前回、Wittenbergeへ行ったら1字違いのWittenbergへも行きたくなった。ザクセン=アンハルト州のWittenbergは宗教改革家マルティン・ルターが教鞭を執った大学があることで有名な町である。でも、今回私が目指したのは宗教とは関係のない博物館、Haus der Geschichte。1920年代から東西ドイツが再統一するまでの東ドイツの生活文化を展示した博物館だ。

旧市街に建つ博物館はDDR時代には保育園だったそうだ。

入り口

中に入ると、受付横の壁にはカラフルなDDRグッズが美的にディスプレイされている。常設展示はフロア2階分ある。階段を上がると、廊下に係員の男性がいて「質問があったら、遠慮なくなんでも聞いてくださいね〜」と言ってくれた。

展示は1920年代の住空間から始まっている。先日行ったカプート村の郷土博物館で見た展示と大体同時代の生活用具が配置されたダイニングキッチン。右手にシンクや髭剃りの道具などがあるので、キッチンが洗面所も兼ねているようだ。

壁の布巾に「Gutes Gericht Frohes Gesicht(美味しい料理は人を笑顔にする)」というフレーズが刺繍してある。この年代のリネン類には大抵このような標語のようなフレーズが刺繍がしてあるようなのだが、どうしてだろう。係員のSさんに聞いてみよう。

「こういうリネン類は主婦が手縫いしていました。主婦として心がけたいと思うことなどを刺繍していたんですよ」

この部屋は第二次世界大戦後、1946〜49年にかけて旧東プロイセン(現在はポーランド)を追われ移入したドイツ人難民たちの当時の生活の様子を再現している。馬車に載せられる分だけの身の回り品しか持たず、戦後の住宅難の中で新しい生活を始めなければならなかったため、キッチン、ダイニング、居間、寝室、子供部屋、生活の全てを一つの部屋の中で営むことが珍しくなかったのだろう。

1940年代のダイニングキッチン。テーブルの上には1945年の食糧配給量が書かれた紙が載っている。Sさんによると、配給量は十分でなく、家庭菜園で栽培されたジャガイモや野菜が闇市場で取引されていたという。ドイツでは戦前から都市部住民の間でもクラインガルテンと呼ばれる家庭菜園が普及していたのだ。

初期のAEG社製冷蔵庫

冷蔵庫の説明を始めたSさん、話が脱線して電気の直流と交流の違いや、世界で初めて電気椅子による死刑が執行された話にまで発展して行った。面白かったけれど、ここでは割愛しよう。

60年代の居間。この時代のレトロモダンな家具は機能的で飽きが来ないので今もわりと人気があるように思う。我が家にも夫が東ドイツに住んでいた祖母から譲り受けたDDR製キャビネット一式がある。

1970年代の居間。Sさん「DDR時代は結婚すると5000マルクの無利子ローンが組めたんですよ。で、子どもが生まれると一人につきそのうちの1000マルクが返済免除になりました。だから子どもをたくさん作ればその分、借金が少なくなるから早く家を建てられて得だったんだ。それで、子沢山でマイホームを持った男はHerr Bieber(ミスター・ビーバー)とからかわれてましたよ」。「ビーバー?どういう意味です?」「尻尾で家を建てたっていうのでね。ビーバーって器用に尻尾を使ってダムを作るでしょう。笑」。そういえば、ドイツ語の尻尾を表す言葉Schwanzは、俗語で男性器も意味する。なるほどね〜。

ビーバー氏の仕事部屋?
70年代のバスルーム。オレンジ色が大流行

1980年代の居間。テーブルの上にはKC/85 3と書かれたデバイス。私「あれは何ですか?」。Sさん「ゲーム機ですよ。任天堂のファミリーコンピューターのようなものですね。DDRでは人民公社ロボトロンがゲームを作っていました。ゲームはユーザーが自分でプログラミングするんです。コンピューター雑誌にいろんなゲームのコードが載っていて、その通りに打ち込んでカセットに保存してテレビ画面で遊んでました。だから同時にプログラミングの初歩も学べてよかったですよ」

ロボトロンの技術力はかなり高かったらしい。オフィスコンピューター1台は家2軒分に相当するほど高価だったが、有能な女性は産後、職場から機械を支給され、ホームオフィスで仕事を続ける場合もあったとのこと。しかしロボトロンも他の多くの産業同様、東西ドイツの再統一で競争力を失い、解体された。Sさんが語るコンピューターの話はとても興味深かったが、この部屋には他にも気になるものがある。それは女の子が手にしているもの、、、、。

あれは、、、、。Sさん「モンチッチです」。私「モンチッチ、確かにモンチッチですね。でも、モンチッチって、日本製ですよね?」「そうです。世界中で大流行しましたからね。DDRでも大人気でしたよ」「でも、DDRの人たちはどうやってモンチッチを手に入れたんです?」「インターショップでね」「インターショップ!インターショップにモンチッチ売ってたんですね」。インターショップというのは東ドイツ時代に西側製品を売っていた店で、西ドイツマルクや米ドルがなければ買い物ができなかった場所だ。なけなしの外貨でモンチッチを買っていた人たちがいたのかあ。

DDRの保育園風景。この建物は保育園として使われていたので、子ども用トイレなどがそのまま残っている。

女性の就業率が非常に高かったDDRでは子どもは早くから預けられるのが普通のことだった。手洗い場の壁には保護者の回想録が貼ってあ理、そのうちの1枚には「最初、公立保育園に息子を預けたけれど、社会主義のイデオロギーを吹き込まれるのが嫌でプロテスタントの幼稚園に転園させた」という内容が書かれている。

80年代のティーンエイジャーの部屋
DDRのナイトクラブ

ガイドツアーではないのに、私が展示を見る間、ほぼずっと説明をしてくれたSさん。Sさんのお話はしばしば脱線し、展示と直接関係ないこともたくさん教えてもらえてかなり興味深かった。帰り際にはSNSアカウントまで教えてもらったので、DDRの生活についてより深く知りたくなったらSさんにお話を伺おうかな。