旧東ドイツのマニアック観光スポットはもうずいぶん回っているが、まだまだ未知の領域がたくさんある。特に南部のザクセン州は見所が非常に多く、何度足を運んでも見尽くせない。今回はまだ行ったことのないケムニッツとツヴィッカウ方面を探索することにした。といっても1泊2日の強行軍なので、どれだけ見られるかな。

まずは、あらかじめ目星をつけておいたケムニッツの産業博物館(Industriemuseum Chemnitz)を目指した。

 

ケムニッツはザクセン州でドレスデン、ライプツィヒに次いで3番目に規模の大きな町だ。18世紀、紡績業を中心にドイツ産業革命の重要な拠点として発展を遂げて以来、ザクセン州における工業の中心地である。古くからあった機織り工場から次第に機械工業が発達し、特殊技術を持つ企業が次々と創業した。20世紀初頭にはザクセン州はドイツで最も産業の発達した地域となっていたそうだ。旧東ドイツ時代、「カール=マルクス=シュタット」と呼ばれたケムニッツの街並みは非常に近代的で風情があるとは言い難いのだが、良いミュージアムが多くある。

 

ケムニッツ産業博物館入り口。

 

館内に入るとまず目につくのがこのレーシングカー、eGon。西ザクセン大学ツヴィッカウで開発された電気レーシングカーだそう。

 

名前から想像できるように、この博物館はザクセン州の工業の歴史を伝え、産業遺産を保存・維持することを目的としている。これまで東ドイツの産業博物館をいくつか見て来たが、このケムニッツのミュージアムで展示室に足を踏み入れて真っ先に感じたのは「空間が美的であること」だった。他の産業系ミュージアムではどちらかというと錆びついたり塗装が剥がれたり油にまみれた古い機械や装置を目にすることが多かったが、ここに展示されているものは磨き上げられた美しいものばかりなのだ。

 

 

ザクセン州の工業発展の流れを示すプラットフォーム。

 

 

 

著しいスピードで産業革命の進んだザクセン州だが、急激な工業化は市民の中に階層を生み出した。労働者運動が高まる中、現在のドイツ社会民主党(SPD)の母体となった全ドイツ労働者同盟が創設されたのもザクセン州のライプツィヒである。ザクセン州はドイツの社会変革の歴史において中心的な役割を果たして来たようである。

しかし、第二次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、東側にあったほとんどの産業施設は戦後賠償の過程でソ連に接収されることになる。また、約2万社が西ドイツ側に逃れ、新たな拠点で再出発した。

百科事典出版社のブロックハウス、アウディ、レンズのツァイスなど、日本でも名前をよく知られた多くの企業は元々は東ドイツの企業だった。社会主義国となった東ドイツ(DDR)では、全面的な解体を逃れた工場は国営工場として計画経済を担ったが、1989年、国全体に「平和な革命」が広がり、ついにベルリンの壁が崩壊する。

1989年に反政府デモが起きた場所。ザクセン州は特に密度が高い。なんと163箇所でデモが行われたという。

 

なんとなく革命の中心地はベルリンのように思っていたが、ザクセンの市民らがドイツ統一のために果たした役割は大きかったのだなあ。しかし、東西ドイツが統一されてみると東の産業は西側先進国の基準を満たしておらず急激に衰退することになる。統一からわずか3年のうちにおびただしい数の人々が職を失ってしまう。

 

戦後ほぼ全てを奪われ、そしてドイツ統一が果たされたと思ったら再び産業の大部分を失うことになったとは。大変だったのだなあ。

 

 

さて、見慣れないこの大きな機械。第一次世界大戦ごろまで使われていた刺繍機出そう。刺繍機というものを初めて見た。

 

左側の図面上に針を刺し、レバーやペダルを操作することで布地に同じ模様を色ごとに刺繍して行く。

 

ちょうど担当の技術者がいたので実演してもらった。こうした機械は工場ではなく一般農家で使われていたそうだ。畑仕事のできなくなる冬季、農家はこのような機械をリースして刺繍作業に従事した。

 

 

地下には紡績業で使われて来た様々な機械が展示されている。

 

以前は機械にはほとんど興味がなかった私だけれど、このミュージアムの機械を眺めていると、機械というのも美しいものだなと感じる。機能美にすっかり見とれてしまった。

 

 

 

 

美しいとは思うものの、機械については詳しくないので眺めているだけ。でも、だんだんと産業史が面白くなって来た。この「まにあっくドイツ観光プロジェクト」(と自分で勝手に名付けた)を始めてから産業遺産を見て歩くようになったのがきっかけだが、年を取るにつれ物事を時間の経過の中で考えるようになったことも関係しているかもしれない。若い頃には興味が持てなかったいろいろなものを面白いと思えるようになって来たのは嬉しい。

ということで、ケムニッツ観光の最初のスポットには満足した。この博物館ではガラス張りの展示スペースでロボットが車を作っているところを観察することもできるので、小さな子どもも喜びそう。

 

 

 

 

どちらかというと硬派な分野のスポットを紹介することの多い、この「まにあっくドイツ観光」ブログであるが、たまには趣向を変えて生活文化を扱ってみよう。今回のテーマは服飾である。

そう思いついたのも、ブランデンブルク州の外れも外れ、メクレンブルク=フォルポンメルン州との県境に「マイエンブルク城モード博物館(Modemuseum Schloß Meyenburg)」というものが存在することにたまたま気づいたからである。

日曜の朝、「本日のプログラムはモード博物館に決定!」と高らかに宣言したが、夫はファッションには興味がない、自分はまだ寝ていたいと言う。そこで今回は一人で出かけることにした。

 

 

行ってみると、Meyenburgは眠ったような町であった。メインストリートを通過しても、何か面白そうなものがありそうには見えない。

しかし、探していた城、マイエンブルク城(Schloß Meyenburg)は確かに存在した。

こじんまりとしているが、素敵なお城である。

 

表に小さな看板が出ている。

しかし、入り口のところで「写真撮影はダメですよ」と言われてしまい、軽くショックを受ける。ファッションのミュージアムなのに写真が撮れないとは。そこで、展示が気に入ったらブログで紹介したいのだがと相談したところ、特別に後から写真を何枚か提供して頂けることになった。よかった、よかった。ということで、ここから掲載する全ての写真の著作権はModemuseum Schloß Meyenburgにある。

 

このモード博物館では、東ドイツFürstenwalde出身の服飾デザイナーでありジャーナリストのJosefine Edle von Kreplさんのプライベートコレクションを展示している。コレクションの内容は1900年代から1970年代までのドイツの女性の衣装とアクセサリーだ。

 

展示は年代順に、1900年頃の衣装群から始まっている。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

ヨーロッパでは英国で1881年に”Rational Dress Society”が設立され、女性の服装の改革運動が始まった。きついコルセットで体を締め付けた「女性らしさ」よりも快適さや合理性を重視すべきだという考えが広がりつつあったのだ。しかし、女性たちがそれまでの理想像から解放されるまでには長い時間を要した。1906年、フランスのデザイナー、ポール・ポワレがコルセットを必要としないデザインのドレスを考案したことにより、女性の服装が大きく変化することになる。

モード博物館に展示されているこの時代の衣装は、いわゆる女性的なオーナメントが少なく、男性の服装を連想させるものが多い。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1910年頃のサマードレス。この頃、服飾の世界に初めて実用性と美的要素を組み合わせた「デザイン」という概念が生まれた。ドイツ語圏では1911年に「ウィーン工房」が設立される。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920年代のドレス。この頃にはベルリンがドイツのファッションの中心地となっていた。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

同じく1920年代の服装。この辺りのデザインは現代でも通用しそう。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920-30年代に流行したオリエンタリズム。

 

ナチスの時代に入ると、ドイツはファッションにおいても「アーリア化」を進めた。ヒトラーはウィーンとベルリンをパリに代わるファッションの発信地にしようと計画したが、成功しなかったようだ。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のドイツの女性の服装。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のバッグ。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1950年代のファッションの理想はイタリアのカプリ島のイメージだったそうだ。(といっても、写真のドレスのような服装がカプリ島を連想させるものであるかどうかは私にはよくわからない)

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1960年代の部屋。この時代には技術の進歩により、それまでには使われていなかった素材が使われるようになり、服飾デザインは大きく変化した。ミニスカートのような斬新なアイテムが登場し、ファッション産業のターゲットが若者にも広がった。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1970年代。こういう帽子、私も子どもの頃に被っていたなあ。

 

写真で紹介した他にも、多くの衣装やアクセサリーが展示されていて、面白い。まだ行ったことがないのだが、ベルリンにはアール・ヌーボー(ユーゲントシュティール)やアール・デコのインテリアを集めた美術館があるので、このモード博物館と合わせて見ると、より面白いかもしれない。

それにしても感じたのは、女性の服装には実にいろんなスタイルがあるなあということ。現在の流行ではなくても気に入るものはたくさんある。時代など構わずに、みんなそれぞれ好きなものを身につけたらいいのになどと思ってしまった。そんなことをしたらモードというものそのものが消滅してしまうかもしれないが。

 

服飾史に興味のある人は楽しめるミュージアムだと思う。Meyenburgは先に述べたように他にこれといったものがあるわけではないのだが、北に20kmほど行くとメクレンブルク湖沼地帯(Mecklenburg Seenplatte)と呼ばれる大変風光明媚な人気保養地が広がって入る。湖沼地帯での休暇と組み合わせると良いかもしれない。

 

 

 

10月3日は「ドイツ統一の日」で祝日だった。

私は東西に分断されていたドイツが再統一された1990年に日本からドイツへやって来た。8月1日、降り立ったフランクフルト空港は当時まだ「西ドイツ」にあった。到着した1週間後に国境を越えて「東ドイツ」を見に行った。そのときに初めて見た社会主義国の風景が今も脳裏に焼き付いている。

ドイツでの生活を始めたのは西側のケルンだったが、それからわずか2ヶ月後の10月3日、旧東ドイツの州が西ドイツに加入することでドイツは再統一された。再統一のその日、花火でも上がるのではないかと期待して大聖堂付近へ行ったら、多くの人たちが集まって統一を祝おうと待ち構えていたが、結局、花火は上がらなかった。「なあんだ」と少しガッカリしてアパートに戻った。あれからもう27年もの年月が流れたのだなあ。

ドイツ統一の日には首都ベルリンを中心にいろいろなイベントが催される。しかし今年は天気が良くなかったので、どこへも行かなかった。その代わりというわけではないが、その翌日、旧西ベルリンにある連合国博物館(Alliertenmuseum)へ行って来た。

 

 

連合国博物館は西ベルリンのClayalleeという大通りにある。ドイツの道路は歴史上の人物にちなんで名付けられているものが多い。「カール・マルクス通り」など、聞けば誰のことだかすぐにわかるものもあるが、多くはドイツの歴史に通じていないとピンと来ない。恥ずかしいことだが、私はドイツに20年以上住んでも未だにドイツの歴史に疎く、通り名になるほど有名な人物でも「誰それ?」と首を傾げてしまうことがしばしばだが、ClayalleeのClayとは第二次世界大戦後にベルリンが連合国によって分割統治されていた当時、西ベルリンで行政管理に当たっていたルシアス・D・クレイ米陸軍司令官のこと。この通りに残るかつての米軍の映画館、Outpost Theatherの建物が現在、博物館として使われているのだ。

 

外観の写真を撮り忘れてしまったので、見たい方はこちらを。二つのドアの向こうがメインの展示室で、ドアの上に”NATIONAL ANTHEM IS PLAYING NOW   PLEASE WAIT”というサインが掛かっている。これは当時、映画の前に米国の国歌が流れ、遅れて来た人は国歌が流れている間は外で待っていなければならなかったからだそう。

 

メインの展示室。

 

常設展示は4つの部に分かれ、第二次世界大戦における連合国の勝利、連合国によるドイツ及び首都ベルリンの分割統治、戦後の西ベルリンにおける民主主義、そして東西の対立が深まりつつあった1948年のソ連によるベルリン封鎖とそれに続くベルリン大空輸について知ることができる。展示の規模は大きくないが、知らなかったことが結構たくさんあって興味深かった。

 

 

戦後、西ベルリンでは自由と民主主義を標榜するメディアとして、Der Tagesspiegel、Der Abend、Spandauer Volksblatt、Der Kurierといった新聞が相次いで刊行された。

 

特に面白かったのは、当時のアメリカ軍占領セクターのラジオ局、RIAS Berlin (Rundfunk im amerikanischen Sektor)の放送クリップが聞けること。1948年にソ連により西ベルリンへの陸路と水路が断たれ(ベルリン封鎖)、西ベルリンへ空路で物資を運ぶ「ベルリン大空輸(Berliner Luftbrücke)」が始まったが、物資を載せた最初の飛行機がガトウ空港ガトウ空港に降り立つ瞬間やパイロットのインタビュー、7月25日にシェーネベルク空港に飛行機の一機が墜落したことを伝える音声からは当時のベルリンの緊張感が伝わって来る。

 

展示室の奥のステージへは左右にそれぞれ橋がかかっている(全体が写真に入らなかったので右側だけ)。ベルリン大空輸を表すドイツ語、Luftbrücke(エアブリッジの意味)のブリッジを象徴しているのだろうか。橋の手すりにはドイツ、そして世界全体が戦後どのように分断され冷戦へと突入して行ったのかが年代順に示されていて、それを一つ一つ読みながら橋を渡った。

 

大空輸においては食料品や日常雑貨の他、エネルギー源として大量の石炭が運ばれた。石炭から舞い上がる埃で飛行機内部の危機が故障したり、引火することを防ぐために特殊な「石炭袋」が開発されたそうだ。

 

大空輸で西ベルリンへ送られた「Care-Paket」と呼ばれる小包。中身は、コーヒー、ココア、セミミルクチョコレート、ベーコン、ビーフ&グレイビーソース(缶詰?)、レバーペースト、ランチョンミート、砂糖、マーガリン、ラード、ジャム、米、小麦粉、洗濯洗剤、トイレ用石鹸。

 

大空輸開始当初は1日に運ばれた物資は80トンほどだったが、輸送量は月を追うごとに増えて行き、ピーク時の1949年の4月には1万1700トンが運搬されている。上空での混雑を避けるため、飛行高度や着陸時間、停留時間などが細かく規定された。物資の大部分はガトウ空港ガトウに運ばれたが、テンペルホーフ空港も利用された。しかし、それだけでは追いつかなくなり、急遽テーゲル空港がわずか3ヶ月という突貫工事で 建設された。

テーゲル空港って、たった3ヶ月で完成したのか。それに比べて、とっくに終わっているはずのベルリン新国際空港建設工事は何年経っても進まない、、、。

ところで、ガトウ空港の方は現在、軍事史博物館となっている。当ブログでも紹介している。

ガトウ空港についての記事はこちら

 

ベルリン大空輸に関する展示がとても興味深かったのでもう少し引っ張ってしまうが、この空輸作戦にはベルリン空輸回廊(die Luftkorridore)と呼ばれる3つのルートが使われた。南回廊はフランクフルトから、中央回廊はニーダーザクセン州のビュッケブルクから、そして北回廊はハンブルクから西ベルリンへの空路である。航空機の数を確保するため、日本、グアム、ハワイ、カリブ海などの米軍基地からも航空機が調達され、またイギリス軍はかつての植民地からもパイロットを招集していたらしい。この一連の西ベルリン市民救済活動で命を落とした人々も少なからずいた。

常設展示には他にも興味深い内容が多かったが、このくらいに。

一旦、外へ出て今度は別館の特設展示会場へ移動した。

 

二つの建物の間のスペースには大空輸に使われた航空機がどーんと鎮座している。「ロジーネンボンバー(Rosinen-Bomber)」とも呼ばれた英国製軍用輸送機、Hastings TG504機である。

 

特設展示会場では現在(2018年1月28日まで)、冷戦時代のベルリンで使われた様々な物が100点、展示されている。こちらもなかなか面白い。

 

ボードゲーム、Die Mauer(ベルリンの壁ゲーム)。一対一で、それぞれがソ連とアメリカのスパイという設定で遊ぶそうだ。

ドイツは知る人ぞ知るボードゲーム大国で、老若男女、ボードゲームが大好き。しかも、歴史上の出来事はなんでもゲームのネタにしてしまう。冷戦ゲームとか宗教改革ゲームとか原発爆発ゲームまであって、もしかしたら日本人の感覚からするとふざけているとか不謹慎と思うかもしれないが、ゲームは単なる娯楽ではなく学びの要素も大いにあることからドイツでは受け入れられている。

 

戦後、西ドイツはトルコなどから多くの労働者を受け入れた。これはベルリンの占領セクターを示すトルコ語の看板。

 

 

社会主義の東ドイツ(DDR)の積み木おもちゃ。東ベルリンの大通り、カール・マルクスアレーの建物のミニチュアだ。

 

1994年のドイツ駐留ソ連軍撤退時に発行されたテレフォンカード。

 

この博物館は無料だけれど、ゆっくり見ると2時間でも足りないくらいだった。しかし、「連合国博物館」とはなっているものの、この博物館が示すのはあくまでも西側諸国、つまり英米仏側から見たベルリンである。ベルリン封鎖以降、ソ連は「あちら側」となっている。ベルリン市内には「ドイツ・ロシア博物館」というのもあるので、今度はそちらも見に行ってみようと思う。

 

 

日本にしばらく里帰りしていたので、まにあっく観光旅行に出かけるのは久しぶり。今回はなぜか、鉱物をじっくりと眺めたい気分だった。ドイツには多くの鉱物博物館があるが、家からさほど遠くない場所で規模の大きいものはないかと検索したところ、ザクセン州フライベルクのTerra Mineraliaがヒットした。

 

フライベルクはドイツとチェコの国境地帯であるエルツ山地(Erzgebirge)北部に位置する。エルツとは「鉱石」を意味し、一帯は鉱物資源の非常に豊かな地方である。フライベルクは12世紀に銀鉱山が発見されて以来、鉱業で栄えた町だ。現在も、かつての鉱山学校を母体とするフライベルク工科大学(TU Bergakademie Freiberg)があり、鉱山学をはじめ資源開発やエネルギー技術に至るまでの広範囲に渡る地質学教育・研究の中心地だという。ということは、terra mineraliaはかなり見ごたえのある鉱物博物館だと思ってもよいのではないだろうか。鉱物を見にフライベルクへ行く行くと興奮していたら、夫が「オレも行く!」と言うので、私達は大きな期待とともにフライベルクへと向かった。

 

 

Terra Mineraliaは、シュロス・フロイデンシュタイン(Schloss Freudenstein)というお城の中にある。

その日はどんよりと暗い日だったが、博物館をじっくり拝観するにはむしろうってつけの天気である。(ドイツは雨や曇りの日が多いからこそミュージアムが充実しているのではないか、などと思ってしまう)

 

内部はフロア5階分あり、一番上のフロア展示を見ながら降りて行くようにデザインされている。世界中から集めた鉱石標本は地域ごとに展示されている。非常に美的な空間だ。

暗い室内に輝く鉱物のショーケースがずらりと並んでいる。標本を見る前からもうドキドキして来た。

 

陳列されている標本はどれもうっとりするほど見事なものばかり。例えば、、、、。(相変わらず写真が上手でないけれど、どうかご勘弁を)

 

標本数は3500点。写真を撮り出すとキリがない。

 

顕微鏡を覗くのはとても楽しい。

 

また、初めて見るものに、「光る鉱物の部屋」というものがあった。暗室になっていて、中に入るとショーケースに色々な鉱物が並べられている。

一見、それほどどうということのない石のようだが、、、。

 

わっ、光った!

 

色が変わった!!

 

これらは蛍光鉱物と呼ばれるもので、紫外線を当てると発光するのだそうだ。同じ紫外線でも、UV-A(波長 315–380 nm)とUV-C (波長 200–280 nm)、そしてその両方を同時に当てた時とで色が異なって見える。大変魅力的で、結構長いこと眺めていた。

 

ギャラリーは延々と続いて行く。

こんなにも多様な美を生み出すとは、自然とはなんと不思議なのだろう。ここまで見るだけでもその膨大な数と種類に圧倒されていたのだが、さらに続きがあった。なんと1階の「秘宝の間」には驚くほど巨大な標本がいくつも陳列してあったのだ。

 

 

 

今までにあちこちで鉱物コレクションを見たが、自分が見た中ではここのは間違いなく3本の指に入る。標本数ではもっと多いところもあったと記憶しているが、Terra Mineraliaは展示の仕方が非常に魅力的だ。大満足でミュージアムを出た。

 

しかし、これで全てではないのがフライベルクの凄いところ。Terra Mineraliaのすぐ隣には別の鉱物博物館、Krügerhausがある。こちらではドイツ国内で採れた標本が見られる。

世界中から集めた鉱物を見た後だからそれほど感動しないかもしれないと思ったが、コンビチケットで拝観できるので入ってみる。

 

いやー、ここも決して侮れない。いきなり美しい鉱物断面ギャラリーから始まる。断面の模様は様々で、まるでアート作品のようだ。

 

こちらのミュージアムでも標本は地域ごとに展示されている。

 

そしてこれは何!?

 

壁一面にずらりと並んでいるのは結晶モデルだった。

19世紀に製作されたモデルである。すごいね!

 

最後に結晶のアップ写真をいくつか。

 

言葉で形容するのは無理。二つの博物館を見て、とにかく大興奮・大満足である。

 

ところが、まだあるんです、フライベルクには。この他にもさらにフライベルク工科大で鉱物や化石などのコレクションが閲覧できるというのだから、もう気が遠くなりそうだ。さらには数時間に及ぶ銀鉱山見学ツアーなどもあり、とにかく盛りだくさんである。到底一日では足りない。今回は日帰りだったので上記の二つのミュージアムだけで終わってしまったが、是非ともまたフライベルクを訪れて今回断念したものを体験するつもりだ。

 

地学や鉱物学ファンにはもちろんのこと、綺麗なものを見るのが好きな人にはとても楽しい場所だと思う。Terra Mineraliaは子どもも楽しめる工夫がしてあるので家族連れにも良い。また、大聖堂や古い劇場、教会など他の見どころもあり、チェコに近いのでボヘミア料理レストランなどもある。いつもとちょっと違うドイツ観光がしたいと思うときに良いのではないかな。

 

 

今週末はベルリン中心部から40kmほど南下したところにあるツォッセン(Zossen)市の一地区、ヴュンスドルフ(Wünsdorf)へ行って来た。

目的はドイツ最大の秘密基地の一つ、マイバッハI(Maybach I)  とツェッペリン(Zeppelin)を見学するためだ。ヴュンスドルフの静かな森の中には巨大な防空壕の残骸がいくつも並んでいるという。それらの施設は第二次世界大戦直前の1937〜39年に建設され、ドイツ陸軍総司令部がそこに移された。冷戦時代にはロシア軍により再利用されていたが、現在はミュージアムとして一般公開されている。

 

 

「禁じられた町(Verbotene Stadt)」と呼ばれる基地跡を見学するにはガイドツアーに参加しなければならない。いくつかのツアーがあるが、今回は予約なしで参加できる基本的なツアーに申し込んだ。ツアー時間は約90分。

禁じられた町の敷地内に入り、まずはマイバッハIの敷地を見て回る。Maybach Iには大きさと形が同一の防空壕機能を備えた建物(ブンカーハウス)が12棟並んでいる。Maybach Iと、その後隣接する敷地に建設されたMaybach IIは1947〜1948年にロシア軍により爆破され、現在、廃墟の状態で保存されている。

 

ハウスA2。地上3階、地下2階の5階建として設計されたブンカーハウスの大きさはいずれも幅16m、奥行き36m。1階の一部と地下は特に強力な厚さ1mの鉄筋コンクリートの天井と壁で守られたコア部分を成していた。

 

当時はカムフラージュのため屋根や外壁は別の建材で覆われ、ダミーの煙突や窓が取り付けられていた。それぞれの建物には指令棟、調達棟など異なる機能が与えられ、互いに地下9mの深さの地下通路で繋がっていた。業務は通常、地上階のオフィスで行われていたが、空襲警報が発せられるとスタッフは機密文書やタイプライター、無線機、武器、ヘルメットそしてガスマスクなどを持って地下へ避難した。

 

 

6つのブンカーハウスを見て回った後は、通信基地Zeppelinの内部に入る。

 


 

この通信基地は地下20mに及ぶ3階建てで、現在の内部温度は10℃ほど。とても冷んやりとしている。暖房設備はもともとないが、建物が使用されていた当時は常に500人を超える作業員の体と古い機器から発せられる熱気で寒いどころか、むしろ暑かったらしい。

 

長い長い通路。このZeppelinもやはり第二次世界大戦後に爆破されたが、冷戦時代、ソ連軍が修理し、再利用した。

 

ツアーはこれで終わり、敷地の外に出た。しかし、見るべきものはこれだけではない。フェンスで囲まれた敷地の外部にも防空壕がいくつも残っているのだ。

 

Winkelと呼ばれる防空壕。尖っているのでSpitzbunker(尖ったブンカー)とも呼ばれる。「禁じられた町」内部への避難を許可されない警備員や民間作業員の一時避難用に建てられたもの。

 

基地周辺にニョキニョキと巨大なタケノコのように立っている。

 

アパートの庭にもどーんとそびえているのには驚いた。現在ここに住む人はどんな気持ちでこのブンカーを眺めているのだろうか。このようなSpitzbunkerの内部は8階まであり、最高315人を収容できる。こうしたタイプの防空壕は地下に掘るものよりも建設が簡単でコストも安く済むため、多く作られた。地上にあるとその分危険なように感じるが、上から見た面積を小さくすることで空から降ってくる爆弾をうまくよけることができるという。

 

そして、ヴュンスドルフにはさらにいくつかのミュージアムがある。その一つはプロイセンの時代からすでに軍事拠点だったヴュンスドルフの軍事史を知ることのできる駐屯博物館(Garnisonsmuseum)だ。

 

 

展示品は豊富なのだが、年代順に展示されておらず、説明文の大部分は壁ではなく各コーナーに置かれたファイルの中にあるため、軍事史の予備知識がないとちょっとわかりづらいのが残念。

 

 

ヴュンスドルフには第一次世界大戦の捕虜収容施設があった。捕虜の多くはイスラム教徒で、「捕虜には人間的な待遇をしていますよ」という対外アピールのため、敷地内にはモスクが建設された。このモスクは現在は残っていないが、ドイツ国内に初めて建てられたモスクである。

 

野戦病院に関する展示。

 

「赤い星ミュージアム(Roter Stern)」も見学した。こちらではロシア/ソヴィエト軍に関する展示が見られる。

 

 

ロシア語は読めないので、何が書かれているかわからない。残念。

 

ヴュンスドルフはかなり見応えのある観光スポットだ。ベルリンからのアクセスも良い。それにしても、ドイツはどこもかしこも戦争の傷跡だらけだ。暗く悲惨な過去など見たくないと思ったとしても、避けることは到底できない。戦争の恐ろしさを繰り返し繰り返し思い出させられる。

 

 

ここのところ忙しくてすっかり間が空いてしまったが、ようやく時間に余裕ができたので、久しぶりにまにあっく観光に出かけることにした。晴天の今日は野外の観光スポットが目的地としてふさわしい。そこで、かねてから行きたいと思っていたデッサウ近郊の野外ミュージアム、Ferropolisへ。

FerropolisとはFerro(鉄の) + polis(町)、「鉄の町」を意味する。そこはザクセン=アンハルト州Gräfenhainichen近郊の湖にせり出した細長い半島。東ドイツ時代には褐炭の露天掘り場だった場所である。ドイツが再統一の翌年、1991年に採掘場は閉鎖されたが、使われていた5台の掘削機が陳列されているという。このブログでこれまでにいくつか紹介して来たように、旧東ドイツには閉鎖後の産業施設が観光地されているところがたくさんある。褐炭産業関連のミュージアムが特に多いが、このFerropolisもその一つだ。デッサウ・バウハウス基金の発案により建設された。

 

 

国道を降りてFerropolisの案内標識に従って周囲に何もない田舎道を進んで行くと、遠くに掘削機が見えてくる。当時の炭鉱従事者のポートレートが壁面一面に描かれた建物のすぐ向こうがミュージアムだ。

駐車場脇の入り口で入場料を払い、オーディオガイドを首に下げて見学開始。

(Image: Ferropolis)

半島を上空から見たところ。中央のアリーナを取り囲むように5台の掘削機が配置されている。

 

湖に面した位置にあるのはMad Maxと名付けられたバケット掘削り機。稼働中は1時間に1920立方メートルもの土を運んだという。

 

Mosquito(手前)とMedusa(奥)。

 

 

 

5つの掘削機のうち、最大規模のGeminiには上ることができる。

 

 

上からアリーナを見下ろす。

 

 

バケットホイールエクスカベーター、Big Wheel。

 

 

 

敷地には小さなミュージアムもある。しかし、展示からはあまりやる気が感じられなかった。

 

採掘中に氷河時代のマンモスの骨が出て来たらしい。

 

「戸籍課」と書いてある部屋。

 

中はかつてのコントロール室。ここで入籍式が挙げられるらしい。ドイツ人は変わったところで結婚するのが好きなようだ。

 

この野外ミュージアム敷地ではライブコンサートや蚤の市などの催しが頻繁に開催される。

 

Melt Festival 2012 – Der Freitag – 13.7.2012 (Image: Ferropolis)

こんな感じにライトアップされるらしい。野外コンサートの会場としてはかなり良さそうである。

正直なところ、展示室の展示は充実していないので、この野外ミュージアムは学びの場というよりもイベント会場として捉えた方が良い。子ども連れであれば蚤の市などの昼間のイベントに、大人は夜のイベントが楽しめそうだ。

 

 

LüchowのStones Fan Museumは居心地が良かったが、あまり長居もしていられない。Lüchowまで来たからには、まだ他に見ておきたいものがあった。それは、この地方に特徴的なルンドリンクスドルフ(Rundlingsdorf)と呼ばれる集落である。

ドイツには約3万の村がある。集落の形態にはいくつか種類があって、最もよく見られるのはハウフェンドルフ(Haufendorf)というもの。民家やその他の建物が特に規則性なく集まって形成されている集落だ。一本の道路の両脇に建物がすずなりに並ぶ集落は、シュトラーセンドルフ(Straßendorf)と呼ぶ。私が住むブランデンブルク州ではシュトラーセンドルフをよく見かける。

ネットサーチをしていたら、Lüchow周辺はヴェンドラント地方と呼ばれ、この辺りにはRundlingsdorfという特徴的な形態の集落が多いことがわかった。Rundling(ルンドリンク)とは、輪のように丸く民家が立ち並ぶ集落だ。

 

こんな感じ。(Rundlingsmuseumの展示にあったものをカメラで撮影)

 

Lüchow周辺のルンドリンク群。青い家のマークの場所がルンドリンク集落だ。赤いラインはツアールートである。それぞれの村は数kmづつしか離れていないので、自転車でも回ることが可能。Lüchowを出た私は、まずは4km離れたLübeln村(2の番号の場所)へ行くことにした。この村にはルンドリンクミュージアムがあるという。

 

Lübelnのルンドリンク・ミュージアム(Rundlingsmuseum)。この建物はもちろん、ルンドリンクの建物の一つ。

 

この木のある場所を中心として、木組みの建物が輪のように並んでいるのだが、写真はうまく伝えられない。Lübelnのルンドリンクは現在、野外ミュージアムとなっていて、この地方の伝統的な農村の暮らしを知ることができる。

 

村の教会

 

ヴェンドラント地方には古くからスラブ系のヴェンド人が住みついていた。ルンドリンクという形態の集落がいつ、どのように発生したのかについてはっきりはわからないそうだが、遅くとも9世紀には存在という記録があり、スラブ民族の文化と深い関わりがあると考えられている。18世紀末にはヴェンドラント地方には約320の集落があったが、そのうちの2/3はルンドリンクだった。ヴェンド人は西スラブ語に属するポラーブ語を話していた。ポラーブ語は文語を持たなかったことから、18世紀に死滅した。

 

ポラーブ語(ヴェンド語とも呼ばれる)とドイツ語の対照表。ドイツ語とは似ても似つかない。

 

野外ミュージアムの敷地内。

 

工房

 

 

 

Lübelnだけでなく、他のルンドリンクもいくつか見ることにした。

 

 

 

壁の模様は様々。裕福な家ほど飾りが多かったらしい。

 

花のモチーフもこの地方の特徴。

 

いろいろな集落を見たが、特に気に入ったのはSateminという集落。

 

 

ルンドリンクの集落にはホテルやレストラン、ビアガーデンなどもいくつかある。私はSateminのこのカフェで休憩した。

 

ヴェンドラントの多くのルンドリンクがユネスコ文化遺産に登録申請している。

 

関連動画

 


今回で、まにあっくドイツ観光、北ドイツ編はおしまい。まだまだ見足りないが、また改めて北ドイツの面白い場所を探しに行きたい。

 

リューネブルクは塩博物館以外にも見所が多そうだったが、前日の晩、夫から電話があり、「いつ帰って来るの?」と言われてしまったので、サッサと次へ行かなければならない。リューネブルクを後にして向かったのは、Lüchowという小さな町だ。

 

なかなか綺麗な街並み。Lüchowはバウムクーヘンで有名な東ドイツの町、Salzwedelから16km北にある。Lüchowまではギリギリ、ニーダーザクセン州だ。Salzwedelのバウムクーヘンは日本人にも密かな人気で、観光にSalzwedelを訪れる人も結構いると聞いている。しかし、Lüchowまで足を延ばす人はおそらくほとんどいないだろう。ここに何があるのか、知られていないから。

しかし、私は発見してしまった。このニーダーザクセン州の外れの町にあるマニアックな観光スポットを。

 

Stones Fan Museum。そう、ここはローリング・ストーンズのファンのためのミュージアム。ネットサーフィン中に偶然発見した。でも、田舎町のストーンズミュージアムなんて、どうだろう?たいしたことないのでは?と思わないでもなかった。しかし、平均滞在時間1.5時間と書いてあったし、リューネブルクからそう遠くないので、とりあえずやって来た。

 

 

 

中に入ると、すぐにオーナーの男性が近寄って来た。「ハロー!あんたもストーンズファンかい?」

 

オーナーのUlrich Schröder氏(通称、Uli)。ここではウリさんと呼ぶことにする。

 

「あ、ええ、まあ」と曖昧に答えたが、実は私はストーンズファンではないのだ。ローリング・ストーンズは嫌いではないし、気に入りの曲もあるが、特にファンというわけではない。なぜならば、私はビートルズファン、いや、正確にいうと、往年のウィングスマニアなのである。(理由になってない?)ウリさんにはウィングスマニアであることは伏せておくことにしよう。

 

「ゆっくり見て行ってよ。何か知りたいことがあったら、遠慮なく聞いて」

 

ミュージアムの中はストーンズグッズでいっぱい。

 

ほ〜と思いながら見回していると、ウリさんがまた寄って来た。

「6年前にオープンしたの、このミュージアム。すごいでしょ。こんなの世界に二つとないよ」

世界に二つとしかないとはちょっと信じられないが、ドイツ国内で他に知らないのは事実。でも、なぜこの町に?

「オレ、この町の生まれでさあ。若い頃からずっとストーンズコレクションやってたんだよね。だから、Lüchowにこのミュージアムがあるのは偶然ね。まあ、市の協力なんかも得てね。でも、ローリング・ストーンズっていう名前はつけちゃいけないの。ほら、商標だからさ。それで、ストーンズファン・ミュージアムってことにしたよ」

 

「これがうちのステージ。ここで、ストーンズのコピーバンドが演奏するんだ」

 

 

ストーンズと関係あるか知らないが、いい感じ。

 

「このビリヤード台はね、ストーンズのコンサートで楽屋にあったものなんだよ。うちがミュージアムをオープンするっていうことで、お祝いに貰ったんだ。このストーンズ人形は◯◯っていうアーチストの作品で、、、これから色付けするんだけど」(アーチストの名前を聞いたけれど、忘れてしまった)

 

「こっちの小さいストーンズ人形はルール地方の主婦が趣味で作ってんの。似てるでしょ?」

 

「ビリヤード台はメンバー一人一人のサイン付きだよ」

 

「こないだはアルバート・ハモンドのライブやったばかり」

 

「喉乾いてない?なんでもあるよ」

 

ライブ動画が流れている。う〜ん、なんか居心地いいな、このミュージアム。平均滞在時間1.5時間って、わかるきがする。ここに座って何か飲みながらライブ見ていたいよね。

 

「あ、向こうのドア開いてるところ、トイレね。男子トイレだけど、よかったら見てって。写真撮っちゃっても全然、構わないよ」

 

どれどれ、、、。

おーっ。この後ろ姿、ウリさんだね。

 

 

こちらは女子トイレの壁。

 

 

こんなテーブル、欲しい人いるのでは?

 

「そうそう。ここを出てすぐのところにカフェもオープンしたんだ。よかったら寄って行って。メインストリートね。それから、Gartenstraßeの全長40メートルの壁にストーンズのグラフィティがあるよ」

 

ストーンズに詳しくないからグッズを見てもよくわからなかったが、雰囲気は悪くない。近所だったらちょくちょく遊びに来るかもしれないと思いながら、「ありがとう!じゃ!」と言ってミュージアムを出る。

 

ウリさんのカフェを覗いてみた。

 

カフェっていうか、、、。インビス(軽食堂)という感じ。グラフィティも見るつもりが、メインストリートに素敵なカフェを見つけてしまい、ケーキ食べたりしてるうちにすっかり忘れてしまった。(こちらのサイトに画像あり)

 

バウムクーヘンとストーンズ、両方好きな人はSalzwedelとLüchowをセットにして観光すると良さそうだ。

 

 

 

 

まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編、ブレーマーハーフェンを堪能した後はリューネブルクへ移動した。「ドイツ塩博物館」を訪れるためだ。 さらに読む

ドイツ船舶博物館の中を見た後は、館外の博物館港に展示されている潜水艦、Wilhelm Bauerを見学することにした。この潜水艦は技術博物館として公開されており、内部を見ることができる。

 

 

 

潜水艦を前から見たところ

Wilhelm Bauerは第二次世界大戦末期の1945年に自沈したドイツ海軍のXXI型潜水艦(艦名U2540)である。それ以前の攻撃型潜水艦と比べて桁外れの速度で水中航行し、完全潜水状態での攻撃が可能な画期的技術で、当時、最も危険な兵器だった。幸い、実際に出撃することなく沈められ、戦後引き上げられた後、調査船として使われた。現在は博物館船として一般公開されている。

潜水艦の前先端に入り口があり、中に入ると船首の部分に潜水艦の仕組みなどに関する展示がある(潜水艦の内部構造)。展示の最初には、以下のような文面があった。

 

潜水艦Wilhelm Bauerは無害な技術遺産ではありません。この潜水艦は、古い技術への郷愁に浸るためではなく、技術の利用について冷静に考えるために展示しています。歴史と意識的に向き合い、事実を明確に提示することで批判的な検証が可能となります。

この潜水艦そのものが戦争で実際に使われたわけではないが、こうした攻撃型潜水艦は殺戮の道具であり、中に入って無邪気にはしゃぐような物ではない。

船首の先端部分は魚雷を格納するスペースとなっている。

一通り展示を読んだ後、中に入った。

船首から奥への入り口

艦長室

兵士の寝床

バッテリー

酸素ボンベ

ずっと奥まで入れる

ペリスコープ(潜望鏡)

 

技術の発展は素晴らしいことだが、技術系の博物館では技術開発のモチベーションが往々にして軍事であるという事実に向き合わされる。また、このような潜水艦に乗った兵士の心理などを想像して、なんとも重苦しい気分。でも、潜水艦が沈む仕組みなどは純粋に興味深いし、潜水艦の中を見る機会など滅多にないので、入ってみて良かった。

 

 

 

ブレーマーハーフェン観光の続き。

ブレーマーハーフェン滞在中は雨だったのだが、この町には面白い博物館がたくさんあり、それが海沿いに集中しているので、天気が悪くても問題なく観光を楽しむことができた。Klimahausの次には、すぐ側のドイツ船舶博物館を見学した。

ドイツには数多くの博物館があり、テーマの似通ったものも各地にあるが、「ドイツ◯◯博物館」と「ドイツ」が最初についているところは大体、見応えがある(と思う)。

 

 

名前の通り、ドイツにおける船舶交通の技術史を展示した博物館。この博物館はいわゆるForschungsmuseum(研究博物館)と呼ばれるタイプの博物館で、同時に研究機関でもある。研究の成果を同じ館内で一般公開するため、研究者は直接的に市民の啓蒙に携わることができ、市民の側も研究を間近で知ることができる。

この博物館も内容が非常に濃く、かなりマニアック!(でも、普通に楽しめる。子ども連れがたくさんいた)

展示分野は多岐に渡るが、この博物館の目玉はなんといっても、中世の難破船、Bremer Kogge(ブレーメン・コグ)だ。

 

巨大な展示物!この船は1962年、ブレーメン近郊で北海へ注ぐヴェーザー川沿いの港の拡張工事中、偶然に発見された。調査の結果、1380年頃に建造された帆走商船、Kogge(コグ船)であることがわかった。ブレーメンはハンザ同盟都市の一つであるが、中世における北海やバルト海の貿易にはこの船のようなコグ船が使われていたそうだ。

 

このコグ船の発掘は当時、ドイツ国内のみならず世界的なセンセーションを引き起こし、それがこの博物館の建設にも繋がったとのこと。しかし、600年もの長い間水中に沈んでいたこの大きな船を破壊しないように陸に引き上げ、保存するのは相当に大掛かりな作業で、一般公開されたのは2000年になってから。

 

以下はブレーメン・コグのデジタルモデル。

 

 

難破船と書いたが、実はこのコグ船は実際に後悔に使われたことはなかったとされている。造船後、何かの不具合により使用前にその場で沈んでしまい、そのままになっていたらしい。

 

当時のコグ船の発見者の未亡人が発見時の様子を語るインタビュー。

 

 

このコグ船のインパクトが凄いので、他の展示品がかすんでしまい、あまり他の写真を撮らなかったのだが、これがなかったとしても内容の濃い博物館だ。そして、博物館の建物の中だけでなく、屋外にも現存する世界最古の木造船「ソイテ・デールン号(Seute Deern)」やドイツ海軍の潜水艦などが展示され、博物館港となっている。潜水艦については次の記事に。

 

 

ブレーマーハーフェンでドイツ移民ミュージアムを見た後、今度はそのすぐそばにあるKlimahaus Bremerhaven 8° Ostを見ることにした。「気候」というテーマに特化したミュージアムだ。

 

 

ブレーマーハーフェンに来たら、嫌でも目に入る大きくモダンな建物。

ホール。

 

気候ミュージアムということで、気候について総合的な展示をしているのだろうと想像していたが、入ってみると思ったのとはちょっと違っていて、気候変動に大きなウェイトが置かれていた。

 

 

メインの展示は「Reise(旅行)」と題されている。地球を旅して回り、地球温暖化によって各地域の生活環境がどのように変わるのかを知るというコンセプトだ。この写真に写っているような白いカプセルが全部で9つあり、それぞれスイス、サルディニア、ニジェール、カメルーン、南極、サモア、アラスカ、ランゲネス島(ドイツ)そしてブレーマーハーフェンを表している。旅人として一つ一つのカプセルに入ると、その地域の気候を五感で体験することができ、そこに住む人が「気候変動で変わってしまった生活」について語りかけて来る。とても良く考えられた展示だ。

 

メインの展示の他には気候変動に関して研究者らが行っている研究について展示されている。また、地球の歴史を体験できるブースなどもなかなか面白かった。

 

World Future Labというインタラクティブコーナー。気候変動から地球環境を守るためにはどうすれば良いか。ゲームをしながら学ぶことができる。

 

個人的に面白かったのは洋上風力パークに関するコーナー。

ブレーマーハーフェンはドイツの洋上風力発電の重要な物流拠点であり、2019年にオフショアターミナル・ブレーマーハーフェン(OTB)の開港を予定している。KlimahausのOffshore Centerでは洋上風力パークの展望やファクトを知ることができる。

 

海底ケーブルの断面図。長さがありすぎて写真が撮れなかったが、ブレードのデザイン説明も面白かた。

 

へえ〜と思ったのは、海中に設置する洋上風車の基礎にはこのようにいろいろなタイプがあって、

 

このようなリング状のものもある。Floating foundation(浮体式基礎)と呼ぶそうだ。水深が深すぎて着底式のタービンが建設できない場所ではこのような基礎を使うらしい。

 

この他にも、天気予報士になり切れる「お天気スタジオ」など、子どもも楽しめる仕掛けがいろいろあり、家族連れで訪れるのに良いミュージアムである。

 

Klimahausからは「このままでは地球がまずいことになる。アクションを起こそう!」というメッセージが強く伝わって来た。ドイツのミュージアムというのは一般的に淡々とした展示が多く、Klimahausはドイツのミュージアムとしてはエモーショナルな部類に入ると思う。そういう意味ではちょっと珍しいなと感じたが、オルタナティブ・ファクトなどというものがまかり通る昨今の世界状況を考えれば、このくらい感情に訴えかけてちょうど良いのかもしれない。

自分も何かしなければならないなあという気持ちにさせられた。気候変動を気にしていないわけではないが、旅行好きで車や飛行機を頻繁に利用するので、後ろめたい気持ちが常にある。しかし、旅は自分の生き甲斐だから、「環境のために旅行しない」のはあまりに辛いのである。そこがいつもジレンマ、、、。

 

 

 

 

まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編の続き。

 

ブレーメンで落下塔を見学し、少し他の観光も楽しんだ後、予定通り、今回の旅のメインの目的地であるブレーマーハフェンへ向かった。ブレーマーハーフェンへ行こうと思ったのは、そこにあるという移民ミュージアム(Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)がどうしても見たかったからである。移民とはいっても、Auswandererというのは、ドイツに入って来た移民のことではない。ドイツから国外へ出て行った人たちを指す。

 

私は移民とか移住というテーマに以前からとても興味がある。なぜかというと、私は北海道移民の子孫で、また、自分自身も地球の裏側へ移住することになったから。そして、ドイツ人夫の一族も移住と深い関係がある。彼らのルーツは現在のポーランドである。夫の4世代前に一族の半分がポーランドを離れ、東ドイツに移住した。残りの半分は米国に移住してアメリカ人となった。東ドイツ移住組のうちの一部は第二次世界大戦後、西へ逃れて西ドイツ市民となった。そしてその西ドイツ組のうち、一人はフィリピン人と結婚し、もう一人は日本人と結婚した(←私の夫)。そして、最近、また別の一人がポーランド人と結婚することになり、ポーランドに引っ越した。

米国移住組は今ではすっかりアメリカ人となり、ドイツ語をまともに話せる人はもう数名しかいないらしい。彼らは今でもドイツの親族にクリスマスカードを送って来る。そして、家系図を作成して、製本したものを一冊送って来た。米国では自分たちのルーツに興味を持って調べる人が結構いるらしく、家系図作りはポピュラーな趣味であるとのことだ。

そんなわけで私にとって移住は身近なテーマで、「人はなぜ移住するのか」「人は移住した先でどのようにアイデンティティを確立または維持するのか」などに興味がある。移民文学などを読むのも大好きだ。だから、是非ともこのミュージアムを訪れたかった。

 

 

結論から言ってしまうが、とても興味深く、とてもよくできたミュージアムである。今まで数多くのミュージアムを見て来たが、間違いなくこれまで見た中で特に気に入ったミュージアムの一つ。

入り口でチケットを買おうとしたら、係員に「あなたのルーツはどこです?」と聞かれた。普段、そのようなことを聞かれることが滅多にないので、一瞬、何のことかと思ったが、出身国を聞いているのだなと気づき、「日本ですよ」と答えた。彼は「私はパレスチナです。もうドイツ人になりましたけれどね」と言った。

 

展示室の造りは凝っている。まず足を踏み入れるのは19世紀後半の乗船待合室である。そして、待合室を出ると、そこは埠頭だ。

 

1830年から1974年までの間にブレーマーハーフェンの港から720万人ものヨーロピアンが旅立った。人々が乗船を待つ様子がほぼ実物大に再現されている。

 

このミュージアムには300年間に渡るドイツ人の海外移住関する情報が集積されている。ドイツ人の主な移住先は、米国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア。キャビネットの引き出しにはブレーマーハフェン港から旅立った人々の情報が一人づつ入っている。また、それぞれの家族のオーラルストーリーを聴くことができる。

 

ずらーっとキャビネットが並んでいる。膨大な情報量。

 

彼らはなぜドイツを後にし、新天地を目指したのか。もちろん、理由は時代ごとに異なる。初期の理由は主に、職と権利を求めてだった。1840年代に飢饉が度重なったことや産業革命で多くの手工業者が職を失ったことなどから、より良い生活を求めて海外移住者が増え続け、1854年には24万人近くのドイツ人がブレーマーハフェンから出港している。1848年には労働者が労働・生活条件の改善を要求し三月革命が起きたことからわかるように、当時は人々の社会的不満も非常に大きかった。

1929年の世界恐慌も大量のドイツ人を海外へ送り出すこととなった。ナチス時代にはユダヤ人を中心に多くの政治難民が生まれ、そして第二次世界大戦後は強制労働者や囚人など、「displaced persons」と呼ばれる人たちがドイツの地を離れた。また、アメリカ的なライフスタイルに憧れ、いわゆるアメリカンドリームの実現を目指して旅立った人たちもいる。

 

キャビネットの並ぶ部屋を出ると、再び埠頭に出た。通路は乗船タラップに続いている。タラップを上がりきってハッとした。そこは船の中なのである。

なるほど。まるで自分も乗船して旅立つかのような気分にさせる展示なのだ。

 

船室の一つ一つが展示室となっている。ブレーマーハーフェン港から移民を運んだ初期の船は「ブレーメン号」という帆船だったが、当時は米国に着くまで6〜12週間もかかり、船内は快適とはとても言えず不衛生で、多くの病人が出た。1877年に蒸気船が登場し、航海は8〜15日に短縮され、いくらか楽になる。

蒸気船「Lahn」の船内の様子。

 

さらに、1929年には旅客船「コロンブス」が航行を開始し、わずか5日でニューヨークへ行けるように。

 

さて、船を降りると(船内の展示を見終わると)、そこは、、、。

入国審査!

1875年までは米国への移住は比較的簡単だったが、当然のことながら入国者が増えるにつれて厳しくなる。コンパートメントに座っている人たちはヘッドフォンで説明を聴いているだけなのだが、まるで審査を待つ人たちのように見えて、なんだかドキドキしてしまう。

 

無事入国(?)した後は新世界のオフィスで米国移民の様々な統計などが見られる。非常に面白くて熱心に見入っていたので、写真を撮るのを忘れてしまった。

展示はニューヨークのGrand Central Terminalを模した部屋に出ることで終わる。そこには米国に辿り着いた人たちのその後が紹介されていた。最初から豊かな生活を享受できた人はもちろんほとんどいない。誰しも初めのうちは非常に苦労したことが見て取れる。

 

ああ、良くできた展示だったな〜と余韻に浸ろうとしたのだが、これで終わりではなかった。展示室を出た途端、目に飛び込んできたのはこんな文字列である。

 

「Wilkommen in Deutschland  ドイツへようこそ」

 

エッ? 今、ドイツを出て行ったのではなかったのか?と一瞬思い、次の瞬間にミュージアムの入り口で係員と交わした会話を思い出した。「あなたのルーツはどこ?」

そう、ドイツから多くの人が海外へ出て行っただけではない。ドイツへも多くの人が入って来たのだ。「移民」にはAuswanderer(流出者)とEinwanderer(流入者)の両方がいる。ここから先の展示は過去300年間にドイツへやって来た人々の歴史。つまり、もう一つの移民物語が始まるのである。

「ドイツはこれまで多くの移民を受け入れて来た。彼らなしに今のドイツはない」というような文面が展示の最初に書かれている。これにはドイツへ移住した者の一人として、ちょっとじ〜んと来てしまった。さらに、ドイツの憲法にあたるGrundgesetz(ドイツ基本法)の第3条3項が。

Niemand darf wegen seines Geschlechtes, seiner Abstammung, seiner Rasse, seiner Sprache, seiner Heimat und Herkunft, seines Glaubens, seiner religiösen oder politischen Anschauungen benachteiligt oder bevorzugt werden. Niemand darf wegen seiner Behinderung benachteiligt werden.  (何人も、その性別、血統、人種、言語、故郷及び門地、信仰、宗教的ないし政治的見解を理由として、不利益を受け、または優遇されてはならない。)

 

さて、ここからはドイツにガストアルバイターと呼ばれる外国人労働者が多く流入した1970年代を彷彿させる空間が演出されている。そしてここでも、ドイツ移民の展示と同じように、ドイツにやって来たさまざまなルーツを持つ移民のライフストーリーを見ることができる。ドイツにおける移民の歴史は古くはスペインでの迫害から逃れてユダヤ人がドイツへやって来たことに遡る。その後はユグノー教徒の受け入れ、近隣諸国からのガストアルバイターの受け入れ、そして定住したガストアルバイターの親族の流入や様々な紛争地からの難民受け入れなど、非常に多様だ。

 

「外国人局」を模した展示室のファイルキャビネット。日本人を含めた外国人にとって外国人局に行くというのは楽しいことではない。なにしろ、滞在許可がかかっているのだ。ここでもまたドキドキしてしまった。

 

ドイツ国籍を取得すると貰える証書。

 

移民に関する様々な統計の他、ムスリム女性のスカーフ着用や二重国籍など移民にまつわる社会議論に関する情報が展示されている。ドイツは基本的には二重国籍を認めていないが、例外もあり、事実上の二重国籍状態になっている人の数は現在200〜450万人と推定されているそうだ

 

このミュージアムでは、移民を交えたディスカッションなどの催しを行っており、移民に関するアンケートに答えるコーナーや報道番組を制作するスタジオもある。さらには、海外へ移住したドイツ人先祖について情報を検索できるデータバンクが公開されている。大変内容が充実していて素晴らしい。

 

このミュージアムを見学して思ったことは、「人は移動する」ということだ。生まれ育った国を離れる人はマジョリティではないが、そこの暮らしにどうしても希望が持てなければ、人は他に生活の場所を見つけようとする。そして、自らの意思で移住した人は、「移住して良かった」と思えるように努力するものだ。移民問題はもともとその社会のメンバーである人たち、つまり受け入れる側の視点から議論されることが多いが、生まれ育った国にずっと住んでいる人達も、ずっとそこにいることは当たり前のことではない。彼らも社会状況によっては移住しなければならなくなるかもしれない。つまり、今まで移住しなければならない理由がなかったというだけのことで、誰でも移民になり得るということ。

 

いろんなことを考えさせられた。行って良かったと強く思えるミュージアムである。

 

 

 

 

5月の「まにあっくドイツ観光 テューリンゲン編」に続き、今度は同じく3泊4日で「まにあっくドイツ観光 北ドイツ編」を実行することにした。今回も一人旅である。最近、「どこへでも運転して行ける自分」になろうとトレーニング中なのだ。幸い、夫が運転を厭わないタイプなので、これまで国内外の様々な場所へ連れて行って貰ったが、これだけ旅好きを自称する自分が人を頼らないと行きたい場所に行けないという状態はどうなのだ?と思ったからである。

さて、今回はこれまでほとんど訪れたことのない北西ドイツに的を絞った。というのは、ブレーマーハフェンに是非とも見たいものがあったのだ。しかし、我が家からブレーマーハフェンまでは400kmも離れている。長距離ドライブに慣れていない自分にはけっこうな距離である。どこか途中に立ち寄れる面白い場所はないものかと検索したところ、ブレーマーハーフェンの手前に位置するブレーメンに大変マニアックなものがあることが判明。

 

それは、ブレーメン大学応用宇宙技術・微小重力センター(ZARM)の微小重力実験設備、Fallturm(落下塔)

欧州唯一の落下塔であり、2ヶ月に一度、一般の人も見学が可能だという情報を見つけたのだ。そして、直近の見学日がなんとブレーマーハーフェンへ行く日の前日。これは絶対行くしかない!早速、問い合わせのメールを送る。直前の申し込みなのでもう定員一杯かもしれないとドキドキしたが、すぐに返信があり、見学できるとのこと。大変ラッキーだ。

見学は17:30からということだったので、昼頃に家を出発した。

 

 

往路は土砂降りだった。しかも、アウトバーンのあちこちが工事中で思ったよりもずっと長くかかり、ヘトヘトに。一体何故こんな思いをしてまで落下塔などというものを見に行こうとしているのかと思わないでもなかったが、ようやく現地に辿り着いたと思ったら、突然、雲が切れ始め、あっという間に青空が広がった。そして目の前には、、、、。

 

 

これが落下塔、Fallturmだ!見た瞬間に疲れが吹っ飛んでしまった。この白い塔は地元の人々にはBremer Spagel(ブレーメンの白アスパラ)の愛称で呼ばれているそうだ。

 

見学時間はたっぷり75分間。研究者の女性が案内してくれた。まず、塔を見る前に会議室に通され、そこでまず無重力状態についての説明を受ける。わかりやすく説明してくれるので、物理の専門知識がなくても大丈夫。いくつか簡単な実験をしながら無重力状態とはどういうことかについて学んだのち、落下塔の仕組みを説明してもらった。

ZARMの落下塔は1990年に建設された。高さは146m(実際の落下距離は110m)で、空気を抜いて真空にした塔内で落下カプセルを自由落下させると、地面に到達するまでの4.74秒間、カプセル内は微小重力状態(ほぼ無重力)となる。落下カプセルの中に実験物を入れて塔内を落下させることで、様々な無重力実験を行うことができる。さらにZARMは2004年、この落下塔にカタパルト装置を取り付け、カプセルを塔の下から一旦てっぺんまで打ち上げてまた落とすことにより微小重力状態を往復9秒間にまで延長した。

この落下塔を利用して国内外の研究チームが様々な分野の基礎研究を行っている。1日に最大3回の実験が可能で、年間の実験数は400〜450件。先にも述べたように欧州では唯一の施設のため、向こう1年間はすでに予約で一杯だとのこと。

 

一通りの説明の後、塔の内部を見せてもらう。

塔を囲むスペースに置かれた落下カプセル。大きい方は2mほど。この中に実験物を入れる。物理学だけでなく、化学や生物学などいろいろな分野の実験が無重力下で行われるのだ。

 

落下塔の下部。

 

これから中に入るところ。

 

円柱状のカタパルト装置でカプセルを上に開いた穴を通して塔の上まで飛ばす。

 

このワイヤーにぶら下がった状態でカプセルが落ちてくる。

 

この円盤部分に落下カプセルを取り付ける(今は取り外した状態)。落ちてきたカプセルが地面に到達したときに衝撃で破損して実験物がダメージを受けるのを回避するため、カプセル下部にはこちらのリンクの写真でわかるように円錐状のキャップを取り付ける。着地時に、床に置かれた発泡スチロールビーズの入った容器にキャップ先端が突っ込む仕組み。着地とともにビーズが飛び散ってカプセルを破損から守る。

 

床に散らばったビーズ。

 

ZARMが一般の人の落下塔見学を受け付けているのは、人々に基礎研究に対する興味を持ってもらい理解を得るためだけでなく、研究者の卵を育てる意図もある。この施設では政府の助成を受けた高校生の研究グループも独自の研究を行っているそうだ。

 

落下塔のてっぺんにはガラス張りのパノラマラウンジがあり、借り切ってパーティなどに使用できる。ブレーメンを見渡せるこの絶景ラウンジで、結婚式を挙げることもできる。

 

わずか8ユーロで滅多に見られないものを見れて嬉しかった。今後、無重力実験について耳にすることがあったら、この落下塔をすぐに思い出すだろう。

 

 

 

昨日の記事では、ザクセン州東部にあるジオパーク、Findlingspark Nochtenを訪れたことについて書いた。

ジオパークを見学した後、せっかく家から2時間以上もかけてオーバーラウジッツ地方へ来たのだから、ついでに他のものも見て帰ろうと、ジオパークの売店に置いてある観光案内チラシを漁っていて、面白そうなものを発見した。

 

Forum Konrad-Wachsmann-Haus

 

コンラート・ヴァックスマンはユダヤ人の建築家で、モダニズム木造建築のパイオニアである。日本では、英語読みのコンラッド・ワックスマンとして知られているようだ。

 

私の住むブランデンブルク州カプート村には米国に亡命する前の数年間、アルベルト・アインシュタインが夏を過ごした別荘、Einsteinhaus Caputhがあるが、その別荘はヴァックスマンが手がけたものだ。シンプルで機能的なデザインが印象的である。そのヴァックスマンが1927年に設計した住宅がオーバーラウジッツ地方のNieskyという町にあり、資料館として公開されているというのだ。

Nieskyという町は今までまったく聞いたことがなかった。しかし、ジオパークからおよそ25kmの地点とのことなので、行ってみることにした。

 

 

ヴァックスマンハウスの入り口の看板は地味で、うっかりすると見落としてしまいそうだ。

 

資料館入り口。アインシュタインの別荘と似た、シンプルなデザインである。

 

3階建ての内部の1階及び2階が展示室として公開されている。

 

展示内容はとても興味深い。コンラート・ヴァックスマンはフランクフルト・アン・デル・オーダー出身のユダヤ系ドイツ人で、木工職人の時期を経て建築家になった。大学を卒業後、Nieskyの木造建築会社、Christoph & Unmackに就職する。Christoph & Unmack社は設立当初、軍事用のバラックを建設していたが、その後一般住宅を手がけるようになり、Niesky市内に多くのモデルハウスを建てた。ワイマール時代には木造家屋が新しいスタイルの住宅として注目されたという。現在、資料館となっているこの家はヴァックスマンがChristoph & Unmack社の重役のために設計したもの。

その後同社を退社して独立したヴァクスマンはモダニズム木造建築のパイオニアとして名を馳せるようになるが、1941年、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アインシュタインの助けを借りて米国に亡命。米国で、同じくユダヤ人亡命者でバウハウスの初代校長だったヴァルター・グロピウスと共にPackaged House Systemと呼ばれたパネルシステムの組み立て住宅のコンポーネント製造工場を創立した。このシステムは専門技術を持たない労働者5人が9時間で組み立てることができるというもので、当時の建築業界に大きなイノベーションをもたらした。

 

資料館に展示されているヴァックスマンとアインシュタインのツーショット。カプートのアインシュタインの家のテラスで撮影されたとみられる。

 

これはドイツの伝統的な木造建築である木組みの家の模型。ドイツの建築物としては一般にこちらの方がよく知られているのではないだろうか。

 

そしてこれがヴァックスマンのパネルシステム。

 

3階の階段踊り場から2階を見下ろしたところ。

 

第二次世界大戦後は石造りの家が一般的となり、木造建築はしばらく隅に追いやられていたが、近年、エコロジーの観点から再び見直されている。

 

 

この資料館を見ただけでもNieskyへ来た甲斐があったのだが、話はそこで終わらなかった。Nieskyにはワイマール時代に建てられた木造建築が100棟以上も残っているという。当時、Nieskyはモダニズム建築のモデルシティとされていたそうだ

聞いたこともなかったポーランドとの国境近くのこの小さな町が 、そんな面白い町だったとは!街並みを見ずに帰るわけにはいかない。町の中心部にはNiesky Museumという博物館もあるのだが、こちらは残念ながらもう閉まっていたので、ヴァックスマンハウスでコピーして貰ったマップを片手にモデルハウスを見て回ることにする。

 

おおー!これが戦前のモデルハウスだったのか。かっこいい。

 

なかなかの豪邸である。これらの家には現在も人が住んでいるのだ。

 

教会も木造。

 


家のデザインは一つ一つ違い、ディテールが凝っている。

なんという素敵な窓。

 

 

 

木造住宅がずらあ〜っと並ぶ通り。こんな面白いものが見られるとは期待していなかったので大興奮であった。一枚一枚写真を撮っているとキリがないのでカメラに収めるのはこのくらいにしておいたが、建物を見て歩くのが楽しくてたまらない。

 

気ままなドライブ旅行の楽しみは、思いもよらなかったものに遭遇するチャンスがあることだ。常にインターネットを駆使して面白そうなスポットを探している私だが、ここは検索で見つけることができなかった。掘り出し物を見つけた気分で今週末は大満足である。

 

 

まにあっくドイツ観光、今週末はザクセン州東部、オーバーラウジッツ地方にあるFindlingspark Nochtenへ行って来た。

Findlingsparkとは何か。日本語に訳すと「迷子石公園」となる。迷子石とはなんぞやと思う人もいるかもしれない。実は私も数年前まで、「迷子石」という言葉もドイツ語の「Findling」も知らなかった。

 

まいごいし【迷子石 erratics】

捨子石(すてごいし)ともいう。氷河によって運搬された岩石塊が,氷河の溶けたあとにとり残されたもの。ヨーロッパやアメリカでは氷河時代に運ばれた岩石塊が数百kmも離れた所に見られる。特定の地域にしか産しない岩石の迷子石を追跡調査し,その分布状況から氷河時代の氷床の拡大方向が推察できる。【村井 勇】世界大百科事典第2版

 

そう、ドイツでは氷河時代にスカンジナビア半島から運ばれて来た岩石があちこちに見られるのだ。特に旧東ドイツの褐炭採掘が盛んな地域では、地面を掘り起こすと迷子石が大量に出て来る。小さなものは無数にあるが、巨石も少なくない。ドイツで見つかった迷子石で最大のものは大きさ200㎥、重さ550トンもある。地質学研究において迷子石は重要なもので、大きさが10㎥以上あるものはゲオトープとして保護することになっているが、大きな塊がゴロゴロ出て来るので、置き場に困り、邪魔といえば邪魔だ。そこで近頃は、その土地で産出された迷子石を利用したジオパークが作られ始めている。今日訪れたFindlingspark Nochtenは、ドイツ最大の迷子石公園だ。

コットブス市とゲルリッツ市の中間地点にあり、ポーランドとの国境が近い。

 

なかなか壮観である。2003年に開園した広さ20ヘクタールのこのジオパークには現在、およそ7000個の迷子石が配置されている。このような公園を作った背景には、褐炭採掘で荒れた土地を再生し環境を守ろうという意図や、ドイツ統一後に産業が廃れて人口が減少したこの地域を観光地にして活性化しようという目的もある。

 

公園の西側にあるこの丘は迷子石が流れて来たスカンジナビア半島をシンボライズしている。芝生の部分は海。

 

この図のように、スカンジナビアを覆っていた氷河がヨーロッパ大陸北部へと移動したときに一緒にもたらされ大陸のあちこちに置き去りにされたのが迷子石というわけである。

 

17億7000万年前の花崗岩。

 

斑岩。写真では大きさがよくわからないが、幅は30cmくらい。火山岩は地表に放出されたときに急激に冷え、ヒビが入って細かく砕けることが多いので、大きな塊は珍しい。(と、家に帰って来てから岩石の本で読んだ)

 

ミグマタイト。特殊な岩石らしいが、よくわからない。岩石に詳しい弟を連れて来られればよかったなあ。

 

丘のてっぺん。これは迷子石アート。地面のパイプは氷河が流れたルートを示している。

 

公園内には様々な植物が植えられ、季節ごとに違った表情が楽しめるようだが、たまたま今の季節はあまり花が咲いていなかった。

 

 

公園のすぐ向こうは褐炭発電所。なんだかすごい景色だ。

 

売店に売っていた石。私は宝石を身につけることにはほとんど興味がないが、石を眺めるのは好きである。ここにはフリントもあったので、ふとリューゲン島で見た広大なフリントフィールドを思い出した。それについても別の機会に書こうと思う。

 

このジオパークは現在のところはまだ観光客もそれほど多くはなく、静かに散策することができる。東ドイツの良いところは、観光地がまだ飽和しておらず、のんびりと見て回れることだ。また、10年後、20年後にはどう発展しているかなと想像する楽しみもある。このジオパークもまだ完成形ではない。今後より充実して行くだろう。

 

エコツーリズムも楽しいが、ジオツーリズムも興味深い。世界のいろんなジオパークを訪れてみたい。ジオパークに関心のある方は、こちらの記事も是非読んでみてください。

 

 

 

先週の日曜日はまさに行楽日和だった。ようやく屋外の観光スポットを思う存分楽しめる季節が到来した。そこで、今回はベルリン中心部から北東へ約70kmの地点にあるニーダーフィノウ船舶昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)へ行って来た。

ニーダーフィノウ船舶昇降機は、オーデル・ハーフェル運河に建設された高架エレベーターである。1934年に建設され、現在も年間約2万隻の船が通過する旧船舶昇降機と、そのすぐ横に建設中の新船舶昇降機の二つがある

手前の構造物が旧船舶昇降機で、向こうに見えるのが新船舶昇降機。見学できるのは稼働中の旧昇降機だが、巨大過ぎて、近くからでは全体像を撮影できなかった。運河側から見ると、こんな感じ

昇降機の上部に展望台が設けられており、船が乗り降りするところを眺めることができる。

展望台から運河を見下ろす。

船が昇降機に乗り込んだ。まもなくエレベーターが動き出し、船台が上がって来る。

上に到着。

ゲートが開いて、船が向こうに出て行く。

これは反対側から撮った写真。旧昇降機の高さは地上52メートルで、吊り上げ高さは36メートルである。現在も動いている中ではドイツ最古だそう。この巨大な船舶昇降機が船を乗せて上り下りする様子は圧倒的で、眺めていると飽きないのだが、いつまでも見ていてもキリがないので、降りてビジターセンターを見学することにした。

建設中の新ニーダーフィノウ船舶昇降機についての展示と、ドイツにおける水上交通の説明がビジターセンターの主な内容だ。

ドイツにおいては内陸水運は非常に重要な役割を果たしている。ドイツ国内の内陸水路の長さはおよそ7400kmにも及び、EU内の内陸水路の1/4以上を占める。水路による輸送はトラックや鉄道による輸送に比べ消費エネルギー量がずっと少なく済み、騒音もほとんどない。運ぶ貨物に適した船に最初から貨物を積み込むので、途中で積み替えをする必要がないというメリットもある。エコな輸送手段として、その重要性が広く認識されている。

旧ニーダーフィノウ船舶昇降機は建設から80年近くが経過しているとは思えないほど立派に見えるが、それなりに老朽化しており、また、キャパシティの面でも不十分となった。産業記念碑に指定されているため、工事で拡充することができない。そのため、現在、新しい昇降機が建設されているというわけである。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

船舶昇降技術にもいろいろな種類があるようだ。一番上のタイプは大容量の水を汲み出したり汲み入れたりして水位を調節し、船を上げ下げするのでエネルギー消費量が高い。2番目のタイプは何段階かに分けて昇降する仕組み。3番目は斜面を引っ張り上げるタイプ。ニーダーフィノウの昇降機は新旧とも4つめのタイプで、少量の水の入った船台を丸ごと引っ張り上げる。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

こういう要領。

新昇降機の注水済み船台の重量は9800トンにもなるので(旧昇降機では4290トン)、故障時に船台が船舶もろとも墜落しないよう、このようなボルトで船台を緊急ロックして固定する。

ニーダーフィノウ船舶昇降機周辺はバリアフリーに設計されており、展望台へはスロープで上がるので、車椅子利用者も楽に見学できる。遊覧船に乗って昇降機を実際に上るツアーもあり、楽しそうだった。

また、周辺は自然が美しく、近くに動物園、Zoo Eberswaldeもあるので、小さな子どもを連れてのレジャーにもぴったりだ。

 

ミュージアムおたくの私は、周辺にあるミュージアムはしらみつぶしに行くことにしているのだが、首都圏に住んでいるため数が多く、制覇にはまだほど遠い。

今日はベルリン、シュテーグリッツ地区にあるDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)へ行ってみた。このミュージアムはJohann-August-Zeune-Schuleという盲学校の敷地内にある。会館時間は毎週水曜午後(15-18時)と第一日曜11時のガイドツアーのみで、防災上、一度に10人までしか見学できない。

 

 

盲学校の敷地に入ると、ちょうど下校時間だったようで杖を持った学生が保護者に付き添われて出て来た。保護者の方に「何かお探しですか?」と聞かれたので、「ミュージアムを見学したいのですが」と答えると、「こちらですよ」と赤レンガの別棟に案内してくれた。

 

入り口はこのように目立たない。2階(日本でいう3階)がミュージアムである。

 

階段を上がってドアを開け、フロアに入ったが、受付が見当たらない。キョロキョロしていると、視覚障害者と思われる男性が事務室から出て来て、「見学にいらっしゃったのですか?どうぞ見て行ってください。何か質問があれば、遠慮なく声をかけてくださいね。ご説明しますよ」と言ってくれた。入館は無料(寄付ベース)だとのこと。さっそく一人で展示を見ることにした。

 

このDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)の歴史は思いのほか、長い。1891年に盲人教育の歴史的資料館として、また最新の教材の発表及びテストのための場として設立された。当時、この地区にはプロイセン王国の王立盲人施設があったが、教育の内容は点字の学習と手作業の習得という限定的なものだった。ここで学んだユダヤ人女性、ベティ・ヒルシュが後に教師となり、戦争で失明した人々の社会復帰のための学校を開設し、ドイツにおいて視覚障害者が様々な知的職業に就く道を拓いたとのことである。

 

展示の内容は主に点字の発達とその使われ方、視覚障害者のコミュニケーション手段についてだった。現在、ドイツで、そして世界的に広く使用されている点字はブライユ式点字だが、これは横2つ縦3つの合計6つの点の配置で文字を表すものだ。

 

釘のようなものを穴に差し込み点字を打つ道具。

 

古い点字タイプライター。

 

現在、ドイツには8200万人の総人口に対し、およそ110万人の弱視者、約16.5万人の全盲の人がいる。

 

比較的早い時期から始まったように見えるドイツの視覚障害者教育だが、ナチスの時代には視覚障害者は酷い差別にさらされた。Rassenkunde(人種学)という授業で、目の見えない子ども達は以下のような頭部の模型を手で触れることで人種の違いを学んだ。

 

しかし、この授業の目的は異なる人種が存在することを知るだけではなく、視覚障害者は遺伝的に「劣って」おり、子孫を作らないように不妊手術を受けなければならないと納得させるためのものでもあったという。盲学校の生徒達は学校の敷地内ではヒトラーユーゲントの制服を着用することが許されたが、敷地内に出ることはできず、ヒトラーユーゲントに実際に参加することは禁じられていた。(ドイツで博物館を訪れるということは、ドイツの過去を学ぶということでもあり、どんなテーマについての展示を見ていてもほぼ必ず「ナチスの時代には」が出て来る。避けて通ることはできないのだと毎回、感じる)

 

展示物を眺めていたら、ミュージアムの人が室内に入って来た。

「もうすぐガイドツアーが始まりますが、参加されますか?」

今日はツアーはないと思っていたのだが、学生のグループがツアーに申し込んでいるとのこと。喜んで飛び入り参加させてもらうことにした。ガイドさんは先ほどの視覚障害者の方だった。

 

このツアーはとても面白かった!

 

ガイドさんにブライユ式点字について説明してもらい、実際に点字を打ってみた。

展示室はインタラクティブで、いろいろな体験ができるようになっている。右の机では点字盤で点字を打つ練習ができる。

2枚になった板の間に紙を挟み、針のような道具で枠の中に点を打っていく。注意しなければならないのは、アルファベット文字に当たる点を反転させて(つまり裏返して)打たなければならないことだ。紙が出っ張った方が表面になるので、打ち終わった後に紙をひっくり返すのである。私は自分のフルネームを打ったのだが、新しい文字を習うような感じでなんとなく楽しく、つい夢中になってしまった。

 

次に、点字タイプライターも打たせてもらった。点字盤では一つ一つ穴を打ち込んでいくが、タイプライターの場合、一文字ごとに複数のキーを同時に押すので、なかなか難しい。

 

これは、Mensch ärgere dich nichtという名前のドイツの定番ボードゲームの点字バージョン。目隠しをしてやってみる。難しくてすぐにギブアップ。

 

点字つきのスクラブルゲームやその他のゲーム。

 

見学者の一人が「点字の本を読むのって、時間がかかるのですよね?1ページをどのくらいの速度で読むことができるのですか?」と質問すると、ガイドさんは「競争してみましょうか?」と笑って、壁から大きな点字の本を取り出し、別の棚からハリー・ポッターの1巻(普通の本)を出して質問者に手渡した。

「あなたはこれを、私は点字バージョンを段落ごとに交代で読みましょう」

最初にガイドさんが両手でページを触りながら読み始めたのだが、速いっ!!!質問者の番になると、彼も負けじと速読みしていた。

 

事務室では点字ディスプレイつきのガイドさんのパソコンも見せてもらった。

 

ここまででもたっぷり1時間の説明を受けていたのだが、ガイドさんはノリノリで、「まだまだいろんなグッズがありますよ〜」と、生活の中で視覚障害者が使用する様々なものを見せてくれた。色を識別する道具やコインやお札の種類を識別するプラスチックのカード、視覚障害者用の時計、便利なスマホアプリなど。ガイドさんのお気に入りアプリは、最新映画の音声ガイドがダウンロードできるGRETA。スマホとイヤフォンがあれば、晴眼者の友達や家族と映画館で一緒に最新映画を楽しむことができる。いろいろなものがあるのだなと思った。

とはいえ、視覚障害者が得られる情報はやはり限られている。現在、ドイツ全国には8700の図書館があるが、点字図書館はわずか8箇所だけである。毎年フランクフルトで開催される本の見本市で出品される点字の本もわずか500タイトルだという。また、家庭用電化製品はボタンで操作するのではなく、ディスプレーのタッチメニューで操作するものが増えて来ており、視覚障害者にとっては不便だそうだ。

そして意外なことに、視覚障害者のうち、点字が読める人はわずか2割だという。生まれつき、または幼少時に見えなくなった人は点字を習得するが、高齢になってから失明した場合、点字を覚えるのは困難で、指先の感覚も子どものように鋭くない。

 

このように興味深いお話がいろいろ聞け、また実際に体験もできて満足した。大学生たちも「すごく面白かった!」と喜んでいた。

 

目の不自由な人と聞くと、いつも思い出すことがある。私がケルン大学で勉強していた頃、インドネシア語のクラスにMさんという視覚障害者の学生がいて、いつも点字タイプライターでノートを取っていた。授業のときに一度だけ、短いお喋りをしたことがあった。

あるとき、キャンパスを歩いていると、遠目にMさんが見えたので、「あ、Mさんだ!」と思い、駆け寄って話しかけようとしたのだが、次の瞬間に「話しかけても、Mさんは私が誰だかわからないにちがいない」と思って声をかけるのを躊躇してしまった。「インドネシア語のクラスで一緒だ」と言っても私の顔を見たことがないのだし、声も覚えていないのではないか。声をかけたら戸惑ってしまうのではないかと思ってしまったのだ。それで声をかけられなかったのだが、そのときのことがずっと引っかかっていて、「なぜ、あのとき声をかけなかったんだろう。クラスメイトなのに」と心残りである。

 

今日は少し、視覚障害者の人たちの日常について知ることができてよかった。

 

マニアックな観光スポットを発掘する旅、エアフルト編ではダークツーリズム・スポットの紹介が続いたが、〆はゆるいテーマで。最後に訪れたのは、世界最古のサボテン農園、Kakteen Haageである。

この農園はベルリン在住のフォトグラファー、豊田裕氏にお薦め頂いた。豊田さんはご興味の幅が広く、しかも掘り下げ方が凄い方なのだ。エアフルトに行くと話したら、「すごいサボテン農園があるから、行ってみたら?ドイツ最古で、品揃えも随一だよ」とアドバイスをくださった。そんなマニアックな農園があると聞いたら、行くしかない。

「まわりには何もないよ」とは聞いていたが、確かに中心部からはちょっと外れたところにある。今回は車だったのでよかった。

 

 

意外と地味。

10時開店なのだが、30分も早く着いてしまった。朝ごはんを食べていなかったので、まず何か食べてからと思ったけれど、まわりにはパン屋も見当たらず。しかたないので、そっと中を覗いてみた。

 

大きな温室が6棟ほど連なっているが、やっぱり地味な感じ。手前の温室のドアが開いていて、中に社員と思われるお兄さんがサボテンの手入れをしているのが見えた。

「すみません。開店は10時からですよね?」と聞くと、「そうですが、もう入っていただいても構いませんよ」と言ってくださった。

 

中は、期待通り、サボテンがずらぁ〜〜〜〜〜〜っ。こういう温室が6つも並んでいる。

 

この農園、Kakteen Haageの創業は、遡ること1685年!なんと300年以上も前である。180年ほど前からはサボテン栽培に特化している。サボテンは16世紀にスペインの航海者によってドイツにもたらされたとされる。Kakteen Haageが扱っているサボテンは3500種以上というから凄まじい。ドイツ国内はもちろんのこと、世界中からバイヤーが買い付けに来るらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これもサボテン!?

 

こんな大きな花を咲かせるサボテンもあるのだなあ。

 

Kakteen Haageはサボテンの栽培・販売を行っているだけでなく、近郊にサボテンミュージアムを持つ。また、オンラインのサボテンフォーラムでサボテンの世話の仕方などについて質問することもできる。オンラインショップでは、サボテンの種や苗はもちろん、サボテン関連書、サボテンアートグッズなどを取り揃えている。まさに、サボテンのことならKakteen Haageに聞けという感じだ。見るだけでなく、サボテンを食べたい!という人は、サボテン・ディナーも予約できる。すごいね。

 

私も見ているうちに、いくつかサボテンを買って帰りたくなったが、トゲトゲしたものを長距離運ぶと厄介なことになりかねないので、残念だが、諦めることにした。

来る2017年5月13日(土)は、Kakteen Haageのオープンデーで、サボテンソーセージも食べられる。もうエアフルトから家に帰って来てしまったので、試食できなくて残念だ。

 

しかし、エアフルトまで行けなくても、サボテンの世界を楽しむことはできる。今月14 – 17日までベルリンの植物園では、サボテン祭りが開催される。こちらでもサボテンが食べられるらしいよ。

 

 

 

エアフルトでは、ユダヤ教徒の歴史を知ることができるシナゴーグや、シュタージの反対分子収容所を見学し、人権について考えさせられた。エアフルトに来る前に滞在したワイマールの郊外にはナチスが建設したブーヘンヴァルト強制収容所跡があり、そちらへも足を延ばしてみた。90分間のガイドツアーに参加したのだが、詳しい説明を聞くことができてとても為になった。私は過去にもベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所跡を見学したことがあるのだが、収容所の造りなどは互いに似通っている。また、両ミュージアムともブックショップが非常に充実していて、ホロコーストを中心とした関連文献が豊富に並べられている。

ダークツーリズム・スポットはこれまでにもいろいろ訪れているけれど、ナチスの強制収容所はあまりにも重く、辛すぎてとても写真を撮る気になれなかった。ブーヘンヴァルト強制収容所については、日本語でもたくさん情報があることと思うので、ここでは詳しくレポートしないが、次の観光スポットを紹介する前に一つだけ触れておくことがある。それは、ブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で使用されていた火葬炉は、エアフルトの会社、Topf & Söhneが作っていたということである。そして、この会社の跡地は、現在、資料館になっているのだ。

 

Topf & Söhne社のかつての敷地はエアフルトの駅のすぐ近く、線路沿いにある。

 

 

工場は解体され、現在残っているのは、当時オフィスだったこの建物のみ。この建物が資料館となっている。

 

Topf & Söhne社は、1878年に創立された家族企業で、創業時には主に産業用の燃焼炉を製造していた。第一次世界大戦中から軍需産業分野へ手を広げる。二代目のLudwig TopfとErnst Wolfgang Topf兄弟が経営トップに立ってからは、ナチスから強制収容所の火葬炉製造を受注するようになる。最初は近郊のブーヘンヴァルト強制収容所及びダッハウ強制収容所に納品していたが、後にはその他の強制収容所の設備も担当するようになり、最終的にはアウシュヴィッツ強制収容所の大規模な火葬炉やガス室の換気扇装置なども製造した。

 

ミュージアム内には受注書を始めとする多くの社内文書が展示されている。

 

この図面台で火葬炉が設計された。

 

この図のような火葬炉の実物をブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で見た。過酷な強制労働と劣悪な生活環境により命を落とした被収容者の遺体を処理するため、収容所の敷地に火葬場が設けられたが、遺体を焼く作業も被収容者が行っていたという。

 

アウシュヴィッツ強制収容所には第1〜第4火葬場までの4つの火葬場が建設された。第二火葬場では30分間に60体の遺体を同時に焼くことができた。つまり、24時間体制で炉を稼働させたと仮定すると、第2火葬場だけで、単純計算で1日2800体もの遺体を焼いたことになる。アウシュヴィッツでは合計で少なくとも110万人が命を落としたとされる。

 

 

灰をを入れる容器。

 

敗戦後、Topf兄弟は「納品した火葬炉が何に使われていたのか、知らなかった」と主張。軍事裁判中、Ludwig Topfは無罪を訴える遺書を残して服毒自殺した。Ernst Wolfgang Topfは証拠不十分として裁判が打ち切りになった後、Ludwigの死により手にした保険金の30万ライヒスマルクを持って西ドイツに逃亡。ヴィースバーデンでゴミの焼却事業を始めたが、1963年に会社は倒産 。1979年、74歳で亡くなっている。

 

Topf & Söhne社の敷地は2003年に記念物に指定され、2011年、ミュージアムとしてオープンした。同社に関する常設展示の他、私が行ったときには「キンダートランスポート」に関する特別展示をやっていた。「キンダートランスポート」とは、英国籍のドイツ系ユダヤ人、ニコラス・ウィントンがユダヤ人の子ども達をイギリスに疎開させ、強制収容所へ送られることから救った活動だ。

 

ミュージアム前には、解体前のTopf & Söhne社の工場モデルが設置されている。左側に見える棒状のものは敷地の横の線路を表している。

 

同社の火葬炉やガス室設備が送られていったそれぞれの強制収容所までの距離が印されている。