まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編の続き。

 

ブレーメンで落下塔を見学し、少し他の観光も楽しんだ後、予定通り、今回の旅のメインの目的地であるブレーマーハフェンへ向かった。ブレーマーハーフェンへ行こうと思ったのは、そこにあるという移民ミュージアム(Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)がどうしても見たかったからである。移民とはいっても、Auswandererというのは、ドイツに入って来た移民のことではない。ドイツから国外へ出て行った人たちを指す。

 

私は移民とか移住というテーマに以前からとても興味がある。なぜかというと、私は北海道移民の子孫で、また、自分自身も地球の裏側へ移住することになったから。そして、ドイツ人夫の一族も移住と深い関係がある。彼らのルーツは現在のポーランドである。夫の4世代前に一族の半分がポーランドを離れ、東ドイツに移住した。残りの半分は米国に移住してアメリカ人となった。東ドイツ移住組のうちの一部は第二次世界大戦後、西へ逃れて西ドイツ市民となった。そしてその西ドイツ組のうち、一人はフィリピン人と結婚し、もう一人は日本人と結婚した(←私の夫)。そして、最近、また別の一人がポーランド人と結婚することになり、ポーランドに引っ越した。

米国移住組は今ではすっかりアメリカ人となり、ドイツ語をまともに話せる人はもう数名しかいないらしい。彼らは今でもドイツの親族にクリスマスカードを送って来る。そして、家系図を作成して、製本したものを一冊送って来た。米国では自分たちのルーツに興味を持って調べる人が結構いるらしく、家系図作りはポピュラーな趣味であるとのことだ。

そんなわけで私にとって移住は身近なテーマで、「人はなぜ移住するのか」「人は移住した先でどのようにアイデンティティを確立または維持するのか」などに興味がある。移民文学などを読むのも大好きだ。だから、是非ともこのミュージアムを訪れたかった。

 

 

結論から言ってしまうが、とても興味深く、とてもよくできたミュージアムである。今まで数多くのミュージアムを見て来たが、間違いなくこれまで見た中で特に気に入ったミュージアムの一つ。

入り口でチケットを買おうとしたら、係員に「あなたのルーツはどこです?」と聞かれた。普段、そのようなことを聞かれることが滅多にないので、一瞬、何のことかと思ったが、出身国を聞いているのだなと気づき、「日本ですよ」と答えた。彼は「私はパレスチナです。もうドイツ人になりましたけれどね」と言った。

 

展示室の造りは凝っている。まず足を踏み入れるのは19世紀後半の乗船待合室である。そして、待合室を出ると、そこは埠頭だ。

 

1830年から1974年までの間にブレーマーハーフェンの港から720万人ものヨーロピアンが旅立った。人々が乗船を待つ様子がほぼ実物大に再現されている。

 

このミュージアムには300年間に渡るドイツ人の海外移住関する情報が集積されている。ドイツ人の主な移住先は、米国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア。キャビネットの引き出しにはブレーマーハフェン港から旅立った人々の情報が一人づつ入っている。また、それぞれの家族のオーラルストーリーを聴くことができる。

 

ずらーっとキャビネットが並んでいる。膨大な情報量。

 

彼らはなぜドイツを後にし、新天地を目指したのか。もちろん、理由は時代ごとに異なる。初期の理由は主に、職と権利を求めてだった。1840年代に飢饉が度重なったことや産業革命で多くの手工業者が職を失ったことなどから、より良い生活を求めて海外移住者が増え続け、1854年には24万人近くのドイツ人がブレーマーハフェンから出港している。1848年には労働者が労働・生活条件の改善を要求し三月革命が起きたことからわかるように、当時は人々の社会的不満も非常に大きかった。

1929年の世界恐慌も大量のドイツ人を海外へ送り出すこととなった。ナチス時代にはユダヤ人を中心に多くの政治難民が生まれ、そして第二次世界大戦後は強制労働者や囚人など、「displaced persons」と呼ばれる人たちがドイツの地を離れた。また、アメリカ的なライフスタイルに憧れ、いわゆるアメリカンドリームの実現を目指して旅立った人たちもいる。

 

キャビネットの並ぶ部屋を出ると、再び埠頭に出た。通路は乗船タラップに続いている。タラップを上がりきってハッとした。そこは船の中なのである。

なるほど。まるで自分も乗船して旅立つかのような気分にさせる展示なのだ。

 

船室の一つ一つが展示室となっている。ブレーマーハーフェン港から移民を運んだ初期の船は「ブレーメン号」という帆船だったが、当時は米国に着くまで6〜12週間もかかり、船内は快適とはとても言えず不衛生で、多くの病人が出た。1877年に蒸気船が登場し、航海は8〜15日に短縮され、いくらか楽になる。

蒸気船「Lahn」の船内の様子。

 

さらに、1929年には旅客船「コロンブス」が航行を開始し、わずか5日でニューヨークへ行けるように。

 

さて、船を降りると(船内の展示を見終わると)、そこは、、、。

入国審査!

1875年までは米国への移住は比較的簡単だったが、当然のことながら入国者が増えるにつれて厳しくなる。コンパートメントに座っている人たちはヘッドフォンで説明を聴いているだけなのだが、まるで審査を待つ人たちのように見えて、なんだかドキドキしてしまう。

 

無事入国(?)した後は新世界のオフィスで米国移民の様々な統計などが見られる。非常に面白くて熱心に見入っていたので、写真を撮るのを忘れてしまった。

展示はニューヨークのGrand Central Terminalを模した部屋に出ることで終わる。そこには米国に辿り着いた人たちのその後が紹介されていた。最初から豊かな生活を享受できた人はもちろんほとんどいない。誰しも初めのうちは非常に苦労したことが見て取れる。

 

ああ、良くできた展示だったな〜と余韻に浸ろうとしたのだが、これで終わりではなかった。展示室を出た途端、目に飛び込んできたのはこんな文字列である。

 

「Wilkommen in Deutschland  ドイツへようこそ」

 

エッ? 今、ドイツを出て行ったのではなかったのか?と一瞬思い、次の瞬間にミュージアムの入り口で係員と交わした会話を思い出した。「あなたのルーツはどこ?」

そう、ドイツから多くの人が海外へ出て行っただけではない。ドイツへも多くの人が入って来たのだ。「移民」にはAuswanderer(流出者)とEinwanderer(流入者)の両方がいる。ここから先の展示は過去300年間にドイツへやって来た人々の歴史。つまり、もう一つの移民物語が始まるのである。

「ドイツはこれまで多くの移民を受け入れて来た。彼らなしに今のドイツはない」というような文面が展示の最初に書かれている。これにはドイツへ移住した者の一人として、ちょっとじ〜んと来てしまった。さらに、ドイツの憲法にあたるGrundgesetz(ドイツ基本法)の第3条3項が。

Niemand darf wegen seines Geschlechtes, seiner Abstammung, seiner Rasse, seiner Sprache, seiner Heimat und Herkunft, seines Glaubens, seiner religiösen oder politischen Anschauungen benachteiligt oder bevorzugt werden. Niemand darf wegen seiner Behinderung benachteiligt werden.  (何人も、その性別、血統、人種、言語、故郷及び門地、信仰、宗教的ないし政治的見解を理由として、不利益を受け、または優遇されてはならない。)

 

さて、ここからはドイツにガストアルバイターと呼ばれる外国人労働者が多く流入した1970年代を彷彿させる空間が演出されている。そしてここでも、ドイツ移民の展示と同じように、ドイツにやって来たさまざまなルーツを持つ移民のライフストーリーを見ることができる。ドイツにおける移民の歴史は古くはスペインでの迫害から逃れてユダヤ人がドイツへやって来たことに遡る。その後はユグノー教徒の受け入れ、近隣諸国からのガストアルバイターの受け入れ、そして定住したガストアルバイターの親族の流入や様々な紛争地からの難民受け入れなど、非常に多様だ。

 

「外国人局」を模した展示室のファイルキャビネット。日本人を含めた外国人にとって外国人局に行くというのは楽しいことではない。なにしろ、滞在許可がかかっているのだ。ここでもまたドキドキしてしまった。

 

ドイツ国籍を取得すると貰える証書。

 

移民に関する様々な統計の他、ムスリム女性のスカーフ着用や二重国籍など移民にまつわる社会議論に関する情報が展示されている。ドイツは基本的には二重国籍を認めていないが、例外もあり、事実上の二重国籍状態になっている人の数は現在200〜450万人と推定されているそうだ

 

このミュージアムでは、移民を交えたディスカッションなどの催しを行っており、移民に関するアンケートに答えるコーナーや報道番組を制作するスタジオもある。さらには、海外へ移住したドイツ人先祖について情報を検索できるデータバンクが公開されている。大変内容が充実していて素晴らしい。

 

このミュージアムを見学して思ったことは、「人は移動する」ということだ。生まれ育った国を離れる人はマジョリティではないが、そこの暮らしにどうしても希望が持てなければ、人は他に生活の場所を見つけようとする。そして、自らの意思で移住した人は、「移住して良かった」と思えるように努力するものだ。移民問題はもともとその社会のメンバーである人たち、つまり受け入れる側の視点から議論されることが多いが、生まれ育った国にずっと住んでいる人達も、ずっとそこにいることは当たり前のことではない。彼らも社会状況によっては移住しなければならなくなるかもしれない。つまり、今まで移住しなければならない理由がなかったというだけのことで、誰でも移民になり得るということ。

 

いろんなことを考えさせられた。行って良かったと強く思えるミュージアムである。

 

 

 

 

5月の「まにあっくドイツ観光 テューリンゲン編」に続き、今度は同じく3泊4日で「まにあっくドイツ観光 北ドイツ編」を実行することにした。今回も一人旅である。最近、「どこへでも運転して行ける自分」になろうとトレーニング中なのだ。幸い、夫が運転を厭わないタイプなので、これまで国内外の様々な場所へ連れて行って貰ったが、これだけ旅好きを自称する自分が人を頼らないと行きたい場所に行けないという状態はどうなのだ?と思ったからである。

さて、今回はこれまでほとんど訪れたことのない北西ドイツに的を絞った。というのは、ブレーマーハフェンに是非とも見たいものがあったのだ。しかし、我が家からブレーマーハフェンまでは400kmも離れている。長距離ドライブに慣れていない自分にはけっこうな距離である。どこか途中に立ち寄れる面白い場所はないものかと検索したところ、ブレーマーハーフェンの手前に位置するブレーメンに大変マニアックなものがあることが判明。

 

それは、ブレーメン大学応用宇宙技術・微小重力センター(ZARM)の微小重力実験設備、Fallturm(落下塔)

欧州唯一の落下塔であり、2ヶ月に一度、一般の人も見学が可能だという情報を見つけたのだ。そして、直近の見学日がなんとブレーマーハーフェンへ行く日の前日。これは絶対行くしかない!早速、問い合わせのメールを送る。直前の申し込みなのでもう定員一杯かもしれないとドキドキしたが、すぐに返信があり、見学できるとのこと。大変ラッキーだ。

見学は17:30からということだったので、昼頃に家を出発した。

 

 

往路は土砂降りだった。しかも、アウトバーンのあちこちが工事中で思ったよりもずっと長くかかり、ヘトヘトに。一体何故こんな思いをしてまで落下塔などというものを見に行こうとしているのかと思わないでもなかったが、ようやく現地に辿り着いたと思ったら、突然、雲が切れ始め、あっという間に青空が広がった。そして目の前には、、、、。

 

 

これが落下塔、Fallturmだ!見た瞬間に疲れが吹っ飛んでしまった。この白い塔は地元の人々にはBremer Spagel(ブレーメンの白アスパラ)の愛称で呼ばれているそうだ。

 

見学時間はたっぷり75分間。研究者の女性が案内してくれた。まず、塔を見る前に会議室に通され、そこでまず無重力状態についての説明を受ける。わかりやすく説明してくれるので、物理の専門知識がなくても大丈夫。いくつか簡単な実験をしながら無重力状態とはどういうことかについて学んだのち、落下塔の仕組みを説明してもらった。

ZARMの落下塔は1990年に建設された。高さは146m(実際の落下距離は110m)で、空気を抜いて真空にした塔内で落下カプセルを自由落下させると、地面に到達するまでの4.74秒間、カプセル内は微小重力状態(ほぼ無重力)となる。落下カプセルの中に実験物を入れて塔内を落下させることで、様々な無重力実験を行うことができる。さらにZARMは2004年、この落下塔にカタパルト装置を取り付け、カプセルを塔の下から一旦てっぺんまで打ち上げてまた落とすことにより微小重力状態を往復9秒間にまで延長した。

この落下塔を利用して国内外の研究チームが様々な分野の基礎研究を行っている。1日に最大3回の実験が可能で、年間の実験数は400〜450件。先にも述べたように欧州では唯一の施設のため、向こう1年間はすでに予約で一杯だとのこと。

 

一通りの説明の後、塔の内部を見せてもらう。

塔を囲むスペースに置かれた落下カプセル。大きい方は2mほど。この中に実験物を入れる。物理学だけでなく、化学や生物学などいろいろな分野の実験が無重力下で行われるのだ。

 

落下塔の下部。

 

これから中に入るところ。

 

円柱状のカタパルト装置でカプセルを上に開いた穴を通して塔の上まで飛ばす。

 

このワイヤーにぶら下がった状態でカプセルが落ちてくる。

 

この円盤部分に落下カプセルを取り付ける(今は取り外した状態)。落ちてきたカプセルが地面に到達したときに衝撃で破損して実験物がダメージを受けるのを回避するため、カプセル下部にはこちらのリンクの写真でわかるように円錐状のキャップを取り付ける。着地時に、床に置かれた発泡スチロールビーズの入った容器にキャップ先端が突っ込む仕組み。着地とともにビーズが飛び散ってカプセルを破損から守る。

 

床に散らばったビーズ。

 

ZARMが一般の人の落下塔見学を受け付けているのは、人々に基礎研究に対する興味を持ってもらい理解を得るためだけでなく、研究者の卵を育てる意図もある。この施設では政府の助成を受けた高校生の研究グループも独自の研究を行っているそうだ。

 

落下塔のてっぺんにはガラス張りのパノラマラウンジがあり、借り切ってパーティなどに使用できる。ブレーメンを見渡せるこの絶景ラウンジで、結婚式を挙げることもできる。

 

わずか8ユーロで滅多に見られないものを見れて嬉しかった。今後、無重力実験について耳にすることがあったら、この落下塔をすぐに思い出すだろう。

 

 

 

昨日の記事では、ザクセン州東部にあるジオパーク、Findlingspark Nochtenを訪れたことについて書いた。

ジオパークを見学した後、せっかく家から2時間以上もかけてオーバーラウジッツ地方へ来たのだから、ついでに他のものも見て帰ろうと、ジオパークの売店に置いてある観光案内チラシを漁っていて、面白そうなものを発見した。

 

Forum Konrad-Wachsmann-Haus

 

コンラート・ヴァックスマンはユダヤ人の建築家で、モダニズム木造建築のパイオニアである。日本では、英語読みのコンラッド・ワックスマンとして知られているようだ。

 

私の住むブランデンブルク州カプート村には米国に亡命する前の数年間、アルベルト・アインシュタインが夏を過ごした別荘、Einsteinhaus Caputhがあるが、その別荘はヴァックスマンが手がけたものだ。シンプルで機能的なデザインが印象的である。そのヴァックスマンが1927年に設計した住宅がオーバーラウジッツ地方のNieskyという町にあり、資料館として公開されているというのだ。

Nieskyという町は今までまったく聞いたことがなかった。しかし、ジオパークからおよそ25kmの地点とのことなので、行ってみることにした。

 

 

ヴァックスマンハウスの入り口の看板は地味で、うっかりすると見落としてしまいそうだ。

 

資料館入り口。アインシュタインの別荘と似た、シンプルなデザインである。

 

3階建ての内部の1階及び2階が展示室として公開されている。

 

展示内容はとても興味深い。コンラート・ヴァックスマンはフランクフルト・アン・デル・オーダー出身のユダヤ系ドイツ人で、木工職人の時期を経て建築家になった。大学を卒業後、Nieskyの木造建築会社、Christoph & Unmackに就職する。Christoph & Unmack社は設立当初、軍事用のバラックを建設していたが、その後一般住宅を手がけるようになり、Niesky市内に多くのモデルハウスを建てた。ワイマール時代には木造家屋が新しいスタイルの住宅として注目されたという。現在、資料館となっているこの家はヴァックスマンがChristoph & Unmack社の重役のために設計したもの。

その後同社を退社して独立したヴァクスマンはモダニズム木造建築のパイオニアとして名を馳せるようになるが、1941年、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アインシュタインの助けを借りて米国に亡命。米国で、同じくユダヤ人亡命者でバウハウスの初代校長だったヴァルター・グロピウスと共にPackaged House Systemと呼ばれたパネルシステムの組み立て住宅のコンポーネント製造工場を創立した。このシステムは専門技術を持たない労働者5人が9時間で組み立てることができるというもので、当時の建築業界に大きなイノベーションをもたらした。

 

資料館に展示されているヴァックスマンとアインシュタインのツーショット。カプートのアインシュタインの家のテラスで撮影されたとみられる。

 

これはドイツの伝統的な木造建築である木組みの家の模型。ドイツの建築物としては一般にこちらの方がよく知られているのではないだろうか。

 

そしてこれがヴァックスマンのパネルシステム。

 

3階の階段踊り場から2階を見下ろしたところ。

 

第二次世界大戦後は石造りの家が一般的となり、木造建築はしばらく隅に追いやられていたが、近年、エコロジーの観点から再び見直されている。

 

 

この資料館を見ただけでもNieskyへ来た甲斐があったのだが、話はそこで終わらなかった。Nieskyにはワイマール時代に建てられた木造建築が100棟以上も残っているという。当時、Nieskyはモダニズム建築のモデルシティとされていたそうだ

聞いたこともなかったポーランドとの国境近くのこの小さな町が 、そんな面白い町だったとは!街並みを見ずに帰るわけにはいかない。町の中心部にはNiesky Museumという博物館もあるのだが、こちらは残念ながらもう閉まっていたので、ヴァックスマンハウスでコピーして貰ったマップを片手にモデルハウスを見て回ることにする。

 

おおー!これが戦前のモデルハウスだったのか。かっこいい。

 

なかなかの豪邸である。これらの家には現在も人が住んでいるのだ。

 

教会も木造。

 


家のデザインは一つ一つ違い、ディテールが凝っている。

なんという素敵な窓。

 

 

 

木造住宅がずらあ〜っと並ぶ通り。こんな面白いものが見られるとは期待していなかったので大興奮であった。一枚一枚写真を撮っているとキリがないのでカメラに収めるのはこのくらいにしておいたが、建物を見て歩くのが楽しくてたまらない。

 

気ままなドライブ旅行の楽しみは、思いもよらなかったものに遭遇するチャンスがあることだ。常にインターネットを駆使して面白そうなスポットを探している私だが、ここは検索で見つけることができなかった。掘り出し物を見つけた気分で今週末は大満足である。

 

 

まにあっくドイツ観光、今週末はザクセン州東部、オーバーラウジッツ地方にあるFindlingspark Nochtenへ行って来た。

Findlingsparkとは何か。日本語に訳すと「迷子石公園」となる。迷子石とはなんぞやと思う人もいるかもしれない。実は私も数年前まで、「迷子石」という言葉もドイツ語の「Findling」も知らなかった。

 

まいごいし【迷子石 erratics】

捨子石(すてごいし)ともいう。氷河によって運搬された岩石塊が,氷河の溶けたあとにとり残されたもの。ヨーロッパやアメリカでは氷河時代に運ばれた岩石塊が数百kmも離れた所に見られる。特定の地域にしか産しない岩石の迷子石を追跡調査し,その分布状況から氷河時代の氷床の拡大方向が推察できる。【村井 勇】世界大百科事典第2版

 

そう、ドイツでは氷河時代にスカンジナビア半島から運ばれて来た岩石があちこちに見られるのだ。特に旧東ドイツの褐炭採掘が盛んな地域では、地面を掘り起こすと迷子石が大量に出て来る。小さなものは無数にあるが、巨石も少なくない。ドイツで見つかった迷子石で最大のものは大きさ200㎥、重さ550トンもある。地質学研究において迷子石は重要なもので、大きさが10㎥以上あるものはゲオトープとして保護することになっているが、大きな塊がゴロゴロ出て来るので、置き場に困り、邪魔といえば邪魔だ。そこで近頃は、その土地で産出された迷子石を利用したジオパークが作られ始めている。今日訪れたFindlingspark Nochtenは、ドイツ最大の迷子石公園だ。

コットブス市とゲルリッツ市の中間地点にあり、ポーランドとの国境が近い。

 

なかなか壮観である。2003年に開園した広さ20ヘクタールのこのジオパークには現在、およそ7000個の迷子石が配置されている。このような公園を作った背景には、褐炭採掘で荒れた土地を再生し環境を守ろうという意図や、ドイツ統一後に産業が廃れて人口が減少したこの地域を観光地にして活性化しようという目的もある。

 

公園の西側にあるこの丘は迷子石が流れて来たスカンジナビア半島をシンボライズしている。芝生の部分は海。

 

この図のように、スカンジナビアを覆っていた氷河がヨーロッパ大陸北部へと移動したときに一緒にもたらされ大陸のあちこちに置き去りにされたのが迷子石というわけである。

 

17億7000万年前の花崗岩。

 

斑岩。写真では大きさがよくわからないが、幅は30cmくらい。火山岩は地表に放出されたときに急激に冷え、ヒビが入って細かく砕けることが多いので、大きな塊は珍しい。(と、家に帰って来てから岩石の本で読んだ)

 

ミグマタイト。特殊な岩石らしいが、よくわからない。岩石に詳しい弟を連れて来られればよかったなあ。

 

丘のてっぺん。これは迷子石アート。地面のパイプは氷河が流れたルートを示している。

 

公園内には様々な植物が植えられ、季節ごとに違った表情が楽しめるようだが、たまたま今の季節はあまり花が咲いていなかった。

 

 

公園のすぐ向こうは褐炭発電所。なんだかすごい景色だ。

 

売店に売っていた石。私は宝石を身につけることにはほとんど興味がないが、石を眺めるのは好きである。ここにはフリントもあったので、ふとリューゲン島で見た広大なフリントフィールドを思い出した。それについても別の機会に書こうと思う。

 

このジオパークは現在のところはまだ観光客もそれほど多くはなく、静かに散策することができる。東ドイツの良いところは、観光地がまだ飽和しておらず、のんびりと見て回れることだ。また、10年後、20年後にはどう発展しているかなと想像する楽しみもある。このジオパークもまだ完成形ではない。今後より充実して行くだろう。

 

エコツーリズムも楽しいが、ジオツーリズムも興味深い。世界のいろんなジオパークを訪れてみたい。ジオパークに関心のある方は、こちらの記事も是非読んでみてください。

 

 

 

先週の日曜日はまさに行楽日和だった。ようやく屋外の観光スポットを思う存分楽しめる季節が到来した。そこで、今回はベルリン中心部から北東へ約70kmの地点にあるニーダーフィノウ船舶昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)へ行って来た。

ニーダーフィノウ船舶昇降機は、オーデル・ハーフェル運河に建設された高架エレベーターである。1934年に建設され、現在も年間約2万隻の船が通過する旧船舶昇降機と、そのすぐ横に建設中の新船舶昇降機の二つがある

手前の構造物が旧船舶昇降機で、向こうに見えるのが新船舶昇降機。見学できるのは稼働中の旧昇降機だが、巨大過ぎて、近くからでは全体像を撮影できなかった。運河側から見ると、こんな感じ

昇降機の上部に展望台が設けられており、船が乗り降りするところを眺めることができる。

展望台から運河を見下ろす。

船が昇降機に乗り込んだ。まもなくエレベーターが動き出し、船台が上がって来る。

上に到着。

ゲートが開いて、船が向こうに出て行く。

これは反対側から撮った写真。旧昇降機の高さは地上52メートルで、吊り上げ高さは36メートルである。現在も動いている中ではドイツ最古だそう。この巨大な船舶昇降機が船を乗せて上り下りする様子は圧倒的で、眺めていると飽きないのだが、いつまでも見ていてもキリがないので、降りてビジターセンターを見学することにした。

建設中の新ニーダーフィノウ船舶昇降機についての展示と、ドイツにおける水上交通の説明がビジターセンターの主な内容だ。

ドイツにおいては内陸水運は非常に重要な役割を果たしている。ドイツ国内の内陸水路の長さはおよそ7400kmにも及び、EU内の内陸水路の1/4以上を占める。水路による輸送はトラックや鉄道による輸送に比べ消費エネルギー量がずっと少なく済み、騒音もほとんどない。運ぶ貨物に適した船に最初から貨物を積み込むので、途中で積み替えをする必要がないというメリットもある。エコな輸送手段として、その重要性が広く認識されている。

旧ニーダーフィノウ船舶昇降機は建設から80年近くが経過しているとは思えないほど立派に見えるが、それなりに老朽化しており、また、キャパシティの面でも不十分となった。産業記念碑に指定されているため、工事で拡充することができない。そのため、現在、新しい昇降機が建設されているというわけである。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

船舶昇降技術にもいろいろな種類があるようだ。一番上のタイプは大容量の水を汲み出したり汲み入れたりして水位を調節し、船を上げ下げするのでエネルギー消費量が高い。2番目のタイプは何段階かに分けて昇降する仕組み。3番目は斜面を引っ張り上げるタイプ。ニーダーフィノウの昇降機は新旧とも4つめのタイプで、少量の水の入った船台を丸ごと引っ張り上げる。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

こういう要領。

新昇降機の注水済み船台の重量は9800トンにもなるので(旧昇降機では4290トン)、故障時に船台が船舶もろとも墜落しないよう、このようなボルトで船台を緊急ロックして固定する。

ニーダーフィノウ船舶昇降機周辺はバリアフリーに設計されており、展望台へはスロープで上がるので、車椅子利用者も楽に見学できる。遊覧船に乗って昇降機を実際に上るツアーもあり、楽しそうだった。

また、周辺は自然が美しく、近くに動物園、Zoo Eberswaldeもあるので、小さな子どもを連れてのレジャーにもぴったりだ。

 

ミュージアムおたくの私は、周辺にあるミュージアムはしらみつぶしに行くことにしているのだが、首都圏に住んでいるため数が多く、制覇にはまだほど遠い。

今日はベルリン、シュテーグリッツ地区にあるDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)へ行ってみた。このミュージアムはJohann-August-Zeune-Schuleという盲学校の敷地内にある。会館時間は毎週水曜午後(15-18時)と第一日曜11時のガイドツアーのみで、防災上、一度に10人までしか見学できない。

 

 

盲学校の敷地に入ると、ちょうど下校時間だったようで杖を持った学生が保護者に付き添われて出て来た。保護者の方に「何かお探しですか?」と聞かれたので、「ミュージアムを見学したいのですが」と答えると、「こちらですよ」と赤レンガの別棟に案内してくれた。

 

入り口はこのように目立たない。2階(日本でいう3階)がミュージアムである。

 

階段を上がってドアを開け、フロアに入ったが、受付が見当たらない。キョロキョロしていると、視覚障害者と思われる男性が事務室から出て来て、「見学にいらっしゃったのですか?どうぞ見て行ってください。何か質問があれば、遠慮なく声をかけてくださいね。ご説明しますよ」と言ってくれた。入館は無料(寄付ベース)だとのこと。さっそく一人で展示を見ることにした。

 

このDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)の歴史は思いのほか、長い。1891年に盲人教育の歴史的資料館として、また最新の教材の発表及びテストのための場として設立された。当時、この地区にはプロイセン王国の王立盲人施設があったが、教育の内容は点字の学習と手作業の習得という限定的なものだった。ここで学んだユダヤ人女性、ベティ・ヒルシュが後に教師となり、戦争で失明した人々の社会復帰のための学校を開設し、ドイツにおいて視覚障害者が様々な知的職業に就く道を拓いたとのことである。

 

展示の内容は主に点字の発達とその使われ方、視覚障害者のコミュニケーション手段についてだった。現在、ドイツで、そして世界的に広く使用されている点字はブライユ式点字だが、これは横2つ縦3つの合計6つの点の配置で文字を表すものだ。

 

釘のようなものを穴に差し込み点字を打つ道具。

 

古い点字タイプライター。

 

現在、ドイツには8200万人の総人口に対し、およそ110万人の弱視者、約16.5万人の全盲の人がいる。

 

比較的早い時期から始まったように見えるドイツの視覚障害者教育だが、ナチスの時代には視覚障害者は酷い差別にさらされた。Rassenkunde(人種学)という授業で、目の見えない子ども達は以下のような頭部の模型を手で触れることで人種の違いを学んだ。

 

しかし、この授業の目的は異なる人種が存在することを知るだけではなく、視覚障害者は遺伝的に「劣って」おり、子孫を作らないように不妊手術を受けなければならないと納得させるためのものでもあったという。盲学校の生徒達は学校の敷地内ではヒトラーユーゲントの制服を着用することが許されたが、敷地内に出ることはできず、ヒトラーユーゲントに実際に参加することは禁じられていた。(ドイツで博物館を訪れるということは、ドイツの過去を学ぶということでもあり、どんなテーマについての展示を見ていてもほぼ必ず「ナチスの時代には」が出て来る。避けて通ることはできないのだと毎回、感じる)

 

展示物を眺めていたら、ミュージアムの人が室内に入って来た。

「もうすぐガイドツアーが始まりますが、参加されますか?」

今日はツアーはないと思っていたのだが、学生のグループがツアーに申し込んでいるとのこと。喜んで飛び入り参加させてもらうことにした。ガイドさんは先ほどの視覚障害者の方だった。

 

このツアーはとても面白かった!

 

ガイドさんにブライユ式点字について説明してもらい、実際に点字を打ってみた。

展示室はインタラクティブで、いろいろな体験ができるようになっている。右の机では点字盤で点字を打つ練習ができる。

2枚になった板の間に紙を挟み、針のような道具で枠の中に点を打っていく。注意しなければならないのは、アルファベット文字に当たる点を反転させて(つまり裏返して)打たなければならないことだ。紙が出っ張った方が表面になるので、打ち終わった後に紙をひっくり返すのである。私は自分のフルネームを打ったのだが、新しい文字を習うような感じでなんとなく楽しく、つい夢中になってしまった。

 

次に、点字タイプライターも打たせてもらった。点字盤では一つ一つ穴を打ち込んでいくが、タイプライターの場合、一文字ごとに複数のキーを同時に押すので、なかなか難しい。

 

これは、Mensch ärgere dich nichtという名前のドイツの定番ボードゲームの点字バージョン。目隠しをしてやってみる。難しくてすぐにギブアップ。

 

点字つきのスクラブルゲームやその他のゲーム。

 

見学者の一人が「点字の本を読むのって、時間がかかるのですよね?1ページをどのくらいの速度で読むことができるのですか?」と質問すると、ガイドさんは「競争してみましょうか?」と笑って、壁から大きな点字の本を取り出し、別の棚からハリー・ポッターの1巻(普通の本)を出して質問者に手渡した。

「あなたはこれを、私は点字バージョンを段落ごとに交代で読みましょう」

最初にガイドさんが両手でページを触りながら読み始めたのだが、速いっ!!!質問者の番になると、彼も負けじと速読みしていた。

 

事務室では点字ディスプレイつきのガイドさんのパソコンも見せてもらった。

 

ここまででもたっぷり1時間の説明を受けていたのだが、ガイドさんはノリノリで、「まだまだいろんなグッズがありますよ〜」と、生活の中で視覚障害者が使用する様々なものを見せてくれた。色を識別する道具やコインやお札の種類を識別するプラスチックのカード、視覚障害者用の時計、便利なスマホアプリなど。ガイドさんのお気に入りアプリは、最新映画の音声ガイドがダウンロードできるGRETA。スマホとイヤフォンがあれば、晴眼者の友達や家族と映画館で一緒に最新映画を楽しむことができる。いろいろなものがあるのだなと思った。

とはいえ、視覚障害者が得られる情報はやはり限られている。現在、ドイツ全国には8700の図書館があるが、点字図書館はわずか8箇所だけである。毎年フランクフルトで開催される本の見本市で出品される点字の本もわずか500タイトルだという。また、家庭用電化製品はボタンで操作するのではなく、ディスプレーのタッチメニューで操作するものが増えて来ており、視覚障害者にとっては不便だそうだ。

そして意外なことに、視覚障害者のうち、点字が読める人はわずか2割だという。生まれつき、または幼少時に見えなくなった人は点字を習得するが、高齢になってから失明した場合、点字を覚えるのは困難で、指先の感覚も子どものように鋭くない。

 

このように興味深いお話がいろいろ聞け、また実際に体験もできて満足した。大学生たちも「すごく面白かった!」と喜んでいた。

 

目の不自由な人と聞くと、いつも思い出すことがある。私がケルン大学で勉強していた頃、インドネシア語のクラスにMさんという視覚障害者の学生がいて、いつも点字タイプライターでノートを取っていた。授業のときに一度だけ、短いお喋りをしたことがあった。

あるとき、キャンパスを歩いていると、遠目にMさんが見えたので、「あ、Mさんだ!」と思い、駆け寄って話しかけようとしたのだが、次の瞬間に「話しかけても、Mさんは私が誰だかわからないにちがいない」と思って声をかけるのを躊躇してしまった。「インドネシア語のクラスで一緒だ」と言っても私の顔を見たことがないのだし、声も覚えていないのではないか。声をかけたら戸惑ってしまうのではないかと思ってしまったのだ。それで声をかけられなかったのだが、そのときのことがずっと引っかかっていて、「なぜ、あのとき声をかけなかったんだろう。クラスメイトなのに」と心残りである。

 

今日は少し、視覚障害者の人たちの日常について知ることができてよかった。