ドイツの運河探検、第4段!今回訪れたのは、北海とバルト海を結ぶキール運河(ドイツ語ではNord-Ostsee-Kanal)である。北海沿岸のブルンスビュッテルからバルト海に面したキールまで延びる、全長98.6kmの運河だ。長さはそれほどでもないが、年間3万隻以上の船舶が通航する国際的な航路として超重要である。

キール運河

この運河はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の下で1895年に完成した。それまで、北海からバルト海へ出るにはデンマークのユトランド半島をぐるりと回るしかなく、とても時間がかかっていた。この運河の開通で航行距離は約250kmも短縮された。キール運河は全域にわたって完全に水平で、北海側の出入り口とバルト海側の出入り口に潮の満ち干による水位の変化を調整するためにそれぞれ建設された閘門を除いて、閘門設備を必要としない。

キール運河にあるいくつかの見どころのうち、絶対見たい!と思っていたのがレンズブルク(Rensburg)にある運搬橋(Rensburger Schwebefähre)というもの。鉄道橋の下に吊り下げられたゴンドラが、人や車を乗せてワイヤーで対岸へと渡るというユニークな仕組みらしい。

この運搬橋は、キール運河にかかるレンズブルク高架鉄道橋(Rendsburger Hochbrücke)の一部を成している。

この鉄道橋の存在感がそもそも半端ではなく、ハンブルクから電車でレンズブルクに近づくと、右手の窓からカーブを描く巨大な橋が目に飛び込んで来る。なんだろうと目を見張って窓の外を見ていたら、自分を乗せた電車はその橋に乗り、ループをぐるりと一周してレンズブルクの駅に到着した。遊園地のアトラクション的な体験で、これだけでも価値がある。橋の高さは地上から42m。レンスブルクのランドマークどころではなく、町の景観において大きな空間を占めている。なぜこんなに高い場所に橋を通したのかというと、キール運河は国際航路として大型船が通るため、運河をまたぐ橋は「少なくとも40m以上」のクリアランスが必要とされたとのこと。特異なループ構造は、その高さから徐々に高度を下げて地上の駅に降りるために考案されたもので、その結果、橋の全長は2,486mもある。

駅を出て、運河に向かって歩いた。

運河にかかる鉄道橋

この橋は1913年に完成したが、スチールという建材は当時、まだ新しく、住民は見慣れない巨大な建築物を不気味に感じたらしい。まだ溶接技術が実用化されていなかったので、橋の部品はすべてリベットで固定されている。使われているリベットの数は320万本!近代スチール建築の傑作と言えるのではないだろうか。レンズブルクの高架鉄道橋は今日、「鉄のレディ(Eiserne Lady)」の愛称で親しまれている。

さてさて、目当てはゴンドラである。運河の対岸に目をやると、おお!

あれが噂のゴンドラ(Schwebefähre)!すごい!あれに乗って運河を渡れるのか。

、、、と思ったら、ゴンドラは空。動いていないのか?運河沿いのレストランで聞いたら、なんと故障中だという。えええー、ガッカリ。乗る気満々でここまで来たのに、、、。

自分が乗れないまでも、動いている様子を見たかったのに、叶わず残念である。でも、それにしてもすごい仕組みだ。あんな高いところからワイヤーで吊り下げた構造物に揺られるなんて、乗っている時間はわずか2分ほどとはいえ、怖いと感じる人もいるのではないだろうか。このような運搬橋は世界中に20くらいしか作られていない。その中で現存するのはたったの8つだという。鉄道橋との複合構造になっているのは、たぶん世界でここだけ。超貴重だね。

今度来たら絶対に乗ってやる!

 

 

ドイツの運河探検の第三弾は、ミッテルラント運河。1906年に建設が始まった全長325kmのこの運河は、ドルトムント・エムス運河からベルゲスへーヴェデ(Bergenhövede)で枝分かれし、マクデブルクでエルベ川と接続する。北ドイツにはライン川、エムス川、ヴェーザー川、エルベ川の流域を結ぶWest-Ost-Wasserstraßeと呼ばれる水路システムがあり、ミッテルラント運河はその中心部としてとても重要な役割を果たしている。

ミッテルラント運河の見どころの一つは運河と川の交差点、ミンデンの水路十字(Wasserstraßenkreuz Minden)だ。ミッテルラント運河のルートは北ドイツ低地の南縁を通っており、ミュンスターからハノーファー=アンダーセンまで、211 km にわたって、船は海抜50.3メートルの高さの水面をずっと維持して走ることができ 、閘門を必要としない。しかし、ミンデンでは運河よりも平均水位が約13 m 低いヴェーザー川を横断する。つまり、運河がヴェーザー川の上を通り、なおかつ両者が接続するための設備を建設する必要があった。ミンデンの水路十字とは1911年から1914年にかけて建設された閘門や水路橋、連絡運河などを含む設備全体を総称している。

 

全体像はこんな感じ(図はビジターセンターの展示から借用)。水路橋(Kanalbrücke)を歩いて渡り、閘門まで行くことができる。

 

ミンデン中央駅から水路橋の下までは歩くと30分くらいかかるが、ラッキーなことにちょうどバスが来たので、15分で着いた。

これが水路橋。車が通る道路を大型の船が横切ると思うと、ちょっと怖い。道路の左側にある階段を登って橋の上に上がる。

ちなみにこの鉄筋コンクリートの橋は90年代に拡張された部分で、旧水路橋に続いている。

第二次世界大戦で破壊され、1949年に再建された旧水路橋 (Alte Kanalbrücke)

運河の下をくぐる線路

ポンプ室。蒸発、浸透、閘門の操作などによって失われる運河の水をヴェーザー川から汲み上げた水で補給し、運河の水位を一定に保つ。

ミッテルラント運河が連絡水路に枝分かれする場所

連絡運河がヴェーザー川に接続する場所にある新旧の閘門

外観の美しい旧閘門

旧閘門。全長82m、幅10m。

旧閘門は閘室が縦に深く掘られた立坑型閘門(Schatschleuse)と呼ばれる構造だ。水位調整のための水は左右に4つづつ縦に重ねて設置された節水層に溜めることでリサイクルされる。節水層は建物に内蔵されているので、外部からは見えない。

ビジターセンターにあった模型。下の節水層から順番に水が閘室に出ていくことで水位が上がり、船が持ち上がる仕組みがよくわかる。

旧閘門は100年以上前に建設されたもので、当時の貨物船には対応できたが、現代の大型船舶やプッシュ船団には小さすぎて非効率だったので、2017年、新しい閘門が開通した。

旧閘室から大幅にサイズアップして全長139m、幅12m。

新閘門の節水層は外部設置

ゲートが開いてボートが出ていく。

ミンデンの水路十字はとても見応えがあって、見に行った甲斐があった。ビジターセンターの展示も充実していて、閘門の仕組みもよく理解できた。

新旧の閘門の模型

 

歩いて回ると結構な距離(帰りはバスを逃して、駅まで歩いて戻った)で疲れた。ミンデン駅で自転車を借りられるので、自転車にすれば楽だったかな。

 

今回探検した運河はオーダー・ハーフェル運河(Oder-Havel-Kanal)。その名の通り、オーデル川とハーフェル川を繋いでいる。前回の記事に書いたフィノウ運河も、オーデル川とハーフェル川を繋ぐ運河だった。そう、オーデル・ハーフェル運河はフィノウ運河の数km北をフィノウ運河とほぼ並行に東西に伸びている。18世紀に建設されたフィノウ運河は(18世紀建設)は曲がりくねって浅かったため、大型船が通れるようにする目的で1905年に建設が始まり、1914年に完成した。ベルリンと当時ドイツ帝国領だったシュチェチン(現在はポーランド)間の水上交通の主幹ルートして機能した。バルト海への出口港であるシュチェチンはであり、ドイツ帝国にとって戦略的に重要な都市だった。オーダー・ハーフェル運河現在もなお、ドイツ〜ポーランド間の物流の大動脈である。

この運河の見どころは、なんといってもニーダーフィノウの船の昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)だ。2017年に一度訪れており、過去記事で紹介している。

同じことを二度書いてもしかたがないので、昇降機の詳細は今回は省くが、前回とは違っていることがあった。それは、2017年当時は建設中だった新しい昇降機が2022年に完成し、稼働していること。

1927年に建設された旧昇降機(左)と2022年完成の新昇降機(右)が並んでいる。

新昇降機が建設された理由は、旧昇降機の最大船舶サイズでは、現代の内陸輸送需要に合わなくなったため。新昇降機は長さ115m、幅12.5m、深さ4mまで対応しており、より大型の船舶が通行可能になった。内部を見学できるガイドツアーもある。

旧昇降機も現役だが、現在は主に観光に利用されている。

丘側から見た旧昇降機。新昇降機と比べると小さいが、それでも堂々としたもの。機能美と風格に惚れ惚れする。

ニーダーフィノウ一帯は低地で、船は昇降機によって丘を越え、より標高の高いベルリンへと運ばれる。

さて、オーデル・ハーフェル運河には、昇降機以外にも面白いものがある。その一つは、運河と線路が交差する鉄道トンネルだ。

電車は運河の下を通る。

船がやって来た。

のどかなフィノウ運河と近代技術を駆使したオーダー・ハーフェル運河は、流路はほぼ同じなのにまったく表情が異なる。なんだか、まるで二卵性の双子のようなのである。

 

運河探検は続く。

最近、運河巡りに凝っている。日本では運河というと小樽運河のように海沿いにあることが多いけれど、ドイツ、特に北ドイツには内陸運河もたくさんある。ライン川やエルベ川などのドイツの主要な河川は流れがゆったりとしていて古くから輸送に使われて来た。17世紀頃からそれらの自然河川同士を結ぶ運河が建設され始め、19世紀以降に本格化した。地形が平坦で運河が建設しやすい北ドイツでは、河川と一体化した高密度な水路ネットワークが発達しているのだ。現在では主に観光目的で使われている古い歴史的な運河から近代的なハイテク運河までいろいろあるのでとても面白い。

ドイツ最古の現存運河、フィノウ運河(Finowkanal)はベルリンの北東50kmくらいのところにある。ポーランドとの国境オーデル川とハーフェル川を結ぶ、東西に伸びる全長約43kmの運河だ。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒの命令によって1605年に建設が開始され、1620年ごろに完成した。1618年から30年間続いた宗教戦争でボロボロになってしまったが、1743年にプロイセン国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)により再建された。

運河の建設当時、周辺地域では製鉄業や木材・木タール生産などの産業が伸びており、運河ができたことによってさらに一大産業拠点へと発展した。インフラ投資によって経済基盤を強化するプロイセン王国の国家プロジェクトとして作られたフィノウ運河だったが、1914年にフィノウ運河とパラレルに近代的なオーダー・ハーフェル運河が建設されたことで輸送インフラとしての重要性を失った。現在は歴史遺産+観光資源として保存されていて、楽しめる。

現在はとてものどかなフィノウ運河

運河には船が通るためのいろんな可動橋がかかっていて、面白い。

木製の跳ね橋(Zugbrücke Niederfinow)

こんな船が通過するよ。

これはエヴァースヴァルデのテーブル橋(Hubbrücke)

船が通るときにはこの橋部分が垂直に上がるのだ。

さて、フィノウ運河のあるブランデンブルク州は基本的には平らなのだが、そうはいっても場所によってある程度の標高差はある。ハーフェル川側よりもオーデル川側の方が低いので、高低差を克服するために閘門(Schleuse)というものが随所に作られた。どういう仕組みかというと、運河の途中に前後に扉のある区間を作り、その区間の中の水位を上下させることで船を持ち上げたり下げたりする。フィノウ運河には手動で開け閉めされる歴史的黄門が12箇所ある。現在、そのうちの上流側の6つは補修工事中だが。ドラートハマー閘門(Schleuse Drahthammer)〜リーぺ閘門(Schleuse Liepe)間はボートなどで通過できる。

文化財に指定されているドラートハマー閘門(Schleuse Drahthammer)。

下流側から見た閘門

1877年に完成した閘門扉(Tore)。船はここに入って水位調整され、上流に抜けていく。

閘室の両側には、操作員が上から水門を開閉したり、点検したりするためのメンテナンスデッキがある。

水位を制御するための堰

閘門のそばに古い小型船が展示されている。これは、ただの古い船ではない。フィノウ規格艀(Finowmaß-Kahn)と呼ばれる船である。運河には、「この運河にはどんな大きさの船まで通れるか?」を決める運河規格というものがある。たとえば、パナマ運河を通るコンテナ船はパナマックス(Panamax)と呼ばれる規格で製造される。フィノウ規格はドイツの内陸水運における最古の規格なのだ。

せっかくなので、カヌーを借りてフィノウ運河を移動してみた。

ヨシキリの鳴き声が響き渡る中、ゆっくりとカヌーを漕ぐのがとても気持ちよかった。

カヌーの後は古い電車を改造した素敵なカフェでお茶。

フィノウ運河は美しい自然と歴史、そして技術を同時に楽しめて最高だ。でも、運河はまだまだたくさんある。これからの季節は運河巡りに最適だから、次々探検していこう。

 

ドイツ東部にはドイツ語らしからぬ地名が多い。ドイツ西部の地名は、「なになにドルフ(〜の村)」とか「なになにベルク(〜の山)」といった具合に意味がわかりやすい地名が多いのだが、東部の多くの地名は、慣れるまでは読み方もよくわからないし、意味もさっぱりわからない。これは、かつて、ドイツ東部がスラブ系民族が住む土地であったことの名残だ。

12世紀以降、西側から多くのドイツ人が入植したことで、スラブ人系民族はしだいにドイツ化され、ドイツ文化の中に吸収されていった。かつて50部族ほど存在したとされるスラブ系民族のうち、現代まで少数民族として文化風習を保っているのは、ラウジッツ地方に住むソルブ人(Sorben)だけ。そのソルブ人の文化は、シュプレーヴァルト(Spreewald)やバウツェン(Bautzen) の博物館などで知ることができる。

現代を生きるソルブ人の歴史や文化も興味深いけれど、ドイツ人に支配されるようになる以前、スラブ系民族がどのような暮らしをしていたのかも気になる。そこで、メクレンブルク=フォアポンメルン州にある、グロース・ラーデン考古学野外博物館(Archäologische Freilichtmuseum Groß Raden)へ行って来た。ここには、9〜10 世紀のスラブ系民族、具体的にはオボトリーテン族の集落が再現されているのだ。ちなみに、博物館への公共交通はないので、車で行くしかない。

野外博物館は、グロース・ラーデナー湖に突き出した小さな半島上につくられている。

集落は木柵に囲まれていて、そのまわりには堀がある。小さな木製の橋を渡って、柵の内側に入ると、家屋が十数軒、並んでいる。

集落に見られる家屋は丸太小屋(Blockhaus)と 枝を編んで粘土を塗った壁の家(Flechtwandhaus )の2タイプ。

スラブ人が住んでいたとされる丸太小屋を再現したもの

こちらは枝と粘土の壁の家

このように枝を編んで壁を作り、上から粘土を塗って固める

住居の内部

パン焼き窯。粘土製なので、雨に濡れると崩れてしまう。なので、屋根付き。

週末や学校の長期休みなどには、当時の生活技術のデモンストレーションや体験ワークショップがあるようだ。この日は私以外に誰もいなかったので、建物を一人でじっくり眺めただけ。家屋や生活用具を眺めながら、「当時、現在のドイツ西部に住んでいたゲルマン系民族の生活とどう違ったんだろう?」と考えてしまう。身近な天然材素材はほとんど変わらなかったと思うので、基本的な生活スタイルや技術にそれほど大きな違いはなかったのではないだろうか。気になるので、次回はゲルマン人の集落を再現した野外博物館へ行って、比較してみたい。

集落の外れには木製の四角い「神殿」がある。

宗教儀式が行われたとされる神殿の内部はがらんとして殺風景で、柱には藁でできた人形がくくりつけられている。これは、豊穣の女神マコシ(Mokosh)。キリスト教化される前のスラブ人は多神教で、自然の力や精霊、神々を崇拝していた。ささやかな祭壇と思しきものも見られるスラブ人の宗教についても、ゲルマン人のそれと比較してみたい。。

集落の奥には水路を隔てて、Slawenburg(直訳すると、「スラブ人の城」)と呼ばれる、円形の構造物がある。「城」といっても、王族や貴族の住む場所ではなく、敵が攻めて来たときに集落の住民や家畜が避難するための砦だ。ここからは「城砦」という言い方で続けよう。

丸く盛られた土塁+木製の防御壁という構造。

入り口はトンネル状

城砦の内側

城砦が「円形である」というのは重要なポイントだ。「自然との調和」「季節や生命の循環」を重視する世界観を有していたスラヴ人にとって、円は終わりのない形であり、「生と死」「昼と夜」「季節の巡り」などの循環する世界の象徴とされたらしい。それはメクレンブルク=フォアポンメルン州やブランデンブルク州に残る、スラブ人集落の名残のある村にも見てとれる。エルベ川の南側、ニーダーザクセン州の東端に位置する地域ヴェントラント地方には、ルントリンク(丸いもの)と呼ばれる集落が多く存在する。ヴェントラント(Wendland)のヴェントというのは、スラブ人を意味するWendenという言葉が由来だ。つまり、ヴェントラントとは「スラブ人の土地」という意味である。

砦から見た集落

野外博物館の敷地内には博物館もあって、砦や集落の模型や、グロース・ラーデンやシュヴェリーンの砦跡における発掘調査で出土した遺物が展示されている。

10世紀のグロース・ラーデンの集落模型

城砦の模型。集落の住民は敵が攻めて来たときには城砦に逃げ込み、内部の家屋で生活した。

その他、博物館には2014年にシュヴェリーン城の中庭の地下から発掘されたスラブ人の城砦に関する展示もある。シュヴェリーン城といえば、ユネスコ世界遺産に登録されている美しい宮殿だが、もともとスラブ人の城砦があったところに建設されている。博物館にはその城壁の一部が展示されているが、年輪年代測定によって、紀元956年頃に建設されたものと推定された。

発掘された城壁の一部

展示室の床にはなにやら大きなカブトムシが設置されている。背中に乗ると、カブトムシになって城砦の中を飛び回ることができる。カブトムシがブルブルと震え、その振動を感じながら目の前のスクリーンに映し出される映像を見るという趣向。これは一体何?と不思議に思ったら、これには理由があった。

シュヴェリーン城は湖に浮かぶ小さな島に建てられている。その地下から発見されたスラブ人の城砦は木製で、湿地環境では朽ちやすかった。広葉樹の朽木はカブトムシの産卵に絶好の場所である。たくさんのカブトムシがやって来て、城壁の中に卵を産んだ。ところが、カブトムシが羽化する前に、当時の人々が城壁の補修工事を行い、粘土などで壁を固めてしまった。それで飛び立てなくなったカブトムシの遺骸が城壁の中からたくさん発見されたのだという。つまり、カブトムシはシュヴェリーンの城砦のシンボルというわけである。

また、この城砦は、10世紀にオボトリーテン族の首長ムスティヴォイの娘、トーヴェがデンマーク王ハラルド1世と政略結婚させられた際に滞在したと伝えられていて、その嫁入りをストーリーに仕立てた展示も興味深かった。

城砦から発掘された金のアクセサリー。トーヴェが身につけていた?

シュヴェリーン城には行ったことがあるが、城壁発掘の前だったので、発掘跡を見に、近々また行ってみたい。

 

 

ハルツ山地、ゴスラー郊外にあるランメルスベルク鉱山(Weltkulturerbe Rammelsberg)へ行って来た。ゴスラーといえば、木組みの家が並ぶ中世の街並みと魔女伝説が有名な観光地で、神聖ローマ帝国時代、皇帝の館「カイザープファルツ(Kaiserpfalz)」が置かれたことでも知られる。その美しいゴスラーの繁栄の基盤となったのがハルツ山地の豊かな鉱物資源。特に銀・鉛・銅・亜鉛を豊富に含むランメルスベルクの鉱床はゴスラーの発展に不可欠だった。ランメルス鉱山は1988年に閉鎖されたが、その後観光鉱山として整備され、大人気の観光サイトになっている。

ランメルスベルク鉱山の楽しみ方はガイドツアー+博物館。ガイドツアーはたくさんあって、どれも所要時間は最低1時間、博物館も複数の建物に分散されているので、日帰りで全てを回るのは無理。的を絞る必要がある。事前にウェブサイトで説明を読んだらどれも面白そうで悩んでしまったが、トロッコで鉱山に入るツアー(Mit der Grubenbahn vor Ort – AUf zum Schichtbeginn)と、鉱石の選別施設を見学するツアー(Vom Erzbrocken zum Konzentrat – Wie kommt das Kupfer aus dem Erz?!)の2つに参加することに。

ツアーの出発点はかつての脱衣所。作業を終えて坑道から戻って来た鉱夫らは、ここで作業着を脱ぎ、隣のシャワー室でシャワーを浴びた。濡れた作業着は次の作業時までに乾くように、チェーンロープを使って天井の高いところへ吊るしていた。

シャワー室

トロッコのツアーでは、写真の黄色いトロッコに乗り込んで坑道に入る。

地下50mの深さでトロッコを降り、坑道を歩いて奥へ進む。ワクワクする〜。このツアーでは1950年代〜1960年代の鉱石採掘作業について説明してもらった。

作業開始前に鉱夫が朝食を取った場所。壁に設置されたタンクには飲料水が入っていた。

発破作業跡。岩を砕くために岩に穴を開け、火薬を詰めて導火線で爆破する。導火線の長さを変えることで中心から外に向かって順番に爆発させていた。

ドリリングの機械

採掘した鉱石は縦穴エレベーターで地上に運ばれた。

このツアーも面白かったけど、2つめのツアーは私にはより面白かった!

地下から地上へ運ばれて来た鉱石は、近郊の精錬所に輸送される前に「選鉱」という前処理がなされる。鉱山から掘り出された鉱石(原鉱)は、たいてい 目的の金属鉱物と、それ以外の岩石がごちゃまぜになっているので、必要な部分を取り出さなければならない。写真の建物はその作業を行う場所で、山の斜面に階段上に建てられている。一番上から原鉱を投入し、下に向かって処理がなされていく仕組み。ツアーでは工場内部を工程の順に歩いて一連の作業を見学できるのだ。

金属鉱石の「選鉱」のステップはサッカーボールくらいの大きさの原鉱を何段階かに分けて砕いて粉にすることから始まる。

原鉱を載せたワゴンが縦穴エレベーターで最上階に運ばれて来る。

エレベーターから押し出されたワゴンはレールの上を走り、

ここから原鉱をザザーっとクラッシャーに投入し、小さく砕く。

拳大になって出て来た原鉱を取り出して、次の装置へ。

スチールの球が入ったタンブラーに入れて回し、粉々にする。

さあ、ここからが一番肝心!粉になった鉱石にはいろんなものが混じっているので、浮選(Flotation)と呼ばれる方法で必要なものを取り出す必要がある。

浮選装置。

ここが面白い。粉にした鉱石を泡立てた水に入れ、鉱物の種類ごとに異なる薬剤を入れて鉱物の周りに膜を作り、特定の鉱物だけが泡にくっついて浮くようにする。こうして分離された鉱物を回収する。

この浮選という選鉱技術、ランメルスベルク鉱山の歴史の中で超重要!というのも、中世から鉱石の採掘が行われて来たランメルスベルクだったけれど、19世紀末から鉱石の品位がだんだん低下して、微細な粒子が混じり合った複雑な鉱石ばかりになってきた。それまでの技術では採算が取れなくなり、1929年から始まる世界恐慌で非鉄金属の価格が下落したことも追い打ちをかけ、1932年には鉱山閉鎖の危機に追い込まれてしまった。それを救ったのが、この画期的な技術だったのだ。その背景にはナチ政権によるテコ入れがあった。多様な非鉄金属を一カ所で供給できるランメルスベルクは海外からの資源輸入が難しくなる戦時体制において国家戦略上の要地とみなされたのだ。斜面に選鉱施設(Aufbereitungsanlage)が建設されたのもその流れにおいてで、機能的かつ美的な建物は近代産業建築のパイオニア、フリッツ・シュップ とマルティン・クレマーが設計したもの。彼らはルール地方のツォルフェライン炭鉱(Zeche Zollverein)の施設も手掛けていて、どちらもユネスコ世界遺産に登録されている。

 

ランメルスベルクはガイドツアーだけでなく、博物館もとても充実している。

縞状鉄鋼

ランメルスベルクで確認されている鉱物およびその変種はおよそ100種類に及ぶ。どうしてそんなに鉱物資源が豊富なのだろう。ランメルスベルクの鉱床の起源は約3億7千万年前(デボン紀)に遡る。その頃、海底ではマグマで温められた熱水が割れ目から噴き出していた。熱水は金属イオンを多く含み、海水と混じり合って冷えることで金属イオンが沈殿し、海底の窪みに積もってレンズのようなかたちに広がった。それが後の造山運動で地中に押し込まれ、今の山の中に取り込まれたのがランメルスベルクの鉱床だ。博物館の鉱物ギャラリーにはグネグネした縞状の鉱石がたくさん展示されている。水平な層状に堆積した鉱石が造山運動の際に変形したってことなんだね。

ゴスラーにちなんで名付けられた鉱物、ゴスラライト。亜鉛鉱石が酸化していく過程で二次的にできる比較的珍しい鉱物で、乾燥した場所で鉱山の坑道に析出することがある。水分と触れると簡単に溶けてしまうから、屋外にはあまり残らないらしい。

 

見るものがあまりにもたくさんあって全然時間が足りない。ガイドツアー2本の後、特に興味がある鉱物に関する展示を見ていたら閉館時間になってしまった。今回見たものの他にも、坑道の水力技術や排水技術について知ることのできるRoeder-Stollenツアーもかなり見応えがあるという評判だし、鉱山業と関連する社会文化についても知りたいし、まだまだいろんな切り口で深掘りできそう。

帰りにゴスラーの町に寄って、カイザープファルツの外観だけ見て来た。神聖ローマ皇帝は、固定の首都を持たず、各地を巡回して統治していた。ランメルスベルク鉱山で採れる銀や鉛が皇帝の財政基盤を支えていたのだ。中を見学する時間は残念ながらなかった。ゴスラーの歴史的旧市街とランメルスベルク鉱山、カイザープファルツはまとめてユネスコ世界遺産に登録されているので、また改めて時間を取ってゆっくり見て歩きたい。