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前々から欲しいと思っていた本を購入した。石材を見ながら街を歩く活動をしておられる名古屋市科学館主任学芸員、西本昌司先生の『東京「街角」地質学』という本だ。ジオパークや石切場に石を見にいくのも楽しいけれど、街の中でも石はいくらでも見られる。建築物やインフラにいろんな石が使われているから、見てざっくりとでも何の石か区別できるようになれば楽しいだろうなあと思って、この本を日本から取り寄せた。読んでみたら、想像以上にワクワクする本だ。石についての説明もわかりやすいし、特定の種類の石が使われた背景も面白い。さっそく自分でも街角地質学を実践してみたくなった。

とはいっても、東京へ行けるのはいつになるかわからないので、まずは住んでいるドイツの町で使われている石材を見に行くことにする。この目的にうってつけの”Steine in deutschen Städtchen(「ドイツの町にある石」)”というガイドブックがあるので、これら2冊をバッグに入れてベルリンへGo!

“Steine in deutschen Städtchen”のベルリンのページでは、ミッテ地区のジャンダルメンマルクトという広場周辺で使われている石材が紹介されている。地図上に番号が振られ、それぞれの番号の場所の石材の名称、産地、形成された時代が表にされているので、これを見ながら歩くことにしよう!

と思ったら、ジャンダルメンマルクトは2024年4月現在、工事中で、広場は立ち入り不可。いきなり出鼻を挫かれた。でも、広場周辺の建物を見て回るのには支障はなさそうだ。

まずはマルクグラーフェン通り(Markgrafenstraße)34番地の建物から見てみよう。

1階部分にアインシュタインカフェというカフェが入っているこの建物は、1994-96年に建造された。地階とそれ以外の階部分の外壁には異なる石材が使われている。

地階部分はイタリア産の蛇紋岩、「ヴェルデヴィットリア(Verde Vittoria)」。

上階部分はCanstatter Travertinというドイツ産のトラバーチン。シュトゥットガルト近郊のBad Cannstattで採れる石で、本場シュトゥットガルトではいろいろな建物に使われているらしい。

 

次に、広場の裏側のシャロッテン通り(Charlottenstraße)に回り込み、フランス大聖堂(Franzözischer Dom)前の石畳を観察する。

フランス大聖堂前の石畳

ここのモザイク石畳に使われている石は大部分がBeuchaer Granitporphyrという斑岩。ライプツィヒ近郊のBeuchaというところで採れる火山岩で、ライプツィヒでは中央駅や国立図書館の建物、諸国民戦争記念碑(Völkerschlachftdenkmal)などに使われているそうだ。

そこから1本西側のフリードリヒ通り(Friedrichstraße)には商業施設の大きな建物が立ち並んでいる。例えば、Kontorhausと呼ばれる建物は赤い壁が特徴的だ。

使われているのは南ア産の花崗岩で、石材名はTransvaal Red。花崗岩というと以前は白と黒とグレーのごま塩模様の日本の墓石を思い浮かべていたけれど、ドイツでは赤い花崗岩を目にすることがとても多い。石材用語では「赤御影石」と呼ばれるらしい。

建物のファサード全体と基礎部分では、同じ石でも表面加工の仕方が違っていて、全体はマットな質感、基礎部分はツヤがある。これは何か理由があるのかな?地面に近い部分は泥跳ねなどしやすいから、表面がツルツルしている方が合理的とか?それとも単なるデザインだろうか。

 

連続するお隣の建物ファサードには、縞模様のある淡いクリーム色の石材が使われている。

この石材は、イタリア、ローマ郊外チボリ産のトラバーチン、Travertino Romano(トラベルチーノ ロマーノ)。ローマのトレヴィの泉やコロッセオに使われているのと同じ石。ベルリンでは外務省ファサードにも使われている。『東京「街角」地質学』によると、東京ではパレスサイドビル内の階段に使われているらしい。

トラバーチンという石を『東京「街角」地質学』では以下のように説明している。

トラバーチンは、温泉に溶けていた石灰分(炭酸カルシウム)が、地表に湧き出したところで崩壊石として沈澱し、積み重なってできたものである。その沈殿は常に同じように起こるのではなく、結晶成長が速い時期や不純物が多く混ざる時期などがある。そのため、木に年輪ができるように、トラバーチンにも縞模様ができるのである。(出典: 『東京「街角」地質学』

なるほど、縞の太さや間隔は一定ではない。小さい穴がたくさん開いている(多孔質)のも、トラバーチンの特徴だ。

 

その隣の建物との境に使われている石は緑色。緑の石というと、蛇紋岩?

ガイドブックによると、ヴェルデヴィットリアとなっているから、最初に見たアインシュタインカフェのファサードと同じ石ということになる。随分色も模様も違って見えるけれど。

180-184番地の建物はガラッと違う雰囲気。建造年は1950年で、東ドイツ時代の建物だ。クリーム色の部分はドイツ産の砂岩(Seeberger Sandstein)で、赤っぽい部分は同じくドイツ産の斑状変成凝灰岩(Rochlitzer Porphyrtuff)だ。

このRochlitzer Porphyrtuffという石はとても味わい深い綺麗な石である。なんでも、この石は多くの重要建造物に使われていて、国際地質科学連合(IUGS)により認定されたヘリテージストーン(„IUGS Heritage Stone“)の第1号なのだそう(参考サイト)。ヘリテージストーンなるものがあるとは知らなかったけれど、なにやら面白そうだ。今後のジオサイト巡りの参考になるかもしれない。ちなみに、Rochlitzer Porphyrtuffの産地はザクセン州ライプツィヒ近郊で、Geopark Porphyrlandと呼ばれるジオパークに認定されていて、石切場を見学できるようなので、近々行ってみたい。

 

さて、次はこちら。

1984年にロシア科学文化院(Haus der russischen Wissenschaft und Kultur)として建造された建物で、建物のデザインはともかく、石材という点ではパッと見ずいぶん地味な感じ。

でも、よく見ると、地階部分のファサードには面白い模様の石が使われている。

Pietra de Bateigという名前のスペイン産の石灰岩で、日本で「アズールバティグ」と呼ばれる石に似ている気がするけれど、同じものだろうか?

 

道路を渡った反対側には、フリードリヒシュタットパッサージェン(Friedrichstadt Passagen)という大きなショッピングモールがある。

ファサードは化石が入っていることで有名な、「ジュライエロー」の名で知られる南ドイツ産の石灰岩。ジュライエローについてはいろいろ書きたいことがあるので、改めて別の記事に書くことにして、ここでは建物の中野石を見ていこう。この建物は内装がとても豪華なのだ。

大理石がふんだんに使われたショッピングモールの内装

地下の床に注目!いろんな色の石材を組み合わせて幾何学模様が描かれている。この建物の建造年は1992年から1996年。ドイツが東西に分断されていた頃は東ドイツ側にあったフリードリヒ通りにおいて再統一後まもない頃に建てられた建物アンサンブルの一つだが、その当時はこういうゴージャスな内装が求められたのだろうか。

白の石材はイタリア産大理石「アラべスカートヴァリ(Arabescato Vagli)」で、黒いのはフランス産大理石「ノワールサンローラン(Noir de Saint Laurent)」。ちなみに、大理石というのは石材用語では内装に使われる装飾石材の総称で、必ずしも結晶質石灰岩とは限らないから、ややこしい。”Steine in deutschen Städtchen”には「アラべスカートヴァリ」は結晶質石灰岩で「ノワールサンローラン」の方は石灰岩と記載されている。

赤い部分はスペイン産大理石(石灰岩)、Rojo Alicante(日本語で検索すると「ロッソアリカンテ」というのばかり出てくるのだけど、スペイン語で「赤」を意味する言葉だからロッホと読むのではないのかな?謎だー)。

こちらの黄色いのはイタリア、トスカーナ産のジャロ・シエナ(Giallo di Siena)。およそ2億年前に海に堆積し、圧縮されてできた石灰岩が、2500万年前のアペニン山脈形成時の圧力と高温下で変成して結晶質石灰岩となった。

 

同時期に建てられたお隣のオフィスビルは、ファサードに2種類の石灰岩が組み合わされている。色の濃い方がフランス産のValdenod Jauneで、クリーム色のがドイツ産のジュライエローだ。

でも、ファサード以上に目を奪われたのはエントランス前の床の石材だった。

床材も石灰岩づくしで、濃いベージュの石材はフランス産のBuxy Ambre、肌色っぽい方も同じくフランス産でChandore、黒いのはベルギー産Petit Granit。Chandoreは白亜紀に形成された石灰岩で、大きな巻貝の化石がたくさん入っている。

このサイズの化石があっちにもこっちにもあって興奮!

そして、花崗岩(Granite)ではないのにGranitとついて紛らわしいPetit Granitもまた、白亜紀に形成された石灰岩で、こちらも化石だらけなのだ。

サンゴかなあ?

これもサンゴ?大きい〜!

これは何だろう?

化石探しが楽しくて、人々が通りすぎる中、ビルの入り口でしゃがみ込んで床の写真を撮る変な人になってしまった。ここの床は今回の街角地質学ごっこで一番気分が上がった場所だ。街角地質学をやりに出て来て良かったと感じた。ただ、ベルリンで街角地質学をやる際、困ることが一つある。それは、ベルリンの町が汚いこと。このフリードリヒ通りはまだマシな方ではあるけれど、せっかくの素晴らしい石材が使われていてもロクに掃除がされていないので、ばっちくて触りたくないのだ。写真を撮るとき、化石の大きさがわかるようにとコインを置いたものの、そのコインをつまみ上げるのも躊躇してしまう。

 

さて、2時間近くも石を見ながら外を歩き回ったので、さすがにちょっと疲れて来たので、初回はこの建物で〆よう。Borchardtというおしゃれ〜なレストランが入っている赤い砂岩の建物である。

この砂岩はRoter Mainsandstein(直訳すると「赤いマインツの砂岩」というドイツ産の砂岩で、ドイツ三大大聖堂の一つ、マインツ大聖堂はこの石で建てられている。この建物は1899年に建てられており、ファサードの装飾が目を惹くが、石的に注目すべきは黒い柱の部分だ。

うーん。写真だと上手く伝わらないかな。光が当たるとキラキラ輝いて、とても美しい。ノルウェー産の閃長岩で、石材名は「ブルーパール(Blue Pearl)」。オスロの南西のラルヴィクというところで採れるので、地質学においては「ラルビカイト(Larvikite)」と呼ばれる岩石だ。東京駅東北新幹線ホームの柱や東海道新幹線起点プレート、住友不動産半蔵門駅前ビルの外壁にも使われているとのことで、東京に行ったときにはチェックすることにしよう。

 

それにしても、世の中にはたくさんの石材があるものだ。少しづつ見る目が養われていくといいな。

 

関連動画:

YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」で過去にこんなスライド動画を上げています。よかったらこちらも見てね。

当ブログ、ここのところシチリア旅行のレポートが続いていたが、あまり知られていないドイツ、特にベルリンとその周辺のブランデンブルク州を発掘するYouTubeチャンネル、「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」も引き続き更新している。

探検隊チャンネルの動画作りは、相棒の久保田由希さんと私が興味のあるテーマを持ち寄って、一緒に作業するスタイル。共通の興味が多い私たちだけれど、テーマによっては由希さん寄りだったり、または私寄りだったりとバランスはその都度違う。これが楽しいのだ。お互いに相手の興味から学ぶことが多くて、世界が広がっていく。

過去記事で東ドイツ時代の団地「プラッテンバウ」について作成した動画を紹介したが、ドイツの「団地」に関連する動画をさらに2本、アップした。

団地はもともとは由希さんの守備範囲。私は「なんとなく気になるな」程度だったけれど、チャンネル開設以前から由希さんが熱く語るのを聞いているうちに興味を持つようになった。ドイツには日本の団地建設に影響を与えた団地が多くある。ベルリンにある6つの団地はUNESCO世界遺産に登録されている。そうした建物が作られるようになった社会背景や流れを知るのはとても面白い。

新たに公開した2本のうち1本は、「ジードルング」と呼ばれるドイツの集合住宅とはどのようなもので、いつ頃、なぜ作られるようになったのかを解説した以下の動画。由希さんが時間とエネルギーを注いでリサーチしてくれて、私もすごく勉強になった。

以下は公開したばかりの最新動画で、ベルリンの世界遺産団地を一つ一つ紹介している。

 

探検隊チャンネルのメインテーマの一つになりつつある建築物。これからもいろんな時代やタイプの建物について調べていきたい。

 

昨年からパンデミックで外出もままならない日が続いていましたが、ここのところドイツでは感染者数がかなり減って、規制が緩和されています。冬の長いドイツでは、いつも皆、夏を心待ちにしています。夏場は日が長いので、仕事の後でもたっぷり野外で活動できます。ドイツの夏は湿度が低く、とても爽やか。水場に恵まれたベルリン・ブランデンブルクでは水遊びを楽しむことができます。

湖で泳いだり、ボートやSUPを漕いだり、釣りをしたりなど水遊びの種類が豊富ですが、アクティブなレジャーはあまり、、、という人には遊覧船でのクルーズなど楽なレジャーがたくさんありますよ。

ベルリン・ブランデンブルク探検隊」の相棒、久保田由希さんがベルリンの公共交通を使った水路によるベルリンの楽しみ方を紹介する動画をYouTubeに公開しました。安くて気軽で、それでいてドイツの夏らしさを満喫できる素敵なルートです。

コロナの感染状況はいつまた悪化するともわからないので引き続き注意が必要ですが、ルールをきちんと守りながら短い夏を楽しみたいと思います。

水路によるブランデンブルクの楽しみについても、改めてご紹介するつもりです。

 

 

 

2ヶ月前に友人のライター久保田由希さんと一緒に解説したYouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」。これまでにベルリンとブランデンブルクをテーマに8本の動画をアップしました。

でも、ベルリンってどんなところなのかイメージが湧かない、ましてやブランデンブルクってどこそれ?という方が多いことでしょう。ベルリンとブランデンブルクのそれぞれをざっくりとご紹介する概要動画を作りました。ベルリンの概要動画はベルリンに20年近く住み、ライターとして数々の取材を重ねて来た由希さんの視点で、そしてブランデンブルク概要動画はブランデンブルクじゅうを歩き回っている私が感じるブランデンブルクらしさを凝縮させた内容にまとめています。この2つの動画を見れば、ドイツの首都ベルリンの空気を感じることができ、その周辺に広がるブランデンブルク州の独特の魅力に触れて頂けることと思います。よかったら是非、見てください。

 

 

 

 

先日、1900年前後の裕福な市民の生活文化を知ることができる博物館、ハイン邸を紹介した。(記事はこちら

同じベルリン北部のプレンツラウアーベルク地区ドュンカー通り(Dynckerstraße)にも類似の住宅博物館がある。ほぼ同じ時代のものだが、ハイン邸との違いはハイン邸が資産家フリッツ・ハイン氏が自身と家族の住居として建てさせたものであるのに対し、ドュンカー通りの建物は賃貸アパートであったという点だ。どのように違うのだろうか。見に行ってみよう。

 

 

 

ミュージアムのある建物の入り口

プレンツラウアーベルク地区は現在はお洒落なカフェやショップが多く、ベルリンの中でも人気の高いエリアだが、1900年前後の状況は全く違っていた。急激に産業が発達していたベルリンへ周辺の地方から多くの労働者が流入し、大変な住宅難を引き起こしていた。1850年にはベルリンの人口は40万人ほどだったが、それが1900年頃には200万人弱まで膨れ上がっていたというのだから凄まじい。ドュンカー通り77番地のこの建物は1895年に建築大工マイスター、ハインリッヒ・ブルンツェルが賃貸用に建てたアパートで、通りに面した棟(Vorderhaus)と奥の棟(Hinterhaus)とがいわゆる「ベルリンの間(Berliner Zimmer)」で繋がっている。(ベルリンの間についてはこちらの記事を参照)そのうち、通りに面した棟の一部がミュージアムとして一般公開されている。通りに面した棟の方が家賃が高く、労働者の中でも比較的経済的にゆとりのある人たちが住んでいたそうだ。

 

通りに面したアパートは3部屋の作りで、入り口を入ってすぐの部屋はグーテ・シュトゥーべ(Gute Stube)と呼ばれるとっておきの部屋である。内装は資本家階級のスタイルを真似ているが、ずっと質素である。部屋の角に置かれたタイルストーブもとてもシンプルな造りだ。グーテ・シュトゥーべはクリスマスやイースター、来客時など特別なときにしか使わない部屋だから、このストーブにも普段は火を入れない。暖房費がばかにならないという理由もあった。通常はキッチンのストーブが暖房がわりだった。

「ストーブのタイルはフェルテンのものですか?」とミュージアムの人に聞いたら、「あら、よく知っていますね。今、説明しようと思ったところ」という返事が返って来た。そう、ベルリン近郊にはタイルやタイルストーブの生産で有名だったフェルテンという町がある。タイルストーブ生産は戦後、衰退してしまったが、フェルテンにはストーブ博物館があり、数多くの逸品が鑑賞できる素晴らしい博物館なのだ。以前、記事にしたので、興味があれば読んでみてください。

タイルとストーブ生産で栄えた町、VELTENのストーブ・陶器博物館

 

25kmほど離れたフェルテンからベルリンへ、タイルは馬車で運ばれた。輸送に鉄道が使われるようになったのは1893年以降のことだ。

 

アパートの賃貸人が何度も入れ替わったので、壁が重ね塗り直され、天井縁の細かい装飾も半ば埋まってしまっているが、画像の四角い部分のみオリジナルが復元されている。当時は内装に暗めの色を使うのが流行だったそうだ。

 

グーテ・シュトゥーべの他は寝室と台所である。当時の賃貸アパートの家賃相場は年間400〜800マルクだったとのこと。今だといくらくらいだろうか。寝室には家具やリネン類が展示されている。まだゴム紐のなかった時代だから、ズボンや下着類は紐で締めるスタイル。寝るときには男性も女性もナハトヘムト(Nachthemd)と呼ばれるネグリジェタイプの寝間着を着ていた。展示されているのは古いリネン類なのに、黄ばみがなく真っ白なことに感心してしまう。

台所

暖房器具の役割も果たした調理ストーブ。鍋の底は丸くなっていて、ストーブ台のレンジにはめ込むように置く。レンジは鍋底の大きさに応じてリングを取り外して調整できるようになっている。手前の丸い蓋つきの道具はワッフルメーカー。アイロンは熱した鉄の塊を中に入れて熱くする。昔のものはなんでも重いよね。

冷蔵庫。上の蓋を開けて氷の塊を入れ、扉の中の食品を冷やす

この頃建設されたベルリンのアパートでは窓の下にこのような奥行きの浅い棚を作ることが多かった。壁際の窓のすぐ下だから涼しくて食品の保管に適していただろう。

労働者の住まいにはバスタブはなく、このようなたらいに湯を張り、家族順番に入るのが普通だった。頻繁ではなく、せいぜい週に一度、大抵は土曜日が入浴日だった。

トイレ。なぜか便器の上の壁にテレビが設置されている。当時のベルリンの水事情についての動画が見られるというので見せてもらうことにした。細長い空間の床にマットが置いてあって、「どうぞ座ってご覧になってください」と言われたので、笑ってしまった。マットに座って、便器を前に動画を見るというのも何だかなあという感じであるが、興味深い内容だった。19世紀後半まで人々は井戸水をポンプで汲み上げて使っており、汚水は垂れ流しだった。そのため不衛生で、コレラやチフスなどの病気が蔓延していたが、1877年、パンコウ地区にベルリン初の給水塔が稼働を開始する。また、医学者ルードルフ・フィルヒョーが都市計画家ジェームズ・ホープレヒトとともにベルリンに近代的な上・下水道を整備したことで市民の水事情は劇的に改善した。ちょうど今、私は給水塔巡りをやっているところなので、タイムリーな話題だった。給水塔については、改めて記事化するつもり。

通りに面した家賃の高い方の棟にはこのように各戸にトイレがあったが、家賃の安い奥の棟では、住民は階ごとに廊下のトイレを共同で使っていた。2〜3部屋に家族だけでなく、わずかのお金と引き換えに赤の他人を寝泊まりさせることも珍しくなかった。自分でアパートを借りるお金のない人は、他人の借りたアパートの片隅で寝させてもらっていたというわけだ。でも、床の狭いスペースであっても得られればまだマシで、それすら見つけらず路上での生活を余儀なくされる人が大勢いた。この博物館に近いフレーベル通り(Fröbelstraße)には1886年、ホームレスの人々を夜間、収容するための公共施設「Palme」が作られた。一晩に平均2000人、最高で5000人もが利用したという。

これまで何回かにわたって19〜20世紀初めのベルリンの住文化をテーマとする博物館を訪れ、当時の生活の様子を興味深く見て来たが、実際には文化的な生活を送ることができたのは全体の一部で、多くの人は劣悪な住環境での生活を強いられていたのだなあ。そして、都市部のこのあまりにも大きい格差が近代住宅へと続くその後の新しい住宅建築のスタイルを生み出していったのだろう。この後の時代についても、少しづつ見ていきたい。

以前、ニーダーザクセン州のニーンブルクで警察博物館に立ち寄った。それがなかなか面白かった(記事はこちら)ので、他の州の警察博物館も見てみたいなと思ったのだが、そのまますっかり忘れていた。先日、仕事でベルリン市の少年犯罪について専門家から興味深い話を聞く機会があり、ベルリン警察史博物館(Polizeihistorische Sammlung)の存在を思い出したので今週、行って来た。

警察史博物館はベルリン、テンペルホーフ地区の警察署本部の建物内にある。

入り口で身分証明書を見せて警察署の建物の中に入り、地下の展示室へ。

地下の博物館入り口

なんと入場料は1ユーロ。

展示室は2つあり、手前の部屋ではプロイセン時代から第二次世界大戦終戦までの警察史をパネルで展示している。奥の部屋に戦後のベルリン警察史が続く。開館時間は15:00までで、入館したのは13:00ちょっと過ぎだった。2時間あれば十分だろうと思ったのだが、説明文の量がとんでもなく多くて、ゆっくり読んでいたら時間が全然足りなかった!

ベルリンの警察史は19世紀初頭のプロイセン王国陸軍親衛憲兵隊(Königliche Landgendarmerie)に始まる。Gendarmerieはフランス語(gens d´armes)からの借用語で、ドイツ語に直訳するとWaffenleute(武器を持った人たち)の意。当初、憲兵隊は刑事警察と保安警察の両方の役割を担っていた。しかし、プロイセンはナポレオンとの戦いに敗れ国家滅亡の危機に陥ったことで、諸制度の大々的な改革の必要に迫られる(プロイセン改革)。その流れの中、1848年、王立国家警察(Königliche Schutzmannschaft)が結成された。

1848年結成当時の王立国家警察(シュッツマンシャフト)の制服。

さらに、1854年に警察改革が行われ、王立国家警察に水上警察(ベルリン市内や周辺には川や湖が多い)や騎馬隊、福祉警察など7つの部門が置かれ、警察機能が分化していく。それぞれの役割に応じた制服が導入され、警察官の養成が行われるようになった。1904年には初の警察犬も導入される。

プロイセン警察の制服いろいろ

治安秩序の維持という警察の機能は社会の変化の中で少しづつ形を変え、活動の幅を広げていった。19世紀半ばには産業革命によって社会構造や民衆の生活が大きく変容する。ベルリンの人口は急増し、多くの人が劣悪な労働・生活環境に置かれた。状況の改善を求め労働者らが社会運動を起こすようになると、集会や禁じられた発行物を取り締まることも警察の重要な任務となっていった。

やがて第一次世界大戦が勃発すると、警察は「非常時」であるとして市民生活の監視に乗り出す。娯楽を制限し、売春行為を取り締まり、代替食品の流通や売買を監視した。混乱の中で蔓延する少年犯罪を取り締まる必要性も生じた。そして、1918年のドイツ革命の後、王立国家警察が解除されると、混乱期における紆余曲折を経て1919年、治安秩序警察は治安警察(Sichertheitspolizei、略称SiPo)と秩序警察(Ordnungspolizei、略称OrPo)に二分された。しかし、1920年のさらなる改革で秩序警察は廃止され、新たに治安秩序警察(Schutzpolizei、略称SchuPo)が創設される。ここまでのベルリン警察史、かなり複雑で近代史が頭に入っていないと把握するのが大変である。治安秩序警察とは別に、1872年に導入された刑事警察(Kriminalpolizei、略称KriPo)はそのまま機能を保持し続けた。

時系列で展示を読み進んで行くと、やがてドイツ史において避け流ことのできない時代、ナチス時代に突入した。ナチス政権下では秘密国家警察(Geheime Staatspolizei、通称ゲシュタポ)が発足し、刑事警察と統合されて保安警察(Sicherheitspolizei)となる。似たような用語が多くて大変ややこしいのだが、このときドイツ警察長官に任命されたハインリヒ・ヒムラーはこの保安警察と秩序警察を合わせたドイツの警察機構全体を掌握することとなる。そして警察内の人員整理により要職はナチスの親衛隊や突撃隊のトップで固められていく。

いつものことだけれど、この時代についての資料は読むのがとても辛い。

ナチス政権下の警察による青少年への洗脳の様子

1つ目の展示室での展示は第二次世界大戦終戦時までで、続きは奥の展示室にまとめられている。戦後、ベルリン市は連合国により分割統治されたが、その際に警察機構も再編成されることになった。新しい警察署はソ連の占領区域に置かれ、ソ連はベルリンの警察機構に対し大きな影響力を持つことになったが、ベルリン市の支配を巡って英米仏とソ連の間の対立が深まり冷戦が始まるとベルリンは東西に分断され、警察機構も二つに分かれてそれぞれの路線を歩むことになる。

英米仏占領区域で使われた警察グッズ

ベルリンが東西に分かれ、ドイツ統一により再び一つになるまでの間の警察史もあまりに濃い。東ベルリンでは秘密警察・諜報機関、シュタージが創設されて市民を監視し、西ベルリンでは学生運動やテロ、住居の不法占拠など警察が大々的に出動する事態が次々と起こった(と、一言でまとめるのは乱暴すぎるけれど、この時代についての資料を紹介するとそれだけで1つの記事になってしまうので)。晴れてドイツが再統一されると、今度は混乱の中でベルリンの治安が急激に悪化した時期もあった。プロイセン時代に初めて警察機構が誕生して以来、ベルリンは激しい社会の動乱と体制の変化を繰り返し乗り越えて現在に至るわけで、その中で警察が果たして来た役割(良いことも悪いことも含め)の重みを考えると、同じ警察でも他の州の警察とは事情が異なるとしか言いようがない。

 

展示室では警察史のパネルの他、警察の道具やベルリンで起こった事件に関する展示物も見られる。

ベルリン警察帽コレクション

警察官のパーティ用ユニフォーム

1937〜1945頃に使われていた法科学鑑定の道具

不法侵入の道具

様々な事件の犯行に使われた凶器

1995年ベルリン、ツェーレンドルフ地区で起こった銀行強盗事件に関するコーナー

ベルリンの歴史に触れるには多くの切り口があるが、警察史から考えるベルリンも面白い。以前行ったベルリン・スパイ博物館の展示に通じるところもあるので、そのときに書いた記事を貼っておこう。

ベルリンスパイ博物館

 

こちらの記事に書いたように、突然、私の心の中に「恐竜」が侵入して来た。恐竜の世界はいかにも奥が深そうで、ハマると大変なことになりそうだという懸念もあるが、少しくらい知っておいて損はないだろう。しかし、恐竜はいかんせん種類が多くてどこから手をつけていいかわからない。とりあえず身近な自然博物館にいる恐竜から見ていくことにしよう。

ということで、ベルリン自然博物館(Museum für Naturkunde Berlin)へGo!

ベルリン自然博物館(別名、フンボルト博物館)はドイツに数多くある自然博物館の中でも特にメジャーなので説明するまでもないかもしれないが、館内中央に有名な「恐竜の間」がある。

廊下から見た恐竜の間。どどーんと頭が廊下にはみ出しているのは、アロサウルス(Allosaurus fragilis)。ベルリン自然史博物館に展示されている数々の恐竜の骨は、ヴェルナー・ヤネンシュ率いるドイツの地質学・古生物学研究者チームが1903年から1913年にかけ、タンザニアのテンダグル化石産地のジュラ紀後期の地層から発掘したものである。この探検では合計250トンもの恐竜の骨が見つかっており、史上最も成功した恐竜発掘とされる。

アロサウルスは平均体重約2トン、前長8.55mの大型肉食竜脚類。ジュラ紀後期最大の捕食者だった。やたらと重そうに見える大きな頭だが、大きさのわりには骨はスカスカで軽い。この大きな口をガバッと開けて獲物を捉え、顎をガシャンと素速く閉めて歯で獲物を刺し殺した。

それに比べて小さくて可愛らしいこちらの恐竜はディサロトサウルス(Dysalotosaurus lettowvorbecki)。体重70kgと、私の夫より軽い。尻尾がもっと短ければ、家で飼ってもそれほど違和感ないかもしれない。ディサロトサウルスの骨は複数の固体のものがまとまって発見されたので、群れを作って生活していたと考えられるそう。

こちらはエラフロサウルス(Elaphrosaurus bambergi)。体重は250kgあったらしいけど、スレンダーな感じ。しかし、ディサロトサウルスと違って肉食である。テンダグル層で発掘された恐竜の化石の中では最も状態が良かった。腿が短くて脛が長い体型から、歩行スピード速かった(30-70km/h)と考えられている。

右のキリンのような骨格の恐竜は、ディプロドクス(Diplodocus carnegli)。体重12トン、体長27メートル。残念ながら、この写真の撮り方は失敗だった。なぜなら、ディプロドクスは長い首だけでなく、長い尾も特徴だから。ものすごく長い首と鞭のような尾が脚の前後にシーソーのようにほぼ水平に伸びた体勢が凄いので、それがわかるように撮るべきだった。それにしても、こんなに長い首、ずっと持ち上げていて疲れなかったのかなあ。ちなみにこの標本は1899年に米国で発掘されたもののコピーである。

じゃーん。こちらがベルリン自然史博物館の目玉、ブラキオサウルス。全身骨格標本では世界最大だそうだ。ブラキオサウルスの特徴は前肢が後肢よりも長く、肩が後ろに向かって傾斜していること。このような骨格のため高い木の上の方の葉っぱをうまく食べることができたそうだが、体重50トンで草食だなんて、生きるのに一体どれだけの量の植物を食べてたんだろう?

ブラキオサウルスの頭蓋骨。クシのような歯をしており、装飾の哺乳類のように葉っぱをムシャムシャ噛むことができなかったので、枝ごと折って丸呑みしていた。胃の中にある石が消化を助けていたという説があるらしい。

こちらの頭がなんとなくロバっぽいのは、ディクラエオサウルス(Dicraeosaurus hansemannni)。低いところの葉っぱを専門に食べていたそうだから、高いところ専門のブラキオサウルスとはうまく共存できていたのだろうか。

ケントロサウルス(Kentrosaurus aethiopicus)。ステゴサウルスの近縁だが、ステゴサウルスよりも小さい。背中の板にはいろいろな役割があり、仲間を識別したり異性にアピールするための道具であった他、空調設備の機能も果たしていたそう。

「恐竜の間」にある大型標本はこれだけ。でも、2015年からベルリン自然史博物館にはなんとティラノサウルス(Tyrannosaurus rex)の標本も展示されているのだ。

別室のティラノサウルス。彼の名はトリスタン・オットー(Tristan Otto)。2012年、米国モンタナ州Hell Creekの白亜紀の地層から発掘された。トリスタンの化石は当初、米国やカナダの各地の博物館にオファーされたが、プレパレーションに膨大なお金がかかることから、引き取り手が見つからなかった。バラバラにいろいろな人の手に渡る危機に瀕していたところを化石コレクター、ニールス・ニールセン氏が一括で買い取り、ベルリン自然史博物館に貸し出している。

ティラノサウルスの化石は世界でこれまでに合計50体発見されている。トリスタンの頭蓋骨は55個のうち50個が見つかっており、最も保存状態が良い。

写真では見えないが下顎の歯根に腫瘍があり、トリスタンは歯痛に悩まされていたらしい。気の毒に。推定年齢は20歳。

後ろから見たトリスタン。

この博物館にはもう何度も来ているけれど、恐竜をじっくり眺めたのは実は今回が初めてだった。良く見ると面白いものだ。こんなことなら、先日訪れたフランクフルトのゼンケンベルク自然博物館でもしっかり恐竜を見ればよかったとやや後悔、、、。ゼンケンベルクではメッセル・ピットから発掘された古生物化石の展示が面白すぎて、そちらに注意が集中していた(そのときの記事はこちら)。

今年ドイツで新しい恐竜に関する本が出版されたので、現在、読んでいる。読み始めたばかりだが、面白い。

Bernhard, Kegel    Ausgestorben , um zu bleiben: Dinosaurier und ihre Nachfahren

ちょうど今、「ジュラシック・ワールド」が上映中なので、週末にでも見に行こうっと。

 

復活祭の連休だったのに、風邪を引いてしまった。だるくてまともなことができないので、ウダウダとベッドの中でドキュメンタリーでも見て過ごすしかない。公共放送局ZDFのサイトにアップロードされている過去の放映番組の中から面白そうなものを探す。すると、私の好きな学術ジャーナリスト、Harald Lesch氏による「未解決の考古学の謎(Ungelöste Fälle der Archaeologie)」という番組が目に留まった。Lesch博士は宇宙物理学者だが同時に自然哲学者でもあり、非常に話の面白いコミュニケーターだ。以前は天文学の番組がメインだったが、最近では幅広い分野をカバーしている。今ちょうど考古学の面白さに目覚めつつあるところなので早速視ることにした。番組は前半と後半に分かれており、前半で紹介されていたミステリアスな円錐状の「ベルリンの金の帽子(Berliner Goldhut)」が特に魅力的だった。その実物がベルリンの先史博物館(Museum für Vor- und Frühgeschichte)にあるという。先史博物館はベルリン新博物館(Neues Museum)の一部で、これまでに何度か訪れているのだけれど、この不思議な帽子の存在にはどういうわけか気づいていなかった。

すぐに見に行ける場所にあると聞けば当然、見に行きたくなる。二日ゴロゴロして体調もそろそろ良くなったので、早速行って来た!

 

新博物館はベルリンの博物館島にあり、ネフェルティティの胸像を始めとするエジプト・コレクションを持つドイツ国内で最も素晴らしい博物館の一つだが、新博物館についての情報はネット上にも豊富にある(参考)のでここで長々紹介するまでもないだろう。今回は売り場直行とさせてもらおう。

これが「ベルリンの金の帽子」だ。骨董品市場に出回っていたものを1996年にこの博物館が買い取り、展示物として一般公開するようになった。実物はどのくらいの大きさかというと、高さ74.5cm、重さ490g。相当に長いとんがり帽子だね。

これまでに類似のものがドイツとフランスで全部で4つ見つかっているらしい(「ベルリンの金の帽子」は写真の一番右)。最初の「金の帽子」が発見されたのは1835年4月29日にさかのぼる。南ドイツのSchifferstadtで野良作業中の労働者が偶然掘り出した。これらは紀元前800〜1000年頃に作られたと推定されるそうだ。

「ベルリンの金の帽子」の表面をびっしりと覆う模様には規則性が見られる。ドイツでは紀元前からすでに天体が観測されていたことがわかっており、考古学者らはこの金の帽子を飾る模様は暦なのではないかという仮説を立てているそうだ。青銅器時代後半の中央ヨーロッパでは太陽信仰が広がっていた。大きさからいって、神への捧げものというよりは人間が実際に被っていた可能性が高く、天体崇拝の儀式の際に使われたのではないかと考えられている。(世界最古の天文版ネブラ・ディスクについても過去記事に書いているのでよろしければお読みください)

 

(Wikipedia: Berliner Goldhut)

先端部分のギザギザした星型の部分は輝く太陽を意味し、その下の段の鎌と目のようなシンボルは月と金星を意味する。その下の丸い模様は太陽と月のシンボルだと書いてある。木製の型を使って金床上で金塊をハンマーで叩いて薄く延ばしながら円錐に形成し、表面にスタンプのような道具を使って裏側から押し出して装飾を施したようだ。そういえば私は考古学は全くの素人だが、昔、文化人類学を勉強していたことがあり、ケルンの文化人類学博物館で3ヶ月ほど実習生として働いた。その時、オスマントルコの金属製装飾品のカタログ化をやらせてもらった。表面の加工を観察して分類したことを思い出したが、残念ながら細かいことはもう忘れてしまったなあ。装飾品を眺めるのは楽しいものだ。自分ではあまり身につけないけど。

ドキュメンタリーによれば、天文学はメソポタミアやエジプトで発達し、現在のトルコやギリシアを経由してヨーロッパ伝播したことがわかっており、金の帽子もメソポタミアから運ばれて来た可能性がなきにしもあらずだという。面白いなあ。この謎はいつか解き明かされるのだろうか。

今回はこの帽子を見るのが目当てだったので、他の展示物はさらっと見るに留めた。何しろ新博物館にはおよそ9000点の展示物が展示されているのだ。一気に見てインプットすることは到底無理!でも、大丈夫。年間ミュージアムパスがあるんだもんね。見たいものだけじっくり見るというのは旅先ではもったいなくてなかなかできないものだ。そう考えると、地元の博物館を繰り返し訪れて徹底的に見るのも悪くないかもしれない。

 

 

10月3日は「ドイツ統一の日」で祝日だった。

私は東西に分断されていたドイツが再統一された1990年に日本からドイツへやって来た。8月1日、降り立ったフランクフルト空港は当時まだ「西ドイツ」にあった。到着した1週間後に国境を越えて「東ドイツ」を見に行った。そのときに初めて見た社会主義国の風景が今も脳裏に焼き付いている。

ドイツでの生活を始めたのは西側のケルンだったが、それからわずか2ヶ月後の10月3日、旧東ドイツの州が西ドイツに加入することでドイツは再統一された。再統一のその日、花火でも上がるのではないかと期待して大聖堂付近へ行ったら、多くの人たちが集まって統一を祝おうと待ち構えていたが、結局、花火は上がらなかった。「なあんだ」と少しガッカリしてアパートに戻った。あれからもう27年もの年月が流れたのだなあ。

ドイツ統一の日には首都ベルリンを中心にいろいろなイベントが催される。しかし今年は天気が良くなかったので、どこへも行かなかった。その代わりというわけではないが、その翌日、旧西ベルリンにある連合国博物館(Alliertenmuseum)へ行って来た。

 

 

連合国博物館は西ベルリンのClayalleeという大通りにある。ドイツの道路は歴史上の人物にちなんで名付けられているものが多い。「カール・マルクス通り」など、聞けば誰のことだかすぐにわかるものもあるが、多くはドイツの歴史に通じていないとピンと来ない。恥ずかしいことだが、私はドイツに20年以上住んでも未だにドイツの歴史に疎く、通り名になるほど有名な人物でも「誰それ?」と首を傾げてしまうことがしばしばだが、ClayalleeのClayとは第二次世界大戦後にベルリンが連合国によって分割統治されていた当時、西ベルリンで行政管理に当たっていたルシアス・D・クレイ米陸軍司令官のこと。この通りに残るかつての米軍の映画館、Outpost Theatherの建物が現在、博物館として使われているのだ。

 

外観の写真を撮り忘れてしまったので、見たい方はこちらを。二つのドアの向こうがメインの展示室で、ドアの上に”NATIONAL ANTHEM IS PLAYING NOW   PLEASE WAIT”というサインが掛かっている。これは当時、映画の前に米国の国歌が流れ、遅れて来た人は国歌が流れている間は外で待っていなければならなかったからだそう。

 

メインの展示室。

 

常設展示は4つの部に分かれ、第二次世界大戦における連合国の勝利、連合国によるドイツ及び首都ベルリンの分割統治、戦後の西ベルリンにおける民主主義、そして東西の対立が深まりつつあった1948年のソ連によるベルリン封鎖とそれに続くベルリン大空輸について知ることができる。展示の規模は大きくないが、知らなかったことが結構たくさんあって興味深かった。

 

 

戦後、西ベルリンでは自由と民主主義を標榜するメディアとして、Der Tagesspiegel、Der Abend、Spandauer Volksblatt、Der Kurierといった新聞が相次いで刊行された。

 

特に面白かったのは、当時のアメリカ軍占領セクターのラジオ局、RIAS Berlin (Rundfunk im amerikanischen Sektor)の放送クリップが聞けること。1948年にソ連により西ベルリンへの陸路と水路が断たれ(ベルリン封鎖)、西ベルリンへ空路で物資を運ぶ「ベルリン大空輸(Berliner Luftbrücke)」が始まったが、物資を載せた最初の飛行機がガトウ空港ガトウ空港に降り立つ瞬間やパイロットのインタビュー、7月25日にシェーネベルク空港に飛行機の一機が墜落したことを伝える音声からは当時のベルリンの緊張感が伝わって来る。

 

展示室の奥のステージへは左右にそれぞれ橋がかかっている(全体が写真に入らなかったので右側だけ)。ベルリン大空輸を表すドイツ語、Luftbrücke(エアブリッジの意味)のブリッジを象徴しているのだろうか。橋の手すりにはドイツ、そして世界全体が戦後どのように分断され冷戦へと突入して行ったのかが年代順に示されていて、それを一つ一つ読みながら橋を渡った。

 

大空輸においては食料品や日常雑貨の他、エネルギー源として大量の石炭が運ばれた。石炭から舞い上がる埃で飛行機内部の危機が故障したり、引火することを防ぐために特殊な「石炭袋」が開発されたそうだ。

 

大空輸で西ベルリンへ送られた「Care-Paket」と呼ばれる小包。中身は、コーヒー、ココア、セミミルクチョコレート、ベーコン、ビーフ&グレイビーソース(缶詰?)、レバーペースト、ランチョンミート、砂糖、マーガリン、ラード、ジャム、米、小麦粉、洗濯洗剤、トイレ用石鹸。

 

大空輸開始当初は1日に運ばれた物資は80トンほどだったが、輸送量は月を追うごとに増えて行き、ピーク時の1949年の4月には1万1700トンが運搬されている。上空での混雑を避けるため、飛行高度や着陸時間、停留時間などが細かく規定された。物資の大部分はガトウ空港ガトウに運ばれたが、テンペルホーフ空港も利用された。しかし、それだけでは追いつかなくなり、急遽テーゲル空港がわずか3ヶ月という突貫工事で 建設された。

テーゲル空港って、たった3ヶ月で完成したのか。それに比べて、とっくに終わっているはずのベルリン新国際空港建設工事は何年経っても進まない、、、。

ところで、ガトウ空港の方は現在、軍事史博物館となっている。当ブログでも紹介している。

ガトウ空港についての記事はこちら

 

ベルリン大空輸に関する展示がとても興味深かったのでもう少し引っ張ってしまうが、この空輸作戦にはベルリン空輸回廊(die Luftkorridore)と呼ばれる3つのルートが使われた。南回廊はフランクフルトから、中央回廊はニーダーザクセン州のビュッケブルクから、そして北回廊はハンブルクから西ベルリンへの空路である。航空機の数を確保するため、日本、グアム、ハワイ、カリブ海などの米軍基地からも航空機が調達され、またイギリス軍はかつての植民地からもパイロットを招集していたらしい。この一連の西ベルリン市民救済活動で命を落とした人々も少なからずいた。

常設展示には他にも興味深い内容が多かったが、このくらいに。

一旦、外へ出て今度は別館の特設展示会場へ移動した。

 

二つの建物の間のスペースには大空輸に使われた航空機がどーんと鎮座している。「ロジーネンボンバー(Rosinen-Bomber)」とも呼ばれた英国製軍用輸送機、Hastings TG504機である。

 

特設展示会場では現在(2018年1月28日まで)、冷戦時代のベルリンで使われた様々な物が100点、展示されている。こちらもなかなか面白い。

 

ボードゲーム、Die Mauer(ベルリンの壁ゲーム)。一対一で、それぞれがソ連とアメリカのスパイという設定で遊ぶそうだ。

ドイツは知る人ぞ知るボードゲーム大国で、老若男女、ボードゲームが大好き。しかも、歴史上の出来事はなんでもゲームのネタにしてしまう。冷戦ゲームとか宗教改革ゲームとか原発爆発ゲームまであって、もしかしたら日本人の感覚からするとふざけているとか不謹慎と思うかもしれないが、ゲームは単なる娯楽ではなく学びの要素も大いにあることからドイツでは受け入れられている。

 

戦後、西ドイツはトルコなどから多くの労働者を受け入れた。これはベルリンの占領セクターを示すトルコ語の看板。

 

 

社会主義の東ドイツ(DDR)の積み木おもちゃ。東ベルリンの大通り、カール・マルクスアレーの建物のミニチュアだ。

 

1994年のドイツ駐留ソ連軍撤退時に発行されたテレフォンカード。

 

この博物館は無料だけれど、ゆっくり見ると2時間でも足りないくらいだった。しかし、「連合国博物館」とはなっているものの、この博物館が示すのはあくまでも西側諸国、つまり英米仏側から見たベルリンである。ベルリン封鎖以降、ソ連は「あちら側」となっている。ベルリン市内には「ドイツ・ロシア博物館」というのもあるので、今度はそちらも見に行ってみようと思う。