ドイツ東部にはドイツ語らしからぬ地名が多い。ドイツ西部の地名は、「なになにドルフ(〜の村)」とか「なになにベルク(〜の山)」といった具合に意味がわかりやすい地名が多いのだが、東部の多くの地名は、慣れるまでは読み方もよくわからないし、意味もさっぱりわからない。これは、かつて、ドイツ東部がスラブ系民族が住む土地であったことの名残だ。

12世紀以降、西側から多くのドイツ人が入植したことで、スラブ人系民族はしだいにドイツ化され、ドイツ文化の中に吸収されていった。かつて50部族ほど存在したとされるスラブ系民族のうち、現代まで少数民族として文化風習を保っているのは、ラウジッツ地方に住むソルブ人(Sorben)だけ。そのソルブ人の文化は、シュプレーヴァルト(Spreewald)やバウツェン(Bautzen) の博物館などで知ることができる。

現代を生きるソルブ人の歴史や文化も興味深いけれど、ドイツ人に支配されるようになる以前、スラブ系民族がどのような暮らしをしていたのかも気になる。そこで、メクレンブルク=フォアポンメルン州にある、グロース・ラーデン考古学野外博物館(Archäologische Freilichtmuseum Groß Raden)へ行って来た。ここには、9〜10 世紀のスラブ系民族、具体的にはオボトリーテン族の集落が再現されているのだ。ちなみに、博物館への公共交通はないので、車で行くしかない。

野外博物館は、グロース・ラーデナー湖に突き出した小さな半島上につくられている。

集落は木柵に囲まれていて、そのまわりには堀がある。小さな木製の橋を渡って、柵の内側に入ると、家屋が十数軒、並んでいる。

集落に見られる家屋は丸太小屋(Blockhaus)と 枝を編んで粘土を塗った壁の家(Flechtwandhaus )の2タイプ。

スラブ人が住んでいたとされる丸太小屋を再現したもの

こちらは枝と粘土の壁の家

このように枝を編んで壁を作り、上から粘土を塗って固める

住居の内部

パン焼き窯。粘土製なので、雨に濡れると崩れてしまう。なので、屋根付き。

週末や学校の長期休みなどには、当時の生活技術のデモンストレーションや体験ワークショップがあるようだ。この日は私以外に誰もいなかったので、建物を一人でじっくり眺めただけ。家屋や生活用具を眺めながら、「当時、現在のドイツ西部に住んでいたゲルマン系民族の生活とどう違ったんだろう?」と考えてしまう。身近な天然材素材はほとんど変わらなかったと思うので、基本的な生活スタイルや技術にそれほど大きな違いはなかったのではないだろうか。気になるので、次回はゲルマン人の集落を再現した野外博物館へ行って、比較してみたい。

集落の外れには木製の四角い「神殿」がある。

宗教儀式が行われたとされる神殿の内部はがらんとして殺風景で、柱には藁でできた人形がくくりつけられている。これは、豊穣の女神マコシ(Mokosh)。キリスト教化される前のスラブ人は多神教で、自然の力や精霊、神々を崇拝していた。ささやかな祭壇と思しきものも見られるスラブ人の宗教についても、ゲルマン人のそれと比較してみたい。。

集落の奥には水路を隔てて、Slawenburg(直訳すると、「スラブ人の城」)と呼ばれる、円形の構造物がある。「城」といっても、王族や貴族の住む場所ではなく、敵が攻めて来たときに集落の住民や家畜が避難するための砦だ。ここからは「城砦」という言い方で続けよう。

丸く盛られた土塁+木製の防御壁という構造。

入り口はトンネル状

城砦の内側

城砦が「円形である」というのは重要なポイントだ。「自然との調和」「季節や生命の循環」を重視する世界観を有していたスラヴ人にとって、円は終わりのない形であり、「生と死」「昼と夜」「季節の巡り」などの循環する世界の象徴とされたらしい。それはメクレンブルク=フォアポンメルン州やブランデンブルク州に残る、スラブ人集落の名残のある村にも見てとれる。エルベ川の南側、ニーダーザクセン州の東端に位置する地域ヴェントラント地方には、ルントリンク(丸いもの)と呼ばれる集落が多く存在する。ヴェントラント(Wendland)のヴェントというのは、スラブ人を意味するWendenという言葉が由来だ。つまり、ヴェントラントとは「スラブ人の土地」という意味である。

砦から見た集落

野外博物館の敷地内には博物館もあって、砦や集落の模型や、グロース・ラーデンやシュヴェリーンの砦跡における発掘調査で出土した遺物が展示されている。

10世紀のグロース・ラーデンの集落模型

城砦の模型。集落の住民は敵が攻めて来たときには城砦に逃げ込み、内部の家屋で生活した。

その他、博物館には2014年にシュヴェリーン城の中庭の地下から発掘されたスラブ人の城砦に関する展示もある。シュヴェリーン城といえば、ユネスコ世界遺産に登録されている美しい宮殿だが、もともとスラブ人の城砦があったところに建設されている。博物館にはその城壁の一部が展示されているが、年輪年代測定によって、紀元956年頃に建設されたものと推定された。

発掘された城壁の一部

展示室の床にはなにやら大きなカブトムシが設置されている。背中に乗ると、カブトムシになって城砦の中を飛び回ることができる。カブトムシがブルブルと震え、その振動を感じながら目の前のスクリーンに映し出される映像を見るという趣向。これは一体何?と不思議に思ったら、これには理由があった。

シュヴェリーン城は湖に浮かぶ小さな島に建てられている。その地下から発見されたスラブ人の城砦は木製で、湿地環境では朽ちやすかった。広葉樹の朽木はカブトムシの産卵に絶好の場所である。たくさんのカブトムシがやって来て、城壁の中に卵を産んだ。ところが、カブトムシが羽化する前に、当時の人々が城壁の補修工事を行い、粘土などで壁を固めてしまった。それで飛び立てなくなったカブトムシの遺骸が城壁の中からたくさん発見されたのだという。つまり、カブトムシはシュヴェリーンの城砦のシンボルというわけである。

また、この城砦は、10世紀にオボトリーテン族の首長ムスティヴォイの娘、トーヴェがデンマーク王ハラルド1世と政略結婚させられた際に滞在したと伝えられていて、その嫁入りをストーリーに仕立てた展示も興味深かった。

城砦から発掘された金のアクセサリー。トーヴェが身につけていた?

シュヴェリーン城には行ったことがあるが、城壁発掘の前だったので、発掘跡を見に、近々また行ってみたい。