前回の記事ではベルリン、パンコウ地区のハイン邸(Museumwohnung Heynstraße 8)を紹介したが、案内員の方が「住文化に興味があるなら、シャルロッテ・フォン・マールスドルフの博物館へも行かれてはいかがですか。グリュンダーツァイトのインテリアコレクションが見られますよ」と助言下さった。グリュンダーツァイト(Gründerzeit)とは1871年のドイツ帝国の建国後、産業革命の広がりの中で多くの企業が創立された好景気の時代を指すが、建築においては歴史主義建築が流行した時代とほぼ同義であるらしい。歴史主義、それはつまり、バロックやロココなど過去の様式を新たな時代の文脈で復活させることを意味する。裕福な市民の邸宅ではネオ・バロック、ネオ・ロココなどの内装や家具が流行した。

ベルリンの東の外れ、ヘラースドルフ地区にあるグリュンダーツァイト博物館(Gründerzeitmuseum im Gutshaus Mahlsdorf)にはシャルロッテ・フォン・マールスドルフ(Charlotte von Mahlsdorf)という一人の女性(本名はLothar Berfeldeという男性)が収集したグリュンダーツァイトの家具や調度品が展示されており、そのコレクションは欧州で最大規模だという。

 

 

これがグリュンダーツァイト博物館。いつも外観の写真を撮り忘れるけど、今回は忘れず撮った!見学するにはガイドツアーに参加しなくてはならない。

大広間

ツアーの前半はシャルロッテについての話が主だった。子どもの頃からグリュンダーツァイトのインテリアを収集していたシャルロッテは1960年、両親が所有していたこの屋敷を博物館としてオープンした。ありのままに自分らしく生きることが難しかった時代に、男性に生まれ女性として生きたシャルロットのユニークな人生は”Ich bin meine eigene Frau(私は私自身の妻)”という劇となり世界各地で上演されている。シャルロッテはこの博物館を愛し、いつも雑巾を手にせっせと家具の埃を拭いていたそうだ。しかし、90年代の半ば、ガーデンパーティの最中に右翼集団の攻撃を受けるという出来事があり、シャルロッテはスェーデンへ移住した。その際にコレクションの一部も持って行ったが、2002年に本人が亡くなった後、再び博物館に戻って来た。

かなり大きな博物館で、展示室は全部で17室ある。それぞれの部屋は統一されたスタイルで家具や美術品が展示されている。美しいものばかりだが、高級なものと縁遠い私にはどうもとっかかりが掴めなくて「へえ〜」という感じである。でも、こうした美術品に対する審美眼を持つことができれば、それはすごく面白い世界なのかもしれない、、、と思いながら部屋から部屋を見て歩く。

寝室のベッドの下の便器。つい、こういう日用品の方に関心がいく
子ども用ミシンとアイロン。ちゃんと使える
1888年製のソファーベッド

いくつかの部屋を見たところで、ガイドさんが交代になった。すると、ツアーの重心がガラリと変わり、想像しなかった方向に展開していった。

グリュンダーツァイト博物館のコレクションにはオルゴールをはじめとする自動演奏楽器がたくさん含まれている。その1つ1つをガイドさんが実演してくれたのだ!これがもう、ワクワクするのなんのって。

ピアノ自動演奏装置、「ピアノラ」

ピアノの前にこの装置を取り付けると、ペダルを踏むだけでロール紙に穴を開けた楽譜が読み取られ、曲が自動演奏される。「ちょっと踏んでみます?」とガイドさんに言われ、挑戦してみた。しっかりと力を入れ、一定のリズムで踏まないとうまく演奏できないが、なかなか楽しい。

こちらも同じ仕組みだが、ロール紙はピアノ内部に内蔵されていて、ドアを閉めると外からは見えない。ピアノ椅子に座ってペダルを踏みながら、鍵盤の上で手を動かせばあたかも演奏者が弾いているように見せかけることができる。

キャビネットのようなこの家具の中は、、、

オーケストリオン。

展示されている楽器はこの他にもたくさんあり、かーなーり面白い。楽器の好きな人ならきっと楽しめるはず。

地下の展示室には19世紀後半の庶民の台所や女中部屋、酒場、そして娼婦の部屋まである。ベルリンの19世紀の社会文化を肌で感じることのできる素晴らしい博物館だ。ガイドさんの説明も非常に面白く、1時間半近くに及ぶツアーもあっという間だった。

前回の記事ではベルリン、ミッテ地区にあるクノーブラウホ邸を訪れたことを書いた。住文化繋がりで、今度はパンコウ地区にあるハイン邸を見に行ってみた。

ハイン邸というのは パンコウ地区博物館(Museum Pankow)の管理する建物の1つで、籐(ラタン)加工工場経営者であったフリッツ・ハイン(Johann Friedrich Heyn)が1893年に現在のハイン通り8番地に建てさせた住宅だ。1974年にミュージアムとして一般公開されている。その直前までハイン氏の娘二人が住んでいたため、建設当時の内装や家具の大部分がそのまま残っていて、1900年ごろのベルリンの裕福な市民の生活空間をほぼオリジナルの状態で見ることができるのだ。

 

 

戦後補修されたオレンジ色の壁の建物(写真撮るの忘れた!)は特にどうという感じでもないのだが、入り口のドアを開けると、おおっ!という感じ。ミュージアムは日本でいう2階部分で拝観は無料。係りの方が「ご案内しましょうか?」と仰ってくださったので、案内して頂くことにした。

Herrenzimmerと呼ばれる応接間

起業家フリッツ・ハインはこの住宅のすぐ側にかつて果樹園だった土地を購入して建設した工場で椅子の材料である籐(ラタン)を加工し、財を成した。住居のうち、このHerrenzimmer(ヘレンツィンマー、直訳すると「男性の間」)と呼ばれる応接間は主にビジネス相手の男性客を迎え入れる部屋だったらしい。

まるでお城のような内装だけど、これでも市民の家なのか、、、。でも、当時の市民(Bürger)の定義は現在の市民とは違うからね。「資本家階級の暮らし」と置き換えてみるものの、わかるような、わからないような。

ハイン夫妻は子沢山であった。16人の子どもをもうけたが、3人は幼少期に亡くなった。ヘレンツィンマーの壁には6人の娘たちの肖像画が描かれている。見事な装飾が施された優雅な部屋だけれど、壁の色はくすんでいる。ガイドさんによると、このような文化財に指定された建物の内装を手入れするときには、表面を白いパンでこすって汚れを落とすそうだ。

サロン

普段は鍵をかけておき、特別な日だけに使ったサロン(gute Stubeとも呼ばれる)。家族や友人が集まって音楽を楽しんだり、文学や芸術について語り合ったりした部屋で、壁にはハイン夫妻の金婚式の際に撮影された親族の集合写真が飾ってある。

各部屋にあるストーブの立派なこと

こちらは「ベルリンの間(Berliner Zimmer)」と呼ばれる部屋。「ベルリンの間」というのは建築用語で、道路に面したメインの建物と横の別棟を繋ぐ連絡通路の役割を果たす空間を指す。敷地における建物の配置や設計によっていろいろなタイプのものがあるが、共通しているのは窓が1つしかないこと。だから、日当たりが良くない。

こうした「ベルリンの間」はベルリン市内のアルトバウと呼ばれる古い建物に多く見られるそうだが、1925年に新しい建築条例により禁じられたため、それ以降の建物にはない。ハイン家ではこの空間を食堂兼居間として使っていた。

床材はハイン邸が建設された当時、流行の最先端だったリノリウム。リノリウムは現在でもよく使われているけれど、このような花柄は珍しい。

バスルーム

バスルームは一見、古いアパートでは今でもありそうなつくりだけど、

このバスタブはハイン氏が特注したものだそう。この頃はまだタイル製のバスタブというものは一般的ではなく、台所のタイルで作らせたという。底部分には滑りにくいタイルを使い、ちゃんと排水の穴もある。階段までつけてあるのが素敵。

ハイン氏は家族の住居としてのこの建物の向かいに従業員用の住居も建設した。福利厚生のしっかりした優良企業という印象だが、第一次世界大戦後、ドイツが植民地を失ったことで籐の調達ができなくなり、ハイン氏の会社は倒産してしまった。

かつての工場の敷地は現在、バーや作業場として使われている。バーに入ってみたかったけど、間昼間だったので閉まっていた。残念。

壁にはハイン氏の肖像とかつての工場のイラスト

このハイン通りのミュージアムで「昔の住文化に興味がある」と話したら、ガイドさんが別の2つのミュージアムを奨めてくれたので、今度はそちらへも行ってみることにする。ドイツの住文化探索はまだ続く、、、、。

2020年ももう2月に突入し、いまさらな話題なのだが、毎年、12月にはクリスマス市に行くのを楽しみにしている。首都ベルリンとその周辺には多くのクリスマス市が立ち、それぞれに特色があって面白い。でも、少々飽きてきた感があったので、去年は Werbenという町まで足を延ばした。ベルリンから北西に約150km、エルベ川沿いにあるそのハンザ都市は人口1300人もいない小さな町だが、「ビーダーマイヤー風クリスマス」と名付けられたちょっと変わったクリスマス市を開いているのだ。

ビーダーマイヤー風クリスマス市とはなんぞや?

ビーダーマイヤーとは、ウィーン会議後の1815年から三月革命が起こった1848年までのエポックを指す。ナポレオン戦争で疲弊したドイツでは、市民は内向きになり、政治のような大きな物事よりも家庭を中心とした心地よい生活を重視するようになった。そのような価値観は「小市民的」と形容され、この時代に特徴的な服装や家具、生活道具などはビーダーマイヤー様式と呼ばれる。「ビーダーマイヤー 」という言葉は、1850年代にドイツの挿絵入り新聞に連載された風刺小説に登場するビーダーマイヤーという名の小学校教師が由来らしい。Werbenにはビーダーマイヤー時代の建物が多く残っていて、その町並みを活用したイベント「ビーダーマイヤー市場」が定期的に開催されている。クリスマス市もビーダーマイヤー風だということだが、どんな感じだろう?なかなかアクセスが大変な場所だけれど、がんばって行って来た。

 

 

人の顔がはっきり写らないように気をつけて写真を撮っているのであまりクリスマス市らしい画像ではないのだけれど、このような感じで町の人たちはビーダーマイヤー風の衣装を身に纏っていて、とても雰囲気のあるクリスマス市だった。Werbenではカフェやホテルの内装もビーダーマイヤー様式のところが多いらしい。とはいえ、無知な私は古い生活雑貨やインテリアを見ると「アンティーク」という大雑把に括ってしまい、具体的にどういうものをビーダーマイヤー様式と呼ぶのか、今ひとつうまく掴めなかった。

そこで思い出したのが、ベルリンのKnoblauch邸(Museum Knoblauchhaus)だ。

 

 

ベルリン・ミッテ地区にあるこの館は、1761年に建てられてからおよそ170年間に渡って富裕な商家Knoblauch家が住宅兼仕事場として使っていた。1989年からはミュージアムとして一般公開され、ビーダーマイヤー時代のベルリンの市民の暮らしを再現した展示を見ることができると聞いていた。ビーダーマイヤー様式とはどんな風なのか、ここならば把握できるかもしれない。

では、Knoblauch邸の内部を見てみよう。

ダイニングルーム

現在、食卓は置かれていないが、これはKnoblauch家の人々が食事を取っていた部屋。艶のある木製家具は直線的で、装飾は控えめ。なるほど、これがビーダーマイヤー様式というものだろうか。立派なダイニングルームにKnoblauch家の裕福さが見て取れるが、壁に貼ってある説明によると、この時代の食事は質素で、朝食は白いパンとスープだけ、昼食には肉料理を食べるが、夕食はパンとソーセージとスープというのが一般的だったそうだ。

リビングルーム

リビングルームの壁には一族の肖像画が並んでいる。商家として財を築き、ベルリンの上流社会の重要なメンバーであったKnoblauch家には時のスター建築家カール・フリードリッヒ・シンケルやベルリンにフンボルト大学を創立したヴィルヘルム・フォン・フンボルトをはじめとする著名人がしばしば訪れたようだ。

ザンメルタッセン

テーブルの上にはザンメルタッセン(Sammeltassen)と呼ばれるカップ&ソーサー。ビーダーマイヤー時代には市民の間でこのような一点もののカップ&ソーサーを収集するのが流行っていた。いつ頃まで続いた流行なのだろうか。私の義両親の家にも義祖母が集めていたザンメルタッセンがいくつか残っている。

アントレ。この部屋では窓に着目!

二重構造の窓はこの時代に特徴的なものらしい。間のスペースに花が飾ってある。

直線的ラインの置き時計
書斎。すごい机だなあ〜
寝室。シンプルでかっちりしたデザインのベッドとナイトテーブル

 

なんとな〜くわかって来た気がする、ビーダーマイヤー様式。

昔の人々の暮らしがどんな風であったかを知るのは面白い。でも、昔の暮らしといっても、どの時代のどういう社会層かによって生活様式は大きく異なるので、いろいろ見ながら少しづつ整理していこう。