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今週末はベルリン中心部から40kmほど南下したところにあるツォッセン(Zossen)市の一地区、ヴュンスドルフ(Wünsdorf)へ行って来た。

目的はドイツ最大の秘密基地の一つ、マイバッハI(Maybach I)  とツェッペリン(Zeppelin)を見学するためだ。ヴュンスドルフの静かな森の中には巨大な防空壕の残骸がいくつも並んでいるという。それらの施設は第二次世界大戦直前の1937〜39年に建設され、ドイツ陸軍総司令部がそこに移された。冷戦時代にはロシア軍により再利用されていたが、現在はミュージアムとして一般公開されている。

 

 

「禁じられた町(Verbotene Stadt)」と呼ばれる基地跡を見学するにはガイドツアーに参加しなければならない。いくつかのツアーがあるが、今回は予約なしで参加できる基本的なツアーに申し込んだ。ツアー時間は約90分。

禁じられた町の敷地内に入り、まずはマイバッハIの敷地を見て回る。Maybach Iには大きさと形が同一の防空壕機能を備えた建物(ブンカーハウス)が12棟並んでいる。Maybach Iと、その後隣接する敷地に建設されたMaybach IIは1947〜1948年にロシア軍により爆破され、現在、廃墟の状態で保存されている。

 

ハウスA2。地上3階、地下2階の5階建として設計されたブンカーハウスの大きさはいずれも幅16m、奥行き36m。1階の一部と地下は特に強力な厚さ1mの鉄筋コンクリートの天井と壁で守られたコア部分を成していた。

 

当時はカムフラージュのため屋根や外壁は別の建材で覆われ、ダミーの煙突や窓が取り付けられていた。それぞれの建物には指令棟、調達棟など異なる機能が与えられ、互いに地下9mの深さの地下通路で繋がっていた。業務は通常、地上階のオフィスで行われていたが、空襲警報が発せられるとスタッフは機密文書やタイプライター、無線機、武器、ヘルメットそしてガスマスクなどを持って地下へ避難した。

 

 

6つのブンカーハウスを見て回った後は、通信基地Zeppelinの内部に入る。

 


 

この通信基地は地下20mに及ぶ3階建てで、現在の内部温度は10℃ほど。とても冷んやりとしている。暖房設備はもともとないが、建物が使用されていた当時は常に500人を超える作業員の体と古い機器から発せられる熱気で寒いどころか、むしろ暑かったらしい。

 

長い長い通路。このZeppelinもやはり第二次世界大戦後に爆破されたが、冷戦時代、ソ連軍が修理し、再利用した。

 

ツアーはこれで終わり、敷地の外に出た。しかし、見るべきものはこれだけではない。フェンスで囲まれた敷地の外部にも防空壕がいくつも残っているのだ。

 

Winkelと呼ばれる防空壕。尖っているのでSpitzbunker(尖ったブンカー)とも呼ばれる。「禁じられた町」内部への避難を許可されない警備員や民間作業員の一時避難用に建てられたもの。

 

基地周辺にニョキニョキと巨大なタケノコのように立っている。

 

アパートの庭にもどーんとそびえているのには驚いた。現在ここに住む人はどんな気持ちでこのブンカーを眺めているのだろうか。このようなSpitzbunkerの内部は8階まであり、最高315人を収容できる。こうしたタイプの防空壕は地下に掘るものよりも建設が簡単でコストも安く済むため、多く作られた。地上にあるとその分危険なように感じるが、上から見た面積を小さくすることで空から降ってくる爆弾をうまくよけることができるという。

 

そして、ヴュンスドルフにはさらにいくつかのミュージアムがある。その一つはプロイセンの時代からすでに軍事拠点だったヴュンスドルフの軍事史を知ることのできる駐屯博物館(Garnisonsmuseum)だ。

 

 

展示品は豊富なのだが、年代順に展示されておらず、説明文の大部分は壁ではなく各コーナーに置かれたファイルの中にあるため、軍事史の予備知識がないとちょっとわかりづらいのが残念。

 

 

ヴュンスドルフには第一次世界大戦の捕虜収容施設があった。捕虜の多くはイスラム教徒で、「捕虜には人間的な待遇をしていますよ」という対外アピールのため、敷地内にはモスクが建設された。このモスクは現在は残っていないが、ドイツ国内に初めて建てられたモスクである。

 

野戦病院に関する展示。

 

「赤い星ミュージアム(Roter Stern)」も見学した。こちらではロシア/ソヴィエト軍に関する展示が見られる。

 

 

ロシア語は読めないので、何が書かれているかわからない。残念。

 

ヴュンスドルフはかなり見応えのある観光スポットだ。ベルリンからのアクセスも良い。それにしても、ドイツはどこもかしこも戦争の傷跡だらけだ。暗く悲惨な過去など見たくないと思ったとしても、避けることは到底できない。戦争の恐ろしさを繰り返し繰り返し思い出させられる。

 

 

イースター休みが終わったと思ったら、もう週末。この季節は休みばかりだ。あいにく今年は天候が安定せず、観光日和とは言い難い日が続いているが、めげずに今日もマニアックな観光を楽しんで来た。

今回訪れたのは、ベルリン中心部から南東へ約75kmに位置する美しい保養地、Bad Saarowの外れにある秘密の軍事基地、Bunkeranlage Fuchsbau

この掩体壕はナチスにより作られ、第二次世界大戦後は東ドイツ軍(NVA)が利用し、そしてドイツ統一後しばらくは、ドイツ連邦軍の管理下に置かれた。70年間に渡るドイツ軍事史上の複数エポックの遺産である貴重な史跡だ。現在はBunkermuseum Fuchsbau – ZGS14の名で一般公開されている。

 

 

ミュージアム入口。

 

ミュージアムにはあらかじめガイドツアーを申し込み、入場する。「基地の歴史ツアー」「技術設備見学ツアー」「写真撮影ツアー」がある他、「元軍人による体験語りツアー」が新たに加わった。私は歴史ツアーに申し込んでいたのだが、元軍人による体験語りツアーの開始時刻が同じだったため、間違えて後者に参加してしまったが、良いツアーだった。ガイドさんはこの基地で任務に当たっていた東ドイツ軍の元中佐(Oberstleutenant)だという。2.5時間に及ぶ本格ツアーで、滅多に聞くことのできない話をじっくり聞けるすごい機会だった。

 

1943年、ナチスはベルリン北部のオラーニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所の囚人、約900人を使ってここに武装親衛隊(Waffen-SS)の通信連隊のための秘密基地を建設した。現在、ミュージアムの名称となっている「(フクスバウ)Fuchsbau」は当時、基地につけられたコードネームが由来である。ナチスは3本のトンネルを基本構造とするこの基地から、ベルリン、ワルシャワ、プラハ、リガ(ラトヴィア)、ウィーン、メッツ(フランス)、アペルドールン(オランダ)などの主要都市へ蜘蛛の巣状に通信網を張った。

 

敗戦時に武装親衛隊のメンバーが基地から逃亡すると、ソ連軍は基地を抑え、破壊を試みたが失敗。基地は部分的に破損した状態で放置された。その後、東ドイツ軍がこの基地に隣接する第二の地下壕を掘り、基地を拡大。航空状況監視システムを整備して航空軍事司令部を配置した。1977年にはワルシャワ条約機構加盟国に共通のデータ自動通信網(ALMAS)が導入され、フクスバウもそのネットワーク拠点の一つとなった。

 

基地入口。この基地はドイツ統一後は、1995年に完全閉鎖されるまで、連邦ドイツ軍の救難隊(SAR)の拠点として利用された。閉鎖時にこの入口はコンクリートで塞がれたため、ミュージアム化にあたって、コンクリートを除去する工事が大変だったらしい。

 

ナチス時代に作られた第一の掩体壕の通路。

 

気象観測室。右側の壁の丸みからトンネル構造をしていることがわかる。

 

二つの地下壕を繋ぐ通路。

 

第二掩体壕の内部の様子。

 

電算室。丸い容器にはハードディスクが入っている。後ろに並んでいる機器はIBM製。つまり、西側諸国から闇ルートで入手したもの。

 

 

誘導室で中佐の体験談を聞く。勤務は24時間体制で朝7時に交代。地下に24時間閉じこもって仕事をした後は体の感覚がおかしかったという。旧東ドイツでは自家用車を所有している人は限られており、基地への通勤にはローカルバスを使っていた。一般市民は秘密基地の存在を知らないことになっていたが、早朝に軍人達がバスを待っている姿を見て、地元の人は薄々感づいていただろうと中佐は語る。

 

 

 

無線室。

 

その他、水道施設や機械室などを見学し、再びトンネルを通って外へ。

 

とても充実したツアーだが、地下に2時間半もいると体が冷えて来る。冬のコートを着て行って良かった。このミュージアムはマニアック度がかなり高いので、誰もに気にいる場所ではないと思うが、フクスバウ基地のあるBad Saarow自体はロマンチックな風景が好きな人にもお勧めできるとても綺麗な町で、特にテルメが素晴らしい。