Blog Elements
You can display blog posts in various ways with the “Blog Post” element/shortcode. You can see one example here and even more at the blog main menu item of this demo.

北海の高潮から陸地を守る巨大防潮ゲート アイダー・シュペアヴェルク(Eidersperrwerk)
年間約1,000万羽以上の渡り鳥が訪れるユネスコ世界遺産ワッデン海。その自然の豊かさには本当に魅了される。しかし、ズィルト島、ハリヒ・ホーゲの記事に書いたように、北海の一部であるこの地域の海岸線は、常に風と水との戦いの舞台だった。激しい嵐や満潮に乗って押し寄せる高潮は、ときに人々の暮らしを一瞬で飲み込んでしまう。そんな自然の猛威に立ち向かうため、さまざまな防潮の技術が発展してきた。
今回、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の西端、アイダー川河口に築かれた巨大な防潮施設「アイダー・シュペアヴェルク(Eidersperrwerk)」を見学して来た。
1973年に完成したアイダー・シュペアヴェルクは、高潮時に海水の流入を遮断し、高潮や嵐による洪水からアイダー川流域の低地を守るために作られた。きっかけは、1962年2月に起きた「北海高潮災害(Nordseesturmflut)」。猛烈な嵐が北海沿岸を襲い、ドイツ、特にハンブルク周辺に甚大な被害をもたらした。堤防が決壊し、浸水により多くの命が失われ、都市機能が麻痺した。大きな高潮が来ると、それまでの堤防や小規模な水門では高潮の力を防ぎきれない。そうした危機感から、アイダー川の河口に大型水門を設け、それを開け閉めすることで海から川へ流れ込む水の量を調整するという大胆な構想が生まれた。
水門の上には歩道が整備されていて、防潮堤の上を歩いて渡ることができる。
海側と川側に幅40mの水門がそれぞれ5つ並ぶ二重構造で、水門はそれぞれ独立して動作する。
天候や潮の状態に応じて、水門の開け方を変えることで川と海の水をコントロールする。運転モードは主に以下の4つ。
①…

ズィルト島のタイムマシン 〜 モールズム崖を歩く
ドイツ最北端の島、ズィルト島。ドイツに住んでいる人でズィルト島の名を知らない人はいないだろう。でも、私は一度もズィルト島へ行ったことがなかった。高級ビーチリゾートのイメージが強くて、私の路線じゃないなあと敬遠していたのだ。気が変わったのは、モールズム崖(Morsum…

ワッデン海の生き物 フリードリヒスコークのアザラシ保護センター
前回の記事に引き続き、テーマはワッデン海。今回はワッデン海の生き物について知ったことを記録しよう。
ワッデン海には多くのアザラシが生息している。世界には34種のアザラシが存在する中、ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州沿岸で見られるのは、主にゼニガタアザラシ(Seehund,…

気候変動の影響を肌で感じる旅──北海の“沈む島”ハリヒ・ホーゲに上陸
ドイツ最北の州、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州は、北海とバルト海という二つの海に挟まれている。州の東側には穏やかな内海のバルト海、西側にはダイナミックな北海。二つの海はとても対照的で、両方を味わえるなんて贅沢な州だなあと思う。どちらにも魅力を感じるが、今回は北海側へ行った。
北海のオランダからデンマークにかけての沿岸には世界最大の連続する干潟、ワッデン海(Wattenmeer)が広がっている。そのうち、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州北部の沿岸海域は、地形が複雑だ。大小の島々があり、成り立ちによってバリアー諸島(Barrierinseln)、ゲースト島(Geestinseln)、ハリゲン(Halligen)など、いくつかのタイプに分類される。その中でハリゲンと呼ばれる島々に特に興味があった。ハリゲンとは、海抜が極めて低く、限りなく真っ平で、強い高潮が来るとほぼ水没してしまう小さな島々だ。堤防らしい堤防はなく、人々は「ヴァルフト(Warft)」と呼ばれる盛土をした小高いエリアに住んでいる。
北フリースラント・ワッデン海にはそんなハリゲンが10島存在する(ちなみに、ハリゲンというのは複数形で、一つ一つの島はハリヒまたはハリクと呼ばれる)。そのうち、もっともアクセスの良いハリヒ・ホーゲ(Hallig…

トイトブルクの森でゲルマン人について探る⑤ エクスターンシュタイネ岩塔群
トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅、ラストはパダボーン近郊のエクスターンシュタイネ(Externsteine)。砂岩の岩塊が塔のように垂直にそびえる景勝地なのだが、ゲルマ…

トイトブルクの森でゲルマン人について探る④ リッぺ州立博物館
ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。
リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。
ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。
収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。
人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。
埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。
伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。
ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。
ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。
展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。
リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。
ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。
さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。
デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons…

新しいブログ開設のお知らせ
2017年から運営して来た当ブログですが、容量がいっぱいになってしまいました。
ドメインごと別のサービスへ引っ越すことも考えたのですが、大変なのでやめました。このブログはこのまま残し、今後はnoteに書いていくことにします。
ぜひご訪問ください。
ChikaTravel (note)