ドレスデン滞在二日目にはドイツ連邦軍の軍事史博物館を訪れた。この博物館の分館がベルリンのガトウ地区にあり、先日見学して興味深かったので、ぜひドレスデンにある本館も見たくなったのだ。

ベルリン分館訪問記はこちら

 

博物館はドレスデンの新市街にある。

 

 

軍事史博物館の建物は大規模で斬新である。19世紀に建設された白い建物に矢が突き刺さるかのようにモダンなもう一つの建物が組み合わさっている。

 

入り口には連邦軍の兵士らが大勢いた。この博物館は兵士の学習の場としての機能を持つ。

兵士らは20人くらいづつのグループに分かれ、それぞれガイドの説明を受けながら館内を見学していた。

 

展示室入り口の壁に映し出された文字。

 

この博物館では展示は年代順展示とテーマ別展示の2つに分かれている。年代順の方は1930年代から現在までの軍事史を、テーマ別の方は軍事の様々な側面を提示している。

まずは軍事史の方から見ていった。

 

展示品や資料の数は膨大で、丁寧に見ていけば1日ではとても足りない。しかし、情けないことにドイツ史の知識があやふや。えーっとこの戦争はどういう戦争だったかしらと思い出しながら展示の説明を読んだが、時間がかかり過ぎて大変だ。家に帰ったら、山川出版の「ドイツ史」を読み返さなくては。しかし、第二次世界大戦以降の展示に来ると、日頃、他の博物館でもナチスやDDRについてはたくさん目にしているので、グッとわかりやすくなった。

 

テーマ別展示のテーマは、「軍事技術」「保護と破壊」「戦争の苦しみ」「戦争と記憶」「軍事と音楽」「軍事と言語」「軍事と政治」「軍事と遊び」「軍事とファッション」「軍事とファッション」など多岐に渡る。これはドイツの博物館全体について言えることなのだが、軍事をテーマとしたこの博物館でも非常に客観的な展示に徹していて、「愛国心」のようなものを連想させる要素はない。あくまでも淡々としており、戦争を美化する面が一切ない一方で、自己批判的・抑制的な面が少なからず見られた。

 

「戦争の苦しみ」のコーナーには戦死者が家族に宛てて書いた直筆の手紙や広島の原爆投下により焼け焦げた物品も展示されている。また、第四代連邦首相、ヴィリー・ブラントが1972年ポーランドでワルシャワのゲットー英雄記念碑に跪いて戦死者に黙祷を捧げる姿を写した写真もあった。

 

「戦争と遊び」のコーナーには、戦争を連想させる子どものおもちゃが陳列されている。

 

 

 

「大人が子どもに戦争のおもちゃを与えることは、それが武器であれ、軍服であれ、戦争を正当化することを意味する」と説明には書かれている。戦時には子どものおもちゃすらもプロパガンダの道具に使われる。第二次世界大戦敗戦後、旧西ドイツではしばらくの間、戦争おもちゃはタブーとなっていたが、旧東ドイツでは西側帝国主義への反感を煽るため、引き続きおもちゃを使ったプロパガンダが行われていたそうだ。現在のドイツでは武器をかたどった玩具の是非については議論が続いているが、昔は当たり前のように使われていた”Kriegsspielzeug”(戦争おもちゃ)というカテゴリーは玩具カタログから姿を消したものの、そのようなおもちゃがなくなったわけではない。

 

 

 

これはベルリンの「総統地下壕(ヒトラーの地下壕)」に残されていたタイプライター。このタイプライターを使って、戦争が終わる直前まで多くの司令が発せられた。

 

いろいろなタイプのシェルター。

 

シェルターやミサイルが展示されているコーナーの奥では、ときどき異様な色の光がピカっと光っていた。「照明が故障しているのかな?」と思ったら、そうではなく、広島の原爆を疑似体験するというアートであった。

 

 

薄緑色をしたスペースに立つと、ピカっという閃光の後、影が壁に固定される。私もここに立って、固まった自分の影を見てみた。

 

もう一度強調するが、この博物館は愛国心や闘争心を掻き立てるような展示はしておらず、あくまでも人類の歴史における軍事と戦争の歴史を提示し、防衛に関する議論を促すためものであることがわかった。

 

 

この週末、夫は出張で不在。それを利用し、一人でドレスデンへやって来た。

美しきザクセン王国の都、ドレスデン。見所が非常に豊富な、とても魅力的な町だ。訪れるのはこれで3回目で、観光客にとってマストスポットのツヴィンガー宮殿の側に宿を取った。

しかし、チェックインを済ませた私が向かったのは、ツヴィンガーではない。一般的にはあまり知られていないが、知っている人は「すごく面白い!」と口を揃えるマニアックなミュージアム「ドイツ衛生博物館(Deutschen Hygienemuseum Dresden)」である

 

 

衛生博物館の建物は、旧市街の壮麗なバロック建築とは対照的だ。

 

そもそも「衛生博物館」とはなんぞや。ドレスデンは昔から多くのサナトリウムを持ち、19世紀には「特に健康的な町」として国内外から高い評価を得ていた。1892年、Odolというマウスウォッシュがドレスデンで開発されて大ヒット商品となり、公衆衛生の改善及び人々の衛生に関する意識の向上に大いに貢献した。そのような背景のもと、1912年に設立された「ドイツ衛生博物館」は、100年以上の長きに渡って生命と健康について国内外の人々を啓蒙する極めて有意義で伝統的な博物館なのである。

 

衛生博物館の常設展示では、人体の模型や標本、近代医学の黎明期に開発され、使われた様々な医療器具が公開されている。

 

初期のレントゲン機。

しばらく前からドイツのテレビでベルリン医科大学、Charitéを舞台にした歴史ドラマをやっていて、北里柴三郎とか出て来て面白いのだが、そのドラマにも出てきた結核患者用の痰壷が展示されており、嬉しくて(なぜ?)思わず写真を撮った。

 

義足や人工関節、人工内耳など様々なインプラントともに、このようなものが展示されていた。インポテンツ患者用インプラントだそうである。そういえば、女性から男性へ性転換した人がこうしたものを体内に埋め込むと聞いたことがある。

 

「食・栄養」に関する展示ルームもある。世界の様々な食文化に関する展示や栄養に関するクイズなど、多岐に渡り、とても興味深い。

 

腸内細菌ゆるキャラ。

 

個人的に最も好きなのは神経学ルーム。インタラクティブな展示がとても興味深い。

 

しかし、この博物館において最も目を引くのは、なんといっても「セクシュアリティ」のコーナーである。

このコーナーでは性に関する様々な側面を、極めてどぎつく、しかし極めて真面目に啓蒙している。

セックスにはこのように様々な体位があり、男性及び女性における人気度は何パーセントとか、啓蒙してどうするのかよくわからないのだが、示してある。

 

勃起の仕組みをカラー図解。

 

変態と誤解されると嫌なので、マイルドなものだけいくつかカメラに収めたが、実際の展示はもっともっとすごく直接的である。インポテンツお助けグッズとか性病に罹患した性器モデルまで並べてある。医学的には非常に有意義だが、繊細な人は食欲&性欲減退してしまうかもしれない。

性についてもタブー化せずにオープンに見せ、真面目に学ぼうとするのはとてもドイツ人らしく感じる。私の息子は小学校5年生のとき、学校の社会見学でこの博物館へ来たそうだ。小学生にはあまりに刺激が強いのではないかと思うが、ドイツでは普通のことのようだ。

 

ミュージアムには常設展示の他、いくつかの特設展示もある。現在、「恥」というテーマの特設展示をやっているのだが、そこで何か見覚えのある黄色いカヤックが展示されていて、よく見ると日本人アーチスト「ろくでなし子」さんの作品である女性器をかたどったカヤックだった。(ちなみに特設展示ルームは写真撮影禁止)ろくでなし子さんのアートに関する話題はネットで知っていたが、実物にこんなところで遭遇するとは想像していなかったのでびっくり。

 

とにかく、ドレスデンにあるドイツ衛生博物館は医学好きな人、健康に興味のある人にオススメの素晴らしい博物館だ。

 

 

今日は午前中から抜けるような青空が広がった。ドライブ日和である。平日だが、仕事は日没後に回し、出かけることにした。

 

目的地はラーテノウ。ブランデンブルク州西部の人口2万5千人弱の小さな町だ。日本人でラーテノウの名前を聞いたことのある人は、おそらく少ないだろう。

 

 

この町に何をしに行ったのかというと、光学博物館(Optik Industrie Museum Rathenow)を見るためである。つい最近まで知らなかったのだが、この町はドイツ光学産業の発祥地だそうだ。ドイツの光学機器メーカーといえば、カール・ツァイスがあまりにも有名だが、ラーテノウではツァイス社創業よりもずっと前の1801年、ヨハン・ハインリヒ・アウグスト・ドゥンカーがプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の許可を得、”Königlich privilegierten optischen Industrie-Anstalt”を創立した。19845年、何代目かに経営権を握ったエミール・ブッシュにより、同社はエミール・ブッシュ社と改名され、一躍、国際的な光学機器総合メーカーに発展した。日本へは「ニコラ・ペルシャイト」という有名なポートレート用の軟焦点レンズが輸出されていた

 

ラーテノウの光学博物館は町中心部の文化会館(Kulturzentrum)の3階にあった。それほど大きなミュージアムではないが、なかなか面白い。

 

 

これはドゥンカーが1801年に発明し、特許を取得したレンズ研磨機である。11個のレンズを同時に磨くことができる。

 

創業当時、同社の主な製品はメガネだった。欧州にはそれ以前にもメガネは存在していたが、レンズのカットが悪く、品質が低かった。ドゥンカーは視力測定のガイドラインを作り、高品質なメガネの生産を開始。こうしてラーテノウは「ドイツの目」として国際的な評価を受けるまでになる。

 

 

ドゥンカー以前のメガネ。最も初期のメガネはNietbrille(ニートブリレ)と呼ばれ、2つのレンズの柄の部分がNiete(リベット)で留めてあるものだった。写真の右端がそれ。当初はメガネを手に持つか、鼻に掛けて使っていたが、やがて、耳にかけるツルのあるメガネが登場した。

 

ドゥンカーが製造したメガネ。かなり洗練され、メガネらしいメガネになっている。

 

かなりお洒落な感じ。

1920年代に作られた同社製メガネ。

 

エミール・ブッシュ社に改名してからは、メガネだけでなく、ルーペ、顕微鏡、双眼鏡、望遠鏡などあらゆるレンズ製品を手がけるようになり、さらには写真撮影用カメラや映像カメラ、視力測定装置に至るまでを製造する光学機器総合メーカーへと発展した。

 

 

 

 

 

 

ラーテノウも他の多くのドイツの都市と同様、第二次世界大戦ですっかり破壊されたが、戦後、人民公社、Rathenow Optische Werkeとして復活し、後にカール・ツァイス・イェーナに吸収された。旧東ドイツ(ドイツ民主共和国、DDR)時代のメガネはすべてラーテノウで作られていたそうだ。

 

ラーテノウの街並みは小綺麗でモダンであり、市内にはOptikpark(光学パーク)と名付けられた庭園もあるが、観光地ではない。光学博物館は興味深いが、最寄りの大きな町、ブランデンブルクから20kmも離れているので、博物館を見るためだけに行くのはちょっと大変かもしれない。

 

と、考えながら帰ってきたのだが、家に着いてから改めて検索したところ、なんとこの町には大黒貴之さんという日本人彫刻家の方がお住まいだとのこと。ベルリン在住のジャーナリスト、中村真人さんが紹介しておられた。

ブランデンブルク州 市制800年 ラーテノウを歩く

 

意外なところに日本との繋がりがあるものだ。これをきっかけに、大黒さんの作品を拝見させて頂こうと思う。

 

 

 

この週末もマニアックな観光をしようと張り切っていたのだが、あいにく雨である。目星をつけておいた観光スポットは屋外だったので、今回は行くのを諦めた。でも、どこかには行きたい!雨に打たれない場所で面白そうなところはないかと調べたところ、ブランデンブルク市になかなか面白そうなミュージアム、Industriemuseum Brandenburg(ブランデンブルグ産業博物館)があるとわかった。ブランデンブルク市は当然ながらブランデンブルク州にあり、ベルリンからブランデンブルク中央駅までは電車で46〜55分である。産業博物館は町の中心部からはやや外れた場所にある。

この博物館は、元製鋼所だ。先日訪れたプレサの火力発電所ミュージアムもそうなのだが、旧東ドイツには閉鎖された発電所や工場がミュージアムとして公開されているところがとても多い。それは、ドイツ統一後、旧東ドイツの産業が急激に衰退してしまったという喜ばしくない事実に起因するのだが、結果として現在、いろいろな興味深いものが見学できるので、観光客にとっては魅力的だ。

着いてみると、巨大な建物でびっくり。1912年に建設されたWeber-Walzwerkという製鋼所のあった場所だそうだが、第二次世界大戦で破壊されたので、この建物自体は1950年、旧東ドイツ(DDR)時代に再建されたもの。

このミュージアムの目玉は、ジーメンス・マルタン平炉(Siemens-Martin Ofen)と呼ばれる溶鉱炉である。

この炉の構造は、1856年にジーメンス兄弟が発明した。この構造の炉を使った製鋼法はフランスのマルタン親子により確立されたことから、ジーメンス・マルタン法と呼ばれるそうだ。と言われても、何がどうすごいのかよくわからないが、Wikipediaで調べてみたところ、このように書いてある。

平炉(へいろ、Open Hearth furnace, OH)とは、蓄熱室を有する反射炉の一種の平型炉で、主に精錬に用いられる。蓄熱炉とも呼ばれるが、蓄熱室を蓄熱炉と呼ぶこともあるため注意を要する。

原料としては銑鉄と鉄スクラップを用い、酸化剤として鉄鉱石を用いる。脱リンが容易であり、良質な鋼を得ることができたことから、長い間製鋼法の主流であったが、転炉電気炉の発展により、現在では東欧などで生産が見られるだけである。(Wikipedia: 平炉)

ミュージアムで見たショートフィルムの説明によると、1914年にはドイツにおける製鋼業の40%はこの平炉を使用していたという。その後、より近代的な方法が発明され、1980年以降は完全に旧式となり利益を生み出すものではなくなったが、旧東ドイツでは1993年までこの方法が取られていた。従って、この平炉は欧州で最も最近まで使われていた平炉の一つで、記念物に指定されている。原料は主にスクラップ。第一次世界大戦中、施設規模がどんどん拡大された。1920年、兵器スクラップを炉にくべたことが原因で、爆発事故が起きているが、ナチスの時代にも軍需によりさらなる拡充が進められた。

ミュージアムの中はこんな感じ。スケールが大きく、かなり見応えがある。(たくさん撮った写真の中から適当にセレクトしたので、順不同)

ヘルメット姿は小学生の男の子達

鉄板を切るカッター

第二次世界大戦中、ここでは外国人や捕虜、ユダヤ人など多くの人が過酷な条件の元、強制労働に従事させられていた。戦後、戦争賠償工場としてロシアの手に渡ったが、1949年に東ドイツ政府により再建された。当初の東ドイツの労働条件も酷かったらしく、1953年には東ベルリンを中心に労働者による大暴動が起こり、この工場の労働者の中からも犠牲者が出たそうである。

入館料6ユーロで大満足!(オーディオガイドは別途2ユーロ) 雨の日にも楽しめるベルリン近郊のおススメ観光スポットだ。

 

最寄の町、ポツダムからベルリンへ出るときにはいつも、都市間を結ぶRegionalbahnという電車を利用する。この電車はブランデンブルク市が始発で、フランクフルト(オーデル)が終点なのだが、ときどき終点がEisenhüttenstadt(アイゼンヒュッテンシュタット)となっていることがある。

私は、このアイゼンヒュッテンシュタットという町が以前から気になっていた。アイゼンヒュッテンシュタット。名前の響きに惹かれるものがある。どんな町なのだろうか。

 

しかし、誰かがアイゼンヒュッテンシュタットについて話しているのを聞いたことがない。誰も話題にしていないが、ベルリン行きの電車にそのまま乗っていれば行き着く町。どうしても気になるので、調べてみた。すると、この町は実は特別な町であることがわかった。しかも、誰も話題にしていないどころか、アイゼンヒュッテンシュタットを大いに話題にしている人がいるのである。それは、トム・ハンクスである。

 

アイゼンヒュッテンシュタットというのは、第二次世界大戦後、旧東ドイツ(DDR)で誕生した初の社会主義モデルシティであった。社会主義の理想の元に誕生した計画都市である。DDRの工業を支える拠点として、ここに新たに大規模製鉄所、Eisenhüttenkombinat J.W. Stalin(スターリン製鉄コンビナート)が建設され、その労働者25000人が生活する町として作られた。ロシアのマグニトゴルスクがモデルとなったという。単なるベッドタウンではなく、政治的な機能が重視され、人々が社会主義の実現のために「活動」することを目的とした空間作りがなされた。この町は当初、スターリンシュタット(スターリンの町)と名付けられたが、後に製鉄(Eisen)の町だからということでEisenhüttenstadtに改名されたそうだ。

 

このアイゼンヒュッテンシュタットを、俳優のトム・ハンクスが訪れたらしい。しかも、ハンクスはトークショーでアイゼンヒュッテンシュタットについて、熱く語っているではないか!

 

 

これは、行かなくては!!

 

ということで、アイゼンヒュッテンシュタットへ行って来た。この町は旧東ドイツの中でも特に東にある。

 

 

 

旧東ドイツの町というのは、面白みのないプレハブ団地が並び、それが老朽化してパッとしない景観になっているところが少なくない。社会主義時代の計画都市だというアイゼンヒュッテンシュタットは、その最もたるものなのではないかと想像していたのだが、実際に行ってみると、イメージとは違っていた。

 

まず、メインストリートであるリンデンアレーにあるツーリストインフォメーションで町の地図をもらう。

 

 

町の中心部は4つのWK(Wohnkomplex)という居住区に分かれており、観光案内所を出発点に徒歩で回ることができる。さっそく、WK Iから歩いてみた。

 

シンプルな四角いアパートが並んでいる。

 

記念広場のモニュメント。ここはかつて「ドイツ・ソヴィエト友好広場」と呼ばれていたそうだ。

 

広場をぐるりとアパートが囲んでいる。この建物は同じ旧社会主義国ポーランドのワルシャワで見たアパートの造りとそっくりだ。

 

WK IIに入ると、建物の雰囲気が変わった。

 

 

 

この居住区では建築にクラシックな要素が取り入れられ、なかなかお洒落である。

 

中庭はどこも、とても広々としている。

 

かつて「Aktivist」という大食堂だった建物。すごいネーミングだなあ。現在は左側の一部のみがレストランになっている。

 

WK IIIへ進もう。

 

この居住区では、出窓など「ドイツらしさ」が取り入れられ、ややロマンチックな雰囲気。

 

 

WK IVは外装のリノベーションが済んでいないため、散策ルートに含まれていなかった。メインストリートに戻る。

 

 

メインストリートはいかにもDDR!である。ベルリンの壁崩壊直後に訪れた旧東ドイツの雰囲気がそのまま残っている感じで、妙に懐かしい。

 

 

 

 

 

いや〜、なんか、いい感じだね。

 

町の作りを見て歩くだけでもかなり面白いのだが、この町には大変興味深いミュージアムがある。

 

Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR (DDR日常文化資料館)

 

保育園の建物を改装したミュージアムで、DDR時代の東ドイツ市民の生活について知ることができる。同じようなミュージアムはベルリンにいくつもあり、どれも興味深いが、ここもかなりオススメである。中は写真撮影は禁止なので、展示の内容を紹介できないのが残念。

 

このようにアイゼンヒュッテンシュタットは特徴ある町で、歴史的遺産として訪れる価値がある。日本人にはおそらく全くといっていいほど、そしてドイツ人の間ですら知名度が高くないが、トム・ハンクスに「発掘」され、Iron Hut City(Eisenhüttenstadtの直訳)として米国で紹介されたのをきっかけに、観光地として売り出そうとしたようだが、いまひとつ成功していないようだ。

 

ポーランドとの国境の町、フランクフルト(オーデル)市からわずか25kmなので、フランクフルトを訪れる人には是非、足を延ばして欲しい。

 

 

 

 

 

日曜の今日はベルリンのGatow地区にある軍事史博物館へ行って来た。この博物館はドレスデンにある連邦軍事史博物館の分館で、航空戦をテーマとした展示を行っている。博物館の敷地はナチスの時代に秘密基地として建設され、第二次世界大戦中は空軍兵士の訓練場となった空港だ。戦後の1948年にベルリンがソビエトにより封鎖された際、西ベルリンへの生活物資を空輸するのに使われた空港の一つだという。

 

 

兵士の学びの場としての機能を果たすだけでなく、一般市民にも無料で公開されており、歴史を学び、軍事に関する議論を活発化させることを目的とした展示を行っている。

 

 

広い敷地にはすごい数の軍用機が展示されている。私は軍事関係には非常に疎く、ましてや軍用機には全くの無知。空軍にいたことのある夫がいろいろ説明してくれた。

当然のことながら、軍用機にはいろいろなタイプがある。外形区分はこうで技術的にはこう、どのような任務に使われる航空機なのか、どこの国でどの時代に製造されたものかなど、一つ一つ説明してくれるのだが、予備知識がないため、とりあえずチンプンカンプンである。

 

 

「これはMiG-23。NATO-CodeではFlogger Hと呼ばれていた」
「NATO-Codeって、何?」
「NATO側が東側の兵器につけた名称だよ。航空機の種類によって、頭文字が違うんだ。Fは戦闘機、ファイターのF。爆撃機(ボンバー)はBで始まる名前がついている。輸送機(キャリアー)はC、ヘリコプターはH」

「これはオレが空軍にいた頃に、パイロットの練習用に最もよく使われていたものだよ。オラフもこれに乗って練習していたよ」

Piaggioという飛行機だそうである。ちなみにオラフというのは夫の空軍時代の同期で、夫は民間人に戻ったが、オラフは兵役後、職業軍人となって空軍パイロットの道を歩んだ。現在はすでに退官して、バルト海のロストック市でパイロット飲み屋を営んでいる。店内が空軍グッズで埋め尽くされている珍しい居酒屋だ。

 

 

「これも練習機だね?Schulflugzeugと書いてある」
「これは、スターファイターだ。多くの不幸を生み出して、未亡人製造機と呼ばれた戦闘機なんだよ」
「どういうことなの?」
「事故が圧倒的に多かったんだよ。ほら、ここにも書いてある。1/3が墜落した」
「えーっ!!飛行士は練習中に亡くなったの?」
「練習中に決まっているじゃないか。西ドイツ軍が戦争をしたことはないんだから」

この戦闘機は27年間に渡って訓練に使われたが、その間、合計292機が墜落し、116名が命を落としたそうである。絶句。

 

墜落した飛行機からパラシュートで脱出し、運良く一命をとりとめた教官が墜落時の状況について描いた図。

 

 

「これはナイキミサイル。アメリカ製だけど、ドイツ軍も保有していた。核弾頭を搭載できるんだ」

「でも、ドイツは核を保有していないでしょう」

「ドイツ軍は核兵器は保有していないけど、アメリカの核兵器がドイツの基地に配備されているからね。もちろん、ドイツ軍に起動決定権はない」

 

博物館敷地内の格納庫内では軍事史の展示が見られる。格納庫の一つ、ハンガー7には第二次世界大戦後についての説明があって、そのそれぞれのエポックに使用された軍用機が陳列されている。

 

 

展示は非常に興味深かった。

戦後すぐは東ドイツも西ドイツも独自の軍隊を持たなかった。1955年の再軍備の際、西ドイツ国民からは激しい抵抗の声が上がった。

 

「ドルのためであろうと、ルーブルのためであろうと、我々は死ぬつもりはない!」

 


西ドイツ初期連邦大統領、コンラート・アデナウアーも使用した軍用ヘリコプター。

 

ドイツ連邦軍の兵士養成にあたる教官には第二次世界大戦で戦った軍人らが採用された(他に軍事経験のある人がいなかったから)が、かつての軍の伝統は戦後の新しい価値観にはそぐわず、多くの議論を引き起こしたようだ。新しい価値観を持つ若い兵士らと昔ながらの教官らとの摩擦の末、1971年、長髪やヒゲがOKになると、これではGerman Air Force (ドイツ空軍)ではなくてGerman Hair Forceだと揶揄された。また、西ドイツの連邦軍は東ドイツの国家人民軍と比べると「緩く」、金曜になると兵士らは「やったー。ウィークエンドだ〜」と一斉に自宅や恋人のところへ帰るのが当たり前だった。そんな東西の違いもある。

 

博物館の規模が大きく情報が膨大で、新しいことだらけで処理できないので、触りだけにしておこう。

まったく、自分は何も知らないなあ、と思った。軍用機の種類や技術に詳しくなる必要性は必ずしもないが、軍事とは何か、国は自らをどう守るべきなのかについては知っておくべきなんだろう。知らないものについては議論することもできないから。

 

 

 

 

ある秋の日曜、私と夫はザクセン・アンハルト州の小さな町、ネブラを訪れることにした。世界最古の天文盤とされる「ネブラ・ディスク(die Himmelsscheibe von Nebra)」が出土された場所を見るためだ。

 

(Flickr/Patrik Tschudin)

 

ネブラ・ディスク、それは1999年に発見された天文盤だ。紀元前1600年頃の青銅器時代の遺物とされ、現在はユネスコ記憶遺産に登録されている。青銅製の円板の上に太陽と三日月、そして32個の星を表す金のインレーが嵌め込まれている。

 

この天文盤はミッテルベルク・プラトーという丘陵地にあるネブラに埋まっていた。

 

ネブラに到着した私たちは駐車場に車を止め、ビジターセンターとおぼしき建物へ向かった。

 

ビジターセンター(Arche Nebra)

 

ビジターセンターに入り、「出土地はどこですか」と尋ねると、係員の女性は「ここから約3km、丘を上がったところですよ」と教えてくれた。

 

丘を3kmも登るのか、、、、。

 

窓から見える丘の向こうが出土地

 

「シャトルバスもあります。あと10分で出発しますが、先に出土地を見ますか?それともプラネタリウムを見ますか?」

なんだ、バスがあるんじゃないの。よかった。もうじき出発だと言うので、ビジターセンターを見るのは後回しにして、バスで出土地に行くことにした。間もなくやって来たのは、バスというよりもワゴン車。中年の女性とその息子と思われる小学生男子が乗っていた。

「帰りは好きなときに歩いて戻ってくださいね。下り坂だから、大丈夫ですよね?」
シャトルバスと言いながら、片道であった。

森の中を抜け、あっという間に到着した原っぱにそのスポットはあった。

 

この丸いフェンスで囲まれたところから天文盤が発掘された

 

 

ディスクが掘り出された中央部には現在、このようなステンレス製の円板が埋め込まれている。空を映すこの鏡は「天空の目(Himmelsauge)」と呼ばれるそうだ。

ネブラ・ディスクの発見ストーリーは謎めいている。この天文盤は考古学者らにより発掘されたのではなく、盗掘品であった。違法な取引きによって人の手から手へと渡った後、2002年、正式に保護された。青銅器時代、この地に住んでいたウーネチツェ人が天体を観察するために使っていたとされる。しかし、肝心の天文盤はここにはなく、近郊の都市、ハレの先史博物館にある。丘の下のビジターセンターではそのレプリカが見られるだけである。

 

 

すぐそばには見晴らし台が建っている。

 

見晴らし台からの眺め

 

そして、この見晴らし台は日時計でもあるのだ。

 

 

地面に引かれたラインはブロッケン山という高い山の方角を示していて、夏至にはちょうどこの方角に太陽が沈む。人里離れた静かなこの地で青銅器時代の人たちがディスクを見ながら天体の動きを観測していたのだなあと想像すると、なんともロマンチックである。

 

さて、出土地を確認した私たちは満足し、3kmの道のりを下った。シャトルバスの運転手さんが言うように、下り坂なのですぐに降りてしまった。ビジターセンターではネブラ・ディスクについての展示やプラネタリウムを見ることができる。(ちなみに、プラネタリウムでは結婚式も挙げられるそうだ)

 

 

駐車場前にはこんなレストランがあり、なかなか雰囲気良し。

 

 

アプフェルシュトルーデルというリンゴのパイを頼んだら、ネブラ・ディスク風の盛り付けになっていて、でも、雑で可笑しかった。

 

 

 

 

 

春の訪れとともに、出かけたい欲が急激に高まって来た。

冬の間も観光ができないことはないが、ドイツの冬は日が短く、すぐに真っ暗になってしまう。天気が良くない日が多い上に、観光できる時間が限られるとなると、遠出しにくい。特に、屋外や地方のマニアックな観光スポットは、観光客が少ない冬季にはサービスを休止しているところが多い。冬は旅行好きにはもどかしい季節だ。

 

3月の声を聞いたら、居ても立ってもいられなくなった。ようやくシーズン開幕だ。さて、週末にはどこへ行こう?

 

訪れたい場所リストの中から狙いをつけたのは、ブランデンブルク州南部とザクセン州東部にまたがる地域、ラウジッツである。褐炭の豊富なこの地域は、まだドイツが東西に分かれていた頃、旧東ドイツ(DDR)のエネルギー産業を支える重要な工業地帯だった。1990年のドイツ統一後、旧東ドイツの産業は急激に衰退し、多くの発電所や工場が閉鎖されたが、施設のいくつかは産業遺産に指定され、観光スポットになっている。特に、褐炭採掘場や関連施設を結ぶ「エネルギールート」は、ラウジッツ産業観光のハイライトであるらしい。よしっ、このスポットのどれかを見学に行こう!

 

しかし、やはり少々気が早かったのか、スポットの多くは4月にならないとオープンにならない。なかばがっかりしつつ、どこかないかと片っぱしからリンクを開いてチェックしていたところ、3月から訪問者を受け付けているスポットがようやく見つかった。Erlebniskraftwerk Plessa (プレサ発電所ミュージアム)である。ウェブサイトを見ると、個人ガイドツアー申し込み可とある。早速、オンラインで私と夫の二人分を申し込んだ。

 

翌日、ミュージアムから電話がかかって来た。

「ハロー。こちらはプレサ発電所ですが、ガイドツアーに申し込まれたのはあなたですか」
「はい、そうです」
「明日、ツアーをご希望とのことですが、他の週末にしてもらえませんかね?」
「エッ!?明日は無理なのですか?」

張り切っていたのに、いきなり出鼻をくじかれた。

「無理っていうか、冬の間、ミュージアム閉めてたもので、水が出ないんですよ。水道管のトラブルがあって、まだ修理してなくて」
「できれば明日伺いたかったんですよね。水が出ないと、ツアーに支障があるんでしょうか」
「トイレに行っても、流せないですよ」
「トイレ?問題はそれだけですか?」
「まあ、そうです」
「トイレなんて、いいですよ。どうにかしますから」
「そうですか?だったらいいけど。じゃあ、明日、お待ちしてますね」
「はい、よろしくお願いしますっ!」

よかった。無事、ツアーを実行することができそうだ。

翌朝、早起きして車に飛び乗った私と夫は、ブランデンブルク州を南下し、プレサへ向かった。

 

 

 

到着。大きくて全体を一枚に収めることができないが、煙突が2本ある赤レンガの建物である。

 

 

 

ツアー予約時刻の10分ほど前に着いたら、まだ門が閉まっていた。カメラを持って周囲をウロウロしていると、中年男性のグループが声をかけて来た。

「あなたもここで写真を撮るんですか?」
「私たちは見学ですよ。写真も何枚か撮るつもりですが」
「私たちは写真を撮る目的で来たんですよ、ベルリンから。ここ、凄いって聞いたからね」

ベルリンの一眼レフ愛好家のグループらしい。

まもなくミュージアムの人が自転車に乗ってやって来て、ツアーが始まった。

プレサ火力発電所は1927年に運転を開始し、ドイツ統一の2年後に閉鎖された。現在、ほぼ操業開始時のままのかたちで残っている発電所としては、欧州で最も古いものの一つだという。

 


褐炭を積んだワゴンがここに入るとワゴンの側面が開き、褐炭がレール左右の穴に落ちる。

 

褐炭を運び入れるのに使われた車輌

 

運転席

 

しかし、冬場には褐炭がワゴンの中で凍りつき、うまく落ちないことがよくあった。そんなときにはワゴンよりも高い位置に設置したStöckerbühneと呼ばれるプラットフォームから長い鉄棒でワゴンにくっついた褐炭をつついて落とす作業が必要だった。そこに展示してある棒は長く、恐ろしく重い。こんなものを誰が持って作業できるというのだろうと不思議に思ったが、兵士が動員されていたという。

 

 

穴に落ちた褐炭はいったんそこに溜めておき、そのうちの一定量がそのさらに一段下に落ちて燃焼炉に運ばれるのだが、ここでも側壁に引っかかってうまく落ちないことがある。引っかかった褐炭は壁の外側についた三角形の窓を開け、棒で落とす。この作業は女性労働者がやっていたそうだ。

 

 

そして、褐炭はこのようなコンベヤーで燃焼炉に運ばれた。

 

建物の中はどこもかしこも、すごい光景である。年代物の設備の多くがかなり良い状態で保存されている。ガイドツアーの内容も興味深いが、工場萌えフォトグラファーには堪らない場所に違いない。実際、ベルリンから来たフォトグラファー達は興奮して写真を撮りまくっていた。機関室の隅にはモダンなシステムキッチンが備えてあったので不思議に思い、なぜそんなものがあるのかとガイドさんに聞くと、ときどきこのミュージアムはパーティ会場として貸し出しするのだという。赤や紫の照明で照らせば最高にクールだろう。

 

一つ一つ説明を加えると記事が長くなりすぎるので、ここからは写真のみ。残念ながら私はこの手の写真が得意ではないので(他の写真も別に上手くはないが、、、)、マニアックさがうまく伝わらないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

私はこのコントロールルームに痺れてしまった

 

東ドイツの産業史という観点からも非常に興味深いミュージアムである。DDR時代、この発電所は多くの地域住民を雇用していた。発電所での仕事の大部分は重労働である上に、建物内は熱気や粉塵が酷く、健康への影響も相当であっただろう。その代わり、賃金は比較的高く、年金の条件も良かったという。発電所の閉鎖により人々は職を失ったが、この建物がミュージアムとして一般公開されるようになり、現在はかつての被雇用者数の約1/3にあたる人数が働いている。

 

さて、発電所の見学を終えた私たちは、周辺を探索してみた。

 

発電所のすぐ隣はソーラーパークになっている。これも時代を感じさせる光景だ。褐炭による発電はエネルギー効率が低く、環境への負荷も非常に大きい。プレサ発電所のエネルギー効率はなんと、わずか18%。しかし、旧東ドイツ時代には褐炭という資源に頼らざるを得なかった。環境保護など二の次であったに違いない。

 

発電所から少し離れた場所には、発電所と褐炭採掘場の事務所と思われる建物があった。

 

そして、その先は森なのだが、森のでこぼこ道を車で走っていたら木々の向こうに湖が見えて来た。ふと湖面に目をやり、

 

な、なんだあれは!?

 

衝撃的な光景に慌てて車を止め、外に飛び出した。なんと、湖の水が真っ赤なのである。

 

 

 

まるで血のように赤い!!一体、なぜ?

 

 

 

「わかった、これは褐炭の色だ!」と夫が叫んだ。なるほど、、、。不思議な景色である。

 

この後、近郊の露天掘り場を見るつもりだったのだが、森の中で迷ってしまい、残念ながら見つけられなかった。その代わりにLauchhammerという場所にこんなものを発見!

 


これもこの地方の産業遺産の一つで、Biotürme(バイオタワー)と呼ばれるものらしい。ここにはDDRの重工業の礎となった巨大なコークス工場があった。工場が廃止され、設備が解体されたとき、この24のタワーのみが残された。なぜコークス工場なのにバイオタワーなのかというと、コークスを製造する際に出るフェノールを多く含んだ汚水をこのタワーの中でバクテリアを使って浄化していたから。それにしても、たいして何もなさそうな田舎にこんなものが突然そびえ立っているのだから凄い。

 

このように、ラウジッツ地方には面白い産業遺産がたくさんあるのだ。宮殿や教会のような、いわゆる美しい建物とは一線を画す観光スポットだが、DDRの産業について知ることができ、大変興味深い。