また一人遠足。今回はブランデンブルク州北西の端に位置するWittenbergeへ行って来た。一文字違いで間違えやすいが、ザクセン=アンハルト州のルターシュタット・ヴィッテンベルクとは別の町だ。
Wittenbergeは内陸の町であるにも関わらず港町である。駅から南西に向かって2kmほど歩くと旧市街があり、その向こうをエルベ川が流れている。中世から水運の要所だったことに加え、産業革命の最中にハンブルク – ベルリン間に鉄道が開通し、ちょうどその中間地点であることから産業都市として発展した。鉄道車両の修理とミシン生産が主な産業だったとのことで、この日はかつての車両基地に展示されている歴史的蒸気機関車を見るつもりだった。でも、機関車は後でゆっくり見ようと先に町歩きから始めたら思ったよりも面白くて時間がかかってしまった。気づいたら帰りの電車の時間で、結局、機関車は見れずに帰って来るということに、、、。
なにが面白かったのかというと、かつてのミシン工場の敷地にある時計塔だ。シンガーミシンの工場の塔だったのでシンガー塔とも呼ばれている。
1928年に工場の給水塔として建てられたこの時計塔は現在、内部が博物館になっていて、Wittenbergeのミシン生産の歴史に関する展示が見られるという。博物館と聞けば、塔であろうがなんであろうが入るのが博物館マニアというもの。あまり目立たない小さなドアから中に入り、受付でチケットを買って階段を上がると、階段左右のスペースが展示室になっていた。
19世紀の終わり、エルベ川沿いの地域では人口が急激に増え、1903年、Wittenberge市は雇用創出のため米国のミシンメーカー、シンガーの工場を誘致した。それが長年続くこの町のミシン製造業の始まりだ。ドイツにだってミシンメーカーがあるのに外国の企業の工場なんて!と当時はかなり反対があったようだが、その頃すでにドイツ国内でもシンガーミシンの人気は高く、工場誘致は大当たり、10年後には従業員4000人を抱えるようになった。1900年代の4000人だから、かなりの規模だったのだろう。エルベ川沿いの港付近に建てられた工場には水路を使って大量の原材料や運び込まれ、製品がドイツ各地へと輸送された。
第二次世界大戦後、Wittenbergeのミシン工場は戦後賠償として設備の大半を接収されることになったが、ドイツ民主共和国(DDR)の建国後、TEXTIMA Nähmaschinenwerk Wittenbergeとしてミシン生産を再開した。その後、人民公社VEB Nähmaschinenwerk Wittenbergeと名称を変えてVeritasのブランド名で家庭用ミシンの生産にも乗り出す。1970年以降は東ドイツの家庭用ミシンの全てがWittenbergeで作られていたそうだ。
順調に生産台数を増やしていたが、ドイツ再統一の翌年の1991年には前年の半分以下に落ち込んでしまう。人民公社Nähmaschinenwerk Wittenbergeは1992年に解体された。
時計塔の窓から工場の建物を眺める。東ドイツの産業系博物館を見るたび、なんともいえない寂しさに襲われる。いつも同じパターンなのだ。「この町はかつて〇〇産業で栄えました。しかし、戦争に負け、戦後賠償で設備を失いました。ドイツ民主共和国時代に人民公社として再スタートを切りました。しかし、ドイツ再統一により衰退して生産終了しました。現在はミュージアムです。」ううう、辛い。先にもDDRのミシンの全てがここで作られていたと書いたように、DDR時代には町は特定の産業を割り当てられていたから、それがダメになると町全体が衰退してしまったのだ。皆、真面目に働いていただろうに、どれほどの落胆や憤りを感じただろうかと想像してやるせなくなる。しかし、再統一から30年近く経ち、今はまた少しづつ新しい産業が発達しつつあるようだ。
Wittenbergeはこじんまりとして雰囲気良く、ユーゲントシュティールの建物、Haus der vier Jahreszeitenや木組みの郷土博物館など素敵な建物もいろいろあってぶらぶら歩きが楽しかった。次回は是非、機関車と郷土博物館が見たい。