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ここのところ仕事が立て込んでいたり、珍しく風邪を引いたりでちょっと間が空いてしまった。前回の記事ではドイツの航空学パイオニア、オットー・リリエンタールを取り上げた。記事でも触れたように、オットー・リリエンタールは航空学の分野で類を見ない功績を残しただけでなく、蒸気機関やボイラーを始めとして数多くの特許を取得するなど、マルチタレントだった。しかし、オットーの溢れる才能の開花には幼少期から一心同体だったとされる弟グスタフも大きく貢献した。オットーの業績のかなりの部分はグスタフとの活動によって生み出されたものだ。グスタフもオットーと並ぶ航空学のパイオニアである。

しかし、前回の記事では主にオットーにスポットを当て、グスタフについてあまり触れなかった。というのも、オットーほどは知られていないが、グスタフもまた、驚くほど才能に恵まれ、その守備範囲の広さではむしろ兄を凌いだのではないかと思われる非常に魅力的な人物なのだ。私はオットーにも感銘を受けたが、より強く惹かれるのはむしろグスタフの方かもしれない。そこで、オットーとセットではなくグスタフはグスタフとして個別に取り上げたかった。

 

兄と同様、アンクラムのギムナジウムを卒業したグスタフは、ベルリンの建築学アカデミー(現在のベルリン工科大学の前身)に進学した。普仏戦争の勃発のためアカデミーは中退したが、その後、発明家、教育者、建築家、社会改革者など複数の顔を持ち幅広いキャリアを築いた。兄のオットーが蒸気機関やボイラーなど工学分野で活躍したのに対し、グスタフは芸術的な方面で優れた業績を残した。代表的なのは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」と呼ばれる積み木の発明である。(下の写真の一番下。写真が’暗くてすみません)

グスタフはこの積み木の製法を実業家、アドルフ・リヒターに売却し、リヒターは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」の名で商品化した。これが世界的な大ヒットとなり、リヒターは大儲け。残念ながらグスタフ自身はこの積み木からはほとんど利益を得られなかったようだ。しかし、グスタフは今度は次の写真の右のような木製のモジュラーおもちゃを考案し、これまた大ヒットとなる。このモジュラーおもちゃはLEGOやフィッシャーテクニックなど、現代の組み立て系おもちゃの元祖とされているそうだ。

画期的な建物づくりおもちゃを開発したグスタフは、おもちゃではなく本物の建物の設計者としても頭角を現すようになる。当時のドイツは社会が大きな構造変化の最中にあった。産業革命により都市の人口が増え、劣悪な住環境で病気が蔓延するなど都市問題が深刻化していたことから、労働者のために「ジードルンク」と呼ばれる集合住宅が建設されるようになった。グスタフは建築家としてはもちろん、社会改革者としてもこの運動に積極的に関わった。ドイツ、特にベルリンのジードルンク群は現在、観光スポットとして人気があるが、そのうちの一つ、ライニケンドルフドルフ地区のフライエ・ショレ(Freie Scholle)は、グスタフが創始者となった労働者建築協同組合のジードルンクである。このジードルンクは後に建築家ブルーノ・タウトにより拡張され、現在はこんな感じで残っている。(写真はジードルンクのごく一部)

 

また、グスタフはベルリン近郊オラーニエンブルクに1893年に創設されたドイツ初の菜食主義者ジードルンク「エデンの建設にも深く関わっている。エデンジードルンクの建物に使われた建材はグスタフの発明品だそう。この「菜食主義者ジードルンク」の話も掘り下げるとかなり面白そうなテーマなので、いつかエデンへも行ってみたい。

と思っていたら、グスタフ・リリエンタールの設計した建物はごく身近にもあった。私はベルリンの隣町、ポツダム市郊外に住んでいるのだが、ある日ポツダムをぶらぶらと散歩中に面白い形の建物を見つけ、なんとなく写真を撮った。家に帰って来てから、「変わった建物だったけど、何の建物なのかな?」と思い調べてみると、なんとグスタフの手によるものだったのだ。

このVilla Lademannは1895年に建てられたもの。なんとも夢のあるお屋敷ではないか。これを発見したことで、ますますグスタフに興味が湧いた。調べたところによると、リリエンタール兄弟が住んでいたベルリン、リヒターフェルデ地区にはグスタフの設計した住宅がたくさん残っているらしい。それは探しに行くしかない!

Lichterfeldeはこの辺り。

グスタフはまず自分の家族用に英国のタウンハウスから発想を得た小さな家を建設した。ベルリンやポツダムで競って豪邸が建てられていた当時、こじんまりとしたグスタフの家は嘲笑の種だった。しかし、身丈に合った家を建てるべきだというのがグスタフの考えだったらしい。

Tauzienwegのリリエンタールの家

個性的な家の多い通りにおいてもひときわ味があるのですぐにわかった。しかし、この家はその後かなりリフォームが加えられており、オリジナルとは随分違ってしまっているらしい。この家にはグスタフ一家は2年半ほどしか住まず、その後はこちらの家に引っ越した。

ここには現在も子孫の方が住んでおられるらしい。グスタフの設計した住居は見た目が魅力的であると同時に実用的な造りだそうだ。見た目が良いだけの高価な建材は使用せず、庶民に手の届く快適な住居をコンセプトにしていたという。リヒターフェルデ地区には全部で22棟を建設したが、現在は残っているのはそのうちの16棟。

では他の建物も見ていこう。数が多いのでコメントなしね。

 

あ〜、楽しい。逆光だったり木が邪魔だったりで写真が撮れないものもあったけれど、全棟見つけることができた。こんな素敵な建物を考案できるグスタフ・リリエンタールはきっと魅力的な人だったのだろうなと感じる。この記事で紹介したのはグスタフの業績のごく一部である。もっと詳しく知りたいな。今後の課題としよう。

しばらく前にベルリンにあるドイツ技術博物館を久しぶりに訪れた。

何度も行っている博物館だが、規模が大きいので一度に全てを見ることはできず、行くたびに発見がある。前回特に興味を引かれたのは航空技術に関する展示だった。その中でドイツの航空パイオニア、オットー・リリエンタールについて知った。

オットー・リリエンタールは一歳違いの弟グスタフと共に知られる19世紀の発明家である。二人は幼少期から空を飛ぶことに強い憧れを持ち、鳥の飛行をつぶさに観察してハングライダーを設計し、無数の飛行実験を行なったことで知られる。緻密な研究と実験の結果をまとめたオットー・リリエンタールの「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)」は世界中で注目を浴び、後に初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟にインスピレーションを与えた。

「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔」。写真はアンクラムの「オットー・リリエンタール博物館」で撮影したものだが、同様のものがベルリンのドイツ技術博物館でも見られる

ワクワクするなあと思いながら帰宅途中に日本食材店に寄り、そこに置いてあった日本語のフリーペーパー、「ドイツニュースダイジェスト」を何気なく手に取ると、偶然にもベルリン在住のライター、中村真人氏によるリリエンタール兄弟についての記事が載っていた。

リリエンタール兄弟と大空へ夢

中村氏の記事を読んで、ますます興味が湧いた。リリエンタール兄弟の生誕地アンクラムにはリリエンタール博物館(Otto Lilienthal Museum)があるという。行ってみよう。

アンクラムはベルリン中央駅から電車で2時間半ほど。小さな町で、第二次世界大戦で町の大部分が破壊されてしまったため、古い建物はほとんど残っていない。正直に言って、それほど魅力的な町とは言えないかもしれない。でも、今回私が見たいのは街並みではなく、リリエンタール博物館だからね。

駅から300メートルくらいのところにあるが、全く目立たない。

中に入ると、受付の前はショップと喫茶スペースになっている。右脇に小さな展示室があり、リリエンタール兄弟の生い立ちやキャリアに関する展示や動画が見られる。テーブルの上にはリリエンタールの写真アルバムなどの資料も置いてあり、面白くて真剣に見てしまった。

オットーと弟のグスタフはとても仲の良い好奇心旺盛な兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。両親はアメリカへの移住を計画していたが、実現する前に父親が急死してしまい、母子家庭となった。母親は教育熱心で、兄弟はアンクラムのギムナジウムを卒業後、オットーはポツダムの工業学校を経てベルリン王立工業アカデミーへ、グスタフはレンガ職人の訓練を受け、ベルリンの建築アカデミーへ進学した。それぞれ技術者と建築士となっても兄弟は幼い頃からの夢を捨てることなく、飛行翼をひたすら作り、空を飛ぶ実験を続けた。その主な資金源となったのはオットーが発明し、特許を取得したボイラーと蒸気機関である。

リリエンタールのボイラーはコンパクトで安全、値段も手頃だったようだ。

オットーの発明品は多岐に渡り、なんと全部で25もの特許を取得している。リリエンタール機械工場の創始者として経営にあたる傍ら、次々とハングライダーを設計・制作し、2000回を超える飛行実験を行なったというのだから、とてつもないエネルギーの持ち主である。

弟のグスタフも兄に負けずとも劣らぬ豊かな才能と創造性の持ち主で、彼のキャリアもものすごく面白いのだが、この記事ではグスタフの偉業には敢えて触れないでおく。グスタフはグスタフで別記事で取り扱いたい。

さて、そろそろ1階の反対側の展示室に進もう。

鳥のように空を飛べたらと夢想したのは、もちろんリリエンタール兄弟が初めてではない。古くはギリシア神話のイカロスに始まり、世界中の様々な場所で多くの人が空を飛ぼうと試みた。しかし、その中で確かな学術的基盤に基づいた観察と実験の蓄積により航空工学の礎を築いたリリエンタールの功績は大きい。

メインの展示室は半地下にあり、吹き抜けの天井にたくさんのリリエンタールのグライダーモデルがかかっている。オリジナルは断片しか残っていないそうで、ここで見られるのはリリエンタールの設計図を元に作ったもの。

 

 

これらはほんの一部。

展示室には実験コーナーもあり、いろいろな物理実験ができる。

片っ端からやってみた。

飛行シミュレーターもやってみた。あっさり墜落したけど。

これは「リリエンタールのコックピット」。乗ってみて良いと書いてあったので、もちろん乗ってみる。しかし、これは大変な代物である。両方の木の輪っかに脚を一本づつ通して乗り、両手でハンドルをつかむ。お尻は宙に浮いたまま。膝から下と上体を動かして操作する。こういうのに乗って空を飛ぶ実験をしていたなんて、落ちたら危ないじゃないか、、、。展示室には私の他は誰もいなかったので一人で遊んでいたが、誰かが見たら謎の東洋人のおばさんと思われたかもしれない。

リリエンタールの飛行実験の様子を動画(無音)で見ることもできる。いやー、すごいわ。天才とバカは紙一重と言うけれど、周囲の人々の目にはどう映っていたのだろうか。子どもの頃から兄と一心同体となって空を飛ぶ夢を追いかけていた弟のグスタフも、最後には「もういい加減にしたら。妻も子どももいるんだし」と助言したそうである。しかし、そんなアドバイスには耳を傾けず実験を繰り返したオットーは、1896年、「Normalsegelflug」と名付けたグライダーで250mの飛行に成功しながらも、4回目の飛行中に突風に煽られてバランスを崩し墜落、首の骨を折って亡くなってしまう。48歳だった。アメリカでリリエンタールの訃報を知ったライト兄弟は、後に遺族を訪ね、偉大なる先駆者への敬意の印として未亡人に見舞金を渡したとのこと。

博物館の2階はリリエンタールの飛行実験を撮影し続けた写真家、Ottomar Anschützの作品が展示されている。

家族と共に

 

簡単な紹介になってしまったが、リリエンタール博物館は小さいながらも情報量が多く、ウェブサイトも大変充実している。

博物館を出た後、アンクラムの町を歩いた。リリエンタール兄弟のゆかりの地を見てから帰ろうと思ったのだ。

父親が亡くなった後、リリエンタール兄弟は母と妹と一緒にこの家に移り住んだ。現在はあまりパッとしない(失礼)肉屋になっている。

リリエンタール兄弟の通ったギムナジウム。現在の校名はもちろん、リリエンタール・ギムナジウム。

校庭に面した建物には空を飛ぶリリエンタールの絵が。

 

オットー・リリエンタール記念碑。

 

リリエンタール兄弟モニュメント

この日は寒かったけれど、楽しかった。しかし、私のリリエンタールをめぐる冒険(大袈裟)はここでは終わらない。

リリエンタールが飛行実験を行ったのはベルリンやその近郊の丘である。最初に紹介した中村真人氏の記事にあるように、ベルリン市内のリリエンタール公園にも記念碑が設置されているが、1891年にリリエンタールが記念すべき最初の飛行実験を行ったのはポツダム近郊のDerwitzという小さな村だ。うちから近いので見に行って来た。

Derwitz村

村の中心地(といっても、すごく小さな村なので中心部がほぼ全て)には石碑が建っている

肝心の丘のモニュメントはどこにあるのだろうかとキョロキョロしたが、わからない。自転車に乗って通りかかった住民に尋ね、「あっち」と指さされた方へ向かって歩く。しかし、丘にはそれらしきものは見当たらない。しばらくウロウロし、ようやく探し当てた。

あれだ!

地味すぎて遠くからでは全くわからかった。この記念すべきリリエンタールの初飛行の場を知っている人は、一体どのくらいいるのだろう?

リリエンタールが初めて空に向かって飛んだ場所に私も立って見た。鳥の真似をしようなんて、私にはその発想のかけらすらない。でも、夢を持つこと、夢を追いかけることは素晴らしいことに違いない。自分もやりたいことをもっとやらないとなあ。私にもやりたいことはたくさんあるが、命を賭けたリリエンタールの壮大な夢と比べれば夢のうちにも入らない。リスクだってほとんどない。せっかく生まれて来て、そんな小さな夢すら追わずにどうするのよ、などと言ってみる。

グスタフ・リリエンタールについては後日書きます。