あるとき暇つぶしにふらりと入った博物館で展示を見ていたら、一枚の写真に目が留まった。かなり古い写真で、体格の良い成人ドイツ男性たちが組体操をしている写真だった。「あ、組体操だ」と、まじまじと見つめた。ちょうどその頃、日本の学校の運動会で行われる組体操の危険性についての議論をメディアで目にしていたから。そもそも日本ではいつからどういう経緯で組体操を運動会の種目にするようになったのだろうかと考えていたので、その写真が妙に気になったのである。現在のドイツの学校では生徒が組体操をしているというのは聞いたことがないけれど(少なくとも私の子どもたちは未経験である)、昔はドイツでも普通に組体操をやっていたのだろうか。もしかして、組体操のルーツってドイツ?

その展示は体操に関するものではなかったので組体操についての説明は特になかったのだが、ドイツの社会革命という文脈の中でフリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンの名前が挙げられていた。フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンは「体操の父」と呼ばれる19世紀に活動した教育者だ。組体操と何か関係があるんだろうか。

気になってヤーンの名前で検索してみたら、フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーン博物館なるものがFreyburgという町にあることがわかったので、行って来た。(注: 南ドイツのFreiburgとは別の、ザクセン=アンハルト州にある町です)

フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーン博物館の建物はヤーンが晩年を過ごした家を改装したものだ。壁際にヤーンの胸像が置かれ、外壁には”Frisch, fromm, fröhlich, frei”と書かれている。ヤーンが体操家の標語として掲げていたフレーズらしい。

ちょうど米国人のグループがガイドの説明を聞いているところだったので、「すみません。私も参加させてもらっていいですか」と聞いてガイドツアーに参加した。

1778年にブランデンブルク州ランツに牧師の息子として生まれたフリードリッヒ・ルートヴィッヒ・ヤーンは幼い頃から聡明で読み書きを覚えるのも早かったが、かなりの暴れん坊で学校では問題児だったそうだ。成績は振るわず、大学に登録し、主に言語学を学んだものの問題行動で退学になり、各地の大学を転々とした挙句、何の資格も取得することができなかったが、家庭教師としてどうにか生計を立てるようになる。

ナポレオン支配下のドイツで愛国心に燃えていた青年ヤーンはフランスからのドイツの解放のために戦うことを自らの人生の目的に定めた。教師として若者の士気を高め、フランス軍に打ち勝つ戦闘力を養う必要がある。そのためには野外で体を鍛えさせなければならないと考えたヤーンは、「体操(Turnen)」という概念を生み出し、あん馬や鉄棒など、器械体操の器具を次々と考案した。

あん馬

1818年、ヤーンはベルリンのHasenheideにドイツ初の運動場を建設し、体操クラブを結成した。運動場とはいっても現代の運動公園とは違い、軍事訓練の場なので、規律的である必要がある。それまで、肉体修練の機会は貴族や学生など一部の者に限られていたが、大衆にも平等に機会が提供されるべきだというのがヤーンの思想で、体操クラブには社会階級に関わらず誰でも参加することができた。このHasenheideの運動場を皮切りに、ドイツ中に運動場が建設され、各地に体操クラブが次々誕生していく。

ヤーン考案の体操着

狂信的な愛国主義者ヤーンは単なる体操の指導者としてではなく、国民運動のカリスマ指導者として力を得ていった。落ち着きがなく喧嘩っ早かったが、非常に雄弁で、説得力ある演説で若者を引きつける才能に長けていた。1816年、著書「Die Deutsche Turnkunst(ドイツの体操術) 」を発表し、ヤーンの名声は頂点に達する。

解放戦争における功績を認められイェナ大学から名誉博士号を授与されるなど栄光を獲得したヤーンだったが、それは永遠には続かなかった。ナポレオン戦争後のウィーン体制下、ヤーンは学生同盟(ブルシェンシャフト)を結成して急進的な自由主義運動を繰り広げ、次第に反動的と見なされるようになる。1819年、ヤーンは逮捕され、体操クラブは禁止された。プロイセンのすべての運動場も閉鎖されてしまう。

地方へ追放され、フライブルクで家族とともにひっそりと暮らしていたヤーンは1840年、ようやく名誉を回復する。1842年には体操禁止令が解除され、ドイツにおいて体操は再び盛んになっていった。1848年のドイツ体操家同盟(Deutscher Turnerbund)の創立には晩年のヤーンも関わっている。

体操の父として今日もその功績が称えられるヤーンは2013年にドイツスポーツの栄誉の天堂に入った。でも、彼のナショナリストとしての言論が後にナチスのプロパガンダに利用されていたことからこれを疑問視する声もあるらしい。ヤーンを崇拝していたヒットラーはヤーンの棺を開けさせ、頭蓋骨を取り出してアーリア人種の研究のために測定したという。

ヤーンの墓石

ヤーン博物館の展示には組体操らしきものの写真は見当たらず、館内ガイドの男性に「組体操ってヤーンが考案したものですか?」と聞いてみたら、「いや、あれはもっと後の時代に始まったものですよ」という返事が返って来たけれど、具体的なことは教えてもらえなかったので、日本の学校の運動会で今も続く組体操のルーツは結局わからなかった。でも、体操というものが元々は軍事訓練として始まったことや、スポーツとナショナリズムとの関係などについて知ることができたのでわざわざフライブルクへ行った甲斐はあったかな。

今回は1931年にライプツィヒで出版された古生物学の本、”Das Leben der Urwelt(原始時代の生き物)”を紹介しよう。アンティークショップの店内をなんとなく見ているとき、変色した布製のハードカバーに恐竜のイラストが描かれているのに惹かれて手に取った。著者はヴィルヘルム・ベルシェ(Wilhelm Bölsche)。専門家向けではなく一般書のようである。1931年といえば日本では昭和6年。その時代のドイツで読まれていた古生物学の本とはどんなものなのだろうか。

多少の変色とシミはあるものの、状態は悪くない

ページ数は全部で約350ページで一般向けにしてはかなりのボリュームだ。中表紙の隣に掲載された絵は海に覆われていたジュラ紀の南ドイツの想像図。プレシオサウルスとイクチオサウルスが魚を捕らえている。

目次はなく、地球の歴史が「現在の地球はほぼ探検され尽くされてしまったが、地下には地球の過去が刻まれており、次々と新事実が発見されている」という導入で始まる長い長い読み物だ。文中挿絵は141点と豊富でビジュアル的にもアピールする。(上のページにはウミユリとアンモナイトの挿絵)

著者ヴィルヘルム・ベルシェ(1861 – 1939)は自然科学を自ら専門的に学んだことはなかったが、作家として科学をポピュラーにするのに大いに貢献した人物のようだ。自然科学の読み物を数多くしたためただけでなく、ドイツの生涯学習機関Volkshochschuleの創始者でもあった。Volkshochschule(直訳すると「市民大学」)はある程度の規模の町には必ずあるカルチャーセンターのような機関で、手頃な受講料でいろいろなことが学べる。私もスペイン語を習ったりなど、よく利用しているのだけど、Volkshochschuleは今年、ちょうど創立100周年を迎えたらしい。その記念すべき年に創始者の著書に遭遇したということになる。ベルシェはドイツ古生物学会の発足時からのメンバーでもあり、古生物学には特に造詣が深かったらしい。古生物に関する本をたくさん書いている。この”Das Leben der Urwelt”はベルシェの晩年の作品なので、長年に渡って蓄積してきた彼の知識の集大成だったのかもしれない。

イクチオサウルスの頭蓋骨
ベルンハルト・ハウフ博士(Dr. Bernhard Hauff)。過去記事で紹介した南ドイツ、ホルツマーデンにある凄い化石博物館、Urweltmuseum Hauffの設立者だ。(過去記事はこちら
フランクフルト、ゼンケンベルク博物館所蔵のトラコドンのミイラ(左ページ)とメガロサウルスから逃げる草食恐竜イグアノドン(右ベージ)。ゼンケンベルク博物館に関する過去記事はこちら
20世紀前半のティラノサウルス・レックス想像図。ティラノサウルスの骨格標本はベルリン自然史博物館で見られる。関連過去記事はこちら

一般向けの本にしては随分と詳しく、読み物の体裁を取ってはいるがかなり学術的な内容である。相当な部数が発行されたようで、90年近くも前にこのような本を読む市民がたくさんいたということが驚きだ。いや、この時代は市民の知的好奇心が爆発していた時代だったから、人々はベルシェの書く科学読み物を貪り読んだのかもしれない。ベルシェは1904年から1999年までほぼ1世紀に渡ってドイツで刊行された一般向け科学雑誌「Kosmos」でもチャールズ・ダーウィンやエルンスト・ヘッケルの進化論を紹介している。

この本はフラクトゥール文字で書かれているので読むのは疲れるけど、挿絵や写真を眺めているだけでも楽しい。もっと挿絵をお見せしたいところだが、あまりに数が多くてどれを選んだらいいのかわからないのでこのくらいに、、、。

資料に見るドイツシリーズの2回目。今回手に取った古い資料は、1922年4月6日にライプツィヒで発行された挿絵入り新聞、Illustrierte Zeitungだ。Illustriete Zeitungは1843年から1944年まで(つまり第二次世界大戦でドイツが敗戦する前年まで)発行されていたドイツ初の挿絵入り新聞だそうである。そもそも挿絵入り新聞とはなんぞや?ちょっと調べてみたところ、1940年代にはフランスの「イリュストラシオン(Illustration)」、英国の「イラストレイテッド・ロンドンニュース(Illustrated London News)」など、木版画技術を使った挿絵をふんだんに使った新しいタイプの定期刊行物が欧州各国で次々と刊行されていたらしい。Illustrierte Zeitungは初めて目にしたが、挿絵入りを謳っているだけあってビジュアル性が高く、興味をそそられる印刷物だ。

表紙は二重になっている。これは外側の表紙で、この号ではハルツ地方の町、クヴェドリンブルク1000周年が特集されている。クヴェドリンブルクは「ドイツ発祥の地」として知られ、中世の面影を残す美しい旧市街はUNESCO世界遺産に登録されている。と知ったようなことを書いているが、実はまだ行ったことがない。いつか必ず行ってみたい町だ。

外側の表紙をめくると内側の表紙が現れた。表紙イラストはケルンのオーデコロンブランド°4711の「Tosca 」の広告がどーんと載っている。香水に詳しくないんだけど、 Toscaって確か今もあるよね?

次のページは広告のみ。両ページとも温泉保養地の広告ばかりだ。右側にはチェコのカルロビバリ(ドイツ語ではKarlsbad)の大きな広告。この頃は富裕層の間で温泉保養が相当人気だったことがうかがえる。

広告が延々と続く。一つ一つ見ていくと、現在もある会社名を見つけたり、聞いたことがないメーカー名だけれどこの時代にはメジャーだったのかなと思って検索してみたりして面白い。右下の画像はシュタイフ社のうさぎのぬいぐるみの広告だ。

広告ばっかり?と思ったけれど、読むところもちゃんとある。左ページに掲載されているのは1922年に初代エジプト王に即位したフアード1世の肖像と当時のエジプトの様子を示す白黒写真。右のページは投書欄だろうか。下半分にドイツ領東アフリカの最後の総督、ハインリッヒ・シュネーによる「ドイツの植民地の運命」と題された記事が載っている。フラクトゥール文字で書かれていて字も小さいので読みにくいが判読を試みたところ、第一次大戦後に連合国によって分割統治されることになったかつてのドイツの植民地の惨状についての元総督の嘆きと憤りが綴られている。簡単にまとめると、「我々が大変な思いをして野蛮な地を文明化し、安全で静かで秩序ある場所にしたのに、敵国の手に渡ってからはすっかり荒廃してしまった。経済面だけではない、現地人に対する待遇も悪化した。現地人はまともな医療も受けられなくなり、病気が蔓延している。医師ロベルト・コッホがアフリカ睡眠病の制圧に取り組み輝かしい成果を上げていたというのに逆戻りしてしまったとは嘆かわしい。現地人もドイツの統治時代は良かったと言っているようだ。ドイツは是非とも植民地を取り戻す必要がある」というような内容だ。

この号の目玉、クヴェドリンブルク特集。写真がふんだんに使われている。

中綴じ部の見開きの大きな挿絵はミュンヘンのビアガーデンを描いたもの。ノックヘアベルクのサルヴァトールケラーの庭という説明が下に書いてあるけれど、現在、「パウラナー・アム・ノックヘアベルク」という名前になっているビアガーデンかな?

こちらの左ページには演劇舞台の写真。中央下のポートレートは指揮者・作曲家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのもので、この度ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任したと書いてある。周囲の写真からは1920年代初頭の女性のファッションが見て取れる。右側のページは連載小説で題はナニナニ?「フェリックス・シュピールマン氏の家政婦たち」だって。裏面までびっしり書かれていて、1回分の読み応えがありそう。

その他にも芸術文化記事、アフリカの狩猟採集民サン人(紙面上は「ブッシュマン」と記載)の紹介記事、歴史記事など内容はかなりバラエティに富んでいる。

科学記事も。ウィーン大学微生物学講師による両生類に見られる奇形についての解説記事である。へえ〜。この新聞、真面目に読むとかなり教養が得られたのではないだろうか。ドイツ教養市民層の形成にはこうした視覚的にアピールし、かつ好奇心や知識欲をくすぐるIllustrierte Zeitungのようなメディアが小さくない役割を果たしていたのだろうか。

約100年に渡って発行されていた新聞なので、その時代時代でトーンが変化したことも考えられる。機会があれば他の年代のものも見てみたい。

以前、Brandenburg an der Havel市にあるブランデンブルク州立考古学博物館を訪れて以来、ずっと気になっていたニーダーラウジッツ地方のRadduschに再建されたスラブ人の城をようやく見に行って来た(過去記事: 住んでいる地域について知る。ブランデンブルク州考古学博物館)。

ベルリンの周辺を取り囲むブランデンブルク州はかつて神聖ローマ帝国の辺境で、ドイツ人が入植する以前は西スラブ人の定住地だった。スラブ人の多くはキリスト教徒の入植者たちに次第に同化していったが、ドイツ人と接触するまでは自然宗教を主体とした独自の文化を育んでいた。ニーダーラウジッツ地方のスラブ人部族であるLusizi族は独特なドーナツ型の城をたくさん建設していたそうだ。ニーダーラウジッツはドイツ民主共和国時代には褐炭産業の中心地だったが、ドイツ再統一後に採掘場の多くが閉鎖されることになった。2003年、その一つであるSeese-Ost採掘場の跡地にスラブ人の城、Slawenburg Radduschが再建された。その城は褐炭採掘の際の出土した物を展示する考古学博物館になっている。

Slawenburg Radduschはベルリンから日帰りで行ける人気の観光地、シュプレーヴァルトのすぐ外側に位置している。よく知られているように、シュプレーヴァルトには現在もスラブ系民族、ソルブ人の集落が多くある。先に述べたように大部分のスラブ人は長い年月の間にドイツ文化に吸収されていったけれど、一部は今でもドイツの少数民族として独自の文化を継承している(ソルブ人については、こちらの記事をどうぞ)。

再建された城は9世紀後半〜10世紀にこの地方に住んでいたとされるLusizi部族のもので、現在のソルブ人とどれほどの関係があるのかはよくわからない。でも、ドイツにありながら古代ローマの遺跡でもなくドイツの中世の古城でもない城。なんだか興味をそそられる。

見えて来たRaddusch城

ドーナツ状の城壁は遠くから見ると王冠のようにも見える。

側から見た城壁

城壁の直径は約56m(外側)で、厚さは10mくらい。城壁の内側が博物館スペースになっている。展示されているのは石器時代からのニーダーラウジッツ地方の発掘物だ。

入ってすぐのところに城壁の模型
Lusizi部族は木材を組み、その隙間を砂と石で埋めて壁を建設していた
内部の展示スペースは想像していたよりも広く、展示も充実している
木製の神像、”Götze von Raddusch”。Lusizi部族は火や雷の神などを崇拝していた

10世紀前半からニーダーラウジッツ地方に次々と城を建設したLusizi部族は、963年にゲロ辺境伯に征服され、衰退してしまった。でも、それよりもずっとずっと前の青銅器時代から鉄器時代初期にかけて、この地方にはラウジッツ文化という豊かな古代文化が存在したようだ。ベルリン大学(現在のベルリン医大、シャリテ)の病理学者で、同時に民族学者・先史学者でもあったルードルフ・フィルヒョー(Rudolf Virchow)が発掘調査を行い、出土した土器を「ラウジッツ式土器」と命名したことからこの地方で栄えた文明をラウジッツ文化と呼ぶようになったた(ルサチア文化ともいう)。フィルヒョー博士といえば、ベルリン新博物館(Neues Museum)に彼の考古学発掘物コレクションが展示されていることを思い出した。今度、もう一度じっくり見て来ることにしよう。

ラウジッツ文化の遺物、Vogelwagen。青銅製の車輪は太陽を意味し、その上には鳥が乗っている。ラウジッツ文化において崇拝の対象だった太陽と鳥が一体化したこのようなものは近郊のBurgという村の周辺からこれまでに全部で7つ発掘されているという(画像のものはレプリカ)。ラウジッツ文化は気候変動による環境の砂漠化で衰退し、消滅した。

博物館にはLusiziの文化とラウジッツ文化の他、古代ローマやゲルマン民族についても展示されている。

展示を見た後は中庭から階段を上がって城壁の縁を歩いてみた。中庭はイベントスペースのようだ。

壁の上を歩いても別にどうということもないのだが、、、、

城壁の周りには堀が掘られ、その外側は野草ガーデンになっているのだが、続く日照りで残念ながら野草はすっかり枯れてしまっていた。

すぐ向こうにはソーラーパネルがびっしりと設置されている

円形の城を上から撮ったら面白いかなと思ってドローンを飛ばしてみた。

ニーダーラウジッツ地方は褐炭産業の衰退で寂れてしまった印象があるが、過去記事で紹介したように閉鎖された採掘場のいくつかはマニアックな観光スポットになっている(たとえば、巨大なコンベアの上を歩ける野外ミュージアム、F60)。そして、褐炭を採掘したからこそ得られた豊富な出土物を利用したこのような考古学ミュージアムの存在も嬉しい。他にはない独特な魅力のある地方なので、これからもちょくちょく出かけようっと。