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ザクセン州ケムニッツ産業博物館で機械の機能美を堪能
旧東ドイツのマニアック観光スポットはもうずいぶん回っているが、まだまだ未知の領域がたくさんある。特に南部のザクセン州は見所が非常に多く、何度足を運んでも見尽くせない。今回はまだ行ったことのないケムニッツとツヴィッカウ方面を探索することにした。といっても1泊2日の強行軍なので、どれだけ見られるかな。
まずは、あらかじめ目星をつけておいたケムニッツの産業博物館(Industriemuseum Chemnitz)を目指した。
ケムニッツはザクセン州でドレスデン、ライプツィヒに次いで3番目に規模の大きな町だ。18世紀、紡績業を中心にドイツ産業革命の重要な拠点として発展を遂げて以来、ザクセン州における工業の中心地である。古くからあった機織り工場から次第に機械工業が発達し、特殊技術を持つ企業が次々と創業した。20世紀初頭にはザクセン州はドイツで最も産業の発達した地域となっていたそうだ。旧東ドイツ時代、「カール=マルクス=シュタット」と呼ばれたケムニッツの街並みは非常に近代的で風情があるとは言い難いのだが、良いミュージアムが多くある。
ケムニッツ産業博物館入り口。
館内に入るとまず目につくのがこのレーシングカー、eGon。西ザクセン大学ツヴィッカウで開発された電気レーシングカーだそう。
名前から想像できるように、この博物館はザクセン州の工業の歴史を伝え、産業遺産を保存・維持することを目的としている。これまで東ドイツの産業博物館をいくつか見て来たが、このケムニッツのミュージアムで展示室に足を踏み入れて真っ先に感じたのは「空間が美的であること」だった。他の産業系ミュージアムではどちらかというと錆びついたり塗装が剥がれたり油にまみれた古い機械や装置を目にすることが多かったが、ここに展示されているものは磨き上げられた美しいものばかりなのだ。
ザクセン州の工業発展の流れを示すプラットフォーム。
著しいスピードで産業革命の進んだザクセン州だが、急激な工業化は市民の中に階層を生み出した。労働者運動が高まる中、現在のドイツ社会民主党(SPD)の母体となった全ドイツ労働者同盟が創設されたのもザクセン州のライプツィヒである。ザクセン州はドイツの社会変革の歴史において中心的な役割を果たして来たようである。
しかし、第二次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、東側にあったほとんどの産業施設は戦後賠償の過程でソ連に接収されることになる。また、約2万社が西ドイツ側に逃れ、新たな拠点で再出発した。
百科事典出版社のブロックハウス、アウディ、レンズのツァイスなど、日本でも名前をよく知られた多くの企業は元々は東ドイツの企業だった。社会主義国となった東ドイツ(DDR)では、全面的な解体を逃れた工場は国営工場として計画経済を担ったが、1989年、国全体に「平和な革命」が広がり、ついにベルリンの壁が崩壊する。
1989年に反政府デモが起きた場所。ザクセン州は特に密度が高い。なんと163箇所でデモが行われたという。
なんとなく革命の中心地はベルリンのように思っていたが、ザクセンの市民らがドイツ統一のために果たした役割は大きかったのだなあ。しかし、東西ドイツが統一されてみると東の産業は西側先進国の基準を満たしておらず急激に衰退することになる。統一からわずか3年のうちにおびただしい数の人々が職を失ってしまう。
戦後ほぼ全てを奪われ、そしてドイツ統一が果たされたと思ったら再び産業の大部分を失うことになったとは。大変だったのだなあ。
さて、見慣れないこの大きな機械。第一次世界大戦ごろまで使われていた刺繍機出そう。刺繍機というものを初めて見た。
左側の図面上に針を刺し、レバーやペダルを操作することで布地に同じ模様を色ごとに刺繍して行く。
ちょうど担当の技術者がいたので実演してもらった。こうした機械は工場ではなく一般農家で使われていたそうだ。畑仕事のできなくなる冬季、農家はこのような機械をリースして刺繍作業に従事した。
地下には紡績業で使われて来た様々な機械が展示されている。
以前は機械にはほとんど興味がなかった私だけれど、このミュージアムの機械を眺めていると、機械というのも美しいものだなと感じる。機能美にすっかり見とれてしまった。
美しいとは思うものの、機械については詳しくないので眺めているだけ。でも、だんだんと産業史が面白くなって来た。この「まにあっくドイツ観光プロジェクト」(と自分で勝手に名付けた)を始めてから産業遺産を見て歩くようになったのがきっかけだが、年を取るにつれ物事を時間の経過の中で考えるようになったことも関係しているかもしれない。若い頃には興味が持てなかったいろいろなものを面白いと思えるようになって来たのは嬉しい。
ということで、ケムニッツ観光の最初のスポットには満足した。この博物館ではガラス張りの展示スペースでロボットが車を作っているところを観察することもできるので、小さな子どもも喜びそう。
20世紀のドイツ服飾の歴史が見られるMeyenburgのモード博物館
どちらかというと硬派な分野のスポットを紹介することの多い、この「まにあっくドイツ観光」ブログであるが、たまには趣向を変えて生活文化を扱ってみよう。今回のテーマは服飾である。
そう思いついたのも、ブランデンブルク州の外れも外れ、メクレンブルク=フォルポンメルン州との県境に「マイエンブルク城モード博物館(Modemuseum Schloß Meyenburg)」というものが存在することにたまたま気づいたからである。
日曜の朝、「本日のプログラムはモード博物館に決定!」と高らかに宣言したが、夫はファッションには興味がない、自分はまだ寝ていたいと言う。そこで今回は一人で出かけることにした。
行ってみると、Meyenburgは眠ったような町であった。メインストリートを通過しても、何か面白そうなものがありそうには見えない。
しかし、探していた城、マイエンブルク城(Schloß Meyenburg)は確かに存在した。
こじんまりとしているが、素敵なお城である。
表に小さな看板が出ている。
しかし、入り口のところで「写真撮影はダメですよ」と言われてしまい、軽くショックを受ける。ファッションのミュージアムなのに写真が撮れないとは。そこで、展示が気に入ったらブログで紹介したいのだがと相談したところ、特別に後から写真を何枚か提供して頂けることになった。よかった、よかった。ということで、ここから掲載する全ての写真の著作権はModemuseum Schloß Meyenburgにある。
このモード博物館では、東ドイツFürstenwalde出身の服飾デザイナーでありジャーナリストのJosefine Edle von Kreplさんのプライベートコレクションを展示している。コレクションの内容は1900年代から1970年代までのドイツの女性の衣装とアクセサリーだ。
展示は年代順に、1900年頃の衣装群から始まっている。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
ヨーロッパでは英国で1881年に”Rational Dress Society”が設立され、女性の服装の改革運動が始まった。きついコルセットで体を締め付けた「女性らしさ」よりも快適さや合理性を重視すべきだという考えが広がりつつあったのだ。しかし、女性たちがそれまでの理想像から解放されるまでには長い時間を要した。1906年、フランスのデザイナー、ポール・ポワレがコルセットを必要としないデザインのドレスを考案したことにより、女性の服装が大きく変化することになる。
モード博物館に展示されているこの時代の衣装は、いわゆる女性的なオーナメントが少なく、男性の服装を連想させるものが多い。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1910年頃のサマードレス。この頃、服飾の世界に初めて実用性と美的要素を組み合わせた「デザイン」という概念が生まれた。ドイツ語圏では1911年に「ウィーン工房」が設立される。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1920年代のドレス。この頃にはベルリンがドイツのファッションの中心地となっていた。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
同じく1920年代の服装。この辺りのデザインは現代でも通用しそう。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1920-30年代に流行したオリエンタリズム。
ナチスの時代に入ると、ドイツはファッションにおいても「アーリア化」を進めた。ヒトラーはウィーンとベルリンをパリに代わるファッションの発信地にしようと計画したが、成功しなかったようだ。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1940年代のドイツの女性の服装。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1940年代のバッグ。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1950年代のファッションの理想はイタリアのカプリ島のイメージだったそうだ。(といっても、写真のドレスのような服装がカプリ島を連想させるものであるかどうかは私にはよくわからない)
©Modemuseum Schloß Meyenburg
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1960年代の部屋。この時代には技術の進歩により、それまでには使われていなかった素材が使われるようになり、服飾デザインは大きく変化した。ミニスカートのような斬新なアイテムが登場し、ファッション産業のターゲットが若者にも広がった。
©Modemuseum Schloß Meyenburg
1970年代。こういう帽子、私も子どもの頃に被っていたなあ。
写真で紹介した他にも、多くの衣装やアクセサリーが展示されていて、面白い。まだ行ったことがないのだが、ベルリンにはアール・ヌーボー(ユーゲントシュティール)やアール・デコのインテリアを集めた美術館があるので、このモード博物館と合わせて見ると、より面白いかもしれない。
それにしても感じたのは、女性の服装には実にいろんなスタイルがあるなあということ。現在の流行ではなくても気に入るものはたくさんある。時代など構わずに、みんなそれぞれ好きなものを身につけたらいいのになどと思ってしまった。そんなことをしたらモードというものそのものが消滅してしまうかもしれないが。
服飾史に興味のある人は楽しめるミュージアムだと思う。Meyenburgは先に述べたように他にこれといったものがあるわけではないのだが、北に20kmほど行くとメクレンブルク湖沼地帯(Mecklenburg Seenplatte)と呼ばれる大変風光明媚な人気保養地が広がって入る。湖沼地帯での休暇と組み合わせると良いかもしれない。
「ドイツ統一の日」に西ベルリンの連合国博物館(AlliertenMuseum Berlin)で分断ドイツについて考える
10月3日は「ドイツ統一の日」で祝日だった。
私は東西に分断されていたドイツが再統一された1990年に日本からドイツへやって来た。8月1日、降り立ったフランクフルト空港は当時まだ「西ドイツ」にあった。到着した1週間後に国境を越えて「東ドイツ」を見に行った。そのときに初めて見た社会主義国の風景が今も脳裏に焼き付いている。
ドイツでの生活を始めたのは西側のケルンだったが、それからわずか2ヶ月後の10月3日、旧東ドイツの州が西ドイツに加入することでドイツは再統一された。再統一のその日、花火でも上がるのではないかと期待して大聖堂付近へ行ったら、多くの人たちが集まって統一を祝おうと待ち構えていたが、結局、花火は上がらなかった。「なあんだ」と少しガッカリしてアパートに戻った。あれからもう27年もの年月が流れたのだなあ。
ドイツ統一の日には首都ベルリンを中心にいろいろなイベントが催される。しかし今年は天気が良くなかったので、どこへも行かなかった。その代わりというわけではないが、その翌日、旧西ベルリンにある連合国博物館(Alliertenmuseum)へ行って来た。
連合国博物館は西ベルリンのClayalleeという大通りにある。ドイツの道路は歴史上の人物にちなんで名付けられているものが多い。「カール・マルクス通り」など、聞けば誰のことだかすぐにわかるものもあるが、多くはドイツの歴史に通じていないとピンと来ない。恥ずかしいことだが、私はドイツに20年以上住んでも未だにドイツの歴史に疎く、通り名になるほど有名な人物でも「誰それ?」と首を傾げてしまうことがしばしばだが、ClayalleeのClayとは第二次世界大戦後にベルリンが連合国によって分割統治されていた当時、西ベルリンで行政管理に当たっていたルシアス・D・クレイ米陸軍司令官のこと。この通りに残るかつての米軍の映画館、Outpost Theatherの建物が現在、博物館として使われているのだ。
外観の写真を撮り忘れてしまったので、見たい方はこちらを。二つのドアの向こうがメインの展示室で、ドアの上に”NATIONAL ANTHEM IS PLAYING NOW PLEASE WAIT”というサインが掛かっている。これは当時、映画の前に米国の国歌が流れ、遅れて来た人は国歌が流れている間は外で待っていなければならなかったからだそう。
メインの展示室。
常設展示は4つの部に分かれ、第二次世界大戦における連合国の勝利、連合国によるドイツ及び首都ベルリンの分割統治、戦後の西ベルリンにおける民主主義、そして東西の対立が深まりつつあった1948年のソ連によるベルリン封鎖とそれに続くベルリン大空輸について知ることができる。展示の規模は大きくないが、知らなかったことが結構たくさんあって興味深かった。
戦後、西ベルリンでは自由と民主主義を標榜するメディアとして、Der Tagesspiegel、Der Abend、Spandauer Volksblatt、Der Kurierといった新聞が相次いで刊行された。
特に面白かったのは、当時のアメリカ軍占領セクターのラジオ局、RIAS Berlin (Rundfunk im amerikanischen Sektor)の放送クリップが聞けること。1948年にソ連により西ベルリンへの陸路と水路が断たれ(ベルリン封鎖)、西ベルリンへ空路で物資を運ぶ「ベルリン大空輸(Berliner Luftbrücke)」が始まったが、物資を載せた最初の飛行機がガトウ空港ガトウ空港に降り立つ瞬間やパイロットのインタビュー、7月25日にシェーネベルク空港に飛行機の一機が墜落したことを伝える音声からは当時のベルリンの緊張感が伝わって来る。
展示室の奥のステージへは左右にそれぞれ橋がかかっている(全体が写真に入らなかったので右側だけ)。ベルリン大空輸を表すドイツ語、Luftbrücke(エアブリッジの意味)のブリッジを象徴しているのだろうか。橋の手すりにはドイツ、そして世界全体が戦後どのように分断され冷戦へと突入して行ったのかが年代順に示されていて、それを一つ一つ読みながら橋を渡った。
大空輸においては食料品や日常雑貨の他、エネルギー源として大量の石炭が運ばれた。石炭から舞い上がる埃で飛行機内部の危機が故障したり、引火することを防ぐために特殊な「石炭袋」が開発されたそうだ。
大空輸で西ベルリンへ送られた「Care-Paket」と呼ばれる小包。中身は、コーヒー、ココア、セミミルクチョコレート、ベーコン、ビーフ&グレイビーソース(缶詰?)、レバーペースト、ランチョンミート、砂糖、マーガリン、ラード、ジャム、米、小麦粉、洗濯洗剤、トイレ用石鹸。
大空輸開始当初は1日に運ばれた物資は80トンほどだったが、輸送量は月を追うごとに増えて行き、ピーク時の1949年の4月には1万1700トンが運搬されている。上空での混雑を避けるため、飛行高度や着陸時間、停留時間などが細かく規定された。物資の大部分はガトウ空港ガトウに運ばれたが、テンペルホーフ空港も利用された。しかし、それだけでは追いつかなくなり、急遽テーゲル空港がわずか3ヶ月という突貫工事で 建設された。
テーゲル空港って、たった3ヶ月で完成したのか。それに比べて、とっくに終わっているはずのベルリン新国際空港建設工事は何年経っても進まない、、、。
ところで、ガトウ空港の方は現在、軍事史博物館となっている。当ブログでも紹介している。
ガトウ空港についての記事はこちら。
ベルリン大空輸に関する展示がとても興味深かったのでもう少し引っ張ってしまうが、この空輸作戦にはベルリン空輸回廊(die Luftkorridore)と呼ばれる3つのルートが使われた。南回廊はフランクフルトから、中央回廊はニーダーザクセン州のビュッケブルクから、そして北回廊はハンブルクから西ベルリンへの空路である。航空機の数を確保するため、日本、グアム、ハワイ、カリブ海などの米軍基地からも航空機が調達され、またイギリス軍はかつての植民地からもパイロットを招集していたらしい。この一連の西ベルリン市民救済活動で命を落とした人々も少なからずいた。
常設展示には他にも興味深い内容が多かったが、このくらいに。
一旦、外へ出て今度は別館の特設展示会場へ移動した。
二つの建物の間のスペースには大空輸に使われた航空機がどーんと鎮座している。「ロジーネンボンバー(Rosinen-Bomber)」とも呼ばれた英国製軍用輸送機、Hastings TG504機である。
特設展示会場では現在(2018年1月28日まで)、冷戦時代のベルリンで使われた様々な物が100点、展示されている。こちらもなかなか面白い。
ボードゲーム、Die Mauer(ベルリンの壁ゲーム)。一対一で、それぞれがソ連とアメリカのスパイという設定で遊ぶそうだ。
ドイツは知る人ぞ知るボードゲーム大国で、老若男女、ボードゲームが大好き。しかも、歴史上の出来事はなんでもゲームのネタにしてしまう。冷戦ゲームとか宗教改革ゲームとか原発爆発ゲームまであって、もしかしたら日本人の感覚からするとふざけているとか不謹慎と思うかもしれないが、ゲームは単なる娯楽ではなく学びの要素も大いにあることからドイツでは受け入れられている。
戦後、西ドイツはトルコなどから多くの労働者を受け入れた。これはベルリンの占領セクターを示すトルコ語の看板。
社会主義の東ドイツ(DDR)の積み木おもちゃ。東ベルリンの大通り、カール・マルクスアレーの建物のミニチュアだ。
1994年のドイツ駐留ソ連軍撤退時に発行されたテレフォンカード。
この博物館は無料だけれど、ゆっくり見ると2時間でも足りないくらいだった。しかし、「連合国博物館」とはなっているものの、この博物館が示すのはあくまでも西側諸国、つまり英米仏側から見たベルリンである。ベルリン封鎖以降、ソ連は「あちら側」となっている。ベルリン市内には「ドイツ・ロシア博物館」というのもあるので、今度はそちらも見に行ってみようと思う。
美しい標本に目が眩みそうなフライベルクの鉱物博物館、Terra Mineralia
日本にしばらく里帰りしていたので、まにあっく観光旅行に出かけるのは久しぶり。今回はなぜか、鉱物をじっくりと眺めたい気分だった。ドイツには多くの鉱物博物館があるが、家からさほど遠くない場所で規模の大きいものはないかと検索したところ、ザクセン州フライベルクのTerra Mineraliaがヒットした。
フライベルクはドイツとチェコの国境地帯であるエルツ山地(Erzgebirge)北部に位置する。エルツとは「鉱石」を意味し、一帯は鉱物資源の非常に豊かな地方である。フライベルクは12世紀に銀鉱山が発見されて以来、鉱業で栄えた町だ。現在も、かつての鉱山学校を母体とするフライベルク工科大学(TU Bergakademie Freiberg)があり、鉱山学をはじめ資源開発やエネルギー技術に至るまでの広範囲に渡る地質学教育・研究の中心地だという。ということは、terra mineraliaはかなり見ごたえのある鉱物博物館だと思ってもよいのではないだろうか。鉱物を見にフライベルクへ行く行くと興奮していたら、夫が「オレも行く!」と言うので、私達は大きな期待とともにフライベルクへと向かった。
Terra Mineraliaは、シュロス・フロイデンシュタイン(Schloss Freudenstein)というお城の中にある。
その日はどんよりと暗い日だったが、博物館をじっくり拝観するにはむしろうってつけの天気である。(ドイツは雨や曇りの日が多いからこそミュージアムが充実しているのではないか、などと思ってしまう)
内部はフロア5階分あり、一番上のフロア展示を見ながら降りて行くようにデザインされている。世界中から集めた鉱石標本は地域ごとに展示されている。非常に美的な空間だ。
暗い室内に輝く鉱物のショーケースがずらりと並んでいる。標本を見る前からもうドキドキして来た。
陳列されている標本はどれもうっとりするほど見事なものばかり。例えば、、、、。(相変わらず写真が上手でないけれど、どうかご勘弁を)
標本数は3500点。写真を撮り出すとキリがない。
顕微鏡を覗くのはとても楽しい。
また、初めて見るものに、「光る鉱物の部屋」というものがあった。暗室になっていて、中に入るとショーケースに色々な鉱物が並べられている。
一見、それほどどうということのない石のようだが、、、。
わっ、光った!
色が変わった!!
これらは蛍光鉱物と呼ばれるもので、紫外線を当てると発光するのだそうだ。同じ紫外線でも、UV-A(波長 315–380 nm)とUV-C (波長 200–280 nm)、そしてその両方を同時に当てた時とで色が異なって見える。大変魅力的で、結構長いこと眺めていた。
ギャラリーは延々と続いて行く。
こんなにも多様な美を生み出すとは、自然とはなんと不思議なのだろう。ここまで見るだけでもその膨大な数と種類に圧倒されていたのだが、さらに続きがあった。なんと1階の「秘宝の間」には驚くほど巨大な標本がいくつも陳列してあったのだ。
今までにあちこちで鉱物コレクションを見たが、自分が見た中ではここのは間違いなく3本の指に入る。標本数ではもっと多いところもあったと記憶しているが、Terra Mineraliaは展示の仕方が非常に魅力的だ。大満足でミュージアムを出た。
しかし、これで全てではないのがフライベルクの凄いところ。Terra Mineraliaのすぐ隣には別の鉱物博物館、Krügerhausがある。こちらではドイツ国内で採れた標本が見られる。
世界中から集めた鉱物を見た後だからそれほど感動しないかもしれないと思ったが、コンビチケットで拝観できるので入ってみる。
いやー、ここも決して侮れない。いきなり美しい鉱物断面ギャラリーから始まる。断面の模様は様々で、まるでアート作品のようだ。
こちらのミュージアムでも標本は地域ごとに展示されている。
そしてこれは何!?
壁一面にずらりと並んでいるのは結晶モデルだった。
19世紀に製作されたモデルである。すごいね!
最後に結晶のアップ写真をいくつか。
言葉で形容するのは無理。二つの博物館を見て、とにかく大興奮・大満足である。
ところが、まだあるんです、フライベルクには。この他にもさらにフライベルク工科大で鉱物や化石などのコレクションが閲覧できるというのだから、もう気が遠くなりそうだ。さらには数時間に及ぶ銀鉱山見学ツアーなどもあり、とにかく盛りだくさんである。到底一日では足りない。今回は日帰りだったので上記の二つのミュージアムだけで終わってしまったが、是非ともまたフライベルクを訪れて今回断念したものを体験するつもりだ。
地学や鉱物学ファンにはもちろんのこと、綺麗なものを見るのが好きな人にはとても楽しい場所だと思う。Terra Mineraliaは子どもも楽しめる工夫がしてあるので家族連れにも良い。また、大聖堂や古い劇場、教会など他の見どころもあり、チェコに近いのでボヘミア料理レストランなどもある。いつもとちょっと違うドイツ観光がしたいと思うときに良いのではないかな。
禁じられた町 ヴュンスドルフの地下基地、マイバッハ Iとツェッペリン
今週末はベルリン中心部から40kmほど南下したところにあるツォッセン(Zossen)市の一地区、ヴュンスドルフ(Wünsdorf)へ行って来た。
目的はドイツ最大の秘密基地の一つ、マイバッハI(Maybach I) とツェッペリン(Zeppelin)を見学するためだ。ヴュンスドルフの静かな森の中には巨大な防空壕の残骸がいくつも並んでいるという。それらの施設は第二次世界大戦直前の1937〜39年に建設され、ドイツ陸軍総司令部がそこに移された。冷戦時代にはロシア軍により再利用されていたが、現在はミュージアムとして一般公開されている。
「禁じられた町(Verbotene Stadt)」と呼ばれる基地跡を見学するにはガイドツアーに参加しなければならない。いくつかのツアーがあるが、今回は予約なしで参加できる基本的なツアーに申し込んだ。ツアー時間は約90分。
禁じられた町の敷地内に入り、まずはマイバッハIの敷地を見て回る。Maybach Iには大きさと形が同一の防空壕機能を備えた建物(ブンカーハウス)が12棟並んでいる。Maybach Iと、その後隣接する敷地に建設されたMaybach IIは1947〜1948年にロシア軍により爆破され、現在、廃墟の状態で保存されている。
ハウスA2。地上3階、地下2階の5階建として設計されたブンカーハウスの大きさはいずれも幅16m、奥行き36m。1階の一部と地下は特に強力な厚さ1mの鉄筋コンクリートの天井と壁で守られたコア部分を成していた。
当時はカムフラージュのため屋根や外壁は別の建材で覆われ、ダミーの煙突や窓が取り付けられていた。それぞれの建物には指令棟、調達棟など異なる機能が与えられ、互いに地下9mの深さの地下通路で繋がっていた。業務は通常、地上階のオフィスで行われていたが、空襲警報が発せられるとスタッフは機密文書やタイプライター、無線機、武器、ヘルメットそしてガスマスクなどを持って地下へ避難した。
6つのブンカーハウスを見て回った後は、通信基地Zeppelinの内部に入る。
この通信基地は地下20mに及ぶ3階建てで、現在の内部温度は10℃ほど。とても冷んやりとしている。暖房設備はもともとないが、建物が使用されていた当時は常に500人を超える作業員の体と古い機器から発せられる熱気で寒いどころか、むしろ暑かったらしい。
長い長い通路。このZeppelinもやはり第二次世界大戦後に爆破されたが、冷戦時代、ソ連軍が修理し、再利用した。
ツアーはこれで終わり、敷地の外に出た。しかし、見るべきものはこれだけではない。フェンスで囲まれた敷地の外部にも防空壕がいくつも残っているのだ。
Winkelと呼ばれる防空壕。尖っているのでSpitzbunker(尖ったブンカー)とも呼ばれる。「禁じられた町」内部への避難を許可されない警備員や民間作業員の一時避難用に建てられたもの。
基地周辺にニョキニョキと巨大なタケノコのように立っている。
アパートの庭にもどーんとそびえているのには驚いた。現在ここに住む人はどんな気持ちでこのブンカーを眺めているのだろうか。このようなSpitzbunkerの内部は8階まであり、最高315人を収容できる。こうしたタイプの防空壕は地下に掘るものよりも建設が簡単でコストも安く済むため、多く作られた。地上にあるとその分危険なように感じるが、上から見た面積を小さくすることで空から降ってくる爆弾をうまくよけることができるという。
そして、ヴュンスドルフにはさらにいくつかのミュージアムがある。その一つはプロイセンの時代からすでに軍事拠点だったヴュンスドルフの軍事史を知ることのできる駐屯博物館(Garnisonsmuseum)だ。
展示品は豊富なのだが、年代順に展示されておらず、説明文の大部分は壁ではなく各コーナーに置かれたファイルの中にあるため、軍事史の予備知識がないとちょっとわかりづらいのが残念。
ヴュンスドルフには第一次世界大戦の捕虜収容施設があった。捕虜の多くはイスラム教徒で、「捕虜には人間的な待遇をしていますよ」という対外アピールのため、敷地内にはモスクが建設された。このモスクは現在は残っていないが、ドイツ国内に初めて建てられたモスクである。
野戦病院に関する展示。
「赤い星ミュージアム(Roter Stern)」も見学した。こちらではロシア/ソヴィエト軍に関する展示が見られる。
ロシア語は読めないので、何が書かれているかわからない。残念。
ヴュンスドルフはかなり見応えのある観光スポットだ。ベルリンからのアクセスも良い。それにしても、ドイツはどこもかしこも戦争の傷跡だらけだ。暗く悲惨な過去など見たくないと思ったとしても、避けることは到底できない。戦争の恐ろしさを繰り返し繰り返し思い出させられる。
褐炭露天採掘用の巨大な掘削機が鎮座する野外ミュージアム、FERROPOLIS
ここのところ忙しくてすっかり間が空いてしまったが、ようやく時間に余裕ができたので、久しぶりにまにあっく観光に出かけることにした。晴天の今日は野外の観光スポットが目的地としてふさわしい。そこで、かねてから行きたいと思っていたデッサウ近郊の野外ミュージアム、Ferropolisへ。
FerropolisとはFerro(鉄の) + polis(町)、「鉄の町」を意味する。そこはザクセン=アンハルト州Gräfenhainichen近郊の湖にせり出した細長い半島。東ドイツ時代には褐炭の露天掘り場だった場所である。ドイツが再統一の翌年、1991年に採掘場は閉鎖されたが、使われていた5台の掘削機が陳列されているという。このブログでこれまでにいくつか紹介して来たように、旧東ドイツには閉鎖後の産業施設が観光地されているところがたくさんある。褐炭産業関連のミュージアムが特に多いが、このFerropolisもその一つだ。デッサウ・バウハウス基金の発案により建設された。
国道を降りてFerropolisの案内標識に従って周囲に何もない田舎道を進んで行くと、遠くに掘削機が見えてくる。当時の炭鉱従事者のポートレートが壁面一面に描かれた建物のすぐ向こうがミュージアムだ。
駐車場脇の入り口で入場料を払い、オーディオガイドを首に下げて見学開始。
(Image: Ferropolis)
半島を上空から見たところ。中央のアリーナを取り囲むように5台の掘削機が配置されている。
湖に面した位置にあるのはMad Maxと名付けられたバケット掘削り機。稼働中は1時間に1920立方メートルもの土を運んだという。
Mosquito(手前)とMedusa(奥)。
5つの掘削機のうち、最大規模のGeminiには上ることができる。
上からアリーナを見下ろす。
バケットホイールエクスカベーター、Big Wheel。
敷地には小さなミュージアムもある。しかし、展示からはあまりやる気が感じられなかった。
採掘中に氷河時代のマンモスの骨が出て来たらしい。
「戸籍課」と書いてある部屋。
中はかつてのコントロール室。ここで入籍式が挙げられるらしい。ドイツ人は変わったところで結婚するのが好きなようだ。
この野外ミュージアム敷地ではライブコンサートや蚤の市などの催しが頻繁に開催される。
Melt Festival 2012 – Der Freitag – 13.7.2012 (Image: Ferropolis)
こんな感じにライトアップされるらしい。野外コンサートの会場としてはかなり良さそうである。
正直なところ、展示室の展示は充実していないので、この野外ミュージアムは学びの場というよりもイベント会場として捉えた方が良い。子ども連れであれば蚤の市などの昼間のイベントに、大人は夜のイベントが楽しめそうだ。