まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編の続き。
ブレーメンで落下塔を見学し、少し他の観光も楽しんだ後、予定通り、今回の旅のメインの目的地であるブレーマーハフェンへ向かった。ブレーマーハーフェンへ行こうと思ったのは、そこにあるという移民ミュージアム(Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)がどうしても見たかったからである。移民とはいっても、Auswandererというのは、ドイツに入って来た移民のことではない。ドイツから国外へ出て行った人たちを指す。
私は移民とか移住というテーマに以前からとても興味がある。なぜかというと、私は北海道移民の子孫で、また、自分自身も地球の裏側へ移住することになったから。そして、ドイツ人夫の一族も移住と深い関係がある。彼らのルーツは現在のポーランドである。夫の4世代前に一族の半分がポーランドを離れ、東ドイツに移住した。残りの半分は米国に移住してアメリカ人となった。東ドイツ移住組のうちの一部は第二次世界大戦後、西へ逃れて西ドイツ市民となった。そしてその西ドイツ組のうち、一人はフィリピン人と結婚し、もう一人は日本人と結婚した(←私の夫)。そして、最近、また別の一人がポーランド人と結婚することになり、ポーランドに引っ越した。
米国移住組は今ではすっかりアメリカ人となり、ドイツ語をまともに話せる人はもう数名しかいないらしい。彼らは今でもドイツの親族にクリスマスカードを送って来る。そして、家系図を作成して、製本したものを一冊送って来た。米国では自分たちのルーツに興味を持って調べる人が結構いるらしく、家系図作りはポピュラーな趣味であるとのことだ。
そんなわけで私にとって移住は身近なテーマで、「人はなぜ移住するのか」「人は移住した先でどのようにアイデンティティを確立または維持するのか」などに興味がある。移民文学などを読むのも大好きだ。だから、是非ともこのミュージアムを訪れたかった。

結論から言ってしまうが、とても興味深く、とてもよくできたミュージアムである。今まで数多くのミュージアムを見て来たが、間違いなくこれまで見た中で特に気に入ったミュージアムの一つ。
入り口でチケットを買おうとしたら、係員に「あなたのルーツはどこです?」と聞かれた。普段、そのようなことを聞かれることが滅多にないので、一瞬、何のことかと思ったが、出身国を聞いているのだなと気づき、「日本ですよ」と答えた。彼は「私はパレスチナです。もうドイツ人になりましたけれどね」と言った。
展示室の造りは凝っている。まず足を踏み入れるのは19世紀後半の乗船待合室である。そして、待合室を出ると、そこは埠頭だ。

1830年から1974年までの間にブレーマーハーフェンの港から720万人ものヨーロピアンが旅立った。人々が乗船を待つ様子がほぼ実物大に再現されている。

このミュージアムには300年間に渡るドイツ人の海外移住関する情報が集積されている。ドイツ人の主な移住先は、米国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア。キャビネットの引き出しにはブレーマーハフェン港から旅立った人々の情報が一人づつ入っている。また、それぞれの家族のオーラルストーリーを聴くことができる。

ずらーっとキャビネットが並んでいる。膨大な情報量。
彼らはなぜドイツを後にし、新天地を目指したのか。もちろん、理由は時代ごとに異なる。初期の理由は主に、職と権利を求めてだった。1840年代に飢饉が度重なったことや産業革命で多くの手工業者が職を失ったことなどから、より良い生活を求めて海外移住者が増え続け、1854年には24万人近くのドイツ人がブレーマーハフェンから出港している。1848年には労働者が労働・生活条件の改善を要求し三月革命が起きたことからわかるように、当時は人々の社会的不満も非常に大きかった。
1929年の世界恐慌も大量のドイツ人を海外へ送り出すこととなった。ナチス時代にはユダヤ人を中心に多くの政治難民が生まれ、そして第二次世界大戦後は強制労働者や囚人など、「displaced persons」と呼ばれる人たちがドイツの地を離れた。また、アメリカ的なライフスタイルに憧れ、いわゆるアメリカンドリームの実現を目指して旅立った人たちもいる。
キャビネットの並ぶ部屋を出ると、再び埠頭に出た。通路は乗船タラップに続いている。タラップを上がりきってハッとした。そこは船の中なのである。

なるほど。まるで自分も乗船して旅立つかのような気分にさせる展示なのだ。
船室の一つ一つが展示室となっている。ブレーマーハーフェン港から移民を運んだ初期の船は「ブレーメン号」という帆船だったが、当時は米国に着くまで6〜12週間もかかり、船内は快適とはとても言えず不衛生で、多くの病人が出た。1877年に蒸気船が登場し、航海は8〜15日に短縮され、いくらか楽になる。

蒸気船「Lahn」の船内の様子。
さらに、1929年には旅客船「コロンブス」が航行を開始し、わずか5日でニューヨークへ行けるように。

さて、船を降りると(船内の展示を見終わると)、そこは、、、。

入国審査!
1875年までは米国への移住は比較的簡単だったが、当然のことながら入国者が増えるにつれて厳しくなる。コンパートメントに座っている人たちはヘッドフォンで説明を聴いているだけなのだが、まるで審査を待つ人たちのように見えて、なんだかドキドキしてしまう。
無事入国(?)した後は新世界のオフィスで米国移民の様々な統計などが見られる。非常に面白くて熱心に見入っていたので、写真を撮るのを忘れてしまった。
展示はニューヨークのGrand Central Terminalを模した部屋に出ることで終わる。そこには米国に辿り着いた人たちのその後が紹介されていた。最初から豊かな生活を享受できた人はもちろんほとんどいない。誰しも初めのうちは非常に苦労したことが見て取れる。
ああ、良くできた展示だったな〜と余韻に浸ろうとしたのだが、これで終わりではなかった。展示室を出た途端、目に飛び込んできたのはこんな文字列である。

「Wilkommen in Deutschland ドイツへようこそ」
エッ? 今、ドイツを出て行ったのではなかったのか?と一瞬思い、次の瞬間にミュージアムの入り口で係員と交わした会話を思い出した。「あなたのルーツはどこ?」
そう、ドイツから多くの人が海外へ出て行っただけではない。ドイツへも多くの人が入って来たのだ。「移民」にはAuswanderer(流出者)とEinwanderer(流入者)の両方がいる。ここから先の展示は過去300年間にドイツへやって来た人々の歴史。つまり、もう一つの移民物語が始まるのである。
「ドイツはこれまで多くの移民を受け入れて来た。彼らなしに今のドイツはない」というような文面が展示の最初に書かれている。これにはドイツへ移住した者の一人として、ちょっとじ〜んと来てしまった。さらに、ドイツの憲法にあたるGrundgesetz(ドイツ基本法)の第3条3項が。
Niemand darf wegen seines Geschlechtes, seiner Abstammung, seiner Rasse, seiner Sprache, seiner Heimat und Herkunft, seines Glaubens, seiner religiösen oder politischen Anschauungen benachteiligt oder bevorzugt werden. Niemand darf wegen seiner Behinderung benachteiligt werden. (何人も、その性別、血統、人種、言語、故郷及び門地、信仰、宗教的ないし政治的見解を理由として、不利益を受け、または優遇されてはならない。)
さて、ここからはドイツにガストアルバイターと呼ばれる外国人労働者が多く流入した1970年代を彷彿させる空間が演出されている。そしてここでも、ドイツ移民の展示と同じように、ドイツにやって来たさまざまなルーツを持つ移民のライフストーリーを見ることができる。ドイツにおける移民の歴史は古くはスペインでの迫害から逃れてユダヤ人がドイツへやって来たことに遡る。その後はユグノー教徒の受け入れ、近隣諸国からのガストアルバイターの受け入れ、そして定住したガストアルバイターの親族の流入や様々な紛争地からの難民受け入れなど、非常に多様だ。

「外国人局」を模した展示室のファイルキャビネット。日本人を含めた外国人にとって外国人局に行くというのは楽しいことではない。なにしろ、滞在許可がかかっているのだ。ここでもまたドキドキしてしまった。

ドイツ国籍を取得すると貰える証書。
移民に関する様々な統計の他、ムスリム女性のスカーフ着用や二重国籍など移民にまつわる社会議論に関する情報が展示されている。ドイツは基本的には二重国籍を認めていないが、例外もあり、事実上の二重国籍状態になっている人の数は現在200〜450万人と推定されているそうだ。
このミュージアムでは、移民を交えたディスカッションなどの催しを行っており、移民に関するアンケートに答えるコーナーや報道番組を制作するスタジオもある。さらには、海外へ移住したドイツ人先祖について情報を検索できるデータバンクが公開されている。大変内容が充実していて素晴らしい。
このミュージアムを見学して思ったことは、「人は移動する」ということだ。生まれ育った国を離れる人はマジョリティではないが、そこの暮らしにどうしても希望が持てなければ、人は他に生活の場所を見つけようとする。そして、自らの意思で移住した人は、「移住して良かった」と思えるように努力するものだ。移民問題はもともとその社会のメンバーである人たち、つまり受け入れる側の視点から議論されることが多いが、生まれ育った国にずっと住んでいる人達も、ずっとそこにいることは当たり前のことではない。彼らも社会状況によっては移住しなければならなくなるかもしれない。つまり、今まで移住しなければならない理由がなかったというだけのことで、誰でも移民になり得るということ。
いろんなことを考えさせられた。行って良かったと強く思えるミュージアムである。
人はなぜ移住するのか。ブレーマーハーフェンのドイツ移民ミュージアム(Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)
まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編の続き。
ブレーメンで落下塔を見学し、少し他の観光も楽しんだ後、予定通り、今回の旅のメインの目的地であるブレーマーハフェンへ向かった。ブレーマーハーフェンへ行こうと思ったのは、そこにあるという移民ミュージアム(Deutsches Auswandererhaus Bremerhaven)がどうしても見たかったからである。移民とはいっても、Auswandererというのは、ドイツに入って来た移民のことではない。ドイツから国外へ出て行った人たちを指す。
私は移民とか移住というテーマに以前からとても興味がある。なぜかというと、私は北海道移民の子孫で、また、自分自身も地球の裏側へ移住することになったから。そして、ドイツ人夫の一族も移住と深い関係がある。彼らのルーツは現在のポーランドである。夫の4世代前に一族の半分がポーランドを離れ、東ドイツに移住した。残りの半分は米国に移住してアメリカ人となった。東ドイツ移住組のうちの一部は第二次世界大戦後、西へ逃れて西ドイツ市民となった。そしてその西ドイツ組のうち、一人はフィリピン人と結婚し、もう一人は日本人と結婚した(←私の夫)。そして、最近、また別の一人がポーランド人と結婚することになり、ポーランドに引っ越した。
米国移住組は今ではすっかりアメリカ人となり、ドイツ語をまともに話せる人はもう数名しかいないらしい。彼らは今でもドイツの親族にクリスマスカードを送って来る。そして、家系図を作成して、製本したものを一冊送って来た。米国では自分たちのルーツに興味を持って調べる人が結構いるらしく、家系図作りはポピュラーな趣味であるとのことだ。
そんなわけで私にとって移住は身近なテーマで、「人はなぜ移住するのか」「人は移住した先でどのようにアイデンティティを確立または維持するのか」などに興味がある。移民文学などを読むのも大好きだ。だから、是非ともこのミュージアムを訪れたかった。
結論から言ってしまうが、とても興味深く、とてもよくできたミュージアムである。今まで数多くのミュージアムを見て来たが、間違いなくこれまで見た中で特に気に入ったミュージアムの一つ。
入り口でチケットを買おうとしたら、係員に「あなたのルーツはどこです?」と聞かれた。普段、そのようなことを聞かれることが滅多にないので、一瞬、何のことかと思ったが、出身国を聞いているのだなと気づき、「日本ですよ」と答えた。彼は「私はパレスチナです。もうドイツ人になりましたけれどね」と言った。
展示室の造りは凝っている。まず足を踏み入れるのは19世紀後半の乗船待合室である。そして、待合室を出ると、そこは埠頭だ。
1830年から1974年までの間にブレーマーハーフェンの港から720万人ものヨーロピアンが旅立った。人々が乗船を待つ様子がほぼ実物大に再現されている。
このミュージアムには300年間に渡るドイツ人の海外移住関する情報が集積されている。ドイツ人の主な移住先は、米国、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、オーストラリア。キャビネットの引き出しにはブレーマーハフェン港から旅立った人々の情報が一人づつ入っている。また、それぞれの家族のオーラルストーリーを聴くことができる。
ずらーっとキャビネットが並んでいる。膨大な情報量。
彼らはなぜドイツを後にし、新天地を目指したのか。もちろん、理由は時代ごとに異なる。初期の理由は主に、職と権利を求めてだった。1840年代に飢饉が度重なったことや産業革命で多くの手工業者が職を失ったことなどから、より良い生活を求めて海外移住者が増え続け、1854年には24万人近くのドイツ人がブレーマーハフェンから出港している。1848年には労働者が労働・生活条件の改善を要求し三月革命が起きたことからわかるように、当時は人々の社会的不満も非常に大きかった。
1929年の世界恐慌も大量のドイツ人を海外へ送り出すこととなった。ナチス時代にはユダヤ人を中心に多くの政治難民が生まれ、そして第二次世界大戦後は強制労働者や囚人など、「displaced persons」と呼ばれる人たちがドイツの地を離れた。また、アメリカ的なライフスタイルに憧れ、いわゆるアメリカンドリームの実現を目指して旅立った人たちもいる。
キャビネットの並ぶ部屋を出ると、再び埠頭に出た。通路は乗船タラップに続いている。タラップを上がりきってハッとした。そこは船の中なのである。
なるほど。まるで自分も乗船して旅立つかのような気分にさせる展示なのだ。
船室の一つ一つが展示室となっている。ブレーマーハーフェン港から移民を運んだ初期の船は「ブレーメン号」という帆船だったが、当時は米国に着くまで6〜12週間もかかり、船内は快適とはとても言えず不衛生で、多くの病人が出た。1877年に蒸気船が登場し、航海は8〜15日に短縮され、いくらか楽になる。
蒸気船「Lahn」の船内の様子。
さらに、1929年には旅客船「コロンブス」が航行を開始し、わずか5日でニューヨークへ行けるように。
さて、船を降りると(船内の展示を見終わると)、そこは、、、。
入国審査!
1875年までは米国への移住は比較的簡単だったが、当然のことながら入国者が増えるにつれて厳しくなる。コンパートメントに座っている人たちはヘッドフォンで説明を聴いているだけなのだが、まるで審査を待つ人たちのように見えて、なんだかドキドキしてしまう。
無事入国(?)した後は新世界のオフィスで米国移民の様々な統計などが見られる。非常に面白くて熱心に見入っていたので、写真を撮るのを忘れてしまった。
展示はニューヨークのGrand Central Terminalを模した部屋に出ることで終わる。そこには米国に辿り着いた人たちのその後が紹介されていた。最初から豊かな生活を享受できた人はもちろんほとんどいない。誰しも初めのうちは非常に苦労したことが見て取れる。
ああ、良くできた展示だったな〜と余韻に浸ろうとしたのだが、これで終わりではなかった。展示室を出た途端、目に飛び込んできたのはこんな文字列である。
「Wilkommen in Deutschland ドイツへようこそ」
エッ? 今、ドイツを出て行ったのではなかったのか?と一瞬思い、次の瞬間にミュージアムの入り口で係員と交わした会話を思い出した。「あなたのルーツはどこ?」
そう、ドイツから多くの人が海外へ出て行っただけではない。ドイツへも多くの人が入って来たのだ。「移民」にはAuswanderer(流出者)とEinwanderer(流入者)の両方がいる。ここから先の展示は過去300年間にドイツへやって来た人々の歴史。つまり、もう一つの移民物語が始まるのである。
「ドイツはこれまで多くの移民を受け入れて来た。彼らなしに今のドイツはない」というような文面が展示の最初に書かれている。これにはドイツへ移住した者の一人として、ちょっとじ〜んと来てしまった。さらに、ドイツの憲法にあたるGrundgesetz(ドイツ基本法)の第3条3項が。
さて、ここからはドイツにガストアルバイターと呼ばれる外国人労働者が多く流入した1970年代を彷彿させる空間が演出されている。そしてここでも、ドイツ移民の展示と同じように、ドイツにやって来たさまざまなルーツを持つ移民のライフストーリーを見ることができる。ドイツにおける移民の歴史は古くはスペインでの迫害から逃れてユダヤ人がドイツへやって来たことに遡る。その後はユグノー教徒の受け入れ、近隣諸国からのガストアルバイターの受け入れ、そして定住したガストアルバイターの親族の流入や様々な紛争地からの難民受け入れなど、非常に多様だ。
「外国人局」を模した展示室のファイルキャビネット。日本人を含めた外国人にとって外国人局に行くというのは楽しいことではない。なにしろ、滞在許可がかかっているのだ。ここでもまたドキドキしてしまった。
ドイツ国籍を取得すると貰える証書。
移民に関する様々な統計の他、ムスリム女性のスカーフ着用や二重国籍など移民にまつわる社会議論に関する情報が展示されている。ドイツは基本的には二重国籍を認めていないが、例外もあり、事実上の二重国籍状態になっている人の数は現在200〜450万人と推定されているそうだ。
このミュージアムでは、移民を交えたディスカッションなどの催しを行っており、移民に関するアンケートに答えるコーナーや報道番組を制作するスタジオもある。さらには、海外へ移住したドイツ人先祖について情報を検索できるデータバンクが公開されている。大変内容が充実していて素晴らしい。
このミュージアムを見学して思ったことは、「人は移動する」ということだ。生まれ育った国を離れる人はマジョリティではないが、そこの暮らしにどうしても希望が持てなければ、人は他に生活の場所を見つけようとする。そして、自らの意思で移住した人は、「移住して良かった」と思えるように努力するものだ。移民問題はもともとその社会のメンバーである人たち、つまり受け入れる側の視点から議論されることが多いが、生まれ育った国にずっと住んでいる人達も、ずっとそこにいることは当たり前のことではない。彼らも社会状況によっては移住しなければならなくなるかもしれない。つまり、今まで移住しなければならない理由がなかったというだけのことで、誰でも移民になり得るということ。
いろんなことを考えさせられた。行って良かったと強く思えるミュージアムである。
ブレーメンにあるZARM微小重力実験設備、Fallturm(落下塔)を見学
5月の「まにあっくドイツ観光 テューリンゲン編」に続き、今度は同じく3泊4日で「まにあっくドイツ観光 北ドイツ編」を実行することにした。今回も一人旅である。最近、「どこへでも運転して行ける自分」になろうとトレーニング中なのだ。幸い、夫が運転を厭わないタイプなので、これまで国内外の様々な場所へ連れて行って貰ったが、これだけ旅好きを自称する自分が人を頼らないと行きたい場所に行けないという状態はどうなのだ?と思ったからである。
さて、今回はこれまでほとんど訪れたことのない北西ドイツに的を絞った。というのは、ブレーマーハフェンに是非とも見たいものがあったのだ。しかし、我が家からブレーマーハフェンまでは400kmも離れている。長距離ドライブに慣れていない自分にはけっこうな距離である。どこか途中に立ち寄れる面白い場所はないものかと検索したところ、ブレーマーハーフェンの手前に位置するブレーメンに大変マニアックなものがあることが判明。
それは、ブレーメン大学応用宇宙技術・微小重力センター(ZARM)の微小重力実験設備、Fallturm(落下塔)。
欧州唯一の落下塔であり、2ヶ月に一度、一般の人も見学が可能だという情報を見つけたのだ。そして、直近の見学日がなんとブレーマーハーフェンへ行く日の前日。これは絶対行くしかない!早速、問い合わせのメールを送る。直前の申し込みなのでもう定員一杯かもしれないとドキドキしたが、すぐに返信があり、見学できるとのこと。大変ラッキーだ。
見学は17:30からということだったので、昼頃に家を出発した。
往路は土砂降りだった。しかも、アウトバーンのあちこちが工事中で思ったよりもずっと長くかかり、ヘトヘトに。一体何故こんな思いをしてまで落下塔などというものを見に行こうとしているのかと思わないでもなかったが、ようやく現地に辿り着いたと思ったら、突然、雲が切れ始め、あっという間に青空が広がった。そして目の前には、、、、。
これが落下塔、Fallturmだ!見た瞬間に疲れが吹っ飛んでしまった。この白い塔は地元の人々にはBremer Spagel(ブレーメンの白アスパラ)の愛称で呼ばれているそうだ。
見学時間はたっぷり75分間。研究者の女性が案内してくれた。まず、塔を見る前に会議室に通され、そこでまず無重力状態についての説明を受ける。わかりやすく説明してくれるので、物理の専門知識がなくても大丈夫。いくつか簡単な実験をしながら無重力状態とはどういうことかについて学んだのち、落下塔の仕組みを説明してもらった。
ZARMの落下塔は1990年に建設された。高さは146m(実際の落下距離は110m)で、空気を抜いて真空にした塔内で落下カプセルを自由落下させると、地面に到達するまでの4.74秒間、カプセル内は微小重力状態(ほぼ無重力)となる。落下カプセルの中に実験物を入れて塔内を落下させることで、様々な無重力実験を行うことができる。さらにZARMは2004年、この落下塔にカタパルト装置を取り付け、カプセルを塔の下から一旦てっぺんまで打ち上げてまた落とすことにより微小重力状態を往復9秒間にまで延長した。
この落下塔を利用して国内外の研究チームが様々な分野の基礎研究を行っている。1日に最大3回の実験が可能で、年間の実験数は400〜450件。先にも述べたように欧州では唯一の施設のため、向こう1年間はすでに予約で一杯だとのこと。
一通りの説明の後、塔の内部を見せてもらう。
塔を囲むスペースに置かれた落下カプセル。大きい方は2mほど。この中に実験物を入れる。物理学だけでなく、化学や生物学などいろいろな分野の実験が無重力下で行われるのだ。
落下塔の下部。
これから中に入るところ。
円柱状のカタパルト装置でカプセルを上に開いた穴を通して塔の上まで飛ばす。
このワイヤーにぶら下がった状態でカプセルが落ちてくる。
この円盤部分に落下カプセルを取り付ける(今は取り外した状態)。落ちてきたカプセルが地面に到達したときに衝撃で破損して実験物がダメージを受けるのを回避するため、カプセル下部にはこちらのリンクの写真でわかるように円錐状のキャップを取り付ける。着地時に、床に置かれた発泡スチロールビーズの入った容器にキャップ先端が突っ込む仕組み。着地とともにビーズが飛び散ってカプセルを破損から守る。
床に散らばったビーズ。
ZARMが一般の人の落下塔見学を受け付けているのは、人々に基礎研究に対する興味を持ってもらい理解を得るためだけでなく、研究者の卵を育てる意図もある。この施設では政府の助成を受けた高校生の研究グループも独自の研究を行っているそうだ。
落下塔のてっぺんにはガラス張りのパノラマラウンジがあり、借り切ってパーティなどに使用できる。ブレーメンを見渡せるこの絶景ラウンジで、結婚式を挙げることもできる。
わずか8ユーロで滅多に見られないものを見れて嬉しかった。今後、無重力実験について耳にすることがあったら、この落下塔をすぐに思い出すだろう。
ワイマール時代の木造住宅が100棟以上残るモダニズム建築のモデルシティ、Nieskyとコンラッド・ワックスマン資料館
昨日の記事では、ザクセン州東部にあるジオパーク、Findlingspark Nochtenを訪れたことについて書いた。
ジオパークを見学した後、せっかく家から2時間以上もかけてオーバーラウジッツ地方へ来たのだから、ついでに他のものも見て帰ろうと、ジオパークの売店に置いてある観光案内チラシを漁っていて、面白そうなものを発見した。
Forum Konrad-Wachsmann-Haus
コンラート・ヴァックスマンはユダヤ人の建築家で、モダニズム木造建築のパイオニアである。日本では、英語読みのコンラッド・ワックスマンとして知られているようだ。
私の住むブランデンブルク州カプート村には米国に亡命する前の数年間、アルベルト・アインシュタインが夏を過ごした別荘、Einsteinhaus Caputhがあるが、その別荘はヴァックスマンが手がけたものだ。シンプルで機能的なデザインが印象的である。そのヴァックスマンが1927年に設計した住宅がオーバーラウジッツ地方のNieskyという町にあり、資料館として公開されているというのだ。
Nieskyという町は今までまったく聞いたことがなかった。しかし、ジオパークからおよそ25kmの地点とのことなので、行ってみることにした。
ヴァックスマンハウスの入り口の看板は地味で、うっかりすると見落としてしまいそうだ。
資料館入り口。アインシュタインの別荘と似た、シンプルなデザインである。
3階建ての内部の1階及び2階が展示室として公開されている。
展示内容はとても興味深い。コンラート・ヴァックスマンはフランクフルト・アン・デル・オーダー出身のユダヤ系ドイツ人で、木工職人の時期を経て建築家になった。大学を卒業後、Nieskyの木造建築会社、Christoph & Unmackに就職する。Christoph & Unmack社は設立当初、軍事用のバラックを建設していたが、その後一般住宅を手がけるようになり、Niesky市内に多くのモデルハウスを建てた。ワイマール時代には木造家屋が新しいスタイルの住宅として注目されたという。現在、資料館となっているこの家はヴァックスマンがChristoph & Unmack社の重役のために設計したもの。
その後同社を退社して独立したヴァクスマンはモダニズム木造建築のパイオニアとして名を馳せるようになるが、1941年、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アインシュタインの助けを借りて米国に亡命。米国で、同じくユダヤ人亡命者でバウハウスの初代校長だったヴァルター・グロピウスと共にPackaged House Systemと呼ばれたパネルシステムの組み立て住宅のコンポーネント製造工場を創立した。このシステムは専門技術を持たない労働者5人が9時間で組み立てることができるというもので、当時の建築業界に大きなイノベーションをもたらした。
資料館に展示されているヴァックスマンとアインシュタインのツーショット。カプートのアインシュタインの家のテラスで撮影されたとみられる。
これはドイツの伝統的な木造建築である木組みの家の模型。ドイツの建築物としては一般にこちらの方がよく知られているのではないだろうか。
そしてこれがヴァックスマンのパネルシステム。
3階の階段踊り場から2階を見下ろしたところ。
第二次世界大戦後は石造りの家が一般的となり、木造建築はしばらく隅に追いやられていたが、近年、エコロジーの観点から再び見直されている。

この資料館を見ただけでもNieskyへ来た甲斐があったのだが、話はそこで終わらなかった。Nieskyにはワイマール時代に建てられた木造建築が100棟以上も残っているという。当時、Nieskyはモダニズム建築のモデルシティとされていたそうだ。
聞いたこともなかったポーランドとの国境近くのこの小さな町が 、そんな面白い町だったとは!街並みを見ずに帰るわけにはいかない。町の中心部にはNiesky Museumという博物館もあるのだが、こちらは残念ながらもう閉まっていたので、ヴァックスマンハウスでコピーして貰ったマップを片手にモデルハウスを見て回ることにする。
おおー!これが戦前のモデルハウスだったのか。かっこいい。
なかなかの豪邸である。これらの家には現在も人が住んでいるのだ。
教会も木造。
家のデザインは一つ一つ違い、ディテールが凝っている。
なんという素敵な窓。
木造住宅がずらあ〜っと並ぶ通り。こんな面白いものが見られるとは期待していなかったので大興奮であった。一枚一枚写真を撮っているとキリがないのでカメラに収めるのはこのくらいにしておいたが、建物を見て歩くのが楽しくてたまらない。
気ままなドライブ旅行の楽しみは、思いもよらなかったものに遭遇するチャンスがあることだ。常にインターネットを駆使して面白そうなスポットを探している私だが、ここは検索で見つけることができなかった。掘り出し物を見つけた気分で今週末は大満足である。
氷河に運ばれた大量の迷子石が並ぶジオパーク、Findlingspark Nochten
まにあっくドイツ観光、今週末はザクセン州東部、オーバーラウジッツ地方にあるFindlingspark Nochtenへ行って来た。
Findlingsparkとは何か。日本語に訳すと「迷子石公園」となる。迷子石とはなんぞやと思う人もいるかもしれない。実は私も数年前まで、「迷子石」という言葉もドイツ語の「Findling」も知らなかった。
そう、ドイツでは氷河時代にスカンジナビア半島から運ばれて来た岩石があちこちに見られるのだ。特に旧東ドイツの褐炭採掘が盛んな地域では、地面を掘り起こすと迷子石が大量に出て来る。小さなものは無数にあるが、巨石も少なくない。ドイツで見つかった迷子石で最大のものは大きさ200㎥、重さ550トンもある。地質学研究において迷子石は重要なもので、大きさが10㎥以上あるものはゲオトープとして保護することになっているが、大きな塊がゴロゴロ出て来るので、置き場に困り、邪魔といえば邪魔だ。そこで近頃は、その土地で産出された迷子石を利用したジオパークが作られ始めている。今日訪れたFindlingspark Nochtenは、ドイツ最大の迷子石公園だ。
コットブス市とゲルリッツ市の中間地点にあり、ポーランドとの国境が近い。
なかなか壮観である。2003年に開園した広さ20ヘクタールのこのジオパークには現在、およそ7000個の迷子石が配置されている。このような公園を作った背景には、褐炭採掘で荒れた土地を再生し環境を守ろうという意図や、ドイツ統一後に産業が廃れて人口が減少したこの地域を観光地にして活性化しようという目的もある。
公園の西側にあるこの丘は迷子石が流れて来たスカンジナビア半島をシンボライズしている。芝生の部分は海。
この図のように、スカンジナビアを覆っていた氷河がヨーロッパ大陸北部へと移動したときに一緒にもたらされ大陸のあちこちに置き去りにされたのが迷子石というわけである。
17億7000万年前の花崗岩。
ミグマタイト。特殊な岩石らしいが、よくわからない。岩石に詳しい弟を連れて来られればよかったなあ。
丘のてっぺん。これは迷子石アート。地面のパイプは氷河が流れたルートを示している。
公園内には様々な植物が植えられ、季節ごとに違った表情が楽しめるようだが、たまたま今の季節はあまり花が咲いていなかった。
公園のすぐ向こうは褐炭発電所。なんだかすごい景色だ。
売店に売っていた石。私は宝石を身につけることにはほとんど興味がないが、石を眺めるのは好きである。ここにはフリントもあったので、ふとリューゲン島で見た広大なフリントフィールドを思い出した。それについても別の機会に書こうと思う。
このジオパークは現在のところはまだ観光客もそれほど多くはなく、静かに散策することができる。東ドイツの良いところは、観光地がまだ飽和しておらず、のんびりと見て回れることだ。また、10年後、20年後にはどう発展しているかなと想像する楽しみもある。このジオパークもまだ完成形ではない。今後より充実して行くだろう。
エコツーリズムも楽しいが、ジオツーリズムも興味深い。世界のいろんなジオパークを訪れてみたい。ジオパークに関心のある方は、こちらの記事も是非読んでみてください。
ベルリン近郊の見応えある観光スポット、ニーダーフィノウの新旧船舶昇降機
先週の日曜日はまさに行楽日和だった。ようやく屋外の観光スポットを思う存分楽しめる季節が到来した。そこで、今回はベルリン中心部から北東へ約70kmの地点にあるニーダーフィノウ船舶昇降機(Schiffshebewerk Niederfinow)へ行って来た。
ニーダーフィノウ船舶昇降機は、オーデル・ハーフェル運河に建設された高架エレベーターである。1934年に建設され、現在も年間約2万隻の船が通過する旧船舶昇降機と、そのすぐ横に建設中の新船舶昇降機の二つがある。
手前の構造物が旧船舶昇降機で、向こうに見えるのが新船舶昇降機。見学できるのは稼働中の旧昇降機だが、巨大過ぎて、近くからでは全体像を撮影できなかった。運河側から見ると、こんな感じ。
昇降機の上部に展望台が設けられており、船が乗り降りするところを眺めることができる。
展望台から運河を見下ろす。
船が昇降機に乗り込んだ。まもなくエレベーターが動き出し、船台が上がって来る。
上に到着。
ゲートが開いて、船が向こうに出て行く。
これは反対側から撮った写真。旧昇降機の高さは地上52メートルで、吊り上げ高さは36メートルである。現在も動いている中ではドイツ最古だそう。この巨大な船舶昇降機が船を乗せて上り下りする様子は圧倒的で、眺めていると飽きないのだが、いつまでも見ていてもキリがないので、降りてビジターセンターを見学することにした。
建設中の新ニーダーフィノウ船舶昇降機についての展示と、ドイツにおける水上交通の説明がビジターセンターの主な内容だ。
ドイツにおいては内陸水運は非常に重要な役割を果たしている。ドイツ国内の内陸水路の長さはおよそ7400kmにも及び、EU内の内陸水路の1/4以上を占める。水路による輸送はトラックや鉄道による輸送に比べ消費エネルギー量がずっと少なく済み、騒音もほとんどない。運ぶ貨物に適した船に最初から貨物を積み込むので、途中で積み替えをする必要がないというメリットもある。エコな輸送手段として、その重要性が広く認識されている。
旧ニーダーフィノウ船舶昇降機は建設から80年近くが経過しているとは思えないほど立派に見えるが、それなりに老朽化しており、また、キャパシティの面でも不十分となった。産業記念碑に指定されているため、工事で拡充することができない。そのため、現在、新しい昇降機が建設されているというわけである。
(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)
船舶昇降技術にもいろいろな種類があるようだ。一番上のタイプは大容量の水を汲み出したり汲み入れたりして水位を調節し、船を上げ下げするのでエネルギー消費量が高い。2番目のタイプは何段階かに分けて昇降する仕組み。3番目は斜面を引っ張り上げるタイプ。ニーダーフィノウの昇降機は新旧とも4つめのタイプで、少量の水の入った船台を丸ごと引っ張り上げる。
(Image: Besucherzentrum Schiffshebewerk Niederfinow)
こういう要領。
新昇降機の注水済み船台の重量は9800トンにもなるので(旧昇降機では4290トン)、故障時に船台が船舶もろとも墜落しないよう、このようなボルトで船台を緊急ロックして固定する。
ニーダーフィノウ船舶昇降機周辺はバリアフリーに設計されており、展望台へはスロープで上がるので、車椅子利用者も楽に見学できる。遊覧船に乗って昇降機を実際に上るツアーもあり、楽しそうだった。
また、周辺は自然が美しく、近くに動物園、Zoo Eberswaldeもあるので、小さな子どもを連れてのレジャーにもぴったりだ。
ドイツ盲人博物館(Deutsches Blinden-Museum)で点字体験
ミュージアムおたくの私は、周辺にあるミュージアムはしらみつぶしに行くことにしているのだが、首都圏に住んでいるため数が多く、制覇にはまだほど遠い。
今日はベルリン、シュテーグリッツ地区にあるDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)へ行ってみた。このミュージアムはJohann-August-Zeune-Schuleという盲学校の敷地内にある。会館時間は毎週水曜午後(15-18時)と第一日曜11時のガイドツアーのみで、防災上、一度に10人までしか見学できない。
盲学校の敷地に入ると、ちょうど下校時間だったようで杖を持った学生が保護者に付き添われて出て来た。保護者の方に「何かお探しですか?」と聞かれたので、「ミュージアムを見学したいのですが」と答えると、「こちらですよ」と赤レンガの別棟に案内してくれた。
入り口はこのように目立たない。2階(日本でいう3階)がミュージアムである。
階段を上がってドアを開け、フロアに入ったが、受付が見当たらない。キョロキョロしていると、視覚障害者と思われる男性が事務室から出て来て、「見学にいらっしゃったのですか?どうぞ見て行ってください。何か質問があれば、遠慮なく声をかけてくださいね。ご説明しますよ」と言ってくれた。入館は無料(寄付ベース)だとのこと。さっそく一人で展示を見ることにした。
このDeutsches Blinden-Museum(ドイツ盲人博物館)の歴史は思いのほか、長い。1891年に盲人教育の歴史的資料館として、また最新の教材の発表及びテストのための場として設立された。当時、この地区にはプロイセン王国の王立盲人施設があったが、教育の内容は点字の学習と手作業の習得という限定的なものだった。ここで学んだユダヤ人女性、ベティ・ヒルシュが後に教師となり、戦争で失明した人々の社会復帰のための学校を開設し、ドイツにおいて視覚障害者が様々な知的職業に就く道を拓いたとのことである。
展示の内容は主に点字の発達とその使われ方、視覚障害者のコミュニケーション手段についてだった。現在、ドイツで、そして世界的に広く使用されている点字はブライユ式点字だが、これは横2つ縦3つの合計6つの点の配置で文字を表すものだ。
釘のようなものを穴に差し込み点字を打つ道具。
古い点字タイプライター。
現在、ドイツには8200万人の総人口に対し、およそ110万人の弱視者、約16.5万人の全盲の人がいる。
比較的早い時期から始まったように見えるドイツの視覚障害者教育だが、ナチスの時代には視覚障害者は酷い差別にさらされた。Rassenkunde(人種学)という授業で、目の見えない子ども達は以下のような頭部の模型を手で触れることで人種の違いを学んだ。
しかし、この授業の目的は異なる人種が存在することを知るだけではなく、視覚障害者は遺伝的に「劣って」おり、子孫を作らないように不妊手術を受けなければならないと納得させるためのものでもあったという。盲学校の生徒達は学校の敷地内ではヒトラーユーゲントの制服を着用することが許されたが、敷地内に出ることはできず、ヒトラーユーゲントに実際に参加することは禁じられていた。(ドイツで博物館を訪れるということは、ドイツの過去を学ぶということでもあり、どんなテーマについての展示を見ていてもほぼ必ず「ナチスの時代には」が出て来る。避けて通ることはできないのだと毎回、感じる)
展示物を眺めていたら、ミュージアムの人が室内に入って来た。
「もうすぐガイドツアーが始まりますが、参加されますか?」
今日はツアーはないと思っていたのだが、学生のグループがツアーに申し込んでいるとのこと。喜んで飛び入り参加させてもらうことにした。ガイドさんは先ほどの視覚障害者の方だった。
このツアーはとても面白かった!
ガイドさんにブライユ式点字について説明してもらい、実際に点字を打ってみた。
展示室はインタラクティブで、いろいろな体験ができるようになっている。右の机では点字盤で点字を打つ練習ができる。
2枚になった板の間に紙を挟み、針のような道具で枠の中に点を打っていく。注意しなければならないのは、アルファベット文字に当たる点を反転させて(つまり裏返して)打たなければならないことだ。紙が出っ張った方が表面になるので、打ち終わった後に紙をひっくり返すのである。私は自分のフルネームを打ったのだが、新しい文字を習うような感じでなんとなく楽しく、つい夢中になってしまった。
次に、点字タイプライターも打たせてもらった。点字盤では一つ一つ穴を打ち込んでいくが、タイプライターの場合、一文字ごとに複数のキーを同時に押すので、なかなか難しい。
これは、Mensch ärgere dich nichtという名前のドイツの定番ボードゲームの点字バージョン。目隠しをしてやってみる。難しくてすぐにギブアップ。
点字つきのスクラブルゲームやその他のゲーム。
見学者の一人が「点字の本を読むのって、時間がかかるのですよね?1ページをどのくらいの速度で読むことができるのですか?」と質問すると、ガイドさんは「競争してみましょうか?」と笑って、壁から大きな点字の本を取り出し、別の棚からハリー・ポッターの1巻(普通の本)を出して質問者に手渡した。
「あなたはこれを、私は点字バージョンを段落ごとに交代で読みましょう」
最初にガイドさんが両手でページを触りながら読み始めたのだが、速いっ!!!質問者の番になると、彼も負けじと速読みしていた。
事務室では点字ディスプレイつきのガイドさんのパソコンも見せてもらった。
ここまででもたっぷり1時間の説明を受けていたのだが、ガイドさんはノリノリで、「まだまだいろんなグッズがありますよ〜」と、生活の中で視覚障害者が使用する様々なものを見せてくれた。色を識別する道具やコインやお札の種類を識別するプラスチックのカード、視覚障害者用の時計、便利なスマホアプリなど。ガイドさんのお気に入りアプリは、最新映画の音声ガイドがダウンロードできるGRETA。スマホとイヤフォンがあれば、晴眼者の友達や家族と映画館で一緒に最新映画を楽しむことができる。いろいろなものがあるのだなと思った。
とはいえ、視覚障害者が得られる情報はやはり限られている。現在、ドイツ全国には8700の図書館があるが、点字図書館はわずか8箇所だけである。毎年フランクフルトで開催される本の見本市で出品される点字の本もわずか500タイトルだという。また、家庭用電化製品はボタンで操作するのではなく、ディスプレーのタッチメニューで操作するものが増えて来ており、視覚障害者にとっては不便だそうだ。
そして意外なことに、視覚障害者のうち、点字が読める人はわずか2割だという。生まれつき、または幼少時に見えなくなった人は点字を習得するが、高齢になってから失明した場合、点字を覚えるのは困難で、指先の感覚も子どものように鋭くない。
このように興味深いお話がいろいろ聞け、また実際に体験もできて満足した。大学生たちも「すごく面白かった!」と喜んでいた。
目の不自由な人と聞くと、いつも思い出すことがある。私がケルン大学で勉強していた頃、インドネシア語のクラスにMさんという視覚障害者の学生がいて、いつも点字タイプライターでノートを取っていた。授業のときに一度だけ、短いお喋りをしたことがあった。
あるとき、キャンパスを歩いていると、遠目にMさんが見えたので、「あ、Mさんだ!」と思い、駆け寄って話しかけようとしたのだが、次の瞬間に「話しかけても、Mさんは私が誰だかわからないにちがいない」と思って声をかけるのを躊躇してしまった。「インドネシア語のクラスで一緒だ」と言っても私の顔を見たことがないのだし、声も覚えていないのではないか。声をかけたら戸惑ってしまうのではないかと思ってしまったのだ。それで声をかけられなかったのだが、そのときのことがずっと引っかかっていて、「なぜ、あのとき声をかけなかったんだろう。クラスメイトなのに」と心残りである。
今日は少し、視覚障害者の人たちの日常について知ることができてよかった。
ドイツ最古のサボテン農園、エアフルトのKakteen Haage
マニアックな観光スポットを発掘する旅、エアフルト編ではダークツーリズム・スポットの紹介が続いたが、〆はゆるいテーマで。最後に訪れたのは、世界最古のサボテン農園、Kakteen Haageである。
この農園はベルリン在住のフォトグラファー、豊田裕氏にお薦め頂いた。豊田さんはご興味の幅が広く、しかも掘り下げ方が凄い方なのだ。エアフルトに行くと話したら、「すごいサボテン農園があるから、行ってみたら?ドイツ最古で、品揃えも随一だよ」とアドバイスをくださった。そんなマニアックな農園があると聞いたら、行くしかない。
「まわりには何もないよ」とは聞いていたが、確かに中心部からはちょっと外れたところにある。今回は車だったのでよかった。
意外と地味。
10時開店なのだが、30分も早く着いてしまった。朝ごはんを食べていなかったので、まず何か食べてからと思ったけれど、まわりにはパン屋も見当たらず。しかたないので、そっと中を覗いてみた。
大きな温室が6棟ほど連なっているが、やっぱり地味な感じ。手前の温室のドアが開いていて、中に社員と思われるお兄さんがサボテンの手入れをしているのが見えた。
「すみません。開店は10時からですよね?」と聞くと、「そうですが、もう入っていただいても構いませんよ」と言ってくださった。
中は、期待通り、サボテンがずらぁ〜〜〜〜〜〜っ。こういう温室が6つも並んでいる。
この農園、Kakteen Haageの創業は、遡ること1685年!なんと300年以上も前である。180年ほど前からはサボテン栽培に特化している。サボテンは16世紀にスペインの航海者によってドイツにもたらされたとされる。Kakteen Haageが扱っているサボテンは3500種以上というから凄まじい。ドイツ国内はもちろんのこと、世界中からバイヤーが買い付けに来るらしい。
これもサボテン!?
こんな大きな花を咲かせるサボテンもあるのだなあ。
Kakteen Haageはサボテンの栽培・販売を行っているだけでなく、近郊にサボテンミュージアムを持つ。また、オンラインのサボテンフォーラムでサボテンの世話の仕方などについて質問することもできる。オンラインショップでは、サボテンの種や苗はもちろん、サボテン関連書、サボテンアートグッズなどを取り揃えている。まさに、サボテンのことならKakteen Haageに聞けという感じだ。見るだけでなく、サボテンを食べたい!という人は、サボテン・ディナーも予約できる。すごいね。
私も見ているうちに、いくつかサボテンを買って帰りたくなったが、トゲトゲしたものを長距離運ぶと厄介なことになりかねないので、残念だが、諦めることにした。
来る2017年5月13日(土)は、Kakteen Haageのオープンデーで、サボテンソーセージも食べられる。もうエアフルトから家に帰って来てしまったので、試食できなくて残念だ。
しかし、エアフルトまで行けなくても、サボテンの世界を楽しむことはできる。今月14 – 17日までベルリンの植物園では、サボテン祭りが開催される。こちらでもサボテンが食べられるらしいよ。
アウシュヴィッツ強制収容所の火葬炉を製造したTopf & Söhne社資料館
エアフルトでは、ユダヤ教徒の歴史を知ることができるシナゴーグや、シュタージの反対分子収容所を見学し、人権について考えさせられた。エアフルトに来る前に滞在したワイマールの郊外にはナチスが建設したブーヘンヴァルト強制収容所跡があり、そちらへも足を延ばしてみた。90分間のガイドツアーに参加したのだが、詳しい説明を聞くことができてとても為になった。私は過去にもベルリンに近いザクセンハウゼン強制収容所跡を見学したことがあるのだが、収容所の造りなどは互いに似通っている。また、両ミュージアムともブックショップが非常に充実していて、ホロコーストを中心とした関連文献が豊富に並べられている。
ダークツーリズム・スポットはこれまでにもいろいろ訪れているけれど、ナチスの強制収容所はあまりにも重く、辛すぎてとても写真を撮る気になれなかった。ブーヘンヴァルト強制収容所については、日本語でもたくさん情報があることと思うので、ここでは詳しくレポートしないが、次の観光スポットを紹介する前に一つだけ触れておくことがある。それは、ブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で使用されていた火葬炉は、エアフルトの会社、Topf & Söhneが作っていたということである。そして、この会社の跡地は、現在、資料館になっているのだ。
Topf & Söhne社のかつての敷地はエアフルトの駅のすぐ近く、線路沿いにある。
工場は解体され、現在残っているのは、当時オフィスだったこの建物のみ。この建物が資料館となっている。
Topf & Söhne社は、1878年に創立された家族企業で、創業時には主に産業用の燃焼炉を製造していた。第一次世界大戦中から軍需産業分野へ手を広げる。二代目のLudwig TopfとErnst Wolfgang Topf兄弟が経営トップに立ってからは、ナチスから強制収容所の火葬炉製造を受注するようになる。最初は近郊のブーヘンヴァルト強制収容所及びダッハウ強制収容所に納品していたが、後にはその他の強制収容所の設備も担当するようになり、最終的にはアウシュヴィッツ強制収容所の大規模な火葬炉やガス室の換気扇装置なども製造した。
ミュージアム内には受注書を始めとする多くの社内文書が展示されている。
この図面台で火葬炉が設計された。
この図のような火葬炉の実物をブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場で見た。過酷な強制労働と劣悪な生活環境により命を落とした被収容者の遺体を処理するため、収容所の敷地に火葬場が設けられたが、遺体を焼く作業も被収容者が行っていたという。
アウシュヴィッツ強制収容所には第1〜第4火葬場までの4つの火葬場が建設された。第二火葬場では30分間に60体の遺体を同時に焼くことができた。つまり、24時間体制で炉を稼働させたと仮定すると、第2火葬場だけで、単純計算で1日2800体もの遺体を焼いたことになる。アウシュヴィッツでは合計で少なくとも110万人が命を落としたとされる。
灰をを入れる容器。
敗戦後、Topf兄弟は「納品した火葬炉が何に使われていたのか、知らなかった」と主張。軍事裁判中、Ludwig Topfは無罪を訴える遺書を残して服毒自殺した。Ernst Wolfgang Topfは証拠不十分として裁判が打ち切りになった後、Ludwigの死により手にした保険金の30万ライヒスマルクを持って西ドイツに逃亡。ヴィースバーデンでゴミの焼却事業を始めたが、1963年に会社は倒産 。1979年、74歳で亡くなっている。
Topf & Söhne社の敷地は2003年に記念物に指定され、2011年、ミュージアムとしてオープンした。同社に関する常設展示の他、私が行ったときには「キンダートランスポート」に関する特別展示をやっていた。「キンダートランスポート」とは、英国籍のドイツ系ユダヤ人、ニコラス・ウィントンがユダヤ人の子ども達をイギリスに疎開させ、強制収容所へ送られることから救った活動だ。
ミュージアム前には、解体前のTopf & Söhne社の工場モデルが設置されている。左側に見える棒状のものは敷地の横の線路を表している。
同社の火葬炉やガス室設備が送られていったそれぞれの強制収容所までの距離が印されている。
独裁政治と人権について学ぶためのメモリアル 〜 エアフルトのGedenk – und Bildungstätte Andreasstraße
独裁政治と人権について学ぶためのメモリアル 〜 エアフルトのGedenk – und Bildungstätte Andreasstraße
前回の記事に書いたように、エアフルトではシナゴーグを訪れた。その他、エアフルトには大聖堂や多くの美術館がある。旧市街に残る中世の街並みも魅力的である。しかし、この町にはおそらく観光客にはそれほど知られていないと思われるが見学するに値するスポットがいくつもある。その一つが、Gedenk- und Bildungsstätte Andreasstraße(アンドレアス通り記念・学習館)である。
これは、旧東ドイツ(DDR)の秘密警察シュタージ(Stasi)が反体制分子の取り調べのために使っていた建物だ。ここにはDDR時代全体で総計5000人が収容されていたという。現在はそしてドイツ社会主義統一党(SED)により抑圧され、人権を剥奪された人々について知り、民主主義について学ぶための学習センター兼メモリアルとなっている。
旧東ドイツにはかつてのシュタージの拘置所や刑務所をミュージアムにした場所が多くあり、これはその一つに過ぎない。私はこれまでに他の類似施設も見学して来たのだが、このエアフルトのものは青少年への啓蒙に主眼を置いているようで、とてもわかりやすく、よくできていると感じた。
入り口部分には、DDRの独裁政治を機能させたドイツ社会主義統一党を頂点とする国民監視網がまるでクモのような形で天井から左右の壁面にかけて描かれている。
捕らえられた反体制分子が収容されていた独房棟。
大部屋(?)もあったようだ。
展示室。DDR時代に自由を奪われていた人々の生活がどんなものであったのかが、マンガで壁に示されている。
これは子どもにもわかりやすい!
壁のマンガを読んでいたら、社会見学の高校生グループが入って来て、ガイドさんの説明を聞き始めた。ドイツの学校教育は政治・歴史教育に力を入れており、ナチスやDDR時代の負の歴史を教科書の上だけでなく、それが実際に起きていた現場を訪れて学ぶ機会を多く取り入れているのだ。(たまたま手前に高校生カップルが大きく写ってしまったが、特に意味はない)
壁の崩壊からすでに30年近くが経ち、今の高校生には社会主義とはどんなものだったのか、想像しにくくなっているに違いない。私は自分は社会主義の国で生活したことはないものの、ベルリンの壁崩壊は今でも自分の中での歴史的ターニングポイントになっている。しかし、日本人の若い人とそんな話をすると、「へえ、そうなんですね」と意外そうな反応が返って来ることが多い。時間とともにデフォルトの認識は変わるのだなと当たり前のことを感じるが、歴史は繰り返されるということを考えれば、負の過去には繰り返し向き合う必要があるのだろう。
抑圧の時代の末に東ドイツ市民が起こした「静かな革命」と民主主義の獲得についても展示されている。
壁には学習センターを訪れた若者達のコメントがびっしり貼り付けてある。いくつか拾い読みをしてみた。
「マジでクソな国だったんだな」
「DDRに戻りたいなんて言っているやつらは、みんなここを見に来いよ!」
そんな若者らしい言葉で綴られた感想が多かった。
この施設では各種ガイドツアーの他、マンガワークショップも行っている。社会的メッセージの伝達手段としてマンガの手法を学ぶというのも良いかもしれない。
中世のユダヤ人の生活について学べるエアフルトのシナゴーグ
ワイマールに二日滞在した後、そこから20kmほど西のエアフルトへ向かった。エアフルトは人口20万人規模の商業都市である。私はこれまでエアフルトという町には特にこれといったイメージを持っていなかった。そのため、是非とも行ってみたい町ではなかったのだが、せっかくテューリンゲンまで来たのだから、この地方の主要都市を見ておこうと足を延ばした。
行ってみると、エアフルトは見所が多くハイセンスな町であることがわかった。美しいだけでなく、いわゆる「可愛い」「お洒落」「美味しい」な要素も多く、日本人好みかもしれない。
そんなエアフルトで私の関心を強く引いたものがある。それは、この町には中世から多くのユダヤ人が住み着いてコミュニティを形成し、町の発展に重要な役割を担っていたという事実だ。エアフルトにはドイツに今も残る最古のシナゴーグ、Alte Synagogeがある。現在はミュージアムになっていて、中を見学することができる。
シナゴーグ内部は写真撮影禁止で、受付とシナゴーグの間の中庭のようになった場所からのみ外観の写真を撮って良いと言われたが、中庭が狭いので全体像をカメラに収められなかった。
シナゴーグ北側正面の入り口。
中庭には、中世のユダヤ人墓地にあった墓石が展示されている。
エアフルトの旧市街には、11世紀にすでにユダヤ人が定住していたという。当時はキリスト教徒と比較的平和に共存していたが、黒死病の流行をきっかけにユダヤ人への迫害が起こり、1349年のポグロムで多くのユダヤ人が犠牲となった。エアフルトを追われるまでの間、彼らの信仰の中心だったのが、このAlte Synagogeである。ユダヤ教徒が追放された後は、500年もの長い間、倉庫として利用され、19世紀末には舞踏会場やレストランとしても使われた。2009年にミュージアムとして一般公開されるようになった。
ミュージアム内ではヘブライ語の聖書や中世のトーラ、マハゾールなどユダヤ教の文書やエアフルトの数多くの秘宝が見られる。特に中世のユダヤ教徒の結婚指輪が素晴らしかった。エアフルトのこのシナゴーグとそこに収められた秘宝、そして旧市街クレーマー橋のたもとに発見されたユダヤ教徒の沐浴場、ミクワー(Mikwe)は、合わせてユネスコ世界文化遺産に指定されている。
ポグロムにより一旦、姿を消したユダヤ教徒は、19世紀の初めに再びエアフルトへ戻って来た。その後、別の場所に新たなシナゴーグ(現在のNeue Synagoge)が建設されるまでの間、一般家屋がシナゴーグの機能を果たした。
Kleine Synagoge(小さなシナゴーグ)。こちらも一般公開されている。
写真を撮っても構わないと受付の人に言われたので。現在はイベント会場として使われているようだ。
地下には、19〜20世紀のエアフルトのユダヤ教徒の生活を示す展示がある。
現在、エアフルトにはおよそ550人のユダヤ教徒が住んでおり、その大部分はロシア系ユダヤ人だという。現在ドイツに住むユダヤ人といえば、先日、別ブログにこんな記事を書いた。
ドイツのユダヤ人、Shahak Shapira氏の著書を読んでみた
「小さなシナゴーグ」の2階では、現在、エアフルト出身のユダヤ人2家族についての特設展示を開催中で、こちらも非常に興味深かった。エアフルトのユダヤ人の歴史について、もう少し詳しく知りたくなったので、こちらの本を購入。
引き続きこのブログで紹介するが、エアフルトには中世のドイツのユダヤ教徒について、そして彼らが辿らざるを得なかった運命について知ることのできるスポットが多くあって、興味深い。
ワイマールの先史博物館で人類の歴史を知る
マニアックなドイツ・ドライブ一人旅(テューリンゲン編)の二日目はワイマールで過ごした。ワイマールはイエナ(前回・前々回の記事で紹介)から車で30分ほどの距離にある。満開のセイヨウアブラナの花で黄色に染まった丘陵地帯を抜けて行く。絶景ドライブだった。
ワイマール(正確な発音は「ヴァイマー」に近い)は歴史の授業で習ったワイマール共和国やワイマール憲法により、日本でもその地名はよく知られているだろう。また、ゲーテやシラーの町として有名だ。街並みは古典的でとても優雅である。
まず、ワイマールへ行ったら是非見たいとかねてから思っていた、アンナ・アマリア図書館のロココの間を見学した。このあまりに美しい図書館は2004年に大火災に見舞われており、そこからの大掛かりな復元のプロセスについてもドイツ国内ではよく知られている。ワイマールの必見観光スポットであるが、すでにこちらの日本語の記事に詳しく紹介されているので、ここでは紹介を省く。
私は日本の大学では文学部だったので文学にも大いに興味があるのだが、今回の旅のテーマはなんといっても「マニアック」である。なので、定番的なものよりもマニアックなものを探すことにした。しかし、ワイマールにはあまりマニアックな要素が見当たらない。そこで、観光客があまり訪れなそうなスポットということで、先史博物館、Museum für Ur- und Frühgeschichte Weimarに行ってみることにした。
建物の入り口はこんな感じ。
実はそこまで期待していなかったのだが、とても面白かった。テューリンゲン地方の人類の歴史がよくわかる博物館である。
実は、テューリンゲン地方というのは地理的・地質学的にドイツ全国で特に興味深い地域なのだそうだ。ここにはドイツ国内で見られるほぼすべての地形や土壌の種類が存在する。海洋性気候帯と大陸性気候帯の境界に位置していることも特徴的である。動植物の多様性が非常に高く、人類の狩猟生活、そしてその後の農耕生活にも好条件な土地だった。
テューリンゲンにはトラバーチンと呼ばれる地下水の炭酸カルシウムが沈殿してできた堆積岩が多く見られる。
トラバーチンは主に建築材などの用途に使われるが、中にはそれが生成された地質時代の動植物が閉じ込められて化石化したものがあり、当時の自然環境を知ることができる。
左は柏の葉、右は野生のリンゴ。過去記事でバルト海の琥珀博物館も紹介したが、こういう天然のタイムカプセルって、なんだかすごく感動してしまう。
地学的な展示も興味深いが、さらにこの博物館ではテューリンゲン地方における40万前からの人類の歴史を見ることができるのだ。
それぞれの考古学的時代ごとに当時の人々の生活の様子が展示されていて、これがまた面白い。道具や装飾品など、保存状態の良いものが豊富で見ごたえがある。
青銅器時代のアクセサリー。
時代ごとの死者の埋葬の習慣も展示されている。
各コーナーに白骨剥き出しの状態でお墓の内部が再現されているので、そういうものが苦手な人には向かないかもしれない。
この博物館には1時間半ほどいたのだが、時間が全然足りなかった。展示の説明はドイツ語のみなので、外国人観光客はほとんど訪れない観光スポットなのではないかと思う。先史博物館はドイツ各地にあるので、これから他の町のものも是非訪れてみたい。
ガラス博士オットー・ショットのイエナの邸宅、Schott Villa
前回の記事に書いたイエナのカール・ツァイス光学博物館を見た後は、同市内にあるオットー・ショットの邸宅、SCHOTT Villaへ向かった。
ショットの邸宅は現在、ミュージアムとして公開されており、Schott AGが管理している。
オットー・ショットは「イエナ・ガラス」を開発し「ショット硝子工業」を創立した化学者である。
1933年、ヒトラーが政権を獲得すると、ショットのガラス工場もナチスの管理下に置かれたが、ショット自身はナチ党とは距離を置いていた。戦後、ロシア軍がイエナに迫ると、アメリカ軍はショット硝子工業の経営者及び技術者41人に西ドイツのHeidenheimへ移住するよう命じた。彼らは最低限の身の回りの物だけを手にトラックに乗せられ、涙ながらにイエナを後にしたという。
サンルームに張られたスクリーンでショットについてのショートフィルムを見ることができる。
オットー・ショットは考古学に造詣が深く、古代ギリシアやローマの考古学調査に資金援助していた。邸宅内にはショットの考古学コレクションが展示されている。
前の記事にも書いたように、イエナにおける光学産業の発展は、ショットが自らのガラス研究の成果をエルンスト・アッべに提示したことがきっかけだったが、その際にショットがアッべに宛てた初めての手紙が見られる。
直筆のドイツ語の手紙、特に年代の古いものはとても読みにくいことが多いのだが、ショットの筆記は判読しやすく、私にも読めた!
このショットの邸宅は戦後、ロシア軍がめぼしいものを持ち去った後、DDR時代には幼稚園として使用されていた。ドイツ統一後に一旦、空き家となり、その後大掛かりなリフォームを経て、現在の状態となっている。
イエナのカール・ツァイス光学博物館、Optisches Museum Jena
日本がGW中で、日本から新規の仕事が入ってくる可能性がない。このタイミングを利用して、かねてからやりたいと思っていたことを実現させることにした。
それは、ドライブ一人旅である。
車の運転をするようになって、かれこれ15年近くにもなるが、実は私は長いこと近場専門、一般道路オンリーのドライバーだった。スピードが怖くてアウトバーンを走れない。つまり、マイカーでの遠出が一人ではできなかったのだ。幸い、夫は運転が大好きなので、一緒に行動するときにはいつも運転を担当してくれる。しかし、夫には行きたい場所と行きたくない場所があり、そのため彼の気が進まない場所には行くことができないという問題があった。
アウトバーンで運転恐怖症を克服すれば、一人で好きな場所へ行ける。そう思いつつ、アウトバーンデビューするまでに恐ろしく時間がかかった。最近ようやく片道100km程度なら一人で遠出するようになったので、この調子なら、もっと遠くまで行けそうだということで、数日の予定でテューリンゲン地方へドライブ旅行をすることに決めたのである。目的はもちろん、マニアックな観光スポットを訪れること。(マニアックではない普通の観光地も好きなので、それも含めて)
今朝、自宅を出発し、まず向かったのはイエナの光学博物館、Optisches Museum Jenaだ。
イエナは、1848年、かの有名な光学機器メーカー、カール・ツァイス社の創立された町である。ツァイス社は第二次世界大戦後、ドイツの東西分断により、西ドイツのカール・ツァイス・オプトンと東ドイツのカール・ツァイス・イエナの二つの会社に分かれて発展した。ドイツ統一後は再び統合され、現在のカール・ツァイス本社は旧西ドイツのオーバーコッヘンに置かれている。ややこしいことに、ツァイスの光学博物館もイエナとオーバーコッヘンの両方にある。私が今回訪れたのはイエナのOptisches Museum Jenaの方。
博物館の外観はわりと地味。
中は1階、2階と地下の3フロアで、オーディオガイドは日本語も選べる。1階部分は9つの部屋に分かれており、カール・ツァイスについて、また、ツァイスと共にドイツ光学産業の礎を築いたイエナ・グラスの開発者オットー・ショット及び天文学者エルンスト・アッべについての展示のほか、眼科用機器、顕微鏡、望遠鏡、カメラなど、ツァイス製の数多くの製品を見ることができる。
機械工であった若き日のカール・ツァイスは、イエナに顕微鏡工房を構え、同時に小さな販売店を設けてメガネなどを販売していたが、その頃、販売していたメガネはドイツ光学産業の発祥地、ブランデンブルク州ラーテノウ製のものであった。(ラーテノウについての過去記事はこちら)
ラーテノウの光学博物館同様、ここでもメガネの歴史に関する展示が見られる。イエナのメガネコレクションは欧州最大で、ここではそのうちの選りすぐりの物を陳列しているという。
ラーテノウでは見られなかった「ハサミ型メガネ(Scherenbrillen)」も展示されている。こんな不便そうなものをよく使っていたものだと思うが、当時はこういうメガネを持っているのがステイタスだったらしい。
日本製のメガネ。説明には「日本では鎖国政策により、メガネの導入が遅れた。17世紀になって、ようやくオランダ人によりメガネの製作法が伝えられた」とある。
インドのメガネ。
メガネは知識がなくてもわかりやすいので、つい、メガネの展示ばかりじっくり見てしまったのだが、もちろん、その他の光学製品の展示も充実している。
この不思議な装置は、患者の網膜を9人が一遍に観察することのできる検眼器。医学部で学習用に使われていたそうだ。
様々なツァイス製品。
これはツァイス製ではなく、フランス製のバロック顕微鏡だそう。
なんか、これすごいなあ。写真測量の機械だって。
正直なところ、カメラや顕微鏡、望遠鏡が多く展示されていても、それぞれの違いについて技術的なことが理解できない。「わかる人はわかる」という感じなのだろう。なので、私にはむしろカール・ツァイス社を創立したツァイス、ショット、アッべの三者についての説明が面白かった。特に、ツァイスが製作した初期の顕微鏡に数学的計算を応用し、品質の飛躍的改善に貢献したアッべについてはこれまで知らなかったので、特に興味深かった。
アッべはツァイスの死後、カール・ツァイス財団を設立したが、社員への福利厚生制度を導入し、利益を科学の発展と社会の改善のために資するなど社会的な企業倫理を打ち出し、実現させた。現代の言葉でいえば「社会起業家」だったのだ。天才的頭脳を持っていただけでなく、高尚な理念ある実業家だったとは、世の中には偉大な人がいるものだと感心するばかり。
それにしても、19世紀のドイツの知の発展は素晴らしい。当時のドイツの大学の雰囲気はどんなものだったのだろうかと想像するのが好きだ。ドイツの光学産業が確固たる世界的地位を確立したのは、ツァイス、ショット、アッべの三者が互いに出会ったからにほかならない。世の中を動かすのは「コラボの力」なのだなと改めて感じた。
博物館の2階はプラネタリウム技術、地下はホログラム技術の展示の他、イエナにあったツァイスの初期の製作所を再現したコーナーがある。
化石掘りもできる石灰鉱山ジオパーク、Museumpark Rüdersdorf
イースター休暇も過ぎたというのに、相変わらず寒い日が続いていたが、日曜は春らしい天気になった。このチャンスを逃してはもったいない。晴れている日には野外観光スポットのリストから目的地を選ぶことにしている。今回は、ベルリン東部、Rüdersdorfにある北ドイツ最大の露天掘り石灰鉱山に隣接した野外ミュージアム、Museumpark Rüdersdorfを訪れることにした。
結論から言ってしまうが、この野外ミュージアムはかなり楽しめる!しかも、万人向けである。というのも、内容が盛りだくさんなのだ。
13世紀から稼働している石灰石の露天掘り鉱山と、隣接する17ヘクタールの公園は「欧州産業遺産の道」上の観光スポットの一つ。過去に紹介したブランデンブルク産業博物館もこの観光ルート上にある。
公園内では焼成炉を中心に、多くの石灰岩採掘・加工・運搬施設が見学できる。
この鉱山では13世紀の初めより採掘が行われていたが、生石灰が生産されるようになったのは17世紀に入ってからのことである。19世紀初頭に、温度調整の可能な画期的な石灰窯が建設された。この窯は発明者のRumford氏にちなんでRumfordofenと呼ばれている。
窯の内部も見学できる。お城の中のようで、ちょっとワクワクする。
窯の内部はかつて、鉱山労働者の住居としても使われていた。当時の労働者の生活の様子を伺い知ることができる。
竪窯(シャフトキルン)と呼ばれる石灰窯。
公園内にはポニーなどに触れ合うことのできる小さな動物園もあり、また、いろいろなタイプのクレーン車が設置されたクレーンパーク区画もあるので、子どももたっぷり楽しめると思う。
ガイドツアーに参加すれば、鉱山施設の歴史を詳しく知ることができる。しかし、この野外ミュージアムの目玉はなんといっても、露天掘り場をジープで1時間かけて回るツアーだ。もちろん、私たちはジープツアーに参加した。運転手兼ガイドさんが鉱山についての詳しい説明をしてくれる。
広大な採掘場。
よく見ると石灰岩の地層の厚さがまちまちなのだが、それはその地層年代の気温の違いから来るものだという。暖かいとそれだけ生物が繁殖するので、堆積物の量が多くなり、層が厚くなる。
と、ここまでたいした説明もせずに写真だけ貼ってしまったが、それには理由がある。このミュージアムには、さらに見所があるのだ。
というのも、このミュージアムは産業遺産であるだけでなく、同時にジオパークでもある。氷河の移動が終わった後、このあたりにはエンドモレーンと呼ばれる土砂の山が形成された。このため、Rüdersdorfは非常に重要な地質学研究のフィールドなのである。上述のジープツアーの他、化石掘りツアーにも参加することもできる。ガイドに「化石が見つかる確率って、どのくらいなんですか?」と聞くと、「100%ですよ」という返事が返って来た。
ミュージアム敷地内には岩石資料館があり、地質学的説明や岩石や化石お展示を見ることができる。これがかなり面白かった。この資料館を見るだけでもここに来る価値があると思う。
うまく写真が撮れなくて残念。
岩石資料館の前には氷河によって運ばれて来た様々な迷子石が展示されている。
マニアックなものが好きな人はもちろん、産業遺産にも化石にも興味ないよ!という人でも、ただ公園内を普通に散策するだけでも楽しいはず。週末や祝日には様々なイベントもやっていて、家族レジャーにも最適と、満足度の高い観光スポットだ。
ナチスと東独軍が使用した秘密軍事基地、Bunkermuseum Fuchsbau
イースター休みが終わったと思ったら、もう週末。この季節は休みばかりだ。あいにく今年は天候が安定せず、観光日和とは言い難い日が続いているが、めげずに今日もマニアックな観光を楽しんで来た。
今回訪れたのは、ベルリン中心部から南東へ約75kmに位置する美しい保養地、Bad Saarowの外れにある秘密の軍事基地、Bunkeranlage Fuchsbau。
この掩体壕はナチスにより作られ、第二次世界大戦後は東ドイツ軍(NVA)が利用し、そしてドイツ統一後しばらくは、ドイツ連邦軍の管理下に置かれた。70年間に渡るドイツ軍事史上の複数エポックの遺産である貴重な史跡だ。現在はBunkermuseum Fuchsbau – ZGS14の名で一般公開されている。
ミュージアム入口。
ミュージアムにはあらかじめガイドツアーを申し込み、入場する。「基地の歴史ツアー」「技術設備見学ツアー」「写真撮影ツアー」がある他、「元軍人による体験語りツアー」が新たに加わった。私は歴史ツアーに申し込んでいたのだが、元軍人による体験語りツアーの開始時刻が同じだったため、間違えて後者に参加してしまったが、良いツアーだった。ガイドさんはこの基地で任務に当たっていた東ドイツ軍の元中佐(Oberstleutenant)だという。2.5時間に及ぶ本格ツアーで、滅多に聞くことのできない話をじっくり聞けるすごい機会だった。
1943年、ナチスはベルリン北部のオラーニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所の囚人、約900人を使ってここに武装親衛隊(Waffen-SS)の通信連隊のための秘密基地を建設した。現在、ミュージアムの名称となっている「(フクスバウ)Fuchsbau」は当時、基地につけられたコードネームが由来である。ナチスは3本のトンネルを基本構造とするこの基地から、ベルリン、ワルシャワ、プラハ、リガ(ラトヴィア)、ウィーン、メッツ(フランス)、アペルドールン(オランダ)などの主要都市へ蜘蛛の巣状に通信網を張った。
敗戦時に武装親衛隊のメンバーが基地から逃亡すると、ソ連軍は基地を抑え、破壊を試みたが失敗。基地は部分的に破損した状態で放置された。その後、東ドイツ軍がこの基地に隣接する第二の地下壕を掘り、基地を拡大。航空状況監視システムを整備して航空軍事司令部を配置した。1977年にはワルシャワ条約機構加盟国に共通のデータ自動通信網(ALMAS)が導入され、フクスバウもそのネットワーク拠点の一つとなった。
基地入口。この基地はドイツ統一後は、1995年に完全閉鎖されるまで、連邦ドイツ軍の救難隊(SAR)の拠点として利用された。閉鎖時にこの入口はコンクリートで塞がれたため、ミュージアム化にあたって、コンクリートを除去する工事が大変だったらしい。
ナチス時代に作られた第一の掩体壕の通路。
気象観測室。右側の壁の丸みからトンネル構造をしていることがわかる。
二つの地下壕を繋ぐ通路。
第二掩体壕の内部の様子。
電算室。丸い容器にはハードディスクが入っている。後ろに並んでいる機器はIBM製。つまり、西側諸国から闇ルートで入手したもの。
誘導室で中佐の体験談を聞く。勤務は24時間体制で朝7時に交代。地下に24時間閉じこもって仕事をした後は体の感覚がおかしかったという。旧東ドイツでは自家用車を所有している人は限られており、基地への通勤にはローカルバスを使っていた。一般市民は秘密基地の存在を知らないことになっていたが、早朝に軍人達がバスを待っている姿を見て、地元の人は薄々感づいていただろうと中佐は語る。
無線室。
その他、水道施設や機械室などを見学し、再びトンネルを通って外へ。
とても充実したツアーだが、地下に2時間半もいると体が冷えて来る。冬のコートを着て行って良かった。このミュージアムはマニアック度がかなり高いので、誰もに気にいる場所ではないと思うが、フクスバウ基地のあるBad Saarow自体はロマンチックな風景が好きな人にもお勧めできるとても綺麗な町で、特にテルメが素晴らしい。
ヒトラーやホーネッカーも入院していたサナトリム廃墟、Beelitz-Heilstätten
久しぶりにベーリッツにあるサナトリウム廃墟、Beelitz-Heilstättenへ行って来た。
ベルリン・ブランデンブルクでは廃墟ツーリズムが人気だが、この廃墟は規模が大きく、ベルリンからのアクセスも良いことから特にポピュラーだ。20世紀初頭、結核患者の療養施設として建設された建物群である。
我が家から近く、今住んでいるところへ引っ越して来た10年前、散歩の途中に偶然見つけた。当時はまだ観光化されておらず、そのときは人通りもほとんどなかったので、ボロボロに崩れた暗い建物の内部に見える病院の名残りに背筋がゾーッとしたのを覚えている。現在はフェンスに囲まれており、入場料を払って見学する。140ヘクタールの敷地には、かつての療養施設や外科病棟、食堂、自家発電所などの多くの建物が崩れかかった状態で残っているが、現在は複数の所有者が異なるツアーを提供している。
今回はBaum & Zeitが敷地内に建設した空中遊歩道(Baumkronenpfad)を歩いてみた。
高さ40メートルのタワーの上からは、敷地内のほぼ全体を見渡すことができる。
遊歩道の高さは地上23メートル。このような遊歩道が整備されて観光地化されたことで、以前のように「見てはいけないものを見てしまった」ときのようなドキドキ、ゾクゾクずる感じは失われたが、廃墟を真横から見たり、上から覗き込むことができるようになった。
遊歩道を歩いた後は、ガイドツアーに参加した。いろいろなツアーがあるが、今回参加したのは「外科病棟ツアー」。このサナトリムが建設された背景には、19世紀の終わりに産業の発展に伴ってベルリンに大量の労働者が流入したことがある。急激に人口が増えて住宅難となり、多くの人々は劣悪で不衛生な住環境で生活していたため、結核が蔓延した。ビスマルクにより健康保険制度が創出され、結核患者の療養施設として作られたのがこのサナトリウムである。約1200人の患者が収容可能で、当時は国内最大規模だった。
1900年から1930年までは、主として健康的な生活により免疫力を高めることが「治療」であり、栄養のある食事、自然に囲まれた静かで空気の清浄な空間が提供され、リラックスや運動が中心だった。現在のクアハウスの原点と言えるかもしれない。1930年からは外科治療が試みられるようになり、その後、最初の抗生物質であるストレプトマイシンが発見されるまで続けられた。
手術室。天井はガラス張りで光がたくさん入る造りになっており、換気扇も備わっている。
薬品などを入れてあった戸棚。
現在は荒廃しきっているが、当時は近代的で美しい建物であったことが伺える。
第一次・二次世界大戦中は負傷兵の治療のための病院として使われ、アドルフ・ヒトラーも入院していたことがある。第二次世界大戦後はソ連軍が使用した。1990年の末から翌年の春にかけてはエーリッヒ・ホーネッカーもここで病に伏せていた。
外科棟ツアー以外に、サナトリウムでの日常生活を知るツアーやフォトツアーなどもある。詳しくはこちら。
先日、ドイツの公共放送、ARDでロベルト・コッホの時代のベルリン医科大学を舞台にした連続ドラマ(下動画)を放映していたのを見たばかりなのと、そのドラマに出てきた青い痰壷をこの間訪れたドレスデンの衛生博物館(記事はこちら)を見たこともあって、頭の中でいろいろ繋がって面白かった。
このドラマには、ロベルト・コッホ、エミール・フォン・ベーリング、北里柴三郎(日本人俳優)などが登場する。
このサナトリウム廃墟のあるベーリッツは白アスパラの名産地で、子ども連れで楽しめる大きな観光農園、Spargelhof Kleistowがある。農園のすぐそばの森の中には本格的なロープアスレチック場も人気。白アスパラの季節に農園と廃墟見学を組み合わせるのがオススメ。
世界有数の琥珀の産地、バルト海の琥珀博物館 (Deutsches Bernsteinmuseum)を訪れる
今週末、写真ワークショップに参加するため、バルト海へ行って来た。
しかし、実は目的は写真ワークショップだけではない。バルト海といえば、「バルティック・アンバー」。そう、バルト海は世界有数の琥珀の産地である。バルト海沿岸の町には琥珀アクセサリーの店がたくさんある。私は美しい琥珀については知りたいが、琥珀アクセサリーを身につけたいとは特に思わないので、Ribnitz-Damgartenという町にある「ドイツ琥珀博物館 (Deutsches Bernsteinmuseum)に向かった。
ドイツ琥珀博物館は、修道院の建物の中にある。
ミュージアム内部は3階まであり、なかなか見ごたえがあった。
1階部分にはバルト海の琥珀に関する説明と、様々な種類の琥珀が展示されている。ケース越しのため、あまり綺麗に写真が撮れなかった。(実物はもっと綺麗)
天然樹脂が化石化してできる琥珀はドイツ語でBernsteinと呼ばれるが、 これは燃える石(Brennstein)を意味する。琥珀は炭素80%、酸素10%、水素10%でできており、ロウソクのように燃える。軽く、塩分を含む水中では浮き上がること、爪よりも少し硬いくらいの硬さで穴を開けたり彫刻のように削ったりしやすいのが特徴だ。
バルト海の琥珀は起源となる地質年代が非常に古く、世界で最も産出量が多く、種類豊富で品質が高い。また、学術研究も非常に進んでいる。インクルージョンと呼ばれる虫や植物が混入したものが多く見つかり、古生物学の貴重な標本でもある。インクルージョンの分析から、フェノスカンジアと呼ばれる北欧の森は5000年前には亜熱帯性気候であったことがわかっている。
木の幹に止まった虫が樹脂の中に閉じ込められることは少なくないが、植物を含む琥珀は非常に珍しいそうだ。バルト海以外の場所でも琥珀は産出され、日本では北海道などで採れるが、白亜紀のものでバルト海の琥珀ほど起源が古くない。
人間は石器時代から琥珀を収集し、利用して来た。網で海中を探る原始的な採集法が大規模な採掘に取って代わられたのは19世紀後半で、海岸だけでなく、陸も掘り起こして採集するようになった。石器・青銅器時代から穴を開けて装飾品などに使われ、中世にはロザリオにも多く使われた。
また、現代医学が普及する以前は、民間医療にもよく使われていたらしい。細かい粉にして薬として飲んでいたというから驚きだ。
ミュージアムの2階にはキッズコーナーがあり、琥珀を使った工作ができる。
子どもの作ったステンドグラス風窓飾り。
数ユーロを払って好きな琥珀のかけらを選ぶと、磨いてペンダントに加工してくれる。5ユーロの小さな琥珀をペンダントにしてもらった。
3階には琥珀の美術品が展示されている。
チェスボード。
サンクト・ペテルブルクにあるエカテリーナ宮殿の琥珀の間の写真。ちなみにベルリンのシャロッテンブルク宮殿にも「琥珀の間」がある。
ミュージアムには琥珀アクセサリーのショップもある。夫はインクルージョンのある琥珀に大変ロマンを感じるようで、綺麗だね、買ったら?と私にしきりに勧めて来たが、私は5ユーロのペンダントで十分なので辞退した。
Ribnitz-Damgarten郊外には大きな琥珀アクセサリーの直売センター、Osteseeschmuckもある。バルト海産の琥珀は日本へも多く輸出されているが、日本ではおそらく割高と思われるので、プレゼントに良いかもしれない。
写真ツーリズムで人気なバルト海の保養地、Zingstの写真ワークショップ
この週末、バルト海に面した保養地、Zingstへ行って来た。
ベルリンから車で北上すること3時間。人口わずか3000人ほどの小さな村で、特別珍しい建造物などがあるわけではないが、知る人ぞ知る観光地である。というのは、Zingstは美しい海岸を持ち、クアオルトと呼ばれる国指定の保養地の一つであるだけでなく、豊かな自然を利用した写真ツーリズムに大変力を入れているのである。
今回、私がZingstを目指したのは、週末ワークショップに参加するためだ。
Zingstは、細長く東西に弓のように伸びたFischland-Darß-Zingst半島の東部に位置する。この村がどのくらい写真ツーリズムに注力しているかというと、まず第一に毎年5月の末から6月にかけて、2週間以上に渡る大規模な自然写真フェスティバル、Umweltfotofestival Horizonte Zingstを開催していることが挙げられる。このフォトフェスには国内外の著名なプロ写真家及び4万人を超えるアマチュア写真愛好家が集まる。ギャラリー、ワークショップ、コンテスト、講演会、マルチメディアショー、写真・カメラマーケットなど、写真に関するあらゆる体験ができる一大写真イベントだ。パートナーにはEPSON、OLYMPUS、Leicaなどが名を連ねる。
私は去年、たまたま休暇でこの村を訪れ、そのときには残念ながらフォトフェスはすでに終了していたのだが、ギャラリーの一部がまだ残っており、展示されている写真のクオリティの高さに感動した。しかし、Zingstではフェトフェスの期間だけではなく、一年中、写真イベントやワークショップを開催している。そこで今回、私は週末ワークショップの一つに参加してみた。
ワークショップは、村の中心部にある、Max Hünten Hausというフォトスクールで行われる。
私が参加したのは金曜の午後から日曜のお昼までの風景写真ワークショップで、最初に導入として理論を学んだ後、計4回の撮影エクスカーションがあり、最後に写真の現像と批評会をする。定員は12名で、参加者はドイツ全国から来ていた。その中では私が一番の初心者だった。(しかし、自分のペースで撮影すればいいので、レベルが違うからついていけないというわけではない)
このワークショップでは主に海岸で日の出や日の入りを撮影することになっていたのだが、残念なことにこの週末は天気が悪く、内容が大幅に変更になってしまった。そのため、Zingstらしい風景写真はあまり撮れず、また、私の下手な写真では説得力に欠けるとは思うが、以下にアップするものに大幅に上乗せした内容だと考えて欲しい。
初日の夕方のワークショップでは夕日を撮影する予定が、雲がかかっていたため、近くの森で撮影することになった。森はうちの近くにもいくらでもあるので、ちょっとガッカリ。
水面に映った木を180°回転させてみた。
翌朝の日の出撮影も小雨で変更に。隣村の閉鎖された動物農場へ連れて行ってもらった。自然風景のワークショップに申し込んだのにと不満たらたらの参加者もいたが、廃墟はどんよりとした空にマッチしていて、私にはなかなか面白かった。
夕方のエクスカーション時には雨は止んでいたものの、サンセットは見られず、、、、。
最終日になって、ようやく良い天気に。
朝焼けにはならなかったけど、うっすらと夜が開けて来た。
西の空には月が。ズームが足りなくて、遠すぎ、、、、。
ようやく海辺らしい写真が撮れた。。
今回は天気には恵まれなかったが、その代わりにいろいろな種類の写真が撮れたから、まあ良いとしよう。
Zingstはまた、大量のツルが飛来することでも知られている。ツル観察&撮影イベントも魅力的だ。風景写真以外にも、動物、ポートレート、ルポルタージュ、ヌードなど、様々な写真テクニックを学ぶことができる。写真の好きな人にはとにかくオススメの観光地だ。写真の趣味はない人もサイクリングをしたり、お魚を食べたり、天気の悪い日にはクアハウスのテルメやクナイプバス、マッサージやエステでくつろぐなど、様々な楽しみ方がある。
ポツダムのKGB政治犯一時収容所、Gedenk- und Begegnungsstätte Leistikowstraße
私はもうかれこれ10年、ポツダム市の近郊(車で10分)に住んでいるが、いまだによく知らない場所がたくさんある。ポツダムは首都ベルリンの陰に隠れてか、外国人観光客への知名度は今ひとつだが、実は見所が非常に多い町だ。有名なサンスーシ宮殿を始めとするプロイセンの建造物が数多くあり、湖や森、庭園の豊かな美しい町であるだけではない。ポツダムは東ベルリン同様、第二次世界大戦後、ベルリンの壁が崩壊するまでの間、西ベルリンとの国境を持つ、政治的、軍事的に非常に重要な町だった。そのため、暗い歴史の跡が多く残っている。
私が引っ越してきた当時、町にはまだ旧社会主義国の名残がかなり見られたが、傷んだ建物の修復や第二次世界大戦で破壊された建物の修復が目覚ましいスピードで進み、現在では旧東ドイツ側の町ということを忘れてしまうほどの優雅なたたずまいである。特に、ハイリガー・ゼーと呼ばれる湖の周辺地区には豪華な邸宅が建ち並び、これぞヨーロッパという夢のような空間だ。
その高級感溢れる地域の一角に、Gedenk- und Begegnungsstätte Leistikowstraßeという記念館がある。ソ連国家保安委員会、KGBの政治犯一時収容所跡だ。
かつて、この一帯には貴族や富裕層の市民が住んでいたが、ポツダム会議後、ソ連軍が占領し、1994年に駐留軍が撤退するまでの間は軍事地区であった。東側の新庭園に面した通りと西側のグローセ・ヴァインマイスター通りに挟まれた約16ヘクタールの区間は、Militärstädchen Nr. 7(第7軍都)と呼ばれた。ここにはソ連軍の兵舎や将校家族の住宅だけでなく、ロシア人による店、ホテル、病院、学校など町としてのすべての機能が揃い、リトル・ソヴィエトとも呼ぶことのできる小さな町を形成していたらしい。Militärstädchen Nr. 7の住民は外部との接触を厳重に禁じられており、周辺に住むドイツ人らは中の様子を知ることはできなかった。
しかし、この区画の中に一箇所だけ、ドイツ人が関わる可能性のある場所があった。それはKGBの政治犯一時収容所である。元々はプロテスタントの教会の女性支援施設だった建物をソ連国家保安委員会がスパイ容疑者の取り調べに使っていたのだ。
KGBは戦後まもなく、ナチス戦犯だけでなく、多くの「スパイ容疑者」を拘束し、尋問した。容疑者の中には11〜15歳の少年少女も含まれ、多くはシベリア送りになり、死刑になった者も少なくないという。現在は記念・資料館となっており、ここに収容されていた人々について知ることができる。
元収容者に関する記録。
1955年以降は東ドイツの国家保安省、シュタージが東ドイツ国民を監視することとなったため、その後KGBが監視したは駐留ソ連軍やその家族、つまり自国民だった。駐留軍の中には待遇に耐え切れず、西ドイツへの逃避を企てる者もいた。
シャワー室。
元収容者のインタビュー動画も見ることができるが、近所の知り合いのおじさんであってもおかしくないような年齢の男性が当時の経験を語るのを聞き、とても辛くなる。
かつて拘禁されていた独房に座る元収容者。
取り調べ人が吸っていたタバコの箱。元収容者らはこのタバコの匂いを嗅ぐと、当時の記憶が蘇って来るという。
決して見学して楽しい場所ではない。ドイツにはナチスが残した傷跡や冷戦の傷跡、旧東ドイツの秘密警察、シュタージの記憶、、、、そうした暗い歴史の跡が多くあり、それらの多くは記念館や資料館として残されている。
自然と文化芸術に溢れる町、ポツダム。こんなに美しく優雅な場所で起きたとは信じられない恐ろしい過去を知り、現在が平和で良かったとしみじみ感じる。そして、ここが平和な町であるのも、憎しみと暴力の町と化すのも、自分達、人間しだいなのだと恐ろしく思う。平和は決して当たり前ではないのだ。
ドイツ連邦軍の軍事史博物館を訪れる
ドレスデン滞在二日目にはドイツ連邦軍の軍事史博物館を訪れた。この博物館の分館がベルリンのガトウ地区にあり、先日見学して興味深かったので、ぜひドレスデンにある本館も見たくなったのだ。
ベルリン分館訪問記はこちら。
博物館はドレスデンの新市街にある。
軍事史博物館の建物は大規模で斬新である。19世紀に建設された白い建物に矢が突き刺さるかのようにモダンなもう一つの建物が組み合わさっている。
入り口には連邦軍の兵士らが大勢いた。この博物館は兵士の学習の場としての機能を持つ。
兵士らは20人くらいづつのグループに分かれ、それぞれガイドの説明を受けながら館内を見学していた。
展示室入り口の壁に映し出された文字。
この博物館では展示は年代順展示とテーマ別展示の2つに分かれている。年代順の方は1930年代から現在までの軍事史を、テーマ別の方は軍事の様々な側面を提示している。
まずは軍事史の方から見ていった。
展示品や資料の数は膨大で、丁寧に見ていけば1日ではとても足りない。しかし、情けないことにドイツ史の知識があやふや。えーっとこの戦争はどういう戦争だったかしらと思い出しながら展示の説明を読んだが、時間がかかり過ぎて大変だ。家に帰ったら、山川出版の「ドイツ史」を読み返さなくては。しかし、第二次世界大戦以降の展示に来ると、日頃、他の博物館でもナチスやDDRについてはたくさん目にしているので、グッとわかりやすくなった。
テーマ別展示のテーマは、「軍事技術」「保護と破壊」「戦争の苦しみ」「戦争と記憶」「軍事と音楽」「軍事と言語」「軍事と政治」「軍事と遊び」「軍事とファッション」「軍事とファッション」など多岐に渡る。これはドイツの博物館全体について言えることなのだが、軍事をテーマとしたこの博物館でも非常に客観的な展示に徹していて、「愛国心」のようなものを連想させる要素はない。あくまでも淡々としており、戦争を美化する面が一切ない一方で、自己批判的・抑制的な面が少なからず見られた。
「戦争の苦しみ」のコーナーには戦死者が家族に宛てて書いた直筆の手紙や広島の原爆投下により焼け焦げた物品も展示されている。また、第四代連邦首相、ヴィリー・ブラントが1972年ポーランドでワルシャワのゲットー英雄記念碑に跪いて戦死者に黙祷を捧げる姿を写した写真もあった。
「戦争と遊び」のコーナーには、戦争を連想させる子どものおもちゃが陳列されている。
「大人が子どもに戦争のおもちゃを与えることは、それが武器であれ、軍服であれ、戦争を正当化することを意味する」と説明には書かれている。戦時には子どものおもちゃすらもプロパガンダの道具に使われる。第二次世界大戦敗戦後、旧西ドイツではしばらくの間、戦争おもちゃはタブーとなっていたが、旧東ドイツでは西側帝国主義への反感を煽るため、引き続きおもちゃを使ったプロパガンダが行われていたそうだ。現在のドイツでは武器をかたどった玩具の是非については議論が続いているが、昔は当たり前のように使われていた”Kriegsspielzeug”(戦争おもちゃ)というカテゴリーは玩具カタログから姿を消したものの、そのようなおもちゃがなくなったわけではない。
これはベルリンの「総統地下壕(ヒトラーの地下壕)」に残されていたタイプライター。このタイプライターを使って、戦争が終わる直前まで多くの司令が発せられた。
いろいろなタイプのシェルター。
シェルターやミサイルが展示されているコーナーの奥では、ときどき異様な色の光がピカっと光っていた。「照明が故障しているのかな?」と思ったら、そうではなく、広島の原爆を疑似体験するというアートであった。
薄緑色をしたスペースに立つと、ピカっという閃光の後、影が壁に固定される。私もここに立って、固まった自分の影を見てみた。
もう一度強調するが、この博物館は愛国心や闘争心を掻き立てるような展示はしておらず、あくまでも人類の歴史における軍事と戦争の歴史を提示し、防衛に関する議論を促すためものであることがわかった。