久しぶりにライプツィヒへ行って来た。ライプツィヒ旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二番目の大都市で、見所がとても多い。これまで何度か訪れているが、まだほとんど知らない状態だ。今回は一日だけの滞在だったので、2つのスポットに絞って観光した。最初に見たのはライプツィヒ学校博物館( Schulmuseum – Werkstatt für Schulgeschihcte Leipzig)である。

学校博物館というのはドイツ各地にあり、それぞれその町または地域の学校の歴史を紹介している。昔の筆記用具や教材など、日本のものとは違うのが興味深い。その中でもライプツィヒの学校博物館は特徴ある博物館だ。ライプツィヒは20世紀初頭からオルタナティブ教育運動の中心地の一つだった。ライプツィヒでは1920年に体罰が禁止され、自然の中で学ぶ共学の私立校「森の学校」が創立され、発展するなど多くの画期的な試みが生み出された町なのだ。しかし、その後ライプツィヒはナチスと旧東ドイツ(DDR)という二つの独裁政治を続けて経験し、学校教育もそれらのイデオロギーの影響を大きく受けることになった。

 

ライプツィヒ学校博物館の常設展示は1933年までのライプツィヒの学校の歴史と、1933〜1989年までの歴史の二つのフロアに分かれている。

 

昔の理科教育に関する展示。

 

歴史を感じる古い実験器具。他にも昔の算数の教材や筆記道具など古い学校用具がいろいろ展示されていて興味深い。見るだけでなく、課外授業として小学校の生徒たちが昔の学校を体験できるワークショップなども行なっている。

学校用プラネタリウム。

 

前半の展示も面白かったが、後半の1933年以降の展示はとても考えさせられるものだった。

ナチスの時代の教室風景。ナチスが政権を取ると、せっかく廃止したばかりの体罰が教育現場に再び導入された。

算数の教科書にはキャンプファイヤーを囲むヒトラーユーゲントの少年たちが描かれている。

ナチス以前、ライプツィヒにはボーイスカウトなど多くの青少年組織が存在したが、ナチスはヒトラーユーゲント以外の全てを禁じた。反ナチスのグループを結成し活動する若者もいたが、彼らは弾圧され、投獄や更生施設への収容など、処罰の対象となった。上の写真にある電話機の受話器を耳に当てると、ヒトラーがヒトラーユーゲントの少年少女たちに向かって行った演説やヒトラーユーゲントに属していた子どもたちのインタビューを聞くことができる。

 

 

ナチスによる洗脳の時代がようやく終わったと思うと、ライプツィヒを含む東ドイツでは、今度はSED(ドイツ社会主義統一党)による洗脳の時代が始まる。

自由ドイツ青年団(FDJ)を創設したエーリッヒ・ホーネッカーの肖像画が飾られたDDR時代の教室風景。自由ドイツ青年団は社会主義の理想の滋養を目的に14歳から25歳の少年少女を対象とした組織だったが、後に14歳未満の子どもに対しても「ピオニーレ(Pioniere)」(Thälmanpioniere 10〜14歳 Jungpioniere 6〜10歳)と名付けられた組織が設けられる。ピオニーレに屬する子どもたちはユニフォームとして白いシャツの首元に「ピオニーレ・トゥーフ」というスカーフを巻き、青いズボンやスカートを履いた。

この時代の算数の教科書にはピオニーレのユニフォームを来た子どもが描かれている。ピオニーレへの参加は任意だったが、学校のクラスが実質的にピオニーレの単位と同じだったため、組織に参加しない子どもは疎外感を味わうことになり、その後の教育機会において様々な不利を被った。

 

戦後、西ドイツ同様に東ドイツにも他の社会主義国からの出稼ぎ労働者など少なくない数の外国人が生活していた。西ドイツでは戦後、教育の場において異文化理解に力が注がれたが、東ドイツでは特にテーマとなることはなかったそうだ。旧東ドイツにおいては人種や国籍の違いよりも、自由ドイツ青年団に参加しないことやキリスト教を信じていることなどイデオロギーに賛同しないことが異質とみなされた。壁崩壊直前の1989年には全体の88%が組織に参加していた。

 

どの国においても基礎教育は全ての子どもに必要なものだが、教育はしばしば特定のイデオロギーを子どもに植え付けるための手段となる。自由に意見を述べることができなかったり、周囲と違っていることを非難される環境は教育が本来持つはずの意義を失わせる。

展示パネルの一つに描かれていた次の文面が印象に残った。
子ども時代、青年時代に権威的な集団教育を受け、個人的な発展の機会を十分に与えられなかった者は、自信を確立することができない。社会性を育む時期に自らのパーソナリティを自由に発展させる機会が十分になかった子どもは、異質な人間を脅威とみなしがちになる。社会の問題のスケープゴートにされ続けた者は、自らその行動パターンに陥りがちである

 

 

注: この博物館は残念ながら閉鎖したようです。別の場所への移転計画があるようですが、現時点では確定的な情報がありません。本記事は過去の情報としてお読みください。

ツヴィッカウでホルヒ博物館を見た後はコンビチケットで入れるもう一つの博物館、「トラバント博物館」(International Trabant-Register、通称Intertrab)へ行くことにした。

カーナビを使ったのにも関わらず、工事で通行止めになっている場所があったりして、なかなか見つからない。いろんな人に聞いて、ようやく探し当てた。

えっ、ここ、、、、!?

入り口。

係員はおじさん一人。売店(?)ではビールも買える。

倉庫にトラバントや関連グッズを並べただけのこのミュージアムを運営するのは20年ほど前に結成されたトラバントファン同好会、Internationales Trabant-Register e.V.。

私がドイツに来たベルリンの壁崩壊直後はトラバントは「ダサいもの」の代名詞のような車で旧東ドイツの人々は西側の自動車を所有したがったし、旧西ドイツの人々もトラバントを見て苦笑していたものだが、それから30年近く経った今ではレトロな車としてツーリストにも人気だ。

トラバントパトカー。最高時速100kmしか出なかったようだ。それでパトカーが務まるの?と思ってしまうが、そもそも旧東ドイツはトラバントしか走っておらず、そのどれもが低速でしか走れなかったのだから特に不都合はなかったのだろう。

これも東の人には懐かしいMINOL石油のガソリンメーター。

DDR時代のキャンピングスタイル。

あまり見かけることはないけれど、オープンタイプもあったようだ。

内装は極めてシンプル。

「Super-Trabi」と呼ばれた1988年製。有名人が乗っていた。

現在、特別展示として子ども用の乗れる車のおもちゃを展示している。

鯉?

よく見るとDDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのシールがたくさん貼ってある。

乳母車おもちゃのシンプルなデザインがいい。

トラバントレース、、、、。

冗談としか思えないけれど、当時は真面目だったのだろうな。

よくわからないポスターも貼ってあった。

トラバントは可愛くて好きだけれど、ホルヒ博物館を見た後で見るとギャップがあまりに凄くて、同じ工場で作られた製品だとはとても信じられない。

以下はツヴィッカウにおけるトラバント生産に関する動画。(ドイツ語)

 

ケムニッツを午前中に出発し、途中、リヒテンシュタインの木工美術館、Daetz-Centrumを見てからさらに西へ移動し、ようやくツヴィッカウ(Zwickau)に到着。ツヴィッカウはケムニッツとはまた雰囲気の違う町で、Gründerzeit様式と呼ばれる19世紀後半の建物が残っている地区もあってなかなか趣があった。通りかかった住宅街に建つ教会が見事で、思わず車を停めて写真を撮る。

 

Moritzkirche

 

さて、ケムニッツ同様ツヴィッカウにもミュージアムはいろいろあるが、その日のうちに家に帰らなければならなかったので、的を絞らなければならない。今回、白羽の矢が当たったのは、August-Horch-Museum

 

ツヴィッカウは車の町である。(作曲家ロベルト・シューマンの生まれた町でもある。)ドイツに車の町はたくさんあるが、その中でもツヴィッカウは戦前の高級車ホルヒを生み出した町として有名だ。

と知ったようなことを書いているが、実は私はホルヒという車メーカーのことは全く知らなかった。ホルヒはかの「アウディ」の前身だそうである。1898年ホルヒ社を創立したホルヒ氏が経営陣とケンカして飛び出して1910年に新たに作った会社がアウディだ。その後、ホルヒ、アウディは米国の自動車メーカーのドイツ進出に対抗すべく、オートバイメーカーのDKW及びヴァンダラーとともに「アウトウニオン」を結成。第二次世界大戦までケムニッツを本拠地に自動車・オートバイを生産した。

ホルヒ博物館はかつてのアウディの工場の建物を使っている。

 

ドイツ全国にはなんと250を超える乗り物系(主に車やバイク)ミュージアムがあるらしい!いやはや、、、、。まさに車大国、ドイツ。しかし、自動車工場の建物を利用したミュージアムは全国でもここだけだとか。

 

館内にはホルヒの様々なモデルが展示されているとともに、ホルヒ社が辿った歴史を壁のパネルとオーディオガイドで知ることができる。

 

しかし、、、車に関する背景知識がほぼゼロの私は、どれを見ても「カッコイイ」「なんか凄そう」しかわからない、、、。一応説明は真面目に読み、オーディオガイドも聴いていたが、正直なところ、ちんぷんかんぷんであった。残念。

というわけなので、今回は説明は省いて写真だけ並べさせてもらおう。

 

ホルヒはナチスの公用車としても使われた。このタイプの第一号はブエノスアイレスのドイツ大使館に納品された。

 

 

これはどこかで何かの役に立ちそう?と思い、写真を撮る。

 

軍用車としても使われた。

 

 

 

アウトウニオンは敗戦後、占領ソ連軍により解体された。終戦直前に西ドイツのインゴルシュタットに逃れた経営陣によりアウトウニオンは再結成され、その後ダイムラー・ベンツに吸収合併されて西ドイツのメーカーとして発展を遂げる。かたや東ドイツの町となったツヴィッカウのホルヒ工場は東ドイツ人民公社ザクセンリンク(VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau)の名の元にDDRのシンボルとして今も根強いファンのいる「トラバント」を生産することとなったのである。レーシングカーで華々しいスタートを切り、超高級車ブランドとして世間を魅了したホルヒの工場が後にはトラバントの生産工場になったと思うと、なんだか物哀しさを覚えるなあ。

 

このホルヒ博物館はこの博物館だけ単独で拝観することもできるが、コンビチケットでもう一つの別の博物館とセットで見るのがおすすめだ。そのもう一つの博物館とは、、、、。次回の記事に続く。

 

 

一泊二日弾丸まにあっく旅行の二日目には、ケムニッツから南西へ約50kmのところにあるツヴィッカウ(Zwickau)を訪れる予定だった。でも、その前に寄りたかった場所が一つ。両市の中間地点にあるリヒテンシュタイン(Lichtenstein)という小さな町だ。ヨーロッパにはドイツとスイスに挟まれたリヒテンシュタインという国があるが、それとは別である。そこへ何しに行ったのかというと、それは世界中の木工美術の一級品が見られるというデーツ・ツェントルム(Daetz-Centrum)を拝観するため。

ケムニッツ北部から車で移動すると、丘の下り坂からこじんまりとした美しい町が見える。秋が深まっており、紅葉が綺麗だった。

 

木工美術館、Daetz-Centrum。右側の建物が美術館だが、左側の建物から入り、地下を通って美術館に入るようになっている。

 

ロビーに飾られたタイの見事な木彫。

 

Daetz-Centrumは1998年に地元の名士であるDaetz夫妻が木工美術を通じた国際交流を提唱し、Daetz財団を設立して世界中から木工美術品の傑作を集めて実現した美術館だ。コレクションの中から約550点が一般公開されている他、工芸ワークショップや国際木工芸術シンポジウムも行なっている。

館内には地域ごとに作品が展示され、一巡すると世界旅行気分を味わえる。

 

チケットを買い、オーディオガイドを受け取って展示室に続く階段を降りると、階段の下にはミャンマーの籠車が置かれていた。最初から凄い。

 

この美術館のために特別に作られたというニュージーランドの先住民族、マオリの門。オーストラリアのアボリジニーと異なり、マオリは古くから独自の木工芸術の伝統を持っていたという。

 

インドネシア、イリアンジャヤの木彫りの像。祖先崇拝の儀式で使われるものだ。もう20年以上前になるが、私は文化人類学を専攻していたことがあるので、かなりテンションが上がって来た。オーディオガイドの説明は文化人類学的背景にも触れており、とても面白い。

 

オセアニアの次はアフリカ。これはタンザニアのマコンデ族に木彫りの彫刻。マコンデの美術品を鑑賞するのはこれが初めて。

 

ディテール。

「セクシュアル・エクスタシー」という作品。

こちらはカメルーンのもの。アフリカのいろいろな国の作品が展示されていて、それぞれ特徴が違って面白いのだけれど、私はタンザニアとカメルーン美術が特に気に入った。

 

マスクの部屋。文化人類学博物館はあちこちで見ているし、インターンをやったこともあるけれど、ここに飾られているものは文化人類学的観点よりも芸術品としての観点で集められたものなので、かなり新鮮だ。

 

ヨーロッパコーナー。Göpelpyramideと呼ばれるドイツのクリスマス飾り。エルツ地方の伝統工芸である。

 

さらに進んでいろいろな作品を眺め、振り向くと薄明かりの中、椅子の上に上着がかけっ放しになっている。あれ、なぜこんなところに?と思ってよく見ると、

これも木製?なんという柔らかな質感。

 

 

カナダの先住民族の美術。

 

中国の作品。

 

インド。

 

バリ島製のチェスピース。

 

うわーーーーー!

 

 

最後はイスラム美術コーナー。

 

モロッコの天井ドーム。

 

国のリヒテンシュタインは誰もが知っているが、ドイツ、ザクセン州の小さな町、リヒテンシュタインを知っている人はあまりいないのではないだろうか。このような田舎(失礼)にこんな素晴らしい美術館があるのだから、地方も侮れない。

誰も知らないようなマイナーな場所に面白いもの、素敵なものを見つけるのがまにあっく観光旅行の醍醐味。

 

 

 

ケムニッツ旅行二日目。朝、目が覚めたら前日の長距離運転と博物館巡りの疲れがまだちょっと残っていたが、だらだらしているわけにはいかない。ベッドから飛び出し、宿を早々にチェックアウトして外に出た。

というのは、ケムニッツの北の外れの丘陵地にあるという洞窟、Felsendomeを訪れるつもりだったから。そこは、かつて石灰石の採掘場だったところらしい。ガイドツアーに申し込まなければ中に入ることができないが、ツアーは一日に一回、午前中のみ。ホテルからの移動にどのくらいかかるかわからない。遅れてツアーに間に合わないと困ると、朝ごはんも食べずに車に乗って出発した。

 

思ったより近く、ケムニッツ中心部から20分ほどで到着。ケムニッツは「Stadt der Moderne(近代的な町)」と呼ばれていて、中心部に古い町並みはほとんど残っていないのだが、この洞窟のあるRabenstein地区は静かな住宅地で景色が美しく、趣がある。

早く着き過ぎたので、近くのガソリンスタンドでコーヒーとサンドイッチを買って、洞窟付近の空き地で食べた。ふと、「なぜ自分は一人でこんなことをしているのだろう?」と思わないでもなかったけど、せっかくここまで来たからには洞窟に入りたい。

ツアーに申し込んだのは私と、5歳くらいのお孫さんを連れた年配の女性の3人だけだった。ザクセン訛りの強いガイドさんにヘルメットを手渡される。

 

洞窟入り口。

「洞窟の内部は写真撮影できません」とガイドさんに釘を刺された。フラッシュを当てると石灰石の壁が変質する恐れがあるからだろう。写真を撮れないのは残念だけど、自然保護のためだから仕方がないね。

 

通路は狭く低く、腰を屈めないと歩けない。年配の女性はヘルメットを被り、お孫さんの手を引いてズンズンと前を進んで行く。なんだかカッコいい。

この洞窟がいつから石灰石の採掘に使われていたか正確にはわかっていないが、遅くとも1365年には利用されていた記録が残っているそうだ。1865年からは、洞窟内の気温が年間を通して約7 ℃に保たれることからビールの貯蔵庫として使われた。その後、観光化され、旧東ドイツ時代には国民の人気観光スポットとなっていた。ドイツが再統一されてからは旧東ドイツの外の観光地へも自由に行けるようになったので、以前ほど多くの人は訪れなくなったとのことである。

 

洞窟内にはコウモリの巣がたくさんあり、目の前の暗闇をバタバタとコウモリが飛んで、雰囲気満点。お孫さんは「すごい!」「かっこいい!」を連発している。

中はこんな感じ。(写真が撮れないので、絵葉書で紹介します)

 

 

ガイドの説明を聞きながら中を見て歩くだけでも十分に面白いが、この中で結婚式も挙げることができるというのだ。一番広い洞穴には椅子が並べてあった。

「ロマンチックでしょう?それに、音響がいいのでね。ちょっと椅子に座ってみてください」

言われた通りに腰掛けると、ガイドさんはプレイヤーのスイッチを入れ、音楽をかけてくれた。婚姻手続きのためのテーブルのカバーを外し、燭台を並べる。なるほど、確かにロマンチックだ。でも、気温は7℃。ウェディングドレスでは寒そうだなあ。それに、新郎新婦が入って来るにも、バージンロードはドロドロ。相当マニアックなカップル向けかもしれないと可笑しくなった。ドイツ人は変わったところで結婚するのが結構好きなのだ。たとえばこんなところとか。

 

さらに、この洞窟内ではダイビングもできる!(詳しくは以下の動画をどうぞ)

 

 

これは、、、、かなり上級者向けだろう。

 

 

出口。30分ほどでまた外界に出た。なかなか面白かった!

 

お孫さんも満足したようだ。おばあさんは私の方を見て、「子どもには小さいうちにいろんな経験をさせなきゃね!」と言い、孫を車に乗せルト、「じゃあね!」と颯爽と走り去った。

カッコいい〜。こんなおばあさん、いいなあ!

 

さてと、私も次のスポットへ移動することにしよう。

 

 

三度の飯よりも博物館が好き!

これは誇張ではなく、実際に旅先では食べることよりも博物館を優先してしまう私である。外国へ行ってそこにしかない郷土料理がある場合はもちろん食べてみたいけれど、ドイツ国内旅行のときには、美味しいものは別にいつでも食べられるのだから、限りある時間を博物館を見ることに費やすのだ。

昼過ぎにケムニッツに到着してからケムニッツ産業博物館ドイツゲーム博物館を見終わってから宿にチェックインし、時計を見ると18時。すでにほとんどの博物館は閉館している時刻である。しかし、まだ開いているところがあった!その日は木曜日だったが、ケムニッツの考古学博物館、Staatliches Museum für Archäologie Chemnitzは毎週木曜日、20時まで開いているのだ。

 

ケムニッツの考古学博物館は町の中心部にあって、アクセスがとても良い。博物館らしからぬ雰囲気の建物で、入り口には 「SCHOCKEN」という大きな文字。schockenというのはドイツ語で「ショックを与える」という意味なので、一体何のことだろうかと首を傾げた。

©︎smac

後で知ったことによると、この博物館の建物は元デパートで、Schockenというのは当時のデパート名だそうだ。1930年に建築士エーリヒ・メンデルスゾーンにより設計された。今まで知らなかったのだが、メンデルスゾーンはポツダムにあるアインシュタイン塔も手がけた著名なユダヤ人建築家だという。

 

この博物館には約30万年前にザクセン地方に最初の狩猟・採集社会が形成されてから産業化が始まるまでの間の人類の遺品が展示されている。展示品は約6200点と堂々たる規模である。3フロアに渡って年代順の展示となっている(1階はネアンデルタール人の時代から石器時代初期まで、2階には中世初期まで、3階がスラブ民族の定住から産業革命の前まで)。

 

館内は白で統一されていて、とても綺麗。

 

動物の骨もお洒落にディスプレイされている。デザイン性の高いミュージアムだ。

 

これはsmacの目玉、パノラマギャラリー。

 

考古学的発掘物もこのように飾られると、思わず見とれてしまうね。

 

ドレスデンの聖母教会から発掘されたデスクラウン。未婚の若い女性の遺体が被っていたものだそう。このように繊細で洗練された装飾品がこれほど良い状態で保存されていたことに驚く。

 

マイセンで見つかった紀元前1700〜2200年頃のアクセサリー。うわー、こんな重いものを首につけたら肩が凝りそう、、、。

 

紀元前1000〜1200年ごろの青銅器。

 

とこんな感じで、かなり良い博物館だったのだが、家からケムニッツまで何時間も車を運転し、ほとんど休憩もなく二つの博物館をじっくりと見た後だったので、実はもうヘロヘロの状態だった。オーディオガイドを聞いていてもあまり頭に入って来ない。残念、、、。

 

今回はじっくり味わうことができなかったが、是非もう一度訪れたいミュージアムである。

 

 

 

 

ケムニッツの産業博物館は堂々たるミュージアムだったが、次に向かったのはおそらく存在をほとんど知られていないであろうマイナーなミュージアム、ドイツ・ゲーム博物館(Deutsches SPIELEmuseum Chemnitz) である。

 

というのは、最近、ドイツのボードゲームが気になって仕方がない。ドイツ人は老若男女ボードゲームが好きで、多くの家庭では居間の棚にボードゲームの箱が山積みになっている。子どもだけでなく、大人同士でもシュピールアーベント(ゲームの夕べ)と称して数人が集まり、夜通しゲームをして遊んだりする。

ドイツでは年間400〜600の新しいボードゲームが市場に出るとされ、まさにボードゲーム大国である。国外にもドイツのボードゲームファンは多いようだ。

実は私はこれまでそれほどボードゲームで遊んで来なかった。パズルや数独のようにシングルタスクを一人で黙々とこなすタイプのゲームは大好きなのだが、頭の回転が遅いので複雑なゲームはどちらかというと苦手。クリスマスに義両親の家でトランプや定番のゲームをやるくらいだった。ところが、ドイツ国内の歴史系の博物館を回っているうちに、ドイツ人は政治や歴史上の出来事も、ことごとくボードゲームにしてしまうことに気づいたのだ。例えば、ベルリンの壁ゲーム、冷戦ゲーム、ベルリンの壁崩壊ゲーム。宗教改革から500年の今年は宗教改革ボードゲーム、Lutherがリリースされた。

ゲームで遊びながらドイツを知るっていうのもいいんじゃないか?そんな気がしているのである。そんなことを考えているうちにドイツ・ゲーム博物館に到着。

 

新しいが、倉庫のような建物。

うっかりして会館の20分も前に行ってしまったのだが、館員さんに「本当はまだだけど、どうぞ入って」と中に入れてもらった。おまけに「遠いところから来たのね。じゃ、入館料はいいわ。案内するわね」と無料で中を案内してもらえることに。ドイツ・ゲーム博物館はもともとは1986年、ハンブルクに設立された。しかし、コレクションが膨大となりスペースが足りなくなったため、1995年にケムニッツへ移転。なぜケムニッツかというと、旧東ドイツ時代、ゲームやおもちゃの6割がこの町で生産されていたからだ。現在、このミュージアムには万単位の数のゲームが保管されている。

 

ミュージアムの1階部分は遊ぶスペースで、壁際にボードゲームがぎっしり積み上げられている。

ゲームは実際に遊んでみなければ始まらない。ここでは誰もが気軽にボードゲームで遊ぶことができる。地元のゲームメーカーがこのミュージアムのスポンサーとなっており、最新作を提供しているそうだ。ドイツには各地にシュピールカフェと呼ばれるゲームカフェがあるが、その中でもここが特に多くの種類のゲームを揃えていることは間違いない。子ども向けゲームイベントも頻繁に開催している。

2階の展示スペースへ上がる階段から1階を見下ろす。

 

1979年より毎年、選出されるドイツ年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)を受賞した選りすぐりのゲーム。

 

さて、2階の展示を見てみることにしよう。

ゲームの4つのカテゴリー、スキル系ゲーム、運によるゲーム、戦略系ゲーム、ミックスゲームごとに古いゲームが陳列されている。

スキル系ゲーム。いわゆる知育玩具。

 

これは、、、。KOSMOS社の実験キット!こんなに古くからあったのか。現代版には我が家の子どもたちも随分とお世話になった。

すごろく。

 

 

おそらくどこの家庭にもあるドイツのボードゲームの定番中の定番、Mensch ärgere dich nicht。しかしこのゲーム、インドの国民的ゲームであるパチーシが元祖だという。戦略系ゲームの棚にはチェスなどの他に古い囲碁ゲームも並べられていた。

 

第一次世界大戦ゲーム。

 

さらに、展示室の奥はDDR時代のゲームコーナーとなっていて、これが面白かった。DDR時代に生産されたゲームの80%は子ども向けで、教育効果を狙ったものだった。といっても、政治的プロパガンダの要素は濃くなかったと説明には書かれている。社会主義国家だから、ギャンブル系ゲームや資本主義的なモノポリーゲームなどはもちろん禁じられていた。しかし、それらを真似て作られたゲームが闇で売買されていたらしい。

 

DDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのゲーム。

キノコ狩りゲームも定番だったようだ。

スプートニクゲーム。

 

80年代にMartin Böttger氏により考案された国家批判ゲーム、Bürokratopoly。当然、このようなゲームでおおっぴらに遊ぶのは非常に危険だったため、アンダーグラウンドで広がった。DDRが消滅した現在は教育ツールとして学校で使われているらしい。面白そう。遊んでみたい。

このようにドイツのボードゲームは社会を反映している。いろんなゲームをやってみたくなって来た!

 

展示を見終わって1階に戻ると、先ほどの館員さんが「ちょっとあなた、館長が来たから話していったら?」と声をかけてくれた。

「ドイツって、ボードゲームが盛んで種類がたくさんありますね。どうしてドイツではこんなに多くのゲームが発達したんでしょうか?」と聞いてみると、「そうですね。ドイツは職人の国ですからね。職人技を余暇にも活かしたと言えるでしょうね」との答えが返って来た。

「でも、今はコンピュターゲームの時代ですよね。それでもボードゲームは人気ですか」

「もちろん、コンピューターゲームもたくさん作られていますよ。でも、コンピューターゲームが広がってもボードゲームは無くなりません。それどころか、ますますボードゲームの人気は高まっていますよ。やっぱり、人と一緒に同じ空間でゲームをするって楽しいですからね」

さて、どんなボードゲームがあるのか、早速チェックしてみようっと。

 

 

旧東ドイツのマニアック観光スポットはもうずいぶん回っているが、まだまだ未知の領域がたくさんある。特に南部のザクセン州は見所が非常に多く、何度足を運んでも見尽くせない。今回はまだ行ったことのないケムニッツとツヴィッカウ方面を探索することにした。といっても1泊2日の強行軍なので、どれだけ見られるかな。

まずは、あらかじめ目星をつけておいたケムニッツの産業博物館(Industriemuseum Chemnitz)を目指した。

 

ケムニッツはザクセン州でドレスデン、ライプツィヒに次いで3番目に規模の大きな町だ。18世紀、紡績業を中心にドイツ産業革命の重要な拠点として発展を遂げて以来、ザクセン州における工業の中心地である。古くからあった機織り工場から次第に機械工業が発達し、特殊技術を持つ企業が次々と創業した。20世紀初頭にはザクセン州はドイツで最も産業の発達した地域となっていたそうだ。旧東ドイツ時代、「カール=マルクス=シュタット」と呼ばれたケムニッツの街並みは非常に近代的で風情があるとは言い難いのだが、良いミュージアムが多くある。

 

ケムニッツ産業博物館入り口。

 

館内に入るとまず目につくのがこのレーシングカー、eGon。西ザクセン大学ツヴィッカウで開発された電気レーシングカーだそう。

 

名前から想像できるように、この博物館はザクセン州の工業の歴史を伝え、産業遺産を保存・維持することを目的としている。これまで東ドイツの産業博物館をいくつか見て来たが、このケムニッツのミュージアムで展示室に足を踏み入れて真っ先に感じたのは「空間が美的であること」だった。他の産業系ミュージアムではどちらかというと錆びついたり塗装が剥がれたり油にまみれた古い機械や装置を目にすることが多かったが、ここに展示されているものは磨き上げられた美しいものばかりなのだ。

 

 

ザクセン州の工業発展の流れを示すプラットフォーム。

 

 

 

著しいスピードで産業革命の進んだザクセン州だが、急激な工業化は市民の中に階層を生み出した。労働者運動が高まる中、現在のドイツ社会民主党(SPD)の母体となった全ドイツ労働者同盟が創設されたのもザクセン州のライプツィヒである。ザクセン州はドイツの社会変革の歴史において中心的な役割を果たして来たようである。

しかし、第二次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、東側にあったほとんどの産業施設は戦後賠償の過程でソ連に接収されることになる。また、約2万社が西ドイツ側に逃れ、新たな拠点で再出発した。

百科事典出版社のブロックハウス、アウディ、レンズのツァイスなど、日本でも名前をよく知られた多くの企業は元々は東ドイツの企業だった。社会主義国となった東ドイツ(DDR)では、全面的な解体を逃れた工場は国営工場として計画経済を担ったが、1989年、国全体に「平和な革命」が広がり、ついにベルリンの壁が崩壊する。

1989年に反政府デモが起きた場所。ザクセン州は特に密度が高い。なんと163箇所でデモが行われたという。

 

なんとなく革命の中心地はベルリンのように思っていたが、ザクセンの市民らがドイツ統一のために果たした役割は大きかったのだなあ。しかし、東西ドイツが統一されてみると東の産業は西側先進国の基準を満たしておらず急激に衰退することになる。統一からわずか3年のうちにおびただしい数の人々が職を失ってしまう。

 

戦後ほぼ全てを奪われ、そしてドイツ統一が果たされたと思ったら再び産業の大部分を失うことになったとは。大変だったのだなあ。

 

 

さて、見慣れないこの大きな機械。第一次世界大戦ごろまで使われていた刺繍機出そう。刺繍機というものを初めて見た。

 

左側の図面上に針を刺し、レバーやペダルを操作することで布地に同じ模様を色ごとに刺繍して行く。

 

ちょうど担当の技術者がいたので実演してもらった。こうした機械は工場ではなく一般農家で使われていたそうだ。畑仕事のできなくなる冬季、農家はこのような機械をリースして刺繍作業に従事した。

 

 

地下には紡績業で使われて来た様々な機械が展示されている。

 

以前は機械にはほとんど興味がなかった私だけれど、このミュージアムの機械を眺めていると、機械というのも美しいものだなと感じる。機能美にすっかり見とれてしまった。

 

 

 

 

美しいとは思うものの、機械については詳しくないので眺めているだけ。でも、だんだんと産業史が面白くなって来た。この「まにあっくドイツ観光プロジェクト」(と自分で勝手に名付けた)を始めてから産業遺産を見て歩くようになったのがきっかけだが、年を取るにつれ物事を時間の経過の中で考えるようになったことも関係しているかもしれない。若い頃には興味が持てなかったいろいろなものを面白いと思えるようになって来たのは嬉しい。

ということで、ケムニッツ観光の最初のスポットには満足した。この博物館ではガラス張りの展示スペースでロボットが車を作っているところを観察することもできるので、小さな子どもも喜びそう。

 

 

 

 

どちらかというと硬派な分野のスポットを紹介することの多い、この「まにあっくドイツ観光」ブログであるが、たまには趣向を変えて生活文化を扱ってみよう。今回のテーマは服飾である。

そう思いついたのも、ブランデンブルク州の外れも外れ、メクレンブルク=フォルポンメルン州との県境に「マイエンブルク城モード博物館(Modemuseum Schloß Meyenburg)」というものが存在することにたまたま気づいたからである。

日曜の朝、「本日のプログラムはモード博物館に決定!」と高らかに宣言したが、夫はファッションには興味がない、自分はまだ寝ていたいと言う。そこで今回は一人で出かけることにした。

 

 

行ってみると、Meyenburgは眠ったような町であった。メインストリートを通過しても、何か面白そうなものがありそうには見えない。

しかし、探していた城、マイエンブルク城(Schloß Meyenburg)は確かに存在した。

こじんまりとしているが、素敵なお城である。

 

表に小さな看板が出ている。

しかし、入り口のところで「写真撮影はダメですよ」と言われてしまい、軽くショックを受ける。ファッションのミュージアムなのに写真が撮れないとは。そこで、展示が気に入ったらブログで紹介したいのだがと相談したところ、特別に後から写真を何枚か提供して頂けることになった。よかった、よかった。ということで、ここから掲載する全ての写真の著作権はModemuseum Schloß Meyenburgにある。

 

このモード博物館では、東ドイツFürstenwalde出身の服飾デザイナーでありジャーナリストのJosefine Edle von Kreplさんのプライベートコレクションを展示している。コレクションの内容は1900年代から1970年代までのドイツの女性の衣装とアクセサリーだ。

 

展示は年代順に、1900年頃の衣装群から始まっている。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

ヨーロッパでは英国で1881年に”Rational Dress Society”が設立され、女性の服装の改革運動が始まった。きついコルセットで体を締め付けた「女性らしさ」よりも快適さや合理性を重視すべきだという考えが広がりつつあったのだ。しかし、女性たちがそれまでの理想像から解放されるまでには長い時間を要した。1906年、フランスのデザイナー、ポール・ポワレがコルセットを必要としないデザインのドレスを考案したことにより、女性の服装が大きく変化することになる。

モード博物館に展示されているこの時代の衣装は、いわゆる女性的なオーナメントが少なく、男性の服装を連想させるものが多い。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1910年頃のサマードレス。この頃、服飾の世界に初めて実用性と美的要素を組み合わせた「デザイン」という概念が生まれた。ドイツ語圏では1911年に「ウィーン工房」が設立される。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920年代のドレス。この頃にはベルリンがドイツのファッションの中心地となっていた。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

同じく1920年代の服装。この辺りのデザインは現代でも通用しそう。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920-30年代に流行したオリエンタリズム。

 

ナチスの時代に入ると、ドイツはファッションにおいても「アーリア化」を進めた。ヒトラーはウィーンとベルリンをパリに代わるファッションの発信地にしようと計画したが、成功しなかったようだ。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のドイツの女性の服装。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のバッグ。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1950年代のファッションの理想はイタリアのカプリ島のイメージだったそうだ。(といっても、写真のドレスのような服装がカプリ島を連想させるものであるかどうかは私にはよくわからない)

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1960年代の部屋。この時代には技術の進歩により、それまでには使われていなかった素材が使われるようになり、服飾デザインは大きく変化した。ミニスカートのような斬新なアイテムが登場し、ファッション産業のターゲットが若者にも広がった。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1970年代。こういう帽子、私も子どもの頃に被っていたなあ。

 

写真で紹介した他にも、多くの衣装やアクセサリーが展示されていて、面白い。まだ行ったことがないのだが、ベルリンにはアール・ヌーボー(ユーゲントシュティール)やアール・デコのインテリアを集めた美術館があるので、このモード博物館と合わせて見ると、より面白いかもしれない。

それにしても感じたのは、女性の服装には実にいろんなスタイルがあるなあということ。現在の流行ではなくても気に入るものはたくさんある。時代など構わずに、みんなそれぞれ好きなものを身につけたらいいのになどと思ってしまった。そんなことをしたらモードというものそのものが消滅してしまうかもしれないが。

 

服飾史に興味のある人は楽しめるミュージアムだと思う。Meyenburgは先に述べたように他にこれといったものがあるわけではないのだが、北に20kmほど行くとメクレンブルク湖沼地帯(Mecklenburg Seenplatte)と呼ばれる大変風光明媚な人気保養地が広がって入る。湖沼地帯での休暇と組み合わせると良いかもしれない。

 

 

 

10月3日は「ドイツ統一の日」で祝日だった。

私は東西に分断されていたドイツが再統一された1990年に日本からドイツへやって来た。8月1日、降り立ったフランクフルト空港は当時まだ「西ドイツ」にあった。到着した1週間後に国境を越えて「東ドイツ」を見に行った。そのときに初めて見た社会主義国の風景が今も脳裏に焼き付いている。

ドイツでの生活を始めたのは西側のケルンだったが、それからわずか2ヶ月後の10月3日、旧東ドイツの州が西ドイツに加入することでドイツは再統一された。再統一のその日、花火でも上がるのではないかと期待して大聖堂付近へ行ったら、多くの人たちが集まって統一を祝おうと待ち構えていたが、結局、花火は上がらなかった。「なあんだ」と少しガッカリしてアパートに戻った。あれからもう27年もの年月が流れたのだなあ。

ドイツ統一の日には首都ベルリンを中心にいろいろなイベントが催される。しかし今年は天気が良くなかったので、どこへも行かなかった。その代わりというわけではないが、その翌日、旧西ベルリンにある連合国博物館(Alliertenmuseum)へ行って来た。

 

 

連合国博物館は西ベルリンのClayalleeという大通りにある。ドイツの道路は歴史上の人物にちなんで名付けられているものが多い。「カール・マルクス通り」など、聞けば誰のことだかすぐにわかるものもあるが、多くはドイツの歴史に通じていないとピンと来ない。恥ずかしいことだが、私はドイツに20年以上住んでも未だにドイツの歴史に疎く、通り名になるほど有名な人物でも「誰それ?」と首を傾げてしまうことがしばしばだが、ClayalleeのClayとは第二次世界大戦後にベルリンが連合国によって分割統治されていた当時、西ベルリンで行政管理に当たっていたルシアス・D・クレイ米陸軍司令官のこと。この通りに残るかつての米軍の映画館、Outpost Theatherの建物が現在、博物館として使われているのだ。

 

外観の写真を撮り忘れてしまったので、見たい方はこちらを。二つのドアの向こうがメインの展示室で、ドアの上に”NATIONAL ANTHEM IS PLAYING NOW   PLEASE WAIT”というサインが掛かっている。これは当時、映画の前に米国の国歌が流れ、遅れて来た人は国歌が流れている間は外で待っていなければならなかったからだそう。

 

メインの展示室。

 

常設展示は4つの部に分かれ、第二次世界大戦における連合国の勝利、連合国によるドイツ及び首都ベルリンの分割統治、戦後の西ベルリンにおける民主主義、そして東西の対立が深まりつつあった1948年のソ連によるベルリン封鎖とそれに続くベルリン大空輸について知ることができる。展示の規模は大きくないが、知らなかったことが結構たくさんあって興味深かった。

 

 

戦後、西ベルリンでは自由と民主主義を標榜するメディアとして、Der Tagesspiegel、Der Abend、Spandauer Volksblatt、Der Kurierといった新聞が相次いで刊行された。

 

特に面白かったのは、当時のアメリカ軍占領セクターのラジオ局、RIAS Berlin (Rundfunk im amerikanischen Sektor)の放送クリップが聞けること。1948年にソ連により西ベルリンへの陸路と水路が断たれ(ベルリン封鎖)、西ベルリンへ空路で物資を運ぶ「ベルリン大空輸(Berliner Luftbrücke)」が始まったが、物資を載せた最初の飛行機がガトウ空港ガトウ空港に降り立つ瞬間やパイロットのインタビュー、7月25日にシェーネベルク空港に飛行機の一機が墜落したことを伝える音声からは当時のベルリンの緊張感が伝わって来る。

 

展示室の奥のステージへは左右にそれぞれ橋がかかっている(全体が写真に入らなかったので右側だけ)。ベルリン大空輸を表すドイツ語、Luftbrücke(エアブリッジの意味)のブリッジを象徴しているのだろうか。橋の手すりにはドイツ、そして世界全体が戦後どのように分断され冷戦へと突入して行ったのかが年代順に示されていて、それを一つ一つ読みながら橋を渡った。

 

大空輸においては食料品や日常雑貨の他、エネルギー源として大量の石炭が運ばれた。石炭から舞い上がる埃で飛行機内部の危機が故障したり、引火することを防ぐために特殊な「石炭袋」が開発されたそうだ。

 

大空輸で西ベルリンへ送られた「Care-Paket」と呼ばれる小包。中身は、コーヒー、ココア、セミミルクチョコレート、ベーコン、ビーフ&グレイビーソース(缶詰?)、レバーペースト、ランチョンミート、砂糖、マーガリン、ラード、ジャム、米、小麦粉、洗濯洗剤、トイレ用石鹸。

 

大空輸開始当初は1日に運ばれた物資は80トンほどだったが、輸送量は月を追うごとに増えて行き、ピーク時の1949年の4月には1万1700トンが運搬されている。上空での混雑を避けるため、飛行高度や着陸時間、停留時間などが細かく規定された。物資の大部分はガトウ空港ガトウに運ばれたが、テンペルホーフ空港も利用された。しかし、それだけでは追いつかなくなり、急遽テーゲル空港がわずか3ヶ月という突貫工事で 建設された。

テーゲル空港って、たった3ヶ月で完成したのか。それに比べて、とっくに終わっているはずのベルリン新国際空港建設工事は何年経っても進まない、、、。

ところで、ガトウ空港の方は現在、軍事史博物館となっている。当ブログでも紹介している。

ガトウ空港についての記事はこちら

 

ベルリン大空輸に関する展示がとても興味深かったのでもう少し引っ張ってしまうが、この空輸作戦にはベルリン空輸回廊(die Luftkorridore)と呼ばれる3つのルートが使われた。南回廊はフランクフルトから、中央回廊はニーダーザクセン州のビュッケブルクから、そして北回廊はハンブルクから西ベルリンへの空路である。航空機の数を確保するため、日本、グアム、ハワイ、カリブ海などの米軍基地からも航空機が調達され、またイギリス軍はかつての植民地からもパイロットを招集していたらしい。この一連の西ベルリン市民救済活動で命を落とした人々も少なからずいた。

常設展示には他にも興味深い内容が多かったが、このくらいに。

一旦、外へ出て今度は別館の特設展示会場へ移動した。

 

二つの建物の間のスペースには大空輸に使われた航空機がどーんと鎮座している。「ロジーネンボンバー(Rosinen-Bomber)」とも呼ばれた英国製軍用輸送機、Hastings TG504機である。

 

特設展示会場では現在(2018年1月28日まで)、冷戦時代のベルリンで使われた様々な物が100点、展示されている。こちらもなかなか面白い。

 

ボードゲーム、Die Mauer(ベルリンの壁ゲーム)。一対一で、それぞれがソ連とアメリカのスパイという設定で遊ぶそうだ。

ドイツは知る人ぞ知るボードゲーム大国で、老若男女、ボードゲームが大好き。しかも、歴史上の出来事はなんでもゲームのネタにしてしまう。冷戦ゲームとか宗教改革ゲームとか原発爆発ゲームまであって、もしかしたら日本人の感覚からするとふざけているとか不謹慎と思うかもしれないが、ゲームは単なる娯楽ではなく学びの要素も大いにあることからドイツでは受け入れられている。

 

戦後、西ドイツはトルコなどから多くの労働者を受け入れた。これはベルリンの占領セクターを示すトルコ語の看板。

 

 

社会主義の東ドイツ(DDR)の積み木おもちゃ。東ベルリンの大通り、カール・マルクスアレーの建物のミニチュアだ。

 

1994年のドイツ駐留ソ連軍撤退時に発行されたテレフォンカード。

 

この博物館は無料だけれど、ゆっくり見ると2時間でも足りないくらいだった。しかし、「連合国博物館」とはなっているものの、この博物館が示すのはあくまでも西側諸国、つまり英米仏側から見たベルリンである。ベルリン封鎖以降、ソ連は「あちら側」となっている。ベルリン市内には「ドイツ・ロシア博物館」というのもあるので、今度はそちらも見に行ってみようと思う。

 

 

日本にしばらく里帰りしていたので、まにあっく観光旅行に出かけるのは久しぶり。今回はなぜか、鉱物をじっくりと眺めたい気分だった。ドイツには多くの鉱物博物館があるが、家からさほど遠くない場所で規模の大きいものはないかと検索したところ、ザクセン州フライベルクのTerra Mineraliaがヒットした。

 

フライベルクはドイツとチェコの国境地帯であるエルツ山地(Erzgebirge)北部に位置する。エルツとは「鉱石」を意味し、一帯は鉱物資源の非常に豊かな地方である。フライベルクは12世紀に銀鉱山が発見されて以来、鉱業で栄えた町だ。現在も、かつての鉱山学校を母体とするフライベルク工科大学(TU Bergakademie Freiberg)があり、鉱山学をはじめ資源開発やエネルギー技術に至るまでの広範囲に渡る地質学教育・研究の中心地だという。ということは、terra mineraliaはかなり見ごたえのある鉱物博物館だと思ってもよいのではないだろうか。鉱物を見にフライベルクへ行く行くと興奮していたら、夫が「オレも行く!」と言うので、私達は大きな期待とともにフライベルクへと向かった。

 

 

Terra Mineraliaは、シュロス・フロイデンシュタイン(Schloss Freudenstein)というお城の中にある。

その日はどんよりと暗い日だったが、博物館をじっくり拝観するにはむしろうってつけの天気である。(ドイツは雨や曇りの日が多いからこそミュージアムが充実しているのではないか、などと思ってしまう)

 

内部はフロア5階分あり、一番上のフロア展示を見ながら降りて行くようにデザインされている。世界中から集めた鉱石標本は地域ごとに展示されている。非常に美的な空間だ。

暗い室内に輝く鉱物のショーケースがずらりと並んでいる。標本を見る前からもうドキドキして来た。

 

陳列されている標本はどれもうっとりするほど見事なものばかり。例えば、、、、。(相変わらず写真が上手でないけれど、どうかご勘弁を)

 

標本数は3500点。写真を撮り出すとキリがない。

 

顕微鏡を覗くのはとても楽しい。

 

また、初めて見るものに、「光る鉱物の部屋」というものがあった。暗室になっていて、中に入るとショーケースに色々な鉱物が並べられている。

一見、それほどどうということのない石のようだが、、、。

 

わっ、光った!

 

色が変わった!!

 

これらは蛍光鉱物と呼ばれるもので、紫外線を当てると発光するのだそうだ。同じ紫外線でも、UV-A(波長 315–380 nm)とUV-C (波長 200–280 nm)、そしてその両方を同時に当てた時とで色が異なって見える。大変魅力的で、結構長いこと眺めていた。

 

ギャラリーは延々と続いて行く。

こんなにも多様な美を生み出すとは、自然とはなんと不思議なのだろう。ここまで見るだけでもその膨大な数と種類に圧倒されていたのだが、さらに続きがあった。なんと1階の「秘宝の間」には驚くほど巨大な標本がいくつも陳列してあったのだ。

 

 

 

今までにあちこちで鉱物コレクションを見たが、自分が見た中ではここのは間違いなく3本の指に入る。標本数ではもっと多いところもあったと記憶しているが、Terra Mineraliaは展示の仕方が非常に魅力的だ。大満足でミュージアムを出た。

 

しかし、これで全てではないのがフライベルクの凄いところ。Terra Mineraliaのすぐ隣には別の鉱物博物館、Krügerhausがある。こちらではドイツ国内で採れた標本が見られる。

世界中から集めた鉱物を見た後だからそれほど感動しないかもしれないと思ったが、コンビチケットで拝観できるので入ってみる。

 

いやー、ここも決して侮れない。いきなり美しい鉱物断面ギャラリーから始まる。断面の模様は様々で、まるでアート作品のようだ。

 

こちらのミュージアムでも標本は地域ごとに展示されている。

 

そしてこれは何!?

 

壁一面にずらりと並んでいるのは結晶モデルだった。

19世紀に製作されたモデルである。すごいね!

 

最後に結晶のアップ写真をいくつか。

 

言葉で形容するのは無理。二つの博物館を見て、とにかく大興奮・大満足である。

 

ところが、まだあるんです、フライベルクには。この他にもさらにフライベルク工科大で鉱物や化石などのコレクションが閲覧できるというのだから、もう気が遠くなりそうだ。さらには数時間に及ぶ銀鉱山見学ツアーなどもあり、とにかく盛りだくさんである。到底一日では足りない。今回は日帰りだったので上記の二つのミュージアムだけで終わってしまったが、是非ともまたフライベルクを訪れて今回断念したものを体験するつもりだ。

 

地学や鉱物学ファンにはもちろんのこと、綺麗なものを見るのが好きな人にはとても楽しい場所だと思う。Terra Mineraliaは子どもも楽しめる工夫がしてあるので家族連れにも良い。また、大聖堂や古い劇場、教会など他の見どころもあり、チェコに近いのでボヘミア料理レストランなどもある。いつもとちょっと違うドイツ観光がしたいと思うときに良いのではないかな。