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トルコブルーの壁が美しいZiesar城の聖ペテロ・パウロ教会と中世の床暖房
先週まで異常に寒く、3月の末だというのに雪まで降っていたのだが、今度は突然20度近くに気温が上がり、まるで初夏のよう。おかげで気分もすっかり夏!(これはドイツにありがちなフェイントだとわかってはいるのだが)
ドライブ日和だ。こんな日に家に閉じこもっているのは野暮である。仕事の手を止めてちょっと出かけることにした。行き先は自宅から車で50分ほど西へ移動したZiesarという小さな町にある城、ツイーザー城(Burg Ziesar)に決めた。目当てはその城の中にある聖ペテロ・パウロ教会。いつだったかそのチャペルの内装の写真を目にして以来、是非とも見に行きたいと思っていたのである。
ツィーザー城は城といっても山の上に建っているわけではなく、平城だ。全体像は写真に撮れないのだけど、広場を中心に弧を描くような造りをしたなかなか立派なお城。
聖ペテロ・パウロ教会
城内はミュージアムになっている
城の建物の端には塔が建っている
早速、教会の内部を見せてもらう。
うわー、美しい!このなんとも言えない独特の色合い、ドイツの教会では珍しいのではないか。
エッサイの根
私が住んでいる地域は近世になってから発展したので、中世の建造物は少ない。だからたまに遠出してこういう雰囲気を味わうと新鮮。
これだけでもかなり満足したけれど、せっかく来たのでミュージアムも見て行こう。ミュージアムの建物はかつての司教邸で、建物についての展示と特別展示を同時進行で見られる。この建物の目玉は「中世の床暖房設備」だ。
ミュージアム一階の床に穴が空いていて、下に何やら見える。
地下の釜で火を焚いて建物を温めていたようだ。この炉は1300年頃に作られたものだそう。古代ローマには「ハイポコースト」と呼ばれる床暖房のセントラルヒーティング設備があったそうだが、それと同じようなものなのだろうか。

階段を降りて地下を覗いてみる。

温めた空気を建物全体に回すパイプの役割を果たしたトンネル。
特別展示のテーマは「ブランデンブルク州のキリスト教化」。先日、ブランデンブルク市の考古学博物館の展示でも見たが、もともとここら辺(東北ドイツ)はスラブ民族の定住地だった。彼らは独自の自然宗教を信仰していたが、8世紀以降に進出して来たキリスト教徒に服属させられ、次第にキリスト教文化に呑み込まれていった。
初代神聖ローマ皇帝、カール大帝。
カール大帝の遠征戦争(ザクセン戦争)においてキリスト教徒らと戦い、亡くなったスラブ人の頭蓋骨。おでこの部分に割れ目がある。

この洗礼桶でスラブ人たちが強制的に洗礼を受けさせられた。

12世紀には現在のブランデンブルク州へ大量のキリスト教徒が移住し、各地に町を作っていった。教会も次々に建設されたが、最初から石造りの立派なものを建てたわけではなく、初期には木造が多かったらしい。写真はHaseloffという村で発掘された当時の教会の壁の一部。
ミュージアムを見た後は塔にも登って見た。
塔から下を見下ろす
あー、面白かった。このお城の情報は日本語のガイドブックにないのはもちろんのこと、ドイツ語でもこの地方に特化したガイドブックでなければ載っていないと思う。でも、チャペルは一軒の価値がある。首都ベルリンからも自動車なら1時間ほどなので、おすすめ。ちなみに、ツィーザー城を見学すると、そのチケットでレーニン修道院博物館、ブランデンブルグ大聖堂博物館、ブランデンブルク市パウロ修道院博物館(ブランデンブルク市考古学博物館)の入館料が1年間、半額になる。
ベルリン新博物館でミステリアスな金の帽子Berliner Goldhutを見る
復活祭の連休だったのに、風邪を引いてしまった。だるくてまともなことができないので、ウダウダとベッドの中でドキュメンタリーでも見て過ごすしかない。公共放送局ZDFのサイトにアップロードされている過去の放映番組の中から面白そうなものを探す。すると、私の好きな学術ジャーナリスト、Harald Lesch氏による「未解決の考古学の謎(Ungelöste Fälle der Archaeologie)」という番組が目に留まった。Lesch博士は宇宙物理学者だが同時に自然哲学者でもあり、非常に話の面白いコミュニケーターだ。以前は天文学の番組がメインだったが、最近では幅広い分野をカバーしている。今ちょうど考古学の面白さに目覚めつつあるところなので早速視ることにした。番組は前半と後半に分かれており、前半で紹介されていたミステリアスな円錐状の「ベルリンの金の帽子(Berliner Goldhut)」が特に魅力的だった。その実物がベルリンの先史博物館(Museum für Vor- und Frühgeschichte)にあるという。先史博物館はベルリン新博物館(Neues Museum)の一部で、これまでに何度か訪れているのだけれど、この不思議な帽子の存在にはどういうわけか気づいていなかった。
すぐに見に行ける場所にあると聞けば当然、見に行きたくなる。二日ゴロゴロして体調もそろそろ良くなったので、早速行って来た!
新博物館はベルリンの博物館島にあり、ネフェルティティの胸像を始めとするエジプト・コレクションを持つドイツ国内で最も素晴らしい博物館の一つだが、新博物館についての情報はネット上にも豊富にある(参考)のでここで長々紹介するまでもないだろう。今回は売り場直行とさせてもらおう。
これが「ベルリンの金の帽子」だ。骨董品市場に出回っていたものを1996年にこの博物館が買い取り、展示物として一般公開するようになった。実物はどのくらいの大きさかというと、高さ74.5cm、重さ490g。相当に長いとんがり帽子だね。
これまでに類似のものがドイツとフランスで全部で4つ見つかっているらしい(「ベルリンの金の帽子」は写真の一番右)。最初の「金の帽子」が発見されたのは1835年4月29日にさかのぼる。南ドイツのSchifferstadtで野良作業中の労働者が偶然掘り出した。これらは紀元前800〜1000年頃に作られたと推定されるそうだ。
「ベルリンの金の帽子」の表面をびっしりと覆う模様には規則性が見られる。ドイツでは紀元前からすでに天体が観測されていたことがわかっており、考古学者らはこの金の帽子を飾る模様は暦なのではないかという仮説を立てているそうだ。青銅器時代後半の中央ヨーロッパでは太陽信仰が広がっていた。大きさからいって、神への捧げものというよりは人間が実際に被っていた可能性が高く、天体崇拝の儀式の際に使われたのではないかと考えられている。(世界最古の天文版ネブラ・ディスクについても過去記事に書いているのでよろしければお読みください)
(Wikipedia: Berliner Goldhut)
先端部分のギザギザした星型の部分は輝く太陽を意味し、その下の段の鎌と目のようなシンボルは月と金星を意味する。その下の丸い模様は太陽と月のシンボルだと書いてある。木製の型を使って金床上で金塊をハンマーで叩いて薄く延ばしながら円錐に形成し、表面にスタンプのような道具を使って裏側から押し出して装飾を施したようだ。そういえば私は考古学は全くの素人だが、昔、文化人類学を勉強していたことがあり、ケルンの文化人類学博物館で3ヶ月ほど実習生として働いた。その時、オスマントルコの金属製装飾品のカタログ化をやらせてもらった。表面の加工を観察して分類したことを思い出したが、残念ながら細かいことはもう忘れてしまったなあ。装飾品を眺めるのは楽しいものだ。自分ではあまり身につけないけど。
ドキュメンタリーによれば、天文学はメソポタミアやエジプトで発達し、現在のトルコやギリシアを経由してヨーロッパ伝播したことがわかっており、金の帽子もメソポタミアから運ばれて来た可能性がなきにしもあらずだという。面白いなあ。この謎はいつか解き明かされるのだろうか。
今回はこの帽子を見るのが目当てだったので、他の展示物はさらっと見るに留めた。何しろ新博物館にはおよそ9000点の展示物が展示されているのだ。一気に見てインプットすることは到底無理!でも、大丈夫。年間ミュージアムパスがあるんだもんね。見たいものだけじっくり見るというのは旅先ではもったいなくてなかなかできないものだ。そう考えると、地元の博物館を繰り返し訪れて徹底的に見るのも悪くないかもしれない。
住んでいる地方について知る。ブランデンブルク州考古学博物館
先日、ミュンヘンへ行った帰りにアウトバーン沿いの考古学博物館、Kelten Römer Museum Manchingに寄り、現在、頭の中がプチ考古学ブームである。この「まにあっくドイツ観光」で過去に考古学的観光スポットをいくつか取り上げているが(カテゴリー「考古学」)、私は以前は実はそれほど考古学に興味があったわけではなかった。単なる博物館好きで、「考古学の博物館だから見よう」というよりも、「博物館だから見よう」というノリだ。でも、博物館とは面白いもので、全く知らないジャンルの博物館を一つ二つ見ただけでは今ひとつピンと来なくても、数をこなすに従って「あ、これ前に見た〇〇と関係あるやつだよね?」「前に行ったことのあるあの場所のことでしょ」などと次第にそのテーマが自分ごとになっていく。自分には関係ないと思っていた世界が自分に関係ある世界に変わっていくのだ。
ってことで、今回は自分の住むブランデンブルク州の考古学博物館へ行ってみよう!
ブランデンブルク州の考古学博物館、Archäologisches Landesmuseum Brandenburugは修道院(Paulikloster)の中にある。
いい感じ。この博物館は「ブランデンブルク州考古学博物館」なので、リージョナルミュージアムである。ドイツには博物館がたくさんあるが、特定のテーマについて地域を問わずに幅広く扱う博物館もあれば、地域に根ざした情報を扱う博物館もある。数でいうと後者が圧倒的だ。外国人として訪れる場合は「ドイツ〇〇博物館」と「ドイツ」が付いている博物館の方が全国もしくはユニバーサルな情報を網羅していてとっつきやすいと思う。地域の博物館の場合、その地域の予備知識があるか、そのテーマに特に強い関心があれば楽しめるが、そうでなければあまりピンと来ないかもしれない。しかし最近、私は地域の博物館の魅力をじわじわと感じるようになった。もともと地図好きなので、どこになんという町があるのかなどはだいたい把握しているが、それぞれの地方のイメージが立体感を帯びて来て面白い。
この博物館では約1万年前から近代までのブランデンブルク地方の人類史を知ることができる。
ポツダムのシュラーツという地区で発掘された氷河期の牛の骨。シュラーツというのは東ドイツ時代の高層団地が並ぶ地区なので、そこにかつてはこんな立派な牛がいたのかと思ったら、なんとなく可笑しかった。今自分が知っている世界は今の世界でしかないのだなと。当たり前だけどね。
穴の開いた頭蓋骨。この石器時代の男性は穿頭(trepanation)と呼ばれる脳外科手術を2度受けていたらしい。穿頭のテクニックにはいくつかあるが、この例では下図のように、石器を使って頭蓋骨表面を削って行くSchabertechnikと呼ばれるテクニックが使われた。
石器時代の頭蓋骨にはこのような穿頭の跡が見られるものが結構あるらしい。なぜこのような頭の手術を行ったのかは明らかになっていないが、慢性頭痛などの治療だったと考えられている。図では周囲の人たちが患者の体を押さえつけているが、想像すると恐ろしい。よくも生き延びた人がいるものだ。
青銅器時代の青銅製のボタン。展示室では青銅器作りの実演動画を流していて、それも興味深かった。
考古学ジオラマ。ブランデンブルクの地面を掘るとそれぞれの地層からこういうものが出て来ますよというモデルだ。
最終氷河期の地層から出て来たマンモスの牙。
青銅器時代の地層から見つかったラウジッツ文化(紀元前1400年前ぐらい)の壺。
これは紀元9〜10世紀にスラヴ人がニーダーラウジッツ地方に建設したRaddusch城のモデル。
Raddusch城は再建されて観光スポットになっている。内部直径38 m、外部直径 58 mのこの城の周りには約5.5mの幅の堀。内部には二つのトンネルを通って入る。城の中庭には14mほどの深さの井戸があるそうだ。今度見に行きたい。
スラヴ人が定住していたブランデンブルクだが、12世紀になるとキリスト教徒たちが侵入して来て、ブランデンブルクは「ドイツ化」されていく。1157年に神聖ローマ帝国の領土である「ブランデンブルク辺境伯領」が成立。次々と城や町が作られて行った。この博物館が入っている修道院の建物もブランデンブルクのキリスト教化の流れの中で建てられたものだ。
また頭蓋骨の写真になってしまうけれど(すみません!)この頭蓋骨が被っているのはTotenkronenと呼ばれる死者の冠である。中央ヨーロッパでは16世紀から20世紀にかけて未婚のまま亡くなった女性に冠を被せて埋葬する習慣があった。(こちらの記事でも紹介しています)結婚式を挙げることなく亡くなってしまった女性への慰めと処女性を保ったことへの褒美の意味合いがあったらしい。
今度は近代。
ターラーと呼ばれるプロイセン時代の大型銀貨。フリードリヒ大王の肖像が彫られている。これは硬貨の歴史コーナーで見たものだが、この展示もかなり興味深かった。
ブランデンブルクのボトルマーク。
これを見てかなり前に訪れたガラス作りを見学できるオープンエアミュージアムを思い出した。その時にはなんだかよくわかってなくて記録も取っていないのだけれど、おそらくこういう瓶も生産していた場所なのだろう。気になるので近々また行ってみよう。
特別展ではヨーロッパの古楽器の展示をやっていて、それも面白かった。たくさん写真を撮ったけれど、キリがないので1枚だけ。これは青銅器時代の太鼓。
いつものことながら、このブログで紹介するのは博物館の内容のごく一部でしかなく、それも私個人が特に興味を引かれたものを紹介しているのに過ぎない。見る人が変われば着目点も異なるので、印象もまたそれぞれに違いない。このブログを目にした人が記事をきっかけに紹介した場所またはその人の身近にある観光スポットを訪れ、その人の視点での面白さを発見してくれたらいいなあ。
オッピドゥム跡の残るマンヒンクのケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)
先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)
すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。
この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。
メインフロア。広々していて見やすい展示だ。
ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。
墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。
マンヒンクのケルト陶器
焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた
イノシシやカバは神聖な生き物とされた。
ケルトの樹木信仰を表す黄金の木
紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖
マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。
展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!
経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??
このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。
ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm
この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。
常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。
特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。
見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。
ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。
兄弟揃って多彩過ぎ。オットー・リリエンタールの弟、グスタフの世界
ここのところ仕事が立て込んでいたり、珍しく風邪を引いたりでちょっと間が空いてしまった。前回の記事ではドイツの航空学パイオニア、オットー・リリエンタールを取り上げた。記事でも触れたように、オットー・リリエンタールは航空学の分野で類を見ない功績を残しただけでなく、蒸気機関やボイラーを始めとして数多くの特許を取得するなど、マルチタレントだった。しかし、オットーの溢れる才能の開花には幼少期から一心同体だったとされる弟グスタフも大きく貢献した。オットーの業績のかなりの部分はグスタフとの活動によって生み出されたものだ。グスタフもオットーと並ぶ航空学のパイオニアである。
しかし、前回の記事では主にオットーにスポットを当て、グスタフについてあまり触れなかった。というのも、オットーほどは知られていないが、グスタフもまた、驚くほど才能に恵まれ、その守備範囲の広さではむしろ兄を凌いだのではないかと思われる非常に魅力的な人物なのだ。私はオットーにも感銘を受けたが、より強く惹かれるのはむしろグスタフの方かもしれない。そこで、オットーとセットではなくグスタフはグスタフとして個別に取り上げたかった。
兄と同様、アンクラムのギムナジウムを卒業したグスタフは、ベルリンの建築学アカデミー(現在のベルリン工科大学の前身)に進学した。普仏戦争の勃発のためアカデミーは中退したが、その後、発明家、教育者、建築家、社会改革者など複数の顔を持ち幅広いキャリアを築いた。兄のオットーが蒸気機関やボイラーなど工学分野で活躍したのに対し、グスタフは芸術的な方面で優れた業績を残した。代表的なのは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」と呼ばれる積み木の発明である。(下の写真の一番下。写真が’暗くてすみません)
グスタフはこの積み木の製法を実業家、アドルフ・リヒターに売却し、リヒターは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」の名で商品化した。これが世界的な大ヒットとなり、リヒターは大儲け。残念ながらグスタフ自身はこの積み木からはほとんど利益を得られなかったようだ。しかし、グスタフは今度は次の写真の右のような木製のモジュラーおもちゃを考案し、これまた大ヒットとなる。このモジュラーおもちゃはLEGOやフィッシャーテクニックなど、現代の組み立て系おもちゃの元祖とされているそうだ。
画期的な建物づくりおもちゃを開発したグスタフは、おもちゃではなく本物の建物の設計者としても頭角を現すようになる。当時のドイツは社会が大きな構造変化の最中にあった。産業革命により都市の人口が増え、劣悪な住環境で病気が蔓延するなど都市問題が深刻化していたことから、労働者のために「ジードルンク」と呼ばれる集合住宅が建設されるようになった。グスタフは建築家としてはもちろん、社会改革者としてもこの運動に積極的に関わった。ドイツ、特にベルリンのジードルンク群は現在、観光スポットとして人気があるが、そのうちの一つ、ライニケンドルフドルフ地区のフライエ・ショレ(Freie Scholle)は、グスタフが創始者となった労働者建築協同組合のジードルンクである。このジードルンクは後に建築家ブルーノ・タウトにより拡張され、現在はこんな感じで残っている。(写真はジードルンクのごく一部)
また、グスタフはベルリン近郊オラーニエンブルクに1893年に創設されたドイツ初の菜食主義者ジードルンク「エデン」の建設にも深く関わっている。エデンジードルンクの建物に使われた建材はグスタフの発明品だそう。この「菜食主義者ジードルンク」の話も掘り下げるとかなり面白そうなテーマなので、いつかエデンへも行ってみたい。
と思っていたら、グスタフ・リリエンタールの設計した建物はごく身近にもあった。私はベルリンの隣町、ポツダム市郊外に住んでいるのだが、ある日ポツダムをぶらぶらと散歩中に面白い形の建物を見つけ、なんとなく写真を撮った。家に帰って来てから、「変わった建物だったけど、何の建物なのかな?」と思い調べてみると、なんとグスタフの手によるものだったのだ。
このVilla Lademannは1895年に建てられたもの。なんとも夢のあるお屋敷ではないか。これを発見したことで、ますますグスタフに興味が湧いた。調べたところによると、リリエンタール兄弟が住んでいたベルリン、リヒターフェルデ地区にはグスタフの設計した住宅がたくさん残っているらしい。それは探しに行くしかない!
Lichterfeldeはこの辺り。
グスタフはまず自分の家族用に英国のタウンハウスから発想を得た小さな家を建設した。ベルリンやポツダムで競って豪邸が建てられていた当時、こじんまりとしたグスタフの家は嘲笑の種だった。しかし、身丈に合った家を建てるべきだというのがグスタフの考えだったらしい。
Tauzienwegのリリエンタールの家
個性的な家の多い通りにおいてもひときわ味があるのですぐにわかった。しかし、この家はその後かなりリフォームが加えられており、オリジナルとは随分違ってしまっているらしい。この家にはグスタフ一家は2年半ほどしか住まず、その後はこちらの家に引っ越した。
ここには現在も子孫の方が住んでおられるらしい。グスタフの設計した住居は見た目が魅力的であると同時に実用的な造りだそうだ。見た目が良いだけの高価な建材は使用せず、庶民に手の届く快適な住居をコンセプトにしていたという。リヒターフェルデ地区には全部で22棟を建設したが、現在は残っているのはそのうちの16棟。
では他の建物も見ていこう。数が多いのでコメントなしね。
あ〜、楽しい。逆光だったり木が邪魔だったりで写真が撮れないものもあったけれど、全棟見つけることができた。こんな素敵な建物を考案できるグスタフ・リリエンタールはきっと魅力的な人だったのだろうなと感じる。この記事で紹介したのはグスタフの業績のごく一部である。もっと詳しく知りたいな。今後の課題としよう。
ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館
しばらく前にベルリンにあるドイツ技術博物館を久しぶりに訪れた。
何度も行っている博物館だが、規模が大きいので一度に全てを見ることはできず、行くたびに発見がある。前回特に興味を引かれたのは航空技術に関する展示だった。その中でドイツの航空パイオニア、オットー・リリエンタールについて知った。
オットー・リリエンタールは一歳違いの弟グスタフと共に知られる19世紀の発明家である。二人は幼少期から空を飛ぶことに強い憧れを持ち、鳥の飛行をつぶさに観察してハングライダーを設計し、無数の飛行実験を行なったことで知られる。緻密な研究と実験の結果をまとめたオットー・リリエンタールの「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)」は世界中で注目を浴び、後に初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟にインスピレーションを与えた。
「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔」。写真はアンクラムの「オットー・リリエンタール博物館」で撮影したものだが、同様のものがベルリンのドイツ技術博物館でも見られる
ワクワクするなあと思いながら帰宅途中に日本食材店に寄り、そこに置いてあった日本語のフリーペーパー、「ドイツニュースダイジェスト」を何気なく手に取ると、偶然にもベルリン在住のライター、中村真人氏によるリリエンタール兄弟についての記事が載っていた。
リリエンタール兄弟と大空へ夢
中村氏の記事を読んで、ますます興味が湧いた。リリエンタール兄弟の生誕地アンクラムにはリリエンタール博物館(Otto Lilienthal Museum)があるという。行ってみよう。
アンクラムはベルリン中央駅から電車で2時間半ほど。小さな町で、第二次世界大戦で町の大部分が破壊されてしまったため、古い建物はほとんど残っていない。正直に言って、それほど魅力的な町とは言えないかもしれない。でも、今回私が見たいのは街並みではなく、リリエンタール博物館だからね。
駅から300メートルくらいのところにあるが、全く目立たない。
中に入ると、受付の前はショップと喫茶スペースになっている。右脇に小さな展示室があり、リリエンタール兄弟の生い立ちやキャリアに関する展示や動画が見られる。テーブルの上にはリリエンタールの写真アルバムなどの資料も置いてあり、面白くて真剣に見てしまった。
オットーと弟のグスタフはとても仲の良い好奇心旺盛な兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。両親はアメリカへの移住を計画していたが、実現する前に父親が急死してしまい、母子家庭となった。母親は教育熱心で、兄弟はアンクラムのギムナジウムを卒業後、オットーはポツダムの工業学校を経てベルリン王立工業アカデミーへ、グスタフはレンガ職人の訓練を受け、ベルリンの建築アカデミーへ進学した。それぞれ技術者と建築士となっても兄弟は幼い頃からの夢を捨てることなく、飛行翼をひたすら作り、空を飛ぶ実験を続けた。その主な資金源となったのはオットーが発明し、特許を取得したボイラーと蒸気機関である。
リリエンタールのボイラーはコンパクトで安全、値段も手頃だったようだ。
オットーの発明品は多岐に渡り、なんと全部で25もの特許を取得している。リリエンタール機械工場の創始者として経営にあたる傍ら、次々とハングライダーを設計・制作し、2000回を超える飛行実験を行なったというのだから、とてつもないエネルギーの持ち主である。
弟のグスタフも兄に負けずとも劣らぬ豊かな才能と創造性の持ち主で、彼のキャリアもものすごく面白いのだが、この記事ではグスタフの偉業には敢えて触れないでおく。グスタフはグスタフで別記事で取り扱いたい。
さて、そろそろ1階の反対側の展示室に進もう。
鳥のように空を飛べたらと夢想したのは、もちろんリリエンタール兄弟が初めてではない。古くはギリシア神話のイカロスに始まり、世界中の様々な場所で多くの人が空を飛ぼうと試みた。しかし、その中で確かな学術的基盤に基づいた観察と実験の蓄積により航空工学の礎を築いたリリエンタールの功績は大きい。
メインの展示室は半地下にあり、吹き抜けの天井にたくさんのリリエンタールのグライダーモデルがかかっている。オリジナルは断片しか残っていないそうで、ここで見られるのはリリエンタールの設計図を元に作ったもの。
これらはほんの一部。
展示室には実験コーナーもあり、いろいろな物理実験ができる。
片っ端からやってみた。
飛行シミュレーターもやってみた。あっさり墜落したけど。
これは「リリエンタールのコックピット」。乗ってみて良いと書いてあったので、もちろん乗ってみる。しかし、これは大変な代物である。両方の木の輪っかに脚を一本づつ通して乗り、両手でハンドルをつかむ。お尻は宙に浮いたまま。膝から下と上体を動かして操作する。こういうのに乗って空を飛ぶ実験をしていたなんて、落ちたら危ないじゃないか、、、。展示室には私の他は誰もいなかったので一人で遊んでいたが、誰かが見たら謎の東洋人のおばさんと思われたかもしれない。
リリエンタールの飛行実験の様子を動画(無音)で見ることもできる。いやー、すごいわ。天才とバカは紙一重と言うけれど、周囲の人々の目にはどう映っていたのだろうか。子どもの頃から兄と一心同体となって空を飛ぶ夢を追いかけていた弟のグスタフも、最後には「もういい加減にしたら。妻も子どももいるんだし」と助言したそうである。しかし、そんなアドバイスには耳を傾けず実験を繰り返したオットーは、1896年、「Normalsegelflug」と名付けたグライダーで250mの飛行に成功しながらも、4回目の飛行中に突風に煽られてバランスを崩し墜落、首の骨を折って亡くなってしまう。48歳だった。アメリカでリリエンタールの訃報を知ったライト兄弟は、後に遺族を訪ね、偉大なる先駆者への敬意の印として未亡人に見舞金を渡したとのこと。
博物館の2階はリリエンタールの飛行実験を撮影し続けた写真家、Ottomar Anschützの作品が展示されている。
家族と共に
簡単な紹介になってしまったが、リリエンタール博物館は小さいながらも情報量が多く、ウェブサイトも大変充実している。
博物館を出た後、アンクラムの町を歩いた。リリエンタール兄弟のゆかりの地を見てから帰ろうと思ったのだ。
父親が亡くなった後、リリエンタール兄弟は母と妹と一緒にこの家に移り住んだ。現在はあまりパッとしない(失礼)肉屋になっている。
リリエンタール兄弟の通ったギムナジウム。現在の校名はもちろん、リリエンタール・ギムナジウム。
校庭に面した建物には空を飛ぶリリエンタールの絵が。
オットー・リリエンタール記念碑。
リリエンタール兄弟モニュメント
この日は寒かったけれど、楽しかった。しかし、私のリリエンタールをめぐる冒険(大袈裟)はここでは終わらない。
リリエンタールが飛行実験を行ったのはベルリンやその近郊の丘である。最初に紹介した中村真人氏の記事にあるように、ベルリン市内のリリエンタール公園にも記念碑が設置されているが、1891年にリリエンタールが記念すべき最初の飛行実験を行ったのはポツダム近郊のDerwitzという小さな村だ。うちから近いので見に行って来た。
Derwitz村
村の中心地(といっても、すごく小さな村なので中心部がほぼ全て)には石碑が建っている
肝心の丘のモニュメントはどこにあるのだろうかとキョロキョロしたが、わからない。自転車に乗って通りかかった住民に尋ね、「あっち」と指さされた方へ向かって歩く。しかし、丘にはそれらしきものは見当たらない。しばらくウロウロし、ようやく探し当てた。
あれだ!
地味すぎて遠くからでは全くわからかった。この記念すべきリリエンタールの初飛行の場を知っている人は、一体どのくらいいるのだろう?
リリエンタールが初めて空に向かって飛んだ場所に私も立って見た。鳥の真似をしようなんて、私にはその発想のかけらすらない。でも、夢を持つこと、夢を追いかけることは素晴らしいことに違いない。自分もやりたいことをもっとやらないとなあ。私にもやりたいことはたくさんあるが、命を賭けたリリエンタールの壮大な夢と比べれば夢のうちにも入らない。リスクだってほとんどない。せっかく生まれて来て、そんな小さな夢すら追わずにどうするのよ、などと言ってみる。
グスタフ・リリエンタールについては後日書きます。