2017年度もあとわずか。師走で慌ただしいのと日が短いのとで探索活動が停滞気味なのだが、先週、ベルリン在住のライター、久保田由希(@kubomaga)さんにお誘い頂き、素敵な場所へ行って来た。久保田さんはベルリンを中心にドイツのライフスタイルや都市文化、社会文化について幅広く発信されている。私は久保田さんの豊富な情報からよくヒントを頂いているのであるが、久保田さんによると、ベルリンの郊外には「ストーブの町」なる場所があるらしい。ストーブの町って?

ベルリン中心部から北西に約40kmに位置するフェルテン(Velten)は、19世紀から20世紀の初めにかけカッヘルオーフェン(Kachelofen)と呼ばれる陶製ストーブの生産で栄えた町だという。現在、そこにはドイツ国内でも類を見ない様々なカッヘルオーフェンを集めた博物館、Ofen- und Keramikmuseum Veltenがあるとのこと。カッヘルオーフェンというのは日本人には馴染みが薄いかもしれないが、ヨーロッパのお城などでよく目にする外側にタイルを貼った陶製放熱器(クローズ式のタイル張りストーブ)のことだ。面白そうなので、すでにフェルテンに行かれたことのある久保田さんの案内で博物館を見に行くことにした。

 

 

久保田さんとはフェルテンの駅で待ち合わせ。フェルテンは小さな町だが、駅前にはこのような、なかなか立派なベーカリーがあって、中で食事もできる。腹が減っては戦はできぬということで、まずは軽く腹ごしらえをすることに。(このときカメラを車の中に忘れたので、写真は久保田さんが撮影したものをお借りしてます)

©Yuki Kubota

意外にも、と言うのもなんだけれど、このベーカリーのパンはかなりレベルが高かった。他のパン屋では見かけないようなパンもあって、どれも美味しそう。店内の雰囲気も良い。

 

©Yuki Kubota

キョロキョロ見回すと、店の奥にカッヘルオーフェンがあった!

©Yuki Kubota

グレーの壁の前にあるのがカッヘルオーフェンである。ストーブ生産の全盛期にはフェル店には少なくとも37のストーブ工場があった。このカッヘルオーフェンもその一つで作られたものかもしれない。(未確認情報です)

 

食事を済ませたら、遅くならないうちに博物館へ行かなくては。なにしろ、今の時期はあっという間に暗くなってしまう。

フェルテン・ストーブ・陶器博物館(Ofen- und Keramikmuseum Velten)は、フェルテンの最後のストーブ工場、Ofenfabrik Schmidt, Lehmann & Co.の建物の中にある。1899年に建設されたこの建物は2012年に記念物に指定されている。

 

最上階が展示スペースで、そこには様々なスタイルのカッフェルオーフェン75台が展示されている。カッフェルオーフェンは暖房器具であると同時に調度品でもあり、ぱっと眺めただけでも形状や装飾にはその時々の流行があったことが伺える。

そもそもフェルテンでカッフェルオーフェンの生産が盛んになったのは、このあたりの土壌が石灰質を多く含む上質の粘土でレンガやタイル作りに適していたためだ。19世紀後半にドイツが建築ブームに湧くとストーブの需要も増大し、フェルテンに次々とストーブ工場が建てられた。フェルテンの上質な白いホーロータイルを使ったストーブはとても人気で、ベルリンだけでなくドイツ全国、そしてロシアまで運ばれた。

19世紀半ばからドイツでは様々な産業分野で技術革新が起こったが、陶器生産分野も例外ではなかった。1858年に技術士フリードリッヒ・ホフマンが考案し、特許を取得したホフマン窯(Ringofen)という技術は画期的で、釜を環状に配置し順番に利用することでエネルギー効率が大幅に改善した。これによって大量生産が可能となった。

上の写真からわかる通り、カッヘルオーフェンの陶製の放熱面には凝った装飾が施されているが、そもそもなぜこのような形になったのだろうか。このような発達図が貼ってあった。

最初はむき出しだった火床を半球状のフードで覆うことで熱をストーブ内部に蓄えることができるようになった。蓄熱力を高めるようフードが次第に大きくなり、デザイン的・装飾的要素が加味されていったということだろうか。

順不同だが(ミュージアム内では年代順に展示されているのだが、よくわからなくなってしまった)、いろいろなデザインがあって、見ていて楽しい。

 

 

 

 

Damenzimmerofen(婦人の間のストーブ)。

これは子ども部屋用ストーブ。

子供部屋らしい模様?子ども部屋にこんな立派な暖房器具が置かれたことに現代の庶民の私は唖然としてしまうが、このストーブは表面がそれほど熱くならず、熱風が吹き出して来ることもないので、火傷の危険がなくて子ども部屋に適しているのかもしれない。カッヘルオーフェンは溜めた熱をゆっくりと放射して広い室内も満遍なく暖める。ミュージアム内の煙突部分にはベンチ型の座れるカッヘルオーフェンもあったので、試しに腰掛けてみた。座面と背面のタイルはじんわりと暖かく快適で、ゆっくりと本でも読んでいられそうだ。

 

これはマイセン産のカッフェルオーフェン。食器であまりに有名なマイセンだが、カッヘルオーフェンも生産していた。短期間のうちにベルリンのタイル市場で大きなシェアを占めるようになり、フェルテンのメーカーにとって強力なライバルとなったが、マイセンの粘土はフェルテンのものよりも耐火性により優れていたが、タイル表面に細かいヒビが入りやすいという特徴があった。

ところで、フェルテンのタイルはストーブに使われていただけではない。ベルリンを訪れた人なら、ベルリンの地下鉄の駅の壁には駅ごとにそれぞれ色の違うタイルが貼られているのを知っているだろう。地下鉄の駅にもフェルテンで製造されたタイルが使われているのだ。

 

ベルリンの周辺には、第二次世界大戦敗戦とそれに続く旧東ドイツ時代の社会主義体制の中ですっかりと産業が廃れてしまったが、戦前には重要な産業都市だったところが少なくない。小さな町のミュージアムだからたいしたことがないだろうと決めつけずに入ってみると、ベルリンの興隆とともに発展したそれらの町の過去を想像することができて面白い。

実はこのストーブ博物館の隣にはもう一つHedwig Bollhagen Museumというミュージアムがある。20世紀を代表するドイツの陶芸家の一人、ヘートヴィヒ・ボルハーゲンの作品が見られる。せっかくなので、こちらにも寄ってみた。

私はどちらかというと陶器は日本のものが好きで、洋食器にはそれほど魅力を感じないのだけれど、ボルハーゲンの陶器はとても気に入った。このミュージアムではオーディオガイドでボルハーゲンの一生についての説明を聞きながら、彼女の作品の多様なデザインを楽しむことができる。

 

 

私は幾何学的な模様が好きなので、写真のような作品が特に気に入ったが、花柄や動物柄など、いろいろなものがある。興味のある方は、こちらのサイトのギャラリーをどうぞ。

ボルハーゲンはその人物像も興味深い。ストーブとは別テーマなのでこの記事では詳しく紹介しないけれど、久保田さんがご自身のブログやNHKドイツ語テキストなどで書いておられるので、例えば、フェルテン近郊マルヴィッツにあるボルハーゲンの工房取材後に書かれたこちらの記事などをお読み頂ければ。

 

二つのミュージアムを見て外に出たらもう薄暗かったので、町歩きはできなかったが、再びお腹が空いて来たので、町の中心部に見つけたイタリアンレストランでパスタを食べながら久保田さんといろいろお喋りして楽しかった。そんなわけで久保田さんのお誘いで良い観光ができたというのに、記念のツーショットを撮ることをすっかり忘れていた私である。どうも多方面に気が回らないんだよね、、、。

久保田さん、どうもありがとうございました。

さて、いつもは一人寂しく(?)、または夫を付き合わせて実行している「まにあっくドイツ観光」ですが、アイディア提供、コラボのお誘いなど歓迎です。「うちの近くにこんな場所あるよ!」とか「こういうところへ行くけれど、一緒にいかが?」などありましたら、お気軽にツイッター(@chikacaputh)を通してメッセージください。ドイツ国内に限らず、番外編として周辺諸国へも喜んで行きますよ。

 

 

 

先日、シュヴェービッシェ・アルプの洞窟群を訪れるため、南ドイツのハイデンハイムという町に1週間ほど滞在した。ハイデンハイムを拠点としてブラウボイレンやローネ渓谷など、考古学的見所を回っていたのだが、地図を眺めていたらハイデンハイムはオーバーコッヘン(Oberkochen)が近いことがわかった。オーバーコッヘンは小さな町だが、光学に関心のある人ならきっと知っているだろう。世界的光学機器メーカー、カール・ツァイス社(Calr Zeiss)の本社のある町だ。

ツァイス社は1846年、旧東ドイツのイェーナに設立されたが、第二次世界大戦でドイツが敗戦すると東の「カール・ツァイス・イェーナ」と西の「カール・ツァイス・オプトン」(オーバーコッヘン)に分断され、それぞれ独自の発展を遂げた。ドイツ再統一後、両社はツァイス・イェーナがツァイス・オプトンに吸収される形で統合された。現在、イェーナとオーバーコッヘンのそれぞれに光学博物館がある。これまでにイェーナのツァイス光学博物館とドイツ光学産業の発祥地であるラーテナウの光学博物館を訪れ、どちらもとても面白かったので、オーバーコッヘンのツァイス博物館、ZEISS Museum der Optikへも行ってみることにした。

 

 

光学博物館は独立した建物ではなく、ツァイス社のビルの中にある。1階部分がミュージアムスペース。

見学は無料で、フロアに入ってすぐの場所にツァイス社のプラネタリウム投影機がどーんと置かれている。

 

イェーナの光学博物館とは異なり、博物館というよりもどちらかというとショールーム的な空間だ。フロア中央部にはツァイス社製の医療機器など、最新のプロダクトも展示されている。

 

光学や天文学の歴史、技術史のコーナーもあり、中高生の学習にちょうど良さそうだ。

 

天文学史の展示でザクセン=アンハルト州ネブラで発掘された世界最古の天文盤、ネブラ・ディスクが紹介されていたので嬉しくなった。ネブラ・ディスクについては過去記事で紹介した。

 

館内にはツァイス製のプラネタリウムもある。

 

ツァイス製レンズを使用したカメラのディスプレイ。プロター、プラナー、テッサーなどツァイスの名レンズも見られる。

 

展示を見ていたら、突然「東郷平八郎」の名前が出て来たのでおやっと思った。「東洋のネルソン」と呼ばれた明治時代の海軍指揮官、東郷が日露戦争において日本を勝利に導くことに成功したのには、ツァイス製レンズが一役買っているという。東郷はツァイスの双眼鏡を使っていたそうだ。へえー。

 

他にも様々なものが展示されていたが、あまり写真を撮らなかったので今回はこれだけで。

 

ドイツ光学産業の歴史やツァイス社の歴史を詳しく知るにはイェーナのツァイス博物館の方が展示が充実していると感じたが、ツァイス社の歴代プロダクトや最新技術に興味がある場合はこちらが良いのかもしれない。私は光学の知識がほとんどないので技術的内容は消化できないが、これまでラーテノウ、イェーナ、オーバーコッヘンと回って来てドイツの産業史に興味を持つようになった。光学以外の分野の歴史も今後、探ってみたい。

 

 

ネルトリンゲンでは真っ先にリース・クレーター博物館へ行き、リース・クレーターとそれが形成される原因となった1450万年前の隕石落下についての展示を見た。ネルトリンゲンを含む表面積およそ1800km²のリース・クレーターは現在、ジオパークに指定されている(Goepark Ries).

このジオパークには全部で6つのジオトープがあり、散策しながら隕石衝突の跡を観察することができる。個人でも歩いても構わないが、専門のガイドさんに案内してもらうこともできると聞き、ツーリストインフォメーションでガイドさんを手配してもらった。運良く、ネルトリンゲンから約1.5km南のジオトープ・リンドレ(Lindle)を案内してもらえることになった。

 

 


リースクレーターは二重のリング構造をしていて、ネルトリンゲンは内側のリング上に位置している。クレーターの形成については前記事に書いたが、今回私たちが歩くことになったジオトープ・リンドレは、上の写真の赤丸の場所で、内と外の両リングに挟まれた「メガブロック・ゾーン」にある。このゾーンは隕石衝突の衝撃で砕けた岩石がクレーターの内側に滑り落ちた崖となっていて、衝撃の跡が観察できる。

ジオトープ・リンドレはかつて採石場として利用されていた。岩肌を見ながら2時間ほどかけてぐるりと回る。

黄土は古くから顔料として使われた。右上に見える赤土はジュラ紀の鉄砂岩。

 

隕石衝突で斜めや縦にずれた岩石。

衝撃波で粉々に砕けた石灰岩。

 

この崖ではアポロ14号および17号の宇宙飛行士らが事前訓練を行った。

 

ジオトープでは岩肌を観察するだけでなく、岩石のかけらをハンマーで叩いて持ち帰ることも許可されている。

 

私は燧石(火打ち石)を採取することにした。

 

艶のあるグレーの部分が燧石。石器時代の人々はフリントとも呼ばれるこの石で火を起こしただけでなく、叩いて加工し、道具として使っていた。

 

ガイドさんがこのジオトープで採集された化石や石をリュックから出して説明してくれた。

真ん中の濃い色をした物体は白亜紀に絶滅したイカ、ベレムナイトの化石だ。バルト海の海岸にはベレムナイトの化石が大量に落ちているので私には馴染みがある。少しピンボケになってしまったが、その下(手前)の物体もやはりベレムナイトで、隕石衝突の衝撃でこのような形に変形してしまったそうだ。

ここの採石場ではスエバイトを切り出していた。前記事でも触れたが、スエバイトとは特殊な角礫岩で、隕石衝突の衝撃で溶融した岩石が急冷してできたガラスの破片がとりこまれている。シュヴァーベンシュタイン(シュヴァーベン地方の石)とも呼ばれ、ローマ時代からこの地方では建築材として利用されて来た。ネルトリンゲンでは市庁舎やゲオルグ教会、バルディンガー門などに使われている。また現代はセメントの強化剤としても使われる。

 

スエバイトのかけらを採る夫。スエバイトには隕石衝突の瞬間の高温・高圧下で形成された衝突ダイヤモンドが含まれているそうだ。でも、すごく小さい(1mmにも満たない)ので、商業利用価値はないらしい。

 



博物館で隕石衝突について知るのも興味深いが、やはり現場を見るのはもっと面白い。他の5つのジオトープも全部歩きたかったが、今回は時間の関係でリンドレしか見られなかった。

書ききれなかったこともあるが、シュヴェービッシェ・アルプおよびネルトリンゲンのジオパーク巡りは本当に楽しく、満たされた。ジオ旅行では野外をたくさん歩くので、健康的なのも良い。私は文化にも興味があるが、文化は価値観と結びついているだけにいろいろと考えさせられ、悩ましいこともある。自然には素直な気持ちで接することができるのがいいな。

これから冬に入ると寒くて野外活動は厳しくなるけれど、また春になって他のジオパークを訪れるのが楽しみ。

 

 

前回の記事ではシュタインハイム・クレーターについて紹介したが、 シュタインハイムの隕石落下とおそらく同時期に、さらに大規模な直径約1000メートルの隕石がそこから40km北東に落下し、直径25kmにも及ぶ巨大なクレーターを作った。リース・クレーターと呼ばれるそのクレーターは、現在ジオパークになっている。クレーターの内側に位置するネルトリンゲンという町にはリース・クレーター博物館(Ries Kratermuseum Nörtlingen)があるらしい。シュタインハイム・クレーターを見たからには、その兄分であるリース・クレーターも是非訪れたかった。ということで、1週間滞在したシュヴェービッシェ・アルプを後にし、ネルトリンゲンへ向かった。

 

ネルトリンゲンは日本でもよく知られる観光ルート、ロマンチック街道沿いにあり、中世の街並みが人気だ。しかし、今回はまにあっく観光旅行なので、街並みを楽しむのは後回しにして、リース・クレーター博物館へ直行する。

 

入り口はあまり目立たない。

ネルトリンゲンのリース・クレーターとシュタインハイム・クレーターの位置関係と大きさの比較。両者は二重の小惑星によって形成されたとされている。

ミュージアムではリース・クレーターについてのみでなく、天体や隕石、クレーター全般について知ることができる。かなり充実した内容だけれど、なぜか展示はドイツ語のみだった。他ではなかなか見られない内容なのだから、英語の説明もあったらいいのに。

リース・クレーターはわずか10分の間に形成された。小惑星衝突の衝撃で地面がくぼむと同時に周囲が同心円状に盛り上がり、衝突の衝撃で砕けて溶け、空中に舞い上がった岩石が再び地表に降り積もってがれきの層を作った。この時、この地域の地層の様々な層の岩石が複雑に入り混じり、「ブンテ角礫岩(Bunte Breccie)」と呼ばれる特異な礫岩を形成した。また、ブンテ角礫岩の間には、隕石衝突の衝撃によって溶融した岩石が急冷してできたガラスの破片がとりこまれた「スエバイト(Suevite)」という特殊な角礫岩が混じっている。つまり、一言でいうと、リース・クレーターは「すごく珍しい岩石が見られる場所」なのである。

 

様々な岩石がリース・クレーター中心部からの距離と方向がわかるように展示されている。

中心部からやや離れた場所。

中心部のスクリーンでクレーター形成についての説明動画を見る。とても面白かった。しかし、リース・クレーターの形成が隕石によるものであることが明らかになったのはわりあい最近のことだそう。それ以前には火山活動によるものではないか、いや氷河によるものだろう、いやテクトニクスだと、様々な仮説が提示されていた。1904年にエルンスト・ヴェルナーが初めて隕石衝突説を唱えたものの相手にされず、1933年には米国アリゾナ州のバリンジャー・クレーターを訪れたオットー・シュトゥッツアーも改めて隕石説を発表したが、やはり笑い者になっただけだった。しかし、1960年、米国の天文学者、ユージン・シューメーカーがアポロ計画で採取された岩石を分析し、リース・クレーターが隕石衝突によって形成されたものであることを証明した。その後、リース・クレーターはミッション前の宇宙飛行士の訓練場にもなっている。

 

月の石

隕石に関する展示もとても興味深い。隕石のタイプには石質隕石、鉄隕石、石鉄隕石があるが、ネルトリンゲンに落下したのは数の上で最も多い石質隕石である。

これは、1822年にチリのアカタマ砂漠で見つかったイミラックと呼ばれる石鉄隕石。綺麗なので写真を撮ったのだが、あとで調べたところ、かなり希少な石鉄隕石らしい。

これは、2002年4月6日にバイエルン州ノイシュヴァンシュタイン城に落下した隕石。

チェリヤビンスク隕石。私は最近まで大学で自然科学を学んでいたのだが、たまたま小惑星の地球との衝突について学んでいた2013年2月、ふと勉強の合間にツイッターを開けると、「空から何かが降って来た!」と大騒ぎになっていてびっくりした。しばらくするとロシアのチェリヤビンスクに隕石が落下したというニュースが流れて再びびっくりしたのでよく覚えている。

 

リース・クレーターの形成時期は今から約1450万年前と推定されているが、絶対年代は先に述べたスエバイトに含まれるガラス質中の放射性同位体の崩壊を利用して測定される。それと並行して、堆積物中の化石を元にクレーターの地層の相対年代が測定される。

見事なアンモナイト!!

ボーリングの道具を利用した地層の展示。

シュタインハイムのメテオクレーター博物館でも見たが、ここでもモルダバイトが見られる。

 

かつてリース・クレーターは水で満たされ、湖となっていが、湖の岸辺だったと思われる場所では鳥の卵の化石が見つかっている。卵の化石は初めて見た。

 

これは恐竜絶滅をもたらしたとされるメキシコ、ユカタン半島のチュシュクルーブ・クレーター探索において米国ニューメキシコ州ラトン盆地で採取された岩石標本の断面。上部の濃いグレーの層(白亜紀)と下部のグレーの層(第三紀)の間には薄い白っぽい層が見られるが、この境界層には1トンにつき56gという大量のイリジウムが含まれている。イリジウムは地球上にはほとんど存在せず、下のグレーの層(第三紀)には1トンにつきわずか0.03gしか含まれていないことから、この境界の層は隕石が衝突した証拠とみなされるそうだ。

他にも興味深いものがたくさん展示されていたが、紹介しきれないので、このくらいに。リース・クレーター博物館のすぐ脇にはジオパーク・リース・インオメーション(Geopark Ries Infostelle)があり、小さいがこちらもとても面白い。博物館を出て、家で留守番をしている娘に土産でも買おうかと近くのアクセサリーショップに入ったら、店の女主人が「いつネルトリンゲンに来たの?ぜひ、クレーター博物館も見て行ってね!」と言うので、「あ、早速見て来ましたよ」と答えると、「よかったでしょ!やっぱり、ネルトリンゲンに来たらクレーター博物館を見ないと!見ないで帰っちゃう人もいるのよねえ。中世の街並みを見たくて来たって言う人も多いけど、中世の街並みなんて、他のところにもあるでしょう?ネルトリンゲンっていったら、クレーターなのよ」と女主人は力説した。確かにネルトリンゲンに来たならば、クレーター博物館は必見だろう。

しかし、クレーター博物館だけがネルトリンゲンならではの魅力ではない。博物館を見たら、今度は実際にジオパークの中を歩いてみなければこの町がクレーターの中にあることは実感できない。それについては次回の記事に。

 

 

 

シュヴェービッシェ・アルプ旅行では合計11の洞窟を見て回り、心はすっかり氷河期モードだったが、見たのは洞窟だけというわけでもない。拠点として滞在していたハイデンハイム近郊にはシュタインハイムという名の村がある。人口1万3000人弱の小さな村で、私はこれまで聞いたことがなかったのだが、実は知る人ぞ知る興味深い場所だった。というのも、氷河期からさらに時代をずっとずっと遡ること約1500万年前、隕石がここに落下し、その跡がクレーターとして残っているという。シュタインハイム村にはメテオクレーター博物館(Meteokratermuseum)があるが、毎年、10月31日までしか開館していないと読んで焦った。なぜならその日は10月31日。慌てて車を飛ばし、閉館時間の1時間前にギリギリ滑り込んだ!


 

Meteokratermuseum in Steinheim am Albuch

シュタインハイムは推定直径80メートル、質量90万トンの隕石が秒速25kmの速度で地球に衝突してできた直径およそ3.5kmのクレーター盆地の内側に位置する。衝撃で周辺が盛り上がって縁を形成し、中央部が隆起して丘となった。以下の図のような目玉焼き型の地形をしている。衝突時に放出されたエネルギー量は2.8 x 1017ジュール。これは、778億kw/hに相当し、シュタインハイム村の消費電力3188年分だというから凄まじい。

 

Meteokratermuseum in Steinheim am ALbuch

クレーターの内側は、ホワイト・ジュラ紀の地層の上に隕石衝突の衝撃で砕け散った岩石が再び落下して降り積もり、礫岩の層を形成している。その上には第三紀及び第四紀の堆積物が重なっているが、縁と中央丘はジュラ紀の地層がむき出しだ。

衝突でできた凹みにはやがて水が溜まり、湖となった。現在、水はなく主に牧草地となっているが、出土された多くの生き物の化石から写真のモデルのような豊かな生態系であったことがわかっている。

ミュージアムの展示はドイツ語のみだが、シュタインハイム・クレーターの誕生についての動画や隕石落下の条件などの説明を読むことができ、とても興味深い。シュタインハイム・クレーターは北東に約40km離れたネルトリンゲンのメテオクレーター(Nördlinger Ries)と同時期に形成されたと考えられている。ネルトリンゲンのクレーター盆地の方がずっと大きく、一般的によく知られているが、そちらに関しては別記事で改めて書くことにして、ここではシュタインハイマー・クレーターに集中したい。
これは今年(2017)、このミュージアムで偶然に発見された隕石のかけら。展示されていた石灰岩の塊にヒビが入ったため、展示から取り除こうとしたところ、亀裂断面に黒く光るものが見つかった。調べたところ、なんと隕石のかけらだった。


これまで、シュタインハイムに落ちた隕石は蒸発して完全に消滅したと考えられていたため、研究者らも驚いたらしい。

 

モルダバイト。隕石衝突時の高温と高圧力下で溶けた岩石が数百キロ遠くまでものすごい勢いで吹き飛ばされ、冷えて固まった天然ガラス(テクタイト)。チェコのモルダウ川周辺で最初に発見されたため、モルダバイトと名付けられた。光沢のある緑色をしている。後で知ったことには、パワーストーンだとして人気の石なのだってね。

 

これは「シャッターコーン」というもの。隕石の衝突時に衝撃波によって岩石表面に形成される円錐状の溝で、1905年にシュタインハイム盆地で初めて発見された。発生のメカニズムについては未だにわからない点があり、研究が続けられている。

展示を一生懸命読んでいたら閉館時間を過ぎてしまったが、「どうぞごゆっくり」と閉館を待ってくれた。ミュージアムを出るとき、「クレーターを一望できる場所はありますか」と聞いたら、すぐそばの小高くなったところから全体を眺められるとのこと。

もうすぐ日が沈みそう。急げ!

いつもと違うカメラだったのでパノラマ機能を素早く探すことができず、うまく全体を撮れなかった。手前の集落がシュタインハイムの村。その向こうのやや高くなっている(50m)ところがクレーター中央の丘だ。米国アリゾナ州のバリンジャー・クレーターを見に行ったことがあるが、バリンジャー・クレーターが「地面にぽっかり空いた穴」でわかりやすいのに対し、シュタインハイムのクレーターは堆積物が積もった上に植物も生えているので、説明されなければクレーターだとはわからない。クレーターに沿って歩くジオハイキングルートがあるので、周辺を観察しながらゆっくり歩いても楽しいかもしれない。

 

全体像のわかる動画を見つけたので貼っておこう。

 

 

 

 

シュヴェービッシェ・アルプでの休暇でたくさんの洞窟に入り、また、考古学パークで氷河期体験をしたことで、すっかり氷河期ファン(?)になってしまった。中を見学した洞窟のいくつかからは人類史最古の芸術作品が発掘されているが、それら出土品はシュヴァーベン地方のあちこちの博物館や美術館に分散展示されている。ホーレ・フェルス洞窟から掘り出されたヴィーナス像と横笛、そして鳥のフィギュアはウルム近郊のブラウボイレン先史博物館(Urgeschichtliches Museum Blaubeuren)にあると聞き、見に行って来た。

ブラウボイレンは人口1万2000人の小さな町だが、ブラウトップフ(Blautopf)と呼ばれる青い泉があることで有名である。観光パンフレットなどに載っている神秘的な写真を見て、いつか行って見たいと思っていた。

 

 

 

あいにく空は曇っていたけれど、それでも泉の青さははっきりとわかる。このブラウトップフはカルスト泉で、ブラウトップフ洞窟と呼ばれる全長4900メートルにも及ぶ地下洞窟の一部なのだ。ブラウトップフ洞窟内部は水で満たされているため、洞窟ダイバーによる調査が行われている。

 

泉を見た後は先史博物館に向かう。

規模はそれほど大きくないが、とてもわかりやすい展示をしている良いミュージアムだ。

石器の作り方を詳しく説明するコーナーが合った。いろんな洞窟に入った後にこういうものを見ると、本当に面白く感じる。

出土されたものを深さごとに展示しているのが良い。

氷河期のヨーロッパ。スカンジナビア、英国北部、北東ドイツとシュヴェービッシェ・アルプが氷河に覆われている。丸い印は氷河期の遺物が発掘された場所だ。ドイツに特に多いように見えるが、必ずしもドイツに集中して人が住んでいたというわけではなく、発掘調査がドイツで特に盛んなことが理由らしい。

ローネ渓谷とアハ渓谷周辺から特に多く出土されていることがわかる。

これは最近、ホーレ・フェルス洞窟で見つかった三つ穴の装飾品(Dreilochperlen)。4万2000年〜3万6000年前のものと推定されている。

小さなアンモナイトのピアスと貝のペンダント。アンモナイトピアス、いいなあ〜。

 

さて、いよいよこの博物館のハイライト。

世界最古のヴィーナス像。「ホーレ・フェルスのヴィーナス」。

横笛。

水鳥。どれもとにかく素晴らしい。

 

シュヴェービッシェ・アルプに来たなら、洞窟や考古学パークでの生の体験とミュージアムをセットで考古学を堪能するのがおすすめだ。

 

 

まだまだ終わらないシュヴェービッシェ・アルプ洞窟探検旅行。今回は、ウルムから西に約60kmの地点にあるベーレンへーレ(Bärenhöhle、熊洞窟の意)とネーベルヘーレ(Nebelhöhle、霧洞窟の意)という二つの洞窟を紹介しよう。

 

ベーレンヘーレは、中からアナグマの骨が多く出て来たことから「熊の洞窟」と呼ばれる石灰洞窟だ。シュヴェービッシェ・アルプシュヴェービッシェ・アルプの洞窟群の中では特に良く観光化されており、周辺には子どもの遊び場や土産物屋などがあるため、家族連れで賑わっていた。

早速、ガイドツアーに申し込んで中に入ってみる。

 

洞窟の中は照明を多く使っているため、苔が生えて緑色になっているところが多く見られる。

 

こんな感じでゾロゾロと見学。保護のため、フェンスで囲まれている部分が多いのも特徴。

 

つらら石や石筍、ストロー(マカロニとも呼ばれる)などいろいろな鍾乳石がぎっしりだ。洞窟内はカラーLEDでライトアップされていて、少々キッチュな感じがしないでもないが、子どもには魅力的だろう。また、わりあい明るいので、小さな子どもでも安心して歩ける。

これが上下繋がって石柱になるまで、あとどのくらいかかるだろうか。1立方センチメートル成長するのに60〜80年かかるとのこと。

これも見事。

この洞窟からはアナグマだけではなく、様々な動物の骨が発見されたことから、一時期、ハイエナの巣穴だったのではないかとされている。人骨も見つかっており、旧石器時代に人々が生活していたこと、また、その後の人類の歴史においてあらゆる時代の人々がゴミ処理場としても使用していたことがわかっている。

地面には上から滴り落ちる水で濡れ、石筍が形成され始めているところがあった。(右上の丸く盛り上がっているところ)

天井に何か黒いものが見えると思ったら、、、、。

コウモリの死骸だった。冬眠したまま死んでしまったのだろうか。

ベーレンヘーレでは一般ツアーの他に、「宝探しツアー」「メルヘンツアー」など小さな子どもを対象としたガイドツアーもあり、マルチメディアCDも販売されている。ベーレンヘーレのすぐ側には、ネーベルヘーレ(霧の洞窟)がある。ベーレンヘーレは見学できる部分の奥行きが250mだが、ネーベルヘーレは450mとさらに深い。発見は1920年で、シュヴェービッシェ・アルプで最も古くから知られている洞窟の一つだ。ベーレンヘーレほど混んでいなかったのでゆっくりと見学でき、私はどちらかというとネーベルヘーレの方が気に入った。

 

石筍の断面。初めて見た。

なんとも言えない不思議な光景。

 

この二つの洞窟は見応えがありながら観光のハードルが低いので、家族でのお出かけにピッタリ。

 

まだまだ続くシュヴェービッシェ・アルプ洞窟探検旅行、次の目的地はアハ渓谷シェルクリンゲン(Schelklingen)にある洞窟、ホーレ・フェルス(Hohle Fels)だ。ホーレ・フェルス洞窟からは1830年代以降、アナグマやマンモス、野生の馬の骨や石器時代の道具などが発掘されて来たが、2008年の再調査において、考古学的記録を塗り替える約4万2500年前のヴィーナス像と横笛が見つかった。これまでに発見された中で最も古い、人をかたどった芸術作品と楽器である。また、ホモ・サピエンスだけではなく、さらに時代を遡った6万5000年前頃にネアンデルタール人が同じ洞窟には生活していた証拠もあるという。

 

 

シュヴェーヴィッシェ・アルプの一般公開されている洞窟群は冬季はコウモリ達が中で冬眠するため、10月末、または11月のはじめに閉鎖される。その洞窟により見学できる期間が多少異なり、私たちは10月の終わりから11月のはじめにかけて休暇を取ったので、ギリギリ入れるか入れないかだった。ホーレ・フェルス洞窟に着くと周りに人影はなく、入り口のフェンスが閉まっていたので「遅かったか」とガッカリしていたところ、地元の人と思われる男性が数名の客人を連れて近づいて来た。声をかけると、今年の一般公開期間は前日に終了したが、自分は管理者の一人で、特別に案内してもいいと言ってくれた。たまたま良いタイミングで洞窟に着いて運が良かった!

 

洞窟入り口。

 

入り口はトンネルになっており、その奥にドームのような空間が広がっている。

 

想像していたよりも大きくて圧倒される。これは下から上部を見上げたところ。空間の大きさは6000立方メートルだそうだ。

出土されたヴィーナス像と横笛はブラウボイレンの先史博物館に展示されている。

後日、博物館で撮影したVenus of Hohle Fels。フォーゲルヘルト洞窟からの出土品同様、マンモスの牙でできている。

シロエリハゲワシの橈骨から作られた20cmほどの長さの横笛。4万年も前の人々が楽器を作り、音楽を奏でていたとは驚きである。

 

洞窟の上部奥から下を眺める。入り口付近に椅子が並べられているが、こうして見るとまるでベルリンフィルのホールで上部客席からステージを見下ろしているときのようだ。そんなことを考えていたら、案内役の男性が音楽をかけてくれた。プロの演奏家による横笛の演奏を録音したものだそうだ。しばらく聞き入ってしまった。4万年前の人たちがどんなメロディーを奏でていたのかはわからないが、この洞窟の中で同じような音を聴いていたのかと想像すると、とても感動的だった。

最初に発見されて以来、この洞窟ではお祭りのようなイベントがしばしば開催されて来た。戦時中、防空壕や武器の倉庫として使われていたため中断されていたが、1950年からは毎年、洞窟祭りが催されている。ときどき洞窟コンサートも開かれるとのこと。中で火を焚いたら凄いだろうなあ。

 

コンサート動画。

 

 

来る前はそこまで期待していなかったシュヴェービッシェ・アルプだが、どんどんと面白さを増して行く。初日にはCharlottenhöhleVogelherdhöhleという二つの洞窟を訪れたが、二日目はハイデンハイムから南西に移動し、地下洞窟Laichinger Tiefenhöhleへ行くことにした。この洞窟は観光客に一般公開されている洞窟としてはドイツ国内で最も大規模なものの一つである。苦灰岩(ドロマイト)が地下水に侵食されてできた迷宮のような洞窟が地下80メートルの深さまで探索調査されている。そのうち55メートルの深さまでは観光客も潜れるように整備されているという。

 

地下に潜れると言われても、イメージが掴みにくいかもしれない。断面図で見るとこんな感じ。

©Tiefenhöhle Laichingen

図の上部左側に描かれた建物内に洞窟の入り口があり、カルストの通路を伝って地下55メートルの深さまで降りて行く。そこから奥へと移動しながら再び地上に向かって登って行き、最後は右側の建物から地上に出る。一般公開されている通路の長さは約330メートル(洞窟全体の長さは1253メートル)だ。この図を見ただけで、ワクワクして来た。この洞窟にはガイドさんなしで入ることができる。ヘルメット着用は義務付けられていないが、ズボンの裾が濡れないように防水のバンドを脛に巻くように言われた。

 

入り口。いざ、洞窟内へ。

 

いきなり狭い!下がどうなっているのか全然わからない。

 

通路には手すりがついている(水を抜く導管を手すりに利用しているようだ)が、階段はかなり急。足場はしっかりしているので気をつけて降りれば特に危険ではないが、幼児には難しいだろう。閉所恐怖症だったり心臓の弱い人にも向かないかもしれない。

足元に気をつけながらどんどん降りて行く。アドレナリン出まくりである。

 

 

ところどころに音声による説明ポイントがあり、ドイツ語、英語またはフランス語のいずれかで洞窟の地質について学べる。こちらの記事にも書いたように、シュヴェービッシェ・アルプはジュラ紀には海水に覆われていた。この洞窟は地表から28mの深さまでは、ジュラ紀に堆積した石灰岩中の炭酸カルシウムが炭酸マグネシウムに変質した(ドロマイト化)と考えられているそうだ。上層の岩はゴツゴツとして硬いが、空洞が多い。それより下に潜ると岩の密度が高くなり、ずっしりとした質感になる。

 

狭い!!

どのくらいの狭さかというと、この通り。岩の裂け目の中を通るなんて楽しすぎる。

 

言葉でこの感動を伝えるのはとても難しい。

普段どのくらい観光客が訪れるのかわからないが、このときは洞窟の中は私と夫だけだったので、その分余計にエキサイティングに感じたかもしれない。

 

 

うわあーーーーー!!写真では抑揚感を伝えられなくて残念!

これは「カーテン」と呼ばれる鍾乳石だろうか。ガイドさんがいないのではっきりわからないが。

また少しづつ登って行き、外界に出た。所要時間は約40分。面白かったーーーー!!

やはり自然は壮大だ。私はいろんな種類の旅行が好きで、知らない町を街並みを眺めながら散策したり、海で泳いだり、博物館を訪れるのもとても楽しいが、これまで旅して来た中で特に印象に残った場所はどこだったかと思い起こしてみると、そのほとんどはスケールの大きな自然を体感した場所である気がする。このシュヴェービッシェ・アルプ地方は間違いなくこれまでで特に感動的だった場所の一つになった。中でもこの洞窟に潜った体験は後々まで忘れられないものとなりそうだ。

 

 

 

洞窟体験休暇と名付けたシュヴェービッシェ・アルプでの休暇では、まず洞窟、Charlottenhöhleに入った。(その記事はこちら)次に向かうは同じくローネ渓谷にあるフォーゲルヘルト考古学テーマパーク、Archäopark Vogelherdだ。

 

Archäopark Vögelherdは、2013年にオープンした考古学テーマパークで、フォーゲルヘルト洞窟(Vögelherdhöhle)のすぐ下に位置する。今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに認定されたシュヴェービッシェ・アルプの洞窟群は考古学的に非常に重要な洞窟群である。これらの洞窟からは今から約3万2000年〜4万年前に作られたとみられる芸術作品が複数の洞窟の中から次々と発見されているのだ。フォーゲルヘルト洞窟からは氷河時代の様々な動物をかたどった11個の小さな象牙の彫り物が出土されている。

 

フォーゲルヘルト考古学パークを洞窟のある丘の上から見たところ。写真の奥に見える細長い建物はビジターセンター。まだオープンして間もないこともあり全体的にシンプルな印象だが、侮ることなかれ。ここは子どもにも大人にも面白いテーマパークなのである。

私たちはガイドツアーに参加することにした。オフシーズンで肌寒い日だったせいか、ツアーは私たち夫婦と二人のティーンエイジャー連れの家族が一家族のみだった。ツアー内容はパーク内の学習ポイントのそれぞれでガイドさんの説明を聞きながら氷河期(旧石器時代)にローネ渓谷に住んでいた人々の生活を体験しながら回るという趣向だ。

 

最初の学習ポイントでは氷河期に人々が使用していた道具について学ぶ。いろいろなハンドアックス(握斧、ドイツ語ではFaustkeilと呼ぶ)を握らせてもらった。ハンドアックスは氷河期のアーミーナイフのようなもので、一つで切る、叩く、削る、砕くなどのいろいろな手作業を行うことができる。試しに皮を切って見たが、よく切れる。ハンドアックスによく使われるのは主に燧石(フリント、火打ち石)がよく使われる。写真中央に見えるのは木の棒の先に石器を紐でくくりつけた石槍だが、紐で結わえるだけでは取れやすいので、何かで接着しなければならない。

当時は白樺のタールが接着剤として使われていた。(写真の黒い物質)熱して溶かし、熱いうちに道具をくっつけて冷えて固まるのを待つ。ホモ・サピエンスだけでなく、ネアンデルタール人も使っていたという。

 

次のポイントでは獲物を捕まえる体験。ネアンデルタール式の槍とホモ・サピエンスホモ・サピエンス式の矢の両方を獲物めがけて放ってみる。

ネアンデルタール式投げ槍。投げてみたけど、届きゃしない、、、、。食糧を得るのは大変だね。

こっちはホモ・サピエンス式の矢。矢のお尻の部分にドイツ語でSperrschleuderと呼バレる投槍器を当てて握り、投槍器は握ったまま矢だけを飛ばす。ネアンデルタール式の投げ槍よりははるかに軽く、飛ばしやすいが、これも私は獲物に全然当たらなかった。今日の晩御飯はなしか、、、。

と思ったが、夫は楽々と50メートルほど飛ばし、命中。憎たらしい。が、これで肉鍋が食べられるのだから良しとしよう。

別の学習ポイントではローネ渓谷で見つかった様々な動物の骨を観察した。これはマンモスの臼歯。

 

パーク内の学習ポイントを回りながら丘を登り、フォーゲルヘルト洞窟へ。

 

中は外よりずっと暖かい。ここで石器時代の人たちが生活していたのかと思うと、なんだか感動的である。それも、ただ生存していただけではない。3万2000年も前にこの洞窟に住んだ人々は芸術作品まで生み出していたのだ。それらはヨーロッパにおいて最後の氷河期の第1亜間氷期から第2亜間氷期まで続いていたオーリニャック文化の一部をなすもので、シュヴェービッシェ・アルプの他の洞窟で見つかったものと合わせ、これまでに発見された最古の「持ち運べる芸術作品」である。パークの入口のビジターセンターではこの洞窟で出土された11の作品のうち、2つが展示されている。

 

モンモスの牙で作ったマンモスのフィギュア。大きさ3.7cm、重さ7.5g。石器の道具でこんな小さなフィギュアを作るなんて、作者は手先の器用な人だったのだな。

同じくマンモスの牙で作ったホラアナライオンのフィギュア。この洞窟からは、これら二つの他に野生の馬、トナカイ、バイソン、アナグマ、パンサーなどが見つかっている。(こちらのページに一覧写真がある) その中で特に人気で野生の馬はこのテーマパークが属するNiederstotzingen市のロゴになっており、実物はチュービンゲン大学博物館で見られる。

 

洞窟を出ると、日没間近になったせいか、さらに寒くなった。ぶるる。でも、この程度の寒さで寒いと言っていたら、氷河期を生きた人には呆れられてしまう。そんなことを考えているとガイドさんが「さあ、みなさん。最後に石器時代の人たちのやり方で火を起こしてツアーはおしまいです」と言った。やった、暖を取れる!

石器時代の焚き火起こしセット。これは後日、先史博物館で見たものだが、当時の人たちは火を起こすのに火打ち石(フリント)、黄鉄鉱(パイライト)、乾燥させたキノコ(火口として使う)、アザミの綿毛などを使っていた。

 

ガイドさんが火打ち石(フリント)と黄鉄鉱(パイライト)をカチカチと打ち合わせると火花が散った。火花を素早く乾燥キノコに接近させて発火させる。

発火したら素早くアザミの綿毛と藁で包み、巣のようなものを作る。

それを手に持ってフウフウ吹く。結構な肺活量が必要そうだ。

やった!

あったかいねー。


煙たいのですぐに出てしまった。

1時間ほどのツアーだったが、かなり面白かった。子どもも楽しめるのはもちろん、大人にとっても為になる内容だ。まだ新しいテーマパークなので、今後は一層充実していくだろう。私はこれまで石器時代に特別興味を持っていたわけではなく、先史博物館などに石器がずらりと展示されているのを見ても、何がどう違うのか今ひとつピンと来ていなかった。しかし、この考古学パークで石器時代の手ほどきを受けたおかげで、この後訪れた博物館ではハンドアックスなどの道具が急に生き生きとしたものに見えて来た。たとえ真似事ではあっても自分で少しでも体験してみることで、それまで自分とは無関係と思われたものが意味を持ち始めると実感した。

 

ドイツ語だけれど、関連動画を見つけたので、興味のある方は是非、見てみてください。

 

夫が秋休みを取ったので、私たちは10月の終わりから11月にかけての一週間を南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプ(Schwäbische Alb)で過ごすことにした。シュヴェービッシェ・アルプとは「シュヴァーベン地方のアルプス」の意味であり、その名が示す通り、山脈を中心に長さ約400km、幅35〜40kmに広がる地帯だ。シュヴェービッシュ・アルプは今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに登録された。ゴツゴツとした岩が剥き出しになった山脈のあちこちに約3万5000〜4万3000年前に人類が住んでいたとされる洞窟がいくつもあり、驚くべきことにそのいくつかからは彼らの残した芸術作品や楽器が数多く出土されているのである。

世界最古の芸術作品が出土された洞窟!!

それは何やら凄そうではないか。そこで今回の旅行を「洞窟探検休暇」と名付けて出かけた私たちである。Heidenheim an der Brenzという町を拠点にシュヴェービッシュ・アルプの洞窟を回った。まず最初に訪れたのは、ローネ渓谷(Lonetal)にあるシャーロッテンヘーレ(Charlottenhöhle)だ。

 

 

Charlottenhöhleは1893年に発見され、当時のヴュルテンベルク王女、シャルロッテにちなんで名付けられた鍾乳洞で、深さはおよそ地下35m、長さ532mの通路。シュヴェービッシェ・アルプの洞窟には一般公開されているものと研究者しか中に入ることのできないものとがあるが、この洞窟は一般公開されているものの中では最も長さがある。早速ツアーに申し込み、ガイドさんの後をついて中に入った。

 

鍾乳石や石筍に関する説明を聞きながら奥へと進む。鍾乳洞は日本やその他の国でも何度も見たことがあるが、ドイツでは初めてなので久しぶりだ。

シュヴェービッシュ・アルプはかつては浅いトロピカルな海だった。海の生物の死骸が堆積してできた石灰岩が地殻変動によって隆起し、二酸化炭素を含む雨水や地下水によって長い時間をかけて侵食されカルスト地形を形成している。石灰岩の割れ目から入り込んだ水が炭酸の作用で周辺を溶かして空洞を作る。空洞を満たしていた水がなくなると、歩いて入ることのできる洞窟となる。このCharlottenhöhleはおよそ250〜300万年前のジュラ紀後期に形成されたものだという。

 

つららがたくさん。

リンゴの木のような形をした鍾乳石。上部の丸いつぶつぶはケイブパール(「洞窟の真珠」の意味)と呼ぶそうだ。

 

大きな石筍。

 

これは、フローストーンというものかな。(間違ってたらすみません)

 

石筍と鍾乳石が繋がって石柱を形成しているところもある。

 

なっかなか面白い。これが最初に入った洞窟だったので、この時点ではかなり興奮していた。この後もっと凄くなるのだが、、、。

 

鍾乳洞の近くにはHöhlenSchauLandというビジターセンターがあり、ローネ渓谷の自然史について展示を行なっている。

貝、魚の骨、サンゴ、、、本当にここはかつて海の底だったんだね。現在は国土の最北にしか海のないドイツに住んでいるとなんだか不思議な気がするが。

 

石筍の断面。縞模様ができているのが見えるだろうか。木の年輪のようなもので、この成長縞を元にウラン-トリウム法という方法を使って石筍の年代を測定する。石筍に取り込まれた放射性アイソトープU234とTh230の半減期がそれぞれ異なるので、両アイソトープの比率を調べることで形成時期を知ることができるのだ。

面白いなあ。でも、これはまだ序の口。これからもっともっと面白くなるのだ!

 

 

 

バイロイトでビール博物館を見た後はビール博物館から丘を徒歩で数分上がった別のビール醸造所、Bayreuther Bierbrauereiに移動した。この醸造所の地下にあるというカタコンベを見るガイドツアーに参加するためだ。

 

こちらでも醸造所の娘さんと思われる若い女性が案内してくれた。パブのカウンターでツアー料金を払い、ガイドさんについて地下への階段を降りる。

ツアーではおよそ900メートルある地下トンネルを移動しながらバイロイトの町の歴史やビール鋳造の歴史について話を聞く。カタコンベというのは普通、地下に作られた墓地のことをいうが、このカタコンベは墓地ではない。15〜19世紀に掘られたものと考えられているが、どうしてできたのかはよくわかっていないそうだ。地下資源を掘る際にできたトンネルだという説が有力らしい。中はひんやりとした一定の温度に保たれているため、19世紀にはビールの貯蔵庫として活用されていた。

 

中にはビール醸造の道具の他にバイロイトの生活文化に関する展示物も並べられている。

 

第二次世界大戦の終わりにはこの地下トンネルは防空壕としても使われた。1945年4月に投下された3つの爆弾でバイロイト市街地の1/3が破壊されル事になったが、その際、多くの市民がこのカタコンベに避難した。避難者は3日間外に出られず、肉屋のマイスターがカタコンベの中で作ったスープで飢えをしのいだという。

カタコンベの中では負傷兵の緊急手術も行われた。

 

面白かったのは通路のあちこちにビールやビールを使った料理のレシピが貼ってあることだ。

古代エジプトにおけるビールの作り方や、

ゲルマン民族のビールレシピなど。ゲルマン民族はビールに生姜やキャラウェイなどのスパイスや蜂蜜を入れていたようだ。現在のビールとは随分違う味だったに違いないね。でも、最近はこちらで試したようにいろんな変わったクラフトビールもあるようだから、ゲルマン民族のビールの味と通じるところがあるのかな。ドイツでは19世紀まで大人も子どもも朝食として「ビールスープ」をよく食していたそうだ。パンをビールで煮てバターを入れ、塩や砂糖で味をつけたものが一般的だったらしい。しかし、壁にはもっと凝ったレシピが貼ってあったので紹介したい。

 

ビールスープの材料

 

気の抜けたビール 1/2l

シナモン 1本

レモンの皮 1個分

卵黄 3個

砂糖 120g

生クリーム 1/8l

乾いた白パン

 

作り方は書いていなかったが上記の材料を煮立てるのだろう。美味しいのだろうか、、、うまく想像ができないが。ガイドツアーの終わりにはパブでこの醸造所のビールが1杯タダで飲める。

 

 

夫が1週間の休暇を取ったので、南ドイツへ行って来た。目的地はシュヴェービッシュ・アルプ地方だが、行く途中で休憩を兼ねてバイロイトに立ち寄った。バイロイトにカタコンベがあると読んだので行ってみることにした。しかし、16:00からのガイドツアーまで2時間以上も時間があって手持ち無沙汰である。近くにビール博物館なるものがあったので時間調整と思って中に入ってみた。すると、ビール博物館のガイドツアーがちょうど始まる時間だという。私はビールを飲まないのでそれほど興味はなかったが、時間もあるし、せっかくなので参加してみることにした。これが思いがけず大変面白買ったので紹介することにする。ドイツビールファンは多いので、知っている人も少なくないだろうとは思うけれど。

バイロイトのこのビール博物館(Maisel´s Bier-Welwbnis-Welt)は、1887年創業の老舗ビール醸造所、マイゼル醸造所(Brauerei Maisel)の創業当時の建物を利用している。

 

マイゼル醸造所は家族経営の醸造所で、代々引き継がれて現在は4代目。娘さんと思われる20歳くらいの女性が案内してくれた。大きな建物の内部にはマイゼル醸造所でかつて使われていた古い設備や機械、道具が展示されている。その多くは使われていた当時のポジションのままだ。

1930年代に製造されたスチームエンジン。

 

このスチームチャンバーは1905年製。購入費用で家が一軒買えるほど高価なものだったそうだ。

仕込み釜。

ホップ貯蔵室。ホップはビールに不可欠な原料だが、雌株と雄株があり、苦味成分を含むルプリンを有する雌株しかビールには使われない。かつてホップは農家から写真のような袋に詰めて納入されていたが、ホップは酸化しやすく長期の保存に適しないため、現在はペレットになったものが使われている。

ビア樽製造場。醸造所が独自に樽の製造場を持つのは、費用が嵩むことからとても珍しいことだったそうだ。

 

初期のボトリング装置。これでビールを一本一本ボトリングしていたとは大変な手間だったろうな。

 

次第にボトリング装置やボトルの洗浄装置も改良されていった。

 

ビア樽クリーナー。

 

昔のビール造りについて一通り見た後は現在の醸造所設備も見せてもらう。

近代的なこれらの装置は全てiPadで管理できるそうだ。

ごく簡単な紹介になってしまったが、ビール博物館のガイドツアーは一時間以上に及び、ビールの醸造についてだけでなく、ビールのラベルやビールグラス、ジョッキのコレクションなども見られてかなり楽しい。

 

ところで、マイゼル醸造所は「マイゼル&フレンズ」のブランド名で新感覚のクラフトビールも醸造している。と言われても、ビールに疎い私には何がどう違うのかよくわからないのだが。

 

ミュージアムショップ。

ミュージアムにはレストランも併設されており、そこでは100種類以上のビールを楽しむことができる。ツアーが終わって時計を見ると、カタコンベツアーにはまだ30分以上あった。喉も渇いている。ビールは苦手だけれど、ここまで来ておいてビールを試さずに帰るのもつまらない気がする。一杯くらいは試してみようかとカウンターに腰を下ろした。

とはいっても、何を注文すればいいのか全くわからない。どうせ味の違いはよくわからないのだからショップにあったチョコレート味のビールを飲んでみるべきか、、、。迷っていると店の人が「クラフトビールのテイスティングはいかがですか?5種類を試せますよ。チョコポーターも含まれていますよ」と言うので、それを頼むことにした。

一番右の色の濃いのがチョコポーターというビール。5種類を一口づつ試してみた。

 

うーん、、、、全部苦い。やはり無理!

残念ながらビールの味のわからない女なのであった。残りは夫に飲んでもらった。しかし、ビールは飲めなくともビール博物館はかなり面白かった。ビールの好きな人だったらもっと楽しめるに違いない。

 

 

 

久しぶりにライプツィヒへ行って来た。ライプツィヒ旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二番目の大都市で、見所がとても多い。これまで何度か訪れているが、まだほとんど知らない状態だ。今回は一日だけの滞在だったので、2つのスポットに絞って観光した。最初に見たのはライプツィヒ学校博物館( Schulmuseum – Werkstatt für Schulgeschihcte Leipzig)である。

学校博物館というのはドイツ各地にあり、それぞれその町または地域の学校の歴史を紹介している。昔の筆記用具や教材など、日本のものとは違うのが興味深い。その中でもライプツィヒの学校博物館は特徴ある博物館だ。ライプツィヒは20世紀初頭からオルタナティブ教育運動の中心地の一つだった。ライプツィヒでは1920年に体罰が禁止され、自然の中で学ぶ共学の私立校「森の学校」が創立され、発展するなど多くの画期的な試みが生み出された町なのだ。しかし、その後ライプツィヒはナチスと旧東ドイツ(DDR)という二つの独裁政治を続けて経験し、学校教育もそれらのイデオロギーの影響を大きく受けることになった。

 

ライプツィヒ学校博物館の常設展示は1933年までのライプツィヒの学校の歴史と、1933〜1989年までの歴史の二つのフロアに分かれている。

 

昔の理科教育に関する展示。

 

歴史を感じる古い実験器具。他にも昔の算数の教材や筆記道具など古い学校用具がいろいろ展示されていて興味深い。見るだけでなく、課外授業として小学校の生徒たちが昔の学校を体験できるワークショップなども行なっている。

学校用プラネタリウム。

 

前半の展示も面白かったが、後半の1933年以降の展示はとても考えさせられるものだった。

ナチスの時代の教室風景。ナチスが政権を取ると、せっかく廃止したばかりの体罰が教育現場に再び導入された。

算数の教科書にはキャンプファイヤーを囲むヒトラーユーゲントの少年たちが描かれている。

ナチス以前、ライプツィヒにはボーイスカウトなど多くの青少年組織が存在したが、ナチスはヒトラーユーゲント以外の全てを禁じた。反ナチスのグループを結成し活動する若者もいたが、彼らは弾圧され、投獄や更生施設への収容など、処罰の対象となった。上の写真にある電話機の受話器を耳に当てると、ヒトラーがヒトラーユーゲントの少年少女たちに向かって行った演説やヒトラーユーゲントに属していた子どもたちのインタビューを聞くことができる。

 

 

ナチスによる洗脳の時代がようやく終わったと思うと、ライプツィヒを含む東ドイツでは、今度はSED(ドイツ社会主義統一党)による洗脳の時代が始まる。

自由ドイツ青年団(FDJ)を創設したエーリッヒ・ホーネッカーの肖像画が飾られたDDR時代の教室風景。自由ドイツ青年団は社会主義の理想の滋養を目的に14歳から25歳の少年少女を対象とした組織だったが、後に14歳未満の子どもに対しても「ピオニーレ(Pioniere)」(Thälmanpioniere 10〜14歳 Jungpioniere 6〜10歳)と名付けられた組織が設けられる。ピオニーレに屬する子どもたちはユニフォームとして白いシャツの首元に「ピオニーレ・トゥーフ」というスカーフを巻き、青いズボンやスカートを履いた。

この時代の算数の教科書にはピオニーレのユニフォームを来た子どもが描かれている。ピオニーレへの参加は任意だったが、学校のクラスが実質的にピオニーレの単位と同じだったため、組織に参加しない子どもは疎外感を味わうことになり、その後の教育機会において様々な不利を被った。

 

戦後、西ドイツ同様に東ドイツにも他の社会主義国からの出稼ぎ労働者など少なくない数の外国人が生活していた。西ドイツでは戦後、教育の場において異文化理解に力が注がれたが、東ドイツでは特にテーマとなることはなかったそうだ。旧東ドイツにおいては人種や国籍の違いよりも、自由ドイツ青年団に参加しないことやキリスト教を信じていることなどイデオロギーに賛同しないことが異質とみなされた。壁崩壊直前の1989年には全体の88%が組織に参加していた。

 

どの国においても基礎教育は全ての子どもに必要なものだが、教育はしばしば特定のイデオロギーを子どもに植え付けるための手段となる。自由に意見を述べることができなかったり、周囲と違っていることを非難される環境は教育が本来持つはずの意義を失わせる。

展示パネルの一つに描かれていた次の文面が印象に残った。
子ども時代、青年時代に権威的な集団教育を受け、個人的な発展の機会を十分に与えられなかった者は、自信を確立することができない。社会性を育む時期に自らのパーソナリティを自由に発展させる機会が十分になかった子どもは、異質な人間を脅威とみなしがちになる。社会の問題のスケープゴートにされ続けた者は、自らその行動パターンに陥りがちである

 

 

注: この博物館は残念ながら閉鎖したようです。別の場所への移転計画があるようですが、現時点では確定的な情報がありません。本記事は過去の情報としてお読みください。

ツヴィッカウでホルヒ博物館を見た後はコンビチケットで入れるもう一つの博物館、「トラバント博物館」(International Trabant-Register、通称Intertrab)へ行くことにした。

カーナビを使ったのにも関わらず、工事で通行止めになっている場所があったりして、なかなか見つからない。いろんな人に聞いて、ようやく探し当てた。

えっ、ここ、、、、!?

入り口。

係員はおじさん一人。売店(?)ではビールも買える。

倉庫にトラバントや関連グッズを並べただけのこのミュージアムを運営するのは20年ほど前に結成されたトラバントファン同好会、Internationales Trabant-Register e.V.。

私がドイツに来たベルリンの壁崩壊直後はトラバントは「ダサいもの」の代名詞のような車で旧東ドイツの人々は西側の自動車を所有したがったし、旧西ドイツの人々もトラバントを見て苦笑していたものだが、それから30年近く経った今ではレトロな車としてツーリストにも人気だ。

トラバントパトカー。最高時速100kmしか出なかったようだ。それでパトカーが務まるの?と思ってしまうが、そもそも旧東ドイツはトラバントしか走っておらず、そのどれもが低速でしか走れなかったのだから特に不都合はなかったのだろう。

これも東の人には懐かしいMINOL石油のガソリンメーター。

DDR時代のキャンピングスタイル。

あまり見かけることはないけれど、オープンタイプもあったようだ。

内装は極めてシンプル。

「Super-Trabi」と呼ばれた1988年製。有名人が乗っていた。

現在、特別展示として子ども用の乗れる車のおもちゃを展示している。

鯉?

よく見るとDDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのシールがたくさん貼ってある。

乳母車おもちゃのシンプルなデザインがいい。

トラバントレース、、、、。

冗談としか思えないけれど、当時は真面目だったのだろうな。

よくわからないポスターも貼ってあった。

トラバントは可愛くて好きだけれど、ホルヒ博物館を見た後で見るとギャップがあまりに凄くて、同じ工場で作られた製品だとはとても信じられない。

以下はツヴィッカウにおけるトラバント生産に関する動画。(ドイツ語)

 

ケムニッツを午前中に出発し、途中、リヒテンシュタインの木工美術館、Daetz-Centrumを見てからさらに西へ移動し、ようやくツヴィッカウ(Zwickau)に到着。ツヴィッカウはケムニッツとはまた雰囲気の違う町で、Gründerzeit様式と呼ばれる19世紀後半の建物が残っている地区もあってなかなか趣があった。通りかかった住宅街に建つ教会が見事で、思わず車を停めて写真を撮る。

 

Moritzkirche

 

さて、ケムニッツ同様ツヴィッカウにもミュージアムはいろいろあるが、その日のうちに家に帰らなければならなかったので、的を絞らなければならない。今回、白羽の矢が当たったのは、August-Horch-Museum

 

ツヴィッカウは車の町である。(作曲家ロベルト・シューマンの生まれた町でもある。)ドイツに車の町はたくさんあるが、その中でもツヴィッカウは戦前の高級車ホルヒを生み出した町として有名だ。

と知ったようなことを書いているが、実は私はホルヒという車メーカーのことは全く知らなかった。ホルヒはかの「アウディ」の前身だそうである。1898年ホルヒ社を創立したホルヒ氏が経営陣とケンカして飛び出して1910年に新たに作った会社がアウディだ。その後、ホルヒ、アウディは米国の自動車メーカーのドイツ進出に対抗すべく、オートバイメーカーのDKW及びヴァンダラーとともに「アウトウニオン」を結成。第二次世界大戦までケムニッツを本拠地に自動車・オートバイを生産した。

ホルヒ博物館はかつてのアウディの工場の建物を使っている。

 

ドイツ全国にはなんと250を超える乗り物系(主に車やバイク)ミュージアムがあるらしい!いやはや、、、、。まさに車大国、ドイツ。しかし、自動車工場の建物を利用したミュージアムは全国でもここだけだとか。

 

館内にはホルヒの様々なモデルが展示されているとともに、ホルヒ社が辿った歴史を壁のパネルとオーディオガイドで知ることができる。

 

しかし、、、車に関する背景知識がほぼゼロの私は、どれを見ても「カッコイイ」「なんか凄そう」しかわからない、、、。一応説明は真面目に読み、オーディオガイドも聴いていたが、正直なところ、ちんぷんかんぷんであった。残念。

というわけなので、今回は説明は省いて写真だけ並べさせてもらおう。

 

ホルヒはナチスの公用車としても使われた。このタイプの第一号はブエノスアイレスのドイツ大使館に納品された。

 

 

これはどこかで何かの役に立ちそう?と思い、写真を撮る。

 

軍用車としても使われた。

 

 

 

アウトウニオンは敗戦後、占領ソ連軍により解体された。終戦直前に西ドイツのインゴルシュタットに逃れた経営陣によりアウトウニオンは再結成され、その後ダイムラー・ベンツに吸収合併されて西ドイツのメーカーとして発展を遂げる。かたや東ドイツの町となったツヴィッカウのホルヒ工場は東ドイツ人民公社ザクセンリンク(VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau)の名の元にDDRのシンボルとして今も根強いファンのいる「トラバント」を生産することとなったのである。レーシングカーで華々しいスタートを切り、超高級車ブランドとして世間を魅了したホルヒの工場が後にはトラバントの生産工場になったと思うと、なんだか物哀しさを覚えるなあ。

 

このホルヒ博物館はこの博物館だけ単独で拝観することもできるが、コンビチケットでもう一つの別の博物館とセットで見るのがおすすめだ。そのもう一つの博物館とは、、、、。次回の記事に続く。

 

 

一泊二日弾丸まにあっく旅行の二日目には、ケムニッツから南西へ約50kmのところにあるツヴィッカウ(Zwickau)を訪れる予定だった。でも、その前に寄りたかった場所が一つ。両市の中間地点にあるリヒテンシュタイン(Lichtenstein)という小さな町だ。ヨーロッパにはドイツとスイスに挟まれたリヒテンシュタインという国があるが、それとは別である。そこへ何しに行ったのかというと、それは世界中の木工美術の一級品が見られるというデーツ・ツェントルム(Daetz-Centrum)を拝観するため。

ケムニッツ北部から車で移動すると、丘の下り坂からこじんまりとした美しい町が見える。秋が深まっており、紅葉が綺麗だった。

 

木工美術館、Daetz-Centrum。右側の建物が美術館だが、左側の建物から入り、地下を通って美術館に入るようになっている。

 

ロビーに飾られたタイの見事な木彫。

 

Daetz-Centrumは1998年に地元の名士であるDaetz夫妻が木工美術を通じた国際交流を提唱し、Daetz財団を設立して世界中から木工美術品の傑作を集めて実現した美術館だ。コレクションの中から約550点が一般公開されている他、工芸ワークショップや国際木工芸術シンポジウムも行なっている。

館内には地域ごとに作品が展示され、一巡すると世界旅行気分を味わえる。

 

チケットを買い、オーディオガイドを受け取って展示室に続く階段を降りると、階段の下にはミャンマーの籠車が置かれていた。最初から凄い。

 

この美術館のために特別に作られたというニュージーランドの先住民族、マオリの門。オーストラリアのアボリジニーと異なり、マオリは古くから独自の木工芸術の伝統を持っていたという。

 

インドネシア、イリアンジャヤの木彫りの像。祖先崇拝の儀式で使われるものだ。もう20年以上前になるが、私は文化人類学を専攻していたことがあるので、かなりテンションが上がって来た。オーディオガイドの説明は文化人類学的背景にも触れており、とても面白い。

 

オセアニアの次はアフリカ。これはタンザニアのマコンデ族に木彫りの彫刻。マコンデの美術品を鑑賞するのはこれが初めて。

 

ディテール。

「セクシュアル・エクスタシー」という作品。

こちらはカメルーンのもの。アフリカのいろいろな国の作品が展示されていて、それぞれ特徴が違って面白いのだけれど、私はタンザニアとカメルーン美術が特に気に入った。

 

マスクの部屋。文化人類学博物館はあちこちで見ているし、インターンをやったこともあるけれど、ここに飾られているものは文化人類学的観点よりも芸術品としての観点で集められたものなので、かなり新鮮だ。

 

ヨーロッパコーナー。Göpelpyramideと呼ばれるドイツのクリスマス飾り。エルツ地方の伝統工芸である。

 

さらに進んでいろいろな作品を眺め、振り向くと薄明かりの中、椅子の上に上着がかけっ放しになっている。あれ、なぜこんなところに?と思ってよく見ると、

これも木製?なんという柔らかな質感。

 

 

カナダの先住民族の美術。

 

中国の作品。

 

インド。

 

バリ島製のチェスピース。

 

うわーーーーー!

 

 

最後はイスラム美術コーナー。

 

モロッコの天井ドーム。

 

国のリヒテンシュタインは誰もが知っているが、ドイツ、ザクセン州の小さな町、リヒテンシュタインを知っている人はあまりいないのではないだろうか。このような田舎(失礼)にこんな素晴らしい美術館があるのだから、地方も侮れない。

誰も知らないようなマイナーな場所に面白いもの、素敵なものを見つけるのがまにあっく観光旅行の醍醐味。

 

 

 

ケムニッツ旅行二日目。朝、目が覚めたら前日の長距離運転と博物館巡りの疲れがまだちょっと残っていたが、だらだらしているわけにはいかない。ベッドから飛び出し、宿を早々にチェックアウトして外に出た。

というのは、ケムニッツの北の外れの丘陵地にあるという洞窟、Felsendomeを訪れるつもりだったから。そこは、かつて石灰石の採掘場だったところらしい。ガイドツアーに申し込まなければ中に入ることができないが、ツアーは一日に一回、午前中のみ。ホテルからの移動にどのくらいかかるかわからない。遅れてツアーに間に合わないと困ると、朝ごはんも食べずに車に乗って出発した。

 

思ったより近く、ケムニッツ中心部から20分ほどで到着。ケムニッツは「Stadt der Moderne(近代的な町)」と呼ばれていて、中心部に古い町並みはほとんど残っていないのだが、この洞窟のあるRabenstein地区は静かな住宅地で景色が美しく、趣がある。

早く着き過ぎたので、近くのガソリンスタンドでコーヒーとサンドイッチを買って、洞窟付近の空き地で食べた。ふと、「なぜ自分は一人でこんなことをしているのだろう?」と思わないでもなかったけど、せっかくここまで来たからには洞窟に入りたい。

ツアーに申し込んだのは私と、5歳くらいのお孫さんを連れた年配の女性の3人だけだった。ザクセン訛りの強いガイドさんにヘルメットを手渡される。

 

洞窟入り口。

「洞窟の内部は写真撮影できません」とガイドさんに釘を刺された。フラッシュを当てると石灰石の壁が変質する恐れがあるからだろう。写真を撮れないのは残念だけど、自然保護のためだから仕方がないね。

 

通路は狭く低く、腰を屈めないと歩けない。年配の女性はヘルメットを被り、お孫さんの手を引いてズンズンと前を進んで行く。なんだかカッコいい。

この洞窟がいつから石灰石の採掘に使われていたか正確にはわかっていないが、遅くとも1365年には利用されていた記録が残っているそうだ。1865年からは、洞窟内の気温が年間を通して約7 ℃に保たれることからビールの貯蔵庫として使われた。その後、観光化され、旧東ドイツ時代には国民の人気観光スポットとなっていた。ドイツが再統一されてからは旧東ドイツの外の観光地へも自由に行けるようになったので、以前ほど多くの人は訪れなくなったとのことである。

 

洞窟内にはコウモリの巣がたくさんあり、目の前の暗闇をバタバタとコウモリが飛んで、雰囲気満点。お孫さんは「すごい!」「かっこいい!」を連発している。

中はこんな感じ。(写真が撮れないので、絵葉書で紹介します)

 

 

ガイドの説明を聞きながら中を見て歩くだけでも十分に面白いが、この中で結婚式も挙げることができるというのだ。一番広い洞穴には椅子が並べてあった。

「ロマンチックでしょう?それに、音響がいいのでね。ちょっと椅子に座ってみてください」

言われた通りに腰掛けると、ガイドさんはプレイヤーのスイッチを入れ、音楽をかけてくれた。婚姻手続きのためのテーブルのカバーを外し、燭台を並べる。なるほど、確かにロマンチックだ。でも、気温は7℃。ウェディングドレスでは寒そうだなあ。それに、新郎新婦が入って来るにも、バージンロードはドロドロ。相当マニアックなカップル向けかもしれないと可笑しくなった。ドイツ人は変わったところで結婚するのが結構好きなのだ。たとえばこんなところとか。

 

さらに、この洞窟内ではダイビングもできる!(詳しくは以下の動画をどうぞ)

 

 

これは、、、、かなり上級者向けだろう。

 

 

出口。30分ほどでまた外界に出た。なかなか面白かった!

 

お孫さんも満足したようだ。おばあさんは私の方を見て、「子どもには小さいうちにいろんな経験をさせなきゃね!」と言い、孫を車に乗せルト、「じゃあね!」と颯爽と走り去った。

カッコいい〜。こんなおばあさん、いいなあ!

 

さてと、私も次のスポットへ移動することにしよう。

 

 

三度の飯よりも博物館が好き!

これは誇張ではなく、実際に旅先では食べることよりも博物館を優先してしまう私である。外国へ行ってそこにしかない郷土料理がある場合はもちろん食べてみたいけれど、ドイツ国内旅行のときには、美味しいものは別にいつでも食べられるのだから、限りある時間を博物館を見ることに費やすのだ。

昼過ぎにケムニッツに到着してからケムニッツ産業博物館ドイツゲーム博物館を見終わってから宿にチェックインし、時計を見ると18時。すでにほとんどの博物館は閉館している時刻である。しかし、まだ開いているところがあった!その日は木曜日だったが、ケムニッツの考古学博物館、Staatliches Museum für Archäologie Chemnitzは毎週木曜日、20時まで開いているのだ。

 

ケムニッツの考古学博物館は町の中心部にあって、アクセスがとても良い。博物館らしからぬ雰囲気の建物で、入り口には 「SCHOCKEN」という大きな文字。schockenというのはドイツ語で「ショックを与える」という意味なので、一体何のことだろうかと首を傾げた。

©︎smac

後で知ったことによると、この博物館の建物は元デパートで、Schockenというのは当時のデパート名だそうだ。1930年に建築士エーリヒ・メンデルスゾーンにより設計された。今まで知らなかったのだが、メンデルスゾーンはポツダムにあるアインシュタイン塔も手がけた著名なユダヤ人建築家だという。

 

この博物館には約30万年前にザクセン地方に最初の狩猟・採集社会が形成されてから産業化が始まるまでの間の人類の遺品が展示されている。展示品は約6200点と堂々たる規模である。3フロアに渡って年代順の展示となっている(1階はネアンデルタール人の時代から石器時代初期まで、2階には中世初期まで、3階がスラブ民族の定住から産業革命の前まで)。

 

館内は白で統一されていて、とても綺麗。

 

動物の骨もお洒落にディスプレイされている。デザイン性の高いミュージアムだ。

 

これはsmacの目玉、パノラマギャラリー。

 

考古学的発掘物もこのように飾られると、思わず見とれてしまうね。

 

ドレスデンの聖母教会から発掘されたデスクラウン。未婚の若い女性の遺体が被っていたものだそう。このように繊細で洗練された装飾品がこれほど良い状態で保存されていたことに驚く。

 

マイセンで見つかった紀元前1700〜2200年頃のアクセサリー。うわー、こんな重いものを首につけたら肩が凝りそう、、、。

 

紀元前1000〜1200年ごろの青銅器。

 

とこんな感じで、かなり良い博物館だったのだが、家からケムニッツまで何時間も車を運転し、ほとんど休憩もなく二つの博物館をじっくりと見た後だったので、実はもうヘロヘロの状態だった。オーディオガイドを聞いていてもあまり頭に入って来ない。残念、、、。

 

今回はじっくり味わうことができなかったが、是非もう一度訪れたいミュージアムである。

 

 

 

 

ケムニッツの産業博物館は堂々たるミュージアムだったが、次に向かったのはおそらく存在をほとんど知られていないであろうマイナーなミュージアム、ドイツ・ゲーム博物館(Deutsches SPIELEmuseum Chemnitz) である。

 

というのは、最近、ドイツのボードゲームが気になって仕方がない。ドイツ人は老若男女ボードゲームが好きで、多くの家庭では居間の棚にボードゲームの箱が山積みになっている。子どもだけでなく、大人同士でもシュピールアーベント(ゲームの夕べ)と称して数人が集まり、夜通しゲームをして遊んだりする。

ドイツでは年間400〜600の新しいボードゲームが市場に出るとされ、まさにボードゲーム大国である。国外にもドイツのボードゲームファンは多いようだ。

実は私はこれまでそれほどボードゲームで遊んで来なかった。パズルや数独のようにシングルタスクを一人で黙々とこなすタイプのゲームは大好きなのだが、頭の回転が遅いので複雑なゲームはどちらかというと苦手。クリスマスに義両親の家でトランプや定番のゲームをやるくらいだった。ところが、ドイツ国内の歴史系の博物館を回っているうちに、ドイツ人は政治や歴史上の出来事も、ことごとくボードゲームにしてしまうことに気づいたのだ。例えば、ベルリンの壁ゲーム、冷戦ゲーム、ベルリンの壁崩壊ゲーム。宗教改革から500年の今年は宗教改革ボードゲーム、Lutherがリリースされた。

ゲームで遊びながらドイツを知るっていうのもいいんじゃないか?そんな気がしているのである。そんなことを考えているうちにドイツ・ゲーム博物館に到着。

 

新しいが、倉庫のような建物。

うっかりして会館の20分も前に行ってしまったのだが、館員さんに「本当はまだだけど、どうぞ入って」と中に入れてもらった。おまけに「遠いところから来たのね。じゃ、入館料はいいわ。案内するわね」と無料で中を案内してもらえることに。ドイツ・ゲーム博物館はもともとは1986年、ハンブルクに設立された。しかし、コレクションが膨大となりスペースが足りなくなったため、1995年にケムニッツへ移転。なぜケムニッツかというと、旧東ドイツ時代、ゲームやおもちゃの6割がこの町で生産されていたからだ。現在、このミュージアムには万単位の数のゲームが保管されている。

 

ミュージアムの1階部分は遊ぶスペースで、壁際にボードゲームがぎっしり積み上げられている。

ゲームは実際に遊んでみなければ始まらない。ここでは誰もが気軽にボードゲームで遊ぶことができる。地元のゲームメーカーがこのミュージアムのスポンサーとなっており、最新作を提供しているそうだ。ドイツには各地にシュピールカフェと呼ばれるゲームカフェがあるが、その中でもここが特に多くの種類のゲームを揃えていることは間違いない。子ども向けゲームイベントも頻繁に開催している。

2階の展示スペースへ上がる階段から1階を見下ろす。

 

1979年より毎年、選出されるドイツ年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)を受賞した選りすぐりのゲーム。

 

さて、2階の展示を見てみることにしよう。

ゲームの4つのカテゴリー、スキル系ゲーム、運によるゲーム、戦略系ゲーム、ミックスゲームごとに古いゲームが陳列されている。

スキル系ゲーム。いわゆる知育玩具。

 

これは、、、。KOSMOS社の実験キット!こんなに古くからあったのか。現代版には我が家の子どもたちも随分とお世話になった。

すごろく。

 

 

おそらくどこの家庭にもあるドイツのボードゲームの定番中の定番、Mensch ärgere dich nicht。しかしこのゲーム、インドの国民的ゲームであるパチーシが元祖だという。戦略系ゲームの棚にはチェスなどの他に古い囲碁ゲームも並べられていた。

 

第一次世界大戦ゲーム。

 

さらに、展示室の奥はDDR時代のゲームコーナーとなっていて、これが面白かった。DDR時代に生産されたゲームの80%は子ども向けで、教育効果を狙ったものだった。といっても、政治的プロパガンダの要素は濃くなかったと説明には書かれている。社会主義国家だから、ギャンブル系ゲームや資本主義的なモノポリーゲームなどはもちろん禁じられていた。しかし、それらを真似て作られたゲームが闇で売買されていたらしい。

 

DDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのゲーム。

キノコ狩りゲームも定番だったようだ。

スプートニクゲーム。

 

80年代にMartin Böttger氏により考案された国家批判ゲーム、Bürokratopoly。当然、このようなゲームでおおっぴらに遊ぶのは非常に危険だったため、アンダーグラウンドで広がった。DDRが消滅した現在は教育ツールとして学校で使われているらしい。面白そう。遊んでみたい。

このようにドイツのボードゲームは社会を反映している。いろんなゲームをやってみたくなって来た!

 

展示を見終わって1階に戻ると、先ほどの館員さんが「ちょっとあなた、館長が来たから話していったら?」と声をかけてくれた。

「ドイツって、ボードゲームが盛んで種類がたくさんありますね。どうしてドイツではこんなに多くのゲームが発達したんでしょうか?」と聞いてみると、「そうですね。ドイツは職人の国ですからね。職人技を余暇にも活かしたと言えるでしょうね」との答えが返って来た。

「でも、今はコンピュターゲームの時代ですよね。それでもボードゲームは人気ですか」

「もちろん、コンピューターゲームもたくさん作られていますよ。でも、コンピューターゲームが広がってもボードゲームは無くなりません。それどころか、ますますボードゲームの人気は高まっていますよ。やっぱり、人と一緒に同じ空間でゲームをするって楽しいですからね」

さて、どんなボードゲームがあるのか、早速チェックしてみようっと。