今回レポートするのはニュルンベルクにあるニュルンベルク交通博物館(DB Museum)。主に鉄道の博物館である。このブログでは私の趣味でマイナーな観光スポットを紹介することが多いが、この博物館はメジャーな博物館の一つ。でも、ニュルンベルクまで来たらやっぱり鉄道博物館は外せない。だって、ドイツ史上初めて開通した鉄道はニュルンベルク – フュルト間だったからね。

ニュルンベルク交通博物館は中央駅のすぐ近くでアクセス抜群。

外観

この博物館では1835年に蒸気機関車アドラー号がドイツで初めて走行してから今日に至る184年間のドイツの鉄道史を示している。とてもわかりやすい展示なので、鉄道に詳しくなくても把握しやすく、見応えある展示物の連続で飽きない。

館内で最も古い展示物は1829年に製造された石炭運搬車だ。英国のヘットン炭鉱鉄道で使われていたもの。約2.5トンの石炭を運搬することができ、当時、馬または蒸気機関車が牽引した。

右はアドラー号のレプリカ。それにしても可愛いデザインだなあ。ファンが多いのも頷ける。左は現在使われている高速列車ICE。

蒸気機関車が走るのを初めて見た人たちの興奮はいかほどだったろうか。

石炭を積載するための橋のモデル。

アドラー号の初走行から10年後の1845年までに当時のドイツ帝国の領土内に敷かれた鉄道路線を示す図。すごいスピードで鉄道が施設されていったことがわかる。

初期の食堂車のメニュー

バイエルン王ルートヴィヒ2世のサロン車

ドイツの鉄道は当初、王立鉄道や私鉄がバラバラに運営されていた。第一次世界大戦後、「ドイチェ・ライヒスバーン(ドイツ国営鉄道)」として全国統一されたが、その際にライヒスバーンが各鉄道から引き継いだ機関車の種類は210種もあったという。写真は運営コストを抑えるために導入された統一モデル。

1916年には中央ヨーロッパ寝台・食堂車株式会社(ミトローパ)が設立され、列車移動におけるサービスを開始。ミトローパは第二次世界大戦後、東ドイツ(ドイツ民主共和国)にそのまま引き継がれた。

1928年に導入された高級列車、ラインゴルト

ワイマール時代、ライヒスバーンは国民の約5%が従事する全国最大規模の雇用主だった。従業員がライヒスバーン・ファミリーの一員であることに誇りを持ち団結するよう、社宅を整備し、スポーツその他のレクリエーションの場を提供した。しかし、1933年にナチ党が政権を掌握すると、「強制的同一化(Gleichschaltung)」政策のもと、ユダヤ人をはじめ、党のイデオロギーに合わない者は解雇された。また、鉄道技術は政府のプロパガンダに利用されていく。

ナチ党の国民余暇組織「Kraft-durch-Freude(歓喜力行団)」は労働者の勤労意欲を高める目的で安価な休暇プログラムを提供した。労働者が鉄道や休暇船を利用し、それ以前は富裕層しか味わうことのできなかった豊かさを満喫した。

旅の歌集。なんだか修学旅行を思い出すなあ。

しかし、列車は人々を楽しい旅へと運んだだけではない。第二次世界大戦が勃発すると、軍用列車が兵士を戦地へ運び、そしてユダヤ人輸送列車が多くのユダヤ人を占領下のポーランドへと移送した。

第二次世界大戦後、ドイツは連合国4カ国により統治され、ライヒスバーンも分割運営されることになった。

そして1961年、ベルリンの壁が建設されると、西ドイツでは「ドイチェ・ブンデスバーン(DB)」、東ドイツでは「ドイチェ・ライヒスバーン(DR)」がそれぞれ発足する。

ドイチェ・ライヒスバーンの初の自動発券機

ドイツ鉄道史の最後の展示室は鉄道の現在と未来。相当に端折って紹介したが、実際の展示はもっとずっと内容が濃い。

そして、模型展示室も素晴らしい。私は特に鉄道ファンではないけれど、精巧な鉄道模型にはやはり魅力を感じずにはいられない。収集家が多いのもわかる気がする。

駅の模型は大きすぎて全体像が撮れない。

キッズコーナーも広くてとても楽しそうだった。

大人も子どもも、鉄道ファンもそうではない人も、たぶん誰でも楽しめる博物館だと思う。

先日、ノルトライン=ヴェストファーレン州のジーゲンを訪れる機会があった。ジーゲンを中心とする一帯はジーガーラントと呼ばれる。雨の多い地方で、その日も小雨が降ってややジメッとしていた。ジーガーラントにはスレート屋根の街並みが美しいフロイデンベルクやクロンバッハ醸造所のあるクロイツタールなどの見どころが知られているが、ジーゲンの町にはどんな面白いものがあるのだろうか。簡単なリサーチの結果、ジーガーラント博物館(Siegerlandmuseum)へ行くことにしよう。

ジーゲンの旧市街は丘の上にある。駅から坂道を登って行き、登りきったところにあるお城(Oberes Schloß)の中に博物館がある。(注意 Oberers SchloßとUnteres Schloßの二つのお城がある)

門の奥に見えるのが博物館入口

ジーガーラント博物館はカテゴリーとしては郷土博物館だけれど、4階建てで思っていたよりも内容が充実していた。ジーゲンの町の歴史やジーガーラントの炭鉱史に関する展示の他、ルーベンスの絵画ギャラリーもあり、また、現在はファン・ダイクの特別展示を開催中である。一通り見たが、美術関係の展示は写真撮影不可ということもあり、この記事では私が重点的に見たジーガーラントの炭鉱史に的を絞って紹介したい。

ジーガーラントの鉱山業の始まりは約2500年前に遡る。紀元前600年頃、この地方に定住しラ・テーヌ文化を開花させたケルト人がすでに鉄鉱石を利用していたことを示す記録がある。鉄器の製造に使われていたケルト人の窯も見つかっている。

15世紀に火薬が発明されたことで坑道が掘られるようになり、19世紀の産業革命期にはジーガーランドは欧州で有数の鉱山業及び製鉄業の拠点となった。鉱山は1965年に全て廃坑となったが、 金属加工業は今なお地域を支える重要な産業だ。

様々な鉱石を使って作った鉱山のモデル

ジーガーラント博物館では鉱業に使われた道具や機械、鉄鉱石の採掘時に一緒に掘り出された様々な鉱物が展示されている。

坑夫の使っていた手持ちランタン

ドリル

製鉄に使われた送風機(1840)

「放蕩息子の帰還」の描かれた窯の外板

博物館の地下には体験坑道もある。

おおっ。いい感じ!足元が滑りやすいので危険が全くないわけではない。見学したい人は自己責任で、と貼り紙がしてあった。地下に潜るのが好きなのでもちろん降りて行く。深さは地下14メートル。

平日の午前中だったせいか、見学者は私だけ。貸切状態だ。

体験坑道は100メートルほどの長さなので、あっという間に終わってしまった。本物の鉱山をいくつも見学して来た私としてはちょっと物足りなかったかな。

他の展示室も面白く、ルーベンスの間では特に「ローマの慈愛」が印象的だった。

 

 

 

ゲッティンゲン大学地学研究所博物館へ行って来た。ゲッティンゲン大学は正式名はゲオルク・アウグスト大学といい、天才数学者ガウスやグリム兄弟、マックス・プランクなど多数の著名人を輩出した伝統ある大学である。私の好きな博物学者で冒険家だったアレクサンダー・フォン・フンボルトもゲッティンゲン大学で地質学を学んだ。地学研究所の建物内に地学博物館があり、無料で一般開放されている。

地学研究室建物の1階フロア

ゲッティンゲン大学地質学研究所のコレクションの数は400万点を超え、ドイツ全国でも5本の指に入る規模だが、博物館の展示スペースはそれほど広くはなく、展示されているのはコレクションのごく一部だ。
化石展示室。

モササウルスのモデルとアンモナイト。

亀の甲羅の跡。

ニーダーザクセン州の白亜紀地層に見つかった海綿の化石。私はキノコみたいと思ったのだけれど、Sonnenuhr-Schwämme(日時計海綿)と書いてある。学名はCoeloptychium aganicoides。

「レーバッハの卵(Lebacher Eier)」と呼ばれるジオード。ザールラント地方のレーバッハに見られるロートリーゲント層に見られるもので、鉄鉱石を採掘した際に発見された。乾燥した大陸性気候下にあったペルム紀のレーバッハの動植物が化石となってジオードに閉じ込められている。レーバッハのジオードは卵型をしているのが特徴で、それでレーバッハの卵と呼ばれている。

こちらは第三紀の植物化石。月桂樹やカエデなど馴染みのある植物がほぼ完全な形で残っていてアート作品みたい。

他にもいろいろ面白いものがある。足跡の化石が特に見応えがある。

それぞれ何の生き物の足跡なのか、表記がなくてわからないのが残念。基本的には学生を対象にした展示なので、講師の説明を受けながら展示物を見ることが想定されているのだろう。一般の博物館のような丁寧な説明はされていない。後からネットで調べたところによると、ゲッティンゲン大学は古生物学者マックス・バラーシュテット(1857 – 1945)の足跡化石コレクションを所蔵している。バラーシュテットは200を超える恐竜足跡化石を発見し、足跡化石のスペシャリストとして知られていた。バラーシュテットは足跡の分析の結果、恐竜はそれまで考えられていたよりも動きが敏捷だったはずだと主張した。しかし、博物館における恐竜モデルの展示に彼の説が取り入れられるようになったのは、死後から十数年が経過した1960年代になってからだった。

ゲッティンゲン大学のこの地質研究所博物館には鉱物の展示室もある。また、建物の外が小さなジオパークになっていて屋外で岩石の観察もできる。無料なので満足度が高い。大学付属の博物館は大抵地味だけれど、空いていてじっくり見られるので好きだ。他にもケルン大学の地学博物館ベルリン医大の医学史博物館など面白いのがたくさんある。大学の近くに用があるときについでに立ち寄ると楽しいよ。

友人とベルリンのコンピューターゲーム博物館(Computerspielemuseum)へ行って来た。

旧東ドイツ時代にCafé Warschauというカフェだった空間を改装し、1996年にオープンした。この博物館は楽しい!歴代のコンピューターゲームが展示されているのだが、ゲームで実際に遊ぶことができる。

70年代から今日までの主なゲームを紹介する壁。コントローラーで任意のゲームの名前の書かれたタイルをクリックすると、上部のモニターに説明が表示される。ゲームに疎い私も知っているゲームがいくつかあった。自分自身はほとんど遊んだことがなくても家族(弟、夫、息子)がハマっていたものはBGMに聞き覚えがあり、当時の記憶が蘇って来る。一緒に展示を見たT氏は私とは年齢ギャップがあるので、「あ〜、これ知ってる!」「懐かしい〜」の対象が異なっているのも面白い。

こちらは歴代ゲーム機

ゲームウォッチだ!

1972年にアタリが発表した卓球ゲーム、PONG。

後ろを見て大笑い!

入れたお金を受ける皿

特に楽しいのは80年代前半のゲーセンへとタイムトリップできるこちらの空間だ。

スペースインベーダー。懐かしいね〜と言いつつ私もちょっとやってみたら、30年以上のブランクの後ではもうまるっきりダメだった。

こういうテーブル式のゲーム台、サテン(とかつては呼んでいた)にあったのだけど、中学生にはなんか背徳感があったよなあ。そういえばパックマンゲームには忘れられない思い出がある。私は1982〜3年に米国へ高校留学したのだが、1983年に米国ではパックマンが大流行していた。日本ではもうマリオブラザーズが発表されていたので、「え、今頃?」と戸惑った。生まれて初めて体験したタイムギャップだった。

古いゲーム(1979)ながら魅力的だなと感じたのは「アステロイド」。写真ではわかりづらいけど、画面が3D風でちょっとワクワクする。そういえば「ギャラクシアン」というのもあったなあ。

ゲーム機のある家庭風景を再現したコーナーも面白い。

80年代のティーンエイジャーの部屋で遊ぶT氏

ゲームは娯楽として楽しいだけではなく、学習用のゲームや特殊な訓練のためのシミュレーションゲームなど特定の効果を期待して作られているものも多いのは周知の通りだが、トラウマの治療にもゲームが使われていることを知って興味深かった。

これは2005年にVirtually Better社が発表したPTSD治療用のゲーム、Virtual Iraq。認知行動療法に基づくセラピーでトラウマを克服することを目的に作られた。

展示は多岐に渡るが、この博物館の目玉展示物はなんといってもこのゲームだ。

ペインステーション。18禁。

どういうゲームかというと、単純な対戦型の卓球ゲームなのだが、失敗すると体罰が与えられる。

右手でラケットを操作しつつ、左手はゲーム中ずっとこの金属板の上に置いていなければならない。球を打ち返すのをミスると「電気ショック」「熱」「鞭打ち」のいずれかの刑に処される。なにそのマゾゲーム?

意味がよくわからないが、何事も体験だと遊んでみることにした。刑のレベルを一番低く設定し、卓球を開始。どんくさい私はすぐにミスった。すると、左手を置いていた金属板の下から突然熱風が吹き上げられた。「うわ、熱い!」反射的に手を離してしまう。一番下のレベルだから火傷をするほどではないが、最高レベルだとどのくらいなんだろう?写真に写っている緑色の管は鞭打ちの刑の鞭に違いない。まあ、こんなプラスチックでペチッと叩かれるくらいならたいしたことないよねと思ったが、鞭の先をじっと見てT氏は、言った。「でも、これ先端に何か硬いものがついていた形跡があるよ」。怖い、、、。

いったん離れ、他の展示を見て回った。館内を一巡した後、せっかくだからもう一度やってから帰ろうかとペインステーションに戻ると、なぜか機械はオフになっていて使えなかった。そんなわけで私は「熱の刑」の一番マイルドなレベルしか体験していないのだけれど、家に帰ってからネットで検索したら、ペインステーションで負傷した人たちの画像が出て来てギョッとした。実際に怪我するんだ、、。最高レベルで遊ばなくて良かったかな。

YouTube上に遊んでいる人たちの動画があったので貼っておこう。 重要なのはゲーム中、痛くても熱くても我慢してずっと手を離さないことのようだ。手を離したら負け。男性の方はゲームが終わったら手が真っ赤になっている。

2001年に発表されたというこのゲーム、一体なんでこんなの開発した?(ペインステーション のHP はこちら

展示物で遊べるこのコンピューターゲーム博物館、ゲームに疎い私でもとても面白かったので、ゲーム好きの人ならより楽しめるだろう。入館料9ユーロを払えば遊び放題なので子ども連れでのお出かけにもいいかもしれない。VRゲームもあるよ。

 

ポツダム・バーベルスベルク地区にかねてから気になっていた店があった。気になっていた、というのは、いつ通りかかっても閉まっていたからだ。個人経営のアンティークおもちゃの店haus42は金曜日の午後しか開店しない。定年退職したご夫婦が趣味で収集した古いおもちゃを販売しているらしい。同時におもちゃのミュージアムでもあるという。気になり始めてから2年ほど経ち、ようやくタイミングが合って中を見ることができた。


haus 42はAlt Nowawes通りにある。この通りを中心とする一角は、18世紀にボヘミア地方からやって来たチェコ人の織工たちの集落だった場所で、この建物は当時、全部で210棟建てられたKolonistenhausと呼ばれる入植者用住宅の一つだ。私のポツダムでのお気に入り散策エリアで、とても風情がある。

このエリアの歴史自体も興味深いのだけれど、詳しい紹介は別の機会にして、今回はhaus 42に集中しよう。

入り口のドアを開けて中に入ると、壁面びっしりにドールハウスが展示されていた。中からご主人が出て来たのでミュージアムを見せて欲しいと伝えると、ご主人が展示品を一つ一つ説明してくださった。期待以上に良い!過去に訪れたマンダーシャイトの鉱物博物館Die SteinkisteやヘルシュタインのGoldbachs Weine & Steineでも感じたことだが、個人経営のミュージアムはオーナーがコレクションについて熱心に説明してくれるのでとても楽しい。

実は私は今までドールハウスにはそれほど関心がなかった。でも、haus 42にあるドールハウスは古いものは1900年頃のもので、それぞれの時代の生活文化が反映されていて大変興味深い。

ドイツ帝国時代のドールハウス。お父さんは軍服を着、絨毯の上には兵隊のおもちゃが置かれている。

これは折りたたみ式ドールハウス。裕福な家庭が旅行に行くときに旅先で子どもが遊ぶために作られたもの。

産業革命が起きたグリュンダーツァイト(Gründerzeit)と呼ばれる時期のドールハウス。壁際には装飾の施されたカッヘルオーフェン(陶製放熱器)が設置されている。

ビーダーマイヤー時代のドールハウス。装飾性がおさえられ、比較的質素な雰囲気だ。

ご主人によると、ユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)のドールハウス。

バウハウス・ムーブメントの影響を受けた1920年代のドールハウス。手前のテーブルと椅子が確かにバウハウスっぽい。

haus 42で取り扱っているドールハウスやその他のおもちゃは東ドイツの二大おもちゃ生産地、エルツ地方やテューリンゲン地方で作られたものがほとんどだ。Moritz Gottschalk社などのメーカーによるものの他に手作りのものもある。どこの家庭でも既製品のおもちゃを買えたわけではなく、厚紙で壁を作って壁紙を貼り、ミニチュア家具だけ買って並べたり、手先の器用な人ならかぐやお人形の洋服を手作りする人も少なくなかった。そういえば、うちの娘が小さい頃、義父も孫娘のために可愛いミニチュア家具をたくさん作ってくれたなあ。

 

クマのドールハウス。壁はデルフト焼きのタイルのイミテーション。ポツダム近郊のカプート城のタイルの間のタイルとそっくりだ。

写真は撮らなかったが、展示されているミニチュアキッチンはどれも造りが良く、おもちゃと言えども大変手の込んだものだった。使い捨てという発想のなかった時代のものはしっかりと作られているなあと感じることが多いが、おもちゃも然りである。

屋根の下の方にある留め金を外すと屋根が外れ、上に階を重ねていくことができる

奥の部屋は主にお人形のコレクション。紺のスカートを履いたお人形はケーテ・クルーゼのもの。

ミュージアム2階。ドールハウス以外のいろいろなアンティークおもちゃが見られる。真ん中の大きな教会模型はポツダム近郊のペッツォウ村にあるシンケル教会の模型である。

ご主人が手回し蓄音機のハンドルを回して音を聞かせてくださった。これをリアルタイムで聴いていた人たちはどんな生活をしていたのかなあ。左側の双子の赤ちゃん人形は紐を引っ張ると足をバタバタさせる。可愛いのか怖いのかちょっとよくわからないが、、、。

「おもちゃって社会文化史なのですね」と私が感想を述べると、「そうですよ。たかがおもちゃとバカにする人もいますが、人間の歩みを映す鏡なんですよ」とご主人は仰った。