最近、古いドイツの資料の面白さに目覚めてしまった。もう誰も読まないような、下手をすると束ねて紙ゴミとして捨てられてしまいそうな本や新聞、雑誌、パンフレット、葉書。そうしたものをよく見ると過去のドイツが浮かび上がって来る。現在のドイツへと続いている過去のドイツ。私がドイツへやって来たのは1990年。それから今日までのドイツはごく小さな個人的範囲とはいえ経験して来たが、それ以前は日本にいたのでリアルには知らない。古い資料を通して覗く世界はこれまでこのブログで紹介して来た博物館の数々において見たものと繋がっていく。

そこで今回から観光スポットの情報に加え、マニアックなドイツの資料を少しづつ紹介していくことにする。最初に紹介する資料は、ドイツ民主共和国(DDR)で1978年に発行されたこのホテルガイドだ。

発行元は旧東ドイツの経済専門出版社、Verlag Die Wirtschaft。西ドイツ時代からボンに拠点を置き現在も続いているVerlag für die deutsche Wirtschaft社と名前が似ていて紛らわしいが、今はなきDDRの出版社だ。

ホテルガイドといっても社会主義国のホテルガイドである。馴染みのある日本や現在のドイツのガイドブックとはかなり違う雰囲気だ。ざらざらした発色の悪い紙でできていて、デザインもシンプル。

けっこう紙の黄ばみが強い

中を見てみよう。表紙裏にはホテルの設備を表すアイコンとその説明一覧表が載っている。ガイドブックのタイトルは「Hotelführer Deutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国ホテルガイド)」とそのまんま。DDR時代、国民はどこでも好きなところへ旅行ができたわけではなかった。観光が可能だったのは国内とDDRと友好関係にあった他の社会主義国のみだった。

このホテルガイドは主にDDR国民のためのものだが、DDRに滞在する外国人旅行者も対象にしていたようで、前書きはドイツ語、ロシア語、ポーランド語、チェコ語、英語の5ヶ国語で書かれている。前書きによると、このガイドに掲載されるのはベッド数が10以上(エクストラベッド含む)の宿泊施設に限られていた。DDRでは1975年に1つ星から5つ星までの統一的なホテルカテゴリーが導入された。上の画像でわかるように、カテゴリーごとに宿泊費の幅も決まっていたらしい。5つ星ホテルのシングルルームで28〜42東ドイツマルク、ダブルルームだと45〜75東ドイツマルクか〜。高いのか安いのかよくわからない。そして、、、なになに?社会主義国および非社会主義国からの旅行客にはこれとは別の料金が適用される、と書いてある。つまり、国民と外国人とでホテルの宿泊費が異なっていたということ。

ページの下部には四角い囲み。他のいくつかのページにもこのような囲み部分があって、どうやら広告スペースらしい。極めてプレーンな広告だ。資本主義国と違って競争がないから凝った広告は必要なかったのだろう。つまり、これは広告というより、お知らせのようなもの?

何のお知らせだろう?と思ってよく見ると、”neue werbung(新しい広告)”という文字。「新しい広告」の広告、いや、お知らせ?。ちょっとよく意味がわからない。そしてそのすぐ下には Fachzeitschrift für Theorie und Praxis der sozialistische Werbung(社会主義的広告の理論と実践のための専門誌)と書いてある。ううむ、、、、。

次のページには、ベルリンPlänterwaldにあった遊園地の広告。かなりラフなイラストである。社会主義的広告の理論と実践に基づいた、というわけではないだろうが、、、。

さて、肝心のホテル情報。地域ごとにホテルがリスト化され、それぞれのホテルの住所、電話番号、Fax番号、星の数、部屋数/ベッド数、そして設備を表すアイコンが並んでいる。ざっと見た感じ、さすが首都ベルリンのホテルは星付きであればほぼ全室に電話が付いていたようだ。小さな町のホテルは星の数に関わらず個別電話の設置されていたところは少ない。シャワーまたはバスタブのないホテルも普通だったとみられる。でも、日本のホテルとは違って、ダンスフロアのあるホテルがちらほら。

私の住んでいるポツダム地域は3つの宿泊施設が掲載されていた。Hotel Potsdamというのはかつてのインターホテルで現在メルキュールホテルになっているところかな。ホテル内にインターショップ(外貨ショップ)もあったのだね。

裏表紙にはテレビ塔の写真。このホテルガイドの値段は2マルク80セント。内容は定期的にアップデイトされていたようだ。

前回、Wittenbergeへ行ったら1字違いのWittenbergへも行きたくなった。ザクセン=アンハルト州のWittenbergは宗教改革家マルティン・ルターが教鞭を執った大学があることで有名な町である。でも、今回私が目指したのは宗教とは関係のない博物館、Haus der Geschichte。1920年代から東西ドイツが再統一するまでの東ドイツの生活文化を展示した博物館だ。

旧市街に建つ博物館はDDR時代には保育園だったそうだ。

入り口

中に入ると、受付横の壁にはカラフルなDDRグッズが美的にディスプレイされている。常設展示はフロア2階分ある。階段を上がると、廊下に係員の男性がいて「質問があったら、遠慮なくなんでも聞いてくださいね〜」と言ってくれた。

展示は1920年代の住空間から始まっている。先日行ったカプート村の郷土博物館で見た展示と大体同時代の生活用具が配置されたダイニングキッチン。右手にシンクや髭剃りの道具などがあるので、キッチンが洗面所も兼ねているようだ。

壁の布巾に「Gutes Gericht Frohes Gesicht(美味しい料理は人を笑顔にする)」というフレーズが刺繍してある。この年代のリネン類には大抵このような標語のようなフレーズが刺繍がしてあるようなのだが、どうしてだろう。係員のSさんに聞いてみよう。

「こういうリネン類は主婦が手縫いしていました。主婦として心がけたいと思うことなどを刺繍していたんですよ」

この部屋は第二次世界大戦後、1946〜49年にかけて旧東プロイセン(現在はポーランド)を追われ移入したドイツ人難民たちの当時の生活の様子を再現している。馬車に載せられる分だけの身の回り品しか持たず、戦後の住宅難の中で新しい生活を始めなければならなかったため、キッチン、ダイニング、居間、寝室、子供部屋、生活の全てを一つの部屋の中で営むことが珍しくなかったのだろう。

1940年代のダイニングキッチン。テーブルの上には1945年の食糧配給量が書かれた紙が載っている。Sさんによると、配給量は十分でなく、家庭菜園で栽培されたジャガイモや野菜が闇市場で取引されていたという。ドイツでは戦前から都市部住民の間でもクラインガルテンと呼ばれる家庭菜園が普及していたのだ。

初期のAEG社製冷蔵庫

冷蔵庫の説明を始めたSさん、話が脱線して電気の直流と交流の違いや、世界で初めて電気椅子による死刑が執行された話にまで発展して行った。面白かったけれど、ここでは割愛しよう。

60年代の居間。この時代のレトロモダンな家具は機能的で飽きが来ないので今もわりと人気があるように思う。我が家にも夫が東ドイツに住んでいた祖母から譲り受けたDDR製キャビネット一式がある。

1970年代の居間。Sさん「DDR時代は結婚すると5000マルクの無利子ローンが組めたんですよ。で、子どもが生まれると一人につきそのうちの1000マルクが返済免除になりました。だから子どもをたくさん作ればその分、借金が少なくなるから早く家を建てられて得だったんだ。それで、子沢山でマイホームを持った男はHerr Bieber(ミスター・ビーバー)とからかわれてましたよ」。「ビーバー?どういう意味です?」「尻尾で家を建てたっていうのでね。ビーバーって器用に尻尾を使ってダムを作るでしょう。笑」。そういえば、ドイツ語の尻尾を表す言葉Schwanzは、俗語で男性器も意味する。なるほどね〜。

ビーバー氏の仕事部屋?
70年代のバスルーム。オレンジ色が大流行

1980年代の居間。テーブルの上にはKC/85 3と書かれたデバイス。私「あれは何ですか?」。Sさん「ゲーム機ですよ。任天堂のファミリーコンピューターのようなものですね。DDRでは人民公社ロボトロンがゲームを作っていました。ゲームはユーザーが自分でプログラミングするんです。コンピューター雑誌にいろんなゲームのコードが載っていて、その通りに打ち込んでカセットに保存してテレビ画面で遊んでました。だから同時にプログラミングの初歩も学べてよかったですよ」

ロボトロンの技術力はかなり高かったらしい。オフィスコンピューター1台は家2軒分に相当するほど高価だったが、有能な女性は産後、職場から機械を支給され、ホームオフィスで仕事を続ける場合もあったとのこと。しかしロボトロンも他の多くの産業同様、東西ドイツの再統一で競争力を失い、解体された。Sさんが語るコンピューターの話はとても興味深かったが、この部屋には他にも気になるものがある。それは女の子が手にしているもの、、、、。

あれは、、、、。Sさん「モンチッチです」。私「モンチッチ、確かにモンチッチですね。でも、モンチッチって、日本製ですよね?」「そうです。世界中で大流行しましたからね。DDRでも大人気でしたよ」「でも、DDRの人たちはどうやってモンチッチを手に入れたんです?」「インターショップでね」「インターショップ!インターショップにモンチッチ売ってたんですね」。インターショップというのは東ドイツ時代に西側製品を売っていた店で、西ドイツマルクや米ドルがなければ買い物ができなかった場所だ。なけなしの外貨でモンチッチを買っていた人たちがいたのかあ。

DDRの保育園風景。この建物は保育園として使われていたので、子ども用トイレなどがそのまま残っている。

女性の就業率が非常に高かったDDRでは子どもは早くから預けられるのが普通のことだった。手洗い場の壁には保護者の回想録が貼ってあ理、そのうちの1枚には「最初、公立保育園に息子を預けたけれど、社会主義のイデオロギーを吹き込まれるのが嫌でプロテスタントの幼稚園に転園させた」という内容が書かれている。

80年代のティーンエイジャーの部屋
DDRのナイトクラブ

ガイドツアーではないのに、私が展示を見る間、ほぼずっと説明をしてくれたSさん。Sさんのお話はしばしば脱線し、展示と直接関係ないこともたくさん教えてもらえてかなり興味深かった。帰り際にはSNSアカウントまで教えてもらったので、DDRの生活についてより深く知りたくなったらSさんにお話を伺おうかな。

また一人遠足。今回はブランデンブルク州北西の端に位置するWittenbergeへ行って来た。一文字違いで間違えやすいが、ザクセン=アンハルト州のルターシュタット・ヴィッテンベルクとは別の町だ。

Wittenbergeは内陸の町であるにも関わらず港町である。駅から南西に向かって2kmほど歩くと旧市街があり、その向こうをエルベ川が流れている。中世から水運の要所だったことに加え、産業革命の最中にハンブルク – ベルリン間に鉄道が開通し、ちょうどその中間地点であることから産業都市として発展した。鉄道車両の修理とミシン生産が主な産業だったとのことで、この日はかつての車両基地に展示されている歴史的蒸気機関車を見るつもりだった。でも、機関車は後でゆっくり見ようと先に町歩きから始めたら思ったよりも面白くて時間がかかってしまった。気づいたら帰りの電車の時間で、結局、機関車は見れずに帰って来るということに、、、。

なにが面白かったのかというと、かつてのミシン工場の敷地にある時計塔だ。シンガーミシンの工場の塔だったのでシンガー塔とも呼ばれている。

旧ミシン工場と時計塔

1928年に工場の給水塔として建てられたこの時計塔は現在、内部が博物館になっていて、Wittenbergeのミシン生産の歴史に関する展示が見られるという。博物館と聞けば、塔であろうがなんであろうが入るのが博物館マニアというもの。あまり目立たない小さなドアから中に入り、受付でチケットを買って階段を上がると、階段左右のスペースが展示室になっていた。

シンガーミシンとその歴史を説明したパネル

19世紀の終わり、エルベ川沿いの地域では人口が急激に増え、1903年、Wittenberge市は雇用創出のため米国のミシンメーカー、シンガーの工場を誘致した。それが長年続くこの町のミシン製造業の始まりだ。ドイツにだってミシンメーカーがあるのに外国の企業の工場なんて!と当時はかなり反対があったようだが、その頃すでにドイツ国内でもシンガーミシンの人気は高く、工場誘致は大当たり、10年後には従業員4000人を抱えるようになった。1900年代の4000人だから、かなりの規模だったのだろう。エルベ川沿いの港付近に建てられた工場には水路を使って大量の原材料や運び込まれ、製品がドイツ各地へと輸送された。

正門のある建物。Sの文字はシンガーのロゴ
初期のWittenberge製シンガーミシン。装飾が美しい
ポスターなど

第二次世界大戦後、Wittenbergeのミシン工場は戦後賠償として設備の大半を接収されることになったが、ドイツ民主共和国(DDR)の建国後、TEXTIMA Nähmaschinenwerk Wittenbergeとしてミシン生産を再開した。その後、人民公社VEB Nähmaschinenwerk Wittenbergeと名称を変えてVeritasのブランド名で家庭用ミシンの生産にも乗り出す。1970年以降は東ドイツの家庭用ミシンの全てがWittenbergeで作られていたそうだ。

初期のVeritasミシンはシンガーミシンと似たかたち
1950年台半ば以降のモデルはポップな感じに
DDR時代の正門

順調に生産台数を増やしていたが、ドイツ再統一の翌年の1991年には前年の半分以下に落ち込んでしまう。人民公社Nähmaschinenwerk Wittenbergeは1992年に解体された。

Veritasミシンの市場に出た最後のモデル
陽の目をみることのなかった最新式モデル

時計塔の窓から工場の建物を眺める。東ドイツの産業系博物館を見るたび、なんともいえない寂しさに襲われる。いつも同じパターンなのだ。「この町はかつて〇〇産業で栄えました。しかし、戦争に負け、戦後賠償で設備を失いました。ドイツ民主共和国時代に人民公社として再スタートを切りました。しかし、ドイツ再統一により衰退して生産終了しました。現在はミュージアムです。」ううう、辛い。先にもDDRのミシンの全てがここで作られていたと書いたように、DDR時代には町は特定の産業を割り当てられていたから、それがダメになると町全体が衰退してしまったのだ。皆、真面目に働いていただろうに、どれほどの落胆や憤りを感じただろうかと想像してやるせなくなる。しかし、再統一から30年近く経ち、今はまた少しづつ新しい産業が発達しつつあるようだ。

正門のある建物は現在は職業訓練校

Wittenbergeはこじんまりとして雰囲気良く、ユーゲントシュティールの建物、Haus der vier Jahreszeitenや木組みの郷土博物館など素敵な建物もいろいろあってぶらぶら歩きが楽しかった。次回は是非、機関車と郷土博物館が見たい。

今回は超地元のスポット、ブランデンブルク州カプート村の郷土博物館、Heimathaus Caputhを紹介することにしよう。

大抵の町や村には郷土博物館がある。様々な種類の博物館の中で郷土博物館は特に好きなものの一つだ。そもそも私の博物館を巡る旅は故郷の郷土博物館から始まったのだ。小学校4年生か5年生のときだったと思う。学校の社会見学で地元の郷土博物館を訪れた。その博物館を見たのはそのときが初めてだったのだが、白い洋館という珍しい建物にハッとしたのを覚えている。中に何があったのか、細かく覚えていないけれど、古い生活用具などが展示されていた。「なんか、、、おもしろい」。後日、自転車に乗って一人でもう一度その博物館へ行った。今、自分がいるこの場所で、かつて人は違う生活をしていた。想像すると不思議で興味深い。

現在私の住んでいるブランデンブルク州カプート村の郷土博物館は、週末と祝日のみ開館する小さな博物館だ。村の郷土史クラブの方々が運営している。

開館している日はこのように戸が開いていて、自由に入ることができる。先日、久しぶりに行ったらクラブの方達は裏庭に集まっていた。私が「中を見せてくださいね〜」と言うと、「OK 。リーザ、出番よ!」とリーダー格の女性が中庭に座っていた年配の女性に声をかける。この博物館のガイド役、リーザさんはさっと立ち上がった。現在80代と見られる年長者のリーザさんは村の暮らしの変化を自ら体験して来た人で、また、それを語り継ぐ事のできる貴重な存在なのである。さあ、リーザさんと一緒に博物館の中を見ていこう。

入り口付近のテーブルには古い通学カバンと国語の教科書、ノートというものがまだなかった頃に使われていた小さな黒板と黒板消しの海綿スポンジ。「この文字を見たことはある?ジュッターリン筆記体(Sütterlin)というものですよ。昔はね、学校でジュッターリンとラテン文字の両方を習ったの」。「ジュッターリン文字はいつから使わなくなったんですか」「1941年に禁止になりましたよ。今じゃ、読める人がほとんどいなくなったわね。古い書物には貴重な資料がたくさんあるのに、残念なことね」

リビングの窓辺

戸棚を開けて刺繍を施したリネンのクロス類を見せてもらう。縁リボンには「夏の風に吹かれて咲き、緑の河畔で漂白され、今はそっと戸棚に置かれたドイツ女性の誇り(のリネン)」と赤い文字で刺繍されている。

棚の上には金銀の縁取りと絵柄のコーヒーセット。夫婦が銀婚式を迎えると銀の縁取りの食器を、金婚式を迎えると金の縁取りの食器を記念にあつらえる習慣があったのだそうだ。「でも、使わずにこうして飾っておくだけ」とリーザさん。

「これはなんだかわかる?これはね、銀婚式に妻が被った冠。そしてあっちのは金婚式のものね」

「金婚式や銀婚式だけじゃないの。節目の結婚記念日にはそれぞれ冠を作って、その日が過ぎると額に入れて飾っておくのが習わしでしたよ。今ではすっかり廃れた風習だけれど」

うーむ。伝統文化に興味のない人が増えたというだけでなく、現代は離婚率が高くて銀婚式金婚式にたどり着くカップルがそもそも少ないよねえ。

部屋の奥には婚礼衣装や手入れの行き届いた子ども服が下がっている。写真には写っていないが左側にはグリーンのタイルオーブンがある。

「このブラウス、どう?可愛いでしょう?手で仕上げたものですよ。傷んでないから今でも着られるわね」

「この写真は私の従姉妹の結婚式の写真ですよ。このレースの帽子は式を挙げた後のパーティで従姉妹が被ったの。ほら、女性が結婚することを “unter die Haube kommen(被り物を被る)”と今でも言うでしょう?昔は既婚女性は髪を被り物で覆わなければならなかったの。それからこの湯たんぽ。コップを入れるところがついていて、飲み物を保温できるの。便利でしょ?」

リーザさんはベッド脇の洗顔や身だしなみ用具の中から鉄のハサミのようなものを取り上げた。「これは、髪をカールする道具。熱して髪を間に挟んで巻いていたんですよ」。ええーっ、ヘアアイロンなの?昔からこんな道具があったのか。「ふふふ。でも、温度調整ができないから、気をつけないと大変でしたよ。髪を焦がしちゃったりね」

リーザさんはご自身の小学校の通信簿や学級写真まで見せてくださった。この博物館に展示されているものの中にはリーザさんや彼女のご親族のものもある。

ドールハウスや手芸品の展示されたコーナー。

次はキッチンへ。

「このカップ、ここにFett(高脂肪)って書いてあるの、わかる?」

「反対側はMager(低脂肪)。さて、何のことでしょう?」「ミルク入れ?でも、高脂肪で低脂肪ってどういうことですか?」「それはね、ほらっ」

なーるほど。中で分かれているなんて、楽しいミルク入れ。小さい方にコンデンスミルクを入れていたのかな。

「じゃ、中はこのくらいにして庭へ出ましょうか」「ちょっと待って!この車輪付きのステッキのようなものは何ですか?」「買い物カートですよ。上のフックに買い物袋を引っ掛けて押して歩いたの」「へえ〜。初めて見た!」

前庭に張られたロープには婦人ものの下着がかかっている。「見てよ、このパンツ」。見ると、なんと股割れパンツである!「スカートの下にこういうパンツを履いていて、しゃがむとそのまま用が足せたの」

裏庭にはジャガイモなどを計っていた古い秤や農具などが置かれている。一角に小さな木のドアがあった。「開けてもいいですか?」「もちろん。そこは洗濯室だったところですよ」

こういうの、なんかワクワクするな〜。

「昔は洗濯は1日がかりの作業だったから、大変でしたよ」「どのくらいの頻度で洗ってたんですか」「1ヶ月に1回よ」「1ヶ月に1回!」「だって洗濯物を何時間もぐつぐつ煮ていましたからね。煮なきゃきれいにならないもの」

「昔は洗濯機どころか脱水機もなかったから、それはもう大変で」「洗濯機が普及したのっていつ頃でしたか」「いつ頃だったかしらね。戦後になってからだけど。洗濯機よりも脱水機がまず普及して、洗濯機はそれからでしたよ。そして洗ったものはマンゲルに挟んで延ばしてしわを取っていたの」。マンゲルというのは写真の左右のような装置で、2本のローラーの間に布を挟んでローラーを回転させてプレスするもので、現在でもシーツやテーブルクロスなど大きな布を延ばすのに電動式のマンゲルを使用する家庭がある。私の義両親も電動マンゲルを持っている。

他にもいろいろなものを見せてもらった。リーザさんのお話、面白いなあ。

「コーヒーはいかが?」と声がかかった。明るい庭のテーブルでコーヒーと手作りケーキを頂きながら、クラブの人たちとしばしお喋り。カジュアルでのんびりしたひとときが楽しい。また来ようっと。

久しぶりに一人の日曜日。家族がいないと、なんだか暇だ。どこかに出かけることにしようか。しかし、近場はもう行きつくしてしまった感がある。知っている場所でもいいかなあと思いながら、いつものようにGoogle Mapを眺める。

すると、、、ん?ここになんかあるぞ?白アスパラの名産地ベーリッツ近くの小さな村、Borkheideの外れに「Hans Grade Museum」と書いてある。こんなところに一体何の博物館だろうか。地図上の博物館マークをクリックすると、航空関係の博物館であることがわかった。よし、早速行ってみよう!

Borkheideは南北の長さが2kmにも満たないような小さな村だが、電車の駅はある。駅から線路沿いの未舗装の道を200mほど西に向かって進むと、広大な原っぱにしか見えない飛行場があり、その横の空き地の真ん中に飛行機が鎮座していた。

博物館はここに違いない。飛行場と博物館の間はフェンスで仕切られ、向こう側に回ると入り口があった。

ほー。これは旧東ドイツの航空会社、インターフルーク(Interflug)の旅客機だね?説明看板を読むと、ソ連製のイリューシン18(Il-18)という飛行機だと書いてある。

よくわからないが、ターボプロップエンジンというものらしい
DDRと大きく書かれていて目立つ
下から見上げたところ

この日は博物館の係員は見当たらず、見学者は私を含めて数名のみだったが、ときどきイベントもやっているようなので、その際にはタラップを上がって飛行機の中を見ることができるのかもしれない。

こちらはドイツ機の修理工場としてチェコのクノヴィツェに設立された航空メーカーLET製農業用小型飛行機Z-37。1960年代から主にDDRの森林および農地への農薬散布に使われた。ブルガリア、フィンランド、英国、インド、イラク、ユーゴスラビア、ポーランド、ハンガリーおよびモンゴルにも輸出されていたそうだ。

その他には、、、

おおーっ。ヘリコプター!(実はヘリコプター好き)これはソ連のカモフ設計局が開発した多目的ヘリコプターKamov Ka 26。1966年から 1985年にかけて850台が製造された。

これは言わずと知れた東ドイツのトラバント。何も書いてないのではっきりわからないけど、P60かなあ?

ツヴィッカウ工場のステッカーが貼ってある
これは特定できなかった。ご存知の方がいたら教えてください

ちなみに博物館名のHans Gradeは、1879年に旧東プロイセンのコシャリンに生まれの空港パイオニア。ベルリンのシャルロッテンブルク工科大で学び、自動車および航空機メーカーGrade Motor Werkeを設立した。軍用飛行場のあったこのBorkheideに拠点を移し、軍用飛行機を修理及び自動車の生産を行なった。

Borkheideのメインストリート脇の変電ボックスはHans Grade柄に色が塗られている

なかなか面白い博物館だ。我が家から片道わずか25kmほど。家の周辺にもまだ知らないものがあるものだなあ。

飛行機やトラバントに興味のある方は、是非、以下の過去記事も合わせてどうぞ。

ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館

ベルリン軍事史博物館 (Militärhistorisches Museum Flugplatz Berlin-Gatow)

Google マイマップでドイツ航空関連スポットマップを作った

ツヴィッカウのトラバントミュージアム、Intertrab

前回の記事ではバルト海沿岸の港町ロストックを訪れたことについて書いたが、そこから東に約75kmのシュトラールズントへ移動した。シュトラールズントはUNESCO歴史遺産に登録されている美しい町だ。

でも今回は時間が限られているので町歩きはなしで、前回来たときに見られなかった博物館に集中したい。目当てはドイツ海洋博物館(Meeresmuseum)と水族館(Ozeaneum)だ。どちらを先に見ようか。事前にリサーチしたところ、Ozeaneumの方が新しく大規模でビジュアル性が高そうだが、私にはどちらかというと海洋博物館の方が気に入りそうな気がする。今は夏休み中なので、きっとOzeaneumは家族連れで混んでいるだろうと思ったので、まずは海洋博物館を見ることにした。

ドイツ海洋博物館はカタリーナ教会の中にある

展示室に入ってすぐのスペースには海底地形についての説明があり、その裏にはこのような海洋生物の進化図パネルが設置されている。うん、この博物館は思った通り、私好みだ。ベタな展示だけど、こういうわかりやすいのはやっぱりいいなあ。他に大型アンモナイトの展示コーナーやサンゴのショーケースなどが並び、

1階奥には美しい海中世界のディスプレー。

クジラとイルカの骨格展示室。これはたまらない空間だ。博物館として使うことを目的に建設された建物もいいけど、このように古い建造物を利用した博物館も味があってよい。

天井から吊り下げられている全長15メートルの骨格はナガスジクジラのもの。

左からナガスジクジラのペニス、大動脈弓、気管

2階では主にドイツの漁業史を展示している。今まで漁業には特に関心がなかったのだけれど、先日休暇で行ったパナマで持続可能な漁法で採れた魚のみを出すレストランで食事をする機会があり、オーナーの方から漁法に関する話を少し聞いてきたところなので(記事はこちら)、この展示は面白かった。バルト海沿岸で人は石器時代から魚を獲って食べていた。もちろん、最初は原始的な方法で。写真の細長いカゴはこの地域でウナギを採るために比較的最近まで使われていた伝統的な道具。

古代から魚を食べていたとはいえ、第二次世界大戦まではバルト海における漁業は小規模で、沿岸漁業に限られていた。戦後の東ドイツ(DDR)では食糧確保のため、ロストックおよびリューゲン島のザスニッツに遠洋漁業のための人民公社が設けられ、バルト海の漁業は急激に規模を拡大していった。

ロストックの漁業コンビナートの漁師募集ポスター
ドイツの漁船が獲る主な魚
DDRの漁業研究船Ernst Haeckel
1980年代に使われていたDDRの大型漁船Atlantik-Supertrawler号の模型

3階には人間と海の関わりについて、そしてバルト海の生き物について展示されている。

1965年にシュトラールズント近くの海岸で捕獲されたオサガメ

海の資源コーナーのマンガン団塊。魚の骨やサメの歯などの物体の周りに海水中の金属が凝結してできた塊で、水面下3500〜6500メートルの深さの海底にこのような塊がジャガイモのようにゴロゴロと転がっている。テニスボールくらいの大きさに成長するのに500万年くらいかかるらしい。凝結するのは主にマンガンと鉄だが、銅やコバルト、モリブデン、リチウム、レアアースなども含むため、有望な資源として注目されている。

この博物館の展示の中で一番びっくりしたのはこれ。海底の熱水噴出孔、ブラックスモーカーの実物だって!2013年にインド洋の3296メートルの深さのところで採掘されたものだそう。ブラックスモーカーって採掘できるんだね。

海洋博物館は水族館としても楽しめる。この日は全体的にそれほど混んでいなかったので、落ち着いて見られて良かった。

夏真っ盛り。近年はドイツも夏が暑く、30度超えも珍しくない。涼しい風に吹かれにバルト海へ行くことにしよう。

バルト海に面したロストックにお住いのリエコハスさん(http://@rostock_jp)を訪ねることにした。エリコさんはシュヴェリーン城の公認ガイドで、ロストックやシュヴェリーンを中心としたバルト海地域の観光案内をされている。他にTwitterなどでドイツの観光情報を発信されているブルストさん(http://@akmkdt)とAnnさん(http://@Ann01110628)がドイツ西部からいらしていて、ご一緒することになった。(4人とも互いに初対面)

ロストックに来るのは私は二度目。明るく爽やかな港町で、好きな町の一つだ。エリコさんらとは旧市街のマリエン教会の前で待ち合わせていた。エリコさんがロストックで一番好きだというこの教会を案内してくださることになっていたのだ。

13世紀に建てられたマリエン教会は北ドイツによく見られる赤レンガのゴシック様式の建造物だ。でも、その内部は想像していたものとは違っていて、足を踏み入れてハッと息を呑んだ。とても明るく優美である。

なんという美しいパイプオルガン。このオルガンはパイプが5700本もあり、バルト海で最も大きなオルガンの一つである。ちょうど正午のミサが始まる直前だったので、演奏を間近で見学させてもらえることになった。オルガニストの方について階段を上がり、オルガン席の横でミサの様子を眺めながら演奏を聴くことができた。素晴らしい。

ミサの後はオルガニストの方がオルガンについて説明してくださった。このオルガンは1770年にロストックのオルガン技師、パウル・シュミットにより作られたが、技術的な問題があり、その後別の技師によって大幅に手が加えられた。第二次世界大戦時には兵器製造の材料にするためパイプが撤去され、演奏できない時期が続いたそうだ。

オルガン内部にも入れてくれた。5700本のパイプが並ぶ様は圧巻だ。ちなみにこのオルガン見学ツアーはなんと無料。

マリエン教会の素晴らしさはオルガンだけではない。中世の技術的傑作 、天文時計が見られる。

1472年に完成したこの天文時計、美術品としての美しさは言うに及ばず、今も当時と同じ精確さで動いているというから驚きだ。

そして時計盤の下には暦表盤。これがまた傑作。

天文時計およびこの暦について、エリコさんに大変詳しくご説明頂いた。とても興味深い。ここには詳しく書かないが、間違いなく一見の価値があるので、気になる方は是非ロストックを訪れてください。

教会見学の後は港の魚介類レストランでランチ。ドイツ料理にはあまり魚のイメージがないと思うけれど、海沿いでは魚もよく食べられている。

だしの効いた絶品魚介スープ
タルタルソース付きの白味魚フライ。サクサク

食事の後、私は船舶博物館を見るつもりだったのだけど、あいにく月曜日で休館日だった、、、。

入れなくて残念。次回のお楽しみということに。

月曜だったので、他の博物館もことごとく閉まっていたけれど、ロストック大学動物学研究所の博物館だけがかろうじて開いていた。

なかなか面白い博物館で、目玉はこのコウノトリの剥製。1822年にロストック近郊で発見されたこのコウノトリの首には矢が刺さっていて、それがアフリカ中部で使われるものだったことから、ドイツに生息するコウノトリは冬越しにアフリカまで渡っていることが判明したそうだ。

夜には夜警さんと一緒に旧市街を歩いて回るツアーに参加。2時間にも及ぶ充実の内容だった。写真は夜警さんとエリコさん。

そして締めは私の古い知人の経営するバー、Schallmauerで軽く1杯。

実はこのバー、すごくマニアックなのだ。経営者のオラフは引退した空軍パイロット。広い店内はパイロットグッズで埋め尽くされている。

奥の部屋の天井にはパラシュートも

このようなバーでエリコさん、ブルストさん、Annさんとドイツ旅の情報を交換することができ、とても充実した1日だった。でも、ロストックは見所が多く、1日ではとても見切れない。それに、観光名所を回るだけでなく、港でぼーっと海を眺めたり、船に乗ったり、海岸で貝殻を拾ったりなども楽しみたい町なんだよね。近郊にも素敵な場所が多いので、少なくとも数日は滞在したい場所である。また近々来よう。