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久しぶりに新しい観光マップを作成した。ここのところ、住文化をテーマにした博物館をいくつか紹介して来たので、ドイツ全国の住文化関連の観光スポットを集めてみた。これまでに作成した観光マップ同様、一般公開しているので、ドイツの住文化に関心のある方はぜひ利用してね。

ドイツ住文化観光スポットマップ

今回のマップのカテゴリーは、「住文化博物館」「野外博物館」「労働者コロニー」「田園都市」「モダニズム集合住宅」「ナチ時代の住宅地」の6つ。博物館だけでなく、集合住宅もドイツの住文化を知る上で欠かせない。住文化は建築と密接に結びついているけれど、建築関連のスポットとのどこまでをマップ化の対象にするかの線引きがなかなか難しかった。住文化観光マップなので、「人々の暮らしの場」としての建物であることを基準に、一般住居とその集落に対象を絞ることにした。したがって、お城の博物館などは対象外です。

最初のカテゴリー「住文化博物館」には実際に住居として使われていた建物を利用した博物館などをまとめた。たとえば、以下のようなタイプの博物館ね。

博物館によって展示する住文化の時代や社会層が異なる。また、地域によっても住文化に違いがある。マップに登録した博物館の他、各地の郷土博物館もその土地の住文化を知るにはうってつけだ。ただ、郷土博物館は数が多すぎてとても網羅できないので、マップにはその一例のみ含めた。ほとんどの町に郷土博物館があるので、行く先々で訪れてみるとその土地の伝統的な住・生活文化が把握できる。その地方で豊富に採れる建材を使った建物や民族衣装など特色あるものが見られるので、見比べると楽しい。

個別の博物館だけでなく、集落ごとオープンエアで展示する野外博物館もたくさんある。野外博物館にはもともとある集落をそのままミュージアム化したものと、地方の歴史的建造物を一箇所に集めたテーマパーク的なものがあるが、どちらも面白い。テーマパーク的な博物館には各種体験コーナーがあったり、年間を通じてイベントも催しているので子ども連れで行くのも楽しいと思う。古代ローマやケルトの住居跡を利用したテーマパークもたくさんあるけれど、そこまで時代を遡ると考古学の範疇に入るので、今回のマップでは中世後期以降のものに限定した。考古学観光スポットマップは別に作成してあるので、合わせてどうぞ。私が訪れてとても気に入ったヴェントラントの野外博物館を以下に紹介しよう。

次のカテゴリーは「労働者コロニー(ArbeitersiedlungまたはWerkssiedlung)」。ドイツでは19世紀後半から企業が労働者用の住宅を建設するようになった。産業革命以降、農村から多くの人が労働者として都市に流入して都市の人口が急激に膨れ上がり、深刻な住宅難を引き起こした。労働者の多くは賃貸バラック(Mietskaserne)と呼ばれるじめじめした不衛生なアパートに住み、病気が蔓延していた。大規模企業は工場の近くに住宅を建設し、社員に健康的で文化的な生活環境を提供するようになったのだ。いわゆる社宅である。エッセンの重工業企業、クルップ社が建設した労働者コロニー群は特に有名だ。

ドイツの建物は耐久性が高いので、この時代に作られた労働者コロニーの多くは補修や改築を経て現在も住宅として使われている。いろんなスタイルの社宅があるので、外から見学すると面白い。でも、人が住んでいるので、建物にあまり接近したり内部を覗き込んだりするのはNG。全国にかなりの数の労働者コロニーがあるので、歴史的に重要で文化財として保護されていているものをピックアップした。

ドイツには英国の社会改革者エベネザー・ハワードが提唱した田園都市のコンセプトに基づいて建設された住宅地も多くある。ドレスデン近郊のドイツ初の田園都市ヘレラウが有名だが、クルップ家も田園都市型の労働者住宅を建設している。

次は「モダニズム集合住宅」。ワイマール時代にはバウハウスなどモダニズムの建築家が機能的で合理的なスタイルの集合住宅を建設した。モダニズムの集合住宅は日本では「ジードルンク(Siedlung)」と紹介されることが多い。ベルリンのモダニズムの集合住宅群はUNESCO世界遺産に登録されている。ベルリン以外ではフランクフルトやデッサウが有名だが、ザクセン州ニースキーにこんな木造モダニズムのジードルンクを見つけて、とても気に入った。

最後は「ナチの時代に建設された住宅」。この時代にも住宅は建設されているけれど、住文化の文脈で注目されることは少ない。「血と土(Blut und Boden)」というナチの民族主義的なイデオロギーのもとに建設された住宅地をいくつか見つけたので登録した。

他にもたくさん観光マップを作っているので、カテゴリー「マップ」からアクセスしてみてください。

先日、1900年前後の裕福な市民の生活文化を知ることができる博物館、ハイン邸を紹介した。(記事はこちら

同じベルリン北部のプレンツラウアーベルク地区ドュンカー通り(Dynckerstraße)にも類似の住宅博物館がある。ほぼ同じ時代のものだが、ハイン邸との違いはハイン邸が資産家フリッツ・ハイン氏が自身と家族の住居として建てさせたものであるのに対し、ドュンカー通りの建物は賃貸アパートであったという点だ。どのように違うのだろうか。見に行ってみよう。

 

 

 

ミュージアムのある建物の入り口

プレンツラウアーベルク地区は現在はお洒落なカフェやショップが多く、ベルリンの中でも人気の高いエリアだが、1900年前後の状況は全く違っていた。急激に産業が発達していたベルリンへ周辺の地方から多くの労働者が流入し、大変な住宅難を引き起こしていた。1850年にはベルリンの人口は40万人ほどだったが、それが1900年頃には200万人弱まで膨れ上がっていたというのだから凄まじい。ドュンカー通り77番地のこの建物は1895年に建築大工マイスター、ハインリッヒ・ブルンツェルが賃貸用に建てたアパートで、通りに面した棟(Vorderhaus)と奥の棟(Hinterhaus)とがいわゆる「ベルリンの間(Berliner Zimmer)」で繋がっている。(ベルリンの間についてはこちらの記事を参照)そのうち、通りに面した棟の一部がミュージアムとして一般公開されている。通りに面した棟の方が家賃が高く、労働者の中でも比較的経済的にゆとりのある人たちが住んでいたそうだ。

 

通りに面したアパートは3部屋の作りで、入り口を入ってすぐの部屋はグーテ・シュトゥーべ(Gute Stube)と呼ばれるとっておきの部屋である。内装は資本家階級のスタイルを真似ているが、ずっと質素である。部屋の角に置かれたタイルストーブもとてもシンプルな造りだ。グーテ・シュトゥーべはクリスマスやイースター、来客時など特別なときにしか使わない部屋だから、このストーブにも普段は火を入れない。暖房費がばかにならないという理由もあった。通常はキッチンのストーブが暖房がわりだった。

「ストーブのタイルはフェルテンのものですか?」とミュージアムの人に聞いたら、「あら、よく知っていますね。今、説明しようと思ったところ」という返事が返って来た。そう、ベルリン近郊にはタイルやタイルストーブの生産で有名だったフェルテンという町がある。タイルストーブ生産は戦後、衰退してしまったが、フェルテンにはストーブ博物館があり、数多くの逸品が鑑賞できる素晴らしい博物館なのだ。以前、記事にしたので、興味があれば読んでみてください。

タイルとストーブ生産で栄えた町、VELTENのストーブ・陶器博物館

 

25kmほど離れたフェルテンからベルリンへ、タイルは馬車で運ばれた。輸送に鉄道が使われるようになったのは1893年以降のことだ。

 

アパートの賃貸人が何度も入れ替わったので、壁が重ね塗り直され、天井縁の細かい装飾も半ば埋まってしまっているが、画像の四角い部分のみオリジナルが復元されている。当時は内装に暗めの色を使うのが流行だったそうだ。

 

グーテ・シュトゥーべの他は寝室と台所である。当時の賃貸アパートの家賃相場は年間400〜800マルクだったとのこと。今だといくらくらいだろうか。寝室には家具やリネン類が展示されている。まだゴム紐のなかった時代だから、ズボンや下着類は紐で締めるスタイル。寝るときには男性も女性もナハトヘムト(Nachthemd)と呼ばれるネグリジェタイプの寝間着を着ていた。展示されているのは古いリネン類なのに、黄ばみがなく真っ白なことに感心してしまう。

台所

暖房器具の役割も果たした調理ストーブ。鍋の底は丸くなっていて、ストーブ台のレンジにはめ込むように置く。レンジは鍋底の大きさに応じてリングを取り外して調整できるようになっている。手前の丸い蓋つきの道具はワッフルメーカー。アイロンは熱した鉄の塊を中に入れて熱くする。昔のものはなんでも重いよね。

冷蔵庫。上の蓋を開けて氷の塊を入れ、扉の中の食品を冷やす

この頃建設されたベルリンのアパートでは窓の下にこのような奥行きの浅い棚を作ることが多かった。壁際の窓のすぐ下だから涼しくて食品の保管に適していただろう。

労働者の住まいにはバスタブはなく、このようなたらいに湯を張り、家族順番に入るのが普通だった。頻繁ではなく、せいぜい週に一度、大抵は土曜日が入浴日だった。

トイレ。なぜか便器の上の壁にテレビが設置されている。当時のベルリンの水事情についての動画が見られるというので見せてもらうことにした。細長い空間の床にマットが置いてあって、「どうぞ座ってご覧になってください」と言われたので、笑ってしまった。マットに座って、便器を前に動画を見るというのも何だかなあという感じであるが、興味深い内容だった。19世紀後半まで人々は井戸水をポンプで汲み上げて使っており、汚水は垂れ流しだった。そのため不衛生で、コレラやチフスなどの病気が蔓延していたが、1877年、パンコウ地区にベルリン初の給水塔が稼働を開始する。また、医学者ルードルフ・フィルヒョーが都市計画家ジェームズ・ホープレヒトとともにベルリンに近代的な上・下水道を整備したことで市民の水事情は劇的に改善した。ちょうど今、私は給水塔巡りをやっているところなので、タイムリーな話題だった。給水塔については、改めて記事化するつもり。

通りに面した家賃の高い方の棟にはこのように各戸にトイレがあったが、家賃の安い奥の棟では、住民は階ごとに廊下のトイレを共同で使っていた。2〜3部屋に家族だけでなく、わずかのお金と引き換えに赤の他人を寝泊まりさせることも珍しくなかった。自分でアパートを借りるお金のない人は、他人の借りたアパートの片隅で寝させてもらっていたというわけだ。でも、床の狭いスペースであっても得られればまだマシで、それすら見つけらず路上での生活を余儀なくされる人が大勢いた。この博物館に近いフレーベル通り(Fröbelstraße)には1886年、ホームレスの人々を夜間、収容するための公共施設「Palme」が作られた。一晩に平均2000人、最高で5000人もが利用したという。

これまで何回かにわたって19〜20世紀初めのベルリンの住文化をテーマとする博物館を訪れ、当時の生活の様子を興味深く見て来たが、実際には文化的な生活を送ることができたのは全体の一部で、多くの人は劣悪な住環境での生活を強いられていたのだなあ。そして、都市部のこのあまりにも大きい格差が近代住宅へと続くその後の新しい住宅建築のスタイルを生み出していったのだろう。この後の時代についても、少しづつ見ていきたい。

前回の記事ではベルリン、パンコウ地区のハイン邸(Museumwohnung Heynstraße 8)を紹介したが、案内員の方が「住文化に興味があるなら、シャルロッテ・フォン・マールスドルフの博物館へも行かれてはいかがですか。グリュンダーツァイトのインテリアコレクションが見られますよ」と助言下さった。グリュンダーツァイト(Gründerzeit)とは1871年のドイツ帝国の建国後、産業革命の広がりの中で多くの企業が創立された好景気の時代を指すが、建築においては歴史主義建築が流行した時代とほぼ同義であるらしい。歴史主義、それはつまり、バロックやロココなど過去の様式を新たな時代の文脈で復活させることを意味する。裕福な市民の邸宅ではネオ・バロック、ネオ・ロココなどの内装や家具が流行した。

ベルリンの東の外れ、ヘラースドルフ地区にあるグリュンダーツァイト博物館(Gründerzeitmuseum im Gutshaus Mahlsdorf)にはシャルロッテ・フォン・マールスドルフ(Charlotte von Mahlsdorf)という一人の女性(本名はLothar Berfeldeという男性)が収集したグリュンダーツァイトの家具や調度品が展示されており、そのコレクションは欧州で最大規模だという。

 

 

これがグリュンダーツァイト博物館。いつも外観の写真を撮り忘れるけど、今回は忘れず撮った!見学するにはガイドツアーに参加しなくてはならない。

大広間

ツアーの前半はシャルロッテについての話が主だった。子どもの頃からグリュンダーツァイトのインテリアを収集していたシャルロッテは1960年、両親が所有していたこの屋敷を博物館としてオープンした。ありのままに自分らしく生きることが難しかった時代に、男性に生まれ女性として生きたシャルロットのユニークな人生は”Ich bin meine eigene Frau(私は私自身の妻)”という劇となり世界各地で上演されている。シャルロッテはこの博物館を愛し、いつも雑巾を手にせっせと家具の埃を拭いていたそうだ。しかし、90年代の半ば、ガーデンパーティの最中に右翼集団の攻撃を受けるという出来事があり、シャルロッテはスェーデンへ移住した。その際にコレクションの一部も持って行ったが、2002年に本人が亡くなった後、再び博物館に戻って来た。

かなり大きな博物館で、展示室は全部で17室ある。それぞれの部屋は統一されたスタイルで家具や美術品が展示されている。美しいものばかりだが、高級なものと縁遠い私にはどうもとっかかりが掴めなくて「へえ〜」という感じである。でも、こうした美術品に対する審美眼を持つことができれば、それはすごく面白い世界なのかもしれない、、、と思いながら部屋から部屋を見て歩く。

寝室のベッドの下の便器。つい、こういう日用品の方に関心がいく
子ども用ミシンとアイロン。ちゃんと使える
1888年製のソファーベッド

いくつかの部屋を見たところで、ガイドさんが交代になった。すると、ツアーの重心がガラリと変わり、想像しなかった方向に展開していった。

グリュンダーツァイト博物館のコレクションにはオルゴールをはじめとする自動演奏楽器がたくさん含まれている。その1つ1つをガイドさんが実演してくれたのだ!これがもう、ワクワクするのなんのって。

ピアノ自動演奏装置、「ピアノラ」

ピアノの前にこの装置を取り付けると、ペダルを踏むだけでロール紙に穴を開けた楽譜が読み取られ、曲が自動演奏される。「ちょっと踏んでみます?」とガイドさんに言われ、挑戦してみた。しっかりと力を入れ、一定のリズムで踏まないとうまく演奏できないが、なかなか楽しい。

こちらも同じ仕組みだが、ロール紙はピアノ内部に内蔵されていて、ドアを閉めると外からは見えない。ピアノ椅子に座ってペダルを踏みながら、鍵盤の上で手を動かせばあたかも演奏者が弾いているように見せかけることができる。

キャビネットのようなこの家具の中は、、、

オーケストリオン。

展示されている楽器はこの他にもたくさんあり、かーなーり面白い。楽器の好きな人ならきっと楽しめるはず。

地下の展示室には19世紀後半の庶民の台所や女中部屋、酒場、そして娼婦の部屋まである。ベルリンの19世紀の社会文化を肌で感じることのできる素晴らしい博物館だ。ガイドさんの説明も非常に面白く、1時間半近くに及ぶツアーもあっという間だった。

前回の記事ではベルリン、ミッテ地区にあるクノーブラウホ邸を訪れたことを書いた。住文化繋がりで、今度はパンコウ地区にあるハイン邸を見に行ってみた。

ハイン邸というのは パンコウ地区博物館(Museum Pankow)の管理する建物の1つで、籐(ラタン)加工工場経営者であったフリッツ・ハイン(Johann Friedrich Heyn)が1893年に現在のハイン通り8番地に建てさせた住宅だ。1974年にミュージアムとして一般公開されている。その直前までハイン氏の娘二人が住んでいたため、建設当時の内装や家具の大部分がそのまま残っていて、1900年ごろのベルリンの裕福な市民の生活空間をほぼオリジナルの状態で見ることができるのだ。

 

 

戦後補修されたオレンジ色の壁の建物(写真撮るの忘れた!)は特にどうという感じでもないのだが、入り口のドアを開けると、おおっ!という感じ。ミュージアムは日本でいう2階部分で拝観は無料。係りの方が「ご案内しましょうか?」と仰ってくださったので、案内して頂くことにした。

Herrenzimmerと呼ばれる応接間

起業家フリッツ・ハインはこの住宅のすぐ側にかつて果樹園だった土地を購入して建設した工場で椅子の材料である籐(ラタン)を加工し、財を成した。住居のうち、このHerrenzimmer(ヘレンツィンマー、直訳すると「男性の間」)と呼ばれる応接間は主にビジネス相手の男性客を迎え入れる部屋だったらしい。

まるでお城のような内装だけど、これでも市民の家なのか、、、。でも、当時の市民(Bürger)の定義は現在の市民とは違うからね。「資本家階級の暮らし」と置き換えてみるものの、わかるような、わからないような。

ハイン夫妻は子沢山であった。16人の子どもをもうけたが、3人は幼少期に亡くなった。ヘレンツィンマーの壁には6人の娘たちの肖像画が描かれている。見事な装飾が施された優雅な部屋だけれど、壁の色はくすんでいる。ガイドさんによると、このような文化財に指定された建物の内装を手入れするときには、表面を白いパンでこすって汚れを落とすそうだ。

サロン

普段は鍵をかけておき、特別な日だけに使ったサロン(gute Stubeとも呼ばれる)。家族や友人が集まって音楽を楽しんだり、文学や芸術について語り合ったりした部屋で、壁にはハイン夫妻の金婚式の際に撮影された親族の集合写真が飾ってある。

各部屋にあるストーブの立派なこと

こちらは「ベルリンの間(Berliner Zimmer)」と呼ばれる部屋。「ベルリンの間」というのは建築用語で、道路に面したメインの建物と横の別棟を繋ぐ連絡通路の役割を果たす空間を指す。敷地における建物の配置や設計によっていろいろなタイプのものがあるが、共通しているのは窓が1つしかないこと。だから、日当たりが良くない。

こうした「ベルリンの間」はベルリン市内のアルトバウと呼ばれる古い建物に多く見られるそうだが、1925年に新しい建築条例により禁じられたため、それ以降の建物にはない。ハイン家ではこの空間を食堂兼居間として使っていた。

床材はハイン邸が建設された当時、流行の最先端だったリノリウム。リノリウムは現在でもよく使われているけれど、このような花柄は珍しい。

バスルーム

バスルームは一見、古いアパートでは今でもありそうなつくりだけど、

このバスタブはハイン氏が特注したものだそう。この頃はまだタイル製のバスタブというものは一般的ではなく、台所のタイルで作らせたという。底部分には滑りにくいタイルを使い、ちゃんと排水の穴もある。階段までつけてあるのが素敵。

ハイン氏は家族の住居としてのこの建物の向かいに従業員用の住居も建設した。福利厚生のしっかりした優良企業という印象だが、第一次世界大戦後、ドイツが植民地を失ったことで籐の調達ができなくなり、ハイン氏の会社は倒産してしまった。

かつての工場の敷地は現在、バーや作業場として使われている。バーに入ってみたかったけど、間昼間だったので閉まっていた。残念。

壁にはハイン氏の肖像とかつての工場のイラスト

このハイン通りのミュージアムで「昔の住文化に興味がある」と話したら、ガイドさんが別の2つのミュージアムを奨めてくれたので、今度はそちらへも行ってみることにする。ドイツの住文化探索はまだ続く、、、、。

2020年ももう2月に突入し、いまさらな話題なのだが、毎年、12月にはクリスマス市に行くのを楽しみにしている。首都ベルリンとその周辺には多くのクリスマス市が立ち、それぞれに特色があって面白い。でも、少々飽きてきた感があったので、去年は Werbenという町まで足を延ばした。ベルリンから北西に約150km、エルベ川沿いにあるそのハンザ都市は人口1300人もいない小さな町だが、「ビーダーマイヤー風クリスマス」と名付けられたちょっと変わったクリスマス市を開いているのだ。

ビーダーマイヤー風クリスマス市とはなんぞや?

ビーダーマイヤーとは、ウィーン会議後の1815年から三月革命が起こった1848年までのエポックを指す。ナポレオン戦争で疲弊したドイツでは、市民は内向きになり、政治のような大きな物事よりも家庭を中心とした心地よい生活を重視するようになった。そのような価値観は「小市民的」と形容され、この時代に特徴的な服装や家具、生活道具などはビーダーマイヤー様式と呼ばれる。「ビーダーマイヤー 」という言葉は、1850年代にドイツの挿絵入り新聞に連載された風刺小説に登場するビーダーマイヤーという名の小学校教師が由来らしい。Werbenにはビーダーマイヤー時代の建物が多く残っていて、その町並みを活用したイベント「ビーダーマイヤー市場」が定期的に開催されている。クリスマス市もビーダーマイヤー風だということだが、どんな感じだろう?なかなかアクセスが大変な場所だけれど、がんばって行って来た。

 

 

人の顔がはっきり写らないように気をつけて写真を撮っているのであまりクリスマス市らしい画像ではないのだけれど、このような感じで町の人たちはビーダーマイヤー風の衣装を身に纏っていて、とても雰囲気のあるクリスマス市だった。Werbenではカフェやホテルの内装もビーダーマイヤー様式のところが多いらしい。とはいえ、無知な私は古い生活雑貨やインテリアを見ると「アンティーク」という大雑把に括ってしまい、具体的にどういうものをビーダーマイヤー様式と呼ぶのか、今ひとつうまく掴めなかった。

そこで思い出したのが、ベルリンのKnoblauch邸(Museum Knoblauchhaus)だ。

 

 

ベルリン・ミッテ地区にあるこの館は、1761年に建てられてからおよそ170年間に渡って富裕な商家Knoblauch家が住宅兼仕事場として使っていた。1989年からはミュージアムとして一般公開され、ビーダーマイヤー時代のベルリンの市民の暮らしを再現した展示を見ることができると聞いていた。ビーダーマイヤー様式とはどんな風なのか、ここならば把握できるかもしれない。

では、Knoblauch邸の内部を見てみよう。

ダイニングルーム

現在、食卓は置かれていないが、これはKnoblauch家の人々が食事を取っていた部屋。艶のある木製家具は直線的で、装飾は控えめ。なるほど、これがビーダーマイヤー様式というものだろうか。立派なダイニングルームにKnoblauch家の裕福さが見て取れるが、壁に貼ってある説明によると、この時代の食事は質素で、朝食は白いパンとスープだけ、昼食には肉料理を食べるが、夕食はパンとソーセージとスープというのが一般的だったそうだ。

リビングルーム

リビングルームの壁には一族の肖像画が並んでいる。商家として財を築き、ベルリンの上流社会の重要なメンバーであったKnoblauch家には時のスター建築家カール・フリードリッヒ・シンケルやベルリンにフンボルト大学を創立したヴィルヘルム・フォン・フンボルトをはじめとする著名人がしばしば訪れたようだ。

ザンメルタッセン

テーブルの上にはザンメルタッセン(Sammeltassen)と呼ばれるカップ&ソーサー。ビーダーマイヤー時代には市民の間でこのような一点もののカップ&ソーサーを収集するのが流行っていた。いつ頃まで続いた流行なのだろうか。私の義両親の家にも義祖母が集めていたザンメルタッセンがいくつか残っている。

アントレ。この部屋では窓に着目!

二重構造の窓はこの時代に特徴的なものらしい。間のスペースに花が飾ってある。

直線的ラインの置き時計
書斎。すごい机だなあ〜
寝室。シンプルでかっちりしたデザインのベッドとナイトテーブル

 

なんとな〜くわかって来た気がする、ビーダーマイヤー様式。

昔の人々の暮らしがどんな風であったかを知るのは面白い。でも、昔の暮らしといっても、どの時代のどういう社会層かによって生活様式は大きく異なるので、いろいろ見ながら少しづつ整理していこう。

十数年前からベルリン近郊、つまりドイツ東部に住んでいるが、東部には東ドイツ人民共和国(DDR)時代に建てられた建物が多くある。社会主義の理想に基づいて設計された建物、とりわけプラッテンバウ (Plattenbau ) と呼ばれる高層の集合住宅は旧西ドイツ側に住む人たちの間ではすこぶる評判が悪い。でも、私にとってはプラッテンバウには昭和の団地風景を思い出させるものがあり、独特の魅力を感じないでもないのである。

Architektur in der Deutschen Demokratischen Republik (ドイツ民主共和国における建築) ” という資料を見つけたので、手に取ってみた。

 

表紙はまさにプラッテンバウの画像

Volk und Wissen Verlag(人民と知識出版社)という学校用教材の出版社が1972年に発行した40ページの資料で、美術の副読本として使われていたようである。

この資料では、DDR時代に建てられた建築物だけでなく、それ以前の歴史的建築物の例として中世の街並みを色濃く残すクヴェドリンブルク(Quedlinburg)の教会や木組みの民家、旧東ドイツ各地の都市の市庁舎やマルクト広場、ドレスデンやポツダムの宮殿やベルリンの歴史的地区についてもかなりのページが割かれ、詳しく図解されている。

でも、そこの部分は別の機会にじっくり読むとして、今回集中したいのは27ページからの「ドイツ人民共和国における社会主義的な住宅建築および都市計画」の部分だ。この資料は現在の視点による客観的な資料ではなく、DDR時代の学校教材なので、当時の理想に基づいた記述がなされているという前提で読むことにしよう。

第二次世界大戦で瓦礫の山となった都市を復興するに当たり、社会主義国家となった東ドイツは社会主義的なコンセプトに基づいた都市開発に着手した。資本主義社会の産物である階級格差をなくし、労働者に人間らしい住環境を提供することが社会主義の理想の実現に不可欠であるとのモットーのもと、住宅の建設が特に重視された。この資料によると、「1949年から1975年までの間に190万戸のアパートが新築または改築され、500万人以上の国民の住環境が改善された」そうだ。西ドイツが引き合いに出され、「西ドイツでも低所得者向けの社会福祉住宅が建設されてはいるものの、家賃は最大で収入の50%にも及ぶのだから問題の解決にはなっていない。その点、東ドイツでは光熱費など含めても家賃が収入の8%を超えることはあり得ない」と誇らしげだ。

住宅の建設は当然、都市開発全体の中で行われたわけだが、既存の都市が社会主義の理想に基づいて再設計されただけでなく、産業都市としてアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)やホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の社会主義的ニュータウンなどが新設された。以下の過去記事でレポートした通り、アイゼンヒュッテンシュタットは「ザ・社会主義の町」という感じでとても興味深い。私のお気に入り東ドイツ都市ベスト3の一つ。

トム・ハンクスが絶賛する旧東ドイツの社会主義計画都市、アイゼンヒュッテンシュタット

これはホイエルスヴェルダの駅前大通りに並ぶ高層アパート群。なかなか壮観だ

資料に戻ろう。左上の写真はノイブランデンブルク市の中心部。ノイブランデンブルグは中世の市壁が残る古い小さな町だったが、DDR時代に大掛かりな開発によって拡大されたため、レンガ造りや木組みの古い建造物と社会主義的な建物がほどよくミックスされていてなかなかおもしろい町だ。下の写真はコットブス(Cottbus)中心部に作られたプラッテンバウ団地。

ノイブランデンブルクのマリエン教会は素晴らしいコンサートホールになっている

政治的・経済的・文化的中心地となった首都ベルリンの開発には当然のことながら、特別に力が入れられた。ソ連をモデルにして作られた大通りカール・マルクス・アレー(Karl Marx Allee)沿道のスターリン様式建築物を始め、東ベルリンには社会主義建築が密集している。ドイツ再統一から30年近く経った今は東ベルリンの街並みも随分変化したけれど、DDRの面影が完全に消えることはないだろう。

左上からベルリンのシュトラウスベルガープラッツ(Straußberger Platz)、アレキサンダープラッツ(Alexanderplatz)、共和国宮殿(Palast der Republik) 、国家評議会(Staatsrat)

東ドイツではベルリンだけでなく小規模の都市でも中心部の空間づくりが広々としているのが特徴的だと感じる。ちなみに、社会主義の本家ロシアの首都モスクワはもちろんのこと、他の旧社会主義諸国へ行くと首都のデザインがよく似ていて、お揃いの建物も見つかる。

ドレスデンのプラガー通り(左)とそのモデル(右上)、ハレの歩行者天国
裏表紙は共和国宮殿の階段横のモザイク画。
これも社会主義的な建築エレメント

今回紹介した資料はドイツ社会主義統一党(SED) による自画自賛的な出版物なので、基本的に良いことしか書いていないのだけれど、それでもモダンな高層住宅やその他の公共施設が建設された当時の東ドイツ社会の空気感をいくらか想像することができた。高層住宅のデザインやそこでの国民の暮らしについてもっと詳しく知りたいところだけれど、それにはまた別の資料を探すことにしよう。

 

前回、Wittenbergeへ行ったら1字違いのWittenbergへも行きたくなった。ザクセン=アンハルト州のWittenbergは宗教改革家マルティン・ルターが教鞭を執った大学があることで有名な町である。でも、今回私が目指したのは宗教とは関係のない博物館、Haus der Geschichte。1920年代から東西ドイツが再統一するまでの東ドイツの生活文化を展示した博物館だ。

旧市街に建つ博物館はDDR時代には保育園だったそうだ。

入り口

中に入ると、受付横の壁にはカラフルなDDRグッズが美的にディスプレイされている。常設展示はフロア2階分ある。階段を上がると、廊下に係員の男性がいて「質問があったら、遠慮なくなんでも聞いてくださいね〜」と言ってくれた。

展示は1920年代の住空間から始まっている。先日行ったカプート村の郷土博物館で見た展示と大体同時代の生活用具が配置されたダイニングキッチン。右手にシンクや髭剃りの道具などがあるので、キッチンが洗面所も兼ねているようだ。

壁の布巾に「Gutes Gericht Frohes Gesicht(美味しい料理は人を笑顔にする)」というフレーズが刺繍してある。この年代のリネン類には大抵このような標語のようなフレーズが刺繍がしてあるようなのだが、どうしてだろう。係員のSさんに聞いてみよう。

「こういうリネン類は主婦が手縫いしていました。主婦として心がけたいと思うことなどを刺繍していたんですよ」

この部屋は第二次世界大戦後、1946〜49年にかけて旧東プロイセン(現在はポーランド)を追われ移入したドイツ人難民たちの当時の生活の様子を再現している。馬車に載せられる分だけの身の回り品しか持たず、戦後の住宅難の中で新しい生活を始めなければならなかったため、キッチン、ダイニング、居間、寝室、子供部屋、生活の全てを一つの部屋の中で営むことが珍しくなかったのだろう。

1940年代のダイニングキッチン。テーブルの上には1945年の食糧配給量が書かれた紙が載っている。Sさんによると、配給量は十分でなく、家庭菜園で栽培されたジャガイモや野菜が闇市場で取引されていたという。ドイツでは戦前から都市部住民の間でもクラインガルテンと呼ばれる家庭菜園が普及していたのだ。

初期のAEG社製冷蔵庫

冷蔵庫の説明を始めたSさん、話が脱線して電気の直流と交流の違いや、世界で初めて電気椅子による死刑が執行された話にまで発展して行った。面白かったけれど、ここでは割愛しよう。

60年代の居間。この時代のレトロモダンな家具は機能的で飽きが来ないので今もわりと人気があるように思う。我が家にも夫が東ドイツに住んでいた祖母から譲り受けたDDR製キャビネット一式がある。

1970年代の居間。Sさん「DDR時代は結婚すると5000マルクの無利子ローンが組めたんですよ。で、子どもが生まれると一人につきそのうちの1000マルクが返済免除になりました。だから子どもをたくさん作ればその分、借金が少なくなるから早く家を建てられて得だったんだ。それで、子沢山でマイホームを持った男はHerr Bieber(ミスター・ビーバー)とからかわれてましたよ」。「ビーバー?どういう意味です?」「尻尾で家を建てたっていうのでね。ビーバーって器用に尻尾を使ってダムを作るでしょう。笑」。そういえば、ドイツ語の尻尾を表す言葉Schwanzは、俗語で男性器も意味する。なるほどね〜。

ビーバー氏の仕事部屋?
70年代のバスルーム。オレンジ色が大流行

1980年代の居間。テーブルの上にはKC/85 3と書かれたデバイス。私「あれは何ですか?」。Sさん「ゲーム機ですよ。任天堂のファミリーコンピューターのようなものですね。DDRでは人民公社ロボトロンがゲームを作っていました。ゲームはユーザーが自分でプログラミングするんです。コンピューター雑誌にいろんなゲームのコードが載っていて、その通りに打ち込んでカセットに保存してテレビ画面で遊んでました。だから同時にプログラミングの初歩も学べてよかったですよ」

ロボトロンの技術力はかなり高かったらしい。オフィスコンピューター1台は家2軒分に相当するほど高価だったが、有能な女性は産後、職場から機械を支給され、ホームオフィスで仕事を続ける場合もあったとのこと。しかしロボトロンも他の多くの産業同様、東西ドイツの再統一で競争力を失い、解体された。Sさんが語るコンピューターの話はとても興味深かったが、この部屋には他にも気になるものがある。それは女の子が手にしているもの、、、、。

あれは、、、、。Sさん「モンチッチです」。私「モンチッチ、確かにモンチッチですね。でも、モンチッチって、日本製ですよね?」「そうです。世界中で大流行しましたからね。DDRでも大人気でしたよ」「でも、DDRの人たちはどうやってモンチッチを手に入れたんです?」「インターショップでね」「インターショップ!インターショップにモンチッチ売ってたんですね」。インターショップというのは東ドイツ時代に西側製品を売っていた店で、西ドイツマルクや米ドルがなければ買い物ができなかった場所だ。なけなしの外貨でモンチッチを買っていた人たちがいたのかあ。

DDRの保育園風景。この建物は保育園として使われていたので、子ども用トイレなどがそのまま残っている。

女性の就業率が非常に高かったDDRでは子どもは早くから預けられるのが普通のことだった。手洗い場の壁には保護者の回想録が貼ってあ理、そのうちの1枚には「最初、公立保育園に息子を預けたけれど、社会主義のイデオロギーを吹き込まれるのが嫌でプロテスタントの幼稚園に転園させた」という内容が書かれている。

80年代のティーンエイジャーの部屋
DDRのナイトクラブ

ガイドツアーではないのに、私が展示を見る間、ほぼずっと説明をしてくれたSさん。Sさんのお話はしばしば脱線し、展示と直接関係ないこともたくさん教えてもらえてかなり興味深かった。帰り際にはSNSアカウントまで教えてもらったので、DDRの生活についてより深く知りたくなったらSさんにお話を伺おうかな。

今回は超地元のスポット、ブランデンブルク州カプート村の郷土博物館、Heimathaus Caputhを紹介することにしよう。

大抵の町や村には郷土博物館がある。様々な種類の博物館の中で郷土博物館は特に好きなものの一つだ。そもそも私の博物館を巡る旅は故郷の郷土博物館から始まったのだ。小学校4年生か5年生のときだったと思う。学校の社会見学で地元の郷土博物館を訪れた。その博物館を見たのはそのときが初めてだったのだが、白い洋館という珍しい建物にハッとしたのを覚えている。中に何があったのか、細かく覚えていないけれど、古い生活用具などが展示されていた。「なんか、、、おもしろい」。後日、自転車に乗って一人でもう一度その博物館へ行った。今、自分がいるこの場所で、かつて人は違う生活をしていた。想像すると不思議で興味深い。

現在私の住んでいるブランデンブルク州カプート村の郷土博物館は、週末と祝日のみ開館する小さな博物館だ。村の郷土史クラブの方々が運営している。

開館している日はこのように戸が開いていて、自由に入ることができる。先日、久しぶりに行ったらクラブの方達は裏庭に集まっていた。私が「中を見せてくださいね〜」と言うと、「OK 。リーザ、出番よ!」とリーダー格の女性が中庭に座っていた年配の女性に声をかける。この博物館のガイド役、リーザさんはさっと立ち上がった。現在80代と見られる年長者のリーザさんは村の暮らしの変化を自ら体験して来た人で、また、それを語り継ぐ事のできる貴重な存在なのである。さあ、リーザさんと一緒に博物館の中を見ていこう。

入り口付近のテーブルには古い通学カバンと国語の教科書、ノートというものがまだなかった頃に使われていた小さな黒板と黒板消しの海綿スポンジ。「この文字を見たことはある?ジュッターリン筆記体(Sütterlin)というものですよ。昔はね、学校でジュッターリンとラテン文字の両方を習ったの」。「ジュッターリン文字はいつから使わなくなったんですか」「1941年に禁止になりましたよ。今じゃ、読める人がほとんどいなくなったわね。古い書物には貴重な資料がたくさんあるのに、残念なことね」

リビングの窓辺

戸棚を開けて刺繍を施したリネンのクロス類を見せてもらう。縁リボンには「夏の風に吹かれて咲き、緑の河畔で漂白され、今はそっと戸棚に置かれたドイツ女性の誇り(のリネン)」と赤い文字で刺繍されている。

棚の上には金銀の縁取りと絵柄のコーヒーセット。夫婦が銀婚式を迎えると銀の縁取りの食器を、金婚式を迎えると金の縁取りの食器を記念にあつらえる習慣があったのだそうだ。「でも、使わずにこうして飾っておくだけ」とリーザさん。

「これはなんだかわかる?これはね、銀婚式に妻が被った冠。そしてあっちのは金婚式のものね」

「金婚式や銀婚式だけじゃないの。節目の結婚記念日にはそれぞれ冠を作って、その日が過ぎると額に入れて飾っておくのが習わしでしたよ。今ではすっかり廃れた風習だけれど」

うーむ。伝統文化に興味のない人が増えたというだけでなく、現代は離婚率が高くて銀婚式金婚式にたどり着くカップルがそもそも少ないよねえ。

部屋の奥には婚礼衣装や手入れの行き届いた子ども服が下がっている。写真には写っていないが左側にはグリーンのタイルオーブンがある。

「このブラウス、どう?可愛いでしょう?手で仕上げたものですよ。傷んでないから今でも着られるわね」

「この写真は私の従姉妹の結婚式の写真ですよ。このレースの帽子は式を挙げた後のパーティで従姉妹が被ったの。ほら、女性が結婚することを “unter die Haube kommen(被り物を被る)”と今でも言うでしょう?昔は既婚女性は髪を被り物で覆わなければならなかったの。それからこの湯たんぽ。コップを入れるところがついていて、飲み物を保温できるの。便利でしょ?」

リーザさんはベッド脇の洗顔や身だしなみ用具の中から鉄のハサミのようなものを取り上げた。「これは、髪をカールする道具。熱して髪を間に挟んで巻いていたんですよ」。ええーっ、ヘアアイロンなの?昔からこんな道具があったのか。「ふふふ。でも、温度調整ができないから、気をつけないと大変でしたよ。髪を焦がしちゃったりね」

リーザさんはご自身の小学校の通信簿や学級写真まで見せてくださった。この博物館に展示されているものの中にはリーザさんや彼女のご親族のものもある。

ドールハウスや手芸品の展示されたコーナー。

次はキッチンへ。

「このカップ、ここにFett(高脂肪)って書いてあるの、わかる?」

「反対側はMager(低脂肪)。さて、何のことでしょう?」「ミルク入れ?でも、高脂肪で低脂肪ってどういうことですか?」「それはね、ほらっ」

なーるほど。中で分かれているなんて、楽しいミルク入れ。小さい方にコンデンスミルクを入れていたのかな。

「じゃ、中はこのくらいにして庭へ出ましょうか」「ちょっと待って!この車輪付きのステッキのようなものは何ですか?」「買い物カートですよ。上のフックに買い物袋を引っ掛けて押して歩いたの」「へえ〜。初めて見た!」

前庭に張られたロープには婦人ものの下着がかかっている。「見てよ、このパンツ」。見ると、なんと股割れパンツである!「スカートの下にこういうパンツを履いていて、しゃがむとそのまま用が足せたの」

裏庭にはジャガイモなどを計っていた古い秤や農具などが置かれている。一角に小さな木のドアがあった。「開けてもいいですか?」「もちろん。そこは洗濯室だったところですよ」

こういうの、なんかワクワクするな〜。

「昔は洗濯は1日がかりの作業だったから、大変でしたよ」「どのくらいの頻度で洗ってたんですか」「1ヶ月に1回よ」「1ヶ月に1回!」「だって洗濯物を何時間もぐつぐつ煮ていましたからね。煮なきゃきれいにならないもの」

「昔は洗濯機どころか脱水機もなかったから、それはもう大変で」「洗濯機が普及したのっていつ頃でしたか」「いつ頃だったかしらね。戦後になってからだけど。洗濯機よりも脱水機がまず普及して、洗濯機はそれからでしたよ。そして洗ったものはマンゲルに挟んで延ばしてしわを取っていたの」。マンゲルというのは写真の左右のような装置で、2本のローラーの間に布を挟んでローラーを回転させてプレスするもので、現在でもシーツやテーブルクロスなど大きな布を延ばすのに電動式のマンゲルを使用する家庭がある。私の義両親も電動マンゲルを持っている。

他にもいろいろなものを見せてもらった。リーザさんのお話、面白いなあ。

「コーヒーはいかが?」と声がかかった。明るい庭のテーブルでコーヒーと手作りケーキを頂きながら、クラブの人たちとしばしお喋り。カジュアルでのんびりしたひとときが楽しい。また来ようっと。

ポツダム・バーベルスベルク地区にかねてから気になっていた店があった。気になっていた、というのは、いつ通りかかっても閉まっていたからだ。個人経営のアンティークおもちゃの店haus42は金曜日の午後しか開店しない。定年退職したご夫婦が趣味で収集した古いおもちゃを販売しているらしい。同時におもちゃのミュージアムでもあるという。気になり始めてから2年ほど経ち、ようやくタイミングが合って中を見ることができた。


haus 42はAlt Nowawes通りにある。この通りを中心とする一角は、18世紀にボヘミア地方からやって来たチェコ人の織工たちの集落だった場所で、この建物は当時、全部で210棟建てられたKolonistenhausと呼ばれる入植者用住宅の一つだ。私のポツダムでのお気に入り散策エリアで、とても風情がある。

このエリアの歴史自体も興味深いのだけれど、詳しい紹介は別の機会にして、今回はhaus 42に集中しよう。

入り口のドアを開けて中に入ると、壁面びっしりにドールハウスが展示されていた。中からご主人が出て来たのでミュージアムを見せて欲しいと伝えると、ご主人が展示品を一つ一つ説明してくださった。期待以上に良い!過去に訪れたマンダーシャイトの鉱物博物館Die SteinkisteやヘルシュタインのGoldbachs Weine & Steineでも感じたことだが、個人経営のミュージアムはオーナーがコレクションについて熱心に説明してくれるのでとても楽しい。

実は私は今までドールハウスにはそれほど関心がなかった。でも、haus 42にあるドールハウスは古いものは1900年頃のもので、それぞれの時代の生活文化が反映されていて大変興味深い。

ドイツ帝国時代のドールハウス。お父さんは軍服を着、絨毯の上には兵隊のおもちゃが置かれている。

これは折りたたみ式ドールハウス。裕福な家庭が旅行に行くときに旅先で子どもが遊ぶために作られたもの。

産業革命が起きたグリュンダーツァイト(Gründerzeit)と呼ばれる時期のドールハウス。壁際には装飾の施されたカッヘルオーフェン(陶製放熱器)が設置されている。

ビーダーマイヤー時代のドールハウス。装飾性がおさえられ、比較的質素な雰囲気だ。

ご主人によると、ユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)のドールハウス。

バウハウス・ムーブメントの影響を受けた1920年代のドールハウス。手前のテーブルと椅子が確かにバウハウスっぽい。

haus 42で取り扱っているドールハウスやその他のおもちゃは東ドイツの二大おもちゃ生産地、エルツ地方やテューリンゲン地方で作られたものがほとんどだ。Moritz Gottschalk社などのメーカーによるものの他に手作りのものもある。どこの家庭でも既製品のおもちゃを買えたわけではなく、厚紙で壁を作って壁紙を貼り、ミニチュア家具だけ買って並べたり、手先の器用な人ならかぐやお人形の洋服を手作りする人も少なくなかった。そういえば、うちの娘が小さい頃、義父も孫娘のために可愛いミニチュア家具をたくさん作ってくれたなあ。

 

クマのドールハウス。壁はデルフト焼きのタイルのイミテーション。ポツダム近郊のカプート城のタイルの間のタイルとそっくりだ。

写真は撮らなかったが、展示されているミニチュアキッチンはどれも造りが良く、おもちゃと言えども大変手の込んだものだった。使い捨てという発想のなかった時代のものはしっかりと作られているなあと感じることが多いが、おもちゃも然りである。

屋根の下の方にある留め金を外すと屋根が外れ、上に階を重ねていくことができる

奥の部屋は主にお人形のコレクション。紺のスカートを履いたお人形はケーテ・クルーゼのもの。

ミュージアム2階。ドールハウス以外のいろいろなアンティークおもちゃが見られる。真ん中の大きな教会模型はポツダム近郊のペッツォウ村にあるシンケル教会の模型である。

ご主人が手回し蓄音機のハンドルを回して音を聞かせてくださった。これをリアルタイムで聴いていた人たちはどんな生活をしていたのかなあ。左側の双子の赤ちゃん人形は紐を引っ張ると足をバタバタさせる。可愛いのか怖いのかちょっとよくわからないが、、、。

「おもちゃって社会文化史なのですね」と私が感想を述べると、「そうですよ。たかがおもちゃとバカにする人もいますが、人間の歩みを映す鏡なんですよ」とご主人は仰った。