ザクセン州の南西の外れに位置するプラウエン(Plauen)へ行って来た。頻繁に聞く地名ではない。主要都市のどこからも遠く、アクセスがあまり良くないせいだろうか。どんな町なのか、イメージがあまり沸かなかった。
そのような町になぜ、行こうと思ったのか。実は、去年のクリスマスに義理の父から切手コレクションの一部を譲り受けた。旧東ドイツの切手コレクションだ。今はなきドイツ民主共和国は切手の発行に力を入れていたため、美しい切手が多い。眺めていたら、こんなモチーフの切手に目が留まった。
Plauener Spitze(プラウエンのレース)とある。調べてみたら、プラウエンでは古くからレースの生産が盛んだったことがわかった。
綺麗なレースのモチーフの切手を眺めているうちに、プラウエンへ行ってみたくなったというわけだ。プラウエンにはレース博物館(Plauener Spitzenmuseum)があるとのことなので、そこを目指すことにしよう。
プラウエンの位置するフォークトラントでは、15世紀から木綿の加工業が発達していた。特に女性たちの手作業による刺繍は地域の内外で高く評価され、19世紀に入ると刺繍はプラウエンの主要な産業となった。1858年にスイス製の刺繍機械が初めてプラウエンの工場に導入され、チュールレースが作られるようになると産業規模は大幅に拡大した。さらに、1900年にパリで開催された万国博覧会でプラウエン製のレースがグランプリを受賞したことが起爆剤となり、世界中から注文が舞い込むようになる。町の人口は10年間で倍増し、プラウエンは高級ホテルやレストランの立ち並ぶラグジュアリーな大都市へと発展した。
円形のテーブルクロスはWickeldeckeと呼ばれる。個別に編んだレースのパーツをミシンで縫い合わせて1つにするが、その繋ぎ合わせる作業をwickelnということから来ているそうだ。機械化されていても細かい微調整や仕上げは手作業で行わなければならず、1枚のクロスを編み上げるにはとても手間がかかる。
最盛期にはプラウエン・レースはパリのオートクチュールにおいても欠かせないものだった。レース博物館にはプラウエンのレースの歴史やニードルレースやボビンレースの作業工程だけでなく、レースを使った各時代のドレスや小物が展示されていて、ファッションの移り変わりにも触れることができる。
一世を風靡したプラウエンのレースだが、第一次世界大戦が勃発すると贅沢品のレースを大量生産している場合ではなくなり、その後に続く世界恐慌、第二次世界大戦によってレース産業は急激に衰退した。レース産業にほぼ依存していたプラウエンでは失業者が急増し、市民は厳しい生活状況を強いられることになった。旧東ドイツ時代には個々のレース工場は1つにまとめられて国有化され、プラウエン ・レース人民公社としてカーテンなどを生産したが、もはや全盛期の勢いを取り戻すことはなかった。それでもプラウエン市民にとってレースは町のシンボルで、1955年に始まった年に一度のレース祭り(Plauener Spitzenfest)は現在も続いている。
プラウエンにはレース博物館の他、作業工程を見学できる刺繍工房Schaustickerei Plauener Spitzeがあって、町の中心部からは少し離れているが、そちらもとても良い。
この工房では手作業による刺繍から各種機械を使った刺繍作業まで、職人さんが実演しながら説明してくれる。
レースのパーツを縫い合わせているところ。細かく、正確さを求められる作業ですごいなあと感心してしまう。私には絶対できないや。
この工房はショップが充実しているので、気をつけないと散財してしまう。
プラウエンの町にはレースのお店がたくさんある。
プラウエンは旧市街がよく整備されていて綺麗な町だ。レース以外でも面白いもの、可愛いものが多いので、泊まりがけで訪れる価値は大いにあった。プラウエン観光の続きは次の記事で。