前回に引き続き、今回もナチ時代に発行された主婦向け冊子を眺めてみる。タイトルは “Fische – nahrhaft und gesund. Was jeder von Fischen wissen sollte.(魚 〜 栄養があって健康的。誰もが知っておくべき魚のこと)” 。(注: 原題のハイフン及びピリオドは読みやすいように私が入れました)

ライヒ国民経済啓蒙委員会(Reichsausschuß für Volkswirtschaftliche Aufklärung )が発行したもので、発行年が見当たらないが、調べたところ初版は1935年であることがわかった。その後第二次世界大戦中も引き続き発行されていたようだ。

日本人と比べてドイツ人は一般に魚をそれほど好まないので、80年も前の魚のレシピ集なんて珍しいなと思い、手に取った。今でこそ、発泡スチロールのトレーに乗った魚の切り身の買えるスーパーはドイツでもそれほど珍しくなくなったが、約30年前はどこで鮮魚を買ったらいいのかわからなかった。魚はほとんど食べたことがない、または好きではないから食べないという人も周囲に多かった。そんなドイツの戦前、もしくは戦時中の魚料理レシピ集とはどんなものだろうか。

全32ページのこの冊子、基本的にはレシピ集だが、最初に漁業についてのかなり詳しい説明が載っている。ナチ党は食糧政策の一環として”Eßt mehr Fische(もっと魚を食べよう)”というスローガンを掲げ、肉よりも魚を食べるように国民を誘導していたようだ。畜産は大量の穀物飼料を要するので食糧自給率を下げるには肉食を減らす必要があったのだろう。といっても、一般主婦は魚にそれほど馴染みがなく、どこでどの魚を買ってどう調理したら良いかわからない。そこで、魚は自然の恵みであり、水揚げ量は季節や天候に左右されることや、それぞれの種類の魚がどのように捕獲されるのかなどを説明している。細かい字でびっしり6ページも!

ドイツ人は伝統的にそれほど鮮魚を食べず、特に夏場には鮮度に不安があってか、売れ行きが落ちた。この冊子には「現代の品質管理・輸送技術により鮮度の問題は過去のことになった。魚屋の衛生管理も問題ないので、どこで魚を購入しても大丈夫」だと書かれている。右ページには魚は栄養たっぷりだよというコラム。

月ごとの旬の魚リスト
魚の捌き方。小型ナイフやキッチンバサミを使っている

さて、それではレシピをざっと見ていこう。

ムニエルや蒸し魚のレシピ
ロールキャベツの魚版のような料理。凝っているなあ
ミンチにした魚の料理各種
パーティ料理のような見栄えの良いゼリー寄せやグラタン料理

他にも魚介スープ、魚サラダ、トマトをくり抜いてみじん切りの魚を詰めたもの、ムール貝のサラダなどが載っているが、どれもとても凝っていて驚く。食糧難の時代に本当にこんなに手の込んだ料理をしていたのだろうかと不思議に感じる。現代でもこれだけ凝った魚料理にはあまり遭遇しないなあ。

この冊子に載っている料理の中では魚ロールキャベツが気になる。どんな味だろう?今度、レシピ通りに作ってみようかな。

今回は1940年にライヒ食糧団(Reichsnährstand)から発行された農家の女性向けの家事読本、Die 4 W`s. Eine lustige Hausarbeits-Fibel (「4つのW。愉快な家事読本」)を見てみよう。

B5版、全32ページの小冊子でタイトル文字はジュッターリーン体。「4つのW」とは、家事におけるWの頭文字で始まる4つの要素、Wege(動線)、Wasser(水)、Wärme(暖房)そしてWaschen (洗濯)のことらしい。1940年といえば、国家社会主義ドイツ労働者党が支配していた時代だ。第二次世界大戦の最中にナチスの農業統制機関が発行した読本で、紙質は良くないものの、なかなか可愛い表紙デザインである。ナチスと聞いて思い浮かべるイメージからは程遠い。

内容は農家の女性のための家事合理化の手引きで、家事を動線、水、暖房、洗濯という4つの分野に分け、効率良く楽に家事をする方法を指南している。

中もカラーイラストたっぷり

まずは動線。農場は無駄な動きをして時間やエネルギーを浪費しないように設計せよ。台所も然り。よく考えず用具を配置すると、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすることになる。作業が最小の動きで済むように配置せよ。農具の置き場所や並べる順番などもよく考えて決めることで作業が楽になるというアドバイスが満載である。

水について。この時代の農村では、生活用水は井戸から汲んで運ぶのが一般的だった。家事にかかる時間のうちのおよそ1割が水の運搬に費やされていたようだ。重いバケツを運ぶのは骨が折れる作業だ。水道管を引き、それぞれの作業場に蛇口を設置することで作業が大幅に効率化できる。ホースなどを利用すればさらに快適に。

暖房について。冬が長く寒いドイツでは暖房の効率化は重要だ。戦時中は特に燃料が貴重だった。この読本では左ページの図のような調理用タイルストーブは同時に暖房にもなり、燃料を節約できるとして推奨している。しかし、夏場は台所が無駄に暑くなるというデメリットがある。それに対して右ページのような電気コンロは台所全体を温めるのには適していないが、夏場は短時間で調理ができて便利だと書かれている。

最後の章は家事の中で特に労力を要する洗濯について。「健康はお金よりも大切」、だからこそ少しでも洗濯を楽にしよう。腰をかがめなくても良いように洗濯だらいは台の上に置き、洗濯室の床には排水溝を設けよう。洗濯物はあらかじめ水に浸けておくと汚れが落ちやすい。この際、溜めておいた雨水を有効利用しよう、等々、いろいろなヒントが提示されている。これを読んで思い出したが、うちの村の郷土博物館には戦前まで使われていた洗濯室があり、いろいろな洗濯道具を見ることができる。

戦前の暮らしを知る 〜 カプート村の郷土博物館

この読本、挿絵の可愛さと合理的な内容のミスマッチが興味深い。一つ目のW、動線に関する部分はいかにもドイツ的な印象だ。日本の戦時中の家事読本を見たことがないので、比較してどうかということはわからないが、、、。

 

 

前回の記事に書いたように、ザクセン州南西の町、プラウエンへ行ったのはレース博物館を見るのが目的だったが、せっかく来たので他の博物館もいくつか見て来た。その中で特に印象に残った資料館、エーリッヒ・オーザー・ハウス(Erich Ohser Haus)について書き留めておこう。

エーリッヒ・オーザーのイラストには馴染みがあったが、実はこの時までオーザーの名前を知らなかった。プラウエン旧市街にあるフォークトラント博物館(Vogtlandmuseum)へ行ったところ、入り口がエーリッヒ・オーザー・ハウスの入り口も兼ねていて、有名なコミック「Vater und Sohn(父と息子)」やグッズが並べられていたので、「あ、これはよく見かけるあのコミック、、」と、そこで初めてエーリッヒ・オーザーが誰なのかに気がついたのだ。

 

 

エーリッヒ・オーザー・ハウスの前の「Vater und Sohn」像

1903年生まれのイラストレーター、エーリッヒ・オーザーは9歳からプラウエンで過ごした。この資料館はオーザーの息子さんのクリスティアン・オーザー氏が2001年に亡くなった際、米国在住のお孫さん達が祖父の遺品をプラウエン市に寄付し、設立されたものだそう。

エーリッヒ・オーザーについてはmariko_kitai (@zaichik49)さんがブログにわかりやすくまとめていらっしゃるので、記事を紹介したい。

Vater und Sohn / 「父と息子」ドイツのイラストレーター

3階建ての資料館にはコミック「Vater und Sohn」(日本では「おとうさんとぼく」のタイトルで岩波少年文庫から出版されている)を中心に、オーザーのイラストや関連資料などが展示されている。半年ごとに展示物を入れ替え、これまで公表されていなかった遺品も目にすることができるそうだ。

 

「Vater und Sohn」の初版

「Vater und Sohn」はナチスが政権を掌握した翌年の1934年に誕生した。風刺画でナチスを批判したために職業停止処分を受けていたオーザーがe.o.plauenのペンネームで描くことを許され、Berliner Illustrierte Zeitungに連載されていたコミックである。当時、模範とされた権威的な父親像からは程遠い、遊び心のある父親と素直なお利口さんではなく、ちょっとやんちゃな息子が織りなすユーモラスで温かい日常は、ナチス政権下の重く息苦しい時代に人々の心を明るくした。

 

ほのぼのとした絵の中でも特に上の6コマ漫画にはほろりとさせられた。わかるなあ、この父親の気持ち。

筋金入りの反ナチスだったオーザーだったが、「Vater und Sohn」の爆発的人気をナチスは見逃さなかった。「父と息子」のキャラクターはナチスが慈善募金活動として展開した冬季救済運動のイメージキャラクターに起用される。さらに、宣伝相ゲッペルスは戦争プロパガンダ紙”Das Reich”に敵国の風刺画を描くようオーザーに要求した。大人気イラストレーターとしての栄光の裏でオーザーは苦悩し、精神の安定を失っていく。作家ハンス・ファラダによると、意に添わぬ仕事を余儀なくされながらも、オーザーは反ユダヤのイラストだけは決して描かなかったという。

 

オーザーと息子のクリスティアン
e.o.plauenことオーザーのイラストが掲載されたBerliner Illustrierte ZeitungとDas Reich

オーザーはライプツィヒの大学生時代に知り合った反ナチス作家のエーリッヒ・ケストナーやジャーナリストのエーリッヒ・クナウフと親交があり、気のおけない彼らといるときには本音で政権を批判した。そして、それが命取りになる。1944年、クナウフを相手にヒトラーやゲッペルスに対する辛辣なジョークを交わしていたのを密告され、オーザーはベルリン、モアビット地区の刑務所に投獄されてしまう。判決の前日に独房で首を吊り、自ら命を絶った。

壮絶な最期とともに短い人生を終えたオーザー。しかし、彼のイラストは国境を越え、時代を超えて愛され続けている。「Vater und Sohn」の連載当時はキャラクターのおもちゃや雑貨が作られるなどの大旋風が巻き起こった。Vater und Sohnのぬいぐるみと共にホロコーストを生き延びたユダヤ人の子どももいたという。

 

とても心に残る展示だった。余韻の中、資料館を出たが、資料館の中だけでなく、プラウエン の町は「Vater und Sohn」でいっぱいだった。メインストリートのBahnhofsstraßeからオーザーの資料館までのルートのあちこちに「Vater und Sohn」の等身大フィギュアが設置されているのだ。

 

木製の人形にペイントしたフィギュアは全部で15ペアあり、それぞれ設置場所にマッチしたデザインになっていて見て歩くのが楽しい。複数のアーチストが色付けをしているので顔付きが少しづつ違うのも面白い。オリジナルのイラストのほのぼの感とは異なる雰囲気だけれど、プラウエンを訪れる人にオーザーについて知ってもらおうという意欲が感じられて、いいなと思った。

 

変電装置の入った建物もオーザー柄だ

 

 

ザクセン州の南西の外れに位置するプラウエン(Plauen)へ行って来た。頻繁に聞く地名ではない。主要都市のどこからも遠く、アクセスがあまり良くないせいだろうか。どんな町なのか、イメージがあまり沸かなかった。

そのような町になぜ、行こうと思ったのか。実は、去年のクリスマスに義理の父から切手コレクションの一部を譲り受けた。旧東ドイツの切手コレクションだ。今はなきドイツ民主共和国は切手の発行に力を入れていたため、美しい切手が多い。眺めていたら、こんなモチーフの切手に目が留まった。

Plauener Spitze(プラウエンのレース)とある。調べてみたら、プラウエンでは古くからレースの生産が盛んだったことがわかった。

綺麗なレースのモチーフの切手を眺めているうちに、プラウエンへ行ってみたくなったというわけだ。プラウエンにはレース博物館(Plauener Spitzenmuseum)があるとのことなので、そこを目指すことにしよう。

レース博物館は旧市街の旧市庁舎の中にある

プラウエンの位置するフォークトラントでは、15世紀から木綿の加工業が発達していた。特に女性たちの手作業による刺繍は地域の内外で高く評価され、19世紀に入ると刺繍はプラウエンの主要な産業となった。1858年にスイス製の刺繍機械が初めてプラウエンの工場に導入され、チュールレースが作られるようになると産業規模は大幅に拡大した。さらに、1900年にパリで開催された万国博覧会でプラウエン製のレースがグランプリを受賞したことが起爆剤となり、世界中から注文が舞い込むようになる。町の人口は10年間で倍増し、プラウエンは高級ホテルやレストランの立ち並ぶラグジュアリーな大都市へと発展した。

刺繍機

円形のテーブルクロスはWickeldeckeと呼ばれる。個別に編んだレースのパーツをミシンで縫い合わせて1つにするが、その繋ぎ合わせる作業をwickelnということから来ているそうだ。機械化されていても細かい微調整や仕上げは手作業で行わなければならず、1枚のクロスを編み上げるにはとても手間がかかる。

最盛期にはプラウエン・レースはパリのオートクチュールにおいても欠かせないものだった。レース博物館にはプラウエンのレースの歴史やニードルレースやボビンレースの作業工程だけでなく、レースを使った各時代のドレスや小物が展示されていて、ファッションの移り変わりにも触れることができる。

1960年代のレースのカクテルドレスとジャケット

一世を風靡したプラウエンのレースだが、第一次世界大戦が勃発すると贅沢品のレースを大量生産している場合ではなくなり、その後に続く世界恐慌、第二次世界大戦によってレース産業は急激に衰退した。レース産業にほぼ依存していたプラウエンでは失業者が急増し、市民は厳しい生活状況を強いられることになった。旧東ドイツ時代には個々のレース工場は1つにまとめられて国有化され、プラウエン ・レース人民公社としてカーテンなどを生産したが、もはや全盛期の勢いを取り戻すことはなかった。それでもプラウエン市民にとってレースは町のシンボルで、1955年に始まった年に一度のレース祭り(Plauener Spitzenfest)は現在も続いている。

プラウエンにはレース博物館の他、作業工程を見学できる刺繍工房Schaustickerei Plauener Spitzeがあって、町の中心部からは少し離れているが、そちらもとても良い。

この工房では手作業による刺繍から各種機械を使った刺繍作業まで、職人さんが実演しながら説明してくれる。

刺繍機での刺繍作業には6倍に拡大した図面を使う

レースのパーツを縫い合わせているところ。細かく、正確さを求められる作業ですごいなあと感心してしまう。私には絶対できないや。

プラウエンの刺繍地図

この工房はショップが充実しているので、気をつけないと散財してしまう。

刺繍を施したエコバック。もったいなくて使えないかも
レースのクリスマスツリー・オーナメント

プラウエンの町にはレースのお店がたくさんある。

ショーウィンドーのレース製品
レースの窓飾り
ドレスショップ
カフェの窓辺のレース

プラウエンは旧市街がよく整備されていて綺麗な町だ。レース以外でも面白いもの、可愛いものが多いので、泊まりがけで訪れる価値は大いにあった。プラウエン観光の続きは次の記事で。

 

 

私はアルテンブルク(Altenburg)という町の旧市街を歩いていた。アルテンブルクはライプツィヒとツヴィッカウの間にある小さな町。そこへ行ったのはアレクサンダー・フォン・フンボルト関連の展覧会を見に行くためで、町自体には実はそれほど興味を持っていなかった。というよりも、急に計画したので準備不足で何があるのかよくわかっていなかったのだ。観光資源がたくさんあると思わなかったので日帰りの予定にしてしまったが、現地についてすぐに気がついた。アルテンブルクは17世紀にはザクセン=アルテンブルク公国の首都だった町で、見どころが多そうである。

1泊する予定で来ればよかったと思いつつ、ぶらぶらと通りを歩いていると、なにやら気になる建物がある。

外観の写真を撮り忘れたので、Wikipediaからお借りしました。

歴史的美容室(Historischer Friseursalon)と書かれている。ショーウィンドーを覗き込んでいると、中から男性が出て来た。「ハロー。中を見て行かないかい?」「ここはミュージアムなんですか?」「そうですよ。さあ、どうぞ入って、入って!」招き入れられ、中に足を踏み入れた。

 

うわぁ!ここは!?

「ここは1926年にアルテンブルクの美容師、故Arthur Grosseが開いた美容室です。備品もほぼ当時のままです。1966年に店じまいして以来、外側から窓に板を打ち付けたままだったから外からは内部の様子がわからず、ここが美容室だったことはすっかり忘れられていたんですよ。2002年に最後の所有者が亡くなったことで再発見されました。貴重な文化財だということで、こうしてミュージアムとして一般公開することになったんです」

大理石の洗面台に並べられた古い散髪道具の数々。これはワクワクする空間だ。

 

髭剃り道具に髪の毛をカールするためのコテ各種。コテはバーナーの火で熱して使っていた

 

客が座る椅子。上部に不思議なものが取り付けてある

「これ、何ですか?紙が巻いてありますが?」

「ここに頭を乗せるのに前の客の髪の脂が付いていたら汚いでしょ?当時の人は毎日髪の毛を洗っていたわけじゃなかったですからね。新しい客が来るたびにこのハンドルを回して新しいきれいな紙の上に頭を乗せられるようにしていたんです」とガイドさんが説明してくれた。へえー!

 

回るのはロールペーパーだけではない。こちらの椅子は後部のレバーを回すとシートが回転する。「前の客の体温が残った椅子に座るのは気持ち悪いですからね」。なんときめ細かいサービス。

 

抜歯用ペンチ。床屋が簡単な外科処置も行なっていた頃の名残だろう

 

Grosse氏のは美容師の養成も行なっていた。これは弟子の終了試験合格証明書。現在発行されているのものと違い、凝った美しいデザインだ。

 

昔の電動バリカン

 

「何コレェ?」「鼻の矯正具です。これを使うとどんな形の鼻でもまっすぐになるという触れ込みで、すごく売れたそうですよ。夜寝る前に軟骨を柔らかくするクリームをまず鼻に塗って、その上からこの器具を装着してネジで留めるんです」「えええ?まるで鼻のコルセットじゃないですか」「ほら、説明書には医学的にも効果が認められているって書いてありますよ」「ははは。トンデモ商品はいつの時代にもあったんですね」

 

「硫黄入りヘアトニックって?」「昔はこういうのを平気で頭にふりかけていたんですね。それどころかガソリンで髪を洗ったりしてましたからね」「えーっ。臭いじゃないですか」「すごく臭かったでしょうね。でも、シラミ対策にはなったかもね。臭いといえば、当時の人は髪の毛が脂っぽかったから、コテで巻いたりするとかなり臭ったんじゃないかな」

「ところで、この部屋は男性用のサロンです。奥に女性用サロンもあるんですよ」

 

女性用サロンは入り口が別

アルテンブルクのような小さな町では女性用サロンを備えた美容室というのは、当時はかなり画期的だったそうだ。

 

 

演劇舞台用ヘアスタイル

 

ドライヤー
右側のケーブルがたくさん垂れ下がっている装置はパーマの装置

これはパーマをかける際にカーラーで巻いた髪を上から留める金属製のクリップ。あらかじめ熱して使う。「ちょっと1個持ってみてください」「わ、結構ずっしり!」「こんなのを何十個も頭につけていたと想像したらすごいですよね。相当、重かったはず」「ですよねえ?」美しくなるのは大変だね。

このミュージアム、展示品の1つ1つが面白すぎる。

「すごいですね。でも、この美容室、60年代まで営業していたということですが、ずっと20年代後半のスタイルでやっていたんでしょうか」「Grosse氏はイノベーティブな人で最初は新しいものを積極的に取り入れていたようですが、やっぱり後半はそうでもなくなったようです。固定客がいて、変わらないスタイルで営業を続けていたのではないかと思います」

私がブロガーだと話したら、ガイドツアーに申し込まなければ見られない部屋も特別に見せてくださった。

サロンの2階にあるこの部屋はGrosse氏一家が特別な日にだけ使っていた部屋、いわゆるdie gute Stubeだ。非常に珍しいことに、壁に木製の厚板が貼ってある。Grosse氏の美容室が再発見されたとき、この壁は上から漆喰が塗られた状態になっていて、このような立派な木板があるとは誰も想像しなかったそうだ。専門家に木材の年代を測定してもらったところ、1500年代のものであることが判明した。写真に全体像を収めることができなかったが、この部屋は調度品も中央のテーブルと椅子以外はGrosse氏一家が使っていたオリジナルで、当時の市民の暮らしぶりが伝わって来る。

ガイドツアーに申し込まなくても1階のサロン部分は無料で見学できる。このミュージアムは掘り出し物だ。アルテンブルクはライプツィヒから電車で1時間くらいなので、アクセスも良く、おすすめ。動画があったので貼っておこう。

 

【2021年12月30日追記】

このときにミュージアムを案内してくださったClaus Oscheさんが2021年にこの美容室を経営していた故Artur Grosseに関する素敵な冊子を出版され、私のところへも1冊送ってくださった。

この冊子を拝読して、Grosse氏は当時は珍しかった女性用美容サロンをオープンするなど先見の明を持ってビジネスを展開していただけでなく、野鳥の観察や保護活動にもとても熱心な人だったということをあらたに知った。私がアルテンブルクを訪れたとき、市内の自然史博物館 Mauritianumにも立ち寄った。ドイツ全国のいろんな自然史博物館を見て来た中で、気に入った博物館の一つで、特に野鳥コーナーが印象に残ったのだが、この博物館の初代館長、Horst GrosseはArtur Grosse氏の息子なのであった。

このときには私はまだ野鳥観察を始めていなくて、野鳥のことは何も知らなかったけれど、なんとなく気になってこの写真を撮ったのだった。きっとそれがきっかけの一つとなったのだろう、今ではすっかり野鳥ファン。もう一度このコーナーを見に行きたい。

さらに、Oscheさんの本にはアルテンブルクを中心とする自然保護活動の歴史が詳しくまとめられていて、2年前から自然保護活動に参加するようになった私にとってとても興味深い内容である。なんだか奇遇だなあ。

 

十数年前からベルリン近郊、つまりドイツ東部に住んでいるが、東部には東ドイツ人民共和国(DDR)時代に建てられた建物が多くある。社会主義の理想に基づいて設計された建物、とりわけプラッテンバウ (Plattenbau ) と呼ばれる高層の集合住宅は旧西ドイツ側に住む人たちの間ではすこぶる評判が悪い。でも、私にとってはプラッテンバウには昭和の団地風景を思い出させるものがあり、独特の魅力を感じないでもないのである。

Architektur in der Deutschen Demokratischen Republik (ドイツ民主共和国における建築) ” という資料を見つけたので、手に取ってみた。

 

表紙はまさにプラッテンバウの画像

Volk und Wissen Verlag(人民と知識出版社)という学校用教材の出版社が1972年に発行した40ページの資料で、美術の副読本として使われていたようである。

この資料では、DDR時代に建てられた建築物だけでなく、それ以前の歴史的建築物の例として中世の街並みを色濃く残すクヴェドリンブルク(Quedlinburg)の教会や木組みの民家、旧東ドイツ各地の都市の市庁舎やマルクト広場、ドレスデンやポツダムの宮殿やベルリンの歴史的地区についてもかなりのページが割かれ、詳しく図解されている。

でも、そこの部分は別の機会にじっくり読むとして、今回集中したいのは27ページからの「ドイツ人民共和国における社会主義的な住宅建築および都市計画」の部分だ。この資料は現在の視点による客観的な資料ではなく、DDR時代の学校教材なので、当時の理想に基づいた記述がなされているという前提で読むことにしよう。

第二次世界大戦で瓦礫の山となった都市を復興するに当たり、社会主義国家となった東ドイツは社会主義的なコンセプトに基づいた都市開発に着手した。資本主義社会の産物である階級格差をなくし、労働者に人間らしい住環境を提供することが社会主義の理想の実現に不可欠であるとのモットーのもと、住宅の建設が特に重視された。この資料によると、「1949年から1975年までの間に190万戸のアパートが新築または改築され、500万人以上の国民の住環境が改善された」そうだ。西ドイツが引き合いに出され、「西ドイツでも低所得者向けの社会福祉住宅が建設されてはいるものの、家賃は最大で収入の50%にも及ぶのだから問題の解決にはなっていない。その点、東ドイツでは光熱費など含めても家賃が収入の8%を超えることはあり得ない」と誇らしげだ。

住宅の建設は当然、都市開発全体の中で行われたわけだが、既存の都市が社会主義の理想に基づいて再設計されただけでなく、産業都市としてアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)やホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の社会主義的ニュータウンなどが新設された。以下の過去記事でレポートした通り、アイゼンヒュッテンシュタットは「ザ・社会主義の町」という感じでとても興味深い。私のお気に入り東ドイツ都市ベスト3の一つ。

トム・ハンクスが絶賛する旧東ドイツの社会主義計画都市、アイゼンヒュッテンシュタット

これはホイエルスヴェルダの駅前大通りに並ぶ高層アパート群。なかなか壮観だ

資料に戻ろう。左上の写真はノイブランデンブルク市の中心部。ノイブランデンブルグは中世の市壁が残る古い小さな町だったが、DDR時代に大掛かりな開発によって拡大されたため、レンガ造りや木組みの古い建造物と社会主義的な建物がほどよくミックスされていてなかなかおもしろい町だ。下の写真はコットブス(Cottbus)中心部に作られたプラッテンバウ団地。

ノイブランデンブルクのマリエン教会は素晴らしいコンサートホールになっている

政治的・経済的・文化的中心地となった首都ベルリンの開発には当然のことながら、特別に力が入れられた。ソ連をモデルにして作られた大通りカール・マルクス・アレー(Karl Marx Allee)沿道のスターリン様式建築物を始め、東ベルリンには社会主義建築が密集している。ドイツ再統一から30年近く経った今は東ベルリンの街並みも随分変化したけれど、DDRの面影が完全に消えることはないだろう。

左上からベルリンのシュトラウスベルガープラッツ(Straußberger Platz)、アレキサンダープラッツ(Alexanderplatz)、共和国宮殿(Palast der Republik) 、国家評議会(Staatsrat)

東ドイツではベルリンだけでなく小規模の都市でも中心部の空間づくりが広々としているのが特徴的だと感じる。ちなみに、社会主義の本家ロシアの首都モスクワはもちろんのこと、他の旧社会主義諸国へ行くと首都のデザインがよく似ていて、お揃いの建物も見つかる。

ドレスデンのプラガー通り(左)とそのモデル(右上)、ハレの歩行者天国
裏表紙は共和国宮殿の階段横のモザイク画。
これも社会主義的な建築エレメント

今回紹介した資料はドイツ社会主義統一党(SED) による自画自賛的な出版物なので、基本的に良いことしか書いていないのだけれど、それでもモダンな高層住宅やその他の公共施設が建設された当時の東ドイツ社会の空気感をいくらか想像することができた。高層住宅のデザインやそこでの国民の暮らしについてもっと詳しく知りたいところだけれど、それにはまた別の資料を探すことにしよう。

 

久しぶりに化石を探しに行って来た。南ドイツのゾルンホーフェンでジュラ紀の化石を採集したときと同様(その際の記事はこちら)、地質学エクスカーション会社GeoInfotainmentの週末エクスカーションに申し込んだ。今回目指したのはジュラ紀の地層ではなく、ハノーファー東部の白亜紀の地層だ。

土曜日10:00にガイドさんに指定された場所に集合。ドイツ全国から化石ファンが20名ちょっと集まっていた。この日の作業場はハノーファー・ミスブルク地区の石切場である。

セメント製造のための石灰石が採掘される広大な石切場だ。露出した泥灰土の地層は白亜紀カンパニアンに堆積した。白亜紀のハノーファー地域は海に覆われていたので、べレムナイト、ウニ、アンモナイト、オウムガイ、カイメン、サンゴなどの化石が多く産出する。サメの歯や脊髄が見つかることもあるという。早速探してみよう。

採ってくださいと言わんばっかりに石から突き出たべレムナイト。ガイドさんに貰った化石識別資料の写真から推測するに、これはBelemnitella mucronataかなあ?オレンジ色に近い茶色で透き通った質感のものがたくさん見つかった。

一緒にエクスカーションに参加した夫は石にノミを当てて金槌でカンカン売って石を割るのに熱心だったが、私は石を割るのは疲れるので地面や石の隙間の泥の中を観察することに集中する。大中小のウニやいろんな形のサンゴ化石が埋まっていた。ウニ化石を見つけるのは全然難しくない。でも、多くは欠けたり潰れたりしていて、かたちの綺麗なものはなかなか見つからない。また、泥をかぶっているので洗ってみるまではどんな状態かよくわからないということもあり、とりあえず良さそうだと感じたものをどんどん集めていく。GeoInfotaimentの前回のエクスカーションではこの石切場でサメの脊髄がまるごと見つかったそうだ。

みんなろくにお昼ご飯も食べず、16:00まで黙々と作業。作業中は疲れを感じないけど、終ってからホテルに帰ってシャワーを浴びたら(泥だらけになったからね)、クタクタになっていることに気づいた。そのまま寝てしまいそうだったけど、ホテル近くのレストランでみんなでご飯を食べることになっていたので寝るのは我慢。今回のエクスカーションの参加者は20名ちょっとでドイツ全国から集まっていた。初心者もいればベテランもいて情報交換は楽しかった。

翌日は朝の9:00にハノーファー郊外Höverの石切場で作業開始!

作業中の私。この日は曇っていてちょっと寒かった〜。ぶるる

こちらの石切場で見つけたのはウニばっかり。でも、ウニ化石にもいろんな種類があるのだ。

ガイドさんに貰った資料

で、2日間でどのくらい集めたかと言うと、このくらい。

少し詳しく見ていこう。

べレムナイト化石。他の場所で収集した手持ちのべレムナイトを友人などにおすそ分けして在庫が少なくなっていたので、たくさん再入荷できて嬉しい!

これらはカイメン化石。

貝の生痕化石っぽいけど、よくわからない。

ハートの形の可愛いウニはMicraster spec.

これもハート型だけど、表面の感じから推測するに、Cardiotaxis spec.かなあ?表面に棘穴がぎっしり。

このコロコロして片側がやや尖ったタイプが一番多かった。Galeola spec.だろうか?

大きーい!これはEchinocorys conicaかな?表面に別の小さな生き物がくっついていた形跡がある。

裏側には4つの傷。ガイドさんが「魚の噛み跡だよ」と教えてくれた。ええー、すごい!

模様がわかりにくいので濡らしてみた。これもたぶん、Echinocorys conica

夫はこれを見つけて大喜び。後ろ側が割れてしまっているけど、てっぺんに黄鉄鉱の結晶ができている。

そして、今回のエクスカーションのハイライトはこれ。

Phymosoma spec.

泥の中に埋まっていたのを私が発見したのだ!ウニ化石には大きく分けて正型のものと非正型のものがあって、非正型タイプはたくさん見つかるが正型タイプは滅多になく、あってもうんと小さいものが多いのだそう。これは直径28mmほど。今回の参加者の中でこれを見つけたのは私一人で、「正型のを見つけたの?すごい!見せて見せて」とみんなが見に来た。まあ、これもビギナーズラックというやつでしょう。ちなみにこの化石は上から圧力がかかったようでやや潰れている。正型のウニは非正型のものよりも太く長い棘で覆われていた。参加者の中に棘化石を見つけた人がいて見せてもらった。とても綺麗だった。

こんなわけで今回の化石採集も楽しかった。欲を言えばサメの歯を一本くらい見つけたかったけど、初めて来た石切場でそれなりにいろいろ拾うことができたからまずますかな。

ドイツでは必ずしも化石採集エクスカーションに参加しなくても、バルト海の海岸などで個人で化石を拾い集めることもできる。でも、エクスカーションに参加するのはとてもおすすめである。専門家に教えてもらいながら収集できるし、主催者が個人ではアクセスできない石切場への入場許可を取ってくれる。ドイツには化石エクスカーションを提供している組織が複数あるが、その中で今回私たちが利用したGeoInfotainmentの週末エクスカーションは一人75ユーロ(宿泊費・飲食費は個人負担)で二日間まるまる採集できることを考えると、高くないと思う。

帰ってきてから気づいたのだけど、GeoInfotainmentには日本人のガイドさんもいる。Hiroshi Nakanishiさんという方でフランケン地方のジュラ紀の化石のスペシャリストであるようだ。バイロイトとニュルンベルクの中間あたりに位置するGräfenbergなどでのエクスカーションを担当されている(情報はこちら)。残念ながら今年の中西さんのエクスカーションは終了してしまっているけれど、来年もあるなら是非参加したい。

ご興味のある方、ご一緒にいかがですか?

あるとき暇つぶしにふらりと入った博物館で展示を見ていたら、一枚の写真に目が留まった。かなり古い写真で、体格の良い成人ドイツ男性たちが組体操をしている写真だった。「あ、組体操だ」と、まじまじと見つめた。ちょうどその頃、日本の学校の運動会で行われる組体操の危険性についての議論をメディアで目にしていたから。そもそも日本ではいつからどういう経緯で組体操を運動会の種目にするようになったのだろうかと考えていたので、その写真が妙に気になったのである。現在のドイツの学校では生徒が組体操をしているというのは聞いたことがないけれど(少なくとも私の子どもたちは未経験である)、昔はドイツでも普通に組体操をやっていたのだろうか。もしかして、組体操のルーツってドイツ?

その展示は体操に関するものではなかったので組体操についての説明は特になかったのだが、ドイツの社会革命という文脈の中でフリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンの名前が挙げられていた。フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンは「体操の父」と呼ばれる19世紀に活動した教育者だ。組体操と何か関係があるんだろうか。

気になってヤーンの名前で検索してみたら、フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーン博物館なるものがFreyburgという町にあることがわかったので、行って来た。(注: 南ドイツのFreiburgとは別の、ザクセン=アンハルト州にある町です)

フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーン博物館の建物はヤーンが晩年を過ごした家を改装したものだ。壁際にヤーンの胸像が置かれ、外壁には”Frisch, fromm, fröhlich, frei”と書かれている。ヤーンが体操家の標語として掲げていたフレーズらしい。

ちょうど米国人のグループがガイドの説明を聞いているところだったので、「すみません。私も参加させてもらっていいですか」と聞いてガイドツアーに参加した。

1778年にブランデンブルク州ランツに牧師の息子として生まれたフリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンは幼い頃から聡明で読み書きを覚えるのも早かったが、かなりの暴れん坊で学校では問題児だったそうだ。成績は振るわず、大学に登録し、主に言語学を学んだものの問題行動で退学になり、各地の大学を転々とした挙句、何の資格も取得することができなかったが、家庭教師としてどうにか生計を立てるようになる。

ナポレオン支配下のドイツで愛国心に燃えていた青年ヤーンはフランスからのドイツの解放のために戦うことを自らの人生の目的に定めた。教師として若者の士気を高め、フランス軍に打ち勝つ戦闘力を養う必要がある。そのためには野外で体を鍛えさせなければならないと考えたヤーンは、「体操(Turnen)」という概念を生み出し、あん馬や鉄棒など、器械体操の器具を次々と考案した。

あん馬

1818年、ヤーンはベルリンのHasenheideにドイツ初の運動場を建設し、体操クラブを結成した。運動場とはいっても現代の運動公園とは違い、軍事訓練の場なので、規律的である必要がある。それまで、肉体修練の機会は貴族や学生など一部の者に限られていたが、大衆にも平等に機会が提供されるべきだというのがヤーンの思想で、体操クラブには社会階級に関わらず誰でも参加することができた。このHasenheideの運動場を皮切りに、ドイツ中に運動場が建設され、各地に体操クラブが次々誕生していく。

ヤーン考案の体操着

狂信的な愛国主義者ヤーンは単なる体操の指導者としてではなく、国民運動のカリスマ指導者として力を得ていった。落ち着きがなく喧嘩っ早かったが、非常に雄弁で、説得力ある演説で若者を引きつける才能に長けていた。1816年、著書「Die Deutsche Turnkunst(ドイツの体操術) 」を発表し、ヤーンの名声は頂点に達する。

解放戦争における功績を認められイェナ大学から名誉博士号を授与されるなど栄光を獲得したヤーンだったが、それは永遠には続かなかった。ナポレオン戦争後のウィーン体制下、ヤーンは学生同盟(ブルシェンシャフト)を結成して急進的な自由主義運動を繰り広げ、次第に反動的と見なされるようになる。1819年、ヤーンは逮捕され、体操クラブは禁止された。プロイセンのすべての運動場も閉鎖されてしまう。

地方へ追放され、フライブルクで家族とともにひっそりと暮らしていたヤーンは1840年、ようやく名誉を回復する。1842年には体操禁止令が解除され、ドイツにおいて体操は再び盛んになっていった。1848年のドイツ体操家同盟(Deutscher Turnerbund)の創立には晩年のヤーンも関わっている。

体操の父として今日もその功績が称えられるヤーンは2013年にドイツスポーツの栄誉の天堂に入った。でも、彼のナショナリストとしての言論が後にナチスのプロパガンダに利用されていたことからこれを疑問視する声もあるらしい。ヤーンを崇拝していたヒットラーはヤーンの棺を開けさせ、頭蓋骨を取り出してアーリア人種の研究のために測定したという。

ヤーンの墓石

ヤーン博物館の展示には組体操らしきものの写真は見当たらず、館内ガイドの男性に「組体操ってヤーンが考案したものですか?」と聞いてみたら、「いや、あれはもっと後の時代に始まったものですよ」という返事が返って来たけれど、具体的なことは教えてもらえなかったので、日本の学校の運動会で今も続く組体操のルーツは結局わからなかった。でも、体操というものが元々は軍事訓練として始まったことや、スポーツとナショナリズムとの関係などについて知ることができたのでわざわざフライブルクへ行った甲斐はあったかな。

今回は1931年にライプツィヒで出版された古生物学の本、”Das Leben der Urwelt(原始時代の生き物)”を紹介しよう。アンティークショップの店内をなんとなく見ているとき、変色した布製のハードカバーに恐竜のイラストが描かれているのに惹かれて手に取った。著者はヴィルヘルム・ベルシェ(Wilhelm Bölsche)。専門家向けではなく一般書のようである。1931年といえば日本では昭和6年。その時代のドイツで読まれていた古生物学の本とはどんなものなのだろうか。

多少の変色とシミはあるものの、状態は悪くない

ページ数は全部で約350ページで一般向けにしてはかなりのボリュームだ。中表紙の隣に掲載された絵は海に覆われていたジュラ紀の南ドイツの想像図。プレシオサウルスとイクチオサウルスが魚を捕らえている。

目次はなく、地球の歴史が「現在の地球はほぼ探検され尽くされてしまったが、地下には地球の過去が刻まれており、次々と新事実が発見されている」という導入で始まる長い長い読み物だ。文中挿絵は141点と豊富でビジュアル的にもアピールする。(上のページにはウミユリとアンモナイトの挿絵)

著者ヴィルヘルム・ベルシェ(1861 – 1939)は自然科学を自ら専門的に学んだことはなかったが、作家として科学をポピュラーにするのに大いに貢献した人物のようだ。自然科学の読み物を数多くしたためただけでなく、ドイツの生涯学習機関Volkshochschuleの創始者でもあった。Volkshochschule(直訳すると「市民大学」)はある程度の規模の町には必ずあるカルチャーセンターのような機関で、手頃な受講料でいろいろなことが学べる。私もスペイン語を習ったりなど、よく利用しているのだけど、Volkshochschuleは今年、ちょうど創立100周年を迎えたらしい。その記念すべき年に創始者の著書に遭遇したということになる。ベルシェはドイツ古生物学会の発足時からのメンバーでもあり、古生物学には特に造詣が深かったらしい。古生物に関する本をたくさん書いている。この”Das Leben der Urwelt”はベルシェの晩年の作品なので、長年に渡って蓄積してきた彼の知識の集大成だったのかもしれない。

イクチオサウルスの頭蓋骨
ベルンハルト・ハウフ博士(Dr. Bernhard Hauff)。過去記事で紹介した南ドイツ、ホルツマーデンにある凄い化石博物館、Urweltmuseum Hauffの設立者だ。(過去記事はこちら
フランクフルト、ゼンケンベルク博物館所蔵のトラコドンのミイラ(左ページ)とメガロサウルスから逃げる草食恐竜イグアノドン(右ベージ)。ゼンケンベルク博物館に関する過去記事はこちら
20世紀前半のティラノサウルス・レックス想像図。ティラノサウルスの骨格標本はベルリン自然史博物館で見られる。関連過去記事はこちら

一般向けの本にしては随分と詳しく、読み物の体裁を取ってはいるがかなり学術的な内容である。相当な部数が発行されたようで、90年近くも前にこのような本を読む市民がたくさんいたということが驚きだ。いや、この時代は市民の知的好奇心が爆発していた時代だったから、人々はベルシェの書く科学読み物を貪り読んだのかもしれない。ベルシェは1904年から1999年までほぼ1世紀に渡ってドイツで刊行された一般向け科学雑誌「Kosmos」でもチャールズ・ダーウィンやエルンスト・ヘッケルの進化論を紹介している。

この本はフラクトゥール文字で書かれているので読むのは疲れるけど、挿絵や写真を眺めているだけでも楽しい。もっと挿絵をお見せしたいところだが、あまりに数が多くてどれを選んだらいいのかわからないのでこのくらいに、、、。

資料に見るドイツシリーズの2回目。今回手に取った古い資料は、1922年4月6日にライプツィヒで発行された挿絵入り新聞、Illustrierte Zeitungだ。Illustriete Zeitungは1843年から1944年まで(つまり第二次世界大戦でドイツが敗戦する前年まで)発行されていたドイツ初の挿絵入り新聞だそうである。そもそも挿絵入り新聞とはなんぞや?ちょっと調べてみたところ、1940年代にはフランスの「イリュストラシオン(Illustration)」、英国の「イラストレイテッド・ロンドンニュース(Illustrated London News)」など、木版画技術を使った挿絵をふんだんに使った新しいタイプの定期刊行物が欧州各国で次々と刊行されていたらしい。Illustrierte Zeitungは初めて目にしたが、挿絵入りを謳っているだけあってビジュアル性が高く、興味をそそられる印刷物だ。

表紙は二重になっている。これは外側の表紙で、この号ではハルツ地方の町、クヴェドリンブルク1000周年が特集されている。クヴェドリンブルクは「ドイツ発祥の地」として知られ、中世の面影を残す美しい旧市街はUNESCO世界遺産に登録されている。と知ったようなことを書いているが、実はまだ行ったことがない。いつか必ず行ってみたい町だ。

外側の表紙をめくると内側の表紙が現れた。表紙イラストはケルンのオーデコロンブランド°4711の「Tosca 」の広告がどーんと載っている。香水に詳しくないんだけど、 Toscaって確か今もあるよね?

次のページは広告のみ。両ページとも温泉保養地の広告ばかりだ。右側にはチェコのカルロビバリ(ドイツ語ではKarlsbad)の大きな広告。この頃は富裕層の間で温泉保養が相当人気だったことがうかがえる。

広告が延々と続く。一つ一つ見ていくと、現在もある会社名を見つけたり、聞いたことがないメーカー名だけれどこの時代にはメジャーだったのかなと思って検索してみたりして面白い。右下の画像はシュタイフ社のうさぎのぬいぐるみの広告だ。

広告ばっかり?と思ったけれど、読むところもちゃんとある。左ページに掲載されているのは1922年に初代エジプト王に即位したフアード1世の肖像と当時のエジプトの様子を示す白黒写真。右のページは投書欄だろうか。下半分にドイツ領東アフリカの最後の総督、ハインリッヒ・シュネーによる「ドイツの植民地の運命」と題された記事が載っている。フラクトゥール文字で書かれていて字も小さいので読みにくいが判読を試みたところ、第一次大戦後に連合国によって分割統治されることになったかつてのドイツの植民地の惨状についての元総督の嘆きと憤りが綴られている。簡単にまとめると、「我々が大変な思いをして野蛮な地を文明化し、安全で静かで秩序ある場所にしたのに、敵国の手に渡ってからはすっかり荒廃してしまった。経済面だけではない、現地人に対する待遇も悪化した。現地人はまともな医療も受けられなくなり、病気が蔓延している。医師ロベルト・コッホがアフリカ睡眠病の制圧に取り組み輝かしい成果を上げていたというのに逆戻りしてしまったとは嘆かわしい。現地人もドイツの統治時代は良かったと言っているようだ。ドイツは是非とも植民地を取り戻す必要がある」というような内容だ。

この号の目玉、クヴェドリンブルク特集。写真がふんだんに使われている。

中綴じ部の見開きの大きな挿絵はミュンヘンのビアガーデンを描いたもの。ノックヘアベルクのサルヴァトールケラーの庭という説明が下に書いてあるけれど、現在、「パウラナー・アム・ノックヘアベルク」という名前になっているビアガーデンかな?

こちらの左ページには演劇舞台の写真。中央下のポートレートは指揮者・作曲家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのもので、この度ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任したと書いてある。周囲の写真からは1920年代初頭の女性のファッションが見て取れる。右側のページは連載小説で題はナニナニ?「フェリックス・シュピールマン氏の家政婦たち」だって。裏面までびっしり書かれていて、1回分の読み応えがありそう。

その他にも芸術文化記事、アフリカの狩猟採集民サン人(紙面上は「ブッシュマン」と記載)の紹介記事、歴史記事など内容はかなりバラエティに富んでいる。

科学記事も。ウィーン大学微生物学講師による両生類に見られる奇形についての解説記事である。へえ〜。この新聞、真面目に読むとかなり教養が得られたのではないだろうか。ドイツ教養市民層の形成にはこうした視覚的にアピールし、かつ好奇心や知識欲をくすぐるIllustrierte Zeitungのようなメディアが小さくない役割を果たしていたのだろうか。

約100年に渡って発行されていた新聞なので、その時代時代でトーンが変化したことも考えられる。機会があれば他の年代のものも見てみたい。

以前、Brandenburg an der Havel市にあるブランデンブルク州立考古学博物館を訪れて以来、ずっと気になっていたニーダーラウジッツ地方のRadduschに再建されたスラブ人の城をようやく見に行って来た(過去記事: 住んでいる地域について知る。ブランデンブルク州考古学博物館)。

ベルリンの周辺を取り囲むブランデンブルク州はかつて神聖ローマ帝国の辺境で、ドイツ人が入植する以前は西スラブ人の定住地だった。スラブ人の多くはキリスト教徒の入植者たちに次第に同化していったが、ドイツ人と接触するまでは自然宗教を主体とした独自の文化を育んでいた。ニーダーラウジッツ地方のスラブ人部族であるLusizi族は独特なドーナツ型の城をたくさん建設していたそうだ。ニーダーラウジッツはドイツ民主共和国時代には褐炭産業の中心地だったが、ドイツ再統一後に採掘場の多くが閉鎖されることになった。2003年、その一つであるSeese-Ost採掘場の跡地にスラブ人の城、Slawenburg Radduschが再建された。その城は褐炭採掘の際の出土した物を展示する考古学博物館になっている。

Slawenburg Radduschはベルリンから日帰りで行ける人気の観光地、シュプレーヴァルトのすぐ外側に位置している。よく知られているように、シュプレーヴァルトには現在もスラブ系民族、ソルブ人の集落が多くある。先に述べたように大部分のスラブ人は長い年月の間にドイツ文化に吸収されていったけれど、一部は今でもドイツの少数民族として独自の文化を継承している(ソルブ人については、こちらの記事をどうぞ)。

再建された城は9世紀後半〜10世紀にこの地方に住んでいたとされるLusizi部族のもので、現在のソルブ人とどれほどの関係があるのかはよくわからない。でも、ドイツにありながら古代ローマの遺跡でもなくドイツの中世の古城でもない城。なんだか興味をそそられる。

見えて来たRaddusch城

ドーナツ状の城壁は遠くから見ると王冠のようにも見える。

側から見た城壁

城壁の直径は約56m(外側)で、厚さは10mくらい。城壁の内側が博物館スペースになっている。展示されているのは石器時代からのニーダーラウジッツ地方の発掘物だ。

入ってすぐのところに城壁の模型
Lusizi部族は木材を組み、その隙間を砂と石で埋めて壁を建設していた
内部の展示スペースは想像していたよりも広く、展示も充実している
木製の神像、”Götze von Raddusch”。Lusizi部族は火や雷の神などを崇拝していた

10世紀前半からニーダーラウジッツ地方に次々と城を建設したLusizi部族は、963年にゲロ辺境伯に征服され、衰退してしまった。でも、それよりもずっとずっと前の青銅器時代から鉄器時代初期にかけて、この地方にはラウジッツ文化という豊かな古代文化が存在したようだ。ベルリン大学(現在のベルリン医大、シャリテ)の病理学者で、同時に民族学者・先史学者でもあったルードルフ・フィルヒョー(Rudolf Virchow)が発掘調査を行い、出土した土器を「ラウジッツ式土器」と命名したことからこの地方で栄えた文明をラウジッツ文化と呼ぶようになったた(ルサチア文化ともいう)。フィルヒョー博士といえば、ベルリン新博物館(Neues Museum)に彼の考古学発掘物コレクションが展示されていることを思い出した。今度、もう一度じっくり見て来ることにしよう。

ラウジッツ文化の遺物、Vogelwagen。青銅製の車輪は太陽を意味し、その上には鳥が乗っている。ラウジッツ文化において崇拝の対象だった太陽と鳥が一体化したこのようなものは近郊のBurgという村の周辺からこれまでに全部で7つ発掘されているという(画像のものはレプリカ)。ラウジッツ文化は気候変動による環境の砂漠化で衰退し、消滅した。

博物館にはLusiziの文化とラウジッツ文化の他、古代ローマやゲルマン民族についても展示されている。

展示を見た後は中庭から階段を上がって城壁の縁を歩いてみた。中庭はイベントスペースのようだ。

壁の上を歩いても別にどうということもないのだが、、、、

城壁の周りには堀が掘られ、その外側は野草ガーデンになっているのだが、続く日照りで残念ながら野草はすっかり枯れてしまっていた。

すぐ向こうにはソーラーパネルがびっしりと設置されている

円形の城を上から撮ったら面白いかなと思ってドローンを飛ばしてみた。

ニーダーラウジッツ地方は褐炭産業の衰退で寂れてしまった印象があるが、過去記事で紹介したように閉鎖された採掘場のいくつかはマニアックな観光スポットになっている(たとえば、巨大なコンベアの上を歩ける野外ミュージアム、F60)。そして、褐炭を採掘したからこそ得られた豊富な出土物を利用したこのような考古学ミュージアムの存在も嬉しい。他にはない独特な魅力のある地方なので、これからもちょくちょく出かけようっと。

最近、古いドイツの資料の面白さに目覚めてしまった。もう誰も読まないような、下手をすると束ねて紙ゴミとして捨てられてしまいそうな本や新聞、雑誌、パンフレット、葉書。そうしたものをよく見ると過去のドイツが浮かび上がって来る。現在のドイツへと続いている過去のドイツ。私がドイツへやって来たのは1990年。それから今日までのドイツはごく小さな個人的範囲とはいえ経験して来たが、それ以前は日本にいたのでリアルには知らない。古い資料を通して覗く世界はこれまでこのブログで紹介して来た博物館の数々において見たものと繋がっていく。

そこで今回から観光スポットの情報に加え、マニアックなドイツの資料を少しづつ紹介していくことにする。最初に紹介する資料は、ドイツ民主共和国(DDR)で1978年に発行されたこのホテルガイドだ。

発行元は旧東ドイツの経済専門出版社、Verlag Die Wirtschaft。西ドイツ時代からボンに拠点を置き現在も続いているVerlag für die deutsche Wirtschaft社と名前が似ていて紛らわしいが、今はなきDDRの出版社だ。

ホテルガイドといっても社会主義国のホテルガイドである。馴染みのある日本や現在のドイツのガイドブックとはかなり違う雰囲気だ。ざらざらした発色の悪い紙でできていて、デザインもシンプル。

けっこう紙の黄ばみが強い

中を見てみよう。表紙裏にはホテルの設備を表すアイコンとその説明一覧表が載っている。ガイドブックのタイトルは「Hotelführer Deutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国ホテルガイド)」とそのまんま。DDR時代、国民はどこでも好きなところへ旅行ができたわけではなかった。観光が可能だったのは国内とDDRと友好関係にあった他の社会主義国のみだった。

このホテルガイドは主にDDR国民のためのものだが、DDRに滞在する外国人旅行者も対象にしていたようで、前書きはドイツ語、ロシア語、ポーランド語、チェコ語、英語の5ヶ国語で書かれている。前書きによると、このガイドに掲載されるのはベッド数が10以上(エクストラベッド含む)の宿泊施設に限られていた。DDRでは1975年に1つ星から5つ星までの統一的なホテルカテゴリーが導入された。上の画像でわかるように、カテゴリーごとに宿泊費の幅も決まっていたらしい。5つ星ホテルのシングルルームで28〜42東ドイツマルク、ダブルルームだと45〜75東ドイツマルクか〜。高いのか安いのかよくわからない。そして、、、なになに?社会主義国および非社会主義国からの旅行客にはこれとは別の料金が適用される、と書いてある。つまり、国民と外国人とでホテルの宿泊費が異なっていたということ。

ページの下部には四角い囲み。他のいくつかのページにもこのような囲み部分があって、どうやら広告スペースらしい。極めてプレーンな広告だ。資本主義国と違って競争がないから凝った広告は必要なかったのだろう。つまり、これは広告というより、お知らせのようなもの?

何のお知らせだろう?と思ってよく見ると、”neue werbung(新しい広告)”という文字。「新しい広告」の広告、いや、お知らせ?。ちょっとよく意味がわからない。そしてそのすぐ下には Fachzeitschrift für Theorie und Praxis der sozialistische Werbung(社会主義的広告の理論と実践のための専門誌)と書いてある。ううむ、、、、。

次のページには、ベルリンPlänterwaldにあった遊園地の広告。かなりラフなイラストである。社会主義的広告の理論と実践に基づいた、というわけではないだろうが、、、。

さて、肝心のホテル情報。地域ごとにホテルがリスト化され、それぞれのホテルの住所、電話番号、Fax番号、星の数、部屋数/ベッド数、そして設備を表すアイコンが並んでいる。ざっと見た感じ、さすが首都ベルリンのホテルは星付きであればほぼ全室に電話が付いていたようだ。小さな町のホテルは星の数に関わらず個別電話の設置されていたところは少ない。シャワーまたはバスタブのないホテルも普通だったとみられる。でも、日本のホテルとは違って、ダンスフロアのあるホテルがちらほら。

私の住んでいるポツダム地域は3つの宿泊施設が掲載されていた。Hotel Potsdamというのはかつてのインターホテルで現在メルキュールホテルになっているところかな。ホテル内にインターショップ(外貨ショップ)もあったのだね。

裏表紙にはテレビ塔の写真。このホテルガイドの値段は2マルク80セント。内容は定期的にアップデイトされていたようだ。

前回、Wittenbergeへ行ったら1字違いのWittenbergへも行きたくなった。ザクセン=アンハルト州のWittenbergは宗教改革家マルティン・ルターが教鞭を執った大学があることで有名な町である。でも、今回私が目指したのは宗教とは関係のない博物館、Haus der Geschichte。1920年代から東西ドイツが再統一するまでの東ドイツの生活文化を展示した博物館だ。

旧市街に建つ博物館はDDR時代には保育園だったそうだ。

入り口

中に入ると、受付横の壁にはカラフルなDDRグッズが美的にディスプレイされている。常設展示はフロア2階分ある。階段を上がると、廊下に係員の男性がいて「質問があったら、遠慮なくなんでも聞いてくださいね〜」と言ってくれた。

展示は1920年代の住空間から始まっている。先日行ったカプート村の郷土博物館で見た展示と大体同時代の生活用具が配置されたダイニングキッチン。右手にシンクや髭剃りの道具などがあるので、キッチンが洗面所も兼ねているようだ。

壁の布巾に「Gutes Gericht Frohes Gesicht(美味しい料理は人を笑顔にする)」というフレーズが刺繍してある。この年代のリネン類には大抵このような標語のようなフレーズが刺繍がしてあるようなのだが、どうしてだろう。係員のSさんに聞いてみよう。

「こういうリネン類は主婦が手縫いしていました。主婦として心がけたいと思うことなどを刺繍していたんですよ」

この部屋は第二次世界大戦後、1946〜49年にかけて旧東プロイセン(現在はポーランド)を追われ移入したドイツ人難民たちの当時の生活の様子を再現している。馬車に載せられる分だけの身の回り品しか持たず、戦後の住宅難の中で新しい生活を始めなければならなかったため、キッチン、ダイニング、居間、寝室、子供部屋、生活の全てを一つの部屋の中で営むことが珍しくなかったのだろう。

1940年代のダイニングキッチン。テーブルの上には1945年の食糧配給量が書かれた紙が載っている。Sさんによると、配給量は十分でなく、家庭菜園で栽培されたジャガイモや野菜が闇市場で取引されていたという。ドイツでは戦前から都市部住民の間でもクラインガルテンと呼ばれる家庭菜園が普及していたのだ。

初期のAEG社製冷蔵庫

冷蔵庫の説明を始めたSさん、話が脱線して電気の直流と交流の違いや、世界で初めて電気椅子による死刑が執行された話にまで発展して行った。面白かったけれど、ここでは割愛しよう。

60年代の居間。この時代のレトロモダンな家具は機能的で飽きが来ないので今もわりと人気があるように思う。我が家にも夫が東ドイツに住んでいた祖母から譲り受けたDDR製キャビネット一式がある。

1970年代の居間。Sさん「DDR時代は結婚すると5000マルクの無利子ローンが組めたんですよ。で、子どもが生まれると一人につきそのうちの1000マルクが返済免除になりました。だから子どもをたくさん作ればその分、借金が少なくなるから早く家を建てられて得だったんだ。それで、子沢山でマイホームを持った男はHerr Bieber(ミスター・ビーバー)とからかわれてましたよ」。「ビーバー?どういう意味です?」「尻尾で家を建てたっていうのでね。ビーバーって器用に尻尾を使ってダムを作るでしょう。笑」。そういえば、ドイツ語の尻尾を表す言葉Schwanzは、俗語で男性器も意味する。なるほどね〜。

ビーバー氏の仕事部屋?
70年代のバスルーム。オレンジ色が大流行

1980年代の居間。テーブルの上にはKC/85 3と書かれたデバイス。私「あれは何ですか?」。Sさん「ゲーム機ですよ。任天堂のファミリーコンピューターのようなものですね。DDRでは人民公社ロボトロンがゲームを作っていました。ゲームはユーザーが自分でプログラミングするんです。コンピューター雑誌にいろんなゲームのコードが載っていて、その通りに打ち込んでカセットに保存してテレビ画面で遊んでました。だから同時にプログラミングの初歩も学べてよかったですよ」

ロボトロンの技術力はかなり高かったらしい。オフィスコンピューター1台は家2軒分に相当するほど高価だったが、有能な女性は産後、職場から機械を支給され、ホームオフィスで仕事を続ける場合もあったとのこと。しかしロボトロンも他の多くの産業同様、東西ドイツの再統一で競争力を失い、解体された。Sさんが語るコンピューターの話はとても興味深かったが、この部屋には他にも気になるものがある。それは女の子が手にしているもの、、、、。

あれは、、、、。Sさん「モンチッチです」。私「モンチッチ、確かにモンチッチですね。でも、モンチッチって、日本製ですよね?」「そうです。世界中で大流行しましたからね。DDRでも大人気でしたよ」「でも、DDRの人たちはどうやってモンチッチを手に入れたんです?」「インターショップでね」「インターショップ!インターショップにモンチッチ売ってたんですね」。インターショップというのは東ドイツ時代に西側製品を売っていた店で、西ドイツマルクや米ドルがなければ買い物ができなかった場所だ。なけなしの外貨でモンチッチを買っていた人たちがいたのかあ。

DDRの保育園風景。この建物は保育園として使われていたので、子ども用トイレなどがそのまま残っている。

女性の就業率が非常に高かったDDRでは子どもは早くから預けられるのが普通のことだった。手洗い場の壁には保護者の回想録が貼ってあ理、そのうちの1枚には「最初、公立保育園に息子を預けたけれど、社会主義のイデオロギーを吹き込まれるのが嫌でプロテスタントの幼稚園に転園させた」という内容が書かれている。

80年代のティーンエイジャーの部屋
DDRのナイトクラブ

ガイドツアーではないのに、私が展示を見る間、ほぼずっと説明をしてくれたSさん。Sさんのお話はしばしば脱線し、展示と直接関係ないこともたくさん教えてもらえてかなり興味深かった。帰り際にはSNSアカウントまで教えてもらったので、DDRの生活についてより深く知りたくなったらSさんにお話を伺おうかな。

また一人遠足。今回はブランデンブルク州北西の端に位置するWittenbergeへ行って来た。一文字違いで間違えやすいが、ザクセン=アンハルト州のルターシュタット・ヴィッテンベルクとは別の町だ。

Wittenbergeは内陸の町であるにも関わらず港町である。駅から南西に向かって2kmほど歩くと旧市街があり、その向こうをエルベ川が流れている。中世から水運の要所だったことに加え、産業革命の最中にハンブルク – ベルリン間に鉄道が開通し、ちょうどその中間地点であることから産業都市として発展した。鉄道車両の修理とミシン生産が主な産業だったとのことで、この日はかつての車両基地に展示されている歴史的蒸気機関車を見るつもりだった。でも、機関車は後でゆっくり見ようと先に町歩きから始めたら思ったよりも面白くて時間がかかってしまった。気づいたら帰りの電車の時間で、結局、機関車は見れずに帰って来るということに、、、。

なにが面白かったのかというと、かつてのミシン工場の敷地にある時計塔だ。シンガーミシンの工場の塔だったのでシンガー塔とも呼ばれている。

旧ミシン工場と時計塔

1928年に工場の給水塔として建てられたこの時計塔は現在、内部が博物館になっていて、Wittenbergeのミシン生産の歴史に関する展示が見られるという。博物館と聞けば、塔であろうがなんであろうが入るのが博物館マニアというもの。あまり目立たない小さなドアから中に入り、受付でチケットを買って階段を上がると、階段左右のスペースが展示室になっていた。

シンガーミシンとその歴史を説明したパネル

19世紀の終わり、エルベ川沿いの地域では人口が急激に増え、1903年、Wittenberge市は雇用創出のため米国のミシンメーカー、シンガーの工場を誘致した。それが長年続くこの町のミシン製造業の始まりだ。ドイツにだってミシンメーカーがあるのに外国の企業の工場なんて!と当時はかなり反対があったようだが、その頃すでにドイツ国内でもシンガーミシンの人気は高く、工場誘致は大当たり、10年後には従業員4000人を抱えるようになった。1900年代の4000人だから、かなりの規模だったのだろう。エルベ川沿いの港付近に建てられた工場には水路を使って大量の原材料や運び込まれ、製品がドイツ各地へと輸送された。

正門のある建物。Sの文字はシンガーのロゴ
初期のWittenberge製シンガーミシン。装飾が美しい
ポスターなど

第二次世界大戦後、Wittenbergeのミシン工場は戦後賠償として設備の大半を接収されることになったが、ドイツ民主共和国(DDR)の建国後、TEXTIMA Nähmaschinenwerk Wittenbergeとしてミシン生産を再開した。その後、人民公社VEB Nähmaschinenwerk Wittenbergeと名称を変えてVeritasのブランド名で家庭用ミシンの生産にも乗り出す。1970年以降は東ドイツの家庭用ミシンの全てがWittenbergeで作られていたそうだ。

初期のVeritasミシンはシンガーミシンと似たかたち
1950年台半ば以降のモデルはポップな感じに
DDR時代の正門

順調に生産台数を増やしていたが、ドイツ再統一の翌年の1991年には前年の半分以下に落ち込んでしまう。人民公社Nähmaschinenwerk Wittenbergeは1992年に解体された。

Veritasミシンの市場に出た最後のモデル
陽の目をみることのなかった最新式モデル

時計塔の窓から工場の建物を眺める。東ドイツの産業系博物館を見るたび、なんともいえない寂しさに襲われる。いつも同じパターンなのだ。「この町はかつて〇〇産業で栄えました。しかし、戦争に負け、戦後賠償で設備を失いました。ドイツ民主共和国時代に人民公社として再スタートを切りました。しかし、ドイツ再統一により衰退して生産終了しました。現在はミュージアムです。」ううう、辛い。先にもDDRのミシンの全てがここで作られていたと書いたように、DDR時代には町は特定の産業を割り当てられていたから、それがダメになると町全体が衰退してしまったのだ。皆、真面目に働いていただろうに、どれほどの落胆や憤りを感じただろうかと想像してやるせなくなる。しかし、再統一から30年近く経ち、今はまた少しづつ新しい産業が発達しつつあるようだ。

正門のある建物は現在は職業訓練校

Wittenbergeはこじんまりとして雰囲気良く、ユーゲントシュティールの建物、Haus der vier Jahreszeitenや木組みの郷土博物館など素敵な建物もいろいろあってぶらぶら歩きが楽しかった。次回は是非、機関車と郷土博物館が見たい。

今回は超地元のスポット、ブランデンブルク州カプート村の郷土博物館、Heimathaus Caputhを紹介することにしよう。

大抵の町や村には郷土博物館がある。様々な種類の博物館の中で郷土博物館は特に好きなものの一つだ。そもそも私の博物館を巡る旅は故郷の郷土博物館から始まったのだ。小学校4年生か5年生のときだったと思う。学校の社会見学で地元の郷土博物館を訪れた。その博物館を見たのはそのときが初めてだったのだが、白い洋館という珍しい建物にハッとしたのを覚えている。中に何があったのか、細かく覚えていないけれど、古い生活用具などが展示されていた。「なんか、、、おもしろい」。後日、自転車に乗って一人でもう一度その博物館へ行った。今、自分がいるこの場所で、かつて人は違う生活をしていた。想像すると不思議で興味深い。

現在私の住んでいるブランデンブルク州カプート村の郷土博物館は、週末と祝日のみ開館する小さな博物館だ。村の郷土史クラブの方々が運営している。

開館している日はこのように戸が開いていて、自由に入ることができる。先日、久しぶりに行ったらクラブの方達は裏庭に集まっていた。私が「中を見せてくださいね〜」と言うと、「OK 。リーザ、出番よ!」とリーダー格の女性が中庭に座っていた年配の女性に声をかける。この博物館のガイド役、リーザさんはさっと立ち上がった。現在80代と見られる年長者のリーザさんは村の暮らしの変化を自ら体験して来た人で、また、それを語り継ぐ事のできる貴重な存在なのである。さあ、リーザさんと一緒に博物館の中を見ていこう。

入り口付近のテーブルには古い通学カバンと国語の教科書、ノートというものがまだなかった頃に使われていた小さな黒板と黒板消しの海綿スポンジ。「この文字を見たことはある?ジュッターリン筆記体(Sütterlin)というものですよ。昔はね、学校でジュッターリンとラテン文字の両方を習ったの」。「ジュッターリン文字はいつから使わなくなったんですか」「1941年に禁止になりましたよ。今じゃ、読める人がほとんどいなくなったわね。古い書物には貴重な資料がたくさんあるのに、残念なことね」

リビングの窓辺

戸棚を開けて刺繍を施したリネンのクロス類を見せてもらう。縁リボンには「夏の風に吹かれて咲き、緑の河畔で漂白され、今はそっと戸棚に置かれたドイツ女性の誇り(のリネン)」と赤い文字で刺繍されている。

棚の上には金銀の縁取りと絵柄のコーヒーセット。夫婦が銀婚式を迎えると銀の縁取りの食器を、金婚式を迎えると金の縁取りの食器を記念にあつらえる習慣があったのだそうだ。「でも、使わずにこうして飾っておくだけ」とリーザさん。

「これはなんだかわかる?これはね、銀婚式に妻が被った冠。そしてあっちのは金婚式のものね」

「金婚式や銀婚式だけじゃないの。節目の結婚記念日にはそれぞれ冠を作って、その日が過ぎると額に入れて飾っておくのが習わしでしたよ。今ではすっかり廃れた風習だけれど」

うーむ。伝統文化に興味のない人が増えたというだけでなく、現代は離婚率が高くて銀婚式金婚式にたどり着くカップルがそもそも少ないよねえ。

部屋の奥には婚礼衣装や手入れの行き届いた子ども服が下がっている。写真には写っていないが左側にはグリーンのタイルオーブンがある。

「このブラウス、どう?可愛いでしょう?手で仕上げたものですよ。傷んでないから今でも着られるわね」

「この写真は私の従姉妹の結婚式の写真ですよ。このレースの帽子は式を挙げた後のパーティで従姉妹が被ったの。ほら、女性が結婚することを “unter die Haube kommen(被り物を被る)”と今でも言うでしょう?昔は既婚女性は髪を被り物で覆わなければならなかったの。それからこの湯たんぽ。コップを入れるところがついていて、飲み物を保温できるの。便利でしょ?」

リーザさんはベッド脇の洗顔や身だしなみ用具の中から鉄のハサミのようなものを取り上げた。「これは、髪をカールする道具。熱して髪を間に挟んで巻いていたんですよ」。ええーっ、ヘアアイロンなの?昔からこんな道具があったのか。「ふふふ。でも、温度調整ができないから、気をつけないと大変でしたよ。髪を焦がしちゃったりね」

リーザさんはご自身の小学校の通信簿や学級写真まで見せてくださった。この博物館に展示されているものの中にはリーザさんや彼女のご親族のものもある。

ドールハウスや手芸品の展示されたコーナー。

次はキッチンへ。

「このカップ、ここにFett(高脂肪)って書いてあるの、わかる?」

「反対側はMager(低脂肪)。さて、何のことでしょう?」「ミルク入れ?でも、高脂肪で低脂肪ってどういうことですか?」「それはね、ほらっ」

なーるほど。中で分かれているなんて、楽しいミルク入れ。小さい方にコンデンスミルクを入れていたのかな。

「じゃ、中はこのくらいにして庭へ出ましょうか」「ちょっと待って!この車輪付きのステッキのようなものは何ですか?」「買い物カートですよ。上のフックに買い物袋を引っ掛けて押して歩いたの」「へえ〜。初めて見た!」

前庭に張られたロープには婦人ものの下着がかかっている。「見てよ、このパンツ」。見ると、なんと股割れパンツである!「スカートの下にこういうパンツを履いていて、しゃがむとそのまま用が足せたの」

裏庭にはジャガイモなどを計っていた古い秤や農具などが置かれている。一角に小さな木のドアがあった。「開けてもいいですか?」「もちろん。そこは洗濯室だったところですよ」

こういうの、なんかワクワクするな〜。

「昔は洗濯は1日がかりの作業だったから、大変でしたよ」「どのくらいの頻度で洗ってたんですか」「1ヶ月に1回よ」「1ヶ月に1回!」「だって洗濯物を何時間もぐつぐつ煮ていましたからね。煮なきゃきれいにならないもの」

「昔は洗濯機どころか脱水機もなかったから、それはもう大変で」「洗濯機が普及したのっていつ頃でしたか」「いつ頃だったかしらね。戦後になってからだけど。洗濯機よりも脱水機がまず普及して、洗濯機はそれからでしたよ。そして洗ったものはマンゲルに挟んで延ばしてしわを取っていたの」。マンゲルというのは写真の左右のような装置で、2本のローラーの間に布を挟んでローラーを回転させてプレスするもので、現在でもシーツやテーブルクロスなど大きな布を延ばすのに電動式のマンゲルを使用する家庭がある。私の義両親も電動マンゲルを持っている。

他にもいろいろなものを見せてもらった。リーザさんのお話、面白いなあ。

「コーヒーはいかが?」と声がかかった。明るい庭のテーブルでコーヒーと手作りケーキを頂きながら、クラブの人たちとしばしお喋り。カジュアルでのんびりしたひとときが楽しい。また来ようっと。

久しぶりに一人の日曜日。家族がいないと、なんだか暇だ。どこかに出かけることにしようか。しかし、近場はもう行きつくしてしまった感がある。知っている場所でもいいかなあと思いながら、いつものようにGoogle Mapを眺める。

すると、、、ん?ここになんかあるぞ?白アスパラの名産地ベーリッツ近くの小さな村、Borkheideの外れに「Hans Grade Museum」と書いてある。こんなところに一体何の博物館だろうか。地図上の博物館マークをクリックすると、航空関係の博物館であることがわかった。よし、早速行ってみよう!

Borkheideは南北の長さが2kmにも満たないような小さな村だが、電車の駅はある。駅から線路沿いの未舗装の道を200mほど西に向かって進むと、広大な原っぱにしか見えない飛行場があり、その横の空き地の真ん中に飛行機が鎮座していた。

博物館はここに違いない。飛行場と博物館の間はフェンスで仕切られ、向こう側に回ると入り口があった。

ほー。これは旧東ドイツの航空会社、インターフルーク(Interflug)の旅客機だね?説明看板を読むと、ソ連製のイリューシン18(Il-18)という飛行機だと書いてある。

よくわからないが、ターボプロップエンジンというものらしい
DDRと大きく書かれていて目立つ
下から見上げたところ

この日は博物館の係員は見当たらず、見学者は私を含めて数名のみだったが、ときどきイベントもやっているようなので、その際にはタラップを上がって飛行機の中を見ることができるのかもしれない。

こちらはドイツ機の修理工場としてチェコのクノヴィツェに設立された航空メーカーLET製農業用小型飛行機Z-37。1960年代から主にDDRの森林および農地への農薬散布に使われた。ブルガリア、フィンランド、英国、インド、イラク、ユーゴスラビア、ポーランド、ハンガリーおよびモンゴルにも輸出されていたそうだ。

その他には、、、

おおーっ。ヘリコプター!(実はヘリコプター好き)これはソ連のカモフ設計局が開発した多目的ヘリコプターKamov Ka 26。1966年から 1985年にかけて850台が製造された。

これは言わずと知れた東ドイツのトラバント。何も書いてないのではっきりわからないけど、P60かなあ?

ツヴィッカウ工場のステッカーが貼ってある
これは特定できなかった。ご存知の方がいたら教えてください

ちなみに博物館名のHans Gradeは、1879年に旧東プロイセンのコシャリンに生まれの空港パイオニア。ベルリンのシャルロッテンブルク工科大で学び、自動車および航空機メーカーGrade Motor Werkeを設立した。軍用飛行場のあったこのBorkheideに拠点を移し、軍用飛行機を修理及び自動車の生産を行なった。

Borkheideのメインストリート脇の変電ボックスはHans Grade柄に色が塗られている

なかなか面白い博物館だ。我が家から片道わずか25kmほど。家の周辺にもまだ知らないものがあるものだなあ。

飛行機やトラバントに興味のある方は、是非、以下の過去記事も合わせてどうぞ。

ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館

ベルリン軍事史博物館 (Militärhistorisches Museum Flugplatz Berlin-Gatow)

Google マイマップでドイツ航空関連スポットマップを作った

ツヴィッカウのトラバントミュージアム、Intertrab

前回の記事ではバルト海沿岸の港町ロストックを訪れたことについて書いたが、そこから東に約75kmのシュトラールズントへ移動した。シュトラールズントはUNESCO歴史遺産に登録されている美しい町だ。

でも今回は時間が限られているので町歩きはなしで、前回来たときに見られなかった博物館に集中したい。目当てはドイツ海洋博物館(Meeresmuseum)と水族館(Ozeaneum)だ。どちらを先に見ようか。事前にリサーチしたところ、Ozeaneumの方が新しく大規模でビジュアル性が高そうだが、私にはどちらかというと海洋博物館の方が気に入りそうな気がする。今は夏休み中なので、きっとOzeaneumは家族連れで混んでいるだろうと思ったので、まずは海洋博物館を見ることにした。

ドイツ海洋博物館はカタリーナ教会の中にある

展示室に入ってすぐのスペースには海底地形についての説明があり、その裏にはこのような海洋生物の進化図パネルが設置されている。うん、この博物館は思った通り、私好みだ。ベタな展示だけど、こういうわかりやすいのはやっぱりいいなあ。他に大型アンモナイトの展示コーナーやサンゴのショーケースなどが並び、

1階奥には美しい海中世界のディスプレー。

クジラとイルカの骨格展示室。これはたまらない空間だ。博物館として使うことを目的に建設された建物もいいけど、このように古い建造物を利用した博物館も味があってよい。

天井から吊り下げられている全長15メートルの骨格はナガスジクジラのもの。

左からナガスジクジラのペニス、大動脈弓、気管

2階では主にドイツの漁業史を展示している。今まで漁業には特に関心がなかったのだけれど、先日休暇で行ったパナマで持続可能な漁法で採れた魚のみを出すレストランで食事をする機会があり、オーナーの方から漁法に関する話を少し聞いてきたところなので(記事はこちら)、この展示は面白かった。バルト海沿岸で人は石器時代から魚を獲って食べていた。もちろん、最初は原始的な方法で。写真の細長いカゴはこの地域でウナギを採るために比較的最近まで使われていた伝統的な道具。

古代から魚を食べていたとはいえ、第二次世界大戦まではバルト海における漁業は小規模で、沿岸漁業に限られていた。戦後の東ドイツ(DDR)では食糧確保のため、ロストックおよびリューゲン島のザスニッツに遠洋漁業のための人民公社が設けられ、バルト海の漁業は急激に規模を拡大していった。

ロストックの漁業コンビナートの漁師募集ポスター
ドイツの漁船が獲る主な魚
DDRの漁業研究船Ernst Haeckel
1980年代に使われていたDDRの大型漁船Atlantik-Supertrawler号の模型

3階には人間と海の関わりについて、そしてバルト海の生き物について展示されている。

1965年にシュトラールズント近くの海岸で捕獲されたオサガメ

海の資源コーナーのマンガン団塊。魚の骨やサメの歯などの物体の周りに海水中の金属が凝結してできた塊で、水面下3500〜6500メートルの深さの海底にこのような塊がジャガイモのようにゴロゴロと転がっている。テニスボールくらいの大きさに成長するのに500万年くらいかかるらしい。凝結するのは主にマンガンと鉄だが、銅やコバルト、モリブデン、リチウム、レアアースなども含むため、有望な資源として注目されている。

この博物館の展示の中で一番びっくりしたのはこれ。海底の熱水噴出孔、ブラックスモーカーの実物だって!2013年にインド洋の3296メートルの深さのところで採掘されたものだそう。ブラックスモーカーって採掘できるんだね。

海洋博物館は水族館としても楽しめる。この日は全体的にそれほど混んでいなかったので、落ち着いて見られて良かった。

夏真っ盛り。近年はドイツも夏が暑く、30度超えも珍しくない。涼しい風に吹かれにバルト海へ行くことにしよう。

バルト海に面したロストックにお住いのリエコハスさん(http://@rostock_jp)を訪ねることにした。エリコさんはシュヴェリーン城の公認ガイドで、ロストックやシュヴェリーンを中心としたバルト海地域の観光案内をされている。他にTwitterなどでドイツの観光情報を発信されているブルストさん(http://@akmkdt)とAnnさん(http://@Ann01110628)がドイツ西部からいらしていて、ご一緒することになった。(4人とも互いに初対面)

ロストックに来るのは私は二度目。明るく爽やかな港町で、好きな町の一つだ。エリコさんらとは旧市街のマリエン教会の前で待ち合わせていた。エリコさんがロストックで一番好きだというこの教会を案内してくださることになっていたのだ。

13世紀に建てられたマリエン教会は北ドイツによく見られる赤レンガのゴシック様式の建造物だ。でも、その内部は想像していたものとは違っていて、足を踏み入れてハッと息を呑んだ。とても明るく優美である。

なんという美しいパイプオルガン。このオルガンはパイプが5700本もあり、バルト海で最も大きなオルガンの一つである。ちょうど正午のミサが始まる直前だったので、演奏を間近で見学させてもらえることになった。オルガニストの方について階段を上がり、オルガン席の横でミサの様子を眺めながら演奏を聴くことができた。素晴らしい。

ミサの後はオルガニストの方がオルガンについて説明してくださった。このオルガンは1770年にロストックのオルガン技師、パウル・シュミットにより作られたが、技術的な問題があり、その後別の技師によって大幅に手が加えられた。第二次世界大戦時には兵器製造の材料にするためパイプが撤去され、演奏できない時期が続いたそうだ。

オルガン内部にも入れてくれた。5700本のパイプが並ぶ様は圧巻だ。ちなみにこのオルガン見学ツアーはなんと無料。

マリエン教会の素晴らしさはオルガンだけではない。中世の技術的傑作 、天文時計が見られる。

1472年に完成したこの天文時計、美術品としての美しさは言うに及ばず、今も当時と同じ精確さで動いているというから驚きだ。

そして時計盤の下には暦表盤。これがまた傑作。

天文時計およびこの暦について、エリコさんに大変詳しくご説明頂いた。とても興味深い。ここには詳しく書かないが、間違いなく一見の価値があるので、気になる方は是非ロストックを訪れてください。

教会見学の後は港の魚介類レストランでランチ。ドイツ料理にはあまり魚のイメージがないと思うけれど、海沿いでは魚もよく食べられている。

だしの効いた絶品魚介スープ
タルタルソース付きの白味魚フライ。サクサク

食事の後、私は船舶博物館を見るつもりだったのだけど、あいにく月曜日で休館日だった、、、。

入れなくて残念。次回のお楽しみということに。

月曜だったので、他の博物館もことごとく閉まっていたけれど、ロストック大学動物学研究所の博物館だけがかろうじて開いていた。

なかなか面白い博物館で、目玉はこのコウノトリの剥製。1822年にロストック近郊で発見されたこのコウノトリの首には矢が刺さっていて、それがアフリカ中部で使われるものだったことから、ドイツに生息するコウノトリは冬越しにアフリカまで渡っていることが判明したそうだ。

夜には夜警さんと一緒に旧市街を歩いて回るツアーに参加。2時間にも及ぶ充実の内容だった。写真は夜警さんとエリコさん。

そして締めは私の古い知人の経営するバー、Schallmauerで軽く1杯。

実はこのバー、すごくマニアックなのだ。経営者のオラフは引退した空軍パイロット。広い店内はパイロットグッズで埋め尽くされている。

奥の部屋の天井にはパラシュートも

このようなバーでエリコさん、ブルストさん、Annさんとドイツ旅の情報を交換することができ、とても充実した1日だった。でも、ロストックは見所が多く、1日ではとても見切れない。それに、観光名所を回るだけでなく、港でぼーっと海を眺めたり、船に乗ったり、海岸で貝殻を拾ったりなども楽しみたい町なんだよね。近郊にも素敵な場所が多いので、少なくとも数日は滞在したい場所である。また近々来よう。

今回は博物館の紹介ではないのだが、ニュルンベルク自然史博物館で見つけた資料が興味深かったのでメモがわりに書いておきたい。

ミュージアムショップに”Geheimnisvolle Sauärierfährten aus der fränkischen Trias – Wer hat hier seine Spuren hinterlassen?(フランケン地方の三畳紀地層に見られる絶滅古生物の足跡の謎 〜 痕跡を残したのは誰?)”というタイトルの付いた小冊子があったので手に取った。2013年2月1日から12月31日までニュルンベルク自然史博物館で開催された同名の特別展の資料として発行された冊子で、図表やカラーイラストを多く含んだ31ページで構成されている。

混乱を避けるため最初に書いておくが、上記タイトルにあるSaurierというドイツ語の言葉は恐竜を表すDinosaurierと混同されがちだが、恐竜だけを意味する言葉ではない。かつては恐竜の仲間とみなされていた魚竜や翼竜、首長竜なども含めた大型の古生物を表す一般的な用語であるが、ここでは絶滅古生物と訳した。

ニュルンベルクを訪れる前に立ち寄ったゲッティンゲンの地質学博物館でいくつかの足跡化石を見たところだったので、関係がありそうだと思い、買って来た。

ゲッティンゲン大学に展示されている大型生物の足跡化石

ニュルンベルクを含むバイエルン州北部のフランケン地方の三畳紀の地層からは、絶滅した生き物が遺したと思われる足跡がしばしば発見される。記録されているもので最も古いものは、1833年にニュルンベルク近郊のヒルトブルクハウゼン(Hildburghausen)のブンテル砂岩に教育者フリードリッヒ・ジックラーが見つけた奇妙な足跡だ。四つ足歩行をしたとみなされるその生き物の足跡には指が5本あった。複数の学者がこの足跡を分析しようと試み、有袋動物のものではないか、きっと猿の一種だろう、いや、両生類だなどと様々な解釈をしたが、1835年、ダルムシュタットの動物学教授ヨハン・カウプがChirotherium Barthiiと学術的に命名した。

Chirotheriumは「手を持つ動物」の意味、Barthiiは足跡をスケッチした銅版画家のC. Barthにちなんだ。Chirotheriumは初めて学術的に記載された生痕化石タクソンとなった。その後も同地方のブンテル砂岩からは多くの生痕化石が見つかっている。英国でも似たような足跡が発見され、両生類のものだとするという学説が有力となったが、1925年、ヒルトブルクハウゼンの足跡を丹念に分析したW. Soergelは爪を持つ爬虫類のものだと主張した。

1965年、イタリアのモンテ・ジョルジョの三畳紀の地層から主竜類の骨が発見され、Ticinosuchus feroxと命名される。ドイツでも1990年頃、バーデン=ヴュルテンベルク州のヴァルツフートで骨板を持つ主竜類ラウスキア目の骨が見つかり、Ctenosauriscus koeneniと名付けられた。現在はヒルトブルクハウゼンの足跡はCtenosauriscus koeneniだったとみなされている。

ヒルトブルクハウゼン市役所の側には足跡の実物とともにChirotheriumのモデルが展示されている。画像: Wikipedia (ヒルトブルクハウゼンのHP

しかし、なぜフランケン地方には大型古生物の足跡がよく見られるのだろうか。

フランケン地方を含むドイツ中部の盆地(Germanisches Becken)は三畳紀には乾燥した気候だった。水界は浅く、海と繋がることはほとんどなかったため、繰り返し干上がっていた。しかし、降水量の多い時期には大量の砂が水界の縁で粘土の地層の上に堆積した。そのため、地面は生き物がその上を通過できる程度には硬く、足形の窪みができる程度に柔らかかった。再び乾燥期が来ると乾いた足形の窪みは砂で覆われ、何百万年もの歳月の間に固まり、石板となった。

ブンテル砂岩に見られる足跡化石

フランケン地方ではブンテル砂岩の他に、バイロイト近郊のベンク砂岩(Benker Sandstein)やハースベルゲ郡のコーブルク砂岩(Coburger Sandstein)などからも足跡化石が見つかっている。ヒルトブルクハウゼンで初めて見つかった足跡化石はおよそ2億4700万年前に生きた主竜類のものだったが、恐竜が出現したのはそれから2200万年後のことだ。ドイツで発見された最も古い恐竜の骨はプロコンプソグナトゥス(2億1000万年前)、そしてプラテオサウルス(2億500万年前)である。

様々な足跡化石を時系列で辿ると、主竜類から恐竜への進化が見て取れる。Chirotherium Barthiiに見られた4つ足歩行と5本の指の足跡はまもなく4本指の足跡になり、それから四つ足歩行3本指を経て2本足歩行3本指へと進化して行った。(下の画像を参照)

Chiroteriumからグラレーター(Grallator eubrontes)に至る進化の図

足型や歩幅、位置関係からその生き物がどんな姿をしていたかを推測することは簡単ではないが、骨が発見されれば復元図やモデルは実際の姿により近くなる。

ドイツには恐竜やその他の古生物の足跡化石の見られる場所がいくつかあるが、特にフランクフルトのゼンケンベルク自然博物館の足跡化石は見応えがある(記事はこちら)。

関連サイト: 私がGoogleマイマップで作成した「ドイツ恐竜関連スポットマップ」。

前回、ニュルンベルクの交通博物館を紹介したが、ニュルンベルクでは自然史博物館へも行った。

毎度のことながら、建物の外観を撮り忘れた。いつも博物館の前に来ると早く中に入りたくて写真を後回しにし、そのまま忘れてしまうのだ。自然史博物館はNORISHALLEという建物。中に入ってこの階段を上がると自然史の常設展示室だ。

階段を上がると恐竜が天井からぶら下がっている。ドイツで一番最初に骨の見つかった恐竜、プラテオサウルスだ。1834年、ニュルンベルク近郊で医師フリードリッヒ・エンゲルハルトが発見したことからPlateosaurus engelhardiと名付けられた。その後、プラテオサウルスの骨はドイツ各地で多数見つかっている。過去にレポートしたように、特にザクセン=アンハルト州のハルバーシュタットからは大量の骨が発見された。

プラテオサウルスの骨化石はプラテオサウルス礫岩と呼ばれる礫岩の層から出ることが多い。ニュルンベルクを含むフランケン地方の代表的な地層は三畳紀の地層だが、プラテオサウルス礫岩は三畳紀後期ノリアン階(コイパー砂岩)の地層(2億700万〜500万年前)に堆積している。

大腿骨

大腿骨

尾骨

仙骨

プラテオサウルスの骨以外では、フランケン地方のカルスト地形に関する展示も充実していた。カルスト地形に関しては以前訪れたシュヴェービッシェ・アルプでたっぷりと見たので特に目新しい内容ではなかったけれど、以下のホラアナグマの歯はリアルでまじまじと見てしまった。(関連記事:地下55 mの深さまで潜れる洞窟、 Tiefenhöhle Laichingenで冒険気分を味わう

ニュルンベルク北東 Burggaillenreuth近郊のZoolithenhöhle洞窟内で見つかったホラアナグマの歯

その他には、面白い形の石を集めたコーナーや

ムンクの「叫び」のように見える石

隕石コーナーなどがある。

べレムナイトの化石。べレムナイト化石の表面は普通はすべすべしているが、これらにはリング状の亀裂がたくさん入っている。およそ1450万年前にネルトリンゲンに隕石が落下した際、その衝撃で砕かれたもの。しかし、その後亀裂に水が入り込み、その水に含まれていたミネラルによって再びくっついたと書いてある。へえー!

(ネルトリンゲンの隕石孔に関する記事: 隕石孔の町、ネルトリンゲンのリース・クレーター博物館ネルトリンゲン、リース・クレーター内のジオトープで隕石衝突の跡を観察)。

また、この博物館には自然史だけでなく、考古学や文化人類学の展示室もある。

ニュルンベルク東部のオーバーラインバッハ村で出土した青銅のフィブラ

樺太北部及び対岸のアムール川下流域に住むニブフ民族の生活文化

この記事では自然史の展示を主に紹介したけれど、文化人類学の展示室もコスタ・リカの古代文明など、初めて見る展示物が多くて面白かった。