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アウシュヴィッツ強制収容所の火葬炉を製造したTopf & Söhne社資料館
エアフルトでは、ユダヤ教徒の歴史を知ることができるシナゴーグや、シュタージの反対分子収容所を見学し、人権について考えさせられた。エアフルトに来る前に滞在したワイマールの郊外にはナチスが建設したブーヘンヴァルト強制収容所跡があり、そちらへも足を延ばしてみた。90分間のガイドツアーに参加したのだが、詳しい説明を聞くことができてとても為になった。私は過去にもベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所跡を見学したことがあるのだが、収容所の造りなどは互いに似通っている。また、両ミュージアムともブックショップが非常に充実していて、ホロコーストを中心とした関連文献が豊富に並べられている。
ダークツーリズム・スポットはこれまでにもいろいろ訪れているけれど、ナチスの強制収容所はあまりにも重く、辛すぎてとても写真を撮る気になれなかった。ブーヘンヴァルト強制収容所については、日本語でもたくさん情報があることと思うので、ここでは詳しくレポートしないが、次の観光スポットを紹介する前に一つだけ触れておくことがある。それは、ブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で使用されていた火葬炉は、エアフルトの会社、Topf & Söhneが作っていたということである。そして、この会社の跡地は、現在、資料館になっているのだ。
Topf & Söhne社のかつての敷地はエアフルトの駅のすぐ近く、線路沿いにある。
工場は解体され、現在残っているのは、当時オフィスだったこの建物のみ。この建物が資料館となっている。
Topf & Söhne社は、1878年に創立された家族企業で、創業時には主に産業用の燃焼炉を製造していた。第一次世界大戦中から軍需産業分野へ手を広げる。二代目のLudwig TopfとErnst Wolfgang Topf兄弟が経営トップに立ってからは、ナチスから強制収容所の火葬炉製造を受注するようになる。最初は近郊のブーヘンヴァルト強制収容所及びダッハウ強制収容所に納品していたが、後にはその他の強制収容所の設備も担当するようになり、最終的にはアウシュヴィッツ強制収容所の大規模な火葬炉やガス室の換気扇装置なども製造した。
ミュージアム内には受注書を始めとする多くの社内文書が展示されている。
この図面台で火葬炉が設計された。
この図のような火葬炉の実物をブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で見た。過酷な強制労働と劣悪な生活環境により命を落とした被収容者の遺体を処理するため、収容所の敷地に火葬場が設けられたが、遺体を焼く作業も被収容者が行っていたという。
アウシュヴィッツ強制収容所には第1〜第4火葬場までの4つの火葬場が建設された。第二火葬場では30分間に60体の遺体を同時に焼くことができた。つまり、24時間体制で炉を稼働させたと仮定すると、第2火葬場だけで、単純計算で1日2800体もの遺体を焼いたことになる。アウシュヴィッツでは合計で少なくとも110万人が命を落としたとされる。
灰をを入れる容器。
敗戦後、Topf兄弟は「納品した火葬炉が何に使われていたのか、知らなかった」と主張。軍事裁判中、Ludwig Topfは無罪を訴える遺書を残して服毒自殺した。Ernst Wolfgang Topfは証拠不十分として裁判が打ち切りになった後、Ludwigの死により手にした保険金の30万ライヒスマルクを持って西ドイツに逃亡。ヴィースバーデンでゴミの焼却事業を始めたが、1963年に会社は倒産 。1979年、74歳で亡くなっている。
Topf & Söhne社の敷地は2003年に記念物に指定され、2011年、ミュージアムとしてオープンした。同社に関する常設展示の他、私が行ったときには「キンダートランスポート」に関する特別展示をやっていた。「キンダートランスポート」とは、英国籍のドイツ系ユダヤ人、ニコラス・ウィントンがユダヤ人の子ども達をイギリスに疎開させ、強制収容所へ送られることから救った活動だ。
ミュージアム前には、解体前のTopf & Söhne社の工場モデルが設置されている。左側に見える棒状のものは敷地の横の線路を表している。
同社の火葬炉やガス室設備が送られていったそれぞれの強制収容所までの距離が印されている。
独裁政治と人権について学ぶためのメモリアル 〜 エアフルトのGedenk – und Bildungstätte Andreasstraße
独裁政治と人権について学ぶためのメモリアル 〜 エアフルトのGedenk – und Bildungstätte Andreasstraße
前回の記事に書いたように、エアフルトではシナゴーグを訪れた。その他、エアフルトには大聖堂や多くの美術館がある。旧市街に残る中世の街並みも魅力的である。しかし、この町にはおそらく観光客にはそれほど知られていないと思われるが見学するに値するスポットがいくつもある。その一つが、Gedenk- und Bildungsstätte Andreasstraße(アンドレアス通り記念・学習館)である。
これは、旧東ドイツ(DDR)の秘密警察シュタージ(Stasi)が反体制分子の取り調べのために使っていた建物だ。ここにはDDR時代全体で総計5000人が収容されていたという。現在はそしてドイツ社会主義統一党(SED)により抑圧され、人権を剥奪された人々について知り、民主主義について学ぶための学習センター兼メモリアルとなっている。
旧東ドイツにはかつてのシュタージの拘置所や刑務所をミュージアムにした場所が多くあり、これはその一つに過ぎない。私はこれまでに他の類似施設も見学して来たのだが、このエアフルトのものは青少年への啓蒙に主眼を置いているようで、とてもわかりやすく、よくできていると感じた。
入り口部分には、DDRの独裁政治を機能させたドイツ社会主義統一党を頂点とする国民監視網がまるでクモのような形で天井から左右の壁面にかけて描かれている。
捕らえられた反体制分子が収容されていた独房棟。
大部屋(?)もあったようだ。
展示室。DDR時代に自由を奪われていた人々の生活がどんなものであったのかが、マンガで壁に示されている。
これは子どもにもわかりやすい!
壁のマンガを読んでいたら、社会見学の高校生グループが入って来て、ガイドさんの説明を聞き始めた。ドイツの学校教育は政治・歴史教育に力を入れており、ナチスやDDR時代の負の歴史を教科書の上だけでなく、それが実際に起きていた現場を訪れて学ぶ機会を多く取り入れているのだ。(たまたま手前に高校生カップルが大きく写ってしまったが、特に意味はない)
壁の崩壊からすでに30年近くが経ち、今の高校生には社会主義とはどんなものだったのか、想像しにくくなっているに違いない。私は自分は社会主義の国で生活したことはないものの、ベルリンの壁崩壊は今でも自分の中での歴史的ターニングポイントになっている。しかし、日本人の若い人とそんな話をすると、「へえ、そうなんですね」と意外そうな反応が返って来ることが多い。時間とともにデフォルトの認識は変わるのだなと当たり前のことを感じるが、歴史は繰り返されるということを考えれば、負の過去には繰り返し向き合う必要があるのだろう。
抑圧の時代の末に東ドイツ市民が起こした「静かな革命」と民主主義の獲得についても展示されている。
壁には学習センターを訪れた若者達のコメントがびっしり貼り付けてある。いくつか拾い読みをしてみた。
「マジでクソな国だったんだな」
「DDRに戻りたいなんて言っているやつらは、みんなここを見に来いよ!」
そんな若者らしい言葉で綴られた感想が多かった。
この施設では各種ガイドツアーの他、マンガワークショップも行っている。社会的メッセージの伝達手段としてマンガの手法を学ぶというのも良いかもしれない。
中世のユダヤ人の生活について学べるエアフルトのシナゴーグ
ワイマールに二日滞在した後、そこから20kmほど西のエアフルトへ向かった。エアフルトは人口20万人規模の商業都市である。私はこれまでエアフルトという町には特にこれといったイメージを持っていなかった。そのため、是非とも行ってみたい町ではなかったのだが、せっかくテューリンゲンまで来たのだから、この地方の主要都市を見ておこうと足を延ばした。
行ってみると、エアフルトは見所が多くハイセンスな町であることがわかった。美しいだけでなく、いわゆる「可愛い」「お洒落」「美味しい」な要素も多く、日本人好みかもしれない。
そんなエアフルトで私の関心を強く引いたものがある。それは、この町には中世から多くのユダヤ人が住み着いてコミュニティを形成し、町の発展に重要な役割を担っていたという事実だ。エアフルトにはドイツに今も残る最古のシナゴーグ、Alte Synagogeがある。現在はミュージアムになっていて、中を見学することができる。
シナゴーグ内部は写真撮影禁止で、受付とシナゴーグの間の中庭のようになった場所からのみ外観の写真を撮って良いと言われたが、中庭が狭いので全体像をカメラに収められなかった。
シナゴーグ北側正面の入り口。
中庭には、中世のユダヤ人墓地にあった墓石が展示されている。
エアフルトの旧市街には、11世紀にすでにユダヤ人が定住していたという。当時はキリスト教徒と比較的平和に共存していたが、黒死病の流行をきっかけにユダヤ人への迫害が起こり、1349年のポグロムで多くのユダヤ人が犠牲となった。エアフルトを追われるまでの間、彼らの信仰の中心だったのが、このAlte Synagogeである。ユダヤ教徒が追放された後は、500年もの長い間、倉庫として利用され、19世紀末には舞踏会場やレストランとしても使われた。2009年にミュージアムとして一般公開されるようになった。
ミュージアム内ではヘブライ語の聖書や中世のトーラ、マハゾールなどユダヤ教の文書やエアフルトの数多くの秘宝が見られる。特に中世のユダヤ教徒の結婚指輪が素晴らしかった。エアフルトのこのシナゴーグとそこに収められた秘宝、そして旧市街クレーマー橋のたもとに発見されたユダヤ教徒の沐浴場、ミクワー(Mikwe)は、合わせてユネスコ世界文化遺産に指定されている。
ポグロムにより一旦、姿を消したユダヤ教徒は、19世紀の初めに再びエアフルトへ戻って来た。その後、別の場所に新たなシナゴーグ(現在のNeue Synagoge)が建設されるまでの間、一般家屋がシナゴーグの機能を果たした。
Kleine Synagoge(小さなシナゴーグ)。こちらも一般公開されている。
写真を撮っても構わないと受付の人に言われたので。現在はイベント会場として使われているようだ。
地下には、19〜20世紀のエアフルトのユダヤ教徒の生活を示す展示がある。
現在、エアフルトにはおよそ550人のユダヤ教徒が住んでおり、その大部分はロシア系ユダヤ人だという。現在ドイツに住むユダヤ人といえば、先日、別ブログにこんな記事を書いた。
ドイツのユダヤ人、Shahak Shapira氏の著書を読んでみた
「小さなシナゴーグ」の2階では、現在、エアフルト出身のユダヤ人2家族についての特設展示を開催中で、こちらも非常に興味深かった。エアフルトのユダヤ人の歴史について、もう少し詳しく知りたくなったので、こちらの本を購入。
引き続きこのブログで紹介するが、エアフルトには中世のドイツのユダヤ教徒について、そして彼らが辿らざるを得なかった運命について知ることのできるスポットが多くあって、興味深い。
ワイマールの先史博物館で人類の歴史を知る
マニアックなドイツ・ドライブ一人旅(テューリンゲン編)の二日目はワイマールで過ごした。ワイマールはイエナ(前回・前々回の記事で紹介)から車で30分ほどの距離にある。満開のセイヨウアブラナの花で黄色に染まった丘陵地帯を抜けて行く。絶景ドライブだった。
ワイマール(正確な発音は「ヴァイマー」に近い)は歴史の授業で習ったワイマール共和国やワイマール憲法により、日本でもその地名はよく知られているだろう。また、ゲーテやシラーの町として有名だ。街並みは古典的でとても優雅である。
まず、ワイマールへ行ったら是非見たいとかねてから思っていた、アンナ・アマリア図書館のロココの間を見学した。このあまりに美しい図書館は2004年に大火災に見舞われており、そこからの大掛かりな復元のプロセスについてもドイツ国内ではよく知られている。ワイマールの必見観光スポットであるが、すでにこちらの日本語の記事に詳しく紹介されているので、ここでは紹介を省く。
私は日本の大学では文学部だったので文学にも大いに興味があるのだが、今回の旅のテーマはなんといっても「マニアック」である。なので、定番的なものよりもマニアックなものを探すことにした。しかし、ワイマールにはあまりマニアックな要素が見当たらない。そこで、観光客があまり訪れなそうなスポットということで、先史博物館、Museum für Ur- und Frühgeschichte Weimarに行ってみることにした。
建物の入り口はこんな感じ。
実はそこまで期待していなかったのだが、とても面白かった。テューリンゲン地方の人類の歴史がよくわかる博物館である。
実は、テューリンゲン地方というのは地理的・地質学的にドイツ全国で特に興味深い地域なのだそうだ。ここにはドイツ国内で見られるほぼすべての地形や土壌の種類が存在する。海洋性気候帯と大陸性気候帯の境界に位置していることも特徴的である。動植物の多様性が非常に高く、人類の狩猟生活、そしてその後の農耕生活にも好条件な土地だった。
テューリンゲンにはトラバーチンと呼ばれる地下水の炭酸カルシウムが沈殿してできた堆積岩が多く見られる。
トラバーチンは主に建築材などの用途に使われるが、中にはそれが生成された地質時代の動植物が閉じ込められて化石化したものがあり、当時の自然環境を知ることができる。
左は柏の葉、右は野生のリンゴ。過去記事でバルト海の琥珀博物館も紹介したが、こういう天然のタイムカプセルって、なんだかすごく感動してしまう。
地学的な展示も興味深いが、さらにこの博物館ではテューリンゲン地方における40万前からの人類の歴史を見ることができるのだ。
それぞれの考古学的時代ごとに当時の人々の生活の様子が展示されていて、これがまた面白い。道具や装飾品など、保存状態の良いものが豊富で見ごたえがある。
青銅器時代のアクセサリー。
時代ごとの死者の埋葬の習慣も展示されている。
各コーナーに白骨剥き出しの状態でお墓の内部が再現されているので、そういうものが苦手な人には向かないかもしれない。
この博物館には1時間半ほどいたのだが、時間が全然足りなかった。展示の説明はドイツ語のみなので、外国人観光客はほとんど訪れない観光スポットなのではないかと思う。先史博物館はドイツ各地にあるので、これから他の町のものも是非訪れてみたい。
ガラス博士オットー・ショットのイエナの邸宅、Schott Villa
前回の記事に書いたイエナのカール・ツァイス光学博物館を見た後は、同市内にあるオットー・ショットの邸宅、SCHOTT Villaへ向かった。
ショットの邸宅は現在、ミュージアムとして公開されており、Schott AGが管理している。
オットー・ショットは「イエナ・ガラス」を開発し「ショット硝子工業」を創立した化学者である。
1933年、ヒトラーが政権を獲得すると、ショットのガラス工場もナチスの管理下に置かれたが、ショット自身はナチ党とは距離を置いていた。戦後、ロシア軍がイエナに迫ると、アメリカ軍はショット硝子工業の経営者及び技術者41人に西ドイツのHeidenheimへ移住するよう命じた。彼らは最低限の身の回りの物だけを手にトラックに乗せられ、涙ながらにイエナを後にしたという。
サンルームに張られたスクリーンでショットについてのショートフィルムを見ることができる。
オットー・ショットは考古学に造詣が深く、古代ギリシアやローマの考古学調査に資金援助していた。邸宅内にはショットの考古学コレクションが展示されている。
前の記事にも書いたように、イエナにおける光学産業の発展は、ショットが自らのガラス研究の成果をエルンスト・アッべに提示したことがきっかけだったが、その際にショットがアッべに宛てた初めての手紙が見られる。
直筆のドイツ語の手紙、特に年代の古いものはとても読みにくいことが多いのだが、ショットの筆記は判読しやすく、私にも読めた!
このショットの邸宅は戦後、ロシア軍がめぼしいものを持ち去った後、DDR時代には幼稚園として使用されていた。ドイツ統一後に一旦、空き家となり、その後大掛かりなリフォームを経て、現在の状態となっている。
イエナのカール・ツァイス光学博物館、Optisches Museum Jena
日本がGW中で、日本から新規の仕事が入ってくる可能性がない。このタイミングを利用して、かねてからやりたいと思っていたことを実現させることにした。
それは、ドライブ一人旅である。
車の運転をするようになって、かれこれ15年近くにもなるが、実は私は長いこと近場専門、一般道路オンリーのドライバーだった。スピードが怖くてアウトバーンを走れない。つまり、マイカーでの遠出が一人ではできなかったのだ。幸い、夫は運転が大好きなので、一緒に行動するときにはいつも運転を担当してくれる。しかし、夫には行きたい場所と行きたくない場所があり、そのため彼の気が進まない場所には行くことができないという問題があった。
アウトバーンで運転恐怖症を克服すれば、一人で好きな場所へ行ける。そう思いつつ、アウトバーンデビューするまでに恐ろしく時間がかかった。最近ようやく片道100km程度なら一人で遠出するようになったので、この調子なら、もっと遠くまで行けそうだということで、数日の予定でテューリンゲン地方へドライブ旅行をすることに決めたのである。目的はもちろん、マニアックな観光スポットを訪れること。(マニアックではない普通の観光地も好きなので、それも含めて)
今朝、自宅を出発し、まず向かったのはイエナの光学博物館、Optisches Museum Jenaだ。
イエナは、1848年、かの有名な光学機器メーカー、カール・ツァイス社の創立された町である。ツァイス社は第二次世界大戦後、ドイツの東西分断により、西ドイツのカール・ツァイス・オプトンと東ドイツのカール・ツァイス・イエナの二つの会社に分かれて発展した。ドイツ統一後は再び統合され、現在のカール・ツァイス本社は旧西ドイツのオーバーコッヘンに置かれている。ややこしいことに、ツァイスの光学博物館もイエナとオーバーコッヘンの両方にある。私が今回訪れたのはイエナのOptisches Museum Jenaの方。
博物館の外観はわりと地味。
中は1階、2階と地下の3フロアで、オーディオガイドは日本語も選べる。1階部分は9つの部屋に分かれており、カール・ツァイスについて、また、ツァイスと共にドイツ光学産業の礎を築いたイエナ・グラスの開発者オットー・ショット及び天文学者エルンスト・アッべについての展示のほか、眼科用機器、顕微鏡、望遠鏡、カメラなど、ツァイス製の数多くの製品を見ることができる。
機械工であった若き日のカール・ツァイスは、イエナに顕微鏡工房を構え、同時に小さな販売店を設けてメガネなどを販売していたが、その頃、販売していたメガネはドイツ光学産業の発祥地、ブランデンブルク州ラーテノウ製のものであった。(ラーテノウについての過去記事はこちら)
ラーテノウの光学博物館同様、ここでもメガネの歴史に関する展示が見られる。イエナのメガネコレクションは欧州最大で、ここではそのうちの選りすぐりの物を陳列しているという。
ラーテノウでは見られなかった「ハサミ型メガネ(Scherenbrillen)」も展示されている。こんな不便そうなものをよく使っていたものだと思うが、当時はこういうメガネを持っているのがステイタスだったらしい。
日本製のメガネ。説明には「日本では鎖国政策により、メガネの導入が遅れた。17世紀になって、ようやくオランダ人によりメガネの製作法が伝えられた」とある。
インドのメガネ。
メガネは知識がなくてもわかりやすいので、つい、メガネの展示ばかりじっくり見てしまったのだが、もちろん、その他の光学製品の展示も充実している。
この不思議な装置は、患者の網膜を9人が一遍に観察することのできる検眼器。医学部で学習用に使われていたそうだ。
様々なツァイス製品。
これはツァイス製ではなく、フランス製のバロック顕微鏡だそう。
なんか、これすごいなあ。写真測量の機械だって。
正直なところ、カメラや顕微鏡、望遠鏡が多く展示されていても、それぞれの違いについて技術的なことが理解できない。「わかる人はわかる」という感じなのだろう。なので、私にはむしろカール・ツァイス社を創立したツァイス、ショット、アッべの三者についての説明が面白かった。特に、ツァイスが製作した初期の顕微鏡に数学的計算を応用し、品質の飛躍的改善に貢献したアッべについてはこれまで知らなかったので、特に興味深かった。
アッべはツァイスの死後、カール・ツァイス財団を設立したが、社員への福利厚生制度を導入し、利益を科学の発展と社会の改善のために資するなど社会的な企業倫理を打ち出し、実現させた。現代の言葉でいえば「社会起業家」だったのだ。天才的頭脳を持っていただけでなく、高尚な理念ある実業家だったとは、世の中には偉大な人がいるものだと感心するばかり。
それにしても、19世紀のドイツの知の発展は素晴らしい。当時のドイツの大学の雰囲気はどんなものだったのだろうかと想像するのが好きだ。ドイツの光学産業が確固たる世界的地位を確立したのは、ツァイス、ショット、アッべの三者が互いに出会ったからにほかならない。世の中を動かすのは「コラボの力」なのだなと改めて感じた。
博物館の2階はプラネタリウム技術、地下はホログラム技術の展示の他、イエナにあったツァイスの初期の製作所を再現したコーナーがある。