かねてから行きたいと思っていたドイツ南東の町、バウツェン(Bautzen)へ行って来た。そこにあるソルブ博物館(Sorbisches Museum Bautzen)を訪れるためだ。ドイツで今もなお独自の文化を保つスラブ系の少数民族、ソルブ人に関する博物館である。

ソルブ人の存在は以前住んでいたドイツ西部から現在の住まいブランデンブルク州に引っ越して来てから初めて知った。ベルリンから電車に乗って南東方面へ移動すると、いつからか駅名がドイツ語と見慣れない別の言語の二言語表示になるのに気づいた。ポーランドとの国境に近い地域なのでポーランド語を併記しているのだろうか?と思ったら、その見慣れない言語はソルブ語だという。ブランデンブルク州とその南のザクセン州にまたがってラウジッツと呼ばれる地域があり、その地域にはドイツ人とは言語や文化を異にする少数民族、ソルブ人が生活しているそうだ

ベルリンから南東100kmほどのところにシュプレーヴァルト(Spreewald)という湿地帯があるが、景観がとても美しく、首都から気軽に行ける観光地としてとても人気である。シュプレーヴァルトにはソルブ人の集落があり、Lehdeの野外博物館Freilandmuseum Lehdeをはじめとする民族学博物館でソルブ人の伝統文化を知ることができる。Lehdeの博物館へは10年ほど前に初めて訪れ、特徴的な民族衣装やカラフルで繊細な模様付けをしたイースターエッグなどの手工芸品が素晴らしく魅力的で気に入った。シュプレーヴァルトのソルブ文化については紹介記事や動画がたくさんあるので、今回はバウツェンのソルブ博物館について書きたい。

ざっくりと説明すると、ソルブ人というのは6世紀から10世紀にかけてカルパチア山脈の北方から現在のドイツ東部へ移動して来て定住したスラブ系民族の末裔である。当時、20ほどの異なる部族が入って来たとされ、現在使われている「ソルブ人(Sorben)」という呼称はそのうちの一つのSurbi族に由来すると考えられている。スラブ系民族は40,000km2ほどの領域に定住して農耕や牧畜、貿易を営んでいたが、12世紀以降の東方植民により西部から大量のドイツ人が移住して来て以来、少数派となった彼らは次第にドイツ文化の中に吸収されて行った。スラブ系民族の居住範囲がどんどん狭まり人口が減っていく中、ラウジッツ地方では彼らの独自文化が比較的良く維持された。長い歴史の中で差別や断続的な弾圧を経験しながらも「ソルブ人」としてのアイデンティティを保ち続けている人々がいる。ラウジッツ地方はブランデンブルク州に属する下ラウジッツ(Niederlausitz)とザクセン州に属する上ラウジッツ(Oberlausitz)に分かれ、同じソルブ人でも言語が異なるそうだ。下ラウジッツで話されるソルブ語(下ソルブ語)はポーランド語に近く、上ラウジッツのソルブ語である上ソルブ語はチェコ語に近い。上で紹介したシュプレーヴァルトでは下ラウジッツのソルブ文化に触れることができるが、それとはまた異なるという上ラウジッツのソルブ文化にも興味があった。今回訪れたザクセン州南部のバウツェンは上ラウジッツのソルブ文化の中心地である。

バウツェンは「塔の町」というキャッチフレーズを持ち、中世の市壁が残る美しい町。観光地としても魅力的だけれど、ここでは町の紹介は飛ばしてソルブ博物館へ直行しよう。

またしても外観の写真を撮るのを忘れてしまった(博物館へ行くときには常に前のめり、、、)。

受付の女性はご本人が言うには「純粋なソルブ人」だそうで、母語はソルブ語、ドイツ語は第二言語として話しているとのこと。ソルブ人の民族代表機関であるラウジッツ・ソルブ人同盟(Domowina)の発表によると、現在、ソルブ語を話す人はドイツに約6万人いるとされる。もちろん「話す」の程度は人により様々だろうけれど、受付の方のように「母語はソルブ語で、家では毎日ソルブ語を話しています」というほどのレベルでソルブ語を運用している人もいると初めて知り、少し驚いた。

ソルブ博物館は3階建てのなかなか大きな博物館である。全体として、民族学的な内容よりもドイツにおけるソルブ人の歴史に重点を置いた展示だった。ドイツ人の東方入植以来、支配者が移り変わる中、ソルブ人がどのようにして民族のアイデンティを形成しそれを守って来たか、その流れがわかるようになっている。

 

ソルブ人の文化として最も目につきやすいのは特徴的な民族衣装だ。現在は日常着ではなくお祭りなど特別な場で着用されるソルブの民族衣装は東欧を感じさせる色合いやデザインで、繊細な魅力に富んでいる。そして、同じソルブ人の民族衣装でも地域によってかなりの違いがあるようだ。

これはSchleife村のあたりで着られていた民族衣装


こちらもSchleifeのもの。右側は花嫁衣装

左側のカラフルなビーズを使った衣装はHoyerswerdaのソルブ人集落の衣装。右はコットブス周辺の集落のもの。地域によってデザインや色使いがかなり異なるけれど、基本色が象徴するものは共通で、赤は若さや力を表、緑は成熟を表す。花嫁衣装には緑色が使われる。黒は祝い事の色、白はかつては喪の色だった。

左からBautzen、Nochten、Muskauの衣装

顔をレースで覆った女性の衣装はクリストキント(Christkind)の衣装。クリストキントというのはドイツでは一般的にはクリスマスの天使を意味する。クリスマス市などでよくお目にかかる背中に羽のある白と金の衣装を着た若い女性がそれ。しかし、ソルブの風習はそれとは異なり、ベールで顔を隠した女性が付添人とともに集落の家から家へ人々を祝福して回る。クリストキントにレースの手袋をはめた手の甲で3回顔や頭を撫でてもらうと神の恵みが得られるそうだ。クリストキントはベシェールキント(Bescherkind)とも呼ばれ、衣装は地域によって違う。上の写真はHoyerswerdaのもの。

こちらは下ソルブのクリストキント(ベシェールキント)の衣装で、Lehdeのソルブ・クリスマス市で遭遇した。クリストキント役には翌年結婚予定の未婚女性が選ばれるが、誰がクリストキントなのかは秘密で、そのため本人は口をきいてはならないらしい。このクリスマス市では私も手の甲で顔を撫でてもらったので良いことがあるかな。

さて、衣装を紹介しているとキリがないのでこれくらいに。

ソルブ人は6世紀以降、現在のドイツの国土にずっと住み続けて来たが、ソルブ人の国家が存在していたわけではない。ドイツ人に混じってスラブ系民族の集落が点在し、それぞれの集落には少しづつ異なる文化や風習があったようだ。ドイツ人は自分たちとは異なる言葉を話す彼らをヴェンド人(Wenden)と呼んだ。差別的なニュアンスを含む呼称なので、現在はソルブ人という言葉が使われているが、ヴェンドという言葉は現在も残っていて、ニーダーザクセン州にはヴェントランド(ヴェンド人の住む土地)という意味の地方がある。このヴェントラントがまた興味深いのだ。住居が円形に並ぶルンドリンクという特徴的な形態の村々が残っている。それらの集落を作ったヴェント人はすでに死滅したポラーブ語を話すスラブ系民族で、現在のソルブ人とどのくらい言語や文化が似ていたのかわからないが、このバウツェンのソルブ博物館の展示にもドイツ人が流入する以前のソルブ人の集落はルントリンクが多かったと書いてあった。(ルントリンクを訪れたときの記事はこちら

自然宗教や祖先信仰を持ち、農耕や牧畜を営んでいたソルブ人はドイツ人の入植後、キリスト教を信仰するようになり、ドイツ人に同化していったが、ソルブ人の人口密度が高かったラウジッツ地方では比較的独自文化を保ちやすかった。特に宗教改革後もカトリックの上ラウジッツは周辺のスラブ系の国との結びつきが強く、民族的要素をより強く残しているようだ。

支配者が移り変わる中でソルブ語の使用は度々禁じられたが、19世紀のパン=スラヴ主義運動の高まりの中でソルブ人の市民文化が開花する。ソルブ語の文法が整備され、それを基盤としてソルブ文学が発展した。1871年からのドイツ帝国期には再び強い抑圧を受けることになるが、ソルブ人の青年運動が活発化し、ラウジッツ各地にソルブ文化サークルが発足、1912年にそれらの上部組織としてドモヴィナ(Domowina)が設立された。

ソルブ語の新聞

しかし、ナチスが政権を取るとソルブ人組織は解体させられ、ソルブ語由来の多くの地名が「ドイツ語らしい」地名に書き換えられ、社会生活のあらゆる場面においてソルブ語の使用が禁じられた。

第二次世界大戦後、東ドイツを占領したソ連はソルブ人に対し、社会的・文化的な保護措置を取った。ソルブ語の新聞の創刊やソルブ語によるラジオ放送の開始、ソルブ語教師の要請及びソルブ語で授業をする学校の設立などが行われ、そうした保護政策はドイツ民主共和国(DDR)政権に引き継がれた。

DDR時代に設置されたソルブ語授業実施校。●印はソルブ語の授業実施校、■はソルブ語で授業を行う学校、▲はソルブ人ギムナジウム

しかし、手厚い少数民族保護政策のように見えた措置は必ずしもソルブ人自身が求める言語と文化の保護を主眼に置いたものではなく、ソルブ人を社会主義の理想と目標の担い手として取り込んでいこうとするものだった。1950年代にラウジッツ地方で褐炭の採掘が始まると、多くのソルブ人は強制移住させられ、46のソルブ人の村及び27の集落が消滅した。

東西統一後のドイツではブランデンブルク州、ザクセン州それぞれのソルブ人保護法のもと、ソルブの民族文化が保護されている。現在、ソルブ人居住区として定義されている地域は上ラウジッツに42箇所、下ラウジッツに27箇所ある。それらの居住区ではお祭りなどの文化的催しが定期的に行われているだけでなく、幼稚園もソルブ語のみ、もしくはドイツ語とソルブ語のバイリンガルのクラスが設けられている。ミサをソルブ語で行う教会もあるそうだ。

以上、大いに端折った紹介になってしまったが、これまで存在は知っていたもののどのような文化と歴史を持つのかは全く知らなかったソルブ人について知ることができ、とても興味深かった。ソルブ人の歴史についてもうちょっと詳しく知りたい方にはドモヴィナ出版から出ているこちらの本がお薦めだ。

Kurze Geschichte der Sorben

ドモヴィナ出版


ソルブ語で書かれた書籍やソルブ関連の書籍がぎっしりと並べられた店内


1冊2ユーロと気軽に購入できるソルブ文化の本。これらも読みやすく、お薦め。

ソルブ関連スポットマップを作ったので、ご興味のある方はどうぞご利用ください。

 

まにあっく観光マップの第8段が完成した。今回作ったのは「ドイツ観光鉱山・鉱業マップ」だ。古くから鉱山業の盛んなドイツには鉱山業に関する博物館がたくさんある。また、現在は採掘が行われていない旧鉱山の多くが観光鉱山として整備されている。観光鉱山では坑道を歩き、内側から観察することができる。炭鉱から銀・銅鉱山、貴石鉱山など、種類もとても豊富だ。全国に一体どのくらいの数があるのだろうか?とふと思い、マッピングすることにしたが、その多さは想像を超えていた。

観光鉱山と鉱山業博物館を登録したけれど、両者を厳密に分けるのは難しかった。観光鉱山が博物館を併設しているところ、博物館の一部として鉱山を見学できるところ、鉱山とは独立した博物館、技術博物館の一部に鉱山業の展示があるところなど様々だ。観光鉱山を併設しない博物館と展示がメインのスポットは博物館アイコン、それ以外は炭鉱アイコンで表示。例によって、赤色は私がこれまでに訪れたスポットだ。

カテゴリーは採掘される資源の種類別に「石炭・褐炭・石油・天然ガス」「金・銀・銅」「塩」「粘板岩」「石灰石・チョーク・砂岩」「鉄」「その他の鉱石(スズ、亜鉛、鉛、コバルト、ニッケル、黄鉄鉱、ウラン、石英、石膏、蛍石、マンガン、黒鉛、アメジストなど)」「鉱業全般」の8つ。

カテゴリーごとに表示すると、ドイツにおける特定資源の分布がわかる。たとえば炭鉱があるのは、ルール地方やハルツ地方(主に石炭)、ラウジッツ地方(褐炭)、南バイエルン(ピッチ炭)。

アイコンを押すと、そのスポットの画像が出るので、観光鉱山ってどんな感じ?と気になる方はいろいろ押してみてね。この画像は南バイエルンの風光明媚な避暑地、ベルヒテスガーデンの岩塩坑のもの。ここは私が一番最初に見学した観光鉱山で、トロッコにまたがって坑道を滑り台のように滑り降りるという体験がとてもエキサイティングで気に入った。そもそも私はこれがきっかけで観光鉱山が好きになったのだ。

こちらはベルリン近郊の石灰石採掘場がオープンエアミュージアムになったMuseumpark Rüdersdorf。ここではパーク内で石灰窯などの設備や展示がみられる他、隣接する石切場をジープで回るツアーもある。さらには化石採集もできるという充実ぶりだ(見学記録はこちら)。

そしてこちらは、最近行って来た宝石の町、イーダー・オーバーシュタイン近郊にある貴石鉱山 Edelsteinminen Steinkaulenberg(記事はこちら)。

 

この通り、ドイツの観光鉱山はよりどりみどり。地下道や洞窟を歩く鉱山見学は冒険っぽくてそれ自体が楽しいのだけれど、実は鉱山はいろいろなものの要となる分野でもある。人類の歴史は資源獲得・活用の歴史でもあったわけで、鉱山は技術史や政治史、社会文化史に繋がっている。そして、地下を掘れば化石が出て来たり、遺跡が出て来ることもあるので古生物学や考古学とも大いに関係があるのだ。

と、こう書いても鉱山の魅力は伝わりにくいかもしれない。少しでも楽しさを知ってもらえたらいいなあと思い、ポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」で鉱山の何がどういう風に面白いかを語ってみたので、よかったら聴いてください。

まにあっく観光裏話 7 鉱山は面白い

 

 

Googleマイマップで作るまにあっく観光マップの7つ目ができた。今回は在独日本人向けに実際的で超有用な情報サイト「ドイツ情報生活百科」を運営されているノラさん(@g_item)がドイツ国内の航空関連の博物館リストを提供してくださったので、それをベースにドイツ航空関連スポットマップを作ってみた。

カテゴリーは「博物館」「飛行クラブ」「レストラン」の3つ。

まず、博物館を見ていこう。

確認できたのは全国で44箇所。思ったよりたくさんあった。純粋な航空博物館の他に技術博物館の中に航空関連の展示コーナーがあるものや乗り物博物館も含めている。航空分野は私にとってほとんど未知の世界で、これまでに4箇所しか訪れていない。

そのうちの一つ、アンクラムのオットー・リリエンタール博物館はとてもオススメ!以下の記事で紹介している。

過去記事: 「ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館

そして、ベルリンのガトー地区の空港にある軍事博物館の分館(Militärhistorisches Museum Flugplatz Berlin-Gatow)では、様々な戦闘機を見ることができる。

過去記事: 「ベルリン軍事史博物館

他にも気球博物館ヘリコプター博物館ツェッペリン博物館グライダー博物館など特定分野に特化した博物館もたくさんあり、充実している。

博物館をマッピングしたついでにドイツ全国の飛行クラブもマッピングしようと思ったが、検索してそのあまりの数の多さに仰天してしまった。ノラさんからドイツはスカイスポーツがとても盛んで、アマチュアの同好会もたくさんあると聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。一体全国にいくつのクラブがあるのかわからないが、グライダーだけでも相当な数だ。(グライダーの同好会をマッピングしたものがあったので、ご興味のある方はこちらをどうぞ)

いくらなんでも多すぎるので飛行クラブをドイツ航空関連スポットマップに登録するのは諦めたが、ウェブサイト上に「試乗可能」と明記されているクラブをいくつか登録した。ドイツでではないけれど、私は休暇の際にセスナ機に二度、ヘリコプターに一度乗ったことがあり、どちらもすごく感動的だったので機会があればまた乗ってみたいと思っていたところ。

さて、マップの3つ目のカテゴリー「レストラン」だが、スカイスポーツのできる飛行場にはレストランやカフェを併設しているところがある。先日、イーダー・オーバーシュタインへ旅行に行ったとき、地元の人が「飛行場のレストランが人気ですよ。料理も美味しい」と薦めてくれたので行ってみた。それがとても気に入ったのだ(ウェブサイトはこちら

飛行場に面したレストランのテラスで飛行機が離着陸するのを眺めながら食事ができる。ちょうど夕暮れの時刻だったので素晴らしかった。クラブの会員になってスカイスポーツをしなくても、食事をしながら見学するだけでもかなり楽しいと思う。

そしてこちらは飛行場のレストランではないが、バルト海沿岸の町、ロストックにあるパイロットバー、Schallmauer。経営者は夫と私の古い友人で、退官した空軍パイロットである。店内パイロットグッズだらけのかなりマニアックな飲み屋で面白いと思う。

 

以前、ニーダーザクセン州のニーンブルクで警察博物館に立ち寄った。それがなかなか面白かった(記事はこちら)ので、他の州の警察博物館も見てみたいなと思ったのだが、そのまますっかり忘れていた。先日、仕事でベルリン市の少年犯罪について専門家から興味深い話を聞く機会があり、ベルリン警察史博物館(Polizeihistorische Sammlung)の存在を思い出したので今週、行って来た。

警察史博物館はベルリン、テンペルホーフ地区の警察署本部の建物内にある。

入り口で身分証明書を見せて警察署の建物の中に入り、地下の展示室へ。

地下の博物館入り口

なんと入場料は1ユーロ。

展示室は2つあり、手前の部屋ではプロイセン時代から第二次世界大戦終戦までの警察史をパネルで展示している。奥の部屋に戦後のベルリン警察史が続く。開館時間は15:00までで、入館したのは13:00ちょっと過ぎだった。2時間あれば十分だろうと思ったのだが、説明文の量がとんでもなく多くて、ゆっくり読んでいたら時間が全然足りなかった!

ベルリンの警察史は19世紀初頭のプロイセン王国陸軍親衛憲兵隊(Königliche Landgendarmerie)に始まる。Gendarmerieはフランス語(gens d´armes)からの借用語で、ドイツ語に直訳するとWaffenleute(武器を持った人たち)の意。当初、憲兵隊は刑事警察と保安警察の両方の役割を担っていた。しかし、プロイセンはナポレオンとの戦いに敗れ国家滅亡の危機に陥ったことで、諸制度の大々的な改革の必要に迫られる(プロイセン改革)。その流れの中、1848年、王立国家警察(Königliche Schutzmannschaft)が結成された。

1848年結成当時の王立国家警察(シュッツマンシャフト)の制服。

さらに、1854年に警察改革が行われ、王立国家警察に水上警察(ベルリン市内や周辺には川や湖が多い)や騎馬隊、福祉警察など7つの部門が置かれ、警察機能が分化していく。それぞれの役割に応じた制服が導入され、警察官の養成が行われるようになった。1904年には初の警察犬も導入される。

プロイセン警察の制服いろいろ

治安秩序の維持という警察の機能は社会の変化の中で少しづつ形を変え、活動の幅を広げていった。19世紀半ばには産業革命によって社会構造や民衆の生活が大きく変容する。ベルリンの人口は急増し、多くの人が劣悪な労働・生活環境に置かれた。状況の改善を求め労働者らが社会運動を起こすようになると、集会や禁じられた発行物を取り締まることも警察の重要な任務となっていった。

やがて第一次世界大戦が勃発すると、警察は「非常時」であるとして市民生活の監視に乗り出す。娯楽を制限し、売春行為を取り締まり、代替食品の流通や売買を監視した。混乱の中で蔓延する少年犯罪を取り締まる必要性も生じた。そして、1918年のドイツ革命の後、王立国家警察が解除されると、混乱期における紆余曲折を経て1919年、治安秩序警察は治安警察(Sichertheitspolizei、略称SiPo)と秩序警察(Ordnungspolizei、略称OrPo)に二分された。しかし、1920年のさらなる改革で秩序警察は廃止され、新たに治安秩序警察(Schutzpolizei、略称SchuPo)が創設される。ここまでのベルリン警察史、かなり複雑で近代史が頭に入っていないと把握するのが大変である。治安秩序警察とは別に、1872年に導入された刑事警察(Kriminalpolizei、略称KriPo)はそのまま機能を保持し続けた。

時系列で展示を読み進んで行くと、やがてドイツ史において避け流ことのできない時代、ナチス時代に突入した。ナチス政権下では秘密国家警察(Geheime Staatspolizei、通称ゲシュタポ)が発足し、刑事警察と統合されて保安警察(Sicherheitspolizei)となる。似たような用語が多くて大変ややこしいのだが、このときドイツ警察長官に任命されたハインリヒ・ヒムラーはこの保安警察と秩序警察を合わせたドイツの警察機構全体を掌握することとなる。そして警察内の人員整理により要職はナチスの親衛隊や突撃隊のトップで固められていく。

いつものことだけれど、この時代についての資料は読むのがとても辛い。

ナチス政権下の警察による青少年への洗脳の様子

1つ目の展示室での展示は第二次世界大戦終戦時までで、続きは奥の展示室にまとめられている。戦後、ベルリン市は連合国により分割統治されたが、その際に警察機構も再編成されることになった。新しい警察署はソ連の占領区域に置かれ、ソ連はベルリンの警察機構に対し大きな影響力を持つことになったが、ベルリン市の支配を巡って英米仏とソ連の間の対立が深まり冷戦が始まるとベルリンは東西に分断され、警察機構も二つに分かれてそれぞれの路線を歩むことになる。

英米仏占領区域で使われた警察グッズ

ベルリンが東西に分かれ、ドイツ統一により再び一つになるまでの間の警察史もあまりに濃い。東ベルリンでは秘密警察・諜報機関、シュタージが創設されて市民を監視し、西ベルリンでは学生運動やテロ、住居の不法占拠など警察が大々的に出動する事態が次々と起こった(と、一言でまとめるのは乱暴すぎるけれど、この時代についての資料を紹介するとそれだけで1つの記事になってしまうので)。晴れてドイツが再統一されると、今度は混乱の中でベルリンの治安が急激に悪化した時期もあった。プロイセン時代に初めて警察機構が誕生して以来、ベルリンは激しい社会の動乱と体制の変化を繰り返し乗り越えて現在に至るわけで、その中で警察が果たして来た役割(良いことも悪いことも含め)の重みを考えると、同じ警察でも他の州の警察とは事情が異なるとしか言いようがない。

 

展示室では警察史のパネルの他、警察の道具やベルリンで起こった事件に関する展示物も見られる。

ベルリン警察帽コレクション

警察官のパーティ用ユニフォーム

1937〜1945頃に使われていた法科学鑑定の道具

不法侵入の道具

様々な事件の犯行に使われた凶器

1995年ベルリン、ツェーレンドルフ地区で起こった銀行強盗事件に関するコーナー

ベルリンの歴史に触れるには多くの切り口があるが、警察史から考えるベルリンも面白い。以前行ったベルリン・スパイ博物館の展示に通じるところもあるので、そのときに書いた記事を貼っておこう。

ベルリンスパイ博物館

 

久しぶりに観光マップを作った。

今回は「オスタルギー関連スポットマップ」。オスタルギーとはなんぞや。ドイツはご存知の通り、1989年まで西ドイツと東ドイツに分かれていた。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが再統一されてからもう30年近くになる。旧東ドイツ(DDR)に生まれ育った人たちの中にはDDR時代の生活文化を懐かしく思い出す人が少なくないようだ。「オスタルギー(Ostalgie)」とは東を表すOstとノスタルジー(nostalgy)とを合わせた造語である。

チープなDDR製品には素朴さや独特の味わいがあり、旧東ドイツ育ちでない人たちの中にもファンがいる。また、DDRの生活文化に触れることが冷戦の時代について知るきっかけになることもある。そこで、オスタルジーを感じられるスポットをまとめてみた。

東ドイツにはDDR時代の生活文化や社会文化について展示をしている博物館が数多くある。

観光客にとって最もメジャーなのはベルリンにある「DDR Museum」や「Museum in der Kulturbrauerei」でどちらも興味深いが、個人的オススメはアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)の「Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR」。

DDR製の乗り物博物館もたくさんある。国民車トラバントの博物館はもちろん、DDR製の二輪車や電車、作業用車両もレトロなデザインで、眺めるだけでも楽しい。

 

関連動画を見つけたので貼っておこう。

DDR時代を彷彿とさせるカフェやレストラン、ホテル、映画館もいくつかある。(全ては網羅していないと思うので、登録したスポット以外のものをご存知の方は「こんな場所あるよ」と教えて頂けたら嬉しいです。追加します。

このブログではショッピング情報は敢えてシェアしていないけれど、今回は例外的にDDRグッズの買えるショップも登録した。その他、東ドイツには街並みにDDRの雰囲気が今なお濃厚に残っている場所がある。

上でも紹介したアイゼンヒュッテンシュタットの他、

マクデブルク(Magdeburg)の中心部や

ホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の駅前、東ベルリンのカール・マルクス通りなど。

今回登録したものの他に、東ドイツにはDDR時代の政治犯の取り調べ所の建物を資料館にした場所や東西ドイツの国境検問所ミュージアムなど、DDR時代の政治状況や冷戦について深く学ぶことのできるスポットも非常に多くある。とても興味深いがそれらはオスタルギーとは切り口が違うので、今回のマップは生活文化を軸に関連スポットを集めた。

結構見てきたつもりだけれど、マップを作ることでまだまだ見たい場所がたくさんあることがわかった。これから少しづつ訪れたい。

 

イーダー・オーバーシュタインでの休暇の最終日。旅の目的だった鉱石観光は無事終了し、中途半端に時間が余ったので近郊のブンデンバッハ(Bundenbach)にあるケルトの集落、アルトブルク(Altburg)へ行ってみることにした。1971 年から 1974 年にかけブンデンバッハの丘の上に紀元前170年頃に建設され、ローマ軍に占領されるまでケルト人が生活を営んでいだ集落の遺跡が見つかった。その集落の一部が再建され、オープンエアミュージアムになっている。

ケルト集落は観光鉱山Herrenbergから5分ほど歩いたところにある。鉱山入り口でチケットを買うと、受付の女性に「主人がミュージアムを案内します。バイクですぐに行くので先に行っていてください」と言われたので、山道を歩き出す。

斜面を少し登ると台地に出た。柵に囲まれた藁葺きの建物がいくつか並んでいる。それがミュージアムだ。

ガイドさんがバイクに乗ってやって来た。アルトブルクのケルト集落はおよそ1.5ヘクタールの台地に建設され、周囲は厚い壁と溝に囲まれていたことが明らかになっている。最も高い場所には有力者が住んでいた。その一角に5棟の住居と5棟の倉庫の建物が再建されている。

この台地で発見されたのは地面に開いた掘立柱を立てるための穴と柵溝だ。全部で3500ほどもあった穴の位置から当時の住居の配置を計算し、建物を再建した。この集落はカエサル率いるローマ軍に占領され、ローマ帝国の領土に組み込まれることになったが、その際に破壊行為が行われた形跡はなく、徐々に衰退し消滅したと考えられている。

左側が倉庫の建物。右が住居

メインの建物が展示室

オリジナルの地下室が残っている。右側に3段ほどの階段が見える。この地下室の用途は明らかでないが、宗教儀式が行われたのではないかと考えられている

亜麻から繊維を取り出す道具(Flachsbrecher)

このミュージアムでは毎年夏にケルト祭りが催される。またその他のイベントなども通じ、ケルト文化を伝えている。

ケルト文化に典型的とされる安全ピン

別の建物の内部。えっ、普通に住めそうじゃない、ここ?と思ったら、イベント時などに運営者が寝泊まりすることがあるそうだ。テーブルや椅子はケルトの資料に基づいて作製されたものだけれど、奥のベッドはIKEAのものだとか。

パンを焼く竃

ミュージアムの閉館時間が近づいていたのでガイドさんはさっさと案内を終了したかったようで、早口のさらっとした説明で終わってしまった。ギリギリに行った私たちが悪いが、もうちょっと詳しく聞きたかったなあ。

というわけであまり多くはわからなかったけれど、ドローン動画を撮影したのでケルト人が生活していたのはどんな場所なのか、雰囲気を感じてもらえれば。

ケルト関連の観光スポットはマンヒンクのケルト・ローマ博物館に続いてこれがまだ2つ目。これからもっといろいろなケルト関連スポットを訪れたい。

ケルト集落から西方向を眺めると、中世の城、Schmidtburgの廃墟が見える。以下はおまけの写真とドローン動画。

上から見たところ

 

過去4回に分けてイーダー・オーバーシュタインでの鉱石観光についてレポートして来た。ここで話はイーダー・オーバーシュタイン滞在1日目の化石エクスカーションに戻る。ガイドさんの案内のもとフンスリュック地方で見つかる様々な年代の化石を探し集めるという大変満足なエクスカーションに参加した。終了時にガイドさんから「これ、知り合いがやってる店なんだけど、よかったら行ってみて」とチラシを手渡された。近郊のヘルシュタイン(Herrstein)という町にあるワインとアクセサリーの店、Goldbachs Weine & Steineのチラシだった。

私はワインは飲めないし、買い物もそれほど好きではないので、店は見なくていいか、、、、と思ったのだけれど、チラシをよく見ると「Geomuseum(地質学博物館)」と書いてある。どうやらこのお店は小さな博物館を併設しているようだ。たいして遠くもなかったので、行ってみることにする。

チラシの住所の建物の中に入ると確かにワインの店である。が、奥の部屋が博物館だという。

なるほど、これが博物館。写真がちょっと暗くなってしまったが、磨き上げられたショーケースに化石が美しく展示され、小さいながらもかなりいい感じの空間だ。さて、では化石をちょっと見せてもらおうかと思ったところに店の主人と思われる男性が入って来た。

「私のコレクションをご覧になりたいのですね。では、ご説明致します」と言うと、店のご主人はここにプライベート博物館を作った経緯を熱く語り始めた。ご夫婦は30年以上に渡って趣味で化石や鉱石を収集しており、それらを展示(一部は販売)するための場所を長らく探していた。ようやく見つけた古い建物を大々的にリフォームし、このショップ兼博物館をオープンするに至ったとのことである。ご主人はとても感じの良い人で説明もわかりやすいが、いわゆる「話が長いタイプ」だ。「ひえ〜、チラッと見るだけのつもりで来たのに、こりゃ時間かかるな」と思ったけれど、まあこちらは休暇中だし、せっかくだからいろいろ見せてもらおうと覚悟を決めた。

店主ゴルトバッハさんの収集した化石は年代ごとに整理されている。写真のケースは最も年代の古いカンブリア代からシルル代の化石。ゴルトバッハさんは一つ一つのケースからお気に入りの化石を取り出して見せてくれた。

目までくっきりの三葉虫化石

気室の一つ一つがはっきり見える頭足類

アンモナイトを含む頭足類は気室と呼ばれる部屋を一つ一つ増やしながら成長し、常に最新の気室野中のみで生活していたそうだ。使わなくなった部屋の中はガスで満たされ、海水の中で浮力を調整していた。

この途中まで巻いている化石は名前を聞いたけれど、このときたまたまメモ用紙を持っていなかったので、残念ながら忘れてしまった。グーグル検索したところ、こちらのリツイテスというものと似ている。年代的にも同じオルドビス紀なので同じものか近縁の古生物ではないだろうか。

年代順に一つ一つのショーケースの中身を説明してくださった。

おおっ、これは先日のアイフェル地方旅行で見たデボン紀のサンゴ化石ではないか!

私と夫がアイフェル地方で見つけたサンゴ化石

アイフェル地方のゲロルシュタイン近郊では耕したばかりの畑に上の写真のような化石がゴロゴロ落ちていて本当にびっくりした。その時の記事はこちら

こちらのケースにはフンスリュックの粘板岩によく見つかるデボン紀の化石が並んでいる。

ヒトデ

ウミユリ

このような粘板岩の化石は1日目のエクスカーションで自分でも拾ったりクリーニングしたりした。

エクスカーションでの化石クリーニング風景

粘板岩に化石が含まれている部分は硬くふくらんでいるが、そのままではなんだかよくわからないものが多い。周囲を削り取ると化石が浮かび上がって来る。

こちらは石炭紀の植物化石。そういえばこの年代の化石はエッセンのルール博物館(Ruhrmuseum)でたくさん見たな。エッセンのあるルール地方はかつて炭鉱業で栄えた地方だ。石炭というのは植物が炭化したものだものね。

エッセンのルール博物館で見たシダの化石

話が横に反れるが、ルール博物館はユネスコ世界遺産に登録されているかつての炭鉱、ツォルフェアアインの建物の中にある第一級の博物館で、ルール地方で見つかった化石の素晴らしいコレクションの展示コーナーもある。化石ファン必見の博物館だと思う。(過去記事

バルト海リューゲン島のチョーク化石。これもこの夏、探しに行って来たばかり。

リューゲン島で見つけたベレムナイト

リューゲン島はチョークの地層自体が微化石の集合体だが、目に見える化石もたくさん見つかる(過去記事)。

当ブログ「まにあっくドイツ観光」でこれまでにたくさんの場所を訪れレポートして来たが、見たものがだんだんと繋がって行く感覚がある。気づいたらすっかりブログのメインテーマのようになっている化石だけれど、実は最近急に興味を持つようになった分野で、最初は化石という広く深い分野の中の何を見ているのか自分でもさっぱりわからなかった。けれど、ここでこうしてゴルトバッハさんのドイツ化石コレクションを眺めていると、すでにドイツ国内のいろいろな年代と種類の化石を目にして来たなあと感じた。

これらは1日目のエクスカーションで拾ったのと同じ年代(第三紀)の松かさ化石

メクレンブルク=フォルポンメルン州Sternbergの貝の化石

ゴルトバッハさんのコレクションは自然史博物館の化石コレクションのように大規模ではないけれど、よく整理されていてドイツで見つかる化石の全体像を掴むのにとても良い!頭を整理するのにとても役立った。それに、マンダーシャイトの鉱物博物館、Steinkisteでも感じたことだけれど、個人の収集家は自分のコレクションを愛していて、とても熱心に説明してくれるので、大きな博物館とはまた違った面白さがある。

Weine & Steineには化石だけでなく鉱石の展示室もあって、ここでも素晴らしいメノウの数々を見ることができた。

 

ところでこのお店兼博物館のあるヘルシュタインは中世の街並みが残る、なかなか素敵な場所だ。

ノスタルジックなCafé Zehntscheuneは料理も美味しい

 

イーダー・オーバーシュタインに来たら足を伸ばしてみる価値あり。

前回の記事で紹介したドイツ貴石美術館を見た後は、続けてドイツ鉱石博物館(Deutschas Mineralienmuseum)へ行った。こちらでは貴石に限定せず幅広い鉱石のコレクションが見られる。貴石博物館がイーダーにあるのに対し、鉱石博物館はオーバーシュタインにある。似たようなミュージアムといえば似たようなのだが、私は敢えて装飾品としての観点を前面に出している前者を美術館、より学術的な後者を博物館と訳してみた。美術館も博物館もドイツ語ではMuseumなのだけれど。

建物は貴石美術館よりは地味

特に説明することもないので今回もほぼ画像のみで紹介することにする。

巨大な結晶が並べられた展示室。多くはブラジル産のもの。

このスモーキークオーツはなんと2トンもある

古い鉱石研磨作業用の作業台。首を研磨機の方へ向け、窪みにお腹をつけてうつ伏せの姿勢で腕を前に伸ばし、研磨機の回転部分に鉱石を当てて磨いていたらしい。かなり不自然な体勢での作業だよね。

宝石の様々なカット

アクセサリー用にカットされた石よりも鉱物の結晶構造を眺めている方がワクワクする私なので、いろんな結晶が見られてとても楽しかった。

板状結晶のバライト

これは何だったか、メモ取るのを忘れてしまった

藍銅鉱

松茸水晶

亀甲石(セプタリア)

展示は全体的に見応えがあるが、なんといってもメノウコレクションが凄い。

メノウの部屋

展示の仕方はかなり地味。でも、一つ一つの石が素晴らしくて感動!全部写真を撮りたいと思ってしまうほど。気に入ったものの画像を並べていたらキリがないので、ほんのいくつかだけ。

まるで真珠のようなブラジル産のメノウ

メノウ化した珊瑚

デンドライトメノウ

パイライト入りのメノウ

美しい模様の涙型マンデル

シマウマ模様のジャスパー

一つのメノウから作った銘々皿(?)

パエジナストーンもある

蛍光鉱物のコーナー

鉱石を使った美術品の展示コーナーもとても良かった。

素敵なクリスタルのチェス盤。私はチェスはしないけれど、チェス盤にはとても惹かれる

鉱石を使って様々な人種を表したもの。これは現代の感覚では、、、、。

鉱物結晶コレクションの充実度では以前見たフライベルクのTerra Mineralia(記事はこちら)には敵わないものの、かなり満足できる博物館だ。そして、メノウコレクションは私が今までに見た中では最も素晴らしかった

これでイーダー・オーバーシュタイン観光の鉱石編は終了。でも、イーダー・オーバーシュタイン観光自体はもう少し続く。

鉱石観光の第三弾。(第一弾第二弾もよろしければどうぞ)

イーダー・オーバーシュタインに来たからには「ドイツ貴石博物館(Deutsches Edelsteinmuseum)」は外せない観光スポットだ。イーダー・オーバーシュタインのオーバーシュタイン側には「ドイツ鉱石博物館(Deutsches Mineralienmuseum) 」もあり、どちらを先に見るか迷ったが、イーダー側にある貴石博物館を先に見ることにした。

この立派なヴィラがドイツ宝石博物館の建物

3階建ての建物内部にはおよそ1万点の展示物が展示されている。イーダー・オーバーシュタイン周辺で採れた貴石はもちろんのこと、世界中の希少な貴石や貴石を加工した美術品を見ることができる。

入り口を入ってすぐの展示室に展示されているのはこの地方で採れた石英やメノウ。イーダー・オーバーシュタインがドイツの宝石産業の中心地となったのはメノウが豊富に採れるからだ。イーダー・オーバーシュタインにおけるメノウの埋蔵に関する最古の記録は1375年に遡る。

展示室の中央には研磨工場のモデルが置かれている。イーダー・オーバーシュタイン周辺では貴石やダイヤモンドの研磨業がドイツ国内では他に類を見ない発展を遂げ、1924年にはなんと2400 もの研磨業者が存在したという。

私はどちらかというとアクセサリー用にカットされ磨かれた石よりも原石の結晶構造を眺めるのが好きで、また、単色の石よりもメノウやジャスパーのように様々な模様を作り出す石が好み。メノウの断面の模様は抽象画のようで、いろいろな色の組み合わせや模様のものがあって魅力的である。山田英春氏の「奇妙で美しい石の世界」を読んでとても興味を持つようになった。だから、イーダー・オーバーシュタインでメノウを見るのをとても楽しみにしていた。

見事なメノウの数々

写真の陳列棚の上に一つの石スライスしたものが一列に並べられているが、一枚ごとに模様が少しづつ変化して行くのが面白い。

クローバーの葉のような模様のメノウ(ピンボケ失礼)

これはフィレンツェ産のパエジナストーン

ついメノウばっかり撮ってしまうが、その他の様々な宝石や人工石、鉱石を加工した美術品も数多く展示されている。

今まで意識したことがなかったトルマリンもステンドグラスのような模様が良いなと思った。

どうも私は同じ博物館でも美術館系だと言葉でうまく説明できない。美しいものがたくさんだからとにかく見に行ってとしか、、、。

次回はドイツ鉱石博物館を紹介します。

 

イーダー・オーバーシュタイン鉱石観光の続き。

鉱石探しエクスカーションで水晶を収集するというアクティビティを楽しんだ翌日はイーダー・オーバーシュタイン近郊の観光貴石鉱山、Edelsteinminen Steinkaulenbergを見学した。この鉱山では遅くとも14世紀には鉱石採集が行われていたことがわかっている。19世紀後半に採算が取れなくなり閉鎖されたが、現在は観光鉱山として一般解放されている。ドイツには観光鉱山はいくつもあるが、岩肌で貴石を直接見ることのできる観光貴石鉱山は欧州全体でもここだけだということで(真偽のほどは定かでないが、テレビでそう紹介されていた)、とても楽しみだった。

こちらがEdelsteinminen Steinkaulenbergの受付け

内部の坑道の長さは約400メートル。ガイドさんに案内してもらって中を歩く。

入り口

内部は薄暗いが、ところどころライトアップされている

前の記事にも書いたように、このあたりの地層は溶岩流が流れて形成されたもので、岩石には溶岩内の気泡が冷えて固まった晶洞(ジオード)という空洞がたくさんできている。その空洞の内部に周辺の岩石中のミネラルが溶け出して結晶を作る。大きく成長した美しい結晶は装飾品や芸術品に加工された。この鉱山で採れるのは主に水晶、アメジスト、スモーキークオーツ、メノウ、ジャスパーだ。

岩肌のあちこちに結晶ができていて、それをこんな風に間近で見られるよ

アメジストや水晶の大きな結晶があちらこちらに

綺麗・・・・・

鉱脈が斜めに走っている。晶洞の涙型から溶岩の流れた方向がわかる。丸い側が頭で細くなっている方がお尻。

これはカーネリアン(Carnelian)という半貴石。カーネリアンのカーネは「肉」を意味するCarneに由来する(チリ・コン・カルネのカルネね)。確かに生肉っぽい色をしている。肉といえば、イーダー・オーバーシュタインの名物料理はシュピースブラーテン(Spießbraten)という肉料理である。シュピースというのは串のことで、肉の塊を串に刺して火で炙ったもの。全国で食べられる普通のドイツ料理だと思っていたのだが、イーダー・オーバーシュタインが発祥地だそうだ。19世紀に入りイーダー・オーバーシュタインの貴石採掘業の採算が取れなくなると、多くの人が南米へ移住した。ブラジルで大きな鉱脈を掘り当て、石を持ってイーダー・オーバーシュタインへ戻って来たが、ブラジルで知った炭火焼の肉の美味しさが忘れられず、故郷に戻ってもブラジル式串焼きが定番料理となった。余談だが、イーダー・オーバーシュタイン市は西のイーダーと東のオーバーシュタインが合併してできた町で、シュピースブラーテンの作り方はイーダーとオーバーシュタインで少し違うらしい。また、串焼きと言いつつ串に刺していないこともある。

採石が行われていた当時の鉱夫が使っていたハンマーとランプ。コツコツと岩を叩いて坑道を掘って行った。ライトアップされているとこの程度には明るいのだけど、、、

ランプの灯だけだとこんな感じ。ほとんど何も見えないに等しい。手探りでどこにあるかわからない石を求めてハンマーを打つとは、あまりに骨の折れる作業だ。鉱山の中は湿気が酷く、粉塵を吸い込んだりして健康を害する鉱夫が多買った。当時の鉱夫の平均寿命は35歳くらいだったという。

ところで、内部が結晶で完全に満たされている晶洞はドイツ語でMandelと呼ばれる。

メノウのMandel

それに対し、結晶が内部を完全に満たしておらず、中心に空洞があるものをドルーズ(Druse)と呼ぶそうだ。

これはジャスパー(碧玉)。メノウと同様に微細な石英の結晶が集まったものだが、不純物を多く含むため不透明となる。

鉱山出口に置かれた石アート

イーダー・オーバーシュタイン鉱石観光はまだ続く、、、、。

 

(おまけ。以下はドイツ語の関連テレビ番組です。)

前回の記事ではフンスリュック山地での化石探しエクスカーション、Steinerne Schätze Hunsrücks – Geführte Mineralien- und Fossiliensucheについてレポートした。今回はその同じ週末エクスカーションの二日目、鉱石探しについて書く。二日目はグッと参加者が減って、ガイドのヴァルターさんの他は3人だけだった。

そもそもイーダー・オーバーシュタインに来たのは鉱石を見るためだ。フンスリュック山地、特にイーダー・オーバーシュタイン周辺は昔から貴石、特にアメジストや瑪瑙がよく採れ、貴石の研磨・加工技術が発達した地域である。19世紀以降は産出量が減り、宝石産業は一時衰退したが、新天地を求めて多くの労働者が移住したブラジルで運よくも鉱脈を掘り当て、上質な貴石とともに帰還する。すでに研磨技術や加工ノウハウが蓄積されていたため、イーダー・オーバーシュタインはドイツの宝石産業の中心地となった。どちらかというとあまり目立たない町だが、現在もドイツの誇るhidden champions(隠れたチャンピオン)の一つとして世界的に重要な宝石貿易の拠点である。

さて、エクスカーションであるが、二日目の集合場所はイーダー・オーバーシュタインから北東12kmほどのところにある観光銅鉱山、Historisches Besucherbergwerk Fischbachだった。まずは500年以上前から1792年にフランス革命軍に占領されるまで銅の採掘が行われていたこの銅山を見学する。

ヘルメットを被って坑道の中へ

去年の秋にシュヴェービッシェ・アルプ地方で洞窟三昧の1週間を過ごしたので、洞窟にはすっかり入り慣れてしまっているが(例えばこれなど、ものすごいので見てね)、ここもかなりの規模で見応えがあった。

鉱夫の守護聖人、聖バルバラ

これは自然に形成された洞窟ではなく、鉱夫がハンマーで岩を叩いて広げていったものだが、これだけ掘るのに一体どれだけの労力が費やされたのだろうか。

今日もエクスカーションのガイド、ヴァルターさんに案内してもらった

内部の各所には鉱夫人形が置かれ、当時の作業の様子が伺える

ヴァルターさんは地質学的な説明だけでなく、社会文化史にも触れた説明をしてくださって面白かった。下の動画のように古い砕石機の実演などもあるので、子どもにも面白いと思う。今回の記事のテーマは鉱石探しなので、銅鉱山の詳しい説明は省略して次に行こう。

鉱山を見学した後は、山の裏手に回っていよいよ鉱石探しだ、

普通の山にしか見えないが、、、

地面を見るとカラフルな石がたくさんある。緑色はマラカイト(孔雀石)の色だそう。ヴァルターさんに「ここではMandelsteineを探しましょう」と言われた。Mandelsteineとは直訳すると「アーモンドの石」である。アーモンドの石とは何だろうか?

説明によると、この一帯はかつて火山活動によって溶岩が流れた地域で、火成岩内部で気泡が固まってできた空洞(晶洞、ジオード)が結晶で満たされたものをMandelと呼ぶそうだ。つまり、Mandelを割ると中に結晶を見ることができる。この地域で多く産出される瑪瑙もMandelの一種で、結晶が層状になり美しい縞模様を作る。(瑪瑙の話は改めて別記事で)

Mandelsteineを探しているところ。ヴァルターさんは「大きければ大きいほど良い」と言うが、大きなMandelはなかなか見つからなかった。

石英の結晶が詰まったMandel。

ピンボケの下の石には層状の模様があるが、なんだかよくわからない。化石探しも鉱石探しもまだ初心者なので、初めての採掘場所に行くと何をどう探していいのかわからないまましばらくうろうろしてしまう。残念ながらここで見つけられたのはこのくらいだった。

お昼ご飯を食べた後は、イーダー・オーバーシュタインから20kmほど北西のMorbachにある石英採石場へ移動。

今度はここで水晶を採るそうだ。許可なしで立ち入るのは禁止だけれど、専門家の同行するエクスカーションなのでこの日は特別だ。

作業したのは道路が通っている3段目

地層の湾曲やずれもすごくて、見るだけでもけっこう面白い

石英の結晶は岩の裂け目に形成されている。こうした裂け目のあたりをハンマーでガンガン叩き割り、透明な水晶を取り出すのだ。

しかし、、、はっきり言って危ないわ、これ。上から石が落ちて来る可能性があるし、足場もすぐにガラガラと崩れて滑り落ちそうになる。そもそも非力の私にはハンマーで岩を割るということからして難しい。ましてや急斜面では到底無理。鉱石探しワークショップがこんなサバイバル的なものだとは聞いていないぞ!仕方ないので力仕事は男性たちに任せ、私は水晶の埋まっていそうな場所を探すのを担当した。

でも、意外と地面にころんと転がってたりもする。ヴァルターさんは特別に繊細で美しい結晶を見つけ、「奥さんにプレゼントしよう」とつぶやいていた。なんか、いいなあ。お店で買ったものより嬉しいかもね。

私たちの収穫はこんな感じ

これが一番気に入った。

まあ、たかだか水晶の小さなかけらのためにわざわざ体を張って、、、と思わないでもない。でも、一生に一度くらいはこういうの体験してもいいんじゃない?面白かったよ。

ドローン動画を撮影したので、おまけに貼っておこう。

今年のドイツは信じられないほど晴れた日が続いた長い夏だった。しかし、もう10月も半ばである。野外活動を楽しめるのもあとわずかだ。寒さがやって来る前に今年最後のジオ旅行に出かけよう。今回の目的地はラインラント=プファルツ州のフンスリュック山地。宝石の研磨産業で有名なイーダー・オーバーシュタイン(Idar Oberstein)の町があり、ドイツの観光街道の一つ、「ドイツ宝石街道」が伸びている。貴石を旅のテーマにイーダー・オーバーシュタイン周辺で数日を過ごすことにした。

せっかくなので博物館で鉱石を眺めるだけでなく、自分でも探すことができないかとイーダー・オーバーシュタインの観光サイトを見たところ、化石&鉱石ガイドツアー (Steinerne Schätze Hunsrücks – Geführte Mineralien- und Fossiliensuche)なるものを発見した。専門家と一緒に週末二日かけて化石と鉱石を探すエクスカーションだ。鉱石だけでなく化石もついているとは素晴らしい!

そんなわけで参加することになったジオ・エクスカーションである。プログラムによると、1日目の土曜日は化石探しとのことだった。朝9:15分にイーダー・オーバーシュタイン近郊の指定の場所で集合とのことだったので、ホテルで朝食を取り、車で集合場所へ。番地はおろか通りの名前もないハイカー用の小さな駐車場に数名の参加者が待っていた。

ガイドさんはオランダ人の地質学者Wouter Südkamp氏、参加者は高校の地学教師とその母親、それに趣味の化石コレクター2人、そして私たち夫婦の合計6人である。ガイドさんが自分のオランダ名Wouterが発音しづらければドイツ式にヴァルターと呼んでもらって構わないと仰るので、ここではヴァルターさんと書かせて頂こう。ヴァルターさんによると、フンスリュック山地では様々な地質年代の化石を見つけることができる。3つの異なる地層を結ぶ約40kmのルートを案内するから私の車の後についていらっしゃいとのことで、5台編成で山道を移動することになった。

まもなくSteinhardt(石のように硬い、という意味)という村の石灰岩採石場場採石場に到着。まだ半分寝ぼけていて周辺の写真を撮るのを忘れてしまったが、この石切場では第三紀の植物化石がよく見つかるらしい。ヴァルターさんは瓦礫の山を指差し、「ジャガイモのような丸い石を探してください」と言う。見ると砂にまみれた白っぽくてまん丸な石がところどころに見える。丸いものは重晶石の塊で、割ると中に木の断片や松ぼっくりのようなものが入っているかもしれないというのだ。

収穫。松ぼっくり入りはなかったけれど、木や葉っぱの化石入りは結構たくさん見つかった。炭化した木が入っているものも。ジャガイモのような石をハンマーで叩いて、パカっと割る。何も入っていない「はずれ」も多いけど、「あたり」だったときはかなり嬉しい。ドイツには卵型をした「びっくり卵」なるチョコレート菓子があって、中からおまけが出て来るので子どもに人気なのだが、この石の塊は「大人のびっくり卵」という感じだ。

満足するまでおまけ入り卵を採ったら、今度はレンガ工場の敷地に移動した。ここではRotliegend層と呼ばれる赤い地層に緑色をした板状の石が混じっている。このRotliegend層に見られるのはペルム紀の化石で、主にシダなどの植物化石である。板の側面から層の間に垂直に鑿を当ててハンマーで叩いて剥がす。ゾルンホーフェンの板状石灰岩に化石を探したときと同じ要領だ(やり方はこちら)。

小さな丸い葉っぱがたくさん。

こちらは葉脈くっきり。

一番すごかったのはこれ。開いた瞬間に大きな葉と茎が現れて、「うわぁ!」と叫び声が出てしまった。内側になっていた表面はしっとりとしている。乾かないように新聞紙に包んで保存する。

そして3箇所目は、ブンデンバッハというところにあるフンスリュック粘板岩(スレート)という石の廃棄場だった。フンスリュック山地やその周辺地方ではスレート葺きの屋根をした建物が多い。

これはフンスリュックではなくアイフェル地方の村だけれど、フンスリュックの建物もだいたいこんな感じである。

スレートを建材として使う場合、できるだけ表面が平らできれいなものが望ましいで、凸凹のあるものは破棄された。しかし、化石ハンターにとっては凸凹なスレート板こそ目当ての石なのだ。なぜかというと、その凸凹はそこに化石が入っていることを意味しているかもしれないのだから。

山の斜面にこのようにスレートの瓦礫がぎっしり捨てられている。これらの板を一枚一枚見て、化石が含まれていないかチェックする。でも、この作業、かなり大変。斜面なので不自然な格好でしゃがんで作業しなければならない上に足場がすぐに崩れてしまう。上の方からもスレートが崩れ落ちて来る。

初めて知ったのだが、フンスリュック粘板岩は化石を豊富に含むことで世界的にもよく知られているそうだ。デヴォン紀の海の生き物が微細なものも含め、かなり良い状態で保存されている。

化石であることは明らかだけれど、これらがなんなのか、実はまだわからない。

三枚目の画像の板は左上のもの以外、まだプレパレーションしていなくてわかりづらいと思うけれど、小さい丸い出っ張り部分に化石が入っている。ヴァルターさんに聞いたら、丸いものはおそらく小さな三葉虫や腕足動物だろうとのことだった。プレパレーションというのは、採った化石をよく観察できるようにきれいにする作業のこと。

粘板岩の場合はナイフなどで化石の周辺を削る。こうすることで、化石が浮き彫りになり、はっきり見えるようになる。でもこれ、なかなか根気の要る作業。

実はヴァルターさんは化石の中でも特にこのフンスリュック粘板岩の専門家で、化石特定のためのこういう本を出版されている。

鉱石が目当てで出かけたイーダー・オーバーシュタインだったが、フンスリュック山地は同時に重要な化石の産地でもあることがわかった。一日に3種類もの異なる年代の化石を見つけることができた上にプレパレーションの仕方も教えてもらえて、エクスカーションの一日目はとても充実していた。

(翌日の鉱石エクスカーションについては次の記事に書きます)

Googleマイマップを使ったまにあっくドイツ観光マップの第5段、「ドイツ恐竜関連スポットマップ」を公開した。

カテゴリーは「恐竜パーク」、「恐竜の展示が見られる博物館」、「恐竜の足跡が見られる場所」の3つ。

恐竜パークはインドアの遊技場的なものとオープンエアのテーマパークがある。オープンエアのテーマパークの規模はまちまちだが、2kmの遊歩道に150体もの実物大恐竜モデルを設置しているパークもあり、モデルといえども見応えのありそうな恐竜パークがいくつも見つかった。子どもと一緒のお出かけにぴったり。

博物館へ行けば、本物の恐竜化石が見られる。マップには厳密な定義での恐竜だけでなく、首長竜や魚竜、祖始鳥などの展示が見られる博物館も含めた(ドイツ語で〇〇サウルスという名前がついているもの)。マップ上で赤くなっているスポットは私がこれまでに訪れた恐竜関連の展示のある博物館だ。他のまにあっくドイツ観光マップ同様、当ブログの記事をリンクしている。

説明の欄には、それぞれの博物館でどんな恐竜(または恐竜に順ずるもの)が見られるのかを書き入れた。これまでに行った博物館については自分の目で見て確認しているけれど、それ以外は博物館のウェブサイトの情報を拾ったので、全ての展示物の情報を網羅しているわけではなく、目玉展示物のみ。今後、見に行って確認できた情報を追加していこう。(ここの博物館でこんな恐竜を見たよ!という情報があれば、教えてくださると嬉しいです

その他に、ドイツ国内には恐竜の足跡の見られる場所もいくつかある。ハイキングルートになっているので、散策がてら恐竜について知ることができて楽しそう。

 

恐竜ファンの方、ドイツ在住でお子さんを連れてのお出かけ先を探している方、よかったら是非、このマップを利用してくださいね。

 

Googleマイマップを使ったまにあっくドイツ観光マップ作りの第四弾は「ドイツ灯台マップ」。

今回は自分のアイディアではなく、灯台ファンの方に「灯台マップを作ってみては」と言われてやる気になった。灯台マップと聞いたとき、「それは簡単だ。ドイツは北にしか海がないから、灯台の数なんてたかが知れているだろう」と甘く見ていたのだが、とんでもなかった。

まず、自分は灯台の定義をそもそも分かっていないということが判明。「灯台って、あの岬に立ってる赤と白のシマシマのやつでしょ」くらいの認識しか持っていなかったが、そのようなわかりやすい灯台は世の中に数多くある灯台のうちのごく一部。一口に灯台といっても機能は様々で、その機能により立地も高さもまるで違う。灯台と聞いて私がイメージするものは「沿岸灯台」というもので、その他に「防波堤灯台」「灯標」「灯浮標」「照射灯」「堂塔」「指向灯」などがあると分かった。(参考資料: 不動まゆう著「灯台はそそる」)

マッピングそのものも難航した。沿岸灯台とその他の関連灯台が距離的に近く、GoogleマイマップではGPSデータでの登録ができないのでマップ上に灯台らしきものを見つけても、どれがどの種類の灯台なのかを見極めるのが異常に難しい。一般的に「灯台」はドイツ語ではLeuchtturmと呼ぶのだが、Leuchtfeuerという言葉もある。両者は同じものなのか、違いがあるのか、または重なりがあるのか?さらには、Molenfeuer、Richtfeuer、Leitfeuerなどの用語はそれぞれ日本語の何に当たるのか調べるのが大変、、、。

次のハードルは分類である。見つけた灯台を片っ端からマップに登録したが、全国に120近くある(もっとあるかもしれない)灯台をただベタベタ貼るだけでは特殊マップとしての意味があまりないので、なんらかの分類をしなければならないが、どう分類したものか悩んだ。機能で分けるのか、それとも外観タイプ(レンガ造り、石造り、赤白タイプ、等)で分けるのか、あるいは、、、、。搭載しているレンズの種類や塔の高さ、建築年、現在も使われているかなど、それぞれの灯台に関する情報は多くあり、どこに焦点を当てたら良いのか。

散々迷った末、カテゴリーはシンプルに「登れる灯台」と「その他」に分けることにした。実は私はドイツの灯台はこれまでほんのいくつかしか見たことがない。視界に入ったものを数えるなら10基ほどあるような気がするが、意識的に見たのは3つくらいである。そのうち、バルト海の海岸に立つ灯台、Darßer Ortには登ったが。灯台マッピングをしているうちにドイツには魅力的な灯台がたくさんあることに気づき、いろいろ見に行きたいと感じ始めた。せっかく行くなら登れる方が良い。そこで「登れる灯台」をまとめることにした。以下がその結果。

登れる灯台は31基見つかった。見ての通り、ドイツの灯台は北海とバルト海に集中しているが、河川や湖に建てられたものもいくつかある。青いアイコンは現在も使われている灯台で、黒いアイコンは今ではもう使われていない灯台だ。ナビゲーション技術が進化するにつれ、航路標識としての役目を終える灯台が増えて行く。

灯台アイコンをクリックすると関連情報と画像が出るようにした。塔の高さや外観タイプ、その他の特徴など。それぞれの灯台の関連サイトをリンクしたので技術データや見学可能な時間など、すぐにチェックできて便利(だと思う)。宿泊できる灯台は6つ見つかった。結婚式のできる灯台も15基ほどある。泊まれる灯台にもぜひ泊まってみたいが、私が気になるのはやはり、博物館になっている灯台だ。その意味で一番行ってみたいのはLeuchtturm Wangarooge Alter Turm。

こんなわけで、作業を開始してから随分時間がかかってしまったがどうにかまとまった。(マップはこちらから見られます)シェアついでに面白い外観の灯台の画像をいくつか貼っておこう。

Image: Wikipedia

これはLeuchtturm Neuwerk。塔高39メートル。

 

Image: Wikipedia

Leuchtturm Travemünde。塔高31メートル。

 

Image: Wikipedia

この可愛い灯台、Leuchtturm Moritzburgは「中国のパゴーダ」と呼ばれているそう。

 

Image: Wikipedia

ボーデン湖の湖畔に建つLeuchtturm Lindau。美しいねー。

 

Image: Wikipedia

でもやっぱり灯台は赤と白がいい。Leuchtturm Amrum。

 

Image: Wikipedia

Leuchtturm Warnemünde。シックで素敵。

 

灯台マップづくりはかなり難しかったが、苦労した甲斐があって灯台を見る目が少しは養われた気がする。灯台には通り名や番地のような住所がなく、先に書いたようにGoogleマイマップではGPSによる登録ができない。だから、すでにマップ上にあるスポットに頼らずを得ず、位置がどこまで正確なのかわからないのが難点なのだけれど、今後、灯台に実際に行った際、または新たな情報が得られたら随時追加していきたい。

これまで数回に渡って書いてきた火山アイフェル・ジオパーク旅行記。締めにはシュトローン(Strohn)にある巨大な火山弾、Lavabombe Strohnを紹介しよう。

朝倉書店「岩石学辞典」によると、火山弾とは

火山砕屑物の中で平均径が64mm以上[Fisher : 1961]あるいは32mm[Wentorth & Williams : 1932]のもの.火山弾は形状や表面構造から一部または全部が熔融した状態で火口から放出されたものである.
手のひらに乗るような小さい火山弾はアイフェルに無数にあり、こちらの記事でレポートしたようにマール湖の周辺などにたくさん落ちている。ドイツ語ではBasaltbobmeまたはLavabombeと呼ばれる。シュトローンの火山弾は、直径約5メートル、重さはなんと120トンもあるという。どんなものなのか、見に行ってみよう。

村は小さいので、「シュトローンの火山弾」はすぐに見つかった。

こ、これは大きい、、、、。この火山弾は1969年、すぐそばにある石切場で発見されたもの。

向こうに小さく見えるのが石切場。あそこから120トンもある火山弾をこの道路脇まで転がして来たそう。

でも、「シュトローンの火山弾」は厳密には「真性の」火山弾ではない。さすがにこんな大きいものが宙を飛んで飛び出して来るわけはないよね。噴火によってできたクレーターの壁から岩石の塊がマグマの中に崩れ落ち、表面にマグマが付着した。それが次の噴火の際に火口の外に放り出され、再び噴火口に落ちて新たにマグマが付着し、、、、というのを繰り返し、雪だるま式に大きくなったものがいつかクレーター壁の中に埋もれたのだそうだ。

アイフェル地方で見つかった最大の「真性」火山弾はこちらである。2007年に発見された。

大きさがわかるように地面に落ちていたリンゴを乗せた。これだって相当な大きさだよね。

火山弾には様々な形のものがある。マグマの塊はまだ柔らかい状態で空中に放り出され、その際の物理的な条件によって形が決まるそうだ。詳しくはシュトローン村の火山博物館、Vulkanhausに説明があった。

Vulkanhaus

この小さな火山博物館の中は硫黄の匂いが充満していて(学習目的で意図的にそうなっている)、日本の火山を思い出して懐かしくなった。

Vulkanhausに展示されている異なるタイプの火山弾。上からシリンダー状火山弾、コルク栓抜き状、潰れた火山弾、回転状火山弾。

このように溶岩が空中で飴玉を紙で包むようにねじれて、真ん中の飴玉部分と包み紙の端っこ部分が分断されていろいろな形の火山弾になる。面白い。

この博物館には火山に関する一般的な説明の他、アイフェル地方の岩石などが展示されている。

これはシュトローンで発見された6 x 4 mの本物の火道壁。発見時、この火道壁の表面は青く光っていた。現在では青い色は失われてグレーの岩壁になってしまっていて、このようにライトアップして青色を再現しているそうだ。

 

さて、今回で火山アイフェル・ジオパークのレポートも終わり。火山大国、日本の出身者にとってドイツの火山地方はもしかしたらそれほど面白くないかな?と思いながらもマール湖を一目見たくてやって来たが、ドイツの火山もなかなかの面白さである。わずか4日間だったが、マール湖を味わい尽くし、化石や鉱石を楽しみ、たくさんの博物館を訪れ、珍しい火山弾なども見ることができて好奇心がとても満たされた。

ジオ旅行があまりに楽しいので、次回は宝石鉱山が有名なイーダー・オーバーシュタインへ行こうと決めた。来月催される化石&鉱物の週末ワークショップに申し込んだ。とても楽しみ!

見どころがたくさんな火山アイフェル・ジオパーク。次に足を運んだのは、天然炭酸水「ゲロルシュタイナー」の採水地があることで有名なゲロルシュタインだ。火山活動が今尚活発なアイフェル地方には炭酸を多く含む水の湧き出る泉がたくさんある。「ゲロルシュタイナー」はドイツ国内で最も流通しているミネラルウォーターブランドなので、ドイツに住む人で知らない人はいないだろう。世界への輸出量でもナンバーワンらしい。(余談になるが、私たちが滞在していたシャルケンメーレン村から数キロのところにあるダウンで生産されているミネラルウオーター、「ダウナー」もとても美味しかった。)

でも、私たちがゲロルシュタインへ行った目的は水を飲むためというわけではなく、自然史博物館(Naturkundemuseum Gerolstein)を訪れるためだった。

ゲロルシュタイン自然史博物館

この博物館は4フロアから成り、1階が鉱物、2階が化石、3階が考古学、4階が蝶のコレクションという構成である。

特に鉱物の展示が充実している。

そしてここでもガラス化した砂岩をいくつも見た(詳しくはこちら)。やっぱりどう見ても陶器に見えるなあ。

瑪瑙もたくさん見られて嬉しい。ドイツの瑪瑙の名産地として真っ先に頭に浮かぶのはイーダー・オーバーシュタインだが、アイフェルのアーレンラート(Arenrath)という地域では「アイフェル瑪瑙」と呼ばれる瑪瑙が採れるらしい。

では、次は化石コーナーを見てみよう。

アイフェル地方はかつては不毛な地とみなされ、「プロイセンのシベリア」と呼ばれていた。しかし、アイフェルを訪れたドイツの偉大なる博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトはここに大量の化石を発見した。見つけた化石を持ち帰るために周辺の農家の女性たちから靴下を買取理、中に化石を詰めて運んだという逸話があるらしい。アイフェルで見られる化石には腕足類、貝、サンゴなどが多い。

中期デヴォン紀のハパリデウム目ハパリデウム科メソフィルム属のmaimum maximumというサンゴ。結構な大きさ。

ダクティリオセラスというアンモナイト。芸術作品みたい。

ブローチ屋?という感じである。

これは何!? Storomatoporoideaと書いてある。家に帰ってから調べたら、日本語では層孔虫類と出て来た。日本大百科全集の説明によると、

石灰質の共有骨をもつ化石動物で、ストロマトポラないしストロマトポロイドともよぶ。その群体の外形は円錐(えんすい)状、半球状、樹枝状、塊状、皮殻状をなし、大きなものは数メートルに達するものがあった。共有骨は垂直な柱状のピラーpillar(支柱)と水平なラミナlamina(葉理)の2要素よりなり、これらの配列、密度、厚さなどにより属種が区別される。また共有骨の表面および内部には、層孔虫特有の星形放射状の星状溝の現れることがある。
層孔虫の所属についてはいままで多くの説があり、そのなかでヒドロ虫類起源説が一般的であった。ところが、海綿動物の硬骨海綿のあるものの溝系(こうけい)(流水系。体内に海水を流通させて摂食や消化などを行う海綿特有の組織系)の出口が、層孔虫特有の星形の溝によく似ているという発見があり、海綿起源説が有力になった。古生代前期から中生代後期まで生存したが、古生代シルル紀からデボン紀にかけてと中生代のジュラ紀に繁栄のピークがあり、標準化石となっているものも多い。わが国でもこの両時期の礁性堆積(たいせき)物中に多数発見されている。
古生代のものにはクラスロディクチオン、アクチノストロマなど、中生代のものにはパラストマトポラ(もとはストロマトポラStromatoporaとされたが、この属名は現在は古生代のもののみに使われる)、ミレポリジウムその他が知られている。[藤山家徳]

だそうだけれど、うーん、よくわからない。今後の課題にしよう。

これまたすごい。いろんな種類の化石がびっしり。

これも、一体どれだけ?というほど化石が埋まった石。

アイフェル地方はデヴォン紀の化石が豊富な地方であるということがよくわかった。ところで、展示を見ていた夫が「うちにもデヴォン紀の化石があったかもしれない」と言い出した。夫も夫の父もいろんなところからいろんなものを拾ったり貰ったりして来て溜め込んでいる人で、家には出所を忘れてしまったよくわからないものがたくさんあるのだが、その多くは古いもので化石もいくつかある。そのうちの一つがアイフェルのあちこちの博物館で見るデヴォン紀の貝の化石に似ていると言うのだ。

家に帰ってから、うちにある出どころ不明の化石を眺めてみた。言われてみればデヴォンっぽい?この問いは今後他の博物館を見ていくうちにはっきりするかもしれない。

この日は頭が地学モードで、3階の考古学、4階の蝶はさらっと見ただけなのでここでは紹介しない。

館内を一通り見て1階に戻り、受け付けに座っていた男性に「化石に興味があるんですが、化石探しのワークショップはありませんか」と聞いてみた。男性は今年就任したばかりのこの博物館の館長だった。残念ながら化石探しのワークショップはないとのことだったが、「私は古生物学者です。歴代の館長は皆、鉱物学者で、古生物を専門とする者が館長になるのは私が初めてなんですよ。今後、古生物学部門をさらに充実させて行きたいと思っています」と言いながら、アイフェルの化石について少し説明してくださった。ゲロルシュタインからそう遠くない場所に化石がたくさん見つかる場所があるとのこと。主にサンゴの化石で、脳サンゴも見つかるという。

「それはどこですか?」と身を乗り出して尋ねたら、場所を教えてくださった。

「早速行こうぜ!」

私たちは慌てて車に飛び乗った。しかし、場所を教えてくれたとはいっても「〇〇村と△△村の間くらいのところ」という大雑把な情報で、正確な地点がわかったわけではないが、とりあえず〇〇村と△△村の間へ行ってみた。畑の広がる、ごく普通の田舎の風景が広がっていた。しかし、夫が「ここ!ここにあるかもしれない!」とトラクターで耕された畑を指差すので車から降りて地面を見ると、

いきなり!サンゴ!

二人で目を見合わせてしまった。そして驚くことに、地面にはゴロゴロと芋のように大量の化石が転がっているのだ。なるほど、アレクサンダー・フォン・フンボルトが靴下を買い占めたわけだ。すごかったなー。

拾って来た化石

 

こんなわけで、アイフェル旅行によってますます楽しくなって来た鉱物&化石探し。ドイツ地学は本当に面白い。

火山アイフェルに関するレポートは次回で最終回です。

旅先の自然史博物館でその地方の自然について知るのは面白い。ダウンの火山博物館では「天然の焼き物」とも呼べそうな表面がガラス化した不思議な石が印象に残った。化石コーナーではデヴォン紀の化石をたくさん見た。(詳しくはこちら

でも、ただ見るだけではちょっと物足りない。最近、フィールドに出て自分で鉱物や化石を探す愉しさに目覚めてしまった私と夫である。これまでに南ドイツのゾルンホーフェンリューゲン島での体験が楽しかったので、アイフェルでも似たようなことができないだろうかと考えた。ダウン市のツーリストインフォメーションで「地質学的なガイドツアーやワークショップはありませんか」と聞いたところ、偶然にも翌日にプルファー・マールの側のキャンプ場で地質学者による「アイフェルの石の見分け方」というワークショップをやるというので申し込んだ。

ワークショップでは引退した地元の地質学者がアイフェルの地質や火山の仕組み、アイフェルで見られる岩石や鉱物について実物を見せながら説明してくれるというも。

参加者は私たちを入れて十名ちょっと。中学生くらいの子どもを連れた家族連れもいた。その日は平日の午前中だったけど、すごくマイナーな内容の有料ワークショップ(一人8ユーロ)でも成立してしまうんだよね〜。しかも、参加者は真剣に説明を聞く。地学博士はなんと90分もかけてたっぷりと説明してくれた。

見せてもらった石のうち、一番いいなと思ったのはドイツ語でOlivinbombeと呼ばれるこんな石。マグマが異質の岩石を取り込んだ捕獲岩(ゼノリス)の一種で、地下深くのカンラン石(ペリドット)を捕獲したため、こんな綺麗な緑色をしている。以下の2枚の写真はこの後改めてレポートするゲロルシュタインの博物館で見たものだが、アイフェル地方ではいろいろな捕獲岩が見つかるらしい。

 

ワークショップの最後にはみんなで溶岩の塊を割って中を見た。プルファー・マールの周辺には火山の噴火で噴出されたジャガイモのような形の溶岩の塊がたくさん落ちている。割ると内部に鉱物の結晶が見られるものがあるという。

「さっき、裏の畑でいくつか塊を拾って来ましたよ。さあ、割ってみましょう」

残念ながら、私が割った石の中には結晶は見られず、均一なグレーだった。わ〜ん、悔しい!

「残念でしたね。でも、裏の畑にたくさん落ちてるから、拾って割ってみるといいですよ」と先生。そう言われたら、拾うよねー。ということで、ワークショップの後は石を拾いにGo!

え、こんなところに溶岩の塊なんて見つかるの?

これか〜〜。ジャガイモのような丸っこいのを拾うといいらしい。

早速見つけて割っているところ。

ふと反対側を見ると、耕されてて石がゴロゴロ落ちていた!

収穫。中にキラキラした結晶があるのが見えるだろうか。

でも、私が本当に見つけたかったのはこれじゃなくて、ペリドットが入っているもの。博士によると、ペリドット入りはここにはなくドイデスフェルトという別の場所へ行かなければ見つけられないらしい。そこで私たちはペリドットを求めてドイデスフェルトへ移動した。

ここ!この地層の中にペリドットがあるはずなのだ。

あった!

こんな大きいのも!

アイフェルのOlivinbombeを収穫!

ああ、楽しかった。火山アイフェル・ジオパークのレポートはまだ続く。

 

火山アイフェル・ジオパークでの休暇レポートの続き。(これまでのレポートは、その1 「アイフェルの目」と呼ばれる美しいマール湖郡、その2 マール湖跡からも化石がザクザク。Manderscheidのマール博物館、そして番外編 35年かけて集めた素晴らしい石のコレクション。Manderscheidのプライベート鉱物博物館、Die Steinkiste をどうぞ)

今回紹介するのは宿泊していたシャルケンメーレン村から数kmのダウン(Daun)市にあるアイフェル火山博物館(Eifel Vulkanmuseum)。

アイフェル火山博物館では世界の火山及びアイフェルの火山活動に関する展示が見られる。

展示室

火山は主にプレートとプレートの境い目にできるが、アイフェル火山地方はプレートの境界線上には位置していない。アイフェルの火山はいわゆる「ホットスポット火山」だ。プレートの下の「ホットスポット」と呼ばれる場所ではマントルが周辺よりも高温になっていて、マントルプルームと呼ばれる大規模な上昇流が発生している。つまり、アイフェルの地面の下にはグツグツとマグマが煮えたぎっているのだ。そして、アイフェル地方の地殻には亀裂が多い。約3億2000年前に起こった造山運動によってあちこちにヒビが入っている。そのをヒビを通ってマグマが上昇してくるのだそう。

マールの成り立ちを示すモデル

こちらの記事に書いたように、アイフェル地方には多数のマール湖がある。陸地化したものも入れると75にも及ぶという。これほどマール湖が集中して形成されている地域は世界でも類を見ないらしい。でも、アイフェルの火山=マールなのかというと実はそうではなく、アイフェルの火山地形のうちマールは3割ほどで、残る7割はスコリア丘と呼ばれる円錐状の丘だ。火山アイフェルでは山の上のところどころにポコンポコンと帽子をふせたように火山が盛り上がっている。アイフェルの火山活動が始まったのは第三紀で、その後休止期間を経、約80万年前から再び活発化した。火山アイフェル・ジオパークはアイフェル地方西部に位置するが、アイフェル西部では100万年間に少なくとも275回、火山が噴火したとされる。直近の噴火は最も新しいマールであるウルメナー・マールが形成された約1万1000年ほど前。ということは、仮に噴火が定期的に起こるとすれば、もうとっくに噴火していてもおかしくない?そう考えるとちょっと不安になって来る。もちろん、火山学者らが常に活動をモニタリングしていて、現在のところ活動が活発化する兆候は見られないとのことで安心した。

さて、この博物館にはアイフェル地方の様々な岩石が展示されている。

陳列棚の石を眺めていたら、面白いものを見つけた。

表面がツルツルで濡れたような光沢を放っている。これは一体?

こちらはややマットな質感ながらも表面は滑らか。

まるで釉薬をかけて焼いた陶器のようで、びっくりしてまじまじと眺めてしまった(というのも、最近、趣味で陶芸を始めたので、、、、)。これらはガラス化した砂岩で、マグマの熱で表面が溶けてこのようにツルツルになるらしい。後日、日本に住む二人の地学研究者に画像を見せたら、こういうのは初めて見たと言っていた。他の地方では滅多にお目にかかれないもののようだ。面白いなあ。

化石コーナー。こちらに書いたように、デヴォン紀に浅い海だったアイフェル地方は化石の多産地域でもある。この地方では主にどんな化石が出て来るのだろうか。展示されている標本はサンゴが多かった。

サンゴの化石も種類がものすごく多くて、まだ何が何だかさっぱり把握できないのだけれど、ここでサンゴ化石のサンプルをいくつか見たことがこの後大いに役に立つことになる。その話は次回に。

前回の記事ではアイフェル地方南部のマンダーシャイトにあるマール博物館について書いた。マール博物館を見終わって外に出ようとしたとき、出入り口に小さいポスターが貼られているのに気づいた。

Geologischemuseum Die Steinkiste (地学博物館 石の箱)

と書いてあり、綺麗な鉱物の写真が載っていた。気になる!

マンダーシャイトの旧市街にある博物館だということがわかった。入場無料とある。しかし、ポスターに印刷されている開館時間を見ると、その日はあいにく休館日。うわー、残念。せめて外から中を覗くだけでも、、、と思い、歩いて行ってみた。その博物館はマルクト広場(住所はMarkt 1)にあった。

あった。しかも開いている!!

こじんまりとした博物館である。中に足を踏み入れる前に、まずはウィンドーに飾っている石に目をやった。

綺麗な瑪瑙!石コレクター、山田英春氏の著書「奇妙で美しい石の世界」を読んで以来、私は瑪瑙の美しさに取り憑かれてしまっている。瑪瑙を中心とした石英質の石の断面の模様に関する本で、鉱物学の本というよりは美学の観点から書かれたエッセイなのだが、紹介されている石が本当に素晴らしく、読み物としてもとても面白い。この本に載っている瑪瑙の断面写真を眺めるだけでうっとりとするが、マンダーシャイトのこの小さな博物館のウィンドーでこうしてお目にかかれるとは!

これも素敵〜。

正式な開館時間外のはずなので中に入っていいものかどうか戸惑っていたら、入り口付近に座っていた男性から「中を見たいのですか?どうぞお入りなさい」と声をかけられた。この博物館のオーナー、Hans Stölben氏だ。

「ここにある石は私が35年かけて集めたものですよ。ゆっくり見て行って。質問があれば遠慮なくどうぞ」

2部屋に分かれたフロアには80代半ばと思われるStölben氏が世界のあらゆる産地から収集した鉱物標本が展示されていた。

わあ〜〜。

展示されている標本は全部で約1500個。どれもじっくり味わいたいものばかり。

瑪瑙のディスプレイの一部。他にもたくさんの瑪瑙が産地ごとに展示されていた。

これが見られただけでも幸せなのに、「奇妙で美しい石の世界」に出て来て見てみたいと思っていた種類の石、ほとんどを見ることができた。

たとえばセプタリア(亀甲石)とか。巨大!

Stölben氏の奥様は芸術家だそうで、奥のフロアにはまるで絵画のような自然の造形美のギャラリーが設けられている。

こ、これは!フィレンツェ近郊で採れるという風景の石、パエジナ・ストーンでは!?

こんな見事なデンドライトがあるんだねー。

デンドライトといえば、私もゾルンホーフェンでこんなのを見つけたんだった。比べ物にならないけどね。(ゾルンホーフェンのレポートはこちら

 

珍しく美しい石を見ながら心の中でキャーキャー言っていると、Stölben氏が「石に興味があるようだね」と言って、標本棚のガラス戸を開け、中からいろいろな石を取り出して見せてくださった。Stölben氏が特に気に入っているものについて、一つ一つ説明して頂いた。それがとても興味深く、感激した。

角度を変えると不思議な模様が浮かび上がる「虹色の黒曜石(レインボー・オブシディアン)」。

これは恐竜の糞が化石化したものだそう。

他にもいろんな石について説明を聞くことができた。この鉱物博物館、公式なウェブサイトはないので、事前のネットサーチでは引っかからなかった。思いがけず素晴らしい博物館を発見して嬉しい限りである。マンダーシャイトへ行かれる方は、マール博物館とこの鉱物博物館、Die Steinkisteを是非セットでお楽しみください。

 

 

前回の記事では火山アイフェル・ジオパークにあるマール湖群を写真と動画で紹介した。アイフェルはマール湖を中心に美しい自然が広がっているが、博物館も充実している。今回の旅行はジオ旅行ということで、数ある博物館のうち、地学関係の博物館をいくつか見て来た。

最近とみに感じるのは、自然の中で休暇を過ごす際には地元の自然史博物館や地学系博物館でその地域の特徴を大まかに捉えてから自然の中を散策すると、より楽しめるということ。もちろん、何も予備知識がなくても自然の美しさに感動したり、心地よさを感じたりできるけれど、絶景があるというわけではない場所だと単調に見えて「何もないただの田舎」と感じることがよくあった。でも、どこの地域にもその地域ならではの特徴がある。そしてジオパークに指定されているような地域ならなおさらだ。あらかじめ多少なりとも知っておけば、実際に歩いてみたときに「ああ、なるほど」と思えるものが見つかってより面白い。あるいは逆に、先にフィールドで過ごしてから博物館へ行くと、「あ、これはあそこで見たものでは?」と博物館をより楽しめる。フィールドと博物館を行ったり来たりするとさらに良いだろうな。

今回は火山アイフェル地方南部のマンダーシャイト (Manderscheid)にあるマール博物館(Maarmuseum)を紹介しよう。

マール博物館はその名の通り、マール湖に関する博物館だ。マンダーシャイトから数キロ離れたところにはエックフェルダー・マール(Eckfelder Maar)というマールがある。前回の記事でアイフェルのいろいろなマールを紹介したが、エックフェルダー・マールはそこに含まれていない。というのも、このマールは25万年前に陸地化したTrockenmaar(乾いたマール)で、現在、その跡形を一般人が確認するのは難しいのだ。後で詳しく説明するが、エックフェルダー・マールは古生物学において極めて重要な場所であることがわかった。

メインの展示室。マール湖についての一般的な説明の他、世界のマール湖が紹介されている。マールの成り立ちについては前の記事でも触れたが、図解の方がわかりやすいと思うので、ドイツ語だけれど、マール博物館にあった火山円錐丘とマールの違いについての画像を貼っておこう。

右の図が示すように、マール湖はマグマ溜りから上昇したマグマが水と接触することで水蒸気爆発が起き、周囲の岩石が吹き飛ばされて開いた穴に水が溜まったもの。マール湖の周辺や湖面の植物が枯れると、湖に沈み、底に堆積して行く。だから、マール湖はいつかは水がなくなり陸地になる。陸地下のスピードはマールの大きさやかたち、水質や植生、気候などの条件により様々である。もちろん、人為的な要素も関係する。

現在残っているマール湖は、貧栄養湖(ヴァインフェルダー・マール)、中栄養湖(プルファー・マール、ゲミュンデナー・マール)、富栄養湖(ウルメナー・マール、ホルツマール)、過栄養湖(イメラーター・マール)といろいろだ。そういえばヴァインフェルダー・マールの水はものすごく透き通っていたが(前の記事の画像を見てね)、なるほど貧栄養で藻も発生しないということなんだね。

 

さて、ここからが本題!

マール博物館からほど近いエックフェルダー・マールは約4430万年前に形成された最古のマールで、とうの昔に陸地化しているが、その地下にはおびただしい数の始新世の化石が埋まっているのだ。エックフェルダー・マールがマール湖だった当時、周辺の地面は傾斜が激しく、陸生生物の棲息できる範囲が狭かった。傾斜が激しいので、生物の死骸を含んだ周辺の土壌がだんだん湖の内側にずり落ちて水の底に沈んで行った。湖の水というのは表面に近い層は温かくて深い層は冷たいものだけれど、ある一定の深さのところに急に冷たくなる層がある(水温躍層)。この層の上部には藻などの水生植物が発生するが、水温躍層の下は酸素が乏しく、生物の死骸が分解されずに化石化した。以前、こちらの記事に書いたメッセル・ピットと同様である。エックフェルダー・マールからはこれまでに約3万個の化石が見つかっている。

その中で最も有名なのは「エックフェルトの古代ウマ (Eckfelder Urpferdchen)」である。

ここでもまたまた凄い化石に遭遇してしまった。恐るべしドイツの地下世界。この古代ウマ(プロパレオテリウム 、Propaleotherium voigti)は、ほぼ全骨格が残っていただけでなく、普通は残りにくい軟組織の一部、胃の内容物、そして胎児までが保存されている。馬といっても結構小柄で、肩の高さは約50cm、短足で首も鼻も短く、むしろ犬のような体型だそう。

この古代ウマの他にエックフェルダー・マールの地下からは約7700種類の植物化石、5500種類の昆虫化石、そして魚、爬虫類、両生類、さらには猿などの哺乳類の化石も見つかっており、それらはこのマール博物館とマインツの自然史博物館に保管されている。(マインツにも行かなくちゃ!!)

こちらは4500万年前のカメの甲羅の化石。エックフェルダー・マールからはこういう完全な甲羅の化石が10体も出て来た。凄いね〜。

こちらはワニ (Alligator Diplocynodon sp.)。ワニは中生代三畳紀に出現して以来、今に至るまであまり変化していない「生きた化石」で、進化の成功例と言えるそうだ。エックフェルダー・マールには少なくとも3種類のワニが棲息していたことがわかっている。

1996年、ラインラントプファルツ州政府とポツダムの地質学研究所(GeoForschungsZentrum Potsdam)が共同で調査のためのボーリングを実施し、エックフェルダー・マールが実際にマール湖だったことが学術的に確認された。マールの地下にある厚いオイルシェールの層は8万2000年もの年月をかけて堆積されたもので、その中に保存されている花粉から過去の植生とその変化を知ることができる。また、オイルシェールは一年毎に層になっているので、一つ一つの層の厚さを見れば太陽活動の変化が地球環境に及ぼした影響がわかるという。今日と同様、4400万年前にも黒点活動サイクル(11年周期)や磁場の反転サイクル(22年周期)が気候に影響を与えていたことが確認された。(詳しい情報はこちら

 

マール博物館はそれほど大きな博物館ではないけれど、展示を丁寧に読むとかなりの情報量。火山アイフェルには面白い博物館がまだまだたくさんある。続きは次回に。