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TERRA.vitaには自然や地質学的な見どころが多いが、それだけではなく、歴史や考古学の重要スポットもある。TERRA.vita特集の最終回の今回は考古学スポット、カルクリーゼ(Kalkrise)のVarusschlachtミュージアムを紹介したい。

前回の記事で紹介したバークハウゼンの恐竜の足跡を見に行くために車を走らせていたとき、”Varusschlacht”と書かれた看板を見かけた。私はそれが何を意味するか知らず、そのままスルーしかけたが、夫が「へー、Varusschlachtの現場ってこの辺か〜」と呟いた。「何それ?」「ほら、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの場だよ」「ん?それって、もしかしてトイトブルク森の戦いってやつ?」「そうそう、それ!」「あれっ?でも、トイトブルクの森って、ここよりももうちょっと南じゃなかったっけ?」「それがね、戦いの現場がどこだったのか長いことわかってなくて、トイトブルクの森のデトモルトのあたりとされていたけど、わりと最近、その現場らしい場所が見つかって、トイトブルクの森とはちょっと離れていたらしいよ」

へー、そうなんだ。なんかよくわかんないけど、せっかく通りかかったから行ってみる?

Varusschlacht(日本語では「ウァールスの戦い」や「ウァルスの戦い」と表記されるようだ)の現場とされる場所は、オスナブリュックの北17kmほどに位置するブラームシェ(Bramsche)という町の一部、カルクリーゼ(Kalkrise)にある。看板を見ながら行くと、ミュージアムがあった。

 

 

 

「ウァルスの戦い」の背景を先にざっくりまとめておこう。

「ゲルマン人」という概念は2世紀にケルト人による記述によって初めて歴史に登場し、その後、古代ローマ人が使うようになり定着した。しかし実際には、ゲルマン諸部族は部族ごとに分かれて生活し、それぞれの部族名のみで自らを認識していた。当の本人達は「オレたちゲルマン人!」というような統一的なアイデンティティは持っていなかったのだ。それどころか、部族同士でたびたび衝突していたほどで、一致団結して非ゲルマン系の民族と戦うという発想は希薄であった。古代ローマ帝国はそんなゲルマン諸部族の住む地域、つまり彼らが勝手に「ゲルマニア」と呼ぶ地域を支配下に置こうと、紀元7年、プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスをゲルマニア総督として派遣する。ゲルマニアにやって来たこのウァルス総督はわりあいと穏健派で、力づくでゲルマン諸部族を征服しようとはせず、かれらをうまく手懐けているかのようだった。特にケルスキ族の長とは親交が深く、共に食事をし酒を酌み交わすことすらあった。というのも、ケルスキ族の長の息子アルミニウスは、幼少期にローマに人質に取られ、ローマ式の教育を受けて帰って来た青年だった。帰国子女(?)なのでラテン語もペラペラで役に立つ。しかし、そんな一見、平和的な空気の裏で自由を愛するゲルマン諸部族は「ローマ人にコントロールされたくない!」「貢ぎ物ばかりさせられて、たまったもんじゃない」と不満を募らせていた。

ウァルス総督に信頼を寄せられていたアルミニウスだったが、頭はローマ人でも心はやっぱりゲルマン人であった。密かにゲルマン諸部族をまとめ、ローマ軍打倒計画を企ていたのだ。そして、紀元9年、アルミニウス率いるゲルマン軍は森の中でローマ軍を待ち伏せ攻撃し、ほぼ全滅させるという大勝利を収める。裏切られて敗北し、ショックを受けたウァルス総督は自害した。これが「ウァルスの戦い(Varusschlacht)」だ。ローマの歴史家タキトゥスはかの有名な著作「ゲルマニア」の中でこの戦いについて記述した。でも、その具体的な場所は書かなかったので、戦いの場所がどこだったのか、はっきりしたことは長いことわからなかった。きっとここだろうという候補地がなんと700箇所くらい上がっていたらしい。1987年、英国人のアマチュア考古学者がカルクリーゼで古代ローマの銀貨と武器を発見。それをきっかけにカルクリーゼにおける考古学発掘プロジェクトが開始した。

それでは博物館を見ていこう。

博物館の展示はローマ人とゲルマン人の社会や文化の違いの説明から始まっている。ローマ社会は周知の通り、ヒエラルキーが明確である。それに対し、

ゲルマン人は部族ごとに暮らし、統一的な王や皇帝はいない。部族によっては貴族階級的な集団がいたり、明確なリーダーがいる場合もあったが、多くの部族については詳しいことはわかっていないらしい。タキトゥスによると、ゲルマン部族にはお役人は存在せず、何かあれば新月の夜にディング(Thing)と呼ばれる会議を開いてみんなでどうするかを決めていたそうだ。でも、ゲルマン人に関して残っている当時の記述はほぼすべてローマ人目線のものなので、本当に書かれている通りだったのかはわからない。

ゲルマン人はローマ人のように整備された都市を作らず、小さな集落を作って暮らしていた。画像のような長屋を人間と家畜のスペースに区切って、一つ屋根の下で生活するのが一般的だった。

このように立派なローマ兵士の武装具と比べ、

ゲルマン戦士の装具はミニマル。ゲルマン人は組織化された軍隊を持たず、戦いへの参加は各自の自由意志に委ねていた。

 

カルクリーゼでは17世紀から、しばしばローマの金貨が見つかっていた。1885年に歴史家 Theodor Mommsenの依頼を受けた鑑定家 Julius Menadierが、それらの金貨はウァルスの戦いの際に兵士らが失ったものであると結論づけたが、そのときには兵器は発見されず、決定的な証拠にはならなかった。1987年にTony Clunnが大量の銀貨を発見したことで、ここがウァルスの戦いの現場であった可能性が急激に高まったのである。

また、その翌年にはローマの鉛弾とみられる小さな楕円形の物体が発見される。

そして、1990年、カルクリーゼの森に幅およそ15m、高さおよそ40cmの土塁の跡が見つかった。

その後の発掘調査で出てきたものの中で特に注目を浴びたのが、このローマ騎兵の鉄のマスクである。また、動物の骨も多く見つかり、その中にラバの骨も混じっていた。ラバは雄のロバと雌の馬を交雑種である。ゲルマン人はロバを飼っていなかったので、ラバが生まれたはずはなく、ローマ人が連れて来たと考えられる。

このように、カルクリーゼでローマ軍とゲルマン軍が衝突した証拠がいろいろ出て来たことはわかったけど、組織化された軍隊の優れた装具と武器を身につけたローマ兵士達がそれとは比べ物にならないほど原始的なゲルマン軍にあっさりと破れたのはどうしてだろう?

それは、カルクリーゼの地形にあった。カルクリーゼの周辺一帯は沼地で、地盤が柔らかく歩くのがめっちゃ大変。しかも、アルミニウスがローマ軍をおびき寄せた日は嵐で視界も悪かった。ゲルマン軍は小高い砂地の丘の縁に土塁を築き、その後ろに隠れて上から一斉に槍を投げてローマの兵士らを次々と倒したのだった。戦いは3日間続き、2万人もの犠牲者を出した。

一通り展示を見た後、ガイドさんについてフィールドを歩く。背後に見える森はゲルマン軍が隠れていたとされる場所。手前の四角い石はローマ軍が行進した道を示している。

この土塁の後ろにゲルマン軍が

 

ところで、アルミニウスという名前はゲルマン系の名前ではない。彼はローマに人質に取られていたためアルミニウスというローマ名を与えられたが、もともとはなんという名前だったのか、誰も知らない。ドイツの歴史において、アルミニウスに対する評価は時代とともに変化した。ドイツ民族の誇りとして英雄視された時期もある。その際に、ドイツ人の英雄の名前がローマ名ってどうなのよ、ということで、ヘルマン(Hermann「戦士」の意味)と呼ばれるようになった(現在はまたアルミニウスという呼び方が一般的)。普仏戦争後のドイツのナショナリズムの高まりの中では不屈のシンボルとして特に崇められ、1875年には当時、ウァルスの戦いの現場と推測されていたデトモルト(Detmold)に高さ54mに及ぶヘルマン像が建てられている。

 

カルクリーゼの発掘調査は今も続行中だ。この日は休日だったので、考古学者らもお休みで、現場は防水シートで覆われていた。ガイドさんが「最近、またすごいものが見つかったんですよ。9月25日にプレスリリースがあるので期待してくださいね」と言っていたので楽しみにしていた。

昨日発表されたプレスリリースによると、2018年に出土された大きな金属の物体を分析したところ、ローマ兵の鎧であることが判明したそうだ。ほぼ完全に保存されており、しかも、それを身につけていた兵士は手錠で両手を首のあたりに固定されていたこともわかった。これについてもまとめると長くなり過ぎるので、またの機会にしよう。興味のある方はこちら(英語ページもあり)を参照してください。前述のようにこのあたりの土壌は水分が多いので発掘調査はかなり大変らしい。まだまだ多くのものが埋まっていると推測されるそうで、今後の進展が楽しみだ。

これにてUNESCOグローバルジオパークTERRA.vitaの3つのスポット紹介を終わります。ジオパークには他にもたくさんの見どころがあるので、また行きたいな。

グーグルマップを眺めるのも好きだが、マップを作るのも好き。Google MyMapsを使ってよく自分用のマップを作成している。

行った場所や行きたい場所をグーグルマップに登録していくのも楽しいが、分野別のマニアックの地図があったら良いのではないかと思いつき、作ってみることにした。どんな分野でもいいのだけれど、とりあえず「まにあっくドイツ観光」の扱う観光分野で特にスポットが多く、全国に散らばっている考古学スポットの地図を作成した。名付けて「ドイツ考古学スポットマップ」。

アイコンのある場所が考古学関連のスポットのある場所。赤っぽいアイコンは行ったことのあるスポット。こうやって見ると、全国の考古学スポットはすごい数!まだ全然行ってないなあ。Google MyMapsでは複数レイヤーを作成してレイヤーごとに表示できるので、「考古学総合博物館」「ローマ関連遺跡・博物館」「リーメス(古代ローマとゲルマンの領土の境界線)」「ケルト・ヴァイキング・ゲルマン・スラブ関連」「エジプト関連」「古代ギリシア関連」「旧人類関連」「野外博物館」「その他の発掘地」にカテゴリー分けした。ローマ関連の野外博物館はどちらのカテゴリーに入れるか迷ったけれど、だいたいは野外博物館の方に分けた。

ローマ関連とリーメス関連だけを表示するとこんな感じ。当たり前だけれど、古代ローマとゲルマン人の領土の教会であるリーメスの南側の古代ローマの領土に集中している。

アイコンは「博物館」「歴史的建物」「鉱山」(← ローマ時代の炭鉱跡がいくつかある)と「ハイキングルート」の4種類を使っている。複数アイコンが使えないようなのが残念。野外博物館もしくはテーマパークのアイコンもあるとよかったのだが、、、。赤っぽいアイコンを押すと、私が書いた記事が表示されるようにリンクを貼った。

Google MyMapsではルート作成もできるのが便利。たとえば、ハノーファーからミュンスターまで行く途中に考古学スポットを拾って行きたければ、こんな感じになる。これは車で行く場合ね。

この地図を作るのに丸一日かかったけど、なかなか良いものになったと思う。観光スポットの情報は分散しているし、リストにまとめても場所をその度に確認しなければならないのは面倒だから、一目で位置関係がわかるのはかなり便利。田舎のごく小さな遺跡はとても網羅しきれないので完全なマップとは言えないけれど、既存の考古学博物館は大部分を登録したつもり。ときどきアップデイトして最適化していく。それにしても恐るべしドイツ考古学の世界!考古学者でも全て見ることは不可能であろう。

マッピング作業はかなり楽しかったので、これからいろんな種類のまにあっく観光マップを作って行こうと考えている。

 

この「ドイツ考古学スポットマップ」は以下のリンクからアクセスできます。

ドイツ考古学スポットマップ

 

 

日の長い夏の間にできるだけ頻繁に遠出したい。今週はニーダーザクセン州シェーニンゲン郊外にある考古学博物館、Paläonへ行くことにした。Paläonは2013年にオープンしたばかりの博物館で、下の地図を見ればわかるように相当な田舎にある。シェーニンゲン褐炭採掘場のすぐ側だ。なぜそんな場所に博物館が建設されたのかというと、ありがちな話なのだが、掘っていたら考古学的にすごいものが出て来てしまったから。シェーニンゲン褐炭採掘場からは1994年〜現在までに、約30万年前のものとみられる木製の槍が全部で8本、完全な形のまま出土されている。なんと、これまでに発見された槍の中で最古のものらしい。

博物館の周辺には褐炭採掘場以外は何もなく、私のカーナビにPaläonは登録されていなかった。たどり着くのがなかなか大変だったが、どうにか見つけることができた。

外観の写真を撮り忘れたので、Wikipediaよりお借りします。

Foto: de.Wikipedia.org

入館料は12ユーロ。先日行ったハレの州立先史博物館が5ユーロだったことを考えると、ちょっと高いな〜。

吹き抜けのフロアから階段を上がると最上階が常設展示室だ。壁一面の地球の歴史を表すパネルは美的かつ迫力があって良い感じ。地球は常に変化しているのだということが感覚的にわかる。

このパネル以外の展示は旧石器時代に的を絞っており、大半は動物の骨や人骨だった。いくつか例を挙げると、

ゾウの足の比較。左は古代のゾウ(Palaeoloxodon antiquus)、右は現在のインド象のもの。

ザクセン州南部で見つかった古代のサイ(Stephanorhinus hemitoechus)の頭蓋骨。

しかし、全体的に説明が少なめで、説明を読むのが好きな私にはやや残念。

窓からシェーニンゲン採掘場が見える。ここから見えるのは一部だけだが、かなり規模の多い採掘場である。

この博物館のハイライト、シェーニンゲンの槍は常設展示の奥にあった。

これらが現存する世界最古の槍、シェーニンゲンの槍だ (全部で8本見つかっているうちの5本)。30万年前もの人類の道具がほぼ無傷で出て来たというので、大いに注目されたそうだ。といっても、それを知らないとただの木の棒で、それほどのインパクトはないかもしれない(写真もうまく撮れなくて、、、)。でも、30万年も前にニーダーザクセンに住んでいたホモ・ハイデルベルゲンシス(homo Heidelbergensis)が狩猟に使った道具ということだから、やっぱりすごいよね。

シェーニンゲンからは槍の他にも、肉の塊を突き刺すのに使ったと思われる串やその他の木製の道具、石器など多くが見つかっている。

クリップのような道具

そしてさらに、木槍で仕留めた獲物と思われる動物の骨が1万2000 体も出て来たのだ。それらの骨の分析により、このあたりでホモ・ハイデルベルゲンシスがどんな食生活をしていたのかが明らかになった。掘り出された骨の9割は馬( Equus mosbachensis) の骨である。

馬は栄養価が高く、柔らかい脂肪もたっぷり含んでいるので子どもに食べさせるのにも適していたらしい。

これらの骨には道具を使って叩き割った跡が残っている。骨髄の中の脂を取り出した形跡だ。

 

さて、Paläonは一般人向けの展示を行なっているだけでなく、同時に研究博物館でもある。

研究ラボがガラス張りになっていて、考古学者の作業を見学することができる。この日は中に誰もいなかったが、窓の外側に取り付けられたディスプレイで作業ビデオを見た。将来、考古学者になりたい中高生にもいいんじゃないかな。

 

研究ラボの隣には入館者用のラボもある。

ここでハンズオン体験ができる。

ボックスや引き出しの中にはいろんなものが入っていて、手に取って観察したり、PCの指示に従いながら分析したりできて面白い。学校の自由研究をここでするというのも楽しいかもね。

左下はネアンデルタール人の下顎。右のホモ・サピエンスと比べて頑丈そう

この博物館は研究者らのカンファレンスを行うなど、学術交流の場としても活用されている。

博物館の外には体験スペースもあって、槍を投げたり火を起こしたりなど、石器時代体験ができる。小学生のグループが熱中していた。私はすでにフォーゲルヘルト考古学パークで体験済みなので、今回はパスした。

考古学的にかなり重要なものが見られる博物館なのだけれど、発掘物のビジュアルインパクトが小さく、アクセスが良くないし、しかも入館料12ユーロと割高なので、来館者を多く集めるのはちょっと厳しいのではないかと思った。もうひと工夫欲しいところだ。でも、まだ開館して数年の新しい博物館なので今後に期待しよう。

 

PaläonのYouTube動画はこちら。

 

 

ハレにある州立先史博物館 (Landesmuseum für Vorgeschichte)へようやく行って来た。ここへはかねてからどうしても行きたいと思っていたのだ。ネブラ・ディスク (Himmelsscheibe von Nebra)を見るために。

ネブラ・ディスクとは、1999年にドイツ、ザクセン・アンハルト州ネブラで発見された世界最古の天文盤である。2017年3月にネブラの出土地及びビジターセンターを訪れたが、ビジターセンターに展示されていたネブラ・ディスクはレプリカだった。オリジナルはハレの州立先史博物館にあると知り、いつか見に行きたいと思っていたのだ。

ネブラ・ディスクに関する記事はこちら。↓

世界最古の天文盤、ネブラ・ディスクの出土地を訪れる

これが州立先史博物館。いい味を醸し出している。きっと良い博物館に違いない!入館料は大人5ユーロと割安。しかも、ハレの博物館は1箇所で入館料を払うと他の10の博物館には半額で入れるとのことである。なんとお得な!

この先史博物館には、ドイツ中央部で発掘された旧石器時代からローマ帝国時代までの出土品が展示されている。ネブラ・ディスクが見たいということしか頭になかったのだが、展示を見て初めてザクセン・アンハルト州が考古学的重要度の非常に高い地域であるらしいことに気づいた。

これはチューリンゲン州Bilzingslebenで発掘された約37万年前のホモ・エレクトスの集落跡の一部。ホモ・エレクトスの集落跡は欧州全体で他に6つしかない。

ホモ・エレクトスが動物の骨を加工して作った道具。

ホモ・エレクトスが火を使っていたことがわかる木炭。

サイの下顎。すごい!

これまた状態の良いアナグマの足の指の骨。

 

こちらは石器を一列に展示した壁。

石器は考古学・先史博物館ならどこでも展示されていて、なんとなくどれも似たように見えていたのだけれど、よく見ると実に様々なタイプがあるものだ。出土地によって石の種類が違うのはもちろん、カットも様々である。

 

美しいハンドアックス

これなんか持ちやすそう

スマートなデザインがおしゃれ

詳しい説明はなかったが、石器の種類について知りたくなった。

 

新石器時代にはドイツ中央部では線帯文土器文化が発達した。模様だけでなく、色といい形といい、なかなか素敵である。

ブランデンブルク門っぽい模様

下が丸いタイプはどのように使ったのだろう?

 

考古学系の博物館では埋葬文化の展示がつきものだが、この州立先史博物館では埋葬文化にかなりのウェイトが置かれている。

これはWesterhausenで発掘された球状アンフォラ文化時代のお墓。左の四角い囲みは個人の墓で右側に埋まっているのは数頭の牛。

新石器時代初期のヨーロッパでは膝を曲げた形で死者を埋葬するのが一般的だった。地域によって遺体を埋める方向が異なっていた。中央ドイツでは性別に関係なく、頭を南、顔を東に向けて埋葬した。その他の地域では男女で反対向き、または体の反対の側を下にして埋めたらしい。

ここからかなり衝撃的な話になるのだが、2005年、ナウムブルク近郊のオイラウ(Eulau)で約4600年前の墓地が発見された。それぞれの墓には家族が数人ずつ一緒に埋葬されていた。死者ほぼ全ての頭蓋骨に重度の損傷が見られることから、集団殺戮の犠牲となったと考えられている

両親と子供達の墓

このように埋葬されたと見なされる

こちらの墓では3人の子供のうち、一人は母親に抱かれるように埋葬され、後の二人には母は背を向けている。DNA鑑別の結果、二人の子どもは母親と血の繋がりがないことが判明した。つまり、女性は彼らにとって継母なのであった。

 

次は石器時代の部屋へ。

芸術的な燧石のダガー

 

さあさあ、青銅器時代といえば、ネブラ・ディスクである。ついにネブラ・ディスクの本物にお目にかかるときがやって来た。

この入口の向こうがネブラ・ディスクの展示室である。

じゃーん!

と言いたいところだが、残念ながら写真撮影は禁止だった。でも、部屋の中は私一人だけで、ガラス越しに見るディスクの美しさにとても感動した。わざわざ来た甲斐があったなあ、としみじみ。

この博物館も私のお気に入り博物館に追加しよう。考古学がますます魅力的に感じられてしょうがない。

 

 

このところドタバタと忙しく、ちょっと時間が経ってしまったが、まにあっくドイツ観光ラインラント編の続き。

三日目はケルンから南西に35kmのツュルピッヒ(Zülpich)へ行った。目的はローマ浴場の遺跡と、そこに作られた入浴文化博物館(Museum der Badekultur)だ。

ツュルピッヒは古代にはTolbiacumと呼ばれる村で、複数の街道が交差する場所にあった。2世紀にここに浴場が建設され、拡張されながら4世紀の終わりまで存続したらしい。およそ400m平米の広さのこの遺跡は1929年に初めて発掘され、90年代に本格調査が行われた後、2008年ミュージアムとして公開された。

Römerthemen Zülpich – Museum der Badekultur

この辺りは 紀元85年から約500年間、ゲルマニア・インフェリオル(Germania inferior)と呼ばれる古代ローマの属州だった(地図の濃い色の部分)。州都は、コロニア・アグリッピネンシス 、現在のケルン。そこに下のモデルのような浴場施設が存在していたのだ。

古代ローマ人はギリシアから浴場建築を取り入れ、少しづつ改良しながら独自の入浴文化を作り上げていった。紀元前100年頃のギリシアの浴場にはすでに床暖房技術があったが、ローマ人がそれを完成させたそうである。

これがツュルピッヒのローマ浴場の実物。

小さな平たいレンガが積み上げてある。床下で床板を支えていたもので、これらのレンガの柱の間を温められた空気が移動していた。

床板の残っている部分。

浴室にはカルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)という3種類がある。カルダリウムには浴槽があった。お湯の温度は約40℃、室温は50℃、湿度は100%。テピダリウムには浴槽はなく、室温約25℃。ここでは温かい床の上で寛いだり、マッサージや垢すりなどの施術を受けた。フリギダリウムには熱い風呂に入った後に体を冷やす冷水プールがあった。

火を起こす場所

フリギダリウム

じゃーん!これが古代ローマの浴槽だ。

排水口


遺跡の一部はガラス張りで、上を歩くことができる。

浴場断面図モデル。ローマの浴場は午前11時頃に開き、男女別に利用時間が設定されていたそう。

ローマのお風呂4点セット。取って付き洗面器、油壺、リネンの手ぬぐい、それにstriglisというブロンズ製の垢すり道具(一番左)。こんな道具で一体どうやって体を擦るのかと思ったら、、、。

こうやるんだって。うーん、使いやすかったのかなあ?

トイレ。立派なことに水洗。流すのにはお風呂の残り湯を使っていたそうだ。

排水路

遺跡だけでもかなり見応えがあるけれど、この博物館は結構大きくて、ここから先は中世から現代までの入浴文化についての展示が続く。これがかなり面白く、全てをメモすることはできないので、帰りにミュージアムショップで入浴文化史の本を買ってしまった。内容を紹介したいところだけれど、あまりに長くなってしまうので、また改めて別の記事にしたいと思う。

でも、せめて面白い浴槽を二つ紹介しよう。

70年代の蓋つきの浴槽。家具っぽい。

Schaukelbad(ゆりかご風呂?)

さて、ここまでは常設展示の内容で、特別展示室では「東西ドイツの風呂文化」というのをやっていた。

東西ドイツを隔てる壁に見立てた仕切りが中央に

この展示も面白かった〜。

東ドイツのタンポン

旧東ドイツの典型的な浴室風景

この特別展示では、Freikörperkultur(自由な肉体の文化、FKK)と呼ばれるドイツの裸文化に関する東西ドイツの違いに重点が置かれていて、それが興味深かった。FKKというのは、ドイツに住んでいる人なら恐らく誰でも聞いたことがあり、また目にしたこともあるであろうヌーディズムのこと。ドイツではサウナは基本的に混浴で水着の着用は禁止。タオルも体に巻かずに下に敷くのが原則だ。異性の目を気にせず全裸になる人たちが少なくなく、海岸や湖にはFKKビーチと呼ばれるヌーディスト専用のビーチもある。こうしたドイツのヌーディズムは元々は19世紀のドイツ帝国時代に始まった。当時の衣服は現在の普段着よりも手の込んだ作りだったため、窮屈で煩わしく感じていた人たちも多かったらしい。なんとなくわからないでもないけれど、やはり当時は白い目で見られるような行為であったようだ。その後のワイマール共和国時代には自由で健康的なライフスタイルを求めヌーディズムに憧れる人々が現れた。これは性的で後ろめたさを伴う裸体とは別のものである!という意識からFreikörperkulturという言葉がこの頃、生まれたそうだ。

ナチスの時代にはアーリア民族を他民族と区別し、優位性を強調するためにFKKが利用されたが、第二次世界大戦後、再定義されることになる。旧西ドイツでは1949年に「ドイツFKK連盟」が結成された。しかし、アデナウアー時代には「公衆の面前でパンツを脱ぐのは不可」と禁じられた。旧西ドイツではFKKは一般的に批判の対象であり、一部の人々が実践するにすぎなかったが、60年代後半のヒッピームーブメントの流れの中で、抗議の象徴として裸体を晒す若者らが登場した。

一方、旧東ドイツでは事情が異なった。独裁政権下で自由を奪われ息苦しい生活を強いられていた国民は、衣服を脱ぎ捨て自然の姿に返ることに心の解放を求めた。東ドイツ政府もやはりFKK組織を禁じたが、組織化されない個人レベルのヌーディズムは取り締まることが難しく、それどころか政府高官らまでも裸になりたがったため、1953年に禁止が解除される。その後老若男女に広がって「東ドイツのFKK文化」が社会に定着することになった。

FKKは現在も根強い人気があり、良い季節になるとFKK用のビーチで裸で日光浴をする人たちの姿が見られる。そこでは性別も年齢も関係なく、自然と一体化する感覚を楽しんでいるようだ。(決していかがわしいものではないので、誤解のないようお願いします

そんなわけで、古代ローマの浴場遺跡を見学し、その上入浴の文化史も学べるツュルピッヒの入浴文化博物館は充実した博物館である。かなり気に入った。

ラインラント地方二日目はエッセンのルール博物館(Ruhrmuseum)へ行って来た。「ルール」とは、中学の社会科で習ったあの「ルール工業地帯」の「ルール」である。ルール地方は豊富に埋蔵する石炭を原料に鉄鋼業や化学・機械産業が発達し、近代から戦後まもなくまでの間、ドイツ最大の工業地帯だった。今では石炭産業はすっかり衰退したが、炭鉱や関連施設が産業遺産として保護されており、マニアックな観光スポットの密集地帯となっているのだ。

今回訪れたルール博物館は、ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群第12採掘坑にある。選炭施設の建物が博物館になっている。

 

ツォルフェアアイン炭鉱第12採掘坑

「ツォルフェアアイン」とは関税同盟の意味。ルール地方のかなりの部分は、かつてプロイセンの支配下にあった。しかし、プロイセンの他の領土とはかなり離れていた上に、ルール地方の他の部分は複数の領邦がモザイク状に分割統治していたため物流がスムーズではなく、1834年に関税同盟が結成された。炭鉱名のツォルフェアアインはこの関税同盟にちなんでつけられたもの。

ルール博物館の建物

ツォルフェルアイン炭鉱の第12採掘坑の建物はバウハウス様式だ。それまで産業施設は実用重視で、醜悪な外観が当たり前とされていたが、建築家Fritz Schuppが設計したこれらの建物群は産業施設に初めて「美しさ」を持たせた産業建築の傑作とされている。敷地内には国際的なプロダクトデザイン賞であるレッド・ドット・デザイン賞を受賞したプロダクトが展示される「レッド・ドット・デザイン・ミュージアム」がある。

ミュージアムの入り口は地上から24mのフロアにあり、このような長いエスカレーターを上がる。エスカレーターに乗っただけですでになんとなくワクワク。

受付でチケットを買い、「ガイドツアーはありますか」と聞くと、「すぐに始まりますよ」とのことだったので申し込んだ。でも、月曜だったせいか、私の他に参加者はいなかった。ガイドさんに「では1時間半、館内をご案内します」と言われてびっくり。ツアー料金3ユーロで1時間半のプライベートガイドツアー?なんて贅沢な!(ちなみにツォルフェアアイン炭鉱には複数の種類のガイドツアーがある。私が申し込んだのはルール博物館のツアー)

地上24mのフロア、ミュージアムのエントランス手前のスペースには巨大な選炭設備。

早速、ガイドさんの説明が始まった。これは採掘した原炭から廃石を分離し精炭を取り出すための装置(Setzmaschine)。水の入った水槽に原炭を入れると、軽い石炭が上に浮かび、重い石は沈む。石を取り除いた後の精炭は粒径ごとにふるいにかけられ、それぞれの用途に利用される。コークス製造や製鉄用に使うのは粒の大きな塊炭で、コークス製造の際に発生するガスは化学産業に利用された。そういえば、ケルンの北、レヴァークーゼンという町には化学工業・製薬会社大手のバイエル社本社がある。

 

向こうに見えるのがミュージアムの入り口

オレンジ色に光る階段を降りて下のフロアへ行く。このオレンジ色は燃える石炭をイメージしているそう。

カッコいいねえ。

ルール博物館は製炭設備やルール地方の炭鉱業の歴史のみならず、氷河期から始まるルール地方の自然史、考古学、歴史、社会文化、そして現在のルール地方の地域経済や産業化で破壊された環境の再生に到るまでのあらゆる分野を網羅した総合博物館である。さらには鉱物・化石コレクション、文化人類学コレクション、写真ギャラリーもある。内容があまりに濃くて、1時間半に及ぶガイドツアーの間は写真も取らずに話を聞くのに集中したけれど、最後は時間が押せ押せになってしまった。ツアーを終えてから、また一人で最初から展示室を回った。

ルール地方の全盛期の1857年には、この地方にはなんと300もの炭鉱があったそうだ。しかし、1957年に政府が補助金を打ち切ると、失業者が溢れた。また、環境汚染が深刻化したことから、抜本的な構造変化が求められるようになる。現在もなお失業率は高いが、負の経験から得たノウハウや技術を活かして再生可能エネルギー技術や石炭採掘による地盤沈下で傾いた建物を真っ直ぐにする技術など、この地方ならではの特殊産業の育成に力を入れている。

2000年のエッセン市の地下水水質調査のサンプル

この地方には石炭を取り出した後の捨石を積み上げたいわゆる「ボタ山」が丘陵風景を作っているが、捨石はわずかに粉炭を含んでおり、それが酸化してゆっくりと燃えるので、気温が比較的高い。だから、ルール地方は地中海と似た植生なのだって。言われて見れば、確かにラインラントの植物はブランデンブルクと随分違うなと移動中の車の中から景色を見ていて思ったんだった。

ボタ山は緑化が進んでいて、現在、ルール地方の60%が緑地である。保養地・リクリエーションエリアとしての再開発も積極的に行われている。ボタ山にはモニュメントや娯楽施設が建設され、ちょっと変わった観光エリアになっている。(このサイトでいろんな面白い写真が見られる)

ボタ山「ハニエル」の円形劇場

屋内スキー場。建設当時は世界一の長さだったそう。今ではドバイに負けた

工業化は地域の環境を大きく破壊してしまうが、産業が衰退し、しばらく放置されると自然が回復して来る。そうして新たに生まれた生態系は破壊以前の環境とは異なり、周辺地域とも違う特殊なものとなる。そのような自然環境を「industrial nature」と呼ぶらしい。そういえばこちらのスポットを訪れたときにも同様の話を聞いた。とても興味深い。

そして、ルール地方にはもう一つ、大きな特徴がある。それはマルチカルチャーであること。産業の発展に伴い、この地方には古くから多くの移民が流入した。なんと現在、62もの民族が共生しているという。エッセンにはシナゴーグもモスクもあり、また、Hamm-Uentropという町にあるヒンズー寺院はインド国外最大規模だそう。そんなわけで、ルール地方の人々は異文化に寛容だと言われている。

さて、このペースでゆっくり説明していると日が暮れてしまうので、詳しく説明したいけれど残りは写真のみで急ぎ足で紹介しよう。

石炭展示コーナー

巨大アンモナイトコーナー。最大のものは直径180cm

石炭紀の見事なシダの化石

約3億年前のシギラリアの幹

凄いアンモナイト

これは化石ではなく最近のもので、紅海のパイプウニ

ナミビアのギベオン隕石。ナミビアはドイツの植民地だった

考古学コーナー

文化人類学コーナー

地方都市の博物館がこんなに凄い展示品のオンパレードなのは意外に思えるかもしれないが、エッセンの博物館は戦前、ドイツ国内屈指の博物館だったそう。工業地帯だから文化とは縁遠いというイメージは正しくないようだ。

メルカトルの地球儀

ところで、エッセンといえば、巨大企業クルップ社が有名だ。展示はまだまだあるけれど、キリがないのでこのくらいに。

最上階にはパノラマルームというものがあって、これがまたすごい。

歩いて見て回れる

ガイドツアーと合わせて合計3時間くらい博物館にいたかな。博物館を出た後は、せっかくなので敷地内を一周した。

Red Dot Design Museum。残念ながら月曜日は閉まっていたけど、外観だけでも十分カッコいいよね。

コークス工場

昼間行ったので、ツォルフェアアインのライトアップされた姿は見ることができなかった。でも実は、7月に別の用事でまたここに来る予定になっているので、その時には是非、Red Dot Desigh Museumとライトアップされたツォルフェアアインが見れるといいなあ。

ツォルフェアアイン炭鉱遺産群は、産業技術に関心のある人、デザインが好きな人、工場写真を取りたい人、歴史好きな人、鉱物や化石のコレクションが見たい人etc. ほぼどんな人にとっても面白い観光スポットではないかと思う。

 

 

ラインラント地方へ行って来た。ラインラントの主要都市の一つ、ケルンは私の古巣である。ドイツに来て最初の7年間を過ごした懐かしい町。ラインラントは今住んでいるブランデンブルク州とはかなり違い、様々な民族が共存し文化の混じり合うミックスカルチャーな地方だ。そのためか人々のメンタリティも一般的にオープンで気さくな感じがする。久しぶりに来た私もすぐに景色の中に溶け込める気がした。この辺りは人口が密集しており、観光スポットが充実している。

ではさっそく「まにあっくドイツ観光ラインラント編」、行ってみよう。最初はデュッセルドルフ近郊、Mettmannにあるネアンデルタール博物館から。

ネアンデルタール博物館はネアンデルタール(ネアンデルの谷)にある。その名を聞けば誰もがピンと来るだろう。そう、ネアンデルタールは、旧人「ネアンデルタール人」(正式名称、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis))の骨が発掘された場所である。

Neanderthal Museum

1856年、ネアンデル谷のフェルトホッファー洞窟で石灰岩を採掘中の労働者が洞窟の地下60cmほどの深さに人骨が埋まっているのを発見した。全部で16ピースの骨は頭蓋骨が洞窟の入り口に向いた状態で埋まっていた。

実は、ネアンデルタール人の骨が発掘されたのはこの時が初めてではなく、それ以前にもベルギーやジブラルタルでも見つかっている。しかし、それらは科学研究の対象とはなっていなかった。ネアンデル谷での化石発掘の3年後、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表し、センセーションが巻き起こったことから、たまたまタイミングよく見つかったネアンデル谷の化石が注目を浴びることになったそうだ。しかし、石灰岩採掘の際に洞窟ごと切り崩してしまったので、化石の正確な発掘場所がわからなくなってしまい、そのまま長いこと忘れ去られていたそうだ。1997年と2000年にネアンデル谷で考古学調査が行われ、1853年に発見されたものと同じ人骨のピースが新たに見つかり、ようやく発掘場所が特定された。ネアンデルタール博物館ではネアンデルタール人についてはもちろんのこと、人類史全般について展示している。

ネアンデルタール人の使っていた石器。これまでに他の考古学博物館で見たホモ・サピエンスの石器とは形が違う。ホモ・サピエンスのはもっと細長くて先端が鋭いものが多かったけれど、ネアンデルタール人のものは手のひらにすっぽり収まりそうだ。握り方や手の動かし方が違ったのだろうか?

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの頭蓋骨が並べて展示してある。

ネアンデルタール人の頭蓋骨

ホモ・サピエンスの頭蓋骨

ネアンデルタール人は目の上の出っ張りが発達していて(眼窩上隆起)、おでこが平ら、頭の形もホモ・サピエンスほど丸くない。ホモ・サピエンスは耳の後ろの骨に大きな突起があって、顎が前に出ている。

ネアンデルタール人の歯の多くにはこの図のような溝が見られる。道具を使って歯と歯の隙間を掃除していた跡らしい。

この博物館の展示で特に面白いのは、ネアンデルタール人を始めとした化石人類を実物大に3D復元していること。

アウステロピテクスさん

ホモ・エレクトスさん

ネアンデルターレンシスさん

今、地球上の人類はホモ・サピエンスだけになってしまったけれど、かつては複数の種類の人類が地球上にモザイク状に共存していたのだよね。

ドレスアップしたネアンデルタール人さんとツーショット。ネアンデルタール人男性の平均身長は160cmくらいだそうなので、私のパートナーでも違和感ない!?

人類、皆兄弟。集合写真も撮れます。

これはタンザニアの火山灰に残っていた36万年前のヒトの足跡。1974年にエチオピアで発見されたルーシーと同じアウステラロピテクス・アファレンシスのものだそう。

壁画に関する展示は、展示スペースの下に穴が開いていて、洞窟の中に入った気分で展示を見ることができてなかなか良い。

他にも前回こちらの博物館で見た穿頭(トレパネーション)に関する説明や、地球の環境変化と人類の適応、世界で見られる様々な埋葬習慣についてなど、いろいろ興味深い展示があった。

さて、博物館を見終わったので、ネアンデルタール人の化石が発見された場所を見に行くことにしよう。博物館からデュッセル川沿いに400メートル歩いたところにある。

フェルトホッファー洞窟は切り崩されて今は存在しない。かろうじてその一部が残っているだけだ。

発掘場所。えっ、これだけ?と一瞬、拍子抜け。

でも、ネアンデルタール人が食べていたと思われる植物が植えられた区画があったりなど、当時が想像できるような工夫がしてある。

 

石の寝椅子から高さ20mを見上げると、そこが洞窟があった場所

 

大人目線でレポートしたけれど、ネアンデルタール博物館は家族連れに人気のお出かけスポットのようで、賑わっていた。展示もわかりやすく、周辺には小さな動物園や遊歩道もある。

 

まにあっくドイツ観光ラインラント編はまだ続きます。

復活祭の連休だったのに、風邪を引いてしまった。だるくてまともなことができないので、ウダウダとベッドの中でドキュメンタリーでも見て過ごすしかない。公共放送局ZDFのサイトにアップロードされている過去の放映番組の中から面白そうなものを探す。すると、私の好きな学術ジャーナリスト、Harald Lesch氏による「未解決の考古学の謎(Ungelöste Fälle der Archaeologie)」という番組が目に留まった。Lesch博士は宇宙物理学者だが同時に自然哲学者でもあり、非常に話の面白いコミュニケーターだ。以前は天文学の番組がメインだったが、最近では幅広い分野をカバーしている。今ちょうど考古学の面白さに目覚めつつあるところなので早速視ることにした。番組は前半と後半に分かれており、前半で紹介されていたミステリアスな円錐状の「ベルリンの金の帽子(Berliner Goldhut)」が特に魅力的だった。その実物がベルリンの先史博物館(Museum für Vor- und Frühgeschichte)にあるという。先史博物館はベルリン新博物館(Neues Museum)の一部で、これまでに何度か訪れているのだけれど、この不思議な帽子の存在にはどういうわけか気づいていなかった。

すぐに見に行ける場所にあると聞けば当然、見に行きたくなる。二日ゴロゴロして体調もそろそろ良くなったので、早速行って来た!

 

新博物館はベルリンの博物館島にあり、ネフェルティティの胸像を始めとするエジプト・コレクションを持つドイツ国内で最も素晴らしい博物館の一つだが、新博物館についての情報はネット上にも豊富にある(参考)のでここで長々紹介するまでもないだろう。今回は売り場直行とさせてもらおう。

これが「ベルリンの金の帽子」だ。骨董品市場に出回っていたものを1996年にこの博物館が買い取り、展示物として一般公開するようになった。実物はどのくらいの大きさかというと、高さ74.5cm、重さ490g。相当に長いとんがり帽子だね。

これまでに類似のものがドイツとフランスで全部で4つ見つかっているらしい(「ベルリンの金の帽子」は写真の一番右)。最初の「金の帽子」が発見されたのは1835年4月29日にさかのぼる。南ドイツのSchifferstadtで野良作業中の労働者が偶然掘り出した。これらは紀元前800〜1000年頃に作られたと推定されるそうだ。

「ベルリンの金の帽子」の表面をびっしりと覆う模様には規則性が見られる。ドイツでは紀元前からすでに天体が観測されていたことがわかっており、考古学者らはこの金の帽子を飾る模様は暦なのではないかという仮説を立てているそうだ。青銅器時代後半の中央ヨーロッパでは太陽信仰が広がっていた。大きさからいって、神への捧げものというよりは人間が実際に被っていた可能性が高く、天体崇拝の儀式の際に使われたのではないかと考えられている。(世界最古の天文版ネブラ・ディスクについても過去記事に書いているのでよろしければお読みください)

 

(Wikipedia: Berliner Goldhut)

先端部分のギザギザした星型の部分は輝く太陽を意味し、その下の段の鎌と目のようなシンボルは月と金星を意味する。その下の丸い模様は太陽と月のシンボルだと書いてある。木製の型を使って金床上で金塊をハンマーで叩いて薄く延ばしながら円錐に形成し、表面にスタンプのような道具を使って裏側から押し出して装飾を施したようだ。そういえば私は考古学は全くの素人だが、昔、文化人類学を勉強していたことがあり、ケルンの文化人類学博物館で3ヶ月ほど実習生として働いた。その時、オスマントルコの金属製装飾品のカタログ化をやらせてもらった。表面の加工を観察して分類したことを思い出したが、残念ながら細かいことはもう忘れてしまったなあ。装飾品を眺めるのは楽しいものだ。自分ではあまり身につけないけど。

ドキュメンタリーによれば、天文学はメソポタミアやエジプトで発達し、現在のトルコやギリシアを経由してヨーロッパ伝播したことがわかっており、金の帽子もメソポタミアから運ばれて来た可能性がなきにしもあらずだという。面白いなあ。この謎はいつか解き明かされるのだろうか。

今回はこの帽子を見るのが目当てだったので、他の展示物はさらっと見るに留めた。何しろ新博物館にはおよそ9000点の展示物が展示されているのだ。一気に見てインプットすることは到底無理!でも、大丈夫。年間ミュージアムパスがあるんだもんね。見たいものだけじっくり見るというのは旅先ではもったいなくてなかなかできないものだ。そう考えると、地元の博物館を繰り返し訪れて徹底的に見るのも悪くないかもしれない。

 

先日、ミュンヘンへ行った帰りにアウトバーン沿いの考古学博物館、Kelten Römer Museum Manchingに寄り、現在、頭の中がプチ考古学ブームである。この「まにあっくドイツ観光」で過去に考古学的観光スポットをいくつか取り上げているが(カテゴリー「考古学」)、私は以前は実はそれほど考古学に興味があったわけではなかった。単なる博物館好きで、「考古学の博物館だから見よう」というよりも、「博物館だから見よう」というノリだ。でも、博物館とは面白いもので、全く知らないジャンルの博物館を一つ二つ見ただけでは今ひとつピンと来なくても、数をこなすに従って「あ、これ前に見た〇〇と関係あるやつだよね?」「前に行ったことのあるあの場所のことでしょ」などと次第にそのテーマが自分ごとになっていく。自分には関係ないと思っていた世界が自分に関係ある世界に変わっていくのだ。

ってことで、今回は自分の住むブランデンブルク州の考古学博物館へ行ってみよう!

ブランデンブルク州の考古学博物館、Archäologisches Landesmuseum Brandenburugは修道院(Paulikloster)の中にある。

いい感じ。この博物館は「ブランデンブルク州考古学博物館」なので、リージョナルミュージアムである。ドイツには博物館がたくさんあるが、特定のテーマについて地域を問わずに幅広く扱う博物館もあれば、地域に根ざした情報を扱う博物館もある。数でいうと後者が圧倒的だ。外国人として訪れる場合は「ドイツ〇〇博物館」と「ドイツ」が付いている博物館の方が全国もしくはユニバーサルな情報を網羅していてとっつきやすいと思う。地域の博物館の場合、その地域の予備知識があるか、そのテーマに特に強い関心があれば楽しめるが、そうでなければあまりピンと来ないかもしれない。しかし最近、私は地域の博物館の魅力をじわじわと感じるようになった。もともと地図好きなので、どこになんという町があるのかなどはだいたい把握しているが、それぞれの地方のイメージが立体感を帯びて来て面白い。

この博物館では約1万年前から近代までのブランデンブルク地方の人類史を知ることができる。

ポツダムのシュラーツという地区で発掘された氷河期の牛の骨。シュラーツというのは東ドイツ時代の高層団地が並ぶ地区なので、そこにかつてはこんな立派な牛がいたのかと思ったら、なんとなく可笑しかった。今自分が知っている世界は今の世界でしかないのだなと。当たり前だけどね。

穴の開いた頭蓋骨。この石器時代の男性は穿頭(trepanation)と呼ばれる脳外科手術を2度受けていたらしい。穿頭のテクニックにはいくつかあるが、この例では下図のように、石器を使って頭蓋骨表面を削って行くSchabertechnikと呼ばれるテクニックが使われた。

石器時代の頭蓋骨にはこのような穿頭の跡が見られるものが結構あるらしい。なぜこのような頭の手術を行ったのかは明らかになっていないが、慢性頭痛などの治療だったと考えられている。図では周囲の人たちが患者の体を押さえつけているが、想像すると恐ろしい。よくも生き延びた人がいるものだ。

青銅器時代の青銅製のボタン。展示室では青銅器作りの実演動画を流していて、それも興味深かった。

考古学ジオラマ。ブランデンブルクの地面を掘るとそれぞれの地層からこういうものが出て来ますよというモデルだ。

最終氷河期の地層から出て来たマンモスの牙。

青銅器時代の地層から見つかったラウジッツ文化(紀元前1400年前ぐらい)の壺。

紀元700〜1100年くらいまで、ブランデンブルクにはスラヴ人が定住していた。スラヴ人の墓から出土されたもの。考古学博物館なのでどうしても人骨などの展示が出て来る。また、人骨の扱いなどに対して日本人の感覚とは少し異なるところもある。こういうのが苦手な方はすみません。

これは紀元9〜10世紀にスラヴ人がニーダーラウジッツ地方に建設したRaddusch城のモデル。

Raddusch城は再建されて観光スポットになっている。内部直径38 m、外部直径 58 mのこの城の周りには約5.5mの幅の堀。内部には二つのトンネルを通って入る。城の中庭には14mほどの深さの井戸があるそうだ。今度見に行きたい。

スラヴ人が定住していたブランデンブルクだが、12世紀になるとキリスト教徒たちが侵入して来て、ブランデンブルクは「ドイツ化」されていく。1157年に神聖ローマ帝国の領土である「ブランデンブルク辺境伯領」が成立。次々と城や町が作られて行った。この博物館が入っている修道院の建物もブランデンブルクのキリスト教化の流れの中で建てられたものだ。

また頭蓋骨の写真になってしまうけれど(すみません!)この頭蓋骨が被っているのはTotenkronenと呼ばれる死者の冠である。中央ヨーロッパでは16世紀から20世紀にかけて未婚のまま亡くなった女性に冠を被せて埋葬する習慣があった。(こちらの記事でも紹介しています)結婚式を挙げることなく亡くなってしまった女性への慰めと処女性を保ったことへの褒美の意味合いがあったらしい。

今度は近代。

ターラーと呼ばれるプロイセン時代の大型銀貨。フリードリヒ大王の肖像が彫られている。これは硬貨の歴史コーナーで見たものだが、この展示もかなり興味深かった。

ブランデンブルクのボトルマーク。

これを見てかなり前に訪れたガラス作りを見学できるオープンエアミュージアムを思い出した。その時にはなんだかよくわかってなくて記録も取っていないのだけれど、おそらくこういう瓶も生産していた場所なのだろう。気になるので近々また行ってみよう。

特別展ではヨーロッパの古楽器の展示をやっていて、それも面白かった。たくさん写真を撮ったけれど、キリがないので1枚だけ。これは青銅器時代の太鼓。

 

いつものことながら、このブログで紹介するのは博物館の内容のごく一部でしかなく、それも私個人が特に興味を引かれたものを紹介しているのに過ぎない。見る人が変われば着目点も異なるので、印象もまたそれぞれに違いない。このブログを目にした人が記事をきっかけに紹介した場所またはその人の身近にある観光スポットを訪れ、その人の視点での面白さを発見してくれたらいいなあ。

 

先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)

すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。

 

この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。

メインフロア。広々していて見やすい展示だ。

ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。

墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。

マンヒンクのケルト陶器

焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた

 

イノシシやカバは神聖な生き物とされた。

ケルトの樹木信仰を表す黄金の木

紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖

マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。

展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!

経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??

 

このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。

ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm

 

この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。

常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。

特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。

見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。

 

ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。

 

シュヴェービッシェ・アルプでの休暇でたくさんの洞窟に入り、また、考古学パークで氷河期体験をしたことで、すっかり氷河期ファン(?)になってしまった。中を見学した洞窟のいくつかからは人類史最古の芸術作品が発掘されているが、それら出土品はシュヴァーベン地方のあちこちの博物館や美術館に分散展示されている。ホーレ・フェルス洞窟から掘り出されたヴィーナス像と横笛、そして鳥のフィギュアはウルム近郊のブラウボイレン先史博物館(Urgeschichtliches Museum Blaubeuren)にあると聞き、見に行って来た。

ブラウボイレンは人口1万2000人の小さな町だが、ブラウトップフ(Blautopf)と呼ばれる青い泉があることで有名である。観光パンフレットなどに載っている神秘的な写真を見て、いつか行って見たいと思っていた。

 

 

 

あいにく空は曇っていたけれど、それでも泉の青さははっきりとわかる。このブラウトップフはカルスト泉で、ブラウトップフ洞窟と呼ばれる全長4900メートルにも及ぶ地下洞窟の一部なのだ。ブラウトップフ洞窟内部は水で満たされているため、洞窟ダイバーによる調査が行われている。

 

泉を見た後は先史博物館に向かう。

規模はそれほど大きくないが、とてもわかりやすい展示をしている良いミュージアムだ。

石器の作り方を詳しく説明するコーナーが合った。いろんな洞窟に入った後にこういうものを見ると、本当に面白く感じる。

出土されたものを深さごとに展示しているのが良い。

氷河期のヨーロッパ。スカンジナビア、英国北部、北東ドイツとシュヴェービッシェ・アルプが氷河に覆われている。丸い印は氷河期の遺物が発掘された場所だ。ドイツに特に多いように見えるが、必ずしもドイツに集中して人が住んでいたというわけではなく、発掘調査がドイツで特に盛んなことが理由らしい。

ローネ渓谷とアハ渓谷周辺から特に多く出土されていることがわかる。

これは最近、ホーレ・フェルス洞窟で見つかった三つ穴の装飾品(Dreilochperlen)。4万2000年〜3万6000年前のものと推定されている。

小さなアンモナイトのピアスと貝のペンダント。アンモナイトピアス、いいなあ〜。

 

さて、いよいよこの博物館のハイライト。

世界最古のヴィーナス像。「ホーレ・フェルスのヴィーナス」。

横笛。

水鳥。どれもとにかく素晴らしい。

 

シュヴェービッシェ・アルプに来たなら、洞窟や考古学パークでの生の体験とミュージアムをセットで考古学を堪能するのがおすすめだ。

 

 

洞窟体験休暇と名付けたシュヴェービッシェ・アルプでの休暇では、まず洞窟、Charlottenhöhleに入った。(その記事はこちら)次に向かうは同じくローネ渓谷にあるフォーゲルヘルト考古学テーマパーク、Archäopark Vogelherdだ。

 

Archäopark Vögelherdは、2013年にオープンした考古学テーマパークで、フォーゲルヘルト洞窟(Vögelherdhöhle)のすぐ下に位置する。今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに認定されたシュヴェービッシェ・アルプの洞窟群は考古学的に非常に重要な洞窟群である。これらの洞窟からは今から約3万2000年〜4万年前に作られたとみられる芸術作品が複数の洞窟の中から次々と発見されているのだ。フォーゲルヘルト洞窟からは氷河時代の様々な動物をかたどった11個の小さな象牙の彫り物が出土されている。

 

フォーゲルヘルト考古学パークを洞窟のある丘の上から見たところ。写真の奥に見える細長い建物はビジターセンター。まだオープンして間もないこともあり全体的にシンプルな印象だが、侮ることなかれ。ここは子どもにも大人にも面白いテーマパークなのである。

私たちはガイドツアーに参加することにした。オフシーズンで肌寒い日だったせいか、ツアーは私たち夫婦と二人のティーンエイジャー連れの家族が一家族のみだった。ツアー内容はパーク内の学習ポイントのそれぞれでガイドさんの説明を聞きながら氷河期(旧石器時代)にローネ渓谷に住んでいた人々の生活を体験しながら回るという趣向だ。

 

最初の学習ポイントでは氷河期に人々が使用していた道具について学ぶ。いろいろなハンドアックス(握斧、ドイツ語ではFaustkeilと呼ぶ)を握らせてもらった。ハンドアックスは氷河期のアーミーナイフのようなもので、一つで切る、叩く、削る、砕くなどのいろいろな手作業を行うことができる。試しに皮を切って見たが、よく切れる。ハンドアックスによく使われるのは主に燧石(フリント、火打ち石)がよく使われる。写真中央に見えるのは木の棒の先に石器を紐でくくりつけた石槍だが、紐で結わえるだけでは取れやすいので、何かで接着しなければならない。

当時は白樺のタールが接着剤として使われていた。(写真の黒い物質)熱して溶かし、熱いうちに道具をくっつけて冷えて固まるのを待つ。ホモ・サピエンスだけでなく、ネアンデルタール人も使っていたという。

 

次のポイントでは獲物を捕まえる体験。ネアンデルタール式の槍とホモ・サピエンスホモ・サピエンス式の矢の両方を獲物めがけて放ってみる。

ネアンデルタール式投げ槍。投げてみたけど、届きゃしない、、、、。食糧を得るのは大変だね。

こっちはホモ・サピエンス式の矢。矢のお尻の部分にドイツ語でSperrschleuderと呼バレる投槍器を当てて握り、投槍器は握ったまま矢だけを飛ばす。ネアンデルタール式の投げ槍よりははるかに軽く、飛ばしやすいが、これも私は獲物に全然当たらなかった。今日の晩御飯はなしか、、、。

と思ったが、夫は楽々と50メートルほど飛ばし、命中。憎たらしい。が、これで肉鍋が食べられるのだから良しとしよう。

別の学習ポイントではローネ渓谷で見つかった様々な動物の骨を観察した。これはマンモスの臼歯。

 

パーク内の学習ポイントを回りながら丘を登り、フォーゲルヘルト洞窟へ。

 

中は外よりずっと暖かい。ここで石器時代の人たちが生活していたのかと思うと、なんだか感動的である。それも、ただ生存していただけではない。3万2000年も前にこの洞窟に住んだ人々は芸術作品まで生み出していたのだ。それらはヨーロッパにおいて最後の氷河期の第1亜間氷期から第2亜間氷期まで続いていたオーリニャック文化の一部をなすもので、シュヴェービッシェ・アルプの他の洞窟で見つかったものと合わせ、これまでに発見された最古の「持ち運べる芸術作品」である。パークの入口のビジターセンターではこの洞窟で出土された11の作品のうち、2つが展示されている。

 

モンモスの牙で作ったマンモスのフィギュア。大きさ3.7cm、重さ7.5g。石器の道具でこんな小さなフィギュアを作るなんて、作者は手先の器用な人だったのだな。

同じくマンモスの牙で作ったホラアナライオンのフィギュア。この洞窟からは、これら二つの他に野生の馬、トナカイ、バイソン、アナグマ、パンサーなどが見つかっている。(こちらのページに一覧写真がある) その中で特に人気で野生の馬はこのテーマパークが属するNiederstotzingen市のロゴになっており、実物はチュービンゲン大学博物館で見られる。

 

洞窟を出ると、日没間近になったせいか、さらに寒くなった。ぶるる。でも、この程度の寒さで寒いと言っていたら、氷河期を生きた人には呆れられてしまう。そんなことを考えているとガイドさんが「さあ、みなさん。最後に石器時代の人たちのやり方で火を起こしてツアーはおしまいです」と言った。やった、暖を取れる!

石器時代の焚き火起こしセット。これは後日、先史博物館で見たものだが、当時の人たちは火を起こすのに火打ち石(フリント)、黄鉄鉱(パイライト)、乾燥させたキノコ(火口として使う)、アザミの綿毛などを使っていた。

 

ガイドさんが火打ち石(フリント)と黄鉄鉱(パイライト)をカチカチと打ち合わせると火花が散った。火花を素早く乾燥キノコに接近させて発火させる。

発火したら素早くアザミの綿毛と藁で包み、巣のようなものを作る。

それを手に持ってフウフウ吹く。結構な肺活量が必要そうだ。

やった!

あったかいねー。


煙たいのですぐに出てしまった。

1時間ほどのツアーだったが、かなり面白かった。子どもも楽しめるのはもちろん、大人にとっても為になる内容だ。まだ新しいテーマパークなので、今後は一層充実していくだろう。私はこれまで石器時代に特別興味を持っていたわけではなく、先史博物館などに石器がずらりと展示されているのを見ても、何がどう違うのか今ひとつピンと来ていなかった。しかし、この考古学パークで石器時代の手ほどきを受けたおかげで、この後訪れた博物館ではハンドアックスなどの道具が急に生き生きとしたものに見えて来た。たとえ真似事ではあっても自分で少しでも体験してみることで、それまで自分とは無関係と思われたものが意味を持ち始めると実感した。

 

ドイツ語だけれど、関連動画を見つけたので、興味のある方は是非、見てみてください。

 

夫が秋休みを取ったので、私たちは10月の終わりから11月にかけての一週間を南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプ(Schwäbische Alb)で過ごすことにした。シュヴェービッシェ・アルプとは「シュヴァーベン地方のアルプス」の意味であり、その名が示す通り、山脈を中心に長さ約400km、幅35〜40kmに広がる地帯だ。シュヴェービッシュ・アルプは今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに登録された。ゴツゴツとした岩が剥き出しになった山脈のあちこちに約3万5000〜4万3000年前に人類が住んでいたとされる洞窟がいくつもあり、驚くべきことにそのいくつかからは彼らの残した芸術作品や楽器が数多く出土されているのである。

世界最古の芸術作品が出土された洞窟!!

それは何やら凄そうではないか。そこで今回の旅行を「洞窟探検休暇」と名付けて出かけた私たちである。Heidenheim an der Brenzという町を拠点にシュヴェービッシュ・アルプの洞窟を回った。まず最初に訪れたのは、ローネ渓谷(Lonetal)にあるシャーロッテンヘーレ(Charlottenhöhle)だ。

 

 

Charlottenhöhleは1893年に発見され、当時のヴュルテンベルク王女、シャルロッテにちなんで名付けられた鍾乳洞で、深さはおよそ地下35m、長さ532mの通路。シュヴェービッシェ・アルプの洞窟には一般公開されているものと研究者しか中に入ることのできないものとがあるが、この洞窟は一般公開されているものの中では最も長さがある。早速ツアーに申し込み、ガイドさんの後をついて中に入った。

 

鍾乳石や石筍に関する説明を聞きながら奥へと進む。鍾乳洞は日本やその他の国でも何度も見たことがあるが、ドイツでは初めてなので久しぶりだ。

シュヴェービッシュ・アルプはかつては浅いトロピカルな海だった。海の生物の死骸が堆積してできた石灰岩が地殻変動によって隆起し、二酸化炭素を含む雨水や地下水によって長い時間をかけて侵食されカルスト地形を形成している。石灰岩の割れ目から入り込んだ水が炭酸の作用で周辺を溶かして空洞を作る。空洞を満たしていた水がなくなると、歩いて入ることのできる洞窟となる。このCharlottenhöhleはおよそ250〜300万年前のジュラ紀後期に形成されたものだという。

 

つららがたくさん。

リンゴの木のような形をした鍾乳石。上部の丸いつぶつぶはケイブパール(「洞窟の真珠」の意味)と呼ぶそうだ。

 

大きな石筍。

 

これは、フローストーンというものかな。(間違ってたらすみません)

 

石筍と鍾乳石が繋がって石柱を形成しているところもある。

 

なっかなか面白い。これが最初に入った洞窟だったので、この時点ではかなり興奮していた。この後もっと凄くなるのだが、、、。

 

鍾乳洞の近くにはHöhlenSchauLandというビジターセンターがあり、ローネ渓谷の自然史について展示を行なっている。

貝、魚の骨、サンゴ、、、本当にここはかつて海の底だったんだね。現在は国土の最北にしか海のないドイツに住んでいるとなんだか不思議な気がするが。

 

石筍の断面。縞模様ができているのが見えるだろうか。木の年輪のようなもので、この成長縞を元にウラン-トリウム法という方法を使って石筍の年代を測定する。石筍に取り込まれた放射性アイソトープU234とTh230の半減期がそれぞれ異なるので、両アイソトープの比率を調べることで形成時期を知ることができるのだ。

面白いなあ。でも、これはまだ序の口。これからもっともっと面白くなるのだ!

 

 

 

三度の飯よりも博物館が好き!

これは誇張ではなく、実際に旅先では食べることよりも博物館を優先してしまう私である。外国へ行ってそこにしかない郷土料理がある場合はもちろん食べてみたいけれど、ドイツ国内旅行のときには、美味しいものは別にいつでも食べられるのだから、限りある時間を博物館を見ることに費やすのだ。

昼過ぎにケムニッツに到着してからケムニッツ産業博物館ドイツゲーム博物館を見終わってから宿にチェックインし、時計を見ると18時。すでにほとんどの博物館は閉館している時刻である。しかし、まだ開いているところがあった!その日は木曜日だったが、ケムニッツの考古学博物館、Staatliches Museum für Archäologie Chemnitzは毎週木曜日、20時まで開いているのだ。

 

ケムニッツの考古学博物館は町の中心部にあって、アクセスがとても良い。博物館らしからぬ雰囲気の建物で、入り口には 「SCHOCKEN」という大きな文字。schockenというのはドイツ語で「ショックを与える」という意味なので、一体何のことだろうかと首を傾げた。

©︎smac

後で知ったことによると、この博物館の建物は元デパートで、Schockenというのは当時のデパート名だそうだ。1930年に建築士エーリヒ・メンデルスゾーンにより設計された。今まで知らなかったのだが、メンデルスゾーンはポツダムにあるアインシュタイン塔も手がけた著名なユダヤ人建築家だという。

 

この博物館には約30万年前にザクセン地方に最初の狩猟・採集社会が形成されてから産業化が始まるまでの間の人類の遺品が展示されている。展示品は約6200点と堂々たる規模である。3フロアに渡って年代順の展示となっている(1階はネアンデルタール人の時代から石器時代初期まで、2階には中世初期まで、3階がスラブ民族の定住から産業革命の前まで)。

 

館内は白で統一されていて、とても綺麗。

 

動物の骨もお洒落にディスプレイされている。デザイン性の高いミュージアムだ。

 

これはsmacの目玉、パノラマギャラリー。

 

考古学的発掘物もこのように飾られると、思わず見とれてしまうね。

 

ドレスデンの聖母教会から発掘されたデスクラウン。未婚の若い女性の遺体が被っていたものだそう。このように繊細で洗練された装飾品がこれほど良い状態で保存されていたことに驚く。

 

マイセンで見つかった紀元前1700〜2200年頃のアクセサリー。うわー、こんな重いものを首につけたら肩が凝りそう、、、。

 

紀元前1000〜1200年ごろの青銅器。

 

とこんな感じで、かなり良い博物館だったのだが、家からケムニッツまで何時間も車を運転し、ほとんど休憩もなく二つの博物館をじっくりと見た後だったので、実はもうヘロヘロの状態だった。オーディオガイドを聞いていてもあまり頭に入って来ない。残念、、、。

 

今回はじっくり味わうことができなかったが、是非もう一度訪れたいミュージアムである。

 

 

 

 

マニアックなドイツ・ドライブ一人旅(テューリンゲン編)の二日目はワイマールで過ごした。ワイマールはイエナ(前回前々回の記事で紹介)から車で30分ほどの距離にある。満開のセイヨウアブラナの花で黄色に染まった丘陵地帯を抜けて行く。絶景ドライブだった。

ワイマール(正確な発音は「ヴァイマー」に近い)は歴史の授業で習ったワイマール共和国やワイマール憲法により、日本でもその地名はよく知られているだろう。また、ゲーテやシラーの町として有名だ。街並みは古典的でとても優雅である。

 

まず、ワイマールへ行ったら是非見たいとかねてから思っていた、アンナ・アマリア図書館のロココの間を見学した。このあまりに美しい図書館は2004年に大火災に見舞われており、そこからの大掛かりな復元のプロセスについてもドイツ国内ではよく知られている。ワイマールの必見観光スポットであるが、すでにこちらの日本語の記事に詳しく紹介されているので、ここでは紹介を省く。

 

私は日本の大学では文学部だったので文学にも大いに興味があるのだが、今回の旅のテーマはなんといっても「マニアック」である。なので、定番的なものよりもマニアックなものを探すことにした。しかし、ワイマールにはあまりマニアックな要素が見当たらない。そこで、観光客があまり訪れなそうなスポットということで、先史博物館、Museum für Ur- und Frühgeschichte Weimarに行ってみることにした。

 

 

建物の入り口はこんな感じ。

 

実はそこまで期待していなかったのだが、とても面白かった。テューリンゲン地方の人類の歴史がよくわかる博物館である。

 

 

実は、テューリンゲン地方というのは地理的・地質学的にドイツ全国で特に興味深い地域なのだそうだ。ここにはドイツ国内で見られるほぼすべての地形や土壌の種類が存在する。海洋性気候帯と大陸性気候帯の境界に位置していることも特徴的である。動植物の多様性が非常に高く、人類の狩猟生活、そしてその後の農耕生活にも好条件な土地だった。

 

テューリンゲンにはトラバーチンと呼ばれる地下水の炭酸カルシウムが沈殿してできた堆積岩が多く見られる。

 

 

トラバーチンは主に建築材などの用途に使われるが、中にはそれが生成された地質時代の動植物が閉じ込められて化石化したものがあり、当時の自然環境を知ることができる。

 

左は柏の葉、右は野生のリンゴ。過去記事でバルト海の琥珀博物館も紹介したが、こういう天然のタイムカプセルって、なんだかすごく感動してしまう。

 

地学的な展示も興味深いが、さらにこの博物館ではテューリンゲン地方における40万前からの人類の歴史を見ることができるのだ

 

 

それぞれの考古学的時代ごとに当時の人々の生活の様子が展示されていて、これがまた面白い。道具や装飾品など、保存状態の良いものが豊富で見ごたえがある。

 

青銅器時代のアクセサリー。

 

時代ごとの死者の埋葬の習慣も展示されている。

 

各コーナーに白骨剥き出しの状態でお墓の内部が再現されているので、そういうものが苦手な人には向かないかもしれない。

 

この博物館には1時間半ほどいたのだが、時間が全然足りなかった。展示の説明はドイツ語のみなので、外国人観光客はほとんど訪れない観光スポットなのではないかと思う。先史博物館はドイツ各地にあるので、これから他の町のものも是非訪れてみたい。

 

 

 

 

 

ある秋の日曜、私と夫はザクセン・アンハルト州の小さな町、ネブラを訪れることにした。世界最古の天文盤とされる「ネブラ・ディスク(die Himmelsscheibe von Nebra)」が出土された場所を見るためだ。

 

(Flickr/Patrik Tschudin)

 

ネブラ・ディスク、それは1999年に発見された天文盤だ。紀元前1600年頃の青銅器時代の遺物とされ、現在はユネスコ記憶遺産に登録されている。青銅製の円板の上に太陽と三日月、そして32個の星を表す金のインレーが嵌め込まれている。

 

この天文盤はミッテルベルク・プラトーという丘陵地にあるネブラに埋まっていた。

 

ネブラに到着した私たちは駐車場に車を止め、ビジターセンターとおぼしき建物へ向かった。

 

ビジターセンター(Arche Nebra)

 

ビジターセンターに入り、「出土地はどこですか」と尋ねると、係員の女性は「ここから約3km、丘を上がったところですよ」と教えてくれた。

 

丘を3kmも登るのか、、、、。

 

窓から見える丘の向こうが出土地

 

「シャトルバスもあります。あと10分で出発しますが、先に出土地を見ますか?それともプラネタリウムを見ますか?」

なんだ、バスがあるんじゃないの。よかった。もうじき出発だと言うので、ビジターセンターを見るのは後回しにして、バスで出土地に行くことにした。間もなくやって来たのは、バスというよりもワゴン車。中年の女性とその息子と思われる小学生男子が乗っていた。

「帰りは好きなときに歩いて戻ってくださいね。下り坂だから、大丈夫ですよね?」
シャトルバスと言いながら、片道であった。

森の中を抜け、あっという間に到着した原っぱにそのスポットはあった。

 

この丸いフェンスで囲まれたところから天文盤が発掘された

 

 

ディスクが掘り出された中央部には現在、このようなステンレス製の円板が埋め込まれている。空を映すこの鏡は「天空の目(Himmelsauge)」と呼ばれるそうだ。

ネブラ・ディスクの発見ストーリーは謎めいている。この天文盤は考古学者らにより発掘されたのではなく、盗掘品であった。違法な取引きによって人の手から手へと渡った後、2002年、正式に保護された。青銅器時代、この地に住んでいたウーネチツェ人が天体を観察するために使っていたとされる。しかし、肝心の天文盤はここにはなく、近郊の都市、ハレの先史博物館にある。丘の下のビジターセンターではそのレプリカが見られるだけである。

 

 

すぐそばには見晴らし台が建っている。

 

見晴らし台からの眺め

 

そして、この見晴らし台は日時計でもあるのだ。

 

 

地面に引かれたラインはブロッケン山という高い山の方角を示していて、夏至にはちょうどこの方角に太陽が沈む。人里離れた静かなこの地で青銅器時代の人たちがディスクを見ながら天体の動きを観測していたのだなあと想像すると、なんともロマンチックである。

 

さて、出土地を確認した私たちは満足し、3kmの道のりを下った。シャトルバスの運転手さんが言うように、下り坂なのですぐに降りてしまった。ビジターセンターではネブラ・ディスクについての展示やプラネタリウムを見ることができる。(ちなみに、プラネタリウムでは結婚式も挙げられるそうだ)

 

 

駐車場前にはこんなレストランがあり、なかなか雰囲気良し。

 

 

アプフェルシュトルーデルというリンゴのパイを頼んだら、ネブラ・ディスク風の盛り付けになっていて、でも、雑で可笑しかった。