前回の記事で紹介したエッセンの「ルール博物館」ではガイドさんにルール地方の産業史について説明を受けたが、そのとき私はこんな質問をした。

「エッセンにはきっと、アルバイター・ジードルンクがありますよね?どこか近くに見に行けるジードルンクはありませんか?」

アルバイター・ジードルンクとは労働者のための集合住宅のこと。近代以降、ドイツで多くの従業員を抱える企業により建設されるようになった「社宅」である。

工業が発達したエッセンには大企業クルップ社を始め、多くの企業がある。きっと面白いジードルンクがあるのではないかと思い、尋ねてみたのだ。

「マルガレーテン・ヘーエ(Margaretenhöhe)」を見に行かれてはいかがですか。正確には社宅ではなく市民のための住宅ですが、ドイツで初めて作られたガルテンシュタット・ジードルンクの一つですよ」

そうガイドさんは勧めてくれた。20世紀半ばからイギリスの田園都市をモデルとするガルテンシュタットと呼ばれる閑静な住宅街がドイツ各地に作られるようになった。その先駆けとなったジードルンクの一つ、「マルガレーテン・ヘーエ」はクルップ社3代目当主フリードリッヒ・アルフレット・クルップの未亡人、マルガレーテ・クルップが娘の結婚を記念して私財を投じ、市民のために建設させたものである。

ここがガルテンシュタット、マルガレーテン・ヘーエの入り口

マルガレーテン・ヘーエはエッセン南部の高台にある。

マルクト広場

マルクト広場横の長屋風住宅

マルガレーテン・ジードルンクの広さは115ヘクタール。1909年から1938年にかけて建設されたブロックIと戦後の1962 年から1980年に建設されたブロックIIに分かれている。

ほのぼの

ガイドさんから聞いたように、このジードルンクはクルップ社の従業員のための社宅ではなく(従業員の社宅は別のところに建設された)、公務員や自営業者など市民のための住宅として建てられた。庭付きの住宅は当時、大きな注目を集めたことだろう。

もちろん、今現在も普通に市民が住んでいる。

 

キヨスクも可愛いね

ジードルンクは建物を見るだけでも楽しいが、このようなジードルンクが次々に建設された時代の社会背景や人々の生活を想像するとより面白い。この頃に企業の従業員の福利厚生制度の基盤が作られ、また、文化的な生活が一般市民の手の届くものになっていったんだね。

近々、東ドイツのガルテンシュタットも訪れる予定で、とても楽しみである。

ラインラント地方二日目はエッセンのルール博物館(Ruhrmuseum)へ行って来た。「ルール」とは、中学の社会科で習ったあの「ルール工業地帯」の「ルール」である。ルール地方は豊富に埋蔵する石炭を原料に鉄鋼業や化学・機械産業が発達し、近代から戦後まもなくまでの間、ドイツ最大の工業地帯だった。今では石炭産業はすっかり衰退したが、炭鉱や関連施設が産業遺産として保護されており、マニアックな観光スポットの密集地帯となっているのだ。

今回訪れたルール博物館は、ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群第12採掘坑にある。選炭施設の建物が博物館になっている。

 

ツォルフェアアイン炭鉱第12採掘坑

「ツォルフェアアイン」とは関税同盟の意味。ルール地方のかなりの部分は、かつてプロイセンの支配下にあった。しかし、プロイセンの他の領土とはかなり離れていた上に、ルール地方の他の部分は複数の領邦がモザイク状に分割統治していたため物流がスムーズではなく、1834年に関税同盟が結成された。炭鉱名のツォルフェアアインはこの関税同盟にちなんでつけられたもの。

ルール博物館の建物

ツォルフェルアイン炭鉱の第12採掘坑の建物はバウハウス様式だ。それまで産業施設は実用重視で、醜悪な外観が当たり前とされていたが、建築家Fritz Schuppが設計したこれらの建物群は産業施設に初めて「美しさ」を持たせた産業建築の傑作とされている。敷地内には国際的なプロダクトデザイン賞であるレッド・ドット・デザイン賞を受賞したプロダクトが展示される「レッド・ドット・デザイン・ミュージアム」がある。

ミュージアムの入り口は地上から24mのフロアにあり、このような長いエスカレーターを上がる。エスカレーターに乗っただけですでになんとなくワクワク。

受付でチケットを買い、「ガイドツアーはありますか」と聞くと、「すぐに始まりますよ」とのことだったので申し込んだ。でも、月曜だったせいか、私の他に参加者はいなかった。ガイドさんに「では1時間半、館内をご案内します」と言われてびっくり。ツアー料金3ユーロで1時間半のプライベートガイドツアー?なんて贅沢な!(ちなみにツォルフェアアイン炭鉱には複数の種類のガイドツアーがある。私が申し込んだのはルール博物館のツアー)

地上24mのフロア、ミュージアムのエントランス手前のスペースには巨大な選炭設備。

早速、ガイドさんの説明が始まった。これは採掘した原炭から廃石を分離し精炭を取り出すための装置(Setzmaschine)。水の入った水槽に原炭を入れると、軽い石炭が上に浮かび、重い石は沈む。石を取り除いた後の精炭は粒径ごとにふるいにかけられ、それぞれの用途に利用される。コークス製造や製鉄用に使うのは粒の大きな塊炭で、コークス製造の際に発生するガスは化学産業に利用された。そういえば、ケルンの北、レヴァークーゼンという町には化学工業・製薬会社大手のバイエル社本社がある。

 

向こうに見えるのがミュージアムの入り口

オレンジ色に光る階段を降りて下のフロアへ行く。このオレンジ色は燃える石炭をイメージしているそう。

カッコいいねえ。

ルール博物館は製炭設備やルール地方の炭鉱業の歴史のみならず、氷河期から始まるルール地方の自然史、考古学、歴史、社会文化、そして現在のルール地方の地域経済や産業化で破壊された環境の再生に到るまでのあらゆる分野を網羅した総合博物館である。さらには鉱物・化石コレクション、文化人類学コレクション、写真ギャラリーもある。内容があまりに濃くて、1時間半に及ぶガイドツアーの間は写真も取らずに話を聞くのに集中したけれど、最後は時間が押せ押せになってしまった。ツアーを終えてから、また一人で最初から展示室を回った。

ルール地方の全盛期の1857年には、この地方にはなんと300もの炭鉱があったそうだ。しかし、1957年に政府が補助金を打ち切ると、失業者が溢れた。また、環境汚染が深刻化したことから、抜本的な構造変化が求められるようになる。現在もなお失業率は高いが、負の経験から得たノウハウや技術を活かして再生可能エネルギー技術や石炭採掘による地盤沈下で傾いた建物を真っ直ぐにする技術など、この地方ならではの特殊産業の育成に力を入れている。

2000年のエッセン市の地下水水質調査のサンプル

この地方には石炭を取り出した後の捨石を積み上げたいわゆる「ボタ山」が丘陵風景を作っているが、捨石はわずかに粉炭を含んでおり、それが酸化してゆっくりと燃えるので、気温が比較的高い。だから、ルール地方は地中海と似た植生なのだって。言われて見れば、確かにラインラントの植物はブランデンブルクと随分違うなと移動中の車の中から景色を見ていて思ったんだった。

ボタ山は緑化が進んでいて、現在、ルール地方の60%が緑地である。保養地・リクリエーションエリアとしての再開発も積極的に行われている。ボタ山にはモニュメントや娯楽施設が建設され、ちょっと変わった観光エリアになっている。(このサイトでいろんな面白い写真が見られる)

ボタ山「ハニエル」の円形劇場

屋内スキー場。建設当時は世界一の長さだったそう。今ではドバイに負けた

工業化は地域の環境を大きく破壊してしまうが、産業が衰退し、しばらく放置されると自然が回復して来る。そうして新たに生まれた生態系は破壊以前の環境とは異なり、周辺地域とも違う特殊なものとなる。そのような自然環境を「industrial nature」と呼ぶらしい。そういえばこちらのスポットを訪れたときにも同様の話を聞いた。とても興味深い。

そして、ルール地方にはもう一つ、大きな特徴がある。それはマルチカルチャーであること。産業の発展に伴い、この地方には古くから多くの移民が流入した。なんと現在、62もの民族が共生しているという。エッセンにはシナゴーグもモスクもあり、また、Hamm-Uentropという町にあるヒンズー寺院はインド国外最大規模だそう。そんなわけで、ルール地方の人々は異文化に寛容だと言われている。

さて、このペースでゆっくり説明していると日が暮れてしまうので、詳しく説明したいけれど残りは写真のみで急ぎ足で紹介しよう。

石炭展示コーナー

巨大アンモナイトコーナー。最大のものは直径180cm

石炭紀の見事なシダの化石

約3億年前のシギラリアの幹

凄いアンモナイト

これは化石ではなく最近のもので、紅海のパイプウニ

ナミビアのギベオン隕石。ナミビアはドイツの植民地だった

考古学コーナー

文化人類学コーナー

地方都市の博物館がこんなに凄い展示品のオンパレードなのは意外に思えるかもしれないが、エッセンの博物館は戦前、ドイツ国内屈指の博物館だったそう。工業地帯だから文化とは縁遠いというイメージは正しくないようだ。

メルカトルの地球儀

ところで、エッセンといえば、巨大企業クルップ社が有名だ。展示はまだまだあるけれど、キリがないのでこのくらいに。

最上階にはパノラマルームというものがあって、これがまたすごい。

歩いて見て回れる

ガイドツアーと合わせて合計3時間くらい博物館にいたかな。博物館を出た後は、せっかくなので敷地内を一周した。

Red Dot Design Museum。残念ながら月曜日は閉まっていたけど、外観だけでも十分カッコいいよね。

コークス工場

昼間行ったので、ツォルフェアアインのライトアップされた姿は見ることができなかった。でも実は、7月に別の用事でまたここに来る予定になっているので、その時には是非、Red Dot Desigh Museumとライトアップされたツォルフェアアインが見れるといいなあ。

ツォルフェアアイン炭鉱遺産群は、産業技術に関心のある人、デザインが好きな人、工場写真を取りたい人、歴史好きな人、鉱物や化石のコレクションが見たい人etc. ほぼどんな人にとっても面白い観光スポットではないかと思う。

 

 

ラインラント地方へ行って来た。ラインラントの主要都市の一つ、ケルンは私の古巣である。ドイツに来て最初の7年間を過ごした懐かしい町。ラインラントは今住んでいるブランデンブルク州とはかなり違い、様々な民族が共存し文化の混じり合うミックスカルチャーな地方だ。そのためか人々のメンタリティも一般的にオープンで気さくな感じがする。久しぶりに来た私もすぐに景色の中に溶け込める気がした。この辺りは人口が密集しており、観光スポットが充実している。

ではさっそく「まにあっくドイツ観光ラインラント編」、行ってみよう。最初はデュッセルドルフ近郊、Mettmannにあるネアンデルタール博物館から。

ネアンデルタール博物館はネアンデルタール(ネアンデルの谷)にある。その名を聞けば誰もがピンと来るだろう。そう、ネアンデルタールは、旧人「ネアンデルタール人」(正式名称、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis))の骨が発掘された場所である。

Neanderthal Museum

1856年、ネアンデル谷のフェルトホッファー洞窟で石灰岩を採掘中の労働者が洞窟の地下60cmほどの深さに人骨が埋まっているのを発見した。全部で16ピースの骨は頭蓋骨が洞窟の入り口に向いた状態で埋まっていた。

実は、ネアンデルタール人の骨が発掘されたのはこの時が初めてではなく、それ以前にもベルギーやジブラルタルでも見つかっている。しかし、それらは科学研究の対象とはなっていなかった。ネアンデル谷での化石発掘の3年後、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表し、センセーションが巻き起こったことから、たまたまタイミングよく見つかったネアンデル谷の化石が注目を浴びることになったそうだ。しかし、石灰岩採掘の際に洞窟ごと切り崩してしまったので、化石の正確な発掘場所がわからなくなってしまい、そのまま長いこと忘れ去られていたそうだ。1997年と2000年にネアンデル谷で考古学調査が行われ、1853年に発見されたものと同じ人骨のピースが新たに見つかり、ようやく発掘場所が特定された。ネアンデルタール博物館ではネアンデルタール人についてはもちろんのこと、人類史全般について展示している。

ネアンデルタール人の使っていた石器。これまでに他の考古学博物館で見たホモ・サピエンスの石器とは形が違う。ホモ・サピエンスのはもっと細長くて先端が鋭いものが多かったけれど、ネアンデルタール人のものは手のひらにすっぽり収まりそうだ。握り方や手の動かし方が違ったのだろうか?

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの頭蓋骨が並べて展示してある。

ネアンデルタール人の頭蓋骨

ホモ・サピエンスの頭蓋骨

ネアンデルタール人は目の上の出っ張りが発達していて(眼窩上隆起)、おでこが平ら、頭の形もホモ・サピエンスほど丸くない。ホモ・サピエンスは耳の後ろの骨に大きな突起があって、顎が前に出ている。

ネアンデルタール人の歯の多くにはこの図のような溝が見られる。道具を使って歯と歯の隙間を掃除していた跡らしい。

この博物館の展示で特に面白いのは、ネアンデルタール人を始めとした化石人類を実物大に3D復元していること。

アウステロピテクスさん

ホモ・エレクトスさん

ネアンデルターレンシスさん

今、地球上の人類はホモ・サピエンスだけになってしまったけれど、かつては複数の種類の人類が地球上にモザイク状に共存していたのだよね。

ドレスアップしたネアンデルタール人さんとツーショット。ネアンデルタール人男性の平均身長は160cmくらいだそうなので、私のパートナーでも違和感ない!?

人類、皆兄弟。集合写真も撮れます。

これはタンザニアの火山灰に残っていた36万年前のヒトの足跡。1974年にエチオピアで発見されたルーシーと同じアウステラロピテクス・アファレンシスのものだそう。

壁画に関する展示は、展示スペースの下に穴が開いていて、洞窟の中に入った気分で展示を見ることができてなかなか良い。

他にも前回こちらの博物館で見た穿頭(トレパネーション)に関する説明や、地球の環境変化と人類の適応、世界で見られる様々な埋葬習慣についてなど、いろいろ興味深い展示があった。

さて、博物館を見終わったので、ネアンデルタール人の化石が発見された場所を見に行くことにしよう。博物館からデュッセル川沿いに400メートル歩いたところにある。

フェルトホッファー洞窟は切り崩されて今は存在しない。かろうじてその一部が残っているだけだ。

発掘場所。えっ、これだけ?と一瞬、拍子抜け。

でも、ネアンデルタール人が食べていたと思われる植物が植えられた区画があったりなど、当時が想像できるような工夫がしてある。

 

石の寝椅子から高さ20mを見上げると、そこが洞窟があった場所

 

大人目線でレポートしたけれど、ネアンデルタール博物館は家族連れに人気のお出かけスポットのようで、賑わっていた。展示もわかりやすく、周辺には小さな動物園や遊歩道もある。

 

まにあっくドイツ観光ラインラント編はまだ続きます。

今回のまにあっくドイツ観光は、ベルリン在住イラストレーターでブロガーのKiKi(@KiKiiiiiiy )さんとのコラボ企画!KiKiさんは旅行好きで、インターレイルパスを利用して一人で欧州を旅行してしまう行動力の持ち主だ。旅の情報をブログやTwitter、Instagramで発信されているが、文章しか書けない私(今のところね)と違って、旅の印象を素敵なイラストにされている。それだけでなく最近は動画も手がけているとのこと、是非一度コラボさせて頂きたいと思っていた。その第一弾として、今回はベルリンの南のBaruthという町外れにあるGlashütteへKiKiさんと一緒に行って来た。Glashütte とは「ガラス小屋」を意味するが、この集落はガラス作りの長いがあり、現在は村全体がミュージアム(Museumdorf Baruther Glashütte)になっているのだ。

 

Baruthのガラス生産の歴史は18世紀に遡る。1715年、大きな嵐で一帯の森の木がたくさん折れてしまった。思いがけず大量の木材が得られたため、別の場所に予定されていたガラス製造所をここに建設することになった。木材はガラス作りに必要な炭酸カルシウムの原料として、また燃料としても欠かせないものだった。

ガラス博物館

村の西の入り口を入ってすぐのところにガラス博物館がある。まずはここから見ていこう。

Baruthのガラス製造所ではランプシェード用の乳白ガラスを主に生産していた。ガラスを白く曇らせるには羊の骨を粉にして入れるんだって。羊の骨にはリンが多く含まれていて、それを混ぜることでガラスが白く濁る。他の色のガラスを作るにはクロム(緑)、銅(赤)、コバルト(青)、木炭(黄色)、マンガン(紫)などで着色する。

ガラスの材料の70%は砂だが、この地域は砂の豊富な土地でもある。1万5000年ほど前に氷河の溶けた水が川となって現在のブランデンブルク州を流れた。水域の端に砂が溜まって砂丘ができた。

工場の中にはガラス製造の様々な道具が展示してある

吹きガラス実演コーナー

 

加熱炉で焼いたガラスは冷却炉で歪点(約550度)付近まで冷やす

私は黄色いガラスが気に入った

これはエルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンスの発明したガラス用のジーメンス炉。レンガが組んであるが、この蓄熱式の窯の導入により燃料を大幅に節約できるようになり、ガラスの大量生産が可能となった。

ジーメンス炉のモデル

技術的なことだけでなく、Baruthのガラス製造の文化史の展示もあって興味深かった。20世紀には労働者のための住宅が建設され、体操クラブなどの部活が奨励されるなど福利厚生が整えられていく。しかし、防災対策はほとんど取られていなかったので、肺や皮膚、目の病気を患う人が多く、1919年の時点での労働者の平均寿命は45歳。作業中にビールを飲むのも普通で、アルコール依存症になる人も多かったそうだ。

 

ミュージアムショップ

隣の建物は魔法瓶の発明に関するミュージアム

村のメインストリートに面した建物の多くは観光客向けのショップになっている

かつてガラス製造所の労働者の住宅だった建物

ギャラリー兼ショップ

フエルト小物の店

陶器のお店はカフェも併設している

ハーブの店の店先

東ドイツ時代の国営スーパー、Konsumの建物を利用したご当地デリカの店

村には樹齢500年の木がある

迷子石を並べた小さな公園

迷子石って何?という人は、ぜひこちらの記事を読んでね。

村の学校だった建物。現在はペンション

とこのように、盛りだくさんで一日楽しめる。KiKiさんと私は朝の10:30くらいから17:00過ぎまで村を満喫した。お昼ご飯画像も載せておこう。

シュプレーヴァルト名物のきゅうりのピクルスが入った酸味のあるスープ

ベルリンから日帰り圏内で可愛いものの好きな人におすすめ。子連れレジャーにも良いので、是非行ってみてね。KiKiさんが近々イラスト&動画をアップしてくれる予定なので、期待していてください。

追記: KiKiさんの作った動画がアップされました。とても素敵なので是非見てくださいね!

 

 

一気に気温が上がってようやく本格的に春になった。お出かけシーズンの到来だ。とはいっても私は季節や天気に関係なくいつもウロウロしているのだけれど、、、、。

今回は私が住んでいる地域の観光スポットを紹介しよう。それは、Märkisches Ziegelmuseum Glindowというレンガ博物館。うちのすぐ近くなのに、行ったのは今回が初めて。「レンガ博物館なんて面白いの?」と思われそうだけれど、これがかなり面白かった。ホフマン窯の中を見学できるのだ。

まずはいつものようにロケーションから。

地図の通り、レンガ博物館はグリンドウ湖という湖に面したところにある。

Märkisches Ziegelmuseum Glindow

この塔が博物館。長い伝統を持つレンガ工場、Neuer Ziegelmanufaktur Geltowに隣接している。1890年に建てられたもので、当時工場で作られていたいろいろなレンガが使われている。博物館という名前がついてはいるが中は小さく、見るものはそれほど多くない。でも、ここで入館料を払うと係の人が隣の工場を案内してくれる。

Glindowのレンガ生産の歴史は古い。Glindowという地名はスラブ語に由来し、「粘土に富んだ土地」を意味するそうだ。古文書によると遅くとも15世紀にはレンガを生産していた。18世紀にはプロイセン王家が工場を所有し、ポツダムを中心にプロイセン時代の建築物の多くにGlindow産のレンガが使われた。

いろんなレンガ。色の違いは粘土に含まれる鉱物の種類と含有量による

実はこのレンガ工場は特別かつかなり重要な工場である。なんと300年前の製法を今も守り続けているドイツで唯一のレンガ工場なのだ。ドイツには教会や修道院、城など文化財に指定されている建物が多くあるが、老朽化したり戦争で破壊を受けたりしたため、修理・修復の必要なものが少なくない。しかし、現在ではそれらの建造物が建てられた頃とはレンガの製法が変わっており、当時と同じようなものを作ることができない。Glindowのこの工場ではそのような建物に特化して伝統の製法でレンガを作り続けている。そして、ドイツ全国だけでなく、なんとフランスやベルギー、スエーデンなど欧州のいろんな国からも注文を受け、カスタムメイドの高品質のレンガを生産しているんだって!

作られたレンガは船に乗せて運搬した

工場敷地

塔の中で展示を見ながら説明を聞いた後、工場に案内してもらった。ところが、工場の中は写真撮影厳禁と強く言われてしまった。残念〜。これは外から撮ったもので、真ん中に見えるのはホフマン窯というものである。こちらの記事にも書いたが、ホフマン窯とは1858年にフリードリッヒ・エドアルド・ホフマンが特許を取得したレンガの焼き窯で、独立したいくつもの区画が煙突を取り囲むように並ぶのでリングオーブンとも呼ばれている。この窯の発明以前は焼成ごとに窯が冷えるのを待っていたが、ホフマン窯では区画に順番に火を移すことで連続で焼成ができるようになった。大量生産を可能にしたこの画期的な技術は日本へも導入されている。(参考

ガイドツアーではレンガ生産過程の最初から最後までの設備を一通り見せてもらえる。これがすごく面白い。一番興奮したのはホフマン窯の中に入ったこと。写真を撮ることができなかったので説明のしようがないけれど、うちに遊びにいらっしゃる方は、よければこのミュージアムにご案内します。一見の価値がありますよ。

釉をかけたカラフルなレンガも

焼成温度は900〜1200℃。1300℃を超えるとレンガがこのように溶けてしまう

床材見本

円形、ひし形、六角形などいろんな形がある

素敵だな〜。でも、上述したようにこの工場は主に文化財用の高品質レンガに特化していて、一般人が自宅用に購入するには高価過ぎる。うちの最寄りの工場だからうちのテラスのレンガはここで注文するか、というわけには残念ながらいかないようだ。でも、地元の伝統ある産業について知るのは興味深い。ちなみにレンガ生産の最盛期にはGlindowにはなんと76もの窯があった。レンガ職人の仕事はハードで、冬場などは高温の窯とマイナス気温の外を出たり入ったりと体への負担が大きく、平均寿命は48歳くらいだったとのこと。

 

帰り道のロータリーに何やらレンガが積んである

 

寄付者の名前?

 

こちらも是非合わせてお読みください。

タイルとストーブ生産で栄えた町、Veltenのストーブ博物館

 

 

 

先週まで異常に寒く、3月の末だというのに雪まで降っていたのだが、今度は突然20度近くに気温が上がり、まるで初夏のよう。おかげで気分もすっかり夏!(これはドイツにありがちなフェイントだとわかってはいるのだが)

ドライブ日和だ。こんな日に家に閉じこもっているのは野暮である。仕事の手を止めてちょっと出かけることにした。行き先は自宅から車で50分ほど西へ移動したZiesarという小さな町にある城、ツイーザー城(Burg Ziesar)に決めた。目当てはその城の中にある聖ペテロ・パウロ教会。いつだったかそのチャペルの内装の写真を目にして以来、是非とも見に行きたいと思っていたのである。

 

ツィーザー城は城といっても山の上に建っているわけではなく、平城だ。全体像は写真に撮れないのだけど、広場を中心に弧を描くような造りをしたなかなか立派なお城。

聖ペテロ・パウロ教会

城内はミュージアムになっている

城の建物の端には塔が建っている

早速、教会の内部を見せてもらう。

うわー、美しい!このなんとも言えない独特の色合い、ドイツの教会では珍しいのではないか。

エッサイの根

私が住んでいる地域は近世になってから発展したので、中世の建造物は少ない。だからたまに遠出してこういう雰囲気を味わうと新鮮。

これだけでもかなり満足したけれど、せっかく来たのでミュージアムも見て行こう。ミュージアムの建物はかつての司教邸で、建物についての展示と特別展示を同時進行で見られる。この建物の目玉は「中世の床暖房設備」だ。

ミュージアム一階の床に穴が空いていて、下に何やら見える。

地下の釜で火を焚いて建物を温めていたようだ。この炉は1300年頃に作られたものだそう。古代ローマには「ハイポコースト」と呼ばれる床暖房のセントラルヒーティング設備があったそうだが、それと同じようなものなのだろうか。

階段を降りて地下を覗いてみる。

 

温めた空気を建物全体に回すパイプの役割を果たしたトンネル。

特別展示のテーマは「ブランデンブルク州のキリスト教化」。先日、ブランデンブルク市の考古学博物館の展示でも見たが、もともとここら辺(東北ドイツ)はスラブ民族の定住地だった。彼らは独自の自然宗教を信仰していたが、8世紀以降に進出して来たキリスト教徒に服属させられ、次第にキリスト教文化に呑み込まれていった。

初代神聖ローマ皇帝、カール大帝。

 

カール大帝の遠征戦争(ザクセン戦争)においてキリスト教徒らと戦い、亡くなったスラブ人の頭蓋骨。おでこの部分に割れ目がある。

この洗礼桶でスラブ人たちが強制的に洗礼を受けさせられた。

12世紀には現在のブランデンブルク州へ大量のキリスト教徒が移住し、各地に町を作っていった。教会も次々に建設されたが、最初から石造りの立派なものを建てたわけではなく、初期には木造が多かったらしい。写真はHaseloffという村で発掘された当時の教会の壁の一部。

 

ミュージアムを見た後は塔にも登って見た。

塔から下を見下ろす

 

あー、面白かった。このお城の情報は日本語のガイドブックにないのはもちろんのこと、ドイツ語でもこの地方に特化したガイドブックでなければ載っていないと思う。でも、チャペルは一軒の価値がある。首都ベルリンからも自動車なら1時間ほどなので、おすすめ。ちなみに、ツィーザー城を見学すると、そのチケットでレーニン修道院博物館ブランデンブルグ大聖堂博物館ブランデンブルク市パウロ修道院博物館(ブランデンブルク市考古学博物館)の入館料が1年間、半額になる。

 

復活祭の連休だったのに、風邪を引いてしまった。だるくてまともなことができないので、ウダウダとベッドの中でドキュメンタリーでも見て過ごすしかない。公共放送局ZDFのサイトにアップロードされている過去の放映番組の中から面白そうなものを探す。すると、私の好きな学術ジャーナリスト、Harald Lesch氏による「未解決の考古学の謎(Ungelöste Fälle der Archaeologie)」という番組が目に留まった。Lesch博士は宇宙物理学者だが同時に自然哲学者でもあり、非常に話の面白いコミュニケーターだ。以前は天文学の番組がメインだったが、最近では幅広い分野をカバーしている。今ちょうど考古学の面白さに目覚めつつあるところなので早速視ることにした。番組は前半と後半に分かれており、前半で紹介されていたミステリアスな円錐状の「ベルリンの金の帽子(Berliner Goldhut)」が特に魅力的だった。その実物がベルリンの先史博物館(Museum für Vor- und Frühgeschichte)にあるという。先史博物館はベルリン新博物館(Neues Museum)の一部で、これまでに何度か訪れているのだけれど、この不思議な帽子の存在にはどういうわけか気づいていなかった。

すぐに見に行ける場所にあると聞けば当然、見に行きたくなる。二日ゴロゴロして体調もそろそろ良くなったので、早速行って来た!

 

新博物館はベルリンの博物館島にあり、ネフェルティティの胸像を始めとするエジプト・コレクションを持つドイツ国内で最も素晴らしい博物館の一つだが、新博物館についての情報はネット上にも豊富にある(参考)のでここで長々紹介するまでもないだろう。今回は売り場直行とさせてもらおう。

これが「ベルリンの金の帽子」だ。骨董品市場に出回っていたものを1996年にこの博物館が買い取り、展示物として一般公開するようになった。実物はどのくらいの大きさかというと、高さ74.5cm、重さ490g。相当に長いとんがり帽子だね。

これまでに類似のものがドイツとフランスで全部で4つ見つかっているらしい(「ベルリンの金の帽子」は写真の一番右)。最初の「金の帽子」が発見されたのは1835年4月29日にさかのぼる。南ドイツのSchifferstadtで野良作業中の労働者が偶然掘り出した。これらは紀元前800〜1000年頃に作られたと推定されるそうだ。

「ベルリンの金の帽子」の表面をびっしりと覆う模様には規則性が見られる。ドイツでは紀元前からすでに天体が観測されていたことがわかっており、考古学者らはこの金の帽子を飾る模様は暦なのではないかという仮説を立てているそうだ。青銅器時代後半の中央ヨーロッパでは太陽信仰が広がっていた。大きさからいって、神への捧げものというよりは人間が実際に被っていた可能性が高く、天体崇拝の儀式の際に使われたのではないかと考えられている。(世界最古の天文版ネブラ・ディスクについても過去記事に書いているのでよろしければお読みください)

 

(Wikipedia: Berliner Goldhut)

先端部分のギザギザした星型の部分は輝く太陽を意味し、その下の段の鎌と目のようなシンボルは月と金星を意味する。その下の丸い模様は太陽と月のシンボルだと書いてある。木製の型を使って金床上で金塊をハンマーで叩いて薄く延ばしながら円錐に形成し、表面にスタンプのような道具を使って裏側から押し出して装飾を施したようだ。そういえば私は考古学は全くの素人だが、昔、文化人類学を勉強していたことがあり、ケルンの文化人類学博物館で3ヶ月ほど実習生として働いた。その時、オスマントルコの金属製装飾品のカタログ化をやらせてもらった。表面の加工を観察して分類したことを思い出したが、残念ながら細かいことはもう忘れてしまったなあ。装飾品を眺めるのは楽しいものだ。自分ではあまり身につけないけど。

ドキュメンタリーによれば、天文学はメソポタミアやエジプトで発達し、現在のトルコやギリシアを経由してヨーロッパ伝播したことがわかっており、金の帽子もメソポタミアから運ばれて来た可能性がなきにしもあらずだという。面白いなあ。この謎はいつか解き明かされるのだろうか。

今回はこの帽子を見るのが目当てだったので、他の展示物はさらっと見るに留めた。何しろ新博物館にはおよそ9000点の展示物が展示されているのだ。一気に見てインプットすることは到底無理!でも、大丈夫。年間ミュージアムパスがあるんだもんね。見たいものだけじっくり見るというのは旅先ではもったいなくてなかなかできないものだ。そう考えると、地元の博物館を繰り返し訪れて徹底的に見るのも悪くないかもしれない。