Johannes Gehrs作” Hermann verabschied sich von Tusnelda 「トゥスネルダに別れを告げるヘルマン」”
デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons of Hermann(ヘルマンの息子)」のイニシアチブにより、1897年、ミネソタ州ニューウルム市にデトモルトのヘルマン記念碑を模倣した記念碑が建設されている。
ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst von Bandel)である。志を共にする市民から寄付金を集め、1838年に着工したが、なかなか思い通りにはいかなかった。1846年に土台部分は完成したものの、資金不足で中断。その直後の1848/1849年にヨーロッパで革命が同時多発する。ドイツでも市民や労働者が自由主義や憲法制定を求めて蜂起したが、プロイセン王国に弾圧され、失敗してしまう。民衆の自由で民主的な国家建設の夢は、打ち砕かれてしまった。
トイトブルクの森でゲルマン人について探る④ リッぺ州立博物館
ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。
リッぺ州立博物館(Lippisches Landesmuseum)
リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。
エアリンクハウゼン近郊の先ローマ鉄器時代の集落モデル。集落は柵に囲まれている。
ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。
長屋(ランクハウス)の造りや、農耕の様子がわかるジオラマ
収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。
人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。
意外とモダン!女性の服装は現代でも通用しそう。
埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。
伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。
ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。
エアリンクハウゼンの野外博物館で見た製鉄用の窯(Rennofen)のモデルが展示されている。
ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。
上段はローマのもの、下段はゲルマンのもの
展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。
リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。
ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。
さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。
歴史画家ペーター・ヤンセン(Peter Janssen)の大作、Siegreich vordringender Hermann 「勝利に向かって進むヘルマン」
アルミニウス(ヘルマン)の妻、トゥスネルダ(Thusnelda)像。彼女の生涯はほとんど知られていないにもかかわらず、「夫に尽くし支える理想の妻」として描かれた。
Johannes Gehrs作” Hermann verabschied sich von Tusnelda 「トゥスネルダに別れを告げるヘルマン」”
デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons of Hermann(ヘルマンの息子)」のイニシアチブにより、1897年、ミネソタ州ニューウルム市にデトモルトのヘルマン記念碑を模倣した記念碑が建設されている。
小国の寄せ集めだったドイツを一つにまとめ上げ、「我らがドイツ人」という共通認識を形成する基盤となったトイトブルクの森神話だったが、時代が進むにつれ、政治的に都合よく利用されるようになった。第一次世界大戦でも、そして第二次世界大戦においても、他国・他民族との対立を煽り、殺戮を正当化する手段となってしまった。つまりは、行き過ぎてしまったのだ。
第一次世界大戦中の絵葉書
今回の旅で、エアリンクハウゼン考古学野外博物館、ヘルマン記念碑、そしてこのリッぺ州立博物館を訪れて知りえたのは、「ゲルマン人とは多様な文化を持つ多くの部族を総称する呼び名で、共通する文化的特徴はあるのかもしれないが、まだ多くはわかっていない」ということ、「よくわからないからこそイメージがどんどん肥大し、悪利用されて暴走を引き起こしてしまった」こと。悲しいことだが、こうした行き過ぎは、どこの国でも起こり得ることだと思う。
ゲルマン民族とその文化には別に罪はないし、興味を持つのは悪いことでもないだろう。ただし、学術的に明らかになっていることにフォーカスして、勝手に妄想を膨らませないことが重要だ。
さて、過去の産物となったヘルマンだが、リッぺ地方では全否定されているというわけではなさそうだ。今では政治色のないご当地キャラとして、親しまれているように見えた。
いろいろなヘルマングッズ
さて、「トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅」のシメには、ゲルマン人の聖地と噂される奇岩群、エクスターンシュタイネに向かうことにしよう。
トイトブルクの森でゲルマン人について探る③ ヘルマン記念碑
前の記事に書いたように、エアリンクハウゼンの野外考古学博物館は考古学的にとても興味深かったが、ゲルマン人についての私のイメージは、相変わらずもやっとしている。何か別の手がかりはないものか。
デトモルト(Detmolt)にあるヘルマン記念碑(Hermannsdenkmal)を見に行くことにした。ヘルマン記念碑とは、紀元9年に「トイトブルクの戦い」でローマ軍を打ち破ったとされるゲルマンの英雄ヘルマン(本名のラテン名アルミニウスをドイツ化した名前)を讃えてつくられた記念碑である。こちらの過去記事に書いた通り、「トイトブルクの戦い」の現場は実はトイトブルクの森ではなく、オスナブリュック近郊だったことが明らかになっているが、かつてはヘルマンが勝利したのはデトモルトらへんだと思われていたのである。
記念碑はデトモルトの南西にあるグローテンブルクの丘の上に立つ。
デトモルトに宿泊し、あさイチでグローテンブルクへ。駐車場から森の中を歩いて丘を上ると、すぐに記念碑が見えて来る。
19世紀初頭、フランス革命によってヨーロッパ中に広まった「国民国家」「人民主権」という概念がドイツでも芽生え始めていた。それまでのドイツは、神聖ローマ帝国という括りはあっても、実情は小国の集まりで、共通意識は薄かった。しかし、ナポレオンが支配域を広げ、ドイツの小国を次々に制圧すると、屈辱を味わった民衆の間で「ドイツ人として団結すべきだ」という気持ちがメラメラと燃え上がり、ドイツ統一の気運が高まった。そうしたナショナリズムの勃興の中で、かつてローマ軍を打ち破ったとされるケルスキ族(Cherusker)のリーダー、ヘルマンが、ゲルマン民族の解放と統一のシンボルとして崇められていた。
ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst von Bandel)である。志を共にする市民から寄付金を集め、1838年に着工したが、なかなか思い通りにはいかなかった。1846年に土台部分は完成したものの、資金不足で中断。その直後の1848/1849年にヨーロッパで革命が同時多発する。ドイツでも市民や労働者が自由主義や憲法制定を求めて蜂起したが、プロイセン王国に弾圧され、失敗してしまう。民衆の自由で民主的な国家建設の夢は、打ち砕かれてしまった。
工事が再開されたのは1862年。このときには、ドイツ統一はもはや市民だけの運動ではなくなっていた。1971年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、統一ドイツ帝国(第二帝国)が誕生する。皇帝に即位したヴィルヘルム1世は、トイトブルクの戦いとフランスに対する勝利を重ね合わせ、ヘルマン記念碑の建造を積極的に支援した。こうして記念碑は国家プロジェクトとなったのだった。1875年8月16日の除幕式にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が臨席し、盛大に祝われたらしい。
ところで、上の写真はヘルマンの後ろ姿。正面からじっくり見ようと反対側に回ったら、、、、
逆光でよく見えない〜。午前中に見に行ったのは失敗だった。美しい写真が撮りたければ、夕方に行くべし。
トイトブルクの森を見下ろすヘルマン記念碑の高さは、台座を含めて53メートル。掲げている剣の長さは7メートル。地元の砂岩でできた台座のデザインは当時の流行の古典主義で、ギリシアの神殿を思わせる。円柱で支えられた円形の屋根を持つこのような建物は、建築用語でモノプテロス(Monopteros)と呼ばれるそうだ。ゲルマン民族の象徴なのにギリシアなんかい!とツッコミたくなるが、バンデルも本当はゴシック様式で作りたかったらしい。でも、残念ながら、ゴシック建築の設計は経験がなくて無理、ということでこうなったとのこと。
右手に剣、左手に盾を持つブロンズ製のヘルマン像。まったく見えないけど、剣には「Deutsche Einigkeit, meine Stärke. Meine Stärke, Deutschlands Macht.(ドイツ統一は我が力、我が力はドイツの力)」と刻まれているらしい。
頭には翼のついたヘルメット。古代ゲルマン人がこんなヘルメットを被っていたわけではなく、バンデルの創作。
左足で鳥を踏んづけてる。ローマの象徴の鷲だそう。
ヘルマン記念碑の周りには、他にも記念碑がたくさんある。
エルンスト・フォン・バンデルのレリーフ付き記念碑
皇帝ヴィルヘルム1世がヘルマン記念碑除幕式に臨席したことを後世に残すための石碑
ドイツ帝国統一の立役者にして初代宰相、オットー・フォン・ビスマルクの功績を讃えるビスマルク石(Bismarckstein)
後にビスマルクの80歳の誕生日を記念して設置されたらしい。
つまり、この地は、古代の英雄ヘルマン、統一ドイツに君臨した皇帝ヴィルヘルム1世、そして外交と戦争によって現実に統一国家を完成させた政治家ビスマルクの三者を讃える、まさにドイツのナショナリズム高揚の場だったのだなあ。
「だった」と書いたのは、現在ではまったく違う評価を受けているからだ。詳しくは、この後に訪れるリッペ州立博物館で知ることになる。
この記事の参考文献: Das Hermannsdenkmal: Daten, Fakten, Hintergründe (Historisch-Archäologische Publikationen und Dienstleistungen, 2008)
トイトブルクの森でゲルマン人について探る② エアリンクハウゼン考古学野外博物館
トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅。最初に向かったのは、エアリンクハウゼンにある考古学野外博物館(Aechäologisches Freilichtmuseum Oerlinghausen)だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州最大の自然保護区の縁に位置するこの野外博物館では、考古学調査に基づいて、旧石器時代から中世初期までの人々の暮らしが時代ごとに再現されている。
博物館の全体はこんな感じ。順路に沿って見て歩いて、小一時間といったところ。
最初に目にするのは、旧石器時代の住まい。最終氷期の紀元前1万5500年 〜 1万3100年ごろ、北西ヨーロッパにはトナカイ猟を中心とした古代文化が広がっていた(ハンブルク文化と呼ばれている)。漁師は、トナカイの皮で作ったテントで移動生活をしていた。このテントは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州アーレンスブルクで発掘された紀元前1万2700年前〜1万2500年頃のトナカイ猟師の集落跡をもとに再現されたもの。トナカイの皮は毛を取り除くと軽く、持ち運びに適していた。テントの周囲には、ヒメカンバ(Zwergbirke)、アルメリア(Grasmelke)、ガンコウラン(Krähenbeere) 、ビャクシン(Wacholder)など、当時の植生が再現されている。
こちらは、中石器時代(紀元前9700年〜紀元前4300年頃)の茅葺き小屋。この時代の生活についてはまだ多くはわかっていないらしい。トイトブルクの森で見つかったいくつかの集落跡を研究した結果、きっと、このような家に住んでいたのではないか?と考えられている。または、樹皮で作った壁の小屋に住んでいたという説もある。最終氷期が終わって暖かい気候となったドイツの森には、シカやイノシシ、クマ、オオカミなどが生息するようになった。植生も氷河期とは大きく変わり、人々はそのような変化に適応してライフスタイルを変化させていったが、この頃はまだ狩猟採集生活だった。
次は新石器時代(紀元前5500〜2200年ごろ)の家。ライン川流域の褐炭採掘場から発見されたレセン文化(Rössener Kultur)遺跡をもとに再現された。木材が使われ、ぐっと現代の家に近づいたように見える。正面から撮った写真なので分かりづらいのだが、ラングハウス(Langhaus)と呼ばれる長屋で、かなりの奥行きがある。旧石器時代にはラングハウスが一般的だったとされる。平面図は長方形ではなく、台形もしくは船型。人々は定住し、家畜を飼い始めた。この頃の主食は、エンマーコムギ(Emmer)、ヒトツブコムギ(Einkorn) 、レンズ豆など。
ここまで、考古学的調査に基づいた、旧石器時代から新石器時代までの暮らしを順番に見て来た。「暮らし」に焦点を当てた展示で、民族については触れられていない。ところが、この後、突如として「ゲルマン」というワードが登場する。
展示エリア「ゲルマン人集落(Germanengehöft)」。あれっ?今までのはゲルマン人の集落ではなかったのだろうか。混乱してしまった。説明パネルによると、このエリアは「現在は否定されている過去の研究に基づいてつくられたもの」のだという。
実は、現在のこの野外博物館の敷地には、かつて、「ゲルマン人集落」という、そのまんまの名の博物館が存在した。ナチスがドイツ人の祖先であるゲルマン人を理想化し、ドイツ人の優位性をアピールする目的で建設したものだった。その内容は、「学術研究に基づいている」と謳ってはいたが、イデオロギーにまみれたもので、現在の研究に照らし合わせると間違いだらけだった。「ゲルマン人集落」がオープンした1936年はベルリンでオリンピックが開催された年でもあり、ナチス政権は世界中からの来訪者を「ゲルマン人集落」に迎え、ゲルマン人が古来からいかに優れた民族だったかを示そうとした。まっすぐな柱に白い漆喰の塗られた土壁。当時、家の内部には近代的な家具が置かれていたそうだ。
「ゲルマン人集落」は、第二次世界大戦後しばらくの間は荒廃した状態のまま放置されていたが、1960年代に民間の寄付金によって、以前と同じかたちで再オープンした。そう、ナチスのイデオロギーのままで。
それが大きく変化したのは1979 年のこと。イデオロギーと決別し、学術研究の成果を正確に伝える考古学野外博物館がここにつくられることになった。発掘調査に基づいた、時代ごとの集落が再現されたのだ。その際、「ゲルマン人集落」は取り壊すのではなく、「ナチスのゲルマン人史観を明瞭に伝える場所」として残された。学術的なこの野外博物館の中に異質なエリアがあるは、このような背景からだ。
「ゲルマン人」という言葉が出てくるのはこのエリアだけ。この先は再び考古学の展示が続く。
これは青銅器時代(紀元前1550〜1200年頃)の茅葺き小屋。
青銅器時代の裕福な人のお墓(Totenhaus)を再現したもの。
鉄器時代のラングハウス
これはGrubenhaus(直訳すると「穴の家」)と呼ばれる半地下の小屋。床を地表より50〜80cmくらい掘り下げ、掘った部分の上に簡単な木の柱を立てて、屋根をかけたもので、先史時代や中世初期のヨーロッパで広く使われていたらしい。
内部はこんな感じ。床を地面より掘り下げることで、火を使わなくても冬暖かく夏涼しい快適な空間が得られた。主に作業場などに使われていたとのこと。
鉄鉱石から鉄を取り出すために使われ塊鉄炉(Rennofen)。炉に木炭と鉄鉱石を交互に詰めて火を入れると、高温で鉄鉱石から酸素が離れ(つまり、還元される)、鉄の塊ができるというしくみ。
ここに書ききれないが、それぞれの建物内部にも各時代の生活についての展示があり、手作業や農作業、家畜についてなど幅広い情報が提供されている。
ゲルマン人の「現在のドイツ北西部において旧石器時代から中世初期までを生きた人たちの」生活史をざっくりと学ぶには、とても良い博物館だと思う。ただ、この博物館が建てられた背景が心に重くのしかかって、残念ながら考古学展示を純粋に楽しむことができなかった。
この記事の参考資料:
Schriften des Archäologischen Freilichtmuseums Oerlinghausen: Kompakt (2006)
トイトブルクの森でゲルマン人について探る①
私が現在住んでいるドイツ東部には、かつてスラブ系の人々が住んでいたため、スラブ民族に関する史跡や博物館がいくつもある。スラブ民族とはどのような民族なのかに興味があり、これまでにそうしたスポットを訪れて来た。
直近では、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるスラブ人の集落を再現した考古学博物館へ行った。
展示は、とても興味深かったが、同時に新しい問いが生まれた。「スラブ人がどのような自然観を持っていたのか、どのような暮らしをしていたのかはなんとなくわかった。では、ゲルマン人はどうだったのだろう?」
ドイツの国名が英語で「Germany」であるように、ゲルマン人はドイツ人のルーツだとごく一般的には思われている。いや、実際には、ドイツ人の祖先はゲルマン人だけではなく、ケルト人や古代ローマ人、スラブ人など、異なる民族が混じり合ったモザイク集団だった。だから、ドイツ人=ゲルマン人は誤りで、ゲルマン人はドイツ人のルーツの一つでしかない。
そもそも、「ゲルマン人」という言葉は、紀元前1世紀、古代ローマ人がライン川の東に住んでいた部族をまとめて「ゲルマニ」と呼んだのが始まりで、呼ばれた方は自分たちを「ゲルマン人」だと思っていたわけではなかった。無数の部族が、それぞれの文化習慣に従い、生活を営んでいた。「ゲルマン人」というのは他者によるラベルに過ぎない。
とはいえ、現代ドイツ人の多くが、もとを辿ればゲルマン系の言語を話すいずれかの部族にルーツを持つことは事実だろう。しかし、私はゲルマン人についてほとんど何も知らない。「森に住んで、体が大きく、戦闘的な人たちだった」「古代ローマ人からは野蛮な人間だとみなされていた」というくらいのあまりに大雑把すぎるイメージしか持っていない。スラブ人とその文化については積極的に知ろうとするのに、そのスラブ人の多くが吸収されていったゲルマン文化について無知なのは、バランス的におかしい気がする。それに、スラブ人の文化の特徴は、ゲルマン人のそれと比較することで輪郭がよりハッキリするのではないだろうか。
そう思って、「よし!それじゃ今度はゲルマン人を知る旅に出よう!」と思い立ったのだ。
ところが、、、、ことはそう簡単ではなかった。
リサーチ段階でまず躓いた。なかなか見つからないのだ、ゲルマン人の文化を紹介する博物館が。かつて古代ローマの植民地であったケルン市には「ローマ・ゲルマン博物館(Römisches-Germanisches-Museum)」があり、何度か行ったことがあるが、そこで展示されているのは主にローマ時代の発掘物で、「ゲルマン民族とは?」「ゲルマン人の文化とは?」を伝える博物館ではない。では、どこへ行ったらキリスト教化される以前のゲルマン人の宗教や儀式、暮らしなどについて知ることができるのだろう?
そこで思い出したのが、カルクリーゼ(Kalkrise)にある、考古学博物館である。
カルクリーゼは、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの現場であることが、考古学調査の結果、わかっている。戦いの詳細については上の記事に書いているので、ここでは繰り返さないが、この戦いはかつて「トイトブルクの森の戦い」と呼ばれていた。トイトブルクの森とは、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州レーネ(Löhne)付近からニーダーザクセン州のホルツミンデン(Holzminden)のあたりまで広がる丘陵地帯だ。戦いの現場は、トイトブルクの森のどこかだと長らく考えられていたのだ。その中心地、デトモルト(Detmold) 市郊外の丘の上にはゲルマン人のリーダー、ヘルマン(ラテン語名はアルミニウス)の記念碑が立っているという。
ならば、トイトブルクの森へ行けば、きっとゲルマン人について詳しく知ることができるだろう。そう考え、ネットで情報収集を始めたところ、デトモルトとその周辺にゲルマン人と関係のありそうな博物館や施設がいくつか見つかった。しかし、該当ウェブサイトの説明を読んでも今ひとつよくわからない。私が知りたいと思っていることがそこで見つかるのか、どうもはっきりしないのだ。なにか歯切れが悪いというか、後ろ向きな空気感が漂っている。読んでいるうちに、「ゲルマン人」というテーマは現代ドイツ人にとって、話題にするのはとても慎重を要し、できれば避けたいものらしいということが伝わって来た。
というのは、「ゲルマン人」というコンセプトは、ナショナリズムを煽るために繰り返し利用された暗い歴史がある。それが結果としてナチスによる他民族の殺戮に繋がった。その重い事実に対する反省から、現在では博物館などで「ゲルマン人」を前面に出した展示はほとんど行われていない。ましてや、ポジティブに提示するなどもってのほか。ドイツ各地でゲルマン人の集落跡などが出土しているが、考古学博物館や郷土博物館ではそうした発掘物を「〇〇年頃にこの地方に暮らしていた人々の△△」のように展示していて、そこに敢えて「ゲルマン人」を持ち出す必要性はないというのが一般的なスタンスのようだ。
どうりで、ドイツに何十年住んでも「ゲルマン人とはどういう人たちだったのか」が、いつまでも見えて来ないわけだ。「縄文人」「弥生人」などと同じようなノリで「ゲルマン人」を語ることはできないのだという現実に気づいて、とても気が滅入った。
むろん、世界的に社会の右傾化が進んでいる現在、差別主義者を焚き付けるリスクをおかしてまでアピールするようなテーマではないというのは、理解できなくはない。
しかし、、、ゲルマン人について知りたいという欲求は、いけないことなのだろうか。ドイツに暮らす者として、この国の根底に流れる古くからの文化的要素に触れたいだけなのだけど。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、それでも「トイトブルクの森」へ行ってみることにした。
(続く)
庭で野鳥の営巣観察2025 喜びと悲しみと (注意:ショッキングな映像が含まれます)
すっかり春の恒例となった、庭の巣箱での野鳥の営巣観察、シーズンがほぼ終わったようなので、まとめておこう。
今年は3つの巣箱のうち、一つでシジュウカラが、もう一つでアオガラが営巣をした。
まずはシジュウカラの状況。
今年は全般的に順調だったといって良い。4/15までに6つの卵が産み落とされた。4/26にすべての卵からヒナが孵り、5/14にそのうち5羽が無事に巣立った。巣立ちもほんの2時間ほどの間に次々と飛び立ち、親鳥の苦労は少なかったかな。
同じ巣箱ですぐにまた営巣が始まり、6/8、今度は8つの卵からヒナが生まれた。気温が高くなっていたせいか、巣立ちまできっかり2週間しかかからなかった。残念ながら2羽は途中で死んでしまい、巣立ったのは6羽。すべてのヒナが巣立てることはやっぱりなかなかないものだな。
今年は合計で11羽の巣立ちを見届けることができた。
アオガラの状況。
3/23に親鳥が卵を産み終わった。驚いたことに、こちらはなんと卵12個!アオガラはシジュウカラよりは多産傾向があるけれど、ここまで多いのは観察を始めて以来、初めてだ。同時に子育てをしていたシジュウカラの倍の子沢山だから、子育ての大変さも倍?お母さん、大丈夫か?
5/3、すべての卵からヒナが孵った。お母さんがうまく餌を配分したのか、ヒナたちの成長の個体差はほとんどなく、巣箱の中でぎゅうぎゅう詰めになりながらもみんな元気に育っていた。
5/16。巣箱の中で何羽かが羽ばたきの練習をするように。巣立ちが近い。明日かな、それとも明後日かなとワクワクしながら寝た。
そして翌朝。起きて早速カメラを除くと、巣箱には3羽のヒナしかいない。あれっ。他の子達はもう巣立ったのかな?でも、こんなに朝早くに?嫌な予感がする。
確認しようと夜中に自動録画された映像を遡って再生していった、夜中の3時半まで遡ると、嗚呼。そこには恐れていた映像があった。2年前の悪夢再び。アライグマが巣を襲っていたのだ。
12羽のヒナたちは母鳥と一緒に、狭い巣箱の中でくっ付き合って眠っていた。突然、何かの危険を察した母鳥が頭を上げる。そして、大声でギャーギャーと鳴き始めた。でも、ヒナたちはどうすることもできない。アライグマの手が巣箱の中に入って来て、1羽のヒナを掠め取った。緊迫感がカメラ越しに伝わって来る。かわいそうで見ているのが辛い。アライグマは1羽、また1羽とヒナたちをさらっていく。しばらくして、お腹がいっぱいになったのだろうか。それ以上、巣箱の中に手が伸びることはなかった。かろうじて3羽のヒナが難を逃れた。
2年前に同様の映像を見たとき、あまりのショックに映像を二度と見返すことができなかった。ブログに映像をアップする気にも到底なれず、言葉で記録したのみだ。今回も辛いのは同じだけれど、営巣観察も今年で5年目。これまでにもいろいろなことがあり、自然とは過酷なものだと少しは受け入れることができるようになった。これも貴重な記録なので、ごく一部だけに留めるが、ここに載せておこうと思う。(閲覧注意:ショッキングな営巣が含まれます)
ヒナを守ることはできないと観念したのか、母鳥は途中で自分から巣を出て行った。残ったヒナは放棄されるのだろうかと思ったが、翌日には戻って来て、残った3羽の世話を健気に続ける姿が見られた。
3日後の5/20、3羽は無事に巣立つことができたので、私もホッとした。
振り返って考えると、多産作戦のおかげで少なくとも全滅は逃れたので、12個の卵を産んだのは正解だったということかもしれない。そして、アライグマ襲撃の最中に残ったヒナを置いて母鳥が逃げたのも、きっと賢い決断だったのだろう。いくらヒナが生き延びても、自分が死んでしまっては世話を続けることができない。そして、たとえ不幸にしてヒナが全滅してしまっても、自分が生きていればまた新たに子どもを産み育てることができる。
いろんなことを考えさせられる営巣観察である。来年はどんな様子が見られるだろうか。
ドイツの運河探検 その5 ドルトムント・エムス運河 〜 ヘンリーヒェンブルク船舶昇降機
ドイツの運河探検はひとまずこれが最終回。今回取り上げるのは1899年に完成したドルトムント・エムス運河。ルール地方のドルトムント港を起点とするこの運河は、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の造船都市パーペンブルクを通過し、エムス川と合流して北海へと流れ込む。ドイツの工業化を支えて来た超重要インフラの一つである。
この運河建設は、ドイツ帝国初の国家による大運河プロジェクトであった。19世紀末、ルール地方の石炭・鉄鋼産業が急拡大し、鉄道輸送だけでは追いつかないほどの物流量になったため、重工業地帯ドルトムントと輸出入拠点である北海の港を水路で直接つなぐ大計画がスタートした。
ドルトムント・エムス運河における見どころは、なんといってもドルトムント郊外のヴァルトロプ(Waltrop)にある船舶昇降機、Schiffshebewerk Henrichenburgだ。1970年まで稼働していたが、現在は産業遺産ミュージアムとなっている。
ヘンリッヒェンブルク船舶昇降機(Schiffshebewerk Henrichenburg)
これまたなんとも美しいクラシカルなデザイン。それもそのはず、この昇降機建設には水位差の効率的な克服という実用的な目的だけでなく、誕生してまだ間もなかったドイツ帝国を世界の工業列国の一員としてアピールする狙いがあった。そのため、昇降機の外観にも力を入れ、記念碑的なデザインが採用された。この昇降機の建設は、水運インフラ整備という国家プロジェクトの一環であると同時に、ドイツの近代化と技術力を世界に見せつける機会でもあり、落成式には皇帝ヴィルヘルム2世が首席し、自ら式典を主宰した。
昇降機は上って見学できる。
高低差はおよそ14.5m。
昇降機の上からドルトムント・エムス運河高水位側を眺める。
今度は昇降機の下に降りてみよう。
Trogと呼ばれる水槽の内部。この中を水で満たし、船を浮かせる。
船舶昇降機にはいくつかのタイプがあり、この昇降機は浮体式昇降機(Schwimmer-Hebewerk)である。どういう仕組みかというと、船を載せる水槽の下についた円筒型の浮き(Schwimmer)を使って船を上下させる。その他、この昇降機には設計者イェーベンスが考案した「スピンドル式水平保持」という、ねじ(スピンドル)で高さを微調整して船を水平に保つ仕組みがある。
昇降機の横にあるかつての機械室の建物は現在、展示室。
昇降機の模型
こちらは、当時、仕組みを説明するために作られた平面模型。各パーツは取り外し可能で、手動で動かせる。
展示によると、船舶昇降機は世界中に100機ほどしかないそうだ。そのうちのほとんどは、この昇降機のような船を垂直に上下させるタイプだが、斜面を引っ張り上げるタイプ(フランスのSaint-Louis Arzvillerの昇降機)や、変わったものだと回転式(スコットランドのFalkrik Wheel)もある。世界のいろんな昇降機を見てみたくなった。
ルール地方では、ドルトムント・エムス運河を皮切りに、リッペ運河、ライン=ヘルネ運河、ヴェーゼル=ダッテルン運河などが次々に建設され、高密度な水路ネットワークが形成された。戦争時には戦略物資の輸送ルートとしても重要視され、特にナチス時代には、これらの運河が国家レベルで整備・拡張され、不足する運河の労働力を補うために強制労働者が投入されたという事実もある。この辺り、調べ出すとまた別のテーマに展開しそうなので、ここでは深掘りしないでおく。
さて、商工機だけでなく、運河沿いにはいろいろなものがあって面白い。特に興味深く思ったのは、曳舟鉄道(Treidelbahn)というもの。ドルトムント・エムス運河が開通した頃には、まだ船にはエンジンが搭載されていなかった。運河では風や潮による流れもないので自走できず、陸からロープで引っ張って移動させる必要があった。運河沿いにレールを敷いて小型のディーゼル機関車で引いていたのだ。
Treidelbahnと呼ばれる小型の曳舟用機関車。
陸にはエンジンがあったのなら船にも搭載すればいいじゃない?と不思議に思ったが、その当時はまだ船に搭載できる小型で信頼性のあるエンジンは実用化されていなかったということのよう。それにしても、陸から船を引っ張るなんて、今では考えられない光景だなあ。それでも、それ以前には人力や馬力で引っ張っていたのだから、機関車を使えるようになっただけでも大進歩だったのだね。
昇開橋(Hubbrücke)もある。可動式の橋はいろんなタイプのものがあって、面白い。
1962年に完成した昇開橋(Hubbrücke)。船が下を通るときに橋桁全体が垂直に持ち上がる。
その他、貨物船船員の日常生活や現在のコンテナ輸送に関する展示もとても充実していていて、ゆっくり見るには2〜3時間必要。
ボートクルーズもあって、「乗って行きませんか?」と声をかけられたけれど、2時間のクルーズだということで残念ながら乗船できず。また今度!