私はもうかれこれ10年、ポツダム市の近郊(車で10分)に住んでいるが、いまだによく知らない場所がたくさんある。ポツダムは首都ベルリンの陰に隠れてか、外国人観光客への知名度は今ひとつだが、実は見所が非常に多い町だ。有名なサンスーシ宮殿を始めとするプロイセンの建造物が数多くあり、湖や森、庭園の豊かな美しい町であるだけではない。ポツダムは東ベルリン同様、第二次世界大戦後、ベルリンの壁が崩壊するまでの間、西ベルリンとの国境を持つ、政治的、軍事的に非常に重要な町だった。そのため、暗い歴史の跡が多く残っている。
私が引っ越してきた当時、町にはまだ旧社会主義国の名残がかなり見られたが、傷んだ建物の修復や第二次世界大戦で破壊された建物の修復が目覚ましいスピードで進み、現在では旧東ドイツ側の町ということを忘れてしまうほどの優雅なたたずまいである。特に、ハイリガー・ゼーと呼ばれる湖の周辺地区には豪華な邸宅が建ち並び、これぞヨーロッパという夢のような空間だ。
その高級感溢れる地域の一角に、Gedenk- und Begegnungsstätte Leistikowstraßeという記念館がある。ソ連国家保安委員会、KGBの政治犯一時収容所跡だ。
かつて、この一帯には貴族や富裕層の市民が住んでいたが、ポツダム会議後、ソ連軍が占領し、1994年に駐留軍が撤退するまでの間は軍事地区であった。東側の新庭園に面した通りと西側のグローセ・ヴァインマイスター通りに挟まれた約16ヘクタールの区間は、Militärstädchen Nr. 7(第7軍都)と呼ばれた。ここにはソ連軍の兵舎や将校家族の住宅だけでなく、ロシア人による店、ホテル、病院、学校など町としてのすべての機能が揃い、リトル・ソヴィエトとも呼ぶことのできる小さな町を形成していたらしい。Militärstädchen Nr. 7の住民は外部との接触を厳重に禁じられており、周辺に住むドイツ人らは中の様子を知ることはできなかった。
しかし、この区画の中に一箇所だけ、ドイツ人が関わる可能性のある場所があった。それはKGBの政治犯一時収容所である。元々はプロテスタントの教会の女性支援施設だった建物をソ連国家保安委員会がスパイ容疑者の取り調べに使っていたのだ。
KGBは戦後まもなく、ナチス戦犯だけでなく、多くの「スパイ容疑者」を拘束し、尋問した。容疑者の中には11〜15歳の少年少女も含まれ、多くはシベリア送りになり、死刑になった者も少なくないという。現在は記念・資料館となっており、ここに収容されていた人々について知ることができる。
元収容者に関する記録。
1955年以降は東ドイツの国家保安省、シュタージが東ドイツ国民を監視することとなったため、その後KGBが監視したは駐留ソ連軍やその家族、つまり自国民だった。駐留軍の中には待遇に耐え切れず、西ドイツへの逃避を企てる者もいた。
シャワー室。
元収容者のインタビュー動画も見ることができるが、近所の知り合いのおじさんであってもおかしくないような年齢の男性が当時の経験を語るのを聞き、とても辛くなる。
かつて拘禁されていた独房に座る元収容者。
取り調べ人が吸っていたタバコの箱。元収容者らはこのタバコの匂いを嗅ぐと、当時の記憶が蘇って来るという。
決して見学して楽しい場所ではない。ドイツにはナチスが残した傷跡や冷戦の傷跡、旧東ドイツの秘密警察、シュタージの記憶、、、、そうした暗い歴史の跡が多くあり、それらの多くは記念館や資料館として残されている。
自然と文化芸術に溢れる町、ポツダム。こんなに美しく優雅な場所で起きたとは信じられない恐ろしい過去を知り、現在が平和で良かったとしみじみ感じる。そして、ここが平和な町であるのも、憎しみと暴力の町と化すのも、自分達、人間しだいなのだと恐ろしく思う。平和は決して当たり前ではないのだ。