かねてから行きたいと思っていたドイツ南東の町、バウツェン(Bautzen)へ行って来た。そこにあるソルブ博物館(Sorbisches Museum Bautzen)を訪れるためだ。ドイツで今もなお独自の文化を保つスラブ系の少数民族、ソルブ人に関する博物館である。

ソルブ人の存在は以前住んでいたドイツ西部から現在の住まいブランデンブルク州に引っ越して来てから初めて知った。ベルリンから電車に乗って南東方面へ移動すると、いつからか駅名がドイツ語と見慣れない別の言語の二言語表示になるのに気づいた。ポーランドとの国境に近い地域なのでポーランド語を併記しているのだろうか?と思ったら、その見慣れない言語はソルブ語だという。ブランデンブルク州とその南のザクセン州にまたがってラウジッツと呼ばれる地域があり、その地域にはドイツ人とは言語や文化を異にする少数民族、ソルブ人が生活しているそうだ

ベルリンから南東100kmほどのところにシュプレーヴァルト(Spreewald)という湿地帯があるが、景観がとても美しく、首都から気軽に行ける観光地としてとても人気である。シュプレーヴァルトにはソルブ人の集落があり、Lehdeの野外博物館Freilandmuseum Lehdeをはじめとする民族学博物館でソルブ人の伝統文化を知ることができる。Lehdeの博物館へは10年ほど前に初めて訪れ、特徴的な民族衣装やカラフルで繊細な模様付けをしたイースターエッグなどの手工芸品が素晴らしく魅力的で気に入った。シュプレーヴァルトのソルブ文化については紹介記事や動画がたくさんあるので、今回はバウツェンのソルブ博物館について書きたい。

ざっくりと説明すると、ソルブ人というのは6世紀から10世紀にかけてカルパチア山脈の北方から現在のドイツ東部へ移動して来て定住したスラブ系民族の末裔である。当時、20ほどの異なる部族が入って来たとされ、現在使われている「ソルブ人(Sorben)」という呼称はそのうちの一つのSurbi族に由来すると考えられている。スラブ系民族は40,000km2ほどの領域に定住して農耕や牧畜、貿易を営んでいたが、12世紀以降の東方植民により西部から大量のドイツ人が移住して来て以来、少数派となった彼らは次第にドイツ文化の中に吸収されて行った。スラブ系民族の居住範囲がどんどん狭まり人口が減っていく中、ラウジッツ地方では彼らの独自文化が比較的良く維持された。長い歴史の中で差別や断続的な弾圧を経験しながらも「ソルブ人」としてのアイデンティティを保ち続けている人々がいる。ラウジッツ地方はブランデンブルク州に属する下ラウジッツ(Niederlausitz)とザクセン州に属する上ラウジッツ(Oberlausitz)に分かれ、同じソルブ人でも言語が異なるそうだ。下ラウジッツで話されるソルブ語(下ソルブ語)はポーランド語に近く、上ラウジッツのソルブ語である上ソルブ語はチェコ語に近い。上で紹介したシュプレーヴァルトでは下ラウジッツのソルブ文化に触れることができるが、それとはまた異なるという上ラウジッツのソルブ文化にも興味があった。今回訪れたザクセン州南部のバウツェンは上ラウジッツのソルブ文化の中心地である。

バウツェンは「塔の町」というキャッチフレーズを持ち、中世の市壁が残る美しい町。観光地としても魅力的だけれど、ここでは町の紹介は飛ばしてソルブ博物館へ直行しよう。

またしても外観の写真を撮るのを忘れてしまった(博物館へ行くときには常に前のめり、、、)。

受付の女性はご本人が言うには「純粋なソルブ人」だそうで、母語はソルブ語、ドイツ語は第二言語として話しているとのこと。ソルブ人の民族代表機関であるラウジッツ・ソルブ人同盟(Domowina)の発表によると、現在、ソルブ語を話す人はドイツに約6万人いるとされる。もちろん「話す」の程度は人により様々だろうけれど、受付の方のように「母語はソルブ語で、家では毎日ソルブ語を話しています」というほどのレベルでソルブ語を運用している人もいると初めて知り、少し驚いた。

ソルブ博物館は3階建てのなかなか大きな博物館である。全体として、民族学的な内容よりもドイツにおけるソルブ人の歴史に重点を置いた展示だった。ドイツ人の東方入植以来、支配者が移り変わる中、ソルブ人がどのようにして民族のアイデンティを形成しそれを守って来たか、その流れがわかるようになっている。

 

ソルブ人の文化として最も目につきやすいのは特徴的な民族衣装だ。現在は日常着ではなくお祭りなど特別な場で着用されるソルブの民族衣装は東欧を感じさせる色合いやデザインで、繊細な魅力に富んでいる。そして、同じソルブ人の民族衣装でも地域によってかなりの違いがあるようだ。

これはSchleife村のあたりで着られていた民族衣装


こちらもSchleifeのもの。右側は花嫁衣装

左側のカラフルなビーズを使った衣装はHoyerswerdaのソルブ人集落の衣装。右はコットブス周辺の集落のもの。地域によってデザインや色使いがかなり異なるけれど、基本色が象徴するものは共通で、赤は若さや力を表、緑は成熟を表す。花嫁衣装には緑色が使われる。黒は祝い事の色、白はかつては喪の色だった。

左からBautzen、Nochten、Muskauの衣装

顔をレースで覆った女性の衣装はクリストキント(Christkind)の衣装。クリストキントというのはドイツでは一般的にはクリスマスの天使を意味する。クリスマス市などでよくお目にかかる背中に羽のある白と金の衣装を着た若い女性がそれ。しかし、ソルブの風習はそれとは異なり、ベールで顔を隠した女性が付添人とともに集落の家から家へ人々を祝福して回る。クリストキントにレースの手袋をはめた手の甲で3回顔や頭を撫でてもらうと神の恵みが得られるそうだ。クリストキントはベシェールキント(Bescherkind)とも呼ばれ、衣装は地域によって違う。上の写真はHoyerswerdaのもの。

こちらは下ソルブのクリストキント(ベシェールキント)の衣装で、Lehdeのソルブ・クリスマス市で遭遇した。クリストキント役には翌年結婚予定の未婚女性が選ばれるが、誰がクリストキントなのかは秘密で、そのため本人は口をきいてはならないらしい。このクリスマス市では私も手の甲で顔を撫でてもらったので良いことがあるかな。

さて、衣装を紹介しているとキリがないのでこれくらいに。

ソルブ人は6世紀以降、現在のドイツの国土にずっと住み続けて来たが、ソルブ人の国家が存在していたわけではない。ドイツ人に混じってスラブ系民族の集落が点在し、それぞれの集落には少しづつ異なる文化や風習があったようだ。ドイツ人は自分たちとは異なる言葉を話す彼らをヴェンド人(Wenden)と呼んだ。差別的なニュアンスを含む呼称なので、現在はソルブ人という言葉が使われているが、ヴェンドという言葉は現在も残っていて、ニーダーザクセン州にはヴェントランド(ヴェンド人の住む土地)という意味の地方がある。このヴェントラントがまた興味深いのだ。住居が円形に並ぶルンドリンクという特徴的な形態の村々が残っている。それらの集落を作ったヴェント人はすでに死滅したポラーブ語を話すスラブ系民族で、現在のソルブ人とどのくらい言語や文化が似ていたのかわからないが、このバウツェンのソルブ博物館の展示にもドイツ人が流入する以前のソルブ人の集落はルントリンクが多かったと書いてあった。(ルントリンクを訪れたときの記事はこちら

自然宗教や祖先信仰を持ち、農耕や牧畜を営んでいたソルブ人はドイツ人の入植後、キリスト教を信仰するようになり、ドイツ人に同化していったが、ソルブ人の人口密度が高かったラウジッツ地方では比較的独自文化を保ちやすかった。特に宗教改革後もカトリックの上ラウジッツは周辺のスラブ系の国との結びつきが強く、民族的要素をより強く残しているようだ。

支配者が移り変わる中でソルブ語の使用は度々禁じられたが、19世紀のパン=スラヴ主義運動の高まりの中でソルブ人の市民文化が開花する。ソルブ語の文法が整備され、それを基盤としてソルブ文学が発展した。1871年からのドイツ帝国期には再び強い抑圧を受けることになるが、ソルブ人の青年運動が活発化し、ラウジッツ各地にソルブ文化サークルが発足、1912年にそれらの上部組織としてドモヴィナ(Domowina)が設立された。

ソルブ語の新聞

しかし、ナチスが政権を取るとソルブ人組織は解体させられ、ソルブ語由来の多くの地名が「ドイツ語らしい」地名に書き換えられ、社会生活のあらゆる場面においてソルブ語の使用が禁じられた。

第二次世界大戦後、東ドイツを占領したソ連はソルブ人に対し、社会的・文化的な保護措置を取った。ソルブ語の新聞の創刊やソルブ語によるラジオ放送の開始、ソルブ語教師の要請及びソルブ語で授業をする学校の設立などが行われ、そうした保護政策はドイツ民主共和国(DDR)政権に引き継がれた。

DDR時代に設置されたソルブ語授業実施校。●印はソルブ語の授業実施校、■はソルブ語で授業を行う学校、▲はソルブ人ギムナジウム

しかし、手厚い少数民族保護政策のように見えた措置は必ずしもソルブ人自身が求める言語と文化の保護を主眼に置いたものではなく、ソルブ人を社会主義の理想と目標の担い手として取り込んでいこうとするものだった。1950年代にラウジッツ地方で褐炭の採掘が始まると、多くのソルブ人は強制移住させられ、46のソルブ人の村及び27の集落が消滅した。

東西統一後のドイツではブランデンブルク州、ザクセン州それぞれのソルブ人保護法のもと、ソルブの民族文化が保護されている。現在、ソルブ人居住区として定義されている地域は上ラウジッツに42箇所、下ラウジッツに27箇所ある。それらの居住区ではお祭りなどの文化的催しが定期的に行われているだけでなく、幼稚園もソルブ語のみ、もしくはドイツ語とソルブ語のバイリンガルのクラスが設けられている。ミサをソルブ語で行う教会もあるそうだ。

以上、大いに端折った紹介になってしまったが、これまで存在は知っていたもののどのような文化と歴史を持つのかは全く知らなかったソルブ人について知ることができ、とても興味深かった。ソルブ人の歴史についてもうちょっと詳しく知りたい方にはドモヴィナ出版から出ているこちらの本がお薦めだ。

Kurze Geschichte der Sorben

ドモヴィナ出版


ソルブ語で書かれた書籍やソルブ関連の書籍がぎっしりと並べられた店内


1冊2ユーロと気軽に購入できるソルブ文化の本。これらも読みやすく、お薦め。

ソルブ関連スポットマップを作ったので、ご興味のある方はどうぞご利用ください。

 

まにあっく観光マップの第8段が完成した。今回作ったのは「ドイツ観光鉱山・鉱業マップ」だ。古くから鉱山業の盛んなドイツには鉱山業に関する博物館がたくさんある。また、現在は採掘が行われていない旧鉱山の多くが観光鉱山として整備されている。観光鉱山では坑道を歩き、内側から観察することができる。炭鉱から銀・銅鉱山、貴石鉱山など、種類もとても豊富だ。全国に一体どのくらいの数があるのだろうか?とふと思い、マッピングすることにしたが、その多さは想像を超えていた。

観光鉱山と鉱山業博物館を登録したけれど、両者を厳密に分けるのは難しかった。観光鉱山が博物館を併設しているところ、博物館の一部として鉱山を見学できるところ、鉱山とは独立した博物館、技術博物館の一部に鉱山業の展示があるところなど様々だ。観光鉱山を併設しない博物館と展示がメインのスポットは博物館アイコン、それ以外は炭鉱アイコンで表示。例によって、赤色は私がこれまでに訪れたスポットだ。

カテゴリーは採掘される資源の種類別に「石炭・褐炭・石油・天然ガス」「金・銀・銅」「塩」「粘板岩」「石灰石・チョーク・砂岩」「鉄」「その他の鉱石(スズ、亜鉛、鉛、コバルト、ニッケル、黄鉄鉱、ウラン、石英、石膏、蛍石、マンガン、黒鉛、アメジストなど)」「鉱業全般」の8つ。

カテゴリーごとに表示すると、ドイツにおける特定資源の分布がわかる。たとえば炭鉱があるのは、ルール地方やハルツ地方(主に石炭)、ラウジッツ地方(褐炭)、南バイエルン(ピッチ炭)。

アイコンを押すと、そのスポットの画像が出るので、観光鉱山ってどんな感じ?と気になる方はいろいろ押してみてね。この画像は南バイエルンの風光明媚な避暑地、ベルヒテスガーデンの岩塩坑のもの。ここは私が一番最初に見学した観光鉱山で、トロッコにまたがって坑道を滑り台のように滑り降りるという体験がとてもエキサイティングで気に入った。そもそも私はこれがきっかけで観光鉱山が好きになったのだ。

こちらはベルリン近郊の石灰石採掘場がオープンエアミュージアムになったMuseumpark Rüdersdorf。ここではパーク内で石灰窯などの設備や展示がみられる他、隣接する石切場をジープで回るツアーもある。さらには化石採集もできるという充実ぶりだ(見学記録はこちら)。

そしてこちらは、最近行って来た宝石の町、イーダー・オーバーシュタイン近郊にある貴石鉱山 Edelsteinminen Steinkaulenberg(記事はこちら)。

 

この通り、ドイツの観光鉱山はよりどりみどり。地下道や洞窟を歩く鉱山見学は冒険っぽくてそれ自体が楽しいのだけれど、実は鉱山はいろいろなものの要となる分野でもある。人類の歴史は資源獲得・活用の歴史でもあったわけで、鉱山は技術史や政治史、社会文化史に繋がっている。そして、地下を掘れば化石が出て来たり、遺跡が出て来ることもあるので古生物学や考古学とも大いに関係があるのだ。

と、こう書いても鉱山の魅力は伝わりにくいかもしれない。少しでも楽しさを知ってもらえたらいいなあと思い、ポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」で鉱山の何がどういう風に面白いかを語ってみたので、よかったら聴いてください。

まにあっく観光裏話 7 鉱山は面白い