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ナチスと東独軍が使用した秘密軍事基地、Bunkermuseum Fuchsbau
イースター休みが終わったと思ったら、もう週末。この季節は休みばかりだ。あいにく今年は天候が安定せず、観光日和とは言い難い日が続いているが、めげずに今日もマニアックな観光を楽しんで来た。
今回訪れたのは、ベルリン中心部から南東へ約75kmに位置する美しい保養地、Bad Saarowの外れにある秘密の軍事基地、Bunkeranlage Fuchsbau。
この掩体壕はナチスにより作られ、第二次世界大戦後は東ドイツ軍(NVA)が利用し、そしてドイツ統一後しばらくは、ドイツ連邦軍の管理下に置かれた。70年間に渡るドイツ軍事史上の複数エポックの遺産である貴重な史跡だ。現在はBunkermuseum Fuchsbau – ZGS14の名で一般公開されている。
ミュージアム入口。
ミュージアムにはあらかじめガイドツアーを申し込み、入場する。「基地の歴史ツアー」「技術設備見学ツアー」「写真撮影ツアー」がある他、「元軍人による体験語りツアー」が新たに加わった。私は歴史ツアーに申し込んでいたのだが、元軍人による体験語りツアーの開始時刻が同じだったため、間違えて後者に参加してしまったが、良いツアーだった。ガイドさんはこの基地で任務に当たっていた東ドイツ軍の元中佐(Oberstleutenant)だという。2.5時間に及ぶ本格ツアーで、滅多に聞くことのできない話をじっくり聞けるすごい機会だった。
1943年、ナチスはベルリン北部のオラーニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所の囚人、約900人を使ってここに武装親衛隊(Waffen-SS)の通信連隊のための秘密基地を建設した。現在、ミュージアムの名称となっている「(フクスバウ)Fuchsbau」は当時、基地につけられたコードネームが由来である。ナチスは3本のトンネルを基本構造とするこの基地から、ベルリン、ワルシャワ、プラハ、リガ(ラトヴィア)、ウィーン、メッツ(フランス)、アペルドールン(オランダ)などの主要都市へ蜘蛛の巣状に通信網を張った。
敗戦時に武装親衛隊のメンバーが基地から逃亡すると、ソ連軍は基地を抑え、破壊を試みたが失敗。基地は部分的に破損した状態で放置された。その後、東ドイツ軍がこの基地に隣接する第二の地下壕を掘り、基地を拡大。航空状況監視システムを整備して航空軍事司令部を配置した。1977年にはワルシャワ条約機構加盟国に共通のデータ自動通信網(ALMAS)が導入され、フクスバウもそのネットワーク拠点の一つとなった。
基地入口。この基地はドイツ統一後は、1995年に完全閉鎖されるまで、連邦ドイツ軍の救難隊(SAR)の拠点として利用された。閉鎖時にこの入口はコンクリートで塞がれたため、ミュージアム化にあたって、コンクリートを除去する工事が大変だったらしい。
ナチス時代に作られた第一の掩体壕の通路。
気象観測室。右側の壁の丸みからトンネル構造をしていることがわかる。
二つの地下壕を繋ぐ通路。
第二掩体壕の内部の様子。
電算室。丸い容器にはハードディスクが入っている。後ろに並んでいる機器はIBM製。つまり、西側諸国から闇ルートで入手したもの。
誘導室で中佐の体験談を聞く。勤務は24時間体制で朝7時に交代。地下に24時間閉じこもって仕事をした後は体の感覚がおかしかったという。旧東ドイツでは自家用車を所有している人は限られており、基地への通勤にはローカルバスを使っていた。一般市民は秘密基地の存在を知らないことになっていたが、早朝に軍人達がバスを待っている姿を見て、地元の人は薄々感づいていただろうと中佐は語る。
無線室。
その他、水道施設や機械室などを見学し、再びトンネルを通って外へ。
とても充実したツアーだが、地下に2時間半もいると体が冷えて来る。冬のコートを着て行って良かった。このミュージアムはマニアック度がかなり高いので、誰もに気にいる場所ではないと思うが、フクスバウ基地のあるBad Saarow自体はロマンチックな風景が好きな人にもお勧めできるとても綺麗な町で、特にテルメが素晴らしい。
ヒトラーやホーネッカーも入院していたサナトリム廃墟、Beelitz-Heilstätten
久しぶりにベーリッツにあるサナトリウム廃墟、Beelitz-Heilstättenへ行って来た。
ベルリン・ブランデンブルクでは廃墟ツーリズムが人気だが、この廃墟は規模が大きく、ベルリンからのアクセスも良いことから特にポピュラーだ。20世紀初頭、結核患者の療養施設として建設された建物群である。
我が家から近く、今住んでいるところへ引っ越して来た10年前、散歩の途中に偶然見つけた。当時はまだ観光化されておらず、そのときは人通りもほとんどなかったので、ボロボロに崩れた暗い建物の内部に見える病院の名残りに背筋がゾーッとしたのを覚えている。現在はフェンスに囲まれており、入場料を払って見学する。140ヘクタールの敷地には、かつての療養施設や外科病棟、食堂、自家発電所などの多くの建物が崩れかかった状態で残っているが、現在は複数の所有者が異なるツアーを提供している。
今回はBaum & Zeitが敷地内に建設した空中遊歩道(Baumkronenpfad)を歩いてみた。
高さ40メートルのタワーの上からは、敷地内のほぼ全体を見渡すことができる。
遊歩道の高さは地上23メートル。このような遊歩道が整備されて観光地化されたことで、以前のように「見てはいけないものを見てしまった」ときのようなドキドキ、ゾクゾクずる感じは失われたが、廃墟を真横から見たり、上から覗き込むことができるようになった。
遊歩道を歩いた後は、ガイドツアーに参加した。いろいろなツアーがあるが、今回参加したのは「外科病棟ツアー」。このサナトリムが建設された背景には、19世紀の終わりに産業の発展に伴ってベルリンに大量の労働者が流入したことがある。急激に人口が増えて住宅難となり、多くの人々は劣悪で不衛生な住環境で生活していたため、結核が蔓延した。ビスマルクにより健康保険制度が創出され、結核患者の療養施設として作られたのがこのサナトリウムである。約1200人の患者が収容可能で、当時は国内最大規模だった。
1900年から1930年までは、主として健康的な生活により免疫力を高めることが「治療」であり、栄養のある食事、自然に囲まれた静かで空気の清浄な空間が提供され、リラックスや運動が中心だった。現在のクアハウスの原点と言えるかもしれない。1930年からは外科治療が試みられるようになり、その後、最初の抗生物質であるストレプトマイシンが発見されるまで続けられた。
手術室。天井はガラス張りで光がたくさん入る造りになっており、換気扇も備わっている。
薬品などを入れてあった戸棚。
現在は荒廃しきっているが、当時は近代的で美しい建物であったことが伺える。
第一次・二次世界大戦中は負傷兵の治療のための病院として使われ、アドルフ・ヒトラーも入院していたことがある。第二次世界大戦後はソ連軍が使用した。1990年の末から翌年の春にかけてはエーリッヒ・ホーネッカーもここで病に伏せていた。
外科棟ツアー以外に、サナトリウムでの日常生活を知るツアーやフォトツアーなどもある。詳しくはこちら。
先日、ドイツの公共放送、ARDでロベルト・コッホの時代のベルリン医科大学を舞台にした連続ドラマ(下動画)を放映していたのを見たばかりなのと、そのドラマに出てきた青い痰壷をこの間訪れたドレスデンの衛生博物館(記事はこちら)を見たこともあって、頭の中でいろいろ繋がって面白かった。
このドラマには、ロベルト・コッホ、エミール・フォン・ベーリング、北里柴三郎(日本人俳優)などが登場する。
このサナトリウム廃墟のあるベーリッツは白アスパラの名産地で、子ども連れで楽しめる大きな観光農園、Spargelhof Kleistowがある。農園のすぐそばの森の中には本格的なロープアスレチック場も人気。白アスパラの季節に農園と廃墟見学を組み合わせるのがオススメ。
世界有数の琥珀の産地、バルト海の琥珀博物館 (Deutsches Bernsteinmuseum)を訪れる
今週末、写真ワークショップに参加するため、バルト海へ行って来た。
しかし、実は目的は写真ワークショップだけではない。バルト海といえば、「バルティック・アンバー」。そう、バルト海は世界有数の琥珀の産地である。バルト海沿岸の町には琥珀アクセサリーの店がたくさんある。私は美しい琥珀については知りたいが、琥珀アクセサリーを身につけたいとは特に思わないので、Ribnitz-Damgartenという町にある「ドイツ琥珀博物館 (Deutsches Bernsteinmuseum)に向かった。
ドイツ琥珀博物館は、修道院の建物の中にある。
ミュージアム内部は3階まであり、なかなか見ごたえがあった。
1階部分にはバルト海の琥珀に関する説明と、様々な種類の琥珀が展示されている。ケース越しのため、あまり綺麗に写真が撮れなかった。(実物はもっと綺麗)
天然樹脂が化石化してできる琥珀はドイツ語でBernsteinと呼ばれるが、 これは燃える石(Brennstein)を意味する。琥珀は炭素80%、酸素10%、水素10%でできており、ロウソクのように燃える。軽く、塩分を含む水中では浮き上がること、爪よりも少し硬いくらいの硬さで穴を開けたり彫刻のように削ったりしやすいのが特徴だ。
バルト海の琥珀は起源となる地質年代が非常に古く、世界で最も産出量が多く、種類豊富で品質が高い。また、学術研究も非常に進んでいる。インクルージョンと呼ばれる虫や植物が混入したものが多く見つかり、古生物学の貴重な標本でもある。インクルージョンの分析から、フェノスカンジアと呼ばれる北欧の森は5000年前には亜熱帯性気候であったことがわかっている。
木の幹に止まった虫が樹脂の中に閉じ込められることは少なくないが、植物を含む琥珀は非常に珍しいそうだ。バルト海以外の場所でも琥珀は産出され、日本では北海道などで採れるが、白亜紀のものでバルト海の琥珀ほど起源が古くない。
人間は石器時代から琥珀を収集し、利用して来た。網で海中を探る原始的な採集法が大規模な採掘に取って代わられたのは19世紀後半で、海岸だけでなく、陸も掘り起こして採集するようになった。石器・青銅器時代から穴を開けて装飾品などに使われ、中世にはロザリオにも多く使われた。
また、現代医学が普及する以前は、民間医療にもよく使われていたらしい。細かい粉にして薬として飲んでいたというから驚きだ。
ミュージアムの2階にはキッズコーナーがあり、琥珀を使った工作ができる。
子どもの作ったステンドグラス風窓飾り。
数ユーロを払って好きな琥珀のかけらを選ぶと、磨いてペンダントに加工してくれる。5ユーロの小さな琥珀をペンダントにしてもらった。
3階には琥珀の美術品が展示されている。
チェスボード。
サンクト・ペテルブルクにあるエカテリーナ宮殿の琥珀の間の写真。ちなみにベルリンのシャロッテンブルク宮殿にも「琥珀の間」がある。
ミュージアムには琥珀アクセサリーのショップもある。夫はインクルージョンのある琥珀に大変ロマンを感じるようで、綺麗だね、買ったら?と私にしきりに勧めて来たが、私は5ユーロのペンダントで十分なので辞退した。
Ribnitz-Damgarten郊外には大きな琥珀アクセサリーの直売センター、Osteseeschmuckもある。バルト海産の琥珀は日本へも多く輸出されているが、日本ではおそらく割高と思われるので、プレゼントに良いかもしれない。
写真ツーリズムで人気なバルト海の保養地、Zingstの写真ワークショップ
この週末、バルト海に面した保養地、Zingstへ行って来た。
ベルリンから車で北上すること3時間。人口わずか3000人ほどの小さな村で、特別珍しい建造物などがあるわけではないが、知る人ぞ知る観光地である。というのは、Zingstは美しい海岸を持ち、クアオルトと呼ばれる国指定の保養地の一つであるだけでなく、豊かな自然を利用した写真ツーリズムに大変力を入れているのである。
今回、私がZingstを目指したのは、週末ワークショップに参加するためだ。
Zingstは、細長く東西に弓のように伸びたFischland-Darß-Zingst半島の東部に位置する。この村がどのくらい写真ツーリズムに注力しているかというと、まず第一に毎年5月の末から6月にかけて、2週間以上に渡る大規模な自然写真フェスティバル、Umweltfotofestival Horizonte Zingstを開催していることが挙げられる。このフォトフェスには国内外の著名なプロ写真家及び4万人を超えるアマチュア写真愛好家が集まる。ギャラリー、ワークショップ、コンテスト、講演会、マルチメディアショー、写真・カメラマーケットなど、写真に関するあらゆる体験ができる一大写真イベントだ。パートナーにはEPSON、OLYMPUS、Leicaなどが名を連ねる。
私は去年、たまたま休暇でこの村を訪れ、そのときには残念ながらフォトフェスはすでに終了していたのだが、ギャラリーの一部がまだ残っており、展示されている写真のクオリティの高さに感動した。しかし、Zingstではフェトフェスの期間だけではなく、一年中、写真イベントやワークショップを開催している。そこで今回、私は週末ワークショップの一つに参加してみた。
ワークショップは、村の中心部にある、Max Hünten Hausというフォトスクールで行われる。
私が参加したのは金曜の午後から日曜のお昼までの風景写真ワークショップで、最初に導入として理論を学んだ後、計4回の撮影エクスカーションがあり、最後に写真の現像と批評会をする。定員は12名で、参加者はドイツ全国から来ていた。その中では私が一番の初心者だった。(しかし、自分のペースで撮影すればいいので、レベルが違うからついていけないというわけではない)
このワークショップでは主に海岸で日の出や日の入りを撮影することになっていたのだが、残念なことにこの週末は天気が悪く、内容が大幅に変更になってしまった。そのため、Zingstらしい風景写真はあまり撮れず、また、私の下手な写真では説得力に欠けるとは思うが、以下にアップするものに大幅に上乗せした内容だと考えて欲しい。
初日の夕方のワークショップでは夕日を撮影する予定が、雲がかかっていたため、近くの森で撮影することになった。森はうちの近くにもいくらでもあるので、ちょっとガッカリ。
水面に映った木を180°回転させてみた。
翌朝の日の出撮影も小雨で変更に。隣村の閉鎖された動物農場へ連れて行ってもらった。自然風景のワークショップに申し込んだのにと不満たらたらの参加者もいたが、廃墟はどんよりとした空にマッチしていて、私にはなかなか面白かった。
夕方のエクスカーション時には雨は止んでいたものの、サンセットは見られず、、、、。
最終日になって、ようやく良い天気に。
朝焼けにはならなかったけど、うっすらと夜が開けて来た。
西の空には月が。ズームが足りなくて、遠すぎ、、、、。
ようやく海辺らしい写真が撮れた。。
今回は天気には恵まれなかったが、その代わりにいろいろな種類の写真が撮れたから、まあ良いとしよう。
Zingstはまた、大量のツルが飛来することでも知られている。ツル観察&撮影イベントも魅力的だ。風景写真以外にも、動物、ポートレート、ルポルタージュ、ヌードなど、様々な写真テクニックを学ぶことができる。写真の好きな人にはとにかくオススメの観光地だ。写真の趣味はない人もサイクリングをしたり、お魚を食べたり、天気の悪い日にはクアハウスのテルメやクナイプバス、マッサージやエステでくつろぐなど、様々な楽しみ方がある。
ポツダムのKGB政治犯一時収容所、Gedenk- und Begegnungsstätte Leistikowstraße
私はもうかれこれ10年、ポツダム市の近郊(車で10分)に住んでいるが、いまだによく知らない場所がたくさんある。ポツダムは首都ベルリンの陰に隠れてか、外国人観光客への知名度は今ひとつだが、実は見所が非常に多い町だ。有名なサンスーシ宮殿を始めとするプロイセンの建造物が数多くあり、湖や森、庭園の豊かな美しい町であるだけではない。ポツダムは東ベルリン同様、第二次世界大戦後、ベルリンの壁が崩壊するまでの間、西ベルリンとの国境を持つ、政治的、軍事的に非常に重要な町だった。そのため、暗い歴史の跡が多く残っている。
私が引っ越してきた当時、町にはまだ旧社会主義国の名残がかなり見られたが、傷んだ建物の修復や第二次世界大戦で破壊された建物の修復が目覚ましいスピードで進み、現在では旧東ドイツ側の町ということを忘れてしまうほどの優雅なたたずまいである。特に、ハイリガー・ゼーと呼ばれる湖の周辺地区には豪華な邸宅が建ち並び、これぞヨーロッパという夢のような空間だ。
その高級感溢れる地域の一角に、Gedenk- und Begegnungsstätte Leistikowstraßeという記念館がある。ソ連国家保安委員会、KGBの政治犯一時収容所跡だ。
かつて、この一帯には貴族や富裕層の市民が住んでいたが、ポツダム会議後、ソ連軍が占領し、1994年に駐留軍が撤退するまでの間は軍事地区であった。東側の新庭園に面した通りと西側のグローセ・ヴァインマイスター通りに挟まれた約16ヘクタールの区間は、Militärstädchen Nr. 7(第7軍都)と呼ばれた。ここにはソ連軍の兵舎や将校家族の住宅だけでなく、ロシア人による店、ホテル、病院、学校など町としてのすべての機能が揃い、リトル・ソヴィエトとも呼ぶことのできる小さな町を形成していたらしい。Militärstädchen Nr. 7の住民は外部との接触を厳重に禁じられており、周辺に住むドイツ人らは中の様子を知ることはできなかった。
しかし、この区画の中に一箇所だけ、ドイツ人が関わる可能性のある場所があった。それはKGBの政治犯一時収容所である。元々はプロテスタントの教会の女性支援施設だった建物をソ連国家保安委員会がスパイ容疑者の取り調べに使っていたのだ。
KGBは戦後まもなく、ナチス戦犯だけでなく、多くの「スパイ容疑者」を拘束し、尋問した。容疑者の中には11〜15歳の少年少女も含まれ、多くはシベリア送りになり、死刑になった者も少なくないという。現在は記念・資料館となっており、ここに収容されていた人々について知ることができる。
元収容者に関する記録。
1955年以降は東ドイツの国家保安省、シュタージが東ドイツ国民を監視することとなったため、その後KGBが監視したは駐留ソ連軍やその家族、つまり自国民だった。駐留軍の中には待遇に耐え切れず、西ドイツへの逃避を企てる者もいた。
シャワー室。
元収容者のインタビュー動画も見ることができるが、近所の知り合いのおじさんであってもおかしくないような年齢の男性が当時の経験を語るのを聞き、とても辛くなる。
かつて拘禁されていた独房に座る元収容者。
取り調べ人が吸っていたタバコの箱。元収容者らはこのタバコの匂いを嗅ぐと、当時の記憶が蘇って来るという。
決して見学して楽しい場所ではない。ドイツにはナチスが残した傷跡や冷戦の傷跡、旧東ドイツの秘密警察、シュタージの記憶、、、、そうした暗い歴史の跡が多くあり、それらの多くは記念館や資料館として残されている。
自然と文化芸術に溢れる町、ポツダム。こんなに美しく優雅な場所で起きたとは信じられない恐ろしい過去を知り、現在が平和で良かったとしみじみ感じる。そして、ここが平和な町であるのも、憎しみと暴力の町と化すのも、自分達、人間しだいなのだと恐ろしく思う。平和は決して当たり前ではないのだ。
ドイツ連邦軍の軍事史博物館を訪れる
ドレスデン滞在二日目にはドイツ連邦軍の軍事史博物館を訪れた。この博物館の分館がベルリンのガトウ地区にあり、先日見学して興味深かったので、ぜひドレスデンにある本館も見たくなったのだ。
ベルリン分館訪問記はこちら。
博物館はドレスデンの新市街にある。
軍事史博物館の建物は大規模で斬新である。19世紀に建設された白い建物に矢が突き刺さるかのようにモダンなもう一つの建物が組み合わさっている。
入り口には連邦軍の兵士らが大勢いた。この博物館は兵士の学習の場としての機能を持つ。
兵士らは20人くらいづつのグループに分かれ、それぞれガイドの説明を受けながら館内を見学していた。
展示室入り口の壁に映し出された文字。
この博物館では展示は年代順展示とテーマ別展示の2つに分かれている。年代順の方は1930年代から現在までの軍事史を、テーマ別の方は軍事の様々な側面を提示している。
まずは軍事史の方から見ていった。
展示品や資料の数は膨大で、丁寧に見ていけば1日ではとても足りない。しかし、情けないことにドイツ史の知識があやふや。えーっとこの戦争はどういう戦争だったかしらと思い出しながら展示の説明を読んだが、時間がかかり過ぎて大変だ。家に帰ったら、山川出版の「ドイツ史」を読み返さなくては。しかし、第二次世界大戦以降の展示に来ると、日頃、他の博物館でもナチスやDDRについてはたくさん目にしているので、グッとわかりやすくなった。
テーマ別展示のテーマは、「軍事技術」「保護と破壊」「戦争の苦しみ」「戦争と記憶」「軍事と音楽」「軍事と言語」「軍事と政治」「軍事と遊び」「軍事とファッション」「軍事とファッション」など多岐に渡る。これはドイツの博物館全体について言えることなのだが、軍事をテーマとしたこの博物館でも非常に客観的な展示に徹していて、「愛国心」のようなものを連想させる要素はない。あくまでも淡々としており、戦争を美化する面が一切ない一方で、自己批判的・抑制的な面が少なからず見られた。
「戦争の苦しみ」のコーナーには戦死者が家族に宛てて書いた直筆の手紙や広島の原爆投下により焼け焦げた物品も展示されている。また、第四代連邦首相、ヴィリー・ブラントが1972年ポーランドでワルシャワのゲットー英雄記念碑に跪いて戦死者に黙祷を捧げる姿を写した写真もあった。
「戦争と遊び」のコーナーには、戦争を連想させる子どものおもちゃが陳列されている。
「大人が子どもに戦争のおもちゃを与えることは、それが武器であれ、軍服であれ、戦争を正当化することを意味する」と説明には書かれている。戦時には子どものおもちゃすらもプロパガンダの道具に使われる。第二次世界大戦敗戦後、旧西ドイツではしばらくの間、戦争おもちゃはタブーとなっていたが、旧東ドイツでは西側帝国主義への反感を煽るため、引き続きおもちゃを使ったプロパガンダが行われていたそうだ。現在のドイツでは武器をかたどった玩具の是非については議論が続いているが、昔は当たり前のように使われていた”Kriegsspielzeug”(戦争おもちゃ)というカテゴリーは玩具カタログから姿を消したものの、そのようなおもちゃがなくなったわけではない。
これはベルリンの「総統地下壕(ヒトラーの地下壕)」に残されていたタイプライター。このタイプライターを使って、戦争が終わる直前まで多くの司令が発せられた。
いろいろなタイプのシェルター。
シェルターやミサイルが展示されているコーナーの奥では、ときどき異様な色の光がピカっと光っていた。「照明が故障しているのかな?」と思ったら、そうではなく、広島の原爆を疑似体験するというアートであった。
薄緑色をしたスペースに立つと、ピカっという閃光の後、影が壁に固定される。私もここに立って、固まった自分の影を見てみた。
もう一度強調するが、この博物館は愛国心や闘争心を掻き立てるような展示はしておらず、あくまでも人類の歴史における軍事と戦争の歴史を提示し、防衛に関する議論を促すためものであることがわかった。