楽しかった10泊11日のヨット・クルージングも遂に最終日となり、私たちはマエー島のマリーナへ戻った。マエー島に上陸する前にサンタンヌ島のビーチに寄り、最後の一泳ぎを楽しんだ。
サンタンヌ島のビーチ
この島にはクラブメッドのリゾートがある。私たちはクラブメッドの敷地内には絶対に入らないようにと言われていたが、ビーチを利用することはできた。
白い砂浜の綺麗なビーチなのだけれど、、、、過去9日間、超絶美しいビーチの数々を訪れて来たので期待値がすっかり上がってしまった私たち。サンタンヌ島とマエー島は目と鼻の先なので、海の向こうに見えるのは町の風景である。海の水もなんとなく違うように見える。「なんか、たいしたことないね」「高いリゾートに泊まって町の景色を眺めて過ごすより、ヨットの方が割安だし、あちこち回れて良かったね」などと、クルーズメンバーと言い合ったのだった。
さて、クルーズが終わり、エデンアイランドのマリーナでクルーズの仲間たちとの別れを惜しみつつ下船した私たちは、帰途に着く前の最後の1日を首都ヴィクトリアで過ごした。ヴィクトリアは小さな町で、見どころは多くない。
ヴィクトリアの中心にあるクロックタワー。
サー ・セルウィン ・セルウィン・ クラーク ・マーケット(Sir Selwyn Selwin Clarke Market)
セイシェルはアフリカおよびヨーロッパにルーツを持つ「クレオール」と呼ばれる人々、インドやマダガスカル、中国にルーツを持つ人々など、異なるエスニシティの人々が混じり合い、大きな摩擦を起こさずに平和的に暮らしている社会だと言われる。今回の旅ではほとんどの時間を洋上で過ごしたので、ヨットのクルー以外の現地の人々と接する機会が少なく、セイシェルの生活文化には残念ながらほとんど触れることができなかった。食文化についても、観光客を相手に料理をする一人のコックさんの料理からは現地の人々の一般的な食事について知ることは難しい。ヴィクトリアの市場やスーパー、モールなどを覗いた限りでは、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの要素がブレンドされた独自のものになっているのではないかという印象を持ったのみである。
最近は自然体験をメインにした旅行をすることが多くなっているが、その国の歴史や文化をまったく知ることなく帰って来てしまうのは残念だ。2019年のパナマ旅行の終わりにそうしたように(記事はこちら)、今回も旅の終わりにヴィクトリアの国立歴史博物館でセイシェルの歴史に触れたいと思った。
国立歴史博物館
奴隷貿易から始まったセイシェルの歴史は苦しみに満ちている。セイシェルの島々の存在は数百年前からアラビアの商人たちに知られていたとされるが、ヨーロッパ人が最初にセイシェルを発見したのは大航海時代のことである。無人島だったセイシェルに人が定住するようになったのは、1742年、フランスの探検隊が最大の島(現在のマエー島)に上陸したのが始まりで、1768年にフランス領になり、入植がおこなわれた。開拓のためにアフリカから多くの人が奴隷として連れて来られたのである。1790年までにマエー島の人口は572人に達したが、そのうちヨーロッパ人は65人、507人が奴隷だったとされる。
当初フランスの植民地だったセイシェルは、1814年からはイギリスの統治下に置かれる。独立国となったのは1976年で、それからまだ50年も経っていない。公用語が英、仏、クレオール語の3つなのはこうした背景からで、クレオール語は支配者であるフランス人、イギリス人と、奴隷の身を余儀なくされていたアフリカ各地出身の人々のコミュニケーションの手段として発達した言語だったのだ。
歴史博物館では、セイシェルの歴史を知る上で決して避けて通ることのできない奴隷制に重点が置かれている。私にとっても最も強く印象づけられた内容だったので、ここではそこに的を絞って記録しよう。
輸出品となるシナモンやナツメッグなどのプランテーションの労働力として連れて来られた人々は、そのおよそ45%がマダガスカル、およそ40%がモザンビークを中心とするアフリカ東部、13%がインドのポンディシェリー、残る2%がアフリカ西部の出身だった。
奴隷となった人々を拘束するために使われた道具も展示されていて、見るのがとても辛い。
19世紀初頭になると、イギリスで政治家ウィリアム・ウィルバーフォースが主導する奴隷廃止運動が高まっていったが、1833年に奴隷制度が廃止された後も、セイシェルでは引き続き奴隷の保持が続けられ、ようやく解放されたのは1835年になってからだ。
解放された人たち
奴隷制の廃止後、すでに衰退していたスパイスや綿花、トウモロコシなどの従来のプランテーションから、より生産性の高いココヤシの栽培への転換が図られていた。奴隷市場のあったアフリカ東部のザンジバルから、解放された多くの人々がセイシェルへ移住し、労働者としてココヤシのプランテーション栽培を支えた。こうしてセイシェルの人口は増え、首都ヴィクトリアも発展していったそうだ。
セイシェルの伝統的な服装。ヨーロッパの服装をベースに熱帯の気候に適したアレンジが加えられている。
現在のセイシェルは独立国家だが、自由を奪われ虐げられた苦しみと悲しみ、憤りに満ちた200年の過去をルーツとして持つ国民のナショナルアイデンティティとはどのようなものなのだろうか。
こう書きながらふと思い出したのは、プララン島の海岸近くでアンカリングをして夕食を食べていたある晩、岸辺で焚き火をしているのか、暗闇の中で1点が光っているのが見えたこと。
花火でもしているのかな?と不思議に思ってそちらを見つめていると、リズミカルな楽器の音と歌声がかすかに聞こえて来た。火の周りで踊っている気配がある。それはMoutyaと呼ばれるセイシェルの伝統のダンスだった。からだ一つで遠い未開の島へと連れて来られた人々が持っていたものは、恋しい故郷の思い出、そして自らの体と声だけだった。心の痛みや悲しみを歌を歌い、ダンスをすることで表現し、子孫へと伝えていく。そんな伝統が今でも残っているという。
セイシェルの国旗は放射線状に青、黄、赤、白、緑の5色に塗り分けられた珍しいデザインだ。青は空と海、黄は太陽、赤は統一と愛のための働く国民の決意、白は調和と正義、そして赤は緑は豊かな自然環境を象徴するらしい。
現在のセイシェルの主要産業は、観光と漁業。こちらの記事でも触れたように、自然保護にも大きく力を入れており、持続可能なツーリズムのパイオニア的な存在でもある。限られた場所しか見ていないので一般化できるかどうかはわからないけれど、ビーチにはゴミ一つなく、首都ヴィクトリアも綺麗だった。島国で利用できる土地が限られており、生活必需品の大部分を輸入に頼っているせいか、物価は高い。しかし、生活水準は比較的高いように見受けられた。
10日間のクルーズを共にしたキャプテンはヨットの航海士という職業柄、一年の大部分を洋上で過ごさなければならず、自宅で過ごせる日はわずかだという。でも、毎日必ず妻に電話するのだと言いながら、スマホで結婚式の写真を見せてくれた。「家族と一緒に過ごせる時間は少ないけど、妻は本当に愛情深く、決して不満を言ったりしない。幸せな家庭を持つことができた自分は恵まれている」と語った。敬虔なクリスチャンの彼は、お酒は飲むけれど決して酔っ払うことはない。家で妻や子どもたちと食卓を囲むときには神にお祈りをするのだという。ギターを演奏するので、わずかなフリータイムにはキーボードを弾く娘さんと一緒にゴスペル音楽を演奏して楽しんでいるそうだ。シャイで口数の少ないコックさんも家族の写真を見せてくれた。巨漢の彼の横に美しい妻と小学校低学年くらいの男の子が2人が写っていて、とても心が和んだ。
その一方で、ホテルから空港まで乗ったタクシーの運転手さんからはこんな話を聞いた。
「セイシェルは美しい国だけれど、政治は腐敗しています。観光で持っている国だけど、ホテルの経営者はほとんどが外国人ですよ。あなたが泊まったホテルも中国人の経営で、フロントの女性はジンバブエから出稼ぎに来てるんです。地元の人間はダメです。働かない。なぜだと思います?ドラッグですよ。国民の10%はヘロイン依存です」
ええっ、まさか?と驚く私たちに運転手さんは続ける。
「今、道路を渡って行った3人組の若者ね。彼ら、ディーラーですよ。見ればすぐにわかるんだ。ほら、あそこに飲み物を売ってるワゴンが停まってるでしょう?あそこでヘロインが買えるんですよ。ハタチそこそこの男が、私が10年必死で働いて買ったこの車よりも高い車に乗っている。なぜそんなことが可能なのか、わかりますよね?私にはティーンエイジャーの娘がいるので、ドラッグに手を出したりしないか、心配しています。私はこの国を愛しているけど、変えたいと思っています。このままではダメだ。なんとしてでも変えて行きたい」
どんな国も、美点もあれば問題もあるのは当たり前で、旅において触れることができるのはその国を構成するもののたったひとしずくでしかない。通りすがりにわかることなど、ほとんど何もない。それでも、ほんの一瞬でも接触した人たちの言葉がその国への興味のドアを開けてくれるものだと感じる。また一つ、私のとって気になる国が増えたのだった。
この記事の参考文献及びサイト:
National Museum of History, Seychelles
History Media-HD: History of Seychelles
ガイドブックシリーズ Richtig Reisen、”Seychellen” (2010) Dumont Verlag