツァイスの光学博物館もイエナとオーバーコッヘンの両方にある。私が今回訪れたのはイエナのOptisches Museum Jenaの方

 

 

博物館の外観はわりと地味。

 

中は1階、2階と地下の3フロアで、オーディオガイドは日本語も選べる。1階部分は9つの部屋に分かれており、カール・ツァイスについて、また、ツァイスと共にドイツ光学産業の礎を築いたイエナ・グラスの開発者オットー・ショット及び天文学者エルンスト・アッべについての展示のほか、眼科用機器、顕微鏡、望遠鏡、カメラなど、ツァイス製の数多くの製品を見ることができる。

 

機械工であった若き日のカール・ツァイスは、イエナに顕微鏡工房を構え、同時に小さな販売店を設けてメガネなどを販売していたが、その頃、販売していたメガネはドイツ光学産業の発祥地、ブランデンブルク州ラーテノウ製のものであった。(ラーテノウについての過去記事はこちら

 

ラーテノウの光学博物館同様、ここでもメガネの歴史に関する展示が見られる。イエナのメガネコレクションは欧州最大で、ここではそのうちの選りすぐりの物を陳列しているという。

 

 

ラーテノウでは見られなかった「ハサミ型メガネ(Scherenbrillen)」も展示されている。こんな不便そうなものをよく使っていたものだと思うが、当時はこういうメガネを持っているのがステイタスだったらしい。

 

日本製のメガネ。説明には「日本では鎖国政策により、メガネの導入が遅れた。17世紀になって、ようやくオランダ人によりメガネの製作法が伝えられた」とある。

インドのメガネ。

 

メガネは知識がなくてもわかりやすいので、つい、メガネの展示ばかりじっくり見てしまったのだが、もちろん、その他の光学製品の展示も充実している。

この不思議な装置は、患者の網膜を9人が一遍に観察することのできる検眼器。医学部で学習用に使われていたそうだ。

 

様々なツァイス製品。

これはツァイス製ではなく、フランス製のバロック顕微鏡だそう。

 

なんか、これすごいなあ。写真測量の機械だって。

 

正直なところ、カメラや顕微鏡、望遠鏡が多く展示されていても、それぞれの違いについて技術的なことが理解できない。「わかる人はわかる」という感じなのだろう。なので、私にはむしろカール・ツァイス社を創立したツァイス、ショット、アッべの三者についての説明が面白かった。特に、ツァイスが製作した初期の顕微鏡に数学的計算を応用し、品質の飛躍的改善に貢献したアッべについてはこれまで知らなかったので、特に興味深かった。

アッべはツァイスの死後、カール・ツァイス財団を設立したが、社員への福利厚生制度を導入し、利益を科学の発展と社会の改善のために資するなど社会的な企業倫理を打ち出し、実現させた。現代の言葉でいえば「社会起業家」だったのだ。天才的頭脳を持っていただけでなく、高尚な理念ある実業家だったとは、世の中には偉大な人がいるものだと感心するばかり。

 

それにしても、19世紀のドイツの知の発展は素晴らしい。当時のドイツの大学の雰囲気はどんなものだったのだろうかと想像するのが好きだ。ドイツの光学産業が確固たる世界的地位を確立したのは、ツァイス、ショット、アッべの三者が互いに出会ったからにほかならない。世の中を動かすのは「コラボの力」なのだなと改めて感じた。

 

博物館の2階はプラネタリウム技術、地下はホログラム技術の展示の他、イエナにあったツァイスの初期の製作所を再現したコーナーがある。

 

 

今日は午前中から抜けるような青空が広がった。ドライブ日和である。平日だが、仕事は日没後に回し、出かけることにした。

 

目的地はラーテノウ。ブランデンブルク州西部の人口2万5千人弱の小さな町だ。日本人でラーテノウの名前を聞いたことのある人は、おそらく少ないだろう。

 

 

この町に何をしに行ったのかというと、光学博物館(Optik Industrie Museum Rathenow)を見るためである。つい最近まで知らなかったのだが、この町はドイツ光学産業の発祥地だそうだ。ドイツの光学機器メーカーといえば、カール・ツァイスがあまりにも有名だが、ラーテノウではツァイス社創業よりもずっと前の1801年、ヨハン・ハインリヒ・アウグスト・ドゥンカーがプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の許可を得、”Königlich privilegierten optischen Industrie-Anstalt”を創立した。19845年、何代目かに経営権を握ったエミール・ブッシュにより、同社はエミール・ブッシュ社と改名され、一躍、国際的な光学機器総合メーカーに発展した。日本へは「ニコラ・ペルシャイト」という有名なポートレート用の軟焦点レンズが輸出されていた

 

ラーテノウの光学博物館は町中心部の文化会館(Kulturzentrum)の3階にあった。それほど大きなミュージアムではないが、なかなか面白い。

 

 

これはドゥンカーが1801年に発明し、特許を取得したレンズ研磨機である。11個のレンズを同時に磨くことができる。

 

創業当時、同社の主な製品はメガネだった。欧州にはそれ以前にもメガネは存在していたが、レンズのカットが悪く、品質が低かった。ドゥンカーは視力測定のガイドラインを作り、高品質なメガネの生産を開始。こうしてラーテノウは「ドイツの目」として国際的な評価を受けるまでになる。

 

 

ドゥンカー以前のメガネ。最も初期のメガネはNietbrille(ニートブリレ)と呼ばれ、2つのレンズの柄の部分がNiete(リベット)で留めてあるものだった。写真の右端がそれ。当初はメガネを手に持つか、鼻に掛けて使っていたが、やがて、耳にかけるツルのあるメガネが登場した。

 

ドゥンカーが製造したメガネ。かなり洗練され、メガネらしいメガネになっている。

 

かなりお洒落な感じ。

1920年代に作られた同社製メガネ。

 

エミール・ブッシュ社に改名してからは、メガネだけでなく、ルーペ、顕微鏡、双眼鏡、望遠鏡などあらゆるレンズ製品を手がけるようになり、さらには写真撮影用カメラや映像カメラ、視力測定装置に至るまでを製造する光学機器総合メーカーへと発展した。

 

 

 

 

 

 

ラーテノウも他の多くのドイツの都市と同様、第二次世界大戦ですっかり破壊されたが、戦後、人民公社、Rathenow Optische Werkeとして復活し、後にカール・ツァイス・イェーナに吸収された。旧東ドイツ(ドイツ民主共和国、DDR)時代のメガネはすべてラーテノウで作られていたそうだ。

 

ラーテノウの街並みは小綺麗でモダンであり、市内にはOptikpark(光学パーク)と名付けられた庭園もあるが、観光地ではない。光学博物館は興味深いが、最寄りの大きな町、ブランデンブルクから20kmも離れているので、博物館を見るためだけに行くのはちょっと大変かもしれない。

 

と、考えながら帰ってきたのだが、家に着いてから改めて検索したところ、なんとこの町には大黒貴之さんという日本人彫刻家の方がお住まいだとのこと。ベルリン在住のジャーナリスト、中村真人さんが紹介しておられた。

ブランデンブルク州 市制800年 ラーテノウを歩く

 

意外なところに日本との繋がりがあるものだ。これをきっかけに、大黒さんの作品を拝見させて頂こうと思う。