前回の記事に書いたように、ザクセン州南西の町、プラウエンへ行ったのはレース博物館を見るのが目的だったが、せっかく来たので他の博物館もいくつか見て来た。その中で特に印象に残った資料館、エーリッヒ・オーザー・ハウス(Erich Ohser Haus)について書き留めておこう。

エーリッヒ・オーザーのイラストには馴染みがあったが、実はこの時までオーザーの名前を知らなかった。プラウエン旧市街にあるフォークトラント博物館(Vogtlandmuseum)へ行ったところ、入り口がエーリッヒ・オーザー・ハウスの入り口も兼ねていて、有名なコミック「Vater und Sohn(父と息子)」やグッズが並べられていたので、「あ、これはよく見かけるあのコミック、、」と、そこで初めてエーリッヒ・オーザーが誰なのかに気がついたのだ。

 

 

エーリッヒ・オーザー・ハウスの前の「Vater und Sohn」像

1903年生まれのイラストレーター、エーリッヒ・オーザーは9歳からプラウエンで過ごした。この資料館はオーザーの息子さんのクリスティアン・オーザー氏が2001年に亡くなった際、米国在住のお孫さん達が祖父の遺品をプラウエン市に寄付し、設立されたものだそう。

エーリッヒ・オーザーについてはmariko_kitai (@zaichik49)さんがブログにわかりやすくまとめていらっしゃるので、記事を紹介したい。

Vater und Sohn / 「父と息子」ドイツのイラストレーター

3階建ての資料館にはコミック「Vater und Sohn」(日本では「おとうさんとぼく」のタイトルで岩波少年文庫から出版されている)を中心に、オーザーのイラストや関連資料などが展示されている。半年ごとに展示物を入れ替え、これまで公表されていなかった遺品も目にすることができるそうだ。

 

「Vater und Sohn」の初版

「Vater und Sohn」はナチスが政権を掌握した翌年の1934年に誕生した。風刺画でナチスを批判したために職業停止処分を受けていたオーザーがe.o.plauenのペンネームで描くことを許され、Berliner Illustrierte Zeitungに連載されていたコミックである。当時、模範とされた権威的な父親像からは程遠い、遊び心のある父親と素直なお利口さんではなく、ちょっとやんちゃな息子が織りなすユーモラスで温かい日常は、ナチス政権下の重く息苦しい時代に人々の心を明るくした。

 

ほのぼのとした絵の中でも特に上の6コマ漫画にはほろりとさせられた。わかるなあ、この父親の気持ち。

筋金入りの反ナチスだったオーザーだったが、「Vater und Sohn」の爆発的人気をナチスは見逃さなかった。「父と息子」のキャラクターはナチスが慈善募金活動として展開した冬季救済運動のイメージキャラクターに起用される。さらに、宣伝相ゲッペルスは戦争プロパガンダ紙”Das Reich”に敵国の風刺画を描くようオーザーに要求した。大人気イラストレーターとしての栄光の裏でオーザーは苦悩し、精神の安定を失っていく。作家ハンス・ファラダによると、意に添わぬ仕事を余儀なくされながらも、オーザーは反ユダヤのイラストだけは決して描かなかったという。

 

オーザーと息子のクリスティアン
e.o.plauenことオーザーのイラストが掲載されたBerliner Illustrierte ZeitungとDas Reich

オーザーはライプツィヒの大学生時代に知り合った反ナチス作家のエーリッヒ・ケストナーやジャーナリストのエーリッヒ・クナウフと親交があり、気のおけない彼らといるときには本音で政権を批判した。そして、それが命取りになる。1944年、クナウフを相手にヒトラーやゲッペルスに対する辛辣なジョークを交わしていたのを密告され、オーザーはベルリン、モアビット地区の刑務所に投獄されてしまう。判決の前日に独房で首を吊り、自ら命を絶った。

壮絶な最期とともに短い人生を終えたオーザー。しかし、彼のイラストは国境を越え、時代を超えて愛され続けている。「Vater und Sohn」の連載当時はキャラクターのおもちゃや雑貨が作られるなどの大旋風が巻き起こった。Vater und Sohnのぬいぐるみと共にホロコーストを生き延びたユダヤ人の子どももいたという。

 

とても心に残る展示だった。余韻の中、資料館を出たが、資料館の中だけでなく、プラウエン の町は「Vater und Sohn」でいっぱいだった。メインストリートのBahnhofsstraßeからオーザーの資料館までのルートのあちこちに「Vater und Sohn」の等身大フィギュアが設置されているのだ。

 

木製の人形にペイントしたフィギュアは全部で15ペアあり、それぞれ設置場所にマッチしたデザインになっていて見て歩くのが楽しい。複数のアーチストが色付けをしているので顔付きが少しづつ違うのも面白い。オリジナルのイラストのほのぼの感とは異なる雰囲気だけれど、プラウエンを訪れる人にオーザーについて知ってもらおうという意欲が感じられて、いいなと思った。

 

変電装置の入った建物もオーザー柄だ

 

 

ザクセン州の南西の外れに位置するプラウエン(Plauen)へ行って来た。頻繁に聞く地名ではない。主要都市のどこからも遠く、アクセスがあまり良くないせいだろうか。どんな町なのか、イメージがあまり沸かなかった。

そのような町になぜ、行こうと思ったのか。実は、去年のクリスマスに義理の父から切手コレクションの一部を譲り受けた。旧東ドイツの切手コレクションだ。今はなきドイツ民主共和国は切手の発行に力を入れていたため、美しい切手が多い。眺めていたら、こんなモチーフの切手に目が留まった。

Plauener Spitze(プラウエンのレース)とある。調べてみたら、プラウエンでは古くからレースの生産が盛んだったことがわかった。

綺麗なレースのモチーフの切手を眺めているうちに、プラウエンへ行ってみたくなったというわけだ。プラウエンにはレース博物館(Plauener Spitzenmuseum)があるとのことなので、そこを目指すことにしよう。

レース博物館は旧市街の旧市庁舎の中にある

プラウエンの位置するフォークトラントでは、15世紀から木綿の加工業が発達していた。特に女性たちの手作業による刺繍は地域の内外で高く評価され、19世紀に入ると刺繍はプラウエンの主要な産業となった。1858年にスイス製の刺繍機械が初めてプラウエンの工場に導入され、チュールレースが作られるようになると産業規模は大幅に拡大した。さらに、1900年にパリで開催された万国博覧会でプラウエン製のレースがグランプリを受賞したことが起爆剤となり、世界中から注文が舞い込むようになる。町の人口は10年間で倍増し、プラウエンは高級ホテルやレストランの立ち並ぶラグジュアリーな大都市へと発展した。

刺繍機

円形のテーブルクロスはWickeldeckeと呼ばれる。個別に編んだレースのパーツをミシンで縫い合わせて1つにするが、その繋ぎ合わせる作業をwickelnということから来ているそうだ。機械化されていても細かい微調整や仕上げは手作業で行わなければならず、1枚のクロスを編み上げるにはとても手間がかかる。

最盛期にはプラウエン・レースはパリのオートクチュールにおいても欠かせないものだった。レース博物館にはプラウエンのレースの歴史やニードルレースやボビンレースの作業工程だけでなく、レースを使った各時代のドレスや小物が展示されていて、ファッションの移り変わりにも触れることができる。

1960年代のレースのカクテルドレスとジャケット

一世を風靡したプラウエンのレースだが、第一次世界大戦が勃発すると贅沢品のレースを大量生産している場合ではなくなり、その後に続く世界恐慌、第二次世界大戦によってレース産業は急激に衰退した。レース産業にほぼ依存していたプラウエンでは失業者が急増し、市民は厳しい生活状況を強いられることになった。旧東ドイツ時代には個々のレース工場は1つにまとめられて国有化され、プラウエン ・レース人民公社としてカーテンなどを生産したが、もはや全盛期の勢いを取り戻すことはなかった。それでもプラウエン市民にとってレースは町のシンボルで、1955年に始まった年に一度のレース祭り(Plauener Spitzenfest)は現在も続いている。

プラウエンにはレース博物館の他、作業工程を見学できる刺繍工房Schaustickerei Plauener Spitzeがあって、町の中心部からは少し離れているが、そちらもとても良い。

この工房では手作業による刺繍から各種機械を使った刺繍作業まで、職人さんが実演しながら説明してくれる。

刺繍機での刺繍作業には6倍に拡大した図面を使う

レースのパーツを縫い合わせているところ。細かく、正確さを求められる作業ですごいなあと感心してしまう。私には絶対できないや。

プラウエンの刺繍地図

この工房はショップが充実しているので、気をつけないと散財してしまう。

刺繍を施したエコバック。もったいなくて使えないかも
レースのクリスマスツリー・オーナメント

プラウエンの町にはレースのお店がたくさんある。

ショーウィンドーのレース製品
レースの窓飾り
ドレスショップ
カフェの窓辺のレース

プラウエンは旧市街がよく整備されていて綺麗な町だ。レース以外でも面白いもの、可愛いものが多いので、泊まりがけで訪れる価値は大いにあった。プラウエン観光の続きは次の記事で。