アイヒシュテットの後に行ったのは、ゾルンホーフェンにある「ゾルンホーフェン博物館」。地元では、かつてゾルンホーフェン市長で化石収集家だったフリードリヒ・ミュラーにちなんでBürgermeister-Müller-Museumと呼ばれている。

世界に名だたるゾルンホーフェンだけど、博物館の外観は、田舎の公民館という感じ。でも、中に入ってみたら、大変な充実ぶりだった。

とても良いと思ったのは、展示の最初にジュラ紀のゾルンホーフェンエリアの環境についての解説があること。

いまから約1億5,300万〜1億5,000万年前、後期ジュラ紀の中央ヨーロッパは、ほとんどが海に沈んでいた。陸地として残っていたのは、いくつかの古い大陸地塊だけで、現在のチェコ西部にあたる「ボヘミア島」や、フランス中央高地などが島として存在した。そのあいだには、巨大な礁の壁(バリアリーフ)が広がり、北の浅い大陸棚の海と、南の深いテチス海を分けていた。礁のあいだにできた窪地には、炭酸塩が幾重にも堆積し、さらにごく浅い海域では小さなラグーンや島が点在していた。現在のゾルンホーフェン周辺は、多くのラグーンを持つ「ゾルンホーフェン群島」と呼ばれる環境を成していた。

ゾルンホーフェン博物館では、ゾルンホーフェン群島の異なる環境から発見された化石が、その環境ごとに分類され、展示されている。濃い青のセクションは外洋に開かれたテチス海、明るい青のセクションはサンゴ礁や炭酸塩台地、薄い水色はラグーン、緑色は島、そして黄色は空。

かつての環境ごとに色分けされた展示

いろいろな化石が展示されているが、圧倒的に魚が多い。

浅いラグーンに漂うぬるぬるした微生物の膜(バイオマット)に絡まって死んだジュラ紀の魚レプトレピデスの群れ。よく見ると、そのまま捕食者に食べられた、頭だけの個体も混じっている。

大きなクラゲの化石もいくつかあった。

海の底に残った波の跡も一緒に保存されたクラゲの化石

他にもいろんなのがあるんだけど、ここに来たら、見たいのはやっぱりアルケオプテリクスだよね。

ゾルンホーフェン標本(オリジナル)現在知られている中で最大のアーケオプテリクス標本。

2階には、”Die Welt in Stein”というリトグラフィー(石版印刷)に関する展示もある。ゾルンホーフェンで化石が大量に発見された背景には、18世紀末、リトグラフィーという印刷技術が生まれたことと密接に関わっているのだ。アロイス・ゼネフェルダーによって発明されたこの新しい印刷技術には、細かい粒子が均一に詰まった特別な石灰岩が必要だった。まさにゾルンホーフェンの石は理想的な素材で、たくさんの石を切り出す過程で化石が次々と見つかったのだ。つまり、リトグラフィーの発明なしには、今日、世界的に有名なゾルンホーフェンの化石群は日の目を見ることなく眠り続けていたかもしれないというわけである。

さて、博物館の展示を見た後は、ゾルンホーフェンにある採石場、Hobbysteinbruch Solnhofenへも行ってみた。

こちらの採石場はブルーメンベルクのよりも狭く、人もまばらだった。この日は運が悪かったようで、石を剥がしても剥がしてもいっこうに何も出ない。残念!

でも、捨てられた割れた石の山の中に、小さな足跡がついたものを見つけた。これはなかなか素敵。

 

ということで、今回のアルトミュール渓谷化石の旅はこれでおしまい。また来年あたり、来られるといいな。

アイヒシュテットでジュラ博物館とベルガー博物館を見た後、ベルガー博物館のそばにあるブルーメンベルク採石場(Fossiliensteinbruch Blumenberg)で化石を探すことにした。通常、採石場に一般の人が立ち入ることはできないが、ドイツには化石を採集したい人のために公開されている採石場がいくつかある。ブルーメンベルク採石場はその一つ。それだけでなく、アイヒシュテット、ブルーメンベルク地区は、1875年に2体目のアーケオプテリクスが発見された場所である。その標本はベルリンの自然史博物館に収蔵されているので、「ベルリン標本と呼ばれている」。そんな世界に名だたる化石を生み出した場所で化石ハンティング体験ができるのは、最高というほかはない。

ブルーメンタール採石場。週末なので、家族連れで賑わっていた。

石にノミをあて、ハンマーで軽く叩いて板状に剥がしていく。

開くときはいつもドキドキ

この採石場で一番多く見つかるのは、茎を持たない浮遊性のウミユリ(Saccocoma)の化石。これは至るところにあった。

これは二枚貝の殻?それともアプチクス(Aptycus)?アプチクスとはアンモナイトの体の一部で、口のふた、または下あごの一部ではないかとされている。はっきりわからないので、今度詳しい人に聞いてみよう。

アンモナイトもあった。(背景が違うのは、家に帰ってから写真を撮ったため)

糞化石(Koprolith)。なんの糞かはわからない。

4時間くらい滞在して、小さいものばかりだけど、それなりにいろいろ見つけられたかなと満足。と思ったら、ここで夫が大物を発見!

じゃあ〜ん!お魚である。大きさは8mほど。ここで最もよく見つかる魚、Leptolepides sprattiformisではないかと思われる。最後によいものが見つかって、大満足。

この採石場では、というか、一般公開されている採石場ではほぼどこでもそうなのだが、見つけた化石は採石場を出るときにスタッフに見せる義務がある。まれに、珍しい化石や学術的に価値のあるものが見つかることがあるからだ。そのような場合は、見つけた化石は研究用に献納しなければならない。とはいえ、そういうことは滅多にない。

「このお魚、たいしたものじゃないよね?まさか没収されたりしないよね?」

夫と私はそうヒソヒソ話しながら、その日獲得した化石をスタッフに見せた。

すると、スタッフの男性は魚を見るなり受付小屋に戻り、一枚のQRコードのついたシールを持って戻って来て、それを魚の化石の裏にペタンと貼ったのだった。えーん、没収?

と思ったら、「持ち帰ってもいいですが、このQRコードを通してアルトミュール渓谷自然公園に報告してください」とのことだった。魚などの、大きめの発見物は報告するルールのようだ。

家に帰って来てから、QRコードから自然公園のサイトにアクセスすると、フォーマットが用意されていて、手続きは簡単だった。そして、発見者の名前入りでサイトに登録が完了。

 

 

これはなかなか嬉しいぞ。

 

ジュラ紀の化石を見にアイヒシュテットへ行ったなら、ジュラ博物館だけを見て帰って来ては行けない。アイヒシュテットにはもう一つ、有名な博物館がある。それはベルガー博物館(Museum Bergér)だ。1968年に化石コレクターであるベルガー氏とその家族によって設立された。民間の情熱から生まれた化石博物館で、こちらもとても見応えがある。

町の外れの丘の上にあって、建物の外観は地味。でも、中はこの通り、所狭しと標本が並んでいる。

このときは私たちしか訪問者がおらず、オーナーの方が丁寧に展示を説明してくれた。

小さい標本から大型標本まである中で、特に面白いと思った標本はこれ。

魚を飲み込む魚。

食事中に死んでしまったとは。幸せだったのか不幸だったのか、よくわからないけど、すごい瞬間が保存されたものだ。

これは一体どういう状況?魚の頭を太い針のようなものが貫通しているが、、、。

その横にあった説明イラストによると、捕食者に食べられそうになったべレムナイト(古代のイカのような生き物)が、逃れようと墨を出し、触腕を閉じて後ろ向きにダッシュしたところ、たまたま後ろにいた魚を串刺しにしてしまった、というのだ。本当なの〜〜?

もちろん、1億5000万年前に何が起きたのかを100%の確実性を持って語ることは誰にもできない。化石に刻まれた物証を手がかりに、もっとも合理的な推測をするしかない。本当にそうだったのかどうかは、化石になった生き物のみぞ知る。でも、きっとそこが古生物学のワクワクするところなんだろうなあ。

「これは、何がどうなったんですか?なにやら複雑に見えますが」

「これは、捕食者に襲われて死んだ魚の残骸があって、そこに翼竜が飛んで来て、魚に喰らい付いて、その場で死んだようです」

魚が腐っていた?もし、そうだとして、その場で即死する?ジュラ紀の生物世界に対する知識が乏しいので、いろいろ疑問が湧いてくるけれど、ひとまずここはその説明で収めておこう。いつか、どこかでまた似たような標本を目にすることがあるかもしれない。

これは、死んだアンモナイトの上に形成された牡蠣のコロニーだそう。

自分が気になった標本の画像ばかり載せているけれど、展示されている化石は質的にも量的にも価値が高くて、当然ながら大学や公的研究機関と連携しているそうだ。

さて、アイヒシュテットで2つの博物館を見た後は、やっぱり自分で化石を探してみたい。それについては次の記事で。

 

 

 

久しぶりに遠出して、南ドイツ、アルトミュール渓谷(Altmühltal)へ行って来た。アルトミュール渓谷とは、バイエルン州トロイヒトリンゲンからケルハイムまでのアルトミュール川流域一帯で、ジュラ紀の化石を多く含むゾルンホーフェン石灰岩(Solnhofener Plattenkalk)の産地だ。この石灰岩の層は、初期の鳥とされるアルケオプテリクス(Archaeopteryx)の化石が見つかったことで世界的に有名である。

趣味で化石を探すようになって、かれこれ8年ほどになるが、化石のことをまったく知らないまま、初めて参加した化石ハンティングがアルトミュール渓谷でのツアーだった。

とても面白い体験だったけれど、このときは化石ハンティングだけで、アルトミュール渓谷に数多くある、化石を展示した博物館を訪れる時間がなかった。それがずっと心残りで、今回ようやく博物館巡りが実現したので記録しておこう。まずは、アイヒシュテットにあるジュラ博物館(Jura-Museum)から。

博物館はヴィリバルツブルク(Willibaldsburg)というお城の中にある。

展示室

展示されているのは、もちろん、この地域で出土したゾルンホーフェン石灰岩のジュラ紀の化石標本の数々。保存状態の極めて良い標本を隅々まで観察できる。

約1億5000万年前のジュラ紀、アルトミュール渓谷は浅い暖かい海で、サンゴや海綿、藻類が繁茂してリーフ(礁)を作っていた。さらに、波や潮流で運ばれた石灰質の砂が積もって、砂州のような地形もできていた。ゾルンホーフェン石灰岩は、リーフや砂州の間にできた窪地に、細かい泥や石灰質の堆積物が溜まり、後に固まってできたものだ。

当時の気候は暑く乾燥していたので、塩分が濃縮され、窪地の水は塩分濃度が高く、酸素に乏しく、生き物が暮らすには厳しい環境だった。周囲の環境にはさまざまな生き物が生息しており、嵐の際にそれらの死骸が窪地に流れ込んで化石になったのだ。当時、死骸を食べる生物は存在しなかったことも、化石が極めて良好に保存された理由の一つだ。

甲羅を持つジュラ紀の甲殻類、Cycleryon propinquus。長いハサミや脚の関節までくっきり。

ウミガメの化石。ジュラ紀のカメは、まだ現在のウミガメのように手足が完全にヒレ状に変化していない。

ほぼ完全な形で保存されている標本にも圧倒されたけれど、私がより興味深く感じたのは、生き物が死ぬ直前の行動が保存されている標本だ。

捕食者に数多を骨ごと噛みちぎられてしまった魚

この博物館で一番印象に残ったのは、この標本。

添えられている説明によると、このエビのような生き物は、塩分濃度が高く酸素の少ない、水の深いところに仰向けに落ちてしまい、起き上がってそこから浅瀬へと脱出しようと後ろ向きに移動したが、途中で力尽きて死んでしまったらしい。1億5000万年前ものはるか昔にも、生き物たちは一生懸命、命を繋ごうとしていたのだなと感じ入るものがあった。

アイヒシュテット近郊からは、恐竜の全身骨格の化石も見つかっている。

「ジュラ山脈の狩人」を意味するジュラヴェナトル(Juravenator)と名付けられた恐竜の化石。

そして、なんといっても、目玉はアルケオプテリクス。アルケオプテリクスの化石はこれまでに14体見つかっているが、ジュラ博物館が所蔵しているのは、1951年に発見されたアイヒシュテット標本。

そして、現在、ジュラ博物館には、アルケオプテリクスの羽毛化石が展示されている。1861年にゾルンホーフェン近くで見つかった最古の羽の化石だ。この羽こそがギリシャ語で「古い羽」を意味する「始祖鳥(Archaeopteryx)」という名前の由来となった化石だ。発見されたのはダーウィンの進化論が出た直後で、鳥と恐竜との繋がりを示す重要な証拠として注目されたのだった。

他にも翼竜やワニ、昆虫、植物など素晴らしい標本がたくさん。ジュラ紀の化石に興味があるなら、この博物館は、過去に行ったホルツマーデンの博物館Urwelt-Museum Hauffと並んで、マスト中のマストだな。今回、行けてよかった。

アルトミュール渓谷の博物館巡りは続く。

 

 

 

ラインラント=プファルツ州の小さな町Höhr-Grenzhausenにある「ヴェスターヴァルト陶器博物館(Keramikmuseum Westerwald)」へ行って来た。

ドイツの焼き物といえば、日本では圧倒的にマイセンの磁器が有名だが、ヴェスターヴァルト地方も焼き物の名産地だ。ヴェスターヴァルト焼きはSteinzeug(「炻器」せっき)と呼ばれる焼き締め陶器で、塩釉(しおゆう)のかかったグレーの素地に青い模様の素朴なデザインの陶器が多い。ヴェスターヴァルト地方はカンネンベッカーラント(Kannenbäckerland「水差し職人の土地」の意味)とも呼ばれ、古くから陶器作りが盛んだった。16世紀末からはヨーロッパ中に輸出されるようになり、実用陶器として広く普及した。今でもドイツ、特にライン川流域ではヴェスターヴァルト焼きの水差しやビールジョッキなどがよく見られる。

陶器作りの中心地として発展したヴェスターヴァルト地方はドイツ最古にして最大の粘土の産地である。第三紀(約2500万年前〜500万年前)に堆積した砂岩や粘板岩、珪岩などが風化し、その後火山の影響も受けてさまざまな粘土が集積した。焼き物に適した上質な粘土が豊富で、なかでも、Westerwälder Steinzeugton(ヴェスターヴァルト炻器用粘土)と呼ばれる粘土はほとんど水を通さず、高温で焼いても壊れず、12001300℃で焼くことでしっかりと焼き締まる特徴を持つ。厚みのある丈夫な造りの焼き物は実用品として重宝された。また、塩の交易ルートがこの地方を通っていたので、塩を調達しやすかったことも、塩釉技術の発達を後押しした。

かつては馬車に積まれ、各地の市場で売られた。陶器を運ぶ馬車はDöppewgn(Töpfe陶器Wagen車)と呼ばれた。

Westerwälder Kannnenofenと呼ばれる窯のモデル

グレーに青い模様の水指と並んでヴェスターヴァルトでたくさん作られたものに、ボトルがある。16世紀末、ヴォルムスの医師、ヤーコブ・テオドール・タベルナエモンタヌス(なんちゅう名前!)がヴェスターヴァルト南東に位置するゼルタース村(Selters an der Lahn)で湧き出るミネラルウォーターが健康に良いという見解を発表したことで、ゼルターズ産の水がバカ売れするようになった。それで、ヴェスターヴァルトの焼き物職人はせっせと水を詰めるためのボトルを焼くようになったのだった。ゼルタースヴァッサーは、今でもブランド力の高いミネラルウォーターだ。

ミネラルウォーター用のボトル。表面に産地や陶工の頭文字が刻まれたスタンプが押されている。

博物館には、石器時代から現代に至るまでのヴェスターヴァルト陶器が年代順に展示されている。今まで日用品として使われるシンプルなものしか知らなかったが、時代ごとの美的価値観を反映した凝ったデザインのものも多く作られていたことがわかった。

1700年ごろに作られた水差し

18世紀以降の古典主義時代につくられた装飾的な作品

鉄分をほぼ含まないジークブルク産の粘土で作られた白い陶器

ヒゲのおじさんの顔がついた水差し。ケルンあたりで昔、流行ってたらしい。鉄分の多い粘土から作られたので、茶色い色をしている。

ユーゲントシュティール

飲めや歌え。1920年代にパーティでボウレと呼ばれる飲み物を出すのが流行し、作られるようになったボウレ容器。

著作権の侵害にならないよう、写真を撮るのは控えたが、古いものばかりでなく、現代の作家さんの作品もたくさん展示されていて、見て歩くのがとても楽しかった。この博物館のあるグレンツハウゼンは現在もドイツにおける陶器づくりの中心地で、数年に一度、「ヴェスターヴァルト賞(Westerwaldpreis)」という現代陶芸の公募展が開催される。世界中の作家が応募する、ヨーロッパ屈指の陶芸コンテストであるらしい。

ヴェスターヴァルト焼きの陶器は、有名な絵画にもよく描かれている。あらためて、いかに重要な産業だったかを知った。地域特有の文化や産業と、その背景にある地形や地質について知るのは本当に楽しいなあ。

 

もう7年も前になるが、ドイツ西部の火山地帯を訪れたことがある。一般に、ドイツには火山のイメージがないと思うけれど、アイフェル地方は現在も火山活動が続いている地域だ。ただし、山頂から噴煙が上がったり、溶岩が流れ出したりという、視覚的にわかりやすい火山活動ではなく、森の中で静かに水をたたえるマール湖や地層の中の岩石にその痕跡が見い出し、湧き出る美味しい炭酸水に火山活動の恩恵を感じるという、わりあい地味なものである。

でも、それはそれで意外性があって、とても面白いのだ。アイフェルの火山地帯については、こちらの過去記事シリーズに詳しく書いている。いろんな角度から楽しむことができたけれど、このとき一つだけ、見そびれたものがある。それはコブレンツ近郊アンダーナハにある間欠泉、ガイジール・アンダーナハ(Geysir Andernach)だ。

間欠泉とは、一定の周期で地下から蒸気や熱水が噴き出す自然現象のことで、アイスランドのゲイシール(Geysir)が特に有名だ。Geysirという言葉はそのままドイツ語で「間欠泉」を意味する言葉になっている。火山大国、日本にも間欠泉は各地にあり、それ自体は特別珍しいものではない。でも、ドイツにあるGeysir Andernachは、同じ間欠泉でも、ちょっと違うのだ。一般的に間欠泉というと、噴き出すのは熱水だ。地下水がマグマの熱で温められ、100度を超えて蒸気になるときに体積が大きく膨らみ、その圧力で地下水が勢いよく噴出する。それに対し、アンダーナハでは、地下深くにたまった二酸化炭素(CO₂)が水と一緒に地上に噴き出て来る。このような現象はドイツ語ではKaltwasser-Geysir(直訳すると、「冷水の間欠泉」)と呼ばれる。

このたび、とうとうガイジール・アンダーナハに行って来た。以下はそのレポートである。

間欠泉を見るためには、Geysir Expeditionというツアーに申し込む必要がある。博物館とボートによる間欠泉見学がセットになった観光アトラクションだ。間欠泉はライン川岸辺の自然保護区にあり、ツアーボートに乗らないとアクセスできない。

アンデルナッハ中心部にある博物館(Geysir Museum)

展示は、鉱山のリフトを模したエレベーターに乗って地下4000メートルに潜るという演出から始まる。エレベーターが下降するにつれて気温がぐわーんと上がって地下の高温の世界がイメージできるなど、なかなか凝っている。その後は地中から地表へと水と二酸化炭素が上昇していくルートをたどりながら、地球の内部構造や火山活動、そして冷水間欠泉の噴出メカニズムを学べるようになっている。

ビジュアル的に面白く、ハンズオンの展示も豊富で、ファミリー客で賑わっていた。展示の説明もわかりやすい。

アンダーナハの間欠泉は、1903年に天然のミネラルウォーター源の探査ボーリング中に偶然発見された。古い火山地帯であるこの地域では、岩石の割れ目や断層にマグマ由来のCO₂が蓄積され、それが地下水に溶け込んで炭酸水となっている。地層に閉じ込められて高圧状態になっているのがボーリングによって一気に解放され、CO₂がガス化して地下水ごと勢いよく噴き出し、不思議な現象として注目を浴びた。現在、観光資源となっているのは2006年に新たに掘られた深さ350mの井戸だ。

博物館で予習をしたら、 Namedy号に乗って、噴出地点のNamedyer Werthへ移動する。

ライン川沿いの崖には粘板岩の層がむき出しになっている。

Namedyer Werthは現在は岸と合体して半島になっているが、もともとは中州だった地形で、自然保護区に指定されている。

橋を渡って上陸。

噴出はだいたい2時間毎で、その時間に合わせてツアーが組まれている。

 

アイスランドのゲイシールを見に行ったことがあるが、アイスランドでは地面がゴボゴボッといったと思うと、次の瞬間にバッシャーンと爆発的に熱水が噴出し、それで終わってしまう。なので、シャッターチャンスを逃さないようにするのが大変だった。その経験が頭にあったので、カメラを連写モードに設定して挑んだのだが、アンダーナハの間欠泉は、なんと15分間も噴出し続ける。最初はおお!と思うけれど、長過ぎて、見ているうちに飽きてしまった。

最大で高さ60メートルまで噴き上がり、世界で最も高く上がる冷水間欠泉としてギネスブックにも載っているそうだ。水の温度は10〜20℃で無臭。

噴出開始からピーク時までは周りに人だかりができていて噴出口が見えなかったが、みんなが船に戻るために移動し始めた後に見たら、井戸の周りに石が積まれている。うーむ。なんだかディズニーランドの仕掛けみたいだなと、やや興醒め。でも、この間欠泉が人工的な噴水ではなく自然現象であることは確かで、地質学的にとても興味深い。

年間約1,000万羽以上の渡り鳥が訪れるユネスコ世界遺産ワッデン海。その自然の豊かさには本当に魅了される。しかし、ズィルト島ハリヒ・ホーゲの記事に書いたように、北海の一部であるこの地域の海岸線は、常に風と水との戦いの舞台だった。激しい嵐や満潮に乗って押し寄せる高潮は、ときに人々の暮らしを一瞬で飲み込んでしまう。そんな自然の猛威に立ち向かうため、さまざまな防潮の技術が発展してきた。

今回、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の西端、アイダー川河口に築かれた巨大な防潮施設「アイダー・シュペアヴェルク(Eidersperrwerk)」を見学して来た。

© Klaus-Dieter Keller / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0

1973年に完成したアイダー・シュペアヴェルクは、高潮時に海水の流入を遮断し、高潮や嵐による洪水からアイダー川流域の低地を守るために作られた。きっかけは、1962年2月に起きた「北海高潮災害(Nordseesturmflut)」。猛烈な嵐が北海沿岸を襲い、ドイツ、特にハンブルク周辺に甚大な被害をもたらした。堤防が決壊し、浸水により多くの命が失われ、都市機能が麻痺した。大きな高潮が来ると、それまでの堤防や小規模な水門では高潮の力を防ぎきれない。そうした危機感から、アイダー川の河口に大型水門を設け、それを開け閉めすることで海から川へ流れ込む水の量を調整するという大胆な構想が生まれた。

水門の上には歩道が整備されていて、防潮堤の上を歩いて渡ることができる。

歩道上から見た景色。右側が海、左側がアイダー川の流れる陸地。堤防の高さ約8.5m長さは4.8kmある。 水門の下はトンネル構造になっていて、道路が貫通している。

アイダー川の岸辺から見たシュペアヴェルク。水門の一つはメンテナンス中だった。

海側と川側に幅40mの水門がそれぞれ5つ並ぶ二重構造で、水門はそれぞれ独立して動作する。

海側のゲート

天候や潮の状態に応じて、水門の開け方を変えることで川と海の水をコントロールする。運転モードは主に以下の4つ。

① 通常モード

すべての水門が開いている状態。北海どアイダー川の水が、自由に行き来できる。自然な満ち引きによって水が移動する。

② 満潮対策つき通常モード

満潮時には北海の海水がアイダー川に流れ込んで来るが、このとき、海の砂が川に入りすぎないように、海側の水門を少しだけ閉じて流れをゆるめることがある。

③ 高潮モード

2列ある水門をどちらも完全に閉じて、内陸への浸水を防ぐ。

④ 排水モード

満潮時に海側の水門だけを閉じて、北海の水が川に入ってこないようにし、干潮になって海の水位が下がったら、水門を開けて川の水を海に流す(排水する)。

実際にシュペアヴェルクの上を歩いてみて、その圧倒的な規模に、どえらいものを作ったものだなあと圧倒された。しかし、北海はこのような設備が必要となるほど荒い海なのだ。北海の荒れ狂う嵐や暴風、高潮は擬人化して”Blanker Hans”と呼ばれる。恐ろしくも魅力的な自然の力の象徴だ。

ところで、シュペアヴェルクのすぐ横に、アジサシやユリカモメが繁殖コロニーを作って暮らしていル。この日も何羽もの親鳥がせわしなく飛び回っていた。

駐車場に「野鳥の繁殖を邪魔しないでください」と立て看板があったけれど、シュペアヴェルクへの階段上にまでヒナがたくさんいて、親鳥が餌を運んで来るのを待っている。

ヒナに与える餌を咥えるキョクアジサシの親鳥

キョクアジサシ(Küstenseeschwalbe)はここで初めて見たが、「キョク(極)」の名が示唆する通り、一年のうち北極と南極を行き来する渡りのチャンピオンだそう。2006年にはこのアイダーシュペアヴェルク付近で143ペアのキョクアジサシが繁殖をおこなったと報告されている。真っ赤なクチバシと脚がオシャレだね。

ここまで来たついでに、近郊の町、Tönningにある自然教育施設、「Multimar Wattforum」にも立ち寄った。


ここでは、干潟のしくみや、そこに暮らす生きものたちの生態、そして高潮対策のことまで、子どもから大人まで楽しみながら学べる展示が充実している。アイダーシュペアヴェルクの模型や膨張技術の紹介コーナーもあり、かなり見応えがあった。

ドイツ連邦水路航行庁(WSV)による関連動画:

 

ドイツ最北端の島、ズィルト島。ドイツに住んでいる人でズィルト島の名を知らない人はいないだろう。でも、私は一度もズィルト島へ行ったことがなかった。高級ビーチリゾートのイメージが強くて、私の路線じゃないなあと敬遠していたのだ。気が変わったのは、モールズム崖(Morsum Kliff)という国に指定されたジオトープが存在すると知ったから。ジオトープと言われると、俄然、気になってしまうのである。

ズィルト島はデンマークとの国境を跨ぎ、島の西側が北海に向かって弓なりに張り出した特殊な地形をしている。ドイツ本土からは海に向かって伸びるヒンデンブルク築堤と呼ばれる堤防を電車で渡ることができる。島の東側、つまり本土との間には干潟が広がっている。広大な干潟の上を電車で走るというのは、とても素晴らしい体験だった。車窓の外の景色にワクワクしながら、これだけでもズィルト島に来た甲斐があったと思うほどだった。

ズィルト島は風と波が運んできた砂が積もってできた砂丘の島だ。北海から浜辺に打ち寄せられた砂が風で内陸へと運ばれ、降り積もって丘となる。そうしてできたゆるやかな曲線を描く砂丘が、島の広範囲を覆っている。砂丘はやがてこの波と風のプロセスは現在も続いていて、ズィルト島の地形は変化し続けている。西側にあるビーチの砂もどんどん削られ、運ばれていくので、定期的に海底から運んで来た砂を補充しなければビーチを維持できないほどだ。

砂丘の表面の大部分は、草やコケ・ハマナスなどの低木などで覆われ、固定されている。砂が露出している部分では砂の移動が続いている。

そんなダイナミックな砂の島、ズィルト島だけれど、厚い砂の層の下には、島の土台となる地層がある。それは、ザーレ氷期にスカンジナビアから南下して来た氷河によって運ばれて来た、礫・砂・粘土などから成る堆積物だ。そして、そのさらに下には氷期以前の地層が存在する。島のごく一部に、地下深くに押し込まれた太古の地層がむき出しになっているエリアがある。それがモールズム崖なのだ。

モルズム崖は、島の東の端、つまりヒンデンブルク築堤を渡り切って島に上陸してすぐのところにある。ハイキングルートの出発点までは、モルズム駅からおよそ2km。バスもあるけれど頻繁には来ないので、30分くらいかけて歩いた。

ジオトープの説明パネルのある駐車場からスタートして、展望台までは約1.7km。さらに崖の上を歩くルートがある。

展望台から東側を眺めたところ

東に向かってハイキングルートをしばらく歩き、振り返って西側を眺める。

ドローンで撮影

北の海岸に沿っておよそ2kmに渡って続くモールズム崖の地層はカラフルだ。黒っぽい地層、赤茶色の砂、真っ白な砂。それらが斜めに連続して露出している。一番古いのは黒い地層で約1100万~530万年前、この地が暖かい海だった頃に堆積した雲母粘土(Glimmerton)だ。赤茶色のは、530万~180万年前に波打ち岸に堆積したリモナイト砂岩(Limonitsandstein)。白いのは、海が西へと退き、ズィルトが陸地となった約350万年前にスカンジナビアやバルト地方から川が運んで来たカオリンサンド(Kaolinsand)だ。もっと細かく見ると、この3つの地層の間にはオレンジ色の砂や茶色の砂の層もある。

氷期に突入する以前、これらの地層は水平に積み重なっていたが、約40万年前、エルスター氷期の氷河がこの地域を通過した。そのときの強い圧力で地面にヒビが入り、地層がバラバラの岩塊に分かれて、前方にせり上がった。氷がとけた後には、傾いた大きな地層ブロックが階段のようにずれて残った。

図は現地の説明パネルを撮影したもの

何百万年も前の地層を押し上げて見えるようにした。モールズム崖は、氷河の力によって現れた地層のタイムマシーンだと言えるだろう。やっぱり、氷河ってすごいなあ。

 

似た地形について過去にも書いています。よければこちらもどうぞ。

 

 

 

 

 

前回の記事に引き続き、テーマはワッデン海。今回はワッデン海の生き物について知ったことを記録しよう。

ワッデン海には多くのアザラシが生息している。世界には34種のアザラシが存在する中、ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州沿岸で見られるのは、主にゼニガタアザラシ(Seehund, Phoca vitulina)とハイイロアザラシ(Kegelrobbe, Halichoerus grypus)の2種。1970年代、ゼニガタアザラシの数は激減していたが、1974年にアザラシ猟が禁止され、1985年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ワッデン海国立公園が設立されたことで、個体数が大きく回復した。現在、ワッデン海では年間、7000頭を超えるゼニガタアザラシの赤ちゃんが産まれている。しかし、そのうち数百頭もの赤ちゃんが、生後数週間の授乳期に親とはぐれてしまうという。アザラシは干潟や砂浜で出産するが、母親が餌を探しに出かけたまま事故や病気で戻って来れなかったり、赤ちゃんが嵐で迷子になったりするのだ。母親と離れ離れになった赤ちゃんは、鳴いて母親を呼ぶ(heulen)ので、アザラシの乳児はホイラー(Heuler)と呼ばれている。

ハイイロアザラシの方は16世紀末に絶滅の危機に瀕していたが、こちらも個体数が回復している。ハイイロアザラシの赤ちゃんは、生後しばらくの間は水の冷たい北海を避け、母親が世話をしに定期的に戻って来るのを砂浜などで待つ。やはり、母親とはぐれてしまうことがある。

北海には、これらアザラシの子を保護し、適切なケアをした後に海に戻すアザラシ保護施設が何ヶ所かある。そのうちの一つ、ドイツで唯一、公式に認可された保護施設、Seehundestation Friedrichskoogを訪れた。

アザラシ保護センター、Seehundestation Friedrichskoog

この施設はアザラシの保護を目的とした「アザラシのための施設」であり、商業施設ではないので、アザラシとのふれあいをウリにしてはいない。一日に2回、食餌シーンを見学できるものの、ショータイムのようなものはない。しかし、訪問者がアザラシとその保護活動について知る学びの場としてよくデザインされている。

訪問者が入れるエリアには大きなプールがあり、そこではゼニガタアザラシ3頭とハイイロアザラシ2頭が一緒に生活している。この5頭は成獣だが、さまざまな理由で野生に戻すことが難しく、この保護センターでのんびりと余生を過ごすそうだ。見られることに慣れているようで、間近でじっくり観察できる。

リトアニアの動物園生まれのハイイロアザラシ、Jurisくん。写真のために立ちポーズを取ってくれた。

ハイイロアザラシのネミさん。自力で餌を取ることができないので、ずっとここにいることになった。彼女は幸せそうな顔でずっと寝ていた。

センターで生まれた若いゼニガタアザラシのシュノーレくん

アザラシ(Pinnipedia)とは、陸上の肉食動物から進化し、水中生活に適応した。イヌアザラシ科、オットセイ・アシカ類、セイウチの3つの科に分類される。この保護センターで保護されているゼニガタアザラシ、ハイイロアザラシは、ともにイヌアザラシ科に属している。ゼニガタアザラシの特徴は、丸い頭とギザギザした奥歯。オスとメスの外見上の違いはあまりなく、どちらもグレーやベージュのゴマ塩模様で、オスは最大180cm、120kg、メスは150cm、60kgほどになる。ハイイロアザラシは頭が長く、オスが黒っぽい体に白っぽい斑点があるのに対し、メスは白っぽい体に黒っぽい斑点。オスは最大230cm、310kg、メスは200cm、186kgほどと、ゼニガタアザラシと比べてかなり大きい。

ゼニガタアザラシの出産は5月初頭から7月末にかけてだが、ハイイロアザラシは冬に繁殖期を迎える。ワッデン海で保護されるアザラシの子は圧倒的にゼニガタアザラシが多い。年間150〜300頭が搬入され、そのうち約90%が元気に野生へ還っているそうだ。

子どもたちのいるエリアはスタッフ以外は立ち入り禁止なので、展望デッキから眺める。搬入された子たちは、獣医が健康状態をチェックした上で、一定期間を隔離エリアで過ごす。その後、こちらのオープンなエリアに移され、離乳や病気・怪我の治療を施される。離乳といっても母乳はないので、魚をベースにした人工ミルクをチューブで与える。伝染病が広がるリスクを最小限にするため、生活空間は少数グループごとに区切られ、それぞれの水槽は独立したシステムになっている。衛生管理にとても気を遣っているとのことで、実際、臭いもほとんどしなかった。

展望デッキからズームで撮ったホイラー

順調に成長した子どもは、ここから海に帰るための訓練エリアに移され、泳ぎの練習や自力で魚を捕まえる訓練を受ける。準備が整ったら、いよいよ野生生活スタートだ。一連の流れがスムーズに行くよう、人間との不必要な接触はできる限り避けるのが望ましいのだそう。

アザラシの子どもには近づけないが、その代わり、センターではとても充実した展示をおこなってリウ。アザラシ保護活動について詳しく説明されている他、世界のさまざまなアザラシの情報も豊富で、アザラシについて幅広く知りたいならここ!という感じだ。

この保護センターは、大学や研究機関との協力体制のもと、アザラシに関するさまざまな研究を行っていて、そこから得られた知見は、展示に取り入れられているだけでなく、保護や環境教育の現場にも活かされていているそうだ。

海に帰る準備が出来たアザラシを運搬するための車

この保護施設には、とても良い印象を持った。パトロール要員の人たちががんばっているだけでなく、地元住民や観光客が親とはぐれたアザラシの子を見かけたら報告できるシステムも機能していていて、その成果もあってアザラシの個体数が増えているのは喜ばしい。でも、気候変動の影響で干潟や砂州が浸食されやすくなり、アザラシが出産したり休んだりする浜が痩せていく可能性があり、決して安心はできないようだ。

 

ドイツ最北の州、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州は、北海とバルト海という二つの海に挟まれている。州の東側には穏やかな内海のバルト海、西側にはダイナミックな北海。二つの海はとても対照的で、両方を味わえるなんて贅沢な州だなあと思う。どちらにも魅力を感じるが、今回は北海側へ行った。

北海のオランダからデンマークにかけての沿岸には世界最大の連続する干潟、ワッデン海(Wattenmeer)が広がっている。そのうち、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州北部の沿岸海域は、地形が複雑だ。大小の島々があり、成り立ちによってバリアー諸島(Barrierinseln)、ゲースト島(Geestinseln)、ハリゲン(Halligen)など、いくつかのタイプに分類される。その中でハリゲンと呼ばれる島々に特に興味があった。ハリゲンとは、海抜が極めて低く、限りなく真っ平で、強い高潮が来るとほぼ水没してしまう小さな島々だ。堤防らしい堤防はなく、人々は「ヴァルフト(Warft)」と呼ばれる盛土をした小高いエリアに住んでいる。

北フリースラント・ワッデン海にはそんなハリゲンが10島存在する(ちなみに、ハリゲンというのは複数形で、一つ一つの島はハリヒまたはハリクと呼ばれる)。そのうち、もっともアクセスの良いハリヒ・ホーゲ(Hallig Hooge)へ行ってみることにした。オックホルム(Ockholm)という村のSchlüttsielという港から1日に1便、フェリーが出ている。

フェリーに乗り込んで出発!

干潟にはPrielと呼ばれる水の流れがあり、それに沿って航路が整備されている。港を出発したフェリーが航路を進み始めると、ユリカモメの群れがフェリーが立てるさざなみに沿って飛びながら、ついて来た。フェリーの動きによってできた波が海の浅い部分をかき乱し、彼らの餌となる小さな生き物を水面に浮き上がらせる、その瞬間を狙って捕まえているようだ。印象的な光景だった。

曇っていて船の上は寒かったけれど、手すりに寄りかかりながら海を眺めいたら、遠くの砂州の上にアザラシが1頭休んでいるのが見えて感激した。

ハイイロアザラシ(Kegelrobbe)の子どもかな?

北海にはたくさんの洋上ウィンドパークがあるだけあって風が強く、やっぱりどこか荒々しい雰囲気。南の島へボートで出かけるような優雅さはない。ハリヒへ行くんだ!と気持ちが高揚していたから楽しく感じたけれど、そうでなければどちらかというと苦行かもしれない。

出発から1時間ほど経って、右手に最大のハリヒであるランゲネス(Langeneß)、その左に目指すホーゲ(Hooge)が見えて来た。

ヴァルフトが点在する長細いハリヒ、ランゲネス。ヴァルフト以外は見事に真っ平。

ああ、あれがハリゲンなんだ。冷たい海に囲まれ、潮が満ちるたびに地面が消え、盛土をしなければ人が生活することのできない島。これまでに世界各地で見た島のどれとも似ていない、この特殊な島々は、どのようにしてできたのだろうか。

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の西の海岸はかつては今よりももっとずっと西にあった。つまり、現在、ハリゲンが点在するエリアは、もともとは陸地だった。およそ1万年前、氷期が終わり、海面が上昇すると、沿岸地域は海に沈み、干潟となった。このとき、陸地のうちわずかに高かった場所は島となって残ったが、潮の満ち引きや高潮で何世紀にもわたって土地が削り取られ、別の場所に運ばれて堆積した。海の中で堆積物が少しづつ高さを増し、形成されていったのがハリゲンだ。水のダイナミズムによって生まれたハリゲンは、形成後も潮流によって分断されたり嵐で崩れたりし、頻繁に地形が変化した。かつて、ワッデン海には100以上のハリゲンが存在していたとされるが、そのほとんどは失われ、一部は本土に接続されて、現在残っているのは10島のみだ。

ようやく、ホーゲが間近に見えて来た。島の周囲には石の護岸があるだけで、堤防は見えない。陸の高さは平均満潮水位より約1メートル高いだけ。強い高潮が来ると、建物の立っているヴァルフト以外は水没して見えなくなる。その現象はラントウンター(Landunter)と呼ばれる。

ホーゲの港に到着。

どんよりしていた空が、うっすらと晴れてきた。ハリゲンの中で2番目に大きいホーゲの面積は約 5.78 km²。日帰りの場合、島に滞在できるのは4時間ほどなので、自転車を借りることにした。(馬車によるツアーもある)

道路はよく整備されていて、ヴァルフトからヴァルフトへサイクリングするのは気持ちが良い。でも、7月半ばで「寒くも暑くもない」という感じだから、真夏以外はけっこう寒いんじゃないかな。

島のウェブサイトによると、ホーゲの現在の人口は106人。ヴァルフトが11箇所あり(そのうちの1箇所は無人)、家や家畜小屋などはすべてその上に作られている。高潮が来ると、ラントウンター状態になる前に、住民だけでなく家畜もみなヴァルフトへ避難しなければならない。

ホーゲのヴァルフトのうち一番大きいハンスヴァルフトには「Sturmflutkino(高潮映画館)」という小さな映画館があり、住民が撮影したショートフィルムを見せてくれる。ラントウンターとはどういう状態なのかを映像で体験できる。ドラマチックな演出ではなく、島民の日常生活を淡々と撮影しましたという感じなのだが、けっこう怖いと感じた。平時に村の中心部にある子どもの遊び場で子どもたちが楽しそうに遊ぶ姿が映し出される。高潮がやって来ると、海水が島を覆い、遊び場は遊具もろとも消えてしまう。水が引くまでは、子どもたちが遊び場で遊ぶことはできないのはもちろんのこと、ヴァルフトからヴァルフトへの移動もできない。水に囲まれた半径わずか数十メートルの空間に閉じ込められてしまうのだ。ハリゲンでは一年に数回、ラントウンターが起きるそうで、住民の人たちは慣れっこになっているだろうけれど、自分が実際に体験したら不安になるだろうなあ。

ヴァルフトは5〜7メートルの盛土がされているだけで、コンクリートの高壁で囲まれているわけではない。どの程度の嵐まで耐えられるのだろう?実際、ヴァルフトごと流されたり、盛土が崩れて家屋が崩壊するなどの惨事が、ハリゲンの歴史において繰り返し起こっている。1825年に起きた「ハリゲン洪水」と呼ばれる史上最悪の災害時には、現存するハリゲン以外のハリゲンが水没し、消失してしまった。このとき、ホーゲでは家屋230棟が崩壊し、74名が亡くなっている。ハリゲンは常に自然の脅威にさらされ、変化し続けているのだ。技術の進歩した現代では大きな被害は食い止められているが、ドイツの北海沿岸では、気候変動の影響で過去100年間で約20〜25cmの海面上昇が記録されており、近年、ますます加速傾向にある。ハリゲンを襲う高潮の頻度や強度も高まる可能性がある。

ではなぜ、住民を守るために、周囲をコンクリートの防波堤で固めるなどの強固な対策を取らないのだろうか?

そこには、大規模な人工物で自然を改変するのではなく、できる限り自然本来の性質を利用して被害を抑えようという考えがあるようだ。ワッデン海は世界でも類を見ない生態系と文化を保有する地域としてユネスコ世界遺産に登録されており、その中でハリゲンが位置するシュレスヴィヒ=ホルシュタインのワッデン海はユネスコ生物圏保護区にも指定されている。ハリゲンで繁殖する野鳥は推定およそ6万羽。貴重な生態系をなんとしてでも守っていかなければならないのだ。島の景観を守ることは、観光地としての価値を維持することでもあり、住民の暮らしを支えることにもなる。そうした考えから、沿岸の侵食された部分に砂を補充し、高潮の衝撃を和らげる緩衝地帯を作ったり、高床式の住居を導入するなどのソフトな災害対策が選択されている。

ハリゲンの陸地を覆う草原は、海から運ばれて来る細かい泥やシルト、砂などが堆積して形成される塩性湿地(Salzwiese)だ。熱帯雨林に匹敵する温室効果ガス吸収力を持つ。渡り鳥や昆虫、甲殻類など多様な生物の生息地としても極めて貴重だ。塩性湿地は世界中で失われつつある。ハリゲンの塩性湿地が維持されるためには、定期的にラントウンターが起きることが不可欠なのだと知った。島がたびたび水没するなんて、さぞかし不便で大変だろうと余所者の私は感じてしまったが、そうした自然現象と共に生きることこそがハリゲンに暮らすということなんだなあ。

塩性湿地にはたくさんのミヤコドリがいた。ピィーッというホイッスルのような鳴き声が賑やかだ。

ハリゲンを囲む広大な干潟も野鳥にとって貴重な餌場だけれど、気候変動で海面が上昇すれば、干潟は縮小し、野鳥は充分に餌を見つけることができなくなってしまう。気候変動は、ハリゲンに住む人たちにとってだけでなく、野鳥や干潟の生き物たちにとっても大きな脅威なのだと肌で感じることができた。

満潮時のハリヒ・ホーゲ。干潮時には周囲に干潟が現れる。

ヴァルフトがいかに小さなスペースかがわかる。

わずか数時間の滞在だったけれど、とても印象深い訪問となった。気候変動をリアルな脅威として感じる体験となった。今後、気候変動のキーワードを目にするたび、耳にするたびに、ハリヒ・ホーゲの風景を思い出すだろう。

トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅、ラストはパダボーン近郊のエクスターンシュタイネ(Externsteine)。砂岩の岩塊が塔のように垂直にそびえる景勝地なのだが、ゲルマン人の聖地だったという説があるのだ。

Extersteine

トイトブルクの森の奥深くに突然現れる奇岩群。高さは38メートル。すごい迫力だ。

なぜここにこのような奇妙な岩塔が立っているのか。その秘密は、およそ1億年前の白亜紀に遡る。その頃、このあたりは浅い海だった。海の底に堆積した砂は長い年月のうちに厚い層となり、重みでぎゅっと固まってオスニング砂岩(Osning-Sandstein)と呼ばれる硬い岩石となった。

さらに時が経った約7000万年前、水平に積み重なっていた地層が造山運動によって垂直に押し上げられ、地表に露出してトイトブルクの森を覆う山地の尾根の一部となった。それ以来、地層は侵食を受け続けている。オスニング砂岩のうち柔らかい部分から侵食され、残った硬い部分が形作っているのがこの不思議な景観なのである。

階段が整備されていて岩の上に登れるようになっているので、登ってみよう。

登るのは別にキツくはない。教会の塔を登る方がよほど大変。

地層が垂直になっていることがよくわかる。

先端の角が取れて丸みを帯びている。この特徴的な風化は「ヴォルザック風化(Wollsack-Verwitterung)」と呼ばれる。ヴォルザックというのは「羊毛の袋」という意味。岩が羊毛の袋のように丸く膨らんだブロック状に風化しているからそう言うらしい。羊毛の袋と言われても、あまりピンと来ないのだけど、クッションのような形と考えればよさそうだ。

えーと、時系列に整理すると、造山運動で岩が垂直に押し上げられた、その後の数千万年にわたって冷えたりまた熱せられたりして割れ目ができ、そこに雨水や地下水が染み込んで角が取れ、クッションがくっついたようなかたちになった。その後さらに、地域を流れる川(ヴィムベッケ川)が岩を削り、現在のかたちになった、ということか。

地質が好きなので、ついつい地質にフォーカスしてしまうが、今回ここに来たのは、この奇岩群がゲルマン人の聖地だったと言われているからであった。実際のところ、どうなのだろう。

結論から言うと、考古学的な証拠はないようである。18世紀末からのナショナル・アイデンティティを求める機運の中で、ゲルマン民族の原初の聖地を探す動きが生まれた。ゲルマンの英雄ヘルマンが古代ローマ軍と戦ったとされるトイトブルクの森にあって、いかにも神秘的なエクスターンシュタイネは、まさに聖地のイメージにぴったりだった。ナチスの時代にはエクスターンシュタイネに先史時代の儀式の跡が見られるという主張がなされたが、後の研究で否定され、今ではでっちあげだったとみなされている。

とはいえ、ゲルマン民族であれ、他の民族であれ、古代の人がこのような驚異的な風景を目にすれば、心を動かされたに違いないし、そこに超自然的な力の存在を感じたとしてもまったく不思議はないだろう。

ゲルマン人の痕跡は見つかっていないものの、中世キリスト教の活動の痕跡が複数、はっきりと残っている。

岩上の礼拝堂(Felsenkapelle)

岩塔の上に人工的に作られた空間があり、12世紀頃に礼拝用に設けられたものと考えられている。中央に石の祭壇があり、後壁には丸い窓が開いている。夏至の日の朝に太陽がここを通して差し込むらしい。

キリスト降架のレリーフ。北ドイツに現存する最大かつ最古級の宗教石造レリーフとして価値を認められている。

エクスターンシュタイネ周辺からは中世の陶器片・金属器の断片などが出土していて、この一帯が宗教的な巡礼・信仰の場として利用されていたことを示唆している。

というわけで、トイトブルクの森の旅もこれでおしまい。ゲルマン人についてわかったことは多くないけれど、ドイツにおいて「ゲルマン人」という概念がどのように膨らんでいったのか、そして膨らみすぎて破裂してしまった「ゲルマン人」の亡霊と現代のドイツ人がどのように向き合っているのかを、多少なりとも知ることができた。

なかなか気が滅入るテーマだったので、今しばらくはこれ以上追求する気持ちが起きないが、またいつか別のかたちでゲルマン文化を知る機会があるかもしれない。

この記事の参考サイト:

https://www.externsteine-teutoburgerwald.de/

 

ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。

リッぺ州立博物館(Lippisches Landesmuseum)

リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。

エアリンクハウゼン近郊の先ローマ鉄器時代の集落モデル。集落は柵に囲まれている。

ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。

長屋(ランクハウス)の造りや、農耕の様子がわかるジオラマ

収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。

人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。

意外とモダン!女性の服装は現代でも通用しそう。

埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。

伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。

ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。

エアリンクハウゼンの野外博物館で見た製鉄用の窯(Rennofen)のモデルが展示されている。

ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。

上段はローマのもの、下段はゲルマンのもの

展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。

 

リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。

ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。

さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。

歴史画家ペーター・ヤンセン(Peter Janssen)の大作、Siegreich vordringender Hermann 「勝利に向かって進むヘルマン」

アルミニウス(ヘルマン)の妻、トゥスネルダ(Thusnelda)像。彼女の生涯はほとんど知られていないにもかかわらず、「夫に尽くし支える理想の妻」として描かれた。

Johannes Gehrs作” Hermann verabschied sich von Tusnelda 「トゥスネルダに別れを告げるヘルマン」”

デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons of Hermann(ヘルマンの息子)」のイニシアチブにより、1897年、ミネソタ州ニューウルム市にデトモルトのヘルマン記念碑を模倣した記念碑が建設されている。

小国の寄せ集めだったドイツを一つにまとめ上げ、「我らがドイツ人」という共通認識を形成する基盤となったトイトブルクの森神話だったが、時代が進むにつれ、政治的に都合よく利用されるようになった。第一次世界大戦でも、そして第二次世界大戦においても、他国・他民族との対立を煽り、殺戮を正当化する手段となってしまった。つまりは、行き過ぎてしまったのだ。

第一次世界大戦中の絵葉書

 

今回の旅で、エアリンクハウゼン考古学野外博物館、ヘルマン記念碑、そしてこのリッぺ州立博物館を訪れて知りえたのは、「ゲルマン人とは多様な文化を持つ多くの部族を総称する呼び名で、共通する文化的特徴はあるのかもしれないが、まだ多くはわかっていない」ということ、「よくわからないからこそイメージがどんどん肥大し、悪利用されて暴走を引き起こしてしまった」こと。悲しいことだが、こうした行き過ぎは、どこの国でも起こり得ることだと思う。

ゲルマン民族とその文化には別に罪はないし、興味を持つのは悪いことでもないだろう。ただし、学術的に明らかになっていることにフォーカスして、勝手に妄想を膨らませないことが重要だ。

さて、過去の産物となったヘルマンだが、リッぺ地方では全否定されているというわけではなさそうだ。今では政治色のないご当地キャラとして、親しまれているように見えた。

いろいろなヘルマングッズ

さて、「トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅」のシメには、ゲルマン人の聖地と噂される奇岩群、エクスターンシュタイネに向かうことにしよう。

 

 

前の記事に書いたように、エアリンクハウゼンの野外考古学博物館は考古学的にとても興味深かったが、ゲルマン人についての私のイメージは、相変わらずもやっとしている。何か別の手がかりはないものか。

デトモルト(Detmolt)にあるヘルマン記念碑(Hermannsdenkmal)を見に行くことにした。ヘルマン記念碑とは、紀元9年に「トイトブルクの戦い」でローマ軍を打ち破ったとされるゲルマンの英雄ヘルマン(本名のラテン名アルミニウスをドイツ化した名前)を讃えてつくられた記念碑である。こちらの過去記事に書いた通り、「トイトブルクの戦い」の現場は実はトイトブルクの森ではなく、オスナブリュック近郊だったことが明らかになっているが、かつてはヘルマンが勝利したのはデトモルトらへんだと思われていたのである。

記念碑はデトモルトの南西にあるグローテンブルクの丘の上に立つ。

デトモルトに宿泊し、あさイチでグローテンブルクへ。駐車場から森の中を歩いて丘を上ると、すぐに記念碑が見えて来る。

19世紀初頭、フランス革命によってヨーロッパ中に広まった「国民国家」「人民主権」という概念がドイツでも芽生え始めていた。それまでのドイツは、神聖ローマ帝国という括りはあっても、実情は小国の集まりで、共通意識は薄かった。しかし、ナポレオンが支配域を広げ、ドイツの小国を次々に制圧すると、屈辱を味わった民衆の間で「ドイツ人として団結すべきだ」という気持ちがメラメラと燃え上がり、ドイツ統一の気運が高まった。そうしたナショナリズムの勃興の中で、かつてローマ軍を打ち破ったとされるケルスキ族(Cherusker)のリーダー、ヘルマンが、ゲルマン民族の解放と統一のシンボルとして崇められていた。

ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst von Bandel)である志を共にする市民から寄付金を集め、1838年に着工したが、なかなか思い通りにはいかなかった。1846年に土台部分は完成したものの、資金不足で中断。その直後の1848/1849年にヨーロッパで革命が同時多発する。ドイツでも市民や労働者が自由主義や憲法制定を求めて蜂起したが、プロイセン王国に弾圧され、失敗してしまう。民衆の自由で民主的な国家建設の夢は、打ち砕かれてしまった。

工事が再開されたのは1862年。このときには、ドイツ統一はもはや市民だけの運動ではなくなっていた。1971年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、統一ドイツ帝国(第二帝国)が誕生する。皇帝に即位したヴィルヘルム1世は、トイトブルクの戦いとフランスに対する勝利を重ね合わせ、ヘルマン記念碑の建造を積極的に支援した。こうして記念碑は国家プロジェクトとなったのだった。1875年8月16日の除幕式にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が臨席し、盛大に祝われたらしい。

ところで、上の写真はヘルマンの後ろ姿。正面からじっくり見ようと反対側に回ったら、、、、

逆光でよく見えない〜。午前中に見に行ったのは失敗だった。美しい写真が撮りたければ、夕方に行くべし。

トイトブルクの森を見下ろすヘルマン記念碑の高さは、台座を含めて53メートル。掲げている剣の長さは7メートル地元の砂岩でできた台座のデザインは当時の流行の古典主義で、ギリシアの神殿を思わせる。円柱で支えられた円形の屋根を持つこのような建物は、建築用語でモノプテロス(Monopteros)と呼ばれるそうだ。ゲルマン民族の象徴なのにギリシアなんかい!とツッコミたくなるが、バンデルも本当はゴシック様式で作りたかったらしい。でも、残念ながら、ゴシック建築の設計は経験がなくて無理、ということでこうなったとのこと。

右手に剣、左手に盾を持つブロンズ製のヘルマン像。まったく見えないけど、剣には「Deutsche Einigkeit, meine Stärke. Meine Stärke, Deutschlands Macht.(ドイツ統一は我が力、我が力はドイツの力)」と刻まれているらしい。

頭には翼のついたヘルメット。古代ゲルマン人がこんなヘルメットを被っていたわけではなく、バンデルの創作。

左足で鳥を踏んづけてる。ローマの象徴の鷲だそう。

ヘルマン記念碑の周りには、他にも記念碑がたくさんある。

エルンスト・フォン・バンデルのレリーフ付き記念碑

皇帝ヴィルヘルム1世がヘルマン記念碑除幕式に臨席したことを後世に残すための石碑

ドイツ帝国統一の立役者にして初代宰相、オットー・フォン・ビスマルクの功績を讃えるビスマルク石(Bismarckstein)

後にビスマルクの80歳の誕生日を記念して設置されたらしい。

つまり、この地は、古代の英雄ヘルマン、統一ドイツに君臨した皇帝ヴィルヘルム1世、そして外交と戦争によって現実に統一国家を完成させた政治家ビスマルクの三者を讃える、まさにドイツのナショナリズム高揚の場だったのだなあ。

「だった」と書いたのは、現在ではまったく違う評価を受けているからだ。詳しくは、この後に訪れるリッペ州立博物館で知ることになる。

 

この記事の参考文献:  Das Hermannsdenkmal: Daten, Fakten, Hintergründe (Historisch-Archäologische Publikationen und Dienstleistungen, 2008)

トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅。最初に向かったのは、エアリンクハウゼンにある考古学野外博物館(Aechäologisches Freilichtmuseum Oerlinghausen)だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州最大の自然保護区の縁に位置するこの野外博物館では、考古学調査に基づいて、旧石器時代から中世初期までの人々の暮らしが時代ごとに再現されている。

博物館の全体はこんな感じ。順路に沿って見て歩いて、小一時間といったところ。

最初に目にするのは、旧石器時代の住まい。最終氷期の紀元前1万5500年 〜 1万3100年ごろ、北西ヨーロッパにはトナカイ猟を中心とした古代文化が広がっていた(ハンブルク文化と呼ばれている)。漁師は、トナカイの皮で作ったテントで移動生活をしていた。このテントは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州アーレンスブルクで発掘された紀元前1万2700年前〜1万2500年頃のトナカイ猟師の集落跡をもとに再現されたもの。トナカイの皮は毛を取り除くと軽く、持ち運びに適していた。テントの周囲には、ヒメカンバ(Zwergbirke)、アルメリア(Grasmelke)、ガンコウラン(Krähenbeere) 、ビャクシン(Wacholder)など、当時の植生が再現されている。

こちらは、中石器時代(紀元前9700年〜紀元前4300年頃)の茅葺き小屋。この時代の生活についてはまだ多くはわかっていないらしい。トイトブルクの森で見つかったいくつかの集落跡を研究した結果、きっと、このような家に住んでいたのではないか?と考えられている。または、樹皮で作った壁の小屋に住んでいたという説もある。最終氷期が終わって暖かい気候となったドイツの森には、シカやイノシシ、クマ、オオカミなどが生息するようになった。植生も氷河期とは大きく変わり、人々はそのような変化に適応してライフスタイルを変化させていったが、この頃はまだ狩猟採集生活だった。

次は新石器時代(紀元前5500〜2200年ごろ)の家。ライン川流域の褐炭採掘場から発見されたレセン文化(Rössener Kultur)遺跡をもとに再現された。木材が使われ、ぐっと現代の家に近づいたように見える。正面から撮った写真なので分かりづらいのだが、ラングハウス(Langhaus)と呼ばれる長屋で、かなりの奥行きがある。旧石器時代にはラングハウスが一般的だったとされる。平面図は長方形ではなく、台形もしくは船型。人々は定住し、家畜を飼い始めた。この頃の主食は、エンマーコムギ(Emmer)、ヒトツブコムギ(Einkorn) 、レンズ豆など。

 

ここまで、考古学的調査に基づいた、旧石器時代から新石器時代までの暮らしを順番に見て来た。「暮らし」に焦点を当てた展示で、民族については触れられていない。ところが、この後、突如として「ゲルマン」というワードが登場する。

展示エリア「ゲルマン人集落(Germanengehöft)」。あれっ?今までのはゲルマン人の集落ではなかったのだろうか。混乱してしまった。説明パネルによると、このエリアは「現在は否定されている過去の研究に基づいてつくられたもの」のだという。

実は、現在のこの野外博物館の敷地には、かつて、「ゲルマン人集落」という、そのまんまの名の博物館が存在した。ナチスがドイツ人の祖先であるゲルマン人を理想化し、ドイツ人の優位性をアピールする目的で建設したものだった。その内容は、「学術研究に基づいている」と謳ってはいたが、イデオロギーにまみれたもので、現在の研究に照らし合わせると間違いだらけだった。「ゲルマン人集落」がオープンした1936年はベルリンでオリンピックが開催された年でもあり、ナチス政権は世界中からの来訪者を「ゲルマン人集落」に迎え、ゲルマン人が古来からいかに優れた民族だったかを示そうとした。まっすぐな柱に白い漆喰の塗られた土壁。当時、家の内部には近代的な家具が置かれていたそうだ。

「ゲルマン人集落」は、第二次世界大戦後しばらくの間は荒廃した状態のまま放置されていたが、1960年代に民間の寄付金によって、以前と同じかたちで再オープンした。そう、ナチスのイデオロギーのままで。

それが大きく変化したのは1979 年のこと。イデオロギーと決別し、学術研究の成果を正確に伝える考古学野外博物館がここにつくられることになった。発掘調査に基づいた、時代ごとの集落が再現されたのだ。その際、「ゲルマン人集落」は取り壊すのではなく、ナチスのゲルマン人史観を明瞭に伝える場所」として残された学術的なこの野外博物館の中に異質なエリアがあるは、このような背景からだ。

「ゲルマン人」という言葉が出てくるのはこのエリアだけ。この先は再び考古学の展示が続く。

これは青銅器時代(紀元前1550〜1200年頃)の茅葺き小屋。

青銅器時代の裕福な人のお墓(Totenhaus)を再現したもの。

鉄器時代のラングハウス

これはGrubenhaus(直訳すると「穴の家」)と呼ばれる半地下の小屋。床を地表より50〜80cmくらい掘り下げ、掘った部分の上に簡単な木の柱を立てて、屋根をかけたもので、先史時代や中世初期のヨーロッパで広く使われていたらしい。

内部はこんな感じ。床を地面より掘り下げることで、火を使わなくても冬暖かく夏涼しい快適な空間が得られた。主に作業場などに使われていたとのこと。

鉄鉱石から鉄を取り出すために使われ塊鉄炉(Rennofen)。炉に木炭と鉄鉱石を交互に詰めて火を入れると、高温で鉄鉱石から酸素が離れ(つまり、還元される)、鉄の塊ができるというしくみ。

ここに書ききれないが、それぞれの建物内部にも各時代の生活についての展示があり、手作業や農作業、家畜についてなど幅広い情報が提供されている。ゲルマン人の「現在のドイツ北西部において旧石器時代から中世初期までを生きた人たちの」生活史をざっくりと学ぶには、とても良い博物館だと思う。

ただ、この博物館が建てられた背景が心に重くのしかかって、残念ながら考古学展示を純粋に楽しむことができなかった。

 

この記事の参考資料:

Schriften des Archäologischen Freilichtmuseums Oerlinghausen: Kompakt (2006)

私が現在住んでいるドイツ東部には、かつてスラブ系の人々が住んでいたため、スラブ民族に関する史跡や博物館がいくつもある。スラブ民族とはどのような民族なのかに興味があり、これまでにそうしたスポットを訪れて来た。

直近では、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるスラブ人の集落を再現した考古学博物館へ行った。

展示は、とても興味深かったが、同時に新しい問いが生まれた。「スラブ人がどのような自然観を持っていたのか、どのような暮らしをしていたのかはなんとなくわかった。では、ゲルマン人はどうだったのだろう?

ドイツの国名が英語で「Germany」であるように、ゲルマン人はドイツ人のルーツだとごく一般的には思われている。いや、実際には、ドイツ人の祖先はゲルマン人だけではなく、ケルト人や古代ローマ人、スラブ人など、異なる民族が混じり合ったモザイク集団だった。だから、ドイツ人=ゲルマン人は誤りで、ゲルマン人はドイツ人のルーツの一つでしかない。

そもそも、「ゲルマン人」という言葉は、紀元前1世紀、古代ローマ人がライン川の東に住んでいた部族をまとめて「ゲルマニ」と呼んだのが始まりで、呼ばれた方は自分たちを「ゲルマン人」だと思っていたわけではなかった。無数の部族が、それぞれの文化習慣に従い、生活を営んでいた。「ゲルマン人」というのは他者によるラベルに過ぎない。

とはいえ、現代ドイツ人の多くが、もとを辿ればゲルマン系の言語を話すいずれかの部族にルーツを持つことは事実だろう。しかし、私はゲルマン人についてほとんど何も知らない。「森に住んで、体が大きく、戦闘的な人たちだった」「古代ローマ人からは野蛮な人間だとみなされていた」というくらいのあまりに大雑把すぎるイメージしか持っていない。スラブ人とその文化については積極的に知ろうとするのに、そのスラブ人の多くが吸収されていったゲルマン文化について無知なのは、バランス的におかしい気がする。それに、スラブ人の文化の特徴は、ゲルマン人のそれと比較することで輪郭がよりハッキリするのではないだろうか。

そう思って、「よし!それじゃ今度はゲルマン人を知る旅に出よう!」と思い立ったのだ。

ところが、、、、ことはそう簡単ではなかった。

リサーチ段階でまず躓いた。なかなか見つからないのだ、ゲルマン人の文化を紹介する博物館が。かつて古代ローマの植民地であったケルン市には「ローマ・ゲルマン博物館(Römisches-Germanisches-Museum)」があり、何度か行ったことがあるが、そこで展示されているのは主にローマ時代の発掘物で、「ゲルマン民族とは?」「ゲルマン人の文化とは?」を伝える博物館ではない。では、どこへ行ったらキリスト教化される以前のゲルマン人の宗教や儀式、暮らしなどについて知ることができるのだろう?

そこで思い出したのが、カルクリーゼ(Kalkrise)にある、考古学博物館である。

カルクリーゼは、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの現場であることが、考古学調査の結果、わかっている。戦いの詳細については上の記事に書いているので、ここでは繰り返さないが、この戦いはかつて「トイトブルクの森の戦い」と呼ばれていた。トイトブルクの森とは、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州レーネ(Löhne)付近からニーダーザクセン州のホルツミンデン(Holzminden)のあたりまで広がる丘陵地帯だ。戦いの現場は、トイトブルクの森のどこかだと長らく考えられていたのだ。その中心地、デトモルト(Detmold) 市郊外の丘の上にはゲルマン人のリーダー、ヘルマン(ラテン語名はアルミニウス)の記念碑が立っているという。

ならば、トイトブルクの森へ行けば、きっとゲルマン人について詳しく知ることができるだろう。そう考え、ネットで情報収集を始めたところ、デトモルトとその周辺にゲルマン人と関係のありそうな博物館や施設がいくつか見つかった。しかし、該当ウェブサイトの説明を読んでも今ひとつよくわからない。私が知りたいと思っていることがそこで見つかるのか、どうもはっきりしないのだ。なにか歯切れが悪いというか、後ろ向きな空気感が漂っている。読んでいるうちに、「ゲルマン人」というテーマは現代ドイツ人にとって、話題にするのはとても慎重を要し、できれば避けたいものらしいということが伝わって来た。

というのは、「ゲルマン人」というコンセプトは、ナショナリズムを煽るために繰り返し利用された暗い歴史がある。それが結果としてナチスによる他民族の殺戮に繋がった。その重い事実に対する反省から、現在では博物館などで「ゲルマン人」を前面に出した展示はほとんど行われていない。ましてや、ポジティブに提示するなどもってのほか。ドイツ各地でゲルマン人の集落跡などが出土しているが、考古学博物館や郷土博物館ではそうした発掘物を「〇〇年頃にこの地方に暮らしていた人々の△△」のように展示していて、そこに敢えて「ゲルマン人」を持ち出す必要性はないというのが一般的なスタンスのようだ。

どうりで、ドイツに何十年住んでも「ゲルマン人とはどういう人たちだったのか」が、いつまでも見えて来ないわけだ。「縄文人」「弥生人」などと同じようなノリで「ゲルマン人」を語ることはできないのだという現実に気づいて、とても気が滅入った。

むろん、世界的に社会の右傾化が進んでいる現在、差別主義者を焚き付けるリスクをおかしてまでアピールするようなテーマではないというのは、理解できなくはない。

しかし、、、ゲルマン人について知りたいという欲求は、いけないことなのだろうか。ドイツに暮らす者として、この国の根底に流れる古くからの文化的要素に触れたいだけなのだけど。

もやもやとした気持ちを抱えたまま、それでも「トイトブルクの森」へ行ってみることにした。

 

(続く)

すっかり春の恒例となった、庭の巣箱での野鳥の営巣観察、シーズンがほぼ終わったようなので、まとめておこう。

今年は3つの巣箱のうち、一つでシジュウカラが、もう一つでアオガラが営巣をした。

まずはシジュウカラの状況。

今年は全般的に順調だったといって良い。4/15までに6つの卵が産み落とされた。4/26にすべての卵からヒナが孵り、5/14にそのうち5羽が無事に巣立った。巣立ちもほんの2時間ほどの間に次々と飛び立ち、親鳥の苦労は少なかったかな。

同じ巣箱ですぐにまた営巣が始まり、6/8、今度は8つの卵からヒナが生まれた。気温が高くなっていたせいか、巣立ちまできっかり2週間しかかからなかった。残念ながら2羽は途中で死んでしまい、巣立ったのは6羽。すべてのヒナが巣立てることはやっぱりなかなかないものだな。

今年は合計で11羽の巣立ちを見届けることができた。

 

アオガラの状況。

3/23に親鳥が卵を産み終わった。驚いたことに、こちらはなんと卵12個!アオガラはシジュウカラよりは多産傾向があるけれど、ここまで多いのは観察を始めて以来、初めてだ。同時に子育てをしていたシジュウカラの倍の子沢山だから、子育ての大変さも倍?お母さん、大丈夫か?

5/3、すべての卵からヒナが孵った。お母さんがうまく餌を配分したのか、ヒナたちの成長の個体差はほとんどなく、巣箱の中でぎゅうぎゅう詰めになりながらもみんな元気に育っていた。

5/16。巣箱の中で何羽かが羽ばたきの練習をするように。巣立ちが近い。明日かな、それとも明後日かなとワクワクしながら寝た。

そして翌朝。起きて早速カメラを除くと、巣箱には3羽のヒナしかいない。あれっ。他の子達はもう巣立ったのかな?でも、こんなに朝早くに?嫌な予感がする。

確認しようと夜中に自動録画された映像を遡って再生していった、夜中の3時半まで遡ると、嗚呼。そこには恐れていた映像があった。2年前の悪夢再び。アライグマが巣を襲っていたのだ。

12羽のヒナたちは母鳥と一緒に、狭い巣箱の中でくっ付き合って眠っていた。突然、何かの危険を察した母鳥が頭を上げる。そして、大声でギャーギャーと鳴き始めた。でも、ヒナたちはどうすることもできない。アライグマの手が巣箱の中に入って来て、1羽のヒナを掠め取った。緊迫感がカメラ越しに伝わって来る。かわいそうで見ているのが辛い。アライグマは1羽、また1羽とヒナたちをさらっていく。しばらくして、お腹がいっぱいになったのだろうか。それ以上、巣箱の中に手が伸びることはなかった。かろうじて3羽のヒナが難を逃れた。

2年前に同様の映像を見たとき、あまりのショックに映像を二度と見返すことができなかった。ブログに映像をアップする気にも到底なれず、言葉で記録したのみだ。今回も辛いのは同じだけれど、営巣観察も今年で5年目。これまでにもいろいろなことがあり、自然とは過酷なものだと少しは受け入れることができるようになった。これも貴重な記録なので、ごく一部だけに留めるが、ここに載せておこうと思う。(閲覧注意:ショッキングな営巣が含まれます

ヒナを守ることはできないと観念したのか、母鳥は途中で自分から巣を出て行った。残ったヒナは放棄されるのだろうかと思ったが、翌日には戻って来て、残った3羽の世話を健気に続ける姿が見られた。

3日後の5/20、3羽は無事に巣立つことができたので、私もホッとした。

振り返って考えると、多産作戦のおかげで少なくとも全滅は逃れたので、12個の卵を産んだのは正解だったということかもしれない。そして、アライグマ襲撃の最中に残ったヒナを置いて母鳥が逃げたのも、きっと賢い決断だったのだろう。いくらヒナが生き延びても、自分が死んでしまっては世話を続けることができない。そして、たとえ不幸にしてヒナが全滅してしまっても、自分が生きていればまた新たに子どもを産み育てることができる。

いろんなことを考えさせられる営巣観察である。来年はどんな様子が見られるだろうか。

 

ドイツの運河探検はひとまずこれが最終回。今回取り上げるのは1899年に完成したドルトムント・エムス運河。ルール地方のドルトムント港を起点とするこの運河は、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の造船都市パーペンブルクを通過し、エムス川と合流して北海へと流れ込む。ドイツの工業化を支えて来た超重要インフラの一つである。

この運河建設は、ドイツ帝国初の国家による大運河プロジェクトであった。19世紀末、ルール地方の石炭・鉄鋼産業が急拡大し、鉄道輸送だけでは追いつかないほどの物流量になったため、重工業地帯ドルトムントと輸出入拠点である北海の港を水路で直接つなぐ大計画がスタートした。

ドルトムント・エムス運河における見どころは、なんといってもドルトムント郊外のヴァルトロプ(Waltrop)にある船舶昇降機、Schiffshebewerk Henrichenburgだ。1970年まで稼働していたが、現在は産業遺産ミュージアムとなっている。

ヘンリッヒェンブルク船舶昇降機(Schiffshebewerk Henrichenburg)

これまたなんとも美しいクラシカルなデザイン。それもそのはず、この昇降機建設には水位差の効率的な克服という実用的な目的だけでなく、誕生してまだ間もなかったドイツ帝国を世界の工業列国の一員としてアピールする狙いがあった。そのため、昇降機の外観にも力を入れ、記念碑的なデザインが採用された。この昇降機の建設は、水運インフラ整備という国家プロジェクトの一環であると同時に、ドイツの近代化と技術力を世界に見せつける機会でもあり、落成式には皇帝ヴィルヘルム2世が首席し、自ら式典を主宰した。

昇降機は上って見学できる。

高低差はおよそ14.5m。

昇降機の上からドルトムント・エムス運河高水位側を眺める。

今度は昇降機の下に降りてみよう。

Trogと呼ばれる水槽の内部。この中を水で満たし、船を浮かせる。

船舶昇降機にはいくつかのタイプがあり、この昇降機は浮体式昇降機(Schwimmer-Hebewerk)である。どういう仕組みかというと、船を載せる水槽の下についた円筒型の浮き(Schwimmer)を使って船を上下させる。その他、この昇降機には設計者イェーベンスが考案した「スピンドル式水平保持」という、ねじ(スピンドル)で高さを微調整して船を水平に保つ仕組みがある。

昇降機の横にあるかつての機械室の建物は現在、展示室。

昇降機の模型

こちらは、当時、仕組みを説明するために作られた平面模型。各パーツは取り外し可能で、手動で動かせる。

展示によると、船舶昇降機は世界中に100機ほどしかないそうだ。そのうちのほとんどは、この昇降機のような船を垂直に上下させるタイプだが、斜面を引っ張り上げるタイプ(フランスのSaint-Louis Arzvillerの昇降機)や、変わったものだと回転式(スコットランドのFalkrik Wheel)もある。世界のいろんな昇降機を見てみたくなった。

ルール地方では、ドルトムント・エムス運河を皮切りに、リッペ運河、ライン=ヘルネ運河、ヴェーゼル=ダッテルン運河などが次々に建設され、高密度な水路ネットワークが形成された。戦争時には戦略物資の輸送ルートとしても重要視され、特にナチス時代には、これらの運河が国家レベルで整備・拡張され、不足する運河の労働力を補うために強制労働者が投入されたという事実もある。この辺り、調べ出すとまた別のテーマに展開しそうなので、ここでは深掘りしないでおく。

さて、商工機だけでなく、運河沿いにはいろいろなものがあって面白い。特に興味深く思ったのは、曳舟鉄道(Treidelbahn)というもの。ドルトムント・エムス運河が開通した頃には、まだ船にはエンジンが搭載されていなかった。運河では風や潮による流れもないので自走できず、陸からロープで引っ張って移動させる必要があった。運河沿いにレールを敷いて小型のディーゼル機関車で引いていたのだ。

Treidelbahnと呼ばれる小型の曳舟用機関車。

陸にはエンジンがあったのなら船にも搭載すればいいじゃない?と不思議に思ったが、その当時はまだ船に搭載できる小型で信頼性のあるエンジンは実用化されていなかったということのよう。それにしても、陸から船を引っ張るなんて、今では考えられない光景だなあ。それでも、それ以前には人力や馬力で引っ張っていたのだから、機関車を使えるようになっただけでも大進歩だったのだね。

昇開橋(Hubbrücke)もある。可動式の橋はいろんなタイプのものがあって、面白い。

1962年に完成した昇開橋(Hubbrücke)。船が下を通るときに橋桁全体が垂直に持ち上がる。

その他、貨物船船員の日常生活や現在のコンテナ輸送に関する展示もとても充実していていて、ゆっくり見るには2〜3時間必要。

ボートクルーズもあって、「乗って行きませんか?」と声をかけられたけれど、2時間のクルーズだということで残念ながら乗船できず。また今度!

 

ドイツの運河探検、第4段!今回訪れたのは、北海とバルト海を結ぶキール運河(ドイツ語ではNord-Ostsee-Kanal)である。北海沿岸のブルンスビュッテルからバルト海に面したキールまで延びる、全長98.6kmの運河だ。長さはそれほどでもないが、年間3万隻以上の船舶が通航する国際的な航路として超重要である。

キール運河

この運河はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の下で1895年に完成した。それまで、北海からバルト海へ出るにはデンマークのユトランド半島をぐるりと回るしかなく、とても時間がかかっていた。この運河の開通で航行距離は約250kmも短縮された。キール運河は全域にわたって完全に水平で、北海側の出入り口とバルト海側の出入り口に潮の満ち干による水位の変化を調整するためにそれぞれ建設された閘門を除いて、閘門設備を必要としない。

キール運河にあるいくつかの見どころのうち、絶対見たい!と思っていたのがレンズブルク(Rensburg)にある運搬橋(Rensburger Schwebefähre)というもの。鉄道橋の下に吊り下げられたゴンドラが、人や車を乗せてワイヤーで対岸へと渡るというユニークな仕組みらしい。

この運搬橋は、キール運河にかかるレンズブルク高架鉄道橋(Rendsburger Hochbrücke)の一部を成している。

この鉄道橋の存在感がそもそも半端ではなく、ハンブルクから電車でレンズブルクに近づくと、右手の窓からカーブを描く巨大な橋が目に飛び込んで来る。なんだろうと目を見張って窓の外を見ていたら、自分を乗せた電車はその橋に乗り、ループをぐるりと一周してレンズブルクの駅に到着した。遊園地のアトラクション的な体験で、これだけでも価値がある。橋の高さは地上から42m。レンスブルクのランドマークどころではなく、町の景観において大きな空間を占めている。なぜこんなに高い場所に橋を通したのかというと、キール運河は国際航路として大型船が通るため、運河をまたぐ橋は「少なくとも40m以上」のクリアランスが必要とされたとのこと。特異なループ構造は、その高さから徐々に高度を下げて地上の駅に降りるために考案されたもので、その結果、橋の全長は2,486mもある。

駅を出て、運河に向かって歩いた。

運河にかかる鉄道橋

この橋は1913年に完成したが、スチールという建材は当時、まだ新しく、住民は見慣れない巨大な建築物を不気味に感じたらしい。まだ溶接技術が実用化されていなかったので、橋の部品はすべてリベットで固定されている。使われているリベットの数は320万本!近代スチール建築の傑作と言えるのではないだろうか。レンズブルクの高架鉄道橋は今日、「鉄のレディ(Eiserne Lady)」の愛称で親しまれている。

さてさて、目当てはゴンドラである。運河の対岸に目をやると、おお!

あれが噂のゴンドラ(Schwebefähre)!すごい!あれに乗って運河を渡れるのか。

、、、と思ったら、ゴンドラは空。動いていないのか?運河沿いのレストランで聞いたら、なんと故障中だという。えええー、ガッカリ。乗る気満々でここまで来たのに、、、。

自分が乗れないまでも、動いている様子を見たかったのに、叶わず残念である。でも、それにしてもすごい仕組みだ。あんな高いところからワイヤーで吊り下げた構造物に揺られるなんて、乗っている時間はわずか2分ほどとはいえ、怖いと感じる人もいるのではないだろうか。このような運搬橋は世界中に20くらいしか作られていない。その中で現存するのはたったの8つだという。鉄道橋との複合構造になっているのは、たぶん世界でここだけ。超貴重だね。

今度来たら絶対に乗ってやる!

 

 

ドイツの運河探検の第三弾は、ミッテルラント運河。1906年に建設が始まった全長325kmのこの運河は、ドルトムント・エムス運河からベルゲスへーヴェデ(Bergenhövede)で枝分かれし、マクデブルクでエルベ川と接続する。北ドイツにはライン川、エムス川、ヴェーザー川、エルベ川の流域を結ぶWest-Ost-Wasserstraßeと呼ばれる水路システムがあり、ミッテルラント運河はその中心部としてとても重要な役割を果たしている。

ミッテルラント運河の見どころの一つは運河と川の交差点、ミンデンの水路十字(Wasserstraßenkreuz Minden)だ。ミッテルラント運河のルートは北ドイツ低地の南縁を通っており、ミュンスターからハノーファー=アンダーセンまで、211 km にわたって、船は海抜50.3メートルの高さの水面をずっと維持して走ることができ 、閘門を必要としない。しかし、ミンデンでは運河よりも平均水位が約13 m 低いヴェーザー川を横断する。つまり、運河がヴェーザー川の上を通り、なおかつ両者が接続するための設備を建設する必要があった。ミンデンの水路十字とは1911年から1914年にかけて建設された閘門や水路橋、連絡運河などを含む設備全体を総称している。

 

全体像はこんな感じ(図はビジターセンターの展示から借用)。水路橋(Kanalbrücke)を歩いて渡り、閘門まで行くことができる。

 

ミンデン中央駅から水路橋の下までは歩くと30分くらいかかるが、ラッキーなことにちょうどバスが来たので、15分で着いた。

これが水路橋。車が通る道路を大型の船が横切ると思うと、ちょっと怖い。道路の左側にある階段を登って橋の上に上がる。

ちなみにこの鉄筋コンクリートの橋は90年代に拡張された部分で、旧水路橋に続いている。

第二次世界大戦で破壊され、1949年に再建された旧水路橋 (Alte Kanalbrücke)

運河の下をくぐる線路

ポンプ室。蒸発、浸透、閘門の操作などによって失われる運河の水をヴェーザー川から汲み上げた水で補給し、運河の水位を一定に保つ。

ミッテルラント運河が連絡水路に枝分かれする場所

連絡運河がヴェーザー川に接続する場所にある新旧の閘門

外観の美しい旧閘門

旧閘門。全長82m、幅10m。

旧閘門は閘室が縦に深く掘られた立坑型閘門(Schatschleuse)と呼ばれる構造だ。水位調整のための水は左右に4つづつ縦に重ねて設置された節水層に溜めることでリサイクルされる。節水層は建物に内蔵されているので、外部からは見えない。

ビジターセンターにあった模型。下の節水層から順番に水が閘室に出ていくことで水位が上がり、船が持ち上がる仕組みがよくわかる。

旧閘門は100年以上前に建設されたもので、当時の貨物船には対応できたが、現代の大型船舶やプッシュ船団には小さすぎて非効率だったので、2017年、新しい閘門が開通した。

旧閘室から大幅にサイズアップして全長139m、幅12m。

新閘門の節水層は外部設置

ゲートが開いてボートが出ていく。

ミンデンの水路十字はとても見応えがあって、見に行った甲斐があった。ビジターセンターの展示も充実していて、閘門の仕組みもよく理解できた。

新旧の閘門の模型

 

歩いて回ると結構な距離(帰りはバスを逃して、駅まで歩いて戻った)で疲れた。ミンデン駅で自転車を借りられるので、自転車にすれば楽だったかな。

 

今回探検した運河はオーダー・ハーフェル運河(Oder-Havel-Kanal)。その名の通り、オーデル川とハーフェル川を繋いでいる。前回の記事に書いたフィノウ運河も、オーデル川とハーフェル川を繋ぐ運河だった。そう、オーデル・ハーフェル運河はフィノウ運河の数km北をフィノウ運河とほぼ並行に東西に伸びている。18世紀に建設されたフィノウ運河は(18世紀建設)は曲がりくねって浅かったため、大型船が通れるようにする目的で1905年に建設が始まり、1914年に完成した。ベルリンと当時ドイツ帝国領だったシュチェチン(現在はポーランド)間の水上交通の主幹ルートして機能した。バルト海への出口港であるシュチェチンはであり、ドイツ帝国にとって戦略的に重要な都市だった。オーダー・ハーフェル運河現在もなお、ドイツ〜ポーランド間の物流の大動脈である。

この運河の見どころは、なんといってもニーダーフィノウの船の昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)だ。2017年に一度訪れており、過去記事で紹介している。

同じことを二度書いてもしかたがないので、昇降機の詳細は今回は省くが、前回とは違っていることがあった。それは、2017年当時は建設中だった新しい昇降機が2022年に完成し、稼働していること。

1927年に建設された旧昇降機(左)と2022年完成の新昇降機(右)が並んでいる。

新昇降機が建設された理由は、旧昇降機の最大船舶サイズでは、現代の内陸輸送需要に合わなくなったため。新昇降機は長さ115m、幅12.5m、深さ4mまで対応しており、より大型の船舶が通行可能になった。内部を見学できるガイドツアーもある。

旧昇降機も現役だが、現在は主に観光に利用されている。

丘側から見た旧昇降機。新昇降機と比べると小さいが、それでも堂々としたもの。機能美と風格に惚れ惚れする。

ニーダーフィノウ一帯は低地で、船は昇降機によって丘を越え、より標高の高いベルリンへと運ばれる。

さて、オーデル・ハーフェル運河には、昇降機以外にも面白いものがある。その一つは、運河と線路が交差する鉄道トンネルだ。

電車は運河の下を通る。

船がやって来た。

のどかなフィノウ運河と近代技術を駆使したオーダー・ハーフェル運河は、流路はほぼ同じなのにまったく表情が異なる。なんだか、まるで二卵性の双子のようなのである。

 

運河探検は続く。