昨日の記事では、ザクセン州東部にあるジオパーク、Findlingspark Nochtenを訪れたことについて書いた。

ジオパークを見学した後、せっかく家から2時間以上もかけてオーバーラウジッツ地方へ来たのだから、ついでに他のものも見て帰ろうと、ジオパークの売店に置いてある観光案内チラシを漁っていて、面白そうなものを発見した。

 

Forum Konrad-Wachsmann-Haus

 

コンラート・ヴァックスマンはユダヤ人の建築家で、モダニズム木造建築のパイオニアである。日本では、英語読みのコンラッド・ワックスマンとして知られているようだ。

 

私の住むブランデンブルク州カプート村には米国に亡命する前の数年間、アルベルト・アインシュタインが夏を過ごした別荘、Einsteinhaus Caputhがあるが、その別荘はヴァックスマンが手がけたものだ。シンプルで機能的なデザインが印象的である。そのヴァックスマンが1927年に設計した住宅がオーバーラウジッツ地方のNieskyという町にあり、資料館として公開されているというのだ。

Nieskyという町は今までまったく聞いたことがなかった。しかし、ジオパークからおよそ25kmの地点とのことなので、行ってみることにした。

 

 

ヴァックスマンハウスの入り口の看板は地味で、うっかりすると見落としてしまいそうだ。

 

資料館入り口。アインシュタインの別荘と似た、シンプルなデザインである。

 

3階建ての内部の1階及び2階が展示室として公開されている。

 

展示内容はとても興味深い。コンラート・ヴァックスマンはフランクフルト・アン・デル・オーダー出身のユダヤ系ドイツ人で、木工職人の時期を経て建築家になった。大学を卒業後、Nieskyの木造建築会社、Christoph & Unmackに就職する。Christoph & Unmack社は設立当初、軍事用のバラックを建設していたが、その後一般住宅を手がけるようになり、Niesky市内に多くのモデルハウスを建てた。ワイマール時代には木造家屋が新しいスタイルの住宅として注目されたという。現在、資料館となっているこの家はヴァックスマンがChristoph & Unmack社の重役のために設計したもの。

その後同社を退社して独立したヴァクスマンはモダニズム木造建築のパイオニアとして名を馳せるようになるが、1941年、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アインシュタインの助けを借りて米国に亡命。米国で、同じくユダヤ人亡命者でバウハウスの初代校長だったヴァルター・グロピウスと共にPackaged House Systemと呼ばれたパネルシステムの組み立て住宅のコンポーネント製造工場を創立した。このシステムは専門技術を持たない労働者5人が9時間で組み立てることができるというもので、当時の建築業界に大きなイノベーションをもたらした。

 

資料館に展示されているヴァックスマンとアインシュタインのツーショット。カプートのアインシュタインの家のテラスで撮影されたとみられる。

 

これはドイツの伝統的な木造建築である木組みの家の模型。ドイツの建築物としては一般にこちらの方がよく知られているのではないだろうか。

 

そしてこれがヴァックスマンのパネルシステム。

 

3階の階段踊り場から2階を見下ろしたところ。

 

第二次世界大戦後は石造りの家が一般的となり、木造建築はしばらく隅に追いやられていたが、近年、エコロジーの観点から再び見直されている。

 

 

この資料館を見ただけでもNieskyへ来た甲斐があったのだが、話はそこで終わらなかった。Nieskyにはワイマール時代に建てられた木造建築が100棟以上も残っているという。当時、Nieskyはモダニズム建築のモデルシティとされていたそうだ

聞いたこともなかったポーランドとの国境近くのこの小さな町が 、そんな面白い町だったとは!街並みを見ずに帰るわけにはいかない。町の中心部にはNiesky Museumという博物館もあるのだが、こちらは残念ながらもう閉まっていたので、ヴァックスマンハウスでコピーして貰ったマップを片手にモデルハウスを見て回ることにする。

 

おおー!これが戦前のモデルハウスだったのか。かっこいい。

 

なかなかの豪邸である。これらの家には現在も人が住んでいるのだ。

 

教会も木造。

 


家のデザインは一つ一つ違い、ディテールが凝っている。

なんという素敵な窓。

 

 

 

木造住宅がずらあ〜っと並ぶ通り。こんな面白いものが見られるとは期待していなかったので大興奮であった。一枚一枚写真を撮っているとキリがないのでカメラに収めるのはこのくらいにしておいたが、建物を見て歩くのが楽しくてたまらない。

 

気ままなドライブ旅行の楽しみは、思いもよらなかったものに遭遇するチャンスがあることだ。常にインターネットを駆使して面白そうなスポットを探している私だが、ここは検索で見つけることができなかった。掘り出し物を見つけた気分で今週末は大満足である。

 

 

まにあっくドイツ観光、今週末はザクセン州東部、オーバーラウジッツ地方にあるFindlingspark Nochtenへ行って来た。

Findlingsparkとは何か。日本語に訳すと「迷子石公園」となる。迷子石とはなんぞやと思う人もいるかもしれない。実は私も数年前まで、「迷子石」という言葉もドイツ語の「Findling」も知らなかった。

 

まいごいし【迷子石 erratics】

捨子石(すてごいし)ともいう。氷河によって運搬された岩石塊が,氷河の溶けたあとにとり残されたもの。ヨーロッパやアメリカでは氷河時代に運ばれた岩石塊が数百kmも離れた所に見られる。特定の地域にしか産しない岩石の迷子石を追跡調査し,その分布状況から氷河時代の氷床の拡大方向が推察できる。【村井 勇】世界大百科事典第2版

 

そう、ドイツでは氷河時代にスカンジナビア半島から運ばれて来た岩石があちこちに見られるのだ。特に旧東ドイツの褐炭採掘が盛んな地域では、地面を掘り起こすと迷子石が大量に出て来る。小さなものは無数にあるが、巨石も少なくない。ドイツで見つかった迷子石で最大のものは大きさ200㎥、重さ550トンもある。地質学研究において迷子石は重要なもので、大きさが10㎥以上あるものはゲオトープとして保護することになっているが、大きな塊がゴロゴロ出て来るので、置き場に困り、邪魔といえば邪魔だ。そこで近頃は、その土地で産出された迷子石を利用したジオパークが作られ始めている。今日訪れたFindlingspark Nochtenは、ドイツ最大の迷子石公園だ。

コットブス市とゲルリッツ市の中間地点にあり、ポーランドとの国境が近い。

 

なかなか壮観である。2003年に開園した広さ20ヘクタールのこのジオパークには現在、およそ7000個の迷子石が配置されている。このような公園を作った背景には、褐炭採掘で荒れた土地を再生し環境を守ろうという意図や、ドイツ統一後に産業が廃れて人口が減少したこの地域を観光地にして活性化しようという目的もある。

 

公園の西側にあるこの丘は迷子石が流れて来たスカンジナビア半島をシンボライズしている。芝生の部分は海。

 

この図のように、スカンジナビアを覆っていた氷河がヨーロッパ大陸北部へと移動したときに一緒にもたらされ大陸のあちこちに置き去りにされたのが迷子石というわけである。

 

17億7000万年前の花崗岩。

 

斑岩。写真では大きさがよくわからないが、幅は30cmくらい。火山岩は地表に放出されたときに急激に冷え、ヒビが入って細かく砕けることが多いので、大きな塊は珍しい。(と、家に帰って来てから岩石の本で読んだ)

 

ミグマタイト。特殊な岩石らしいが、よくわからない。岩石に詳しい弟を連れて来られればよかったなあ。

 

丘のてっぺん。これは迷子石アート。地面のパイプは氷河が流れたルートを示している。

 

公園内には様々な植物が植えられ、季節ごとに違った表情が楽しめるようだが、たまたま今の季節はあまり花が咲いていなかった。

 

 

公園のすぐ向こうは褐炭発電所。なんだかすごい景色だ。

 

売店に売っていた石。私は宝石を身につけることにはほとんど興味がないが、石を眺めるのは好きである。ここにはフリントもあったので、ふとリューゲン島で見た広大なフリントフィールドを思い出した。それについても別の機会に書こうと思う。

 

このジオパークは現在のところはまだ観光客もそれほど多くはなく、静かに散策することができる。東ドイツの良いところは、観光地がまだ飽和しておらず、のんびりと見て回れることだ。また、10年後、20年後にはどう発展しているかなと想像する楽しみもある。このジオパークもまだ完成形ではない。今後より充実して行くだろう。

 

エコツーリズムも楽しいが、ジオツーリズムも興味深い。世界のいろんなジオパークを訪れてみたい。ジオパークに関心のある方は、こちらの記事も是非読んでみてください。

 

 

 

先週の日曜日はまさに行楽日和だった。ようやく屋外の観光スポットを思う存分楽しめる季節が到来した。そこで、今回はベルリン中心部から北東へ約70kmの地点にあるニーダーフィノウ船舶昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)へ行って来た。

ニーダーフィノウ船舶昇降機は、オーデル・ハーフェル運河に建設された高架エレベーターである。1934年に建設され、現在も年間約2万隻の船が通過する旧船舶昇降機と、そのすぐ横に建設中の新船舶昇降機の二つがある

手前の構造物が旧船舶昇降機で、向こうに見えるのが新船舶昇降機。見学できるのは稼働中の旧昇降機だが、巨大過ぎて、近くからでは全体像を撮影できなかった。運河側から見ると、こんな感じ

昇降機の上部に展望台が設けられており、船が乗り降りするところを眺めることができる。

展望台から運河を見下ろす。

船が昇降機に乗り込んだ。まもなくエレベーターが動き出し、船台が上がって来る。

上に到着。

ゲートが開いて、船が向こうに出て行く。

これは反対側から撮った写真。旧昇降機の高さは地上52メートルで、吊り上げ高さは36メートルである。現在も動いている中ではドイツ最古だそう。この巨大な船舶昇降機が船を乗せて上り下りする様子は圧倒的で、眺めていると飽きないのだが、いつまでも見ていてもキリがないので、降りてビジターセンターを見学することにした。

建設中の新ニーダーフィノウ船舶昇降機についての展示と、ドイツにおける水上交通の説明がビジターセンターの主な内容だ。

ドイツにおいては内陸水運は非常に重要な役割を果たしている。ドイツ国内の内陸水路の長さはおよそ7400kmにも及び、EU内の内陸水路の1/4以上を占める。水路による輸送はトラックや鉄道による輸送に比べ消費エネルギー量がずっと少なく済み、騒音もほとんどない。運ぶ貨物に適した船に最初から貨物を積み込むので、途中で積み替えをする必要がないというメリットもある。エコな輸送手段として、その重要性が広く認識されている。

旧ニーダーフィノウ船舶昇降機は建設から80年近くが経過しているとは思えないほど立派に見えるが、それなりに老朽化しており、また、キャパシティの面でも不十分となった。産業記念碑に指定されているため、工事で拡充することができない。そのため、現在、新しい昇降機が建設されているというわけである。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

船舶昇降技術にもいろいろな種類があるようだ。一番上のタイプは大容量の水を汲み出したり汲み入れたりして水位を調節し、船を上げ下げするのでエネルギー消費量が高い。2番目のタイプは何段階かに分けて昇降する仕組み。3番目は斜面を引っ張り上げるタイプ。ニーダーフィノウの昇降機は新旧とも4つめのタイプで、少量の水の入った船台を丸ごと引っ張り上げる。

(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)

こういう要領。

新昇降機の注水済み船台の重量は9800トンにもなるので(旧昇降機では4290トン)、故障時に船台が船舶もろとも墜落しないよう、このようなボルトで船台を緊急ロックして固定する。

ニーダーフィノウ船舶昇降機周辺はバリアフリーに設計されており、展望台へはスロープで上がるので、車椅子利用者も楽に見学できる。遊覧船に乗って昇降機を実際に上るツアーもあり、楽しそうだった。

また、周辺は自然が美しく、近くに動物園、Zoo Eberswaldeもあるので、小さな子どもを連れてのレジャーにもぴったりだ。

 

ミュージアムおたくの私は、周辺にあるミュージアムはしらみつぶしに行くことにしているのだが、首都圏に住んでいるため数が多く、制覇にはまだほど遠い。

今日はベルリン、シュテーグリッツ地区にあるDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)へ行ってみた。このミュージアムはJohann-August-Zeune-Schuleという盲学校の敷地内にある。会館時間は毎週水曜午後(15-18時)と第一日曜11時のガイドツアーのみで、防災上、一度に10人までしか見学できない。

 

 

盲学校の敷地に入ると、ちょうど下校時間だったようで杖を持った学生が保護者に付き添われて出て来た。保護者の方に「何かお探しですか?」と聞かれたので、「ミュージアムを見学したいのですが」と答えると、「こちらですよ」と赤レンガの別棟に案内してくれた。

 

入り口はこのように目立たない。2階(日本でいう3階)がミュージアムである。

 

階段を上がってドアを開け、フロアに入ったが、受付が見当たらない。キョロキョロしていると、視覚障害者と思われる男性が事務室から出て来て、「見学にいらっしゃったのですか?どうぞ見て行ってください。何か質問があれば、遠慮なく声をかけてくださいね。ご説明しますよ」と言ってくれた。入館は無料(寄付ベース)だとのこと。さっそく一人で展示を見ることにした。

 

このDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)の歴史は思いのほか、長い。1891年に盲人教育の歴史的資料館として、また最新の教材の発表及びテストのための場として設立された。当時、この地区にはプロイセン王国の王立盲人施設があったが、教育の内容は点字の学習と手作業の習得という限定的なものだった。ここで学んだユダヤ人女性、ベティ・ヒルシュが後に教師となり、戦争で失明した人々の社会復帰のための学校を開設し、ドイツにおいて視覚障害者が様々な知的職業に就く道を拓いたとのことである。

 

展示の内容は主に点字の発達とその使われ方、視覚障害者のコミュニケーション手段についてだった。現在、ドイツで、そして世界的に広く使用されている点字はブライユ式点字だが、これは横2つ縦3つの合計6つの点の配置で文字を表すものだ。

 

釘のようなものを穴に差し込み点字を打つ道具。

 

古い点字タイプライター。

 

現在、ドイツには8200万人の総人口に対し、およそ110万人の弱視者、約16.5万人の全盲の人がいる。

 

比較的早い時期から始まったように見えるドイツの視覚障害者教育だが、ナチスの時代には視覚障害者は酷い差別にさらされた。Rassenkunde(人種学)という授業で、目の見えない子ども達は以下のような頭部の模型を手で触れることで人種の違いを学んだ。

 

しかし、この授業の目的は異なる人種が存在することを知るだけではなく、視覚障害者は遺伝的に「劣って」おり、子孫を作らないように不妊手術を受けなければならないと納得させるためのものでもあったという。盲学校の生徒達は学校の敷地内ではヒトラーユーゲントの制服を着用することが許されたが、敷地内に出ることはできず、ヒトラーユーゲントに実際に参加することは禁じられていた。(ドイツで博物館を訪れるということは、ドイツの過去を学ぶということでもあり、どんなテーマについての展示を見ていてもほぼ必ず「ナチスの時代には」が出て来る。避けて通ることはできないのだと毎回、感じる)

 

展示物を眺めていたら、ミュージアムの人が室内に入って来た。

「もうすぐガイドツアーが始まりますが、参加されますか?」

今日はツアーはないと思っていたのだが、学生のグループがツアーに申し込んでいるとのこと。喜んで飛び入り参加させてもらうことにした。ガイドさんは先ほどの視覚障害者の方だった。

 

このツアーはとても面白かった!

 

ガイドさんにブライユ式点字について説明してもらい、実際に点字を打ってみた。

展示室はインタラクティブで、いろいろな体験ができるようになっている。右の机では点字盤で点字を打つ練習ができる。

2枚になった板の間に紙を挟み、針のような道具で枠の中に点を打っていく。注意しなければならないのは、アルファベット文字に当たる点を反転させて(つまり裏返して)打たなければならないことだ。紙が出っ張った方が表面になるので、打ち終わった後に紙をひっくり返すのである。私は自分のフルネームを打ったのだが、新しい文字を習うような感じでなんとなく楽しく、つい夢中になってしまった。

 

次に、点字タイプライターも打たせてもらった。点字盤では一つ一つ穴を打ち込んでいくが、タイプライターの場合、一文字ごとに複数のキーを同時に押すので、なかなか難しい。

 

これは、Mensch ärgere dich nichtという名前のドイツの定番ボードゲームの点字バージョン。目隠しをしてやってみる。難しくてすぐにギブアップ。

 

点字つきのスクラブルゲームやその他のゲーム。

 

見学者の一人が「点字の本を読むのって、時間がかかるのですよね?1ページをどのくらいの速度で読むことができるのですか?」と質問すると、ガイドさんは「競争してみましょうか?」と笑って、壁から大きな点字の本を取り出し、別の棚からハリー・ポッターの1巻(普通の本)を出して質問者に手渡した。

「あなたはこれを、私は点字バージョンを段落ごとに交代で読みましょう」

最初にガイドさんが両手でページを触りながら読み始めたのだが、速いっ!!!質問者の番になると、彼も負けじと速読みしていた。

 

事務室では点字ディスプレイつきのガイドさんのパソコンも見せてもらった。

 

ここまででもたっぷり1時間の説明を受けていたのだが、ガイドさんはノリノリで、「まだまだいろんなグッズがありますよ〜」と、生活の中で視覚障害者が使用する様々なものを見せてくれた。色を識別する道具やコインやお札の種類を識別するプラスチックのカード、視覚障害者用の時計、便利なスマホアプリなど。ガイドさんのお気に入りアプリは、最新映画の音声ガイドがダウンロードできるGRETA。スマホとイヤフォンがあれば、晴眼者の友達や家族と映画館で一緒に最新映画を楽しむことができる。いろいろなものがあるのだなと思った。

とはいえ、視覚障害者が得られる情報はやはり限られている。現在、ドイツ全国には8700の図書館があるが、点字図書館はわずか8箇所だけである。毎年フランクフルトで開催される本の見本市で出品される点字の本もわずか500タイトルだという。また、家庭用電化製品はボタンで操作するのではなく、ディスプレーのタッチメニューで操作するものが増えて来ており、視覚障害者にとっては不便だそうだ。

そして意外なことに、視覚障害者のうち、点字が読める人はわずか2割だという。生まれつき、または幼少時に見えなくなった人は点字を習得するが、高齢になってから失明した場合、点字を覚えるのは困難で、指先の感覚も子どものように鋭くない。

 

このように興味深いお話がいろいろ聞け、また実際に体験もできて満足した。大学生たちも「すごく面白かった!」と喜んでいた。

 

目の不自由な人と聞くと、いつも思い出すことがある。私がケルン大学で勉強していた頃、インドネシア語のクラスにMさんという視覚障害者の学生がいて、いつも点字タイプライターでノートを取っていた。授業のときに一度だけ、短いお喋りをしたことがあった。

あるとき、キャンパスを歩いていると、遠目にMさんが見えたので、「あ、Mさんだ!」と思い、駆け寄って話しかけようとしたのだが、次の瞬間に「話しかけても、Mさんは私が誰だかわからないにちがいない」と思って声をかけるのを躊躇してしまった。「インドネシア語のクラスで一緒だ」と言っても私の顔を見たことがないのだし、声も覚えていないのではないか。声をかけたら戸惑ってしまうのではないかと思ってしまったのだ。それで声をかけられなかったのだが、そのときのことがずっと引っかかっていて、「なぜ、あのとき声をかけなかったんだろう。クラスメイトなのに」と心残りである。

 

今日は少し、視覚障害者の人たちの日常について知ることができてよかった。

 

マニアックな観光スポットを発掘する旅、エアフルト編ではダークツーリズム・スポットの紹介が続いたが、〆はゆるいテーマで。最後に訪れたのは、世界最古のサボテン農園、Kakteen Haageである。

この農園はベルリン在住のフォトグラファー、豊田裕氏にお薦め頂いた。豊田さんはご興味の幅が広く、しかも掘り下げ方が凄い方なのだ。エアフルトに行くと話したら、「すごいサボテン農園があるから、行ってみたら?ドイツ最古で、品揃えも随一だよ」とアドバイスをくださった。そんなマニアックな農園があると聞いたら、行くしかない。

「まわりには何もないよ」とは聞いていたが、確かに中心部からはちょっと外れたところにある。今回は車だったのでよかった。

 

 

意外と地味。

10時開店なのだが、30分も早く着いてしまった。朝ごはんを食べていなかったので、まず何か食べてからと思ったけれど、まわりにはパン屋も見当たらず。しかたないので、そっと中を覗いてみた。

 

大きな温室が6棟ほど連なっているが、やっぱり地味な感じ。手前の温室のドアが開いていて、中に社員と思われるお兄さんがサボテンの手入れをしているのが見えた。

「すみません。開店は10時からですよね?」と聞くと、「そうですが、もう入っていただいても構いませんよ」と言ってくださった。

 

中は、期待通り、サボテンがずらぁ〜〜〜〜〜〜っ。こういう温室が6つも並んでいる。

 

この農園、Kakteen Haageの創業は、遡ること1685年!なんと300年以上も前である。180年ほど前からはサボテン栽培に特化している。サボテンは16世紀にスペインの航海者によってドイツにもたらされたとされる。Kakteen Haageが扱っているサボテンは3500種以上というから凄まじい。ドイツ国内はもちろんのこと、世界中からバイヤーが買い付けに来るらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これもサボテン!?

 

こんな大きな花を咲かせるサボテンもあるのだなあ。

 

Kakteen Haageはサボテンの栽培・販売を行っているだけでなく、近郊にサボテンミュージアムを持つ。また、オンラインのサボテンフォーラムでサボテンの世話の仕方などについて質問することもできる。オンラインショップでは、サボテンの種や苗はもちろん、サボテン関連書、サボテンアートグッズなどを取り揃えている。まさに、サボテンのことならKakteen Haageに聞けという感じだ。見るだけでなく、サボテンを食べたい!という人は、サボテン・ディナーも予約できる。すごいね。

 

私も見ているうちに、いくつかサボテンを買って帰りたくなったが、トゲトゲしたものを長距離運ぶと厄介なことになりかねないので、残念だが、諦めることにした。

来る2017年5月13日(土)は、Kakteen Haageのオープンデーで、サボテンソーセージも食べられる。もうエアフルトから家に帰って来てしまったので、試食できなくて残念だ。

 

しかし、エアフルトまで行けなくても、サボテンの世界を楽しむことはできる。今月14 – 17日までベルリンの植物園では、サボテン祭りが開催される。こちらでもサボテンが食べられるらしいよ。

 

 

 

エアフルトでは、ユダヤ教徒の歴史を知ることができるシナゴーグや、シュタージの反対分子収容所を見学し、人権について考えさせられた。エアフルトに来る前に滞在したワイマールの郊外にはナチスが建設したブーヘンヴァルト強制収容所跡があり、そちらへも足を延ばしてみた。90分間のガイドツアーに参加したのだが、詳しい説明を聞くことができてとても為になった。私は過去にもベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所跡を見学したことがあるのだが、収容所の造りなどは互いに似通っている。また、両ミュージアムともブックショップが非常に充実していて、ホロコーストを中心とした関連文献が豊富に並べられている。

ダークツーリズム・スポットはこれまでにもいろいろ訪れているけれど、ナチスの強制収容所はあまりにも重く、辛すぎてとても写真を撮る気になれなかった。ブーヘンヴァルト強制収容所については、日本語でもたくさん情報があることと思うので、ここでは詳しくレポートしないが、次の観光スポットを紹介する前に一つだけ触れておくことがある。それは、ブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で使用されていた火葬炉は、エアフルトの会社、Topf & Söhneが作っていたということである。そして、この会社の跡地は、現在、資料館になっているのだ。

 

Topf & Söhne社のかつての敷地はエアフルトの駅のすぐ近く、線路沿いにある。

 

 

工場は解体され、現在残っているのは、当時オフィスだったこの建物のみ。この建物が資料館となっている。

 

Topf & Söhne社は、1878年に創立された家族企業で、創業時には主に産業用の燃焼炉を製造していた。第一次世界大戦中から軍需産業分野へ手を広げる。二代目のLudwig TopfとErnst Wolfgang Topf兄弟が経営トップに立ってからは、ナチスから強制収容所の火葬炉製造を受注するようになる。最初は近郊のブーヘンヴァルト強制収容所及びダッハウ強制収容所に納品していたが、後にはその他の強制収容所の設備も担当するようになり、最終的にはアウシュヴィッツ強制収容所の大規模な火葬炉やガス室の換気扇装置なども製造した。

 

ミュージアム内には受注書を始めとする多くの社内文書が展示されている。

 

この図面台で火葬炉が設計された。

 

この図のような火葬炉の実物をブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で見た。過酷な強制労働と劣悪な生活環境により命を落とした被収容者の遺体を処理するため、収容所の敷地に火葬場が設けられたが、遺体を焼く作業も被収容者が行っていたという。

 

アウシュヴィッツ強制収容所には第1〜第4火葬場までの4つの火葬場が建設された。第二火葬場では30分間に60体の遺体を同時に焼くことができた。つまり、24時間体制で炉を稼働させたと仮定すると、第2火葬場だけで、単純計算で1日2800体もの遺体を焼いたことになる。アウシュヴィッツでは合計で少なくとも110万人が命を落としたとされる。

 

 

灰をを入れる容器。

 

敗戦後、Topf兄弟は「納品した火葬炉が何に使われていたのか、知らなかった」と主張。軍事裁判中、Ludwig Topfは無罪を訴える遺書を残して服毒自殺した。Ernst Wolfgang Topfは証拠不十分として裁判が打ち切りになった後、Ludwigの死により手にした保険金の30万ライヒスマルクを持って西ドイツに逃亡。ヴィースバーデンでゴミの焼却事業を始めたが、1963年に会社は倒産 。1979年、74歳で亡くなっている。

 

Topf & Söhne社の敷地は2003年に記念物に指定され、2011年、ミュージアムとしてオープンした。同社に関する常設展示の他、私が行ったときには「キンダートランスポート」に関する特別展示をやっていた。「キンダートランスポート」とは、英国籍のドイツ系ユダヤ人、ニコラス・ウィントンがユダヤ人の子ども達をイギリスに疎開させ、強制収容所へ送られることから救った活動だ。

 

ミュージアム前には、解体前のTopf & Söhne社の工場モデルが設置されている。左側に見える棒状のものは敷地の横の線路を表している。

 

同社の火葬炉やガス室設備が送られていったそれぞれの強制収容所までの距離が印されている。