夫のライプツィヒ日帰り出張に便乗して、またライプツィヒへ行って来た。前回のライプツィヒ訪問では学校博物館でナチスの時代や旧東ドイツの学校教育について知り、とても興味深かった。私がドイツに来たのはベルリンの壁崩壊後だし、旧東ドイツに住むようになったのも10年ちょっと前からなので、旧東ドイツ(DDR)を実際に体験してはいない。しかし、旧西ドイツで生まれた私の夫の両親は西ドイツへ逃げた東出身者で、ときどき会話の中にDDRの話が出ることがある。私自身もごく短期間ではあったが、壁崩壊からまもない頃に東側でホームステイをした経験があり、DDRとはどんなところであったのか、気になってしかたがない。

これまで、ベルリンやその他の町のいろいろなミュージアムでDDR関連の展示を見て少しづつその姿を掴みつつあるのだが、ミュージアムごとにテーマの絞り方が違うので、全体的な戦後の歴史の流れをきちんと把握しているわけではない。そこで、今回はライプツィヒ現代博物館(Zeitgeschichtliches Forum Leipzig)へ行った。

 

町の中心部にあるので、アクセスがとても楽。

この博物館は、かつて西ドイツ首都だったボンに1994年に開館した歴史博物館、Haus der Geschichteの姉妹博物館の一つ。嬉しいことに入場無料だ。

展示フロアは2階が常設展示スペースで、1945年以降の旧東ドイツの歴史について展示している。年代順展示ではなくテーマ別展示でフロアをテーマごとにパーティションで仕切ってあるので広いのか狭いのかよくわからない。展示の仕方としてはややわかりづらい気がしたが、内容はとても興味深かった。

戦後のドイツ人追放により難民となってドイツ本国へ強制移住させられたドイツ人の数。現在、シリアなど紛争地域からの難民の受け入れを巡ってドイツの政策が国内外で激しく議論されているが、ドイツは他民族を難民として受け入れて来ただけでなく、同胞である難民を受け入れ、社会に統合して来た過去がある。戦後、東欧諸国からの民族ドイツ人を受け入れ、冷戦時代には西ドイツは東ドイツからの避難民を受け入れた。同胞を受け入れることと他民族を受け入れることは同じではないが、流入者の社会への統合という課題に常に向き合って来た歴史があるのだなと考え入ってしまった。戦後のドイツ人の強制移住については、ドイツ在住のギュンターりつこさんがその時代を生きた方へのインタビューに基いた素晴らしいブログ「月は登りぬ」を執筆されている。本当に貴重な体験談で、更新を楽しみにしているブログ。

これは連合国軍政下で行われたドイツの非ナチ化において公務員などの要職につく人々とナチ党との関わりを審査するために使用したアンケート用紙。

戦後、東ドイツはソヴィエトを手本に計画経済への道を進むことになる。私はこの「まにあっくドイツ観光」を始めてから旧東ドイツのいろいろな町へ行くようになったが、あちこちの博物館を眺めていて気づいたことの一つは「DDR時代には町や地域ごとに産業を分担していた」ということだ。例えば、ドイツ光学産業の発祥地、ラーテノウの光学博物館で、「旧東ドイツ時代のメガネはすべてラーテノウで作られていた」という文面を目にして「えええ?100%?それでは独占ではないの?」と一瞬びっくりして、その後に「あっ、そうか。社会主義時代は計画経済だったんだった!」と思い出した。

東ドイツ計画経済のマップ。ドイツ再統一後には旧東ドイツの産業が衰退して多くの失業者を生んだが、設備の老朽化や技術の遅れだけが原因ではなく、産業が地域ごとに固定され、いわゆるリスク分散ができない状態だったことも一因だったのかな。

1953年に東ベルリンで起こり、東ドイツドイツ全国に広がった労働者による政府に対する抗議行動、Volksaufstand。多くの死者を出すことになったこの暴動はソ連軍が出動して鎮圧された。

DDR時代の生活の様子。このような家具は現在はレトロな家具として結構人気があったりする。窓の外にはPlattenbauと呼ばれる高層のアパート群が建ち並ぶ景色。こうした光景は東ドイツだけではなく旧社会主義国の都市部ではどこでも見られるもので、どことなく日本の工業団地に似ていないこともない。最初にPlattenbauに住む夫の親戚を訪ねたとき、子供の頃、従兄弟が住んでいた社宅に遊びに行ったときの記憶がフラッシュバックした。西育ちの夫は「典型的な社会主義建築だよ」と言ったが、私はなんとなく懐かしさを感じたものだ。

ドイツ社会主義統一党(SED)の会議室。

政治犯輸送車。

写真は撮らなかったが、70年代にライプツィヒを中心に高まった平和・環境保護運動、そしてベルリンの壁崩壊を導くことになった反体制運動についてにも大きな重点が置かれていた。ライプツィヒは戦後の東ドイツの歴史において大きな役割を果たした町だ。ここにHaus der Geschichteの分館が置かれているのも頷ける。

「オスタルギーグッズ」。オスタルギーというのは郷愁を意味するドイツ語、ノスタルギーと東を意味するオストを組み合わせた造語だ。東ドイツの人々は日本人にはなかなか想像のできないような体制の下で長い年月を過ごし、そして自らの行動によって体制を打ち破って現在があるわけだが、今となってはDDRの時代をちょっと懐かしく思うという人も多い。もちろん、当時の社会体制を肯定しているわけではないはずだが、辛かった時代もDDRに生きた人たちにとっては大切な人生の一部であり、アイデンティティを形作る要素であることには変わりがないのだろう。

3階の特別展示フロアでは東ドイツのコミックに関する展示をやっていて、これも面白かった。

DDRのコミック、Mosaik。東ドイツでは出版物に対し厳しい検閲が行われていたが、このコミックシリーズだけは正真正銘面白い読み物だと子供達は夢中になった。1955年に初登場してから20年の間に223巻まで出版されるという人気ぶりだったという。

3人の小人Dig とDagと Digedagが繰り広げる冒険旅行は東ドイツ市民が行くことができなかった国々への想像をかき立て、夢を広げてくれた。

アメリカシリーズ、アラビアシリーズ、テクノロジーシリーズなど数多くのシリーズがあり、面白いだけではなく、なかなか勉強にもなる内容らしい。このコミックは現在も東西問わず根強いファンがいる。

しかし、子供達が漫画に夢中になることを好ましく思わない大人がいるのはどこでも同じなようで、旧西ドイツでも旧東ドイツでも「子ども達を漫画の悪影響から守ろう」運動が繰り広げられた時期があったとのこと。漫画のような低俗なものを読むとバカになる、不良になるとコミックを燃やしたり、コミックを持って来たら良い本と交換してあげますというキャンペーンをやったりしていたそうだ。

 

展示のごく一部しか紹介できなかったが、ドイツの戦後史、旧東ドイツの歴史の概要を知るのに良い博物館だと思う。個々のテーマについて詳しく知りたい場合には、それぞれのテーマについてもっと掘り下げて展示しているミュージアムがたくさんあるので補うと良いだろう。

この博物館は残念ながら1/29からリニューアルのため休館になるので、ギリギリ間に合って良かった。ボンにある現代史博物館の本家、Haus der Geschiteには20年以上前に一度行ったきりだが、また行きたくなった。

 

 

 

今年初めてニーダーラウジッツ地方へ行って来た。ニーダーラウジッツはブランデンブルク州南東の旧東ドイツ時代には豊富に埋蔵する褐炭でエネルギー産業を支えていた地方だ。ドイツ再統一により褐炭の採掘場や関連の工場、発電所の多くは閉鎖されたが、いくつかは産業遺産として保存され、観光化が進められている。そうした褐炭産業関連のスポットを巡る250kmに及ぶ観光ルートは「ラウジッツ産業文化・エネルギー街道」と名付けられている。ドイツに150以上ある観光街道の1つなのだ。

私はこれまでにそのうちのプレサ(Plessa)の 発電所ミュージアムやコトブス(Cottbus)のディーゼル発電所ミュージアムを訪れた。また、街道沿いではないが、やはり褐炭関連のオープンエアミュージアムFerropolis、褐炭採掘で掘り起こされた迷子石を集めた公園Findlingspark Nochtenにも行ってみたが、どれもとても面白い。ドイツの観光街道は日本ではロマンチック街道やメルヘン街道が有名だが、ラウジッツは褐炭観光というかなりマニアックで興味深い観光ができるのが魅力なのである。

さて、今回訪れたのは産業文化・エネルギー街道の目玉の一つであるオープンエアミュージアム、F60。なんとこのミュージアムでは褐炭の露天掘り場で実際に使われていた高さ74m、長さ502mという巨大なコンベアブリッジを歩いて渡ることができるのだ。周辺に大きな町はないのでアクセスは結構大変。

Lichterfeldという村が最寄りの村で、こんな感じ。

ドイツの村の作りにはいくつか種類があって、これはシュトラーセンドルフ(Straßendorf)というもので、1本の通りの両脇に民家が並び、一番向こうに教会が建っている。ブランデンブルクではこのタイプの村をよく見かける。過去記事で紹介したが、変わった集落タイプとしては広場を中心に丸く家が並ぶルンドリンクというのもある。

 

さて、集落のすぐ向こうはもうミュージアムである。視界に巨大なコンベアブリッジ、がどーんと登場した瞬間、思わず歓声を上げてしまった。しかし、あまりに大きすぎて駐車場からは全体像を撮ることができない。

ビジターセンターでガイドツアーに申し込むとこのコンベアブリッジに登ることができる。ツアーには何種類かあり、私たちは90分間のロングツアーに参加することにした。ロングツアーではコンベアブリッジの先端まで歩いて渡れるのだ。しかし、そもそもコンベアブリッジって何?という人は下の図を見て欲しい。

 

ちょっと見にくいかもしれないが、ビジターセンターに貼ってあった褐炭の露天掘り採掘場の写真だ。地下に埋まっている褐炭を掘り出すためには、まず掘削機で表土を剥ぎ取らなければならない。剥ぎ取った表土はすでに褐炭を掘り出した後の穴に入れて表面を均す。新しく剥ぎ取った表土はそれ以前に掘った穴に入れ、次に剥ぎ取る表土はこれから掘る穴に入れる、という要領で土を掘っては埋め、掘っては埋めしながら採掘用の溝は周辺にどんどん移動して行くのだが、この際に表土をこちらからあちらへと運ぶのがコンベアブリッジである。写真の左側から右に伸びる長い橋のようなものがそれだ。なぜF60という名前がついているかというと、ここで実際に採掘が行われていたときの溝の深さが60mに達していたから。このコンベアブリッジは世界でも最大規模のものなのだが、実際に使われていたのはなんとわずか15ヶ月だったらしい。通常はコンベアの寿命は40年ほどだそうだが、F60が建設が始まったのはベルリンの壁が崩壊する直前の1989年で、このコンベアブリッジが導入された炭田は1992年に閉鎖されたため、ほとんど使われないままお払い箱になってしまったというわけ。しかし、全部で5台建設されたF60のうち残りの4台は現在も稼働中だ。

 

では、登ってみよう。見学は高いところが平気なら子どもでも大丈夫だが、ヘルメットは必ず着用しなければならない。

コンベアブリッジの上まで登ったら、橋を歩いて先端まで行く。足場の網は目が細かく、左右の柵も結構な高さがあるので怖さは感じなかった。ところどころで立ち止まってガイドさんの説明を聞きながら進んで行く。

途中で後ろを振り返ったところ。このコンベアベルトで表土を運んでいたんだね。

渡っているときには歩くのに忙しくて周辺を眺める余裕があまりなく、先端についてようやく景色を眺めた。

ラウジッツ地方の露天掘り褐炭採掘場の多くは現在、人工湖になっている。このあたりは「ラウジッツ湖水地方(Lauziter Seenland)  」と呼ばれ、リゾート地として開発が進められているのだ。観光を新たな産業にすることで褐炭産業の衰退による人口の減少に歯止めをかけ、地域を活性化させることが狙いだ。

左の地面にソーラーパネルが並び、向こうには風車が見える。リゾート開発だけでなく、褐炭による火力エネルギーから再生可能エネルギーへの転換も進められている。

湖周辺にはビーチ、ボートハーバー、キャンプ場などを整備していく計画で、2005年からは湖での遊泳も解禁となった。(でも、湖水は今のところPH3.2と結構な酸性だそう、、、) また、湖面には宿泊施設としてハウスボートを浮かべる計画である。ハウスボートと言われても日本ではあまりピンと来ないかもしれないけれど、ドイツでは水上で宿泊できるハウスボートが人気で、エネルギー自給自足のハウスボートの開発も進んでいるのだ。

こうした再開発プロジェクトは地域に経済的メリットをもたらすと期待されているが、実はもう一つ大きな意義がある。それは環境保護としての側面だ。褐炭の大規模な採掘でこの地方の自然はすっかり破壊されてしまった。しかし、そのような環境にも「絶滅が危惧される動植物の繁殖地」としてのメリットがあるのだという。人がいなくなった場所には野生が戻って来る。実際、渡り鳥やオオカミなどが多く観察されるようになっており、自然保護団体、Naturschutzverbund Deutschland(通称NABU)が中心となって自然保護プロジェクトを次々と立ち上げているようだ。これについてはまた改めで掘り下げてみたいと思った。

さて、再び橋を渡って地上に降りよう。

晴天とはいえ、1月の寒空の下、90分歩いたらすっかり手が冷たくなってしまった。でも、すごく面白かったので大満足。

 

近頃、ベルリン周辺の都市の面白さがじわじわとわかって来た。ストーブ生産で栄えたフェルテン、光学産業の発祥地ラーテノウ、旧東ドイツ(DDR)の計画都市アイゼンヒュッテンシュタットなど、特色ある町が多い。たいして何もなさそうに見える場所でも、行ってみると実は歴史的に重要な町だったことが判明するのである。2018年のまにあっくドイツ観光第一回目はベルリン中心部から南西に35kmほどのところにあるケーニッヒ・ヴスターハウゼン(Königs Wusterhausen)へ行って来た。

 

 

町の中心部にお城がある以外はそれほど見栄えのしない町だが、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンはドイツの歴史においてかなり重要な役割を果たしている。なぜかというと、ここは「無線の町」で、ドイツのラジオ放送はケーニッヒ・ヴスターハウゼンから始まったのだ。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの丘で初めて無線通信実験が行われたのは1911年。デンマークの技術者、ヴォルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen)により開発されたポールセン・アーク送信機を使った送信実験だった。実験がうまく行ったことから1915年に送信所が建てられ、軍事通信が開始される。1919年からは帝国郵便の事業の一つとなり、本格的な設備が建設された。その後、いろいろあって(下で説明します)、現在は事業を行なっていないが、残った送信所の建物が無線技術博物館(Das Sender- und Funktechnikmuseum)として一般公開されている。

博物館入口。

メインの展示室では無線通信技術の発展とケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業の歴史に関する展示が見られる。

軍事通信で始まったケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業は1920年12月22日に歴史的な瞬間を迎える。ローレンツ社製のポールセン・アーク送信機を使い、ラジオ波に音楽の生演奏を乗せて放送したのである。郵便局の職員数名が集まり、ピアノといくつかの弦楽器、クラリネットを演奏し、歌を歌った。このクリスマスコンサートは英国、オランダ、ルクセンブルクや北欧などでも受信され、好評を得た。しかし、この時はまだドイツ国内では一般人がラジオを聴くことは法律で禁じられていたそうだ。

クリスマスコンサートの演奏が行われたスタジオのセット。

1923年にはラジオ放送が解禁となり、1926年からは毎週日曜日に音楽を放送するようになる。これはSonntagskonzerte(サンデーコンサート)として親しまれた。

当時、歌手は音響を良くするため、バスタブの前にマイクを置いて歌った。楽器奏者や歌手にとって、観客のいない状態で本番生演奏をするというのは慣れないことで、最初はなかなか難しかったらしい。

初期のラジオ受信機。

いくらか改良されたもの。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼン送信局の設備は急速に拡張され、1926年には近隣のZessenにも新たな送信所が建設された。1929年にはドイツ発の短波放送が開始される。しかし、ナチスが政権を握ると、ラジオ放送は政治的プロパガンダの道具として利用された。

ナチス時代のラジオ受信機、Volksempfänger。「Volks(フォルクス)」というのは「国民の」という意味。

このようにドイツのラジオ放送の発祥地となったケーニッヒ・ヴスターハウゼンであるが、東ドイツのあらゆる産業と同じように、第二次世界大戦敗戦後、ロシア軍によって一旦解体され、旧東ドイツ時代に復活し、そしてドイツ再統一により廃業という運命を辿る。ああ、いつもいつもこのパターン、、、。

 

展示室は他にもいくつかあり、無線通信の様々な設備が見られる。

 

 

 

機械室にも入ってみよう。

機械室は現在はコンサートホールとして使われている。後ろや横の棚には古いラジオがずらり。

 

 

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの送信所のモデル。

全盛期には全部で22本あった鉄塔のほとんどは、すでに解体されてしまっている。

でも、一番高い243メートルの鉄塔、Mast 17は残されている。真下まで行ってみよう。

近くには古い給水塔も建っている。なかなかいい感じだ。

現在は給水塔としては使われておらず、記念物に指定されている。中はカフェ・ビアガーデンになっているようだ。では、コーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったのだけれど、残念ながら現在、修理中でカフェはお休みだった。残念!

こちらのサイトで給水塔の内部の動画が見られる。

こんなわけで、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンも興味深い町だということがわかり、とても満足。