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ドイツに暮らしていて面白いと思うことの一つは、いろいろな時代の建物があることだ。首都ベルリンには実に様々な時代に建てられた趣の異なる建物が不思議な調和を生み出している。

過去数十年間に建てられた近代的な建物は日本の都市にあるものとそう大きな違いはないが、それよりも古い建物は装飾が凝らされていたり、日本では見かけないフォルムや質感だったりでいくら眺めていても飽きることがない。

けれど、ドイツの歴史をほとんど知らずに街歩きをしていた頃は、そうした古い建物をすべて「西洋建築」というたった一つのカテゴリーで認識していて、どれがいつの時代のものなのかまったく見当がつかなかった。最近になってようやく、建物を外観からいくつかのグループに分類して認識できるようになって来て、ますます街歩きが楽しくなっている。

建築史におけるそれぞれのエポックは、単なる美的意識の移り変わりではなく、それぞれの時代の技術革新や政治、イデオロギーとも関わっていることがおぼろげながら見えて来た。

ベルリン・ブランデンブルク探検隊」では、相棒の由希さんが建物好きなこともあって建物をメインテーマの一つにしているが、今回は旧東ベルリンのカール・マルクス・アレーを中心にスターリン建築を取り上げた。長年ベルリンに住んだ由希さんが撮影した東ベルリンやワルシャワのスターリン建築と、私の手持ちの東ドイツの他の町や本場モスクワのスターリン建築の写真を合わせて以下のスライド動画ができた。スターリン建築は個人的には好みの建築様式というわけではないけれど、インパクトが大きいし、それらが建てられた背景はやはり興味深い。動画で紹介したものだけでなく、旧社会主義国のあちこちに類似の建築物がたくさん残っていることだろう。今後、もっと見る機会があればいいな。

 

前回の記事では、旧東ドイツ時代に建てられた高層住宅群、プラッテンバウジードルングを紹介した。旧東ドイツの遺物を見て回ることができるのはベルリンやブランデンブルクに住む楽しみの一つだ。プラッテンバウはその典型的な例としてよく挙げられるが、プラッテンバウよりもさらに直接的に社会主義時代を想像させるものがある。

それは、街角で見かける社会主義時代のアート。

初めて見たときにはそのインパクトに度肝を抜かれた。私は人生の半分近くをドイツで暮らしているが、最初の10年ちょっとは旧西ドイツエリアにいたので、社会主義についてあまり考えるきっかけがなかった。ブランデンブルクに移り住み、あちこちで西側では見たことのない独特なアートを目にするようになり、社会主義国東ドイツとはどんな国だったのだろう、そこでの暮らしはどんなふうだったのだろうかと考えるようになった。

東ドイツ時代に街角に設置された彫刻や絵はイデオロギーを前面に打ち出していたため、その多くはドイツ再統一後に撤去されている。まだ残っているものについても、今後どう扱っていくべきか、議論が交わされている。

今回、「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」で相棒の由紀さんが撮り溜めたベルリンの気になる街角アート、そして私が撮影したブランデンブルクの街角アートについて、背景を調べてみたら、今まで知らなかったことがたくさん出て来て興味深かった。

 

 

どの作品も背景はそれぞれ興味深いけれど、私個人にとってはポツダムの情報処理センター(だった建物、現在はアートスペース)の外壁に描かれた、宇宙をモチーフとしたモザイク画が特に想像をかき立てる。旧東ドイツにおける宇宙開発は気になっているテーマの一つなので、いつか掘り下げてみたい。

 

上の動画で紹介しきれなかったが、ポツダムの情報センターの壁はモザイク画だけでなく、小さなタイルが並べられている壁もある。タイルの模様が銀河っぽい?

気になることを調べるって、本当に楽しいな。次は何を調べよう?

 

 

 

夫のライプツィヒ日帰り出張に便乗して、またライプツィヒへ行って来た。前回のライプツィヒ訪問では学校博物館でナチスの時代や旧東ドイツの学校教育について知り、とても興味深かった。私がドイツに来たのはベルリンの壁崩壊後だし、旧東ドイツに住むようになったのも10年ちょっと前からなので、旧東ドイツ(DDR)を実際に体験してはいない。しかし、旧西ドイツで生まれた私の夫の両親は西ドイツへ逃げた東出身者で、ときどき会話の中にDDRの話が出ることがある。私自身もごく短期間ではあったが、壁崩壊からまもない頃に東側でホームステイをした経験があり、DDRとはどんなところであったのか、気になってしかたがない。

これまで、ベルリンやその他の町のいろいろなミュージアムでDDR関連の展示を見て少しづつその姿を掴みつつあるのだが、ミュージアムごとにテーマの絞り方が違うので、全体的な戦後の歴史の流れをきちんと把握しているわけではない。そこで、今回はライプツィヒ現代博物館(Zeitgeschichtliches Forum Leipzig)へ行った。

 

町の中心部にあるので、アクセスがとても楽。

この博物館は、かつて西ドイツ首都だったボンに1994年に開館した歴史博物館、Haus der Geschichteの姉妹博物館の一つ。嬉しいことに入場無料だ。

展示フロアは2階が常設展示スペースで、1945年以降の旧東ドイツの歴史について展示している。年代順展示ではなくテーマ別展示でフロアをテーマごとにパーティションで仕切ってあるので広いのか狭いのかよくわからない。展示の仕方としてはややわかりづらい気がしたが、内容はとても興味深かった。

戦後のドイツ人追放により難民となってドイツ本国へ強制移住させられたドイツ人の数。現在、シリアなど紛争地域からの難民の受け入れを巡ってドイツの政策が国内外で激しく議論されているが、ドイツは他民族を難民として受け入れて来ただけでなく、同胞である難民を受け入れ、社会に統合して来た過去がある。戦後、東欧諸国からの民族ドイツ人を受け入れ、冷戦時代には西ドイツは東ドイツからの避難民を受け入れた。同胞を受け入れることと他民族を受け入れることは同じではないが、流入者の社会への統合という課題に常に向き合って来た歴史があるのだなと考え入ってしまった。戦後のドイツ人の強制移住については、ドイツ在住のギュンターりつこさんがその時代を生きた方へのインタビューに基いた素晴らしいブログ「月は登りぬ」を執筆されている。本当に貴重な体験談で、更新を楽しみにしているブログ。

これは連合国軍政下で行われたドイツの非ナチ化において公務員などの要職につく人々とナチ党との関わりを審査するために使用したアンケート用紙。

戦後、東ドイツはソヴィエトを手本に計画経済への道を進むことになる。私はこの「まにあっくドイツ観光」を始めてから旧東ドイツのいろいろな町へ行くようになったが、あちこちの博物館を眺めていて気づいたことの一つは「DDR時代には町や地域ごとに産業を分担していた」ということだ。例えば、ドイツ光学産業の発祥地、ラーテノウの光学博物館で、「旧東ドイツ時代のメガネはすべてラーテノウで作られていた」という文面を目にして「えええ?100%?それでは独占ではないの?」と一瞬びっくりして、その後に「あっ、そうか。社会主義時代は計画経済だったんだった!」と思い出した。

東ドイツ計画経済のマップ。ドイツ再統一後には旧東ドイツの産業が衰退して多くの失業者を生んだが、設備の老朽化や技術の遅れだけが原因ではなく、産業が地域ごとに固定され、いわゆるリスク分散ができない状態だったことも一因だったのかな。

1953年に東ベルリンで起こり、東ドイツドイツ全国に広がった労働者による政府に対する抗議行動、Volksaufstand。多くの死者を出すことになったこの暴動はソ連軍が出動して鎮圧された。

DDR時代の生活の様子。このような家具は現在はレトロな家具として結構人気があったりする。窓の外にはPlattenbauと呼ばれる高層のアパート群が建ち並ぶ景色。こうした光景は東ドイツだけではなく旧社会主義国の都市部ではどこでも見られるもので、どことなく日本の工業団地に似ていないこともない。最初にPlattenbauに住む夫の親戚を訪ねたとき、子供の頃、従兄弟が住んでいた社宅に遊びに行ったときの記憶がフラッシュバックした。西育ちの夫は「典型的な社会主義建築だよ」と言ったが、私はなんとなく懐かしさを感じたものだ。

ドイツ社会主義統一党(SED)の会議室。

政治犯輸送車。

写真は撮らなかったが、70年代にライプツィヒを中心に高まった平和・環境保護運動、そしてベルリンの壁崩壊を導くことになった反体制運動についてにも大きな重点が置かれていた。ライプツィヒは戦後の東ドイツの歴史において大きな役割を果たした町だ。ここにHaus der Geschichteの分館が置かれているのも頷ける。

「オスタルギーグッズ」。オスタルギーというのは郷愁を意味するドイツ語、ノスタルギーと東を意味するオストを組み合わせた造語だ。東ドイツの人々は日本人にはなかなか想像のできないような体制の下で長い年月を過ごし、そして自らの行動によって体制を打ち破って現在があるわけだが、今となってはDDRの時代をちょっと懐かしく思うという人も多い。もちろん、当時の社会体制を肯定しているわけではないはずだが、辛かった時代もDDRに生きた人たちにとっては大切な人生の一部であり、アイデンティティを形作る要素であることには変わりがないのだろう。

3階の特別展示フロアでは東ドイツのコミックに関する展示をやっていて、これも面白かった。

DDRのコミック、Mosaik。東ドイツでは出版物に対し厳しい検閲が行われていたが、このコミックシリーズだけは正真正銘面白い読み物だと子供達は夢中になった。1955年に初登場してから20年の間に223巻まで出版されるという人気ぶりだったという。

3人の小人Dig とDagと Digedagが繰り広げる冒険旅行は東ドイツ市民が行くことができなかった国々への想像をかき立て、夢を広げてくれた。

アメリカシリーズ、アラビアシリーズ、テクノロジーシリーズなど数多くのシリーズがあり、面白いだけではなく、なかなか勉強にもなる内容らしい。このコミックは現在も東西問わず根強いファンがいる。

しかし、子供達が漫画に夢中になることを好ましく思わない大人がいるのはどこでも同じなようで、旧西ドイツでも旧東ドイツでも「子ども達を漫画の悪影響から守ろう」運動が繰り広げられた時期があったとのこと。漫画のような低俗なものを読むとバカになる、不良になるとコミックを燃やしたり、コミックを持って来たら良い本と交換してあげますというキャンペーンをやったりしていたそうだ。

 

展示のごく一部しか紹介できなかったが、ドイツの戦後史、旧東ドイツの歴史の概要を知るのに良い博物館だと思う。個々のテーマについて詳しく知りたい場合には、それぞれのテーマについてもっと掘り下げて展示しているミュージアムがたくさんあるので補うと良いだろう。

この博物館は残念ながら1/29からリニューアルのため休館になるので、ギリギリ間に合って良かった。ボンにある現代史博物館の本家、Haus der Geschiteには20年以上前に一度行ったきりだが、また行きたくなった。

 

 

 

 

久しぶりにライプツィヒへ行って来た。ライプツィヒ旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二番目の大都市で、見所がとても多い。これまで何度か訪れているが、まだほとんど知らない状態だ。今回は一日だけの滞在だったので、2つのスポットに絞って観光した。最初に見たのはライプツィヒ学校博物館( Schulmuseum – Werkstatt für Schulgeschihcte Leipzig)である。

学校博物館というのはドイツ各地にあり、それぞれその町または地域の学校の歴史を紹介している。昔の筆記用具や教材など、日本のものとは違うのが興味深い。その中でもライプツィヒの学校博物館は特徴ある博物館だ。ライプツィヒは20世紀初頭からオルタナティブ教育運動の中心地の一つだった。ライプツィヒでは1920年に体罰が禁止され、自然の中で学ぶ共学の私立校「森の学校」が創立され、発展するなど多くの画期的な試みが生み出された町なのだ。しかし、その後ライプツィヒはナチスと旧東ドイツ(DDR)という二つの独裁政治を続けて経験し、学校教育もそれらのイデオロギーの影響を大きく受けることになった。

 

ライプツィヒ学校博物館の常設展示は1933年までのライプツィヒの学校の歴史と、1933〜1989年までの歴史の二つのフロアに分かれている。

 

昔の理科教育に関する展示。

 

歴史を感じる古い実験器具。他にも昔の算数の教材や筆記道具など古い学校用具がいろいろ展示されていて興味深い。見るだけでなく、課外授業として小学校の生徒たちが昔の学校を体験できるワークショップなども行なっている。

学校用プラネタリウム。

 

前半の展示も面白かったが、後半の1933年以降の展示はとても考えさせられるものだった。

ナチスの時代の教室風景。ナチスが政権を取ると、せっかく廃止したばかりの体罰が教育現場に再び導入された。

算数の教科書にはキャンプファイヤーを囲むヒトラーユーゲントの少年たちが描かれている。

ナチス以前、ライプツィヒにはボーイスカウトなど多くの青少年組織が存在したが、ナチスはヒトラーユーゲント以外の全てを禁じた。反ナチスのグループを結成し活動する若者もいたが、彼らは弾圧され、投獄や更生施設への収容など、処罰の対象となった。上の写真にある電話機の受話器を耳に当てると、ヒトラーがヒトラーユーゲントの少年少女たちに向かって行った演説やヒトラーユーゲントに属していた子どもたちのインタビューを聞くことができる。

 

 

ナチスによる洗脳の時代がようやく終わったと思うと、ライプツィヒを含む東ドイツでは、今度はSED(ドイツ社会主義統一党)による洗脳の時代が始まる。

自由ドイツ青年団(FDJ)を創設したエーリッヒ・ホーネッカーの肖像画が飾られたDDR時代の教室風景。自由ドイツ青年団は社会主義の理想の滋養を目的に14歳から25歳の少年少女を対象とした組織だったが、後に14歳未満の子どもに対しても「ピオニーレ(Pioniere)」(Thälmanpioniere 10〜14歳 Jungpioniere 6〜10歳)と名付けられた組織が設けられる。ピオニーレに屬する子どもたちはユニフォームとして白いシャツの首元に「ピオニーレ・トゥーフ」というスカーフを巻き、青いズボンやスカートを履いた。

この時代の算数の教科書にはピオニーレのユニフォームを来た子どもが描かれている。ピオニーレへの参加は任意だったが、学校のクラスが実質的にピオニーレの単位と同じだったため、組織に参加しない子どもは疎外感を味わうことになり、その後の教育機会において様々な不利を被った。

 

戦後、西ドイツ同様に東ドイツにも他の社会主義国からの出稼ぎ労働者など少なくない数の外国人が生活していた。西ドイツでは戦後、教育の場において異文化理解に力が注がれたが、東ドイツでは特にテーマとなることはなかったそうだ。旧東ドイツにおいては人種や国籍の違いよりも、自由ドイツ青年団に参加しないことやキリスト教を信じていることなどイデオロギーに賛同しないことが異質とみなされた。壁崩壊直前の1989年には全体の88%が組織に参加していた。

 

どの国においても基礎教育は全ての子どもに必要なものだが、教育はしばしば特定のイデオロギーを子どもに植え付けるための手段となる。自由に意見を述べることができなかったり、周囲と違っていることを非難される環境は教育が本来持つはずの意義を失わせる。

展示パネルの一つに描かれていた次の文面が印象に残った。
子ども時代、青年時代に権威的な集団教育を受け、個人的な発展の機会を十分に与えられなかった者は、自信を確立することができない。社会性を育む時期に自らのパーソナリティを自由に発展させる機会が十分になかった子どもは、異質な人間を脅威とみなしがちになる。社会の問題のスケープゴートにされ続けた者は、自らその行動パターンに陥りがちである

 

 

独裁政治と人権について学ぶためのメモリアル 〜 エアフルトのGedenk – und Bildungstätte Andreasstraße

 

前回の記事に書いたように、エアフルトではシナゴーグを訪れた。その他、エアフルトには大聖堂や多くの美術館がある。旧市街に残る中世の街並みも魅力的である。しかし、この町にはおそらく観光客にはそれほど知られていないと思われるが見学するに値するスポットがいくつもある。その一つが、Gedenk- und Bildungsstätte Andreasstraße(アンドレアス通り記念・学習館)である。

 

 

これは、旧東ドイツ(DDR)の秘密警察シュタージ(Stasi)が反体制分子の取り調べのために使っていた建物だ。ここにはDDR時代全体で総計5000人が収容されていたという。現在はそしてドイツ社会主義統一党(SED)により抑圧され、人権を剥奪された人々について知り、民主主義について学ぶための学習センター兼メモリアルとなっている。

 

旧東ドイツにはかつてのシュタージの拘置所や刑務所をミュージアムにした場所が多くあり、これはその一つに過ぎない。私はこれまでに他の類似施設も見学して来たのだが、このエアフルトのものは青少年への啓蒙に主眼を置いているようで、とてもわかりやすく、よくできていると感じた。

 

入り口部分には、DDRの独裁政治を機能させたドイツ社会主義統一党を頂点とする国民監視網がまるでクモのような形で天井から左右の壁面にかけて描かれている。

 

 

捕らえられた反体制分子が収容されていた独房棟。

 

 

大部屋(?)もあったようだ。

 

展示室。DDR時代に自由を奪われていた人々の生活がどんなものであったのかが、マンガで壁に示されている。

 

これは子どもにもわかりやすい!

 

壁のマンガを読んでいたら、社会見学の高校生グループが入って来て、ガイドさんの説明を聞き始めた。ドイツの学校教育は政治・歴史教育に力を入れており、ナチスやDDR時代の負の歴史を教科書の上だけでなく、それが実際に起きていた現場を訪れて学ぶ機会を多く取り入れているのだ。(たまたま手前に高校生カップルが大きく写ってしまったが、特に意味はない)

 

壁の崩壊からすでに30年近くが経ち、今の高校生には社会主義とはどんなものだったのか、想像しにくくなっているに違いない。私は自分は社会主義の国で生活したことはないものの、ベルリンの壁崩壊は今でも自分の中での歴史的ターニングポイントになっている。しかし、日本人の若い人とそんな話をすると、「へえ、そうなんですね」と意外そうな反応が返って来ることが多い。時間とともにデフォルトの認識は変わるのだなと当たり前のことを感じるが、歴史は繰り返されるということを考えれば、負の過去には繰り返し向き合う必要があるのだろう。

 

抑圧の時代の末に東ドイツ市民が起こした「静かな革命」と民主主義の獲得についても展示されている。

 

壁には学習センターを訪れた若者達のコメントがびっしり貼り付けてある。いくつか拾い読みをしてみた。

「マジでクソな国だったんだな」

「DDRに戻りたいなんて言っているやつらは、みんなここを見に来いよ!」

そんな若者らしい言葉で綴られた感想が多かった。

 

この施設では各種ガイドツアーの他、マンガワークショップも行っている。社会的メッセージの伝達手段としてマンガの手法を学ぶというのも良いかもしれない。

この週末もマニアックな観光をしようと張り切っていたのだが、あいにく雨である。目星をつけておいた観光スポットは屋外だったので、今回は行くのを諦めた。でも、どこかには行きたい!雨に打たれない場所で面白そうなところはないかと調べたところ、ブランデンブルク市になかなか面白そうなミュージアム、Industriemuseum Brandenburg(ブランデンブルグ産業博物館)があるとわかった。ブランデンブルク市は当然ながらブランデンブルク州にあり、ベルリンからブランデンブルク中央駅までは電車で46〜55分である。産業博物館は町の中心部からはやや外れた場所にある。

この博物館は、元製鋼所だ。先日訪れたプレサの火力発電所ミュージアムもそうなのだが、旧東ドイツには閉鎖された発電所や工場がミュージアムとして公開されているところがとても多い。それは、ドイツ統一後、旧東ドイツの産業が急激に衰退してしまったという喜ばしくない事実に起因するのだが、結果として現在、いろいろな興味深いものが見学できるので、観光客にとっては魅力的だ。

着いてみると、巨大な建物でびっくり。1912年に建設されたWeber-Walzwerkという製鋼所のあった場所だそうだが、第二次世界大戦で破壊されたので、この建物自体は1950年、旧東ドイツ(DDR)時代に再建されたもの。

このミュージアムの目玉は、ジーメンス・マルタン平炉(Siemens-Martin Ofen)と呼ばれる溶鉱炉である。

この炉の構造は、1856年にジーメンス兄弟が発明した。この構造の炉を使った製鋼法はフランスのマルタン親子により確立されたことから、ジーメンス・マルタン法と呼ばれるそうだ。と言われても、何がどうすごいのかよくわからないが、Wikipediaで調べてみたところ、このように書いてある。

平炉(へいろ、Open Hearth furnace, OH)とは、蓄熱室を有する反射炉の一種の平型炉で、主に精錬に用いられる。蓄熱炉とも呼ばれるが、蓄熱室を蓄熱炉と呼ぶこともあるため注意を要する。

原料としては銑鉄と鉄スクラップを用い、酸化剤として鉄鉱石を用いる。脱リンが容易であり、良質な鋼を得ることができたことから、長い間製鋼法の主流であったが、転炉電気炉の発展により、現在では東欧などで生産が見られるだけである。(Wikipedia: 平炉)

ミュージアムで見たショートフィルムの説明によると、1914年にはドイツにおける製鋼業の40%はこの平炉を使用していたという。その後、より近代的な方法が発明され、1980年以降は完全に旧式となり利益を生み出すものではなくなったが、旧東ドイツでは1993年までこの方法が取られていた。従って、この平炉は欧州で最も最近まで使われていた平炉の一つで、記念物に指定されている。原料は主にスクラップ。第一次世界大戦中、施設規模がどんどん拡大された。1920年、兵器スクラップを炉にくべたことが原因で、爆発事故が起きているが、ナチスの時代にも軍需によりさらなる拡充が進められた。

ミュージアムの中はこんな感じ。スケールが大きく、かなり見応えがある。(たくさん撮った写真の中から適当にセレクトしたので、順不同)

ヘルメット姿は小学生の男の子達

鉄板を切るカッター

第二次世界大戦中、ここでは外国人や捕虜、ユダヤ人など多くの人が過酷な条件の元、強制労働に従事させられていた。戦後、戦争賠償工場としてロシアの手に渡ったが、1949年に東ドイツ政府により再建された。当初の東ドイツの労働条件も酷かったらしく、1953年には東ベルリンを中心に労働者による大暴動が起こり、この工場の労働者の中からも犠牲者が出たそうである。

入館料6ユーロで大満足!(オーディオガイドは別途2ユーロ) 雨の日にも楽しめるベルリン近郊のおススメ観光スポットだ。

 

最寄の町、ポツダムからベルリンへ出るときにはいつも、都市間を結ぶRegionalbahnという電車を利用する。この電車はブランデンブルク市が始発で、フランクフルト(オーデル)が終点なのだが、ときどき終点がEisenhüttenstadt(アイゼンヒュッテンシュタット)となっていることがある。

私は、このアイゼンヒュッテンシュタットという町が以前から気になっていた。アイゼンヒュッテンシュタット。名前の響きに惹かれるものがある。どんな町なのだろうか。

 

しかし、誰かがアイゼンヒュッテンシュタットについて話しているのを聞いたことがない。誰も話題にしていないが、ベルリン行きの電車にそのまま乗っていれば行き着く町。どうしても気になるので、調べてみた。すると、この町は実は特別な町であることがわかった。しかも、誰も話題にしていないどころか、アイゼンヒュッテンシュタットを大いに話題にしている人がいるのである。それは、トム・ハンクスである。

 

アイゼンヒュッテンシュタットというのは、第二次世界大戦後、旧東ドイツ(DDR)で誕生した初の社会主義モデルシティであった。社会主義の理想の元に誕生した計画都市である。DDRの工業を支える拠点として、ここに新たに大規模製鉄所、Eisenhüttenkombinat J.W. Stalin(スターリン製鉄コンビナート)が建設され、その労働者25000人が生活する町として作られた。ロシアのマグニトゴルスクがモデルとなったという。単なるベッドタウンではなく、政治的な機能が重視され、人々が社会主義の実現のために「活動」することを目的とした空間作りがなされた。この町は当初、スターリンシュタット(スターリンの町)と名付けられたが、後に製鉄(Eisen)の町だからということでEisenhüttenstadtに改名されたそうだ。

 

このアイゼンヒュッテンシュタットを、俳優のトム・ハンクスが訪れたらしい。しかも、ハンクスはトークショーでアイゼンヒュッテンシュタットについて、熱く語っているではないか!

 

 

これは、行かなくては!!

 

ということで、アイゼンヒュッテンシュタットへ行って来た。この町は旧東ドイツの中でも特に東にある。

 

 

 

旧東ドイツの町というのは、面白みのないプレハブ団地が並び、それが老朽化してパッとしない景観になっているところが少なくない。社会主義時代の計画都市だというアイゼンヒュッテンシュタットは、その最もたるものなのではないかと想像していたのだが、実際に行ってみると、イメージとは違っていた。

 

まず、メインストリートであるリンデンアレーにあるツーリストインフォメーションで町の地図をもらう。

 

 

町の中心部は4つのWK(Wohnkomplex)という居住区に分かれており、観光案内所を出発点に徒歩で回ることができる。さっそく、WK Iから歩いてみた。

 

シンプルな四角いアパートが並んでいる。

 

記念広場のモニュメント。ここはかつて「ドイツ・ソヴィエト友好広場」と呼ばれていたそうだ。

 

広場をぐるりとアパートが囲んでいる。この建物は同じ旧社会主義国ポーランドのワルシャワで見たアパートの造りとそっくりだ。

 

WK IIに入ると、建物の雰囲気が変わった。

 

 

 

この居住区では建築にクラシックな要素が取り入れられ、なかなかお洒落である。

 

中庭はどこも、とても広々としている。

 

かつて「Aktivist」という大食堂だった建物。すごいネーミングだなあ。現在は左側の一部のみがレストランになっている。

 

WK IIIへ進もう。

 

この居住区では、出窓など「ドイツらしさ」が取り入れられ、ややロマンチックな雰囲気。

 

 

WK IVは外装のリノベーションが済んでいないため、散策ルートに含まれていなかった。メインストリートに戻る。

 

 

メインストリートはいかにもDDR!である。ベルリンの壁崩壊直後に訪れた旧東ドイツの雰囲気がそのまま残っている感じで、妙に懐かしい。

 

 

 

 

 

いや〜、なんか、いい感じだね。

 

町の作りを見て歩くだけでもかなり面白いのだが、この町には大変興味深いミュージアムがある。

 

Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR (DDR日常文化資料館)

 

保育園の建物を改装したミュージアムで、DDR時代の東ドイツ市民の生活について知ることができる。同じようなミュージアムはベルリンにいくつもあり、どれも興味深いが、ここもかなりオススメである。中は写真撮影は禁止なので、展示の内容を紹介できないのが残念。

 

このようにアイゼンヒュッテンシュタットは特徴ある町で、歴史的遺産として訪れる価値がある。日本人にはおそらく全くといっていいほど、そしてドイツ人の間ですら知名度が高くないが、トム・ハンクスに「発掘」され、Iron Hut City(Eisenhüttenstadtの直訳)として米国で紹介されたのをきっかけに、観光地として売り出そうとしたようだが、いまひとつ成功していないようだ。

 

ポーランドとの国境の町、フランクフルト(オーデル)市からわずか25kmなので、フランクフルトを訪れる人には是非、足を延ばして欲しい。