先日、ミュンヘンへ行った帰りにアウトバーン沿いの考古学博物館、Kelten Römer Museum Manchingに寄り、現在、頭の中がプチ考古学ブームである。この「まにあっくドイツ観光」で過去に考古学的観光スポットをいくつか取り上げているが(カテゴリー「考古学」)、私は以前は実はそれほど考古学に興味があったわけではなかった。単なる博物館好きで、「考古学の博物館だから見よう」というよりも、「博物館だから見よう」というノリだ。でも、博物館とは面白いもので、全く知らないジャンルの博物館を一つ二つ見ただけでは今ひとつピンと来なくても、数をこなすに従って「あ、これ前に見た〇〇と関係あるやつだよね?」「前に行ったことのあるあの場所のことでしょ」などと次第にそのテーマが自分ごとになっていく。自分には関係ないと思っていた世界が自分に関係ある世界に変わっていくのだ。

ってことで、今回は自分の住むブランデンブルク州の考古学博物館へ行ってみよう!

ブランデンブルク州の考古学博物館、Archäologisches Landesmuseum Brandenburugは修道院(Paulikloster)の中にある。

いい感じ。この博物館は「ブランデンブルク州考古学博物館」なので、リージョナルミュージアムである。ドイツには博物館がたくさんあるが、特定のテーマについて地域を問わずに幅広く扱う博物館もあれば、地域に根ざした情報を扱う博物館もある。数でいうと後者が圧倒的だ。外国人として訪れる場合は「ドイツ〇〇博物館」と「ドイツ」が付いている博物館の方が全国もしくはユニバーサルな情報を網羅していてとっつきやすいと思う。地域の博物館の場合、その地域の予備知識があるか、そのテーマに特に強い関心があれば楽しめるが、そうでなければあまりピンと来ないかもしれない。しかし最近、私は地域の博物館の魅力をじわじわと感じるようになった。もともと地図好きなので、どこになんという町があるのかなどはだいたい把握しているが、それぞれの地方のイメージが立体感を帯びて来て面白い。

この博物館では約1万年前から近代までのブランデンブルク地方の人類史を知ることができる。

ポツダムのシュラーツという地区で発掘された氷河期の牛の骨。シュラーツというのは東ドイツ時代の高層団地が並ぶ地区なので、そこにかつてはこんな立派な牛がいたのかと思ったら、なんとなく可笑しかった。今自分が知っている世界は今の世界でしかないのだなと。当たり前だけどね。

穴の開いた頭蓋骨。この石器時代の男性は穿頭(trepanation)と呼ばれる脳外科手術を2度受けていたらしい。穿頭のテクニックにはいくつかあるが、この例では下図のように、石器を使って頭蓋骨表面を削って行くSchabertechnikと呼ばれるテクニックが使われた。

石器時代の頭蓋骨にはこのような穿頭の跡が見られるものが結構あるらしい。なぜこのような頭の手術を行ったのかは明らかになっていないが、慢性頭痛などの治療だったと考えられている。図では周囲の人たちが患者の体を押さえつけているが、想像すると恐ろしい。よくも生き延びた人がいるものだ。

青銅器時代の青銅製のボタン。展示室では青銅器作りの実演動画を流していて、それも興味深かった。

考古学ジオラマ。ブランデンブルクの地面を掘るとそれぞれの地層からこういうものが出て来ますよというモデルだ。

最終氷河期の地層から出て来たマンモスの牙。

青銅器時代の地層から見つかったラウジッツ文化(紀元前1400年前ぐらい)の壺。

紀元700〜1100年くらいまで、ブランデンブルクにはスラヴ人が定住していた。スラヴ人の墓から出土されたもの。考古学博物館なのでどうしても人骨などの展示が出て来る。また、人骨の扱いなどに対して日本人の感覚とは少し異なるところもある。こういうのが苦手な方はすみません。

これは紀元9〜10世紀にスラヴ人がニーダーラウジッツ地方に建設したRaddusch城のモデル。

Raddusch城は再建されて観光スポットになっている。内部直径38 m、外部直径 58 mのこの城の周りには約5.5mの幅の堀。内部には二つのトンネルを通って入る。城の中庭には14mほどの深さの井戸があるそうだ。今度見に行きたい。

スラヴ人が定住していたブランデンブルクだが、12世紀になるとキリスト教徒たちが侵入して来て、ブランデンブルクは「ドイツ化」されていく。1157年に神聖ローマ帝国の領土である「ブランデンブルク辺境伯領」が成立。次々と城や町が作られて行った。この博物館が入っている修道院の建物もブランデンブルクのキリスト教化の流れの中で建てられたものだ。

また頭蓋骨の写真になってしまうけれど(すみません!)この頭蓋骨が被っているのはTotenkronenと呼ばれる死者の冠である。中央ヨーロッパでは16世紀から20世紀にかけて未婚のまま亡くなった女性に冠を被せて埋葬する習慣があった。(こちらの記事でも紹介しています)結婚式を挙げることなく亡くなってしまった女性への慰めと処女性を保ったことへの褒美の意味合いがあったらしい。

今度は近代。

ターラーと呼ばれるプロイセン時代の大型銀貨。フリードリヒ大王の肖像が彫られている。これは硬貨の歴史コーナーで見たものだが、この展示もかなり興味深かった。

ブランデンブルクのボトルマーク。

これを見てかなり前に訪れたガラス作りを見学できるオープンエアミュージアムを思い出した。その時にはなんだかよくわかってなくて記録も取っていないのだけれど、おそらくこういう瓶も生産していた場所なのだろう。気になるので近々また行ってみよう。

特別展ではヨーロッパの古楽器の展示をやっていて、それも面白かった。たくさん写真を撮ったけれど、キリがないので1枚だけ。これは青銅器時代の太鼓。

 

いつものことながら、このブログで紹介するのは博物館の内容のごく一部でしかなく、それも私個人が特に興味を引かれたものを紹介しているのに過ぎない。見る人が変われば着目点も異なるので、印象もまたそれぞれに違いない。このブログを目にした人が記事をきっかけに紹介した場所またはその人の身近にある観光スポットを訪れ、その人の視点での面白さを発見してくれたらいいなあ。

 

先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)

すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。

 

この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。

メインフロア。広々していて見やすい展示だ。

ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。

墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。

マンヒンクのケルト陶器

焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた

 

イノシシやカバは神聖な生き物とされた。

ケルトの樹木信仰を表す黄金の木

紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖

マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。

展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!

経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??

 

このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。

ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm

 

この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。

常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。

特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。

見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。

 

ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。

 

ここのところ仕事が立て込んでいたり、珍しく風邪を引いたりでちょっと間が空いてしまった。前回の記事ではドイツの航空学パイオニア、オットー・リリエンタールを取り上げた。記事でも触れたように、オットー・リリエンタールは航空学の分野で類を見ない功績を残しただけでなく、蒸気機関やボイラーを始めとして数多くの特許を取得するなど、マルチタレントだった。しかし、オットーの溢れる才能の開花には幼少期から一心同体だったとされる弟グスタフも大きく貢献した。オットーの業績のかなりの部分はグスタフとの活動によって生み出されたものだ。グスタフもオットーと並ぶ航空学のパイオニアである。

しかし、前回の記事では主にオットーにスポットを当て、グスタフについてあまり触れなかった。というのも、オットーほどは知られていないが、グスタフもまた、驚くほど才能に恵まれ、その守備範囲の広さではむしろ兄を凌いだのではないかと思われる非常に魅力的な人物なのだ。私はオットーにも感銘を受けたが、より強く惹かれるのはむしろグスタフの方かもしれない。そこで、オットーとセットではなくグスタフはグスタフとして個別に取り上げたかった。

 

兄と同様、アンクラムのギムナジウムを卒業したグスタフは、ベルリンの建築学アカデミー(現在のベルリン工科大学の前身)に進学した。普仏戦争の勃発のためアカデミーは中退したが、その後、発明家、教育者、建築家、社会改革者など複数の顔を持ち幅広いキャリアを築いた。兄のオットーが蒸気機関やボイラーなど工学分野で活躍したのに対し、グスタフは芸術的な方面で優れた業績を残した。代表的なのは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」と呼ばれる積み木の発明である。(下の写真の一番下。写真が’暗くてすみません)

グスタフはこの積み木の製法を実業家、アドルフ・リヒターに売却し、リヒターは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」の名で商品化した。これが世界的な大ヒットとなり、リヒターは大儲け。残念ながらグスタフ自身はこの積み木からはほとんど利益を得られなかったようだ。しかし、グスタフは今度は次の写真の右のような木製のモジュラーおもちゃを考案し、これまた大ヒットとなる。このモジュラーおもちゃはLEGOやフィッシャーテクニックなど、現代の組み立て系おもちゃの元祖とされているそうだ。

画期的な建物づくりおもちゃを開発したグスタフは、おもちゃではなく本物の建物の設計者としても頭角を現すようになる。当時のドイツは社会が大きな構造変化の最中にあった。産業革命により都市の人口が増え、劣悪な住環境で病気が蔓延するなど都市問題が深刻化していたことから、労働者のために「ジードルンク」と呼ばれる集合住宅が建設されるようになった。グスタフは建築家としてはもちろん、社会改革者としてもこの運動に積極的に関わった。ドイツ、特にベルリンのジードルンク群は現在、観光スポットとして人気があるが、そのうちの一つ、ライニケンドルフドルフ地区のフライエ・ショレ(Freie Scholle)は、グスタフが創始者となった労働者建築協同組合のジードルンクである。このジードルンクは後に建築家ブルーノ・タウトにより拡張され、現在はこんな感じで残っている。(写真はジードルンクのごく一部)

 

また、グスタフはベルリン近郊オラーニエンブルクに1893年に創設されたドイツ初の菜食主義者ジードルンク「エデンの建設にも深く関わっている。エデンジードルンクの建物に使われた建材はグスタフの発明品だそう。この「菜食主義者ジードルンク」の話も掘り下げるとかなり面白そうなテーマなので、いつかエデンへも行ってみたい。

と思っていたら、グスタフ・リリエンタールの設計した建物はごく身近にもあった。私はベルリンの隣町、ポツダム市郊外に住んでいるのだが、ある日ポツダムをぶらぶらと散歩中に面白い形の建物を見つけ、なんとなく写真を撮った。家に帰って来てから、「変わった建物だったけど、何の建物なのかな?」と思い調べてみると、なんとグスタフの手によるものだったのだ。

このVilla Lademannは1895年に建てられたもの。なんとも夢のあるお屋敷ではないか。これを発見したことで、ますますグスタフに興味が湧いた。調べたところによると、リリエンタール兄弟が住んでいたベルリン、リヒターフェルデ地区にはグスタフの設計した住宅がたくさん残っているらしい。それは探しに行くしかない!

Lichterfeldeはこの辺り。

グスタフはまず自分の家族用に英国のタウンハウスから発想を得た小さな家を建設した。ベルリンやポツダムで競って豪邸が建てられていた当時、こじんまりとしたグスタフの家は嘲笑の種だった。しかし、身丈に合った家を建てるべきだというのがグスタフの考えだったらしい。

Tauzienwegのリリエンタールの家

個性的な家の多い通りにおいてもひときわ味があるのですぐにわかった。しかし、この家はその後かなりリフォームが加えられており、オリジナルとは随分違ってしまっているらしい。この家にはグスタフ一家は2年半ほどしか住まず、その後はこちらの家に引っ越した。

ここには現在も子孫の方が住んでおられるらしい。グスタフの設計した住居は見た目が魅力的であると同時に実用的な造りだそうだ。見た目が良いだけの高価な建材は使用せず、庶民に手の届く快適な住居をコンセプトにしていたという。リヒターフェルデ地区には全部で22棟を建設したが、現在は残っているのはそのうちの16棟。

では他の建物も見ていこう。数が多いのでコメントなしね。

 

あ〜、楽しい。逆光だったり木が邪魔だったりで写真が撮れないものもあったけれど、全棟見つけることができた。こんな素敵な建物を考案できるグスタフ・リリエンタールはきっと魅力的な人だったのだろうなと感じる。この記事で紹介したのはグスタフの業績のごく一部である。もっと詳しく知りたいな。今後の課題としよう。