夫が1週間の休暇を取ったので、南ドイツへ行って来た。目的地はシュヴェービッシュ・アルプ地方だが、行く途中で休憩を兼ねてバイロイトに立ち寄った。バイロイトにカタコンベがあると読んだので行ってみることにした。しかし、16:00からのガイドツアーまで2時間以上も時間があって手持ち無沙汰である。近くにビール博物館なるものがあったので時間調整と思って中に入ってみた。すると、ビール博物館のガイドツアーがちょうど始まる時間だという。私はビールを飲まないのでそれほど興味はなかったが、時間もあるし、せっかくなので参加してみることにした。これが思いがけず大変面白買ったので紹介することにする。ドイツビールファンは多いので、知っている人も少なくないだろうとは思うけれど。

バイロイトのこのビール博物館(Maisel´s Bier-Welwbnis-Welt)は、1887年創業の老舗ビール醸造所、マイゼル醸造所(Brauerei Maisel)の創業当時の建物を利用している。

 

マイゼル醸造所は家族経営の醸造所で、代々引き継がれて現在は4代目。娘さんと思われる20歳くらいの女性が案内してくれた。大きな建物の内部にはマイゼル醸造所でかつて使われていた古い設備や機械、道具が展示されている。その多くは使われていた当時のポジションのままだ。

1930年代に製造されたスチームエンジン。

 

このスチームチャンバーは1905年製。購入費用で家が一軒買えるほど高価なものだったそうだ。

仕込み釜。

ホップ貯蔵室。ホップはビールに不可欠な原料だが、雌株と雄株があり、苦味成分を含むルプリンを有する雌株しかビールには使われない。かつてホップは農家から写真のような袋に詰めて納入されていたが、ホップは酸化しやすく長期の保存に適しないため、現在はペレットになったものが使われている。

ビア樽製造場。醸造所が独自に樽の製造場を持つのは、費用が嵩むことからとても珍しいことだったそうだ。

 

初期のボトリング装置。これでビールを一本一本ボトリングしていたとは大変な手間だったろうな。

 

次第にボトリング装置やボトルの洗浄装置も改良されていった。

 

ビア樽クリーナー。

 

昔のビール造りについて一通り見た後は現在の醸造所設備も見せてもらう。

近代的なこれらの装置は全てiPadで管理できるそうだ。

ごく簡単な紹介になってしまったが、ビール博物館のガイドツアーは一時間以上に及び、ビールの醸造についてだけでなく、ビールのラベルやビールグラス、ジョッキのコレクションなども見られてかなり楽しい。

 

ところで、マイゼル醸造所は「マイゼル&フレンズ」のブランド名で新感覚のクラフトビールも醸造している。と言われても、ビールに疎い私には何がどう違うのかよくわからないのだが。

 

ミュージアムショップ。

ミュージアムにはレストランも併設されており、そこでは100種類以上のビールを楽しむことができる。ツアーが終わって時計を見ると、カタコンベツアーにはまだ30分以上あった。喉も渇いている。ビールは苦手だけれど、ここまで来ておいてビールを試さずに帰るのもつまらない気がする。一杯くらいは試してみようかとカウンターに腰を下ろした。

とはいっても、何を注文すればいいのか全くわからない。どうせ味の違いはよくわからないのだからショップにあったチョコレート味のビールを飲んでみるべきか、、、。迷っていると店の人が「クラフトビールのテイスティングはいかがですか?5種類を試せますよ。チョコポーターも含まれていますよ」と言うので、それを頼むことにした。

一番右の色の濃いのがチョコポーターというビール。5種類を一口づつ試してみた。

 

うーん、、、、全部苦い。やはり無理!

残念ながらビールの味のわからない女なのであった。残りは夫に飲んでもらった。しかし、ビールは飲めなくともビール博物館はかなり面白かった。ビールの好きな人だったらもっと楽しめるに違いない。

 

 

 

久しぶりにライプツィヒへ行って来た。ライプツィヒ旧東ドイツではベルリンに次ぐ第二番目の大都市で、見所がとても多い。これまで何度か訪れているが、まだほとんど知らない状態だ。今回は一日だけの滞在だったので、2つのスポットに絞って観光した。最初に見たのはライプツィヒ学校博物館( Schulmuseum – Werkstatt für Schulgeschihcte Leipzig)である。

学校博物館というのはドイツ各地にあり、それぞれその町または地域の学校の歴史を紹介している。昔の筆記用具や教材など、日本のものとは違うのが興味深い。その中でもライプツィヒの学校博物館は特徴ある博物館だ。ライプツィヒは20世紀初頭からオルタナティブ教育運動の中心地の一つだった。ライプツィヒでは1920年に体罰が禁止され、自然の中で学ぶ共学の私立校「森の学校」が創立され、発展するなど多くの画期的な試みが生み出された町なのだ。しかし、その後ライプツィヒはナチスと旧東ドイツ(DDR)という二つの独裁政治を続けて経験し、学校教育もそれらのイデオロギーの影響を大きく受けることになった。

 

ライプツィヒ学校博物館の常設展示は1933年までのライプツィヒの学校の歴史と、1933〜1989年までの歴史の二つのフロアに分かれている。

 

昔の理科教育に関する展示。

 

歴史を感じる古い実験器具。他にも昔の算数の教材や筆記道具など古い学校用具がいろいろ展示されていて興味深い。見るだけでなく、課外授業として小学校の生徒たちが昔の学校を体験できるワークショップなども行なっている。

学校用プラネタリウム。

 

前半の展示も面白かったが、後半の1933年以降の展示はとても考えさせられるものだった。

ナチスの時代の教室風景。ナチスが政権を取ると、せっかく廃止したばかりの体罰が教育現場に再び導入された。

算数の教科書にはキャンプファイヤーを囲むヒトラーユーゲントの少年たちが描かれている。

ナチス以前、ライプツィヒにはボーイスカウトなど多くの青少年組織が存在したが、ナチスはヒトラーユーゲント以外の全てを禁じた。反ナチスのグループを結成し活動する若者もいたが、彼らは弾圧され、投獄や更生施設への収容など、処罰の対象となった。上の写真にある電話機の受話器を耳に当てると、ヒトラーがヒトラーユーゲントの少年少女たちに向かって行った演説やヒトラーユーゲントに属していた子どもたちのインタビューを聞くことができる。

 

 

ナチスによる洗脳の時代がようやく終わったと思うと、ライプツィヒを含む東ドイツでは、今度はSED(ドイツ社会主義統一党)による洗脳の時代が始まる。

自由ドイツ青年団(FDJ)を創設したエーリッヒ・ホーネッカーの肖像画が飾られたDDR時代の教室風景。自由ドイツ青年団は社会主義の理想の滋養を目的に14歳から25歳の少年少女を対象とした組織だったが、後に14歳未満の子どもに対しても「ピオニーレ(Pioniere)」(Thälmanpioniere 10〜14歳 Jungpioniere 6〜10歳)と名付けられた組織が設けられる。ピオニーレに屬する子どもたちはユニフォームとして白いシャツの首元に「ピオニーレ・トゥーフ」というスカーフを巻き、青いズボンやスカートを履いた。

この時代の算数の教科書にはピオニーレのユニフォームを来た子どもが描かれている。ピオニーレへの参加は任意だったが、学校のクラスが実質的にピオニーレの単位と同じだったため、組織に参加しない子どもは疎外感を味わうことになり、その後の教育機会において様々な不利を被った。

 

戦後、西ドイツ同様に東ドイツにも他の社会主義国からの出稼ぎ労働者など少なくない数の外国人が生活していた。西ドイツでは戦後、教育の場において異文化理解に力が注がれたが、東ドイツでは特にテーマとなることはなかったそうだ。旧東ドイツにおいては人種や国籍の違いよりも、自由ドイツ青年団に参加しないことやキリスト教を信じていることなどイデオロギーに賛同しないことが異質とみなされた。壁崩壊直前の1989年には全体の88%が組織に参加していた。

 

どの国においても基礎教育は全ての子どもに必要なものだが、教育はしばしば特定のイデオロギーを子どもに植え付けるための手段となる。自由に意見を述べることができなかったり、周囲と違っていることを非難される環境は教育が本来持つはずの意義を失わせる。

展示パネルの一つに描かれていた次の文面が印象に残った。
子ども時代、青年時代に権威的な集団教育を受け、個人的な発展の機会を十分に与えられなかった者は、自信を確立することができない。社会性を育む時期に自らのパーソナリティを自由に発展させる機会が十分になかった子どもは、異質な人間を脅威とみなしがちになる。社会の問題のスケープゴートにされ続けた者は、自らその行動パターンに陥りがちである

 

 

注: この博物館は残念ながら閉鎖したようです。別の場所への移転計画があるようですが、現時点では確定的な情報がありません。本記事は過去の情報としてお読みください。

ツヴィッカウでホルヒ博物館を見た後はコンビチケットで入れるもう一つの博物館、「トラバント博物館」(International Trabant-Register、通称Intertrab)へ行くことにした。

カーナビを使ったのにも関わらず、工事で通行止めになっている場所があったりして、なかなか見つからない。いろんな人に聞いて、ようやく探し当てた。

えっ、ここ、、、、!?

入り口。

係員はおじさん一人。売店(?)ではビールも買える。

倉庫にトラバントや関連グッズを並べただけのこのミュージアムを運営するのは20年ほど前に結成されたトラバントファン同好会、Internationales Trabant-Register e.V.。

私がドイツに来たベルリンの壁崩壊直後はトラバントは「ダサいもの」の代名詞のような車で旧東ドイツの人々は西側の自動車を所有したがったし、旧西ドイツの人々もトラバントを見て苦笑していたものだが、それから30年近く経った今ではレトロな車としてツーリストにも人気だ。

トラバントパトカー。最高時速100kmしか出なかったようだ。それでパトカーが務まるの?と思ってしまうが、そもそも旧東ドイツはトラバントしか走っておらず、そのどれもが低速でしか走れなかったのだから特に不都合はなかったのだろう。

これも東の人には懐かしいMINOL石油のガソリンメーター。

DDR時代のキャンピングスタイル。

あまり見かけることはないけれど、オープンタイプもあったようだ。

内装は極めてシンプル。

「Super-Trabi」と呼ばれた1988年製。有名人が乗っていた。

現在、特別展示として子ども用の乗れる車のおもちゃを展示している。

鯉?

よく見るとDDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのシールがたくさん貼ってある。

乳母車おもちゃのシンプルなデザインがいい。

トラバントレース、、、、。

冗談としか思えないけれど、当時は真面目だったのだろうな。

よくわからないポスターも貼ってあった。

トラバントは可愛くて好きだけれど、ホルヒ博物館を見た後で見るとギャップがあまりに凄くて、同じ工場で作られた製品だとはとても信じられない。

以下はツヴィッカウにおけるトラバント生産に関する動画。(ドイツ語)

 

ケムニッツを午前中に出発し、途中、リヒテンシュタインの木工美術館、Daetz-Centrumを見てからさらに西へ移動し、ようやくツヴィッカウ(Zwickau)に到着。ツヴィッカウはケムニッツとはまた雰囲気の違う町で、Gründerzeit様式と呼ばれる19世紀後半の建物が残っている地区もあってなかなか趣があった。通りかかった住宅街に建つ教会が見事で、思わず車を停めて写真を撮る。

 

Moritzkirche

 

さて、ケムニッツ同様ツヴィッカウにもミュージアムはいろいろあるが、その日のうちに家に帰らなければならなかったので、的を絞らなければならない。今回、白羽の矢が当たったのは、August-Horch-Museum

 

ツヴィッカウは車の町である。(作曲家ロベルト・シューマンの生まれた町でもある。)ドイツに車の町はたくさんあるが、その中でもツヴィッカウは戦前の高級車ホルヒを生み出した町として有名だ。

と知ったようなことを書いているが、実は私はホルヒという車メーカーのことは全く知らなかった。ホルヒはかの「アウディ」の前身だそうである。1898年ホルヒ社を創立したホルヒ氏が経営陣とケンカして飛び出して1910年に新たに作った会社がアウディだ。その後、ホルヒ、アウディは米国の自動車メーカーのドイツ進出に対抗すべく、オートバイメーカーのDKW及びヴァンダラーとともに「アウトウニオン」を結成。第二次世界大戦までケムニッツを本拠地に自動車・オートバイを生産した。

ホルヒ博物館はかつてのアウディの工場の建物を使っている。

 

ドイツ全国にはなんと250を超える乗り物系(主に車やバイク)ミュージアムがあるらしい!いやはや、、、、。まさに車大国、ドイツ。しかし、自動車工場の建物を利用したミュージアムは全国でもここだけだとか。

 

館内にはホルヒの様々なモデルが展示されているとともに、ホルヒ社が辿った歴史を壁のパネルとオーディオガイドで知ることができる。

 

しかし、、、車に関する背景知識がほぼゼロの私は、どれを見ても「カッコイイ」「なんか凄そう」しかわからない、、、。一応説明は真面目に読み、オーディオガイドも聴いていたが、正直なところ、ちんぷんかんぷんであった。残念。

というわけなので、今回は説明は省いて写真だけ並べさせてもらおう。

 

ホルヒはナチスの公用車としても使われた。このタイプの第一号はブエノスアイレスのドイツ大使館に納品された。

 

 

これはどこかで何かの役に立ちそう?と思い、写真を撮る。

 

軍用車としても使われた。

 

 

 

アウトウニオンは敗戦後、占領ソ連軍により解体された。終戦直前に西ドイツのインゴルシュタットに逃れた経営陣によりアウトウニオンは再結成され、その後ダイムラー・ベンツに吸収合併されて西ドイツのメーカーとして発展を遂げる。かたや東ドイツの町となったツヴィッカウのホルヒ工場は東ドイツ人民公社ザクセンリンク(VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau)の名の元にDDRのシンボルとして今も根強いファンのいる「トラバント」を生産することとなったのである。レーシングカーで華々しいスタートを切り、超高級車ブランドとして世間を魅了したホルヒの工場が後にはトラバントの生産工場になったと思うと、なんだか物哀しさを覚えるなあ。

 

このホルヒ博物館はこの博物館だけ単独で拝観することもできるが、コンビチケットでもう一つの別の博物館とセットで見るのがおすすめだ。そのもう一つの博物館とは、、、、。次回の記事に続く。

 

 

一泊二日弾丸まにあっく旅行の二日目には、ケムニッツから南西へ約50kmのところにあるツヴィッカウ(Zwickau)を訪れる予定だった。でも、その前に寄りたかった場所が一つ。両市の中間地点にあるリヒテンシュタイン(Lichtenstein)という小さな町だ。ヨーロッパにはドイツとスイスに挟まれたリヒテンシュタインという国があるが、それとは別である。そこへ何しに行ったのかというと、それは世界中の木工美術の一級品が見られるというデーツ・ツェントルム(Daetz-Centrum)を拝観するため。

ケムニッツ北部から車で移動すると、丘の下り坂からこじんまりとした美しい町が見える。秋が深まっており、紅葉が綺麗だった。

 

木工美術館、Daetz-Centrum。右側の建物が美術館だが、左側の建物から入り、地下を通って美術館に入るようになっている。

 

ロビーに飾られたタイの見事な木彫。

 

Daetz-Centrumは1998年に地元の名士であるDaetz夫妻が木工美術を通じた国際交流を提唱し、Daetz財団を設立して世界中から木工美術品の傑作を集めて実現した美術館だ。コレクションの中から約550点が一般公開されている他、工芸ワークショップや国際木工芸術シンポジウムも行なっている。

館内には地域ごとに作品が展示され、一巡すると世界旅行気分を味わえる。

 

チケットを買い、オーディオガイドを受け取って展示室に続く階段を降りると、階段の下にはミャンマーの籠車が置かれていた。最初から凄い。

 

この美術館のために特別に作られたというニュージーランドの先住民族、マオリの門。オーストラリアのアボリジニーと異なり、マオリは古くから独自の木工芸術の伝統を持っていたという。

 

インドネシア、イリアンジャヤの木彫りの像。祖先崇拝の儀式で使われるものだ。もう20年以上前になるが、私は文化人類学を専攻していたことがあるので、かなりテンションが上がって来た。オーディオガイドの説明は文化人類学的背景にも触れており、とても面白い。

 

オセアニアの次はアフリカ。これはタンザニアのマコンデ族に木彫りの彫刻。マコンデの美術品を鑑賞するのはこれが初めて。

 

ディテール。

「セクシュアル・エクスタシー」という作品。

こちらはカメルーンのもの。アフリカのいろいろな国の作品が展示されていて、それぞれ特徴が違って面白いのだけれど、私はタンザニアとカメルーン美術が特に気に入った。

 

マスクの部屋。文化人類学博物館はあちこちで見ているし、インターンをやったこともあるけれど、ここに飾られているものは文化人類学的観点よりも芸術品としての観点で集められたものなので、かなり新鮮だ。

 

ヨーロッパコーナー。Göpelpyramideと呼ばれるドイツのクリスマス飾り。エルツ地方の伝統工芸である。

 

さらに進んでいろいろな作品を眺め、振り向くと薄明かりの中、椅子の上に上着がかけっ放しになっている。あれ、なぜこんなところに?と思ってよく見ると、

これも木製?なんという柔らかな質感。

 

 

カナダの先住民族の美術。

 

中国の作品。

 

インド。

 

バリ島製のチェスピース。

 

うわーーーーー!

 

 

最後はイスラム美術コーナー。

 

モロッコの天井ドーム。

 

国のリヒテンシュタインは誰もが知っているが、ドイツ、ザクセン州の小さな町、リヒテンシュタインを知っている人はあまりいないのではないだろうか。このような田舎(失礼)にこんな素晴らしい美術館があるのだから、地方も侮れない。

誰も知らないようなマイナーな場所に面白いもの、素敵なものを見つけるのがまにあっく観光旅行の醍醐味。

 

 

 

ケムニッツ旅行二日目。朝、目が覚めたら前日の長距離運転と博物館巡りの疲れがまだちょっと残っていたが、だらだらしているわけにはいかない。ベッドから飛び出し、宿を早々にチェックアウトして外に出た。

というのは、ケムニッツの北の外れの丘陵地にあるという洞窟、Felsendomeを訪れるつもりだったから。そこは、かつて石灰石の採掘場だったところらしい。ガイドツアーに申し込まなければ中に入ることができないが、ツアーは一日に一回、午前中のみ。ホテルからの移動にどのくらいかかるかわからない。遅れてツアーに間に合わないと困ると、朝ごはんも食べずに車に乗って出発した。

 

思ったより近く、ケムニッツ中心部から20分ほどで到着。ケムニッツは「Stadt der Moderne(近代的な町)」と呼ばれていて、中心部に古い町並みはほとんど残っていないのだが、この洞窟のあるRabenstein地区は静かな住宅地で景色が美しく、趣がある。

早く着き過ぎたので、近くのガソリンスタンドでコーヒーとサンドイッチを買って、洞窟付近の空き地で食べた。ふと、「なぜ自分は一人でこんなことをしているのだろう?」と思わないでもなかったけど、せっかくここまで来たからには洞窟に入りたい。

ツアーに申し込んだのは私と、5歳くらいのお孫さんを連れた年配の女性の3人だけだった。ザクセン訛りの強いガイドさんにヘルメットを手渡される。

 

洞窟入り口。

「洞窟の内部は写真撮影できません」とガイドさんに釘を刺された。フラッシュを当てると石灰石の壁が変質する恐れがあるからだろう。写真を撮れないのは残念だけど、自然保護のためだから仕方がないね。

 

通路は狭く低く、腰を屈めないと歩けない。年配の女性はヘルメットを被り、お孫さんの手を引いてズンズンと前を進んで行く。なんだかカッコいい。

この洞窟がいつから石灰石の採掘に使われていたか正確にはわかっていないが、遅くとも1365年には利用されていた記録が残っているそうだ。1865年からは、洞窟内の気温が年間を通して約7 ℃に保たれることからビールの貯蔵庫として使われた。その後、観光化され、旧東ドイツ時代には国民の人気観光スポットとなっていた。ドイツが再統一されてからは旧東ドイツの外の観光地へも自由に行けるようになったので、以前ほど多くの人は訪れなくなったとのことである。

 

洞窟内にはコウモリの巣がたくさんあり、目の前の暗闇をバタバタとコウモリが飛んで、雰囲気満点。お孫さんは「すごい!」「かっこいい!」を連発している。

中はこんな感じ。(写真が撮れないので、絵葉書で紹介します)

 

 

ガイドの説明を聞きながら中を見て歩くだけでも十分に面白いが、この中で結婚式も挙げることができるというのだ。一番広い洞穴には椅子が並べてあった。

「ロマンチックでしょう?それに、音響がいいのでね。ちょっと椅子に座ってみてください」

言われた通りに腰掛けると、ガイドさんはプレイヤーのスイッチを入れ、音楽をかけてくれた。婚姻手続きのためのテーブルのカバーを外し、燭台を並べる。なるほど、確かにロマンチックだ。でも、気温は7℃。ウェディングドレスでは寒そうだなあ。それに、新郎新婦が入って来るにも、バージンロードはドロドロ。相当マニアックなカップル向けかもしれないと可笑しくなった。ドイツ人は変わったところで結婚するのが結構好きなのだ。たとえばこんなところとか。

 

さらに、この洞窟内ではダイビングもできる!(詳しくは以下の動画をどうぞ)

 

 

これは、、、、かなり上級者向けだろう。

 

 

出口。30分ほどでまた外界に出た。なかなか面白かった!

 

お孫さんも満足したようだ。おばあさんは私の方を見て、「子どもには小さいうちにいろんな経験をさせなきゃね!」と言い、孫を車に乗せルト、「じゃあね!」と颯爽と走り去った。

カッコいい〜。こんなおばあさん、いいなあ!

 

さてと、私も次のスポットへ移動することにしよう。

 

 

三度の飯よりも博物館が好き!

これは誇張ではなく、実際に旅先では食べることよりも博物館を優先してしまう私である。外国へ行ってそこにしかない郷土料理がある場合はもちろん食べてみたいけれど、ドイツ国内旅行のときには、美味しいものは別にいつでも食べられるのだから、限りある時間を博物館を見ることに費やすのだ。

昼過ぎにケムニッツに到着してからケムニッツ産業博物館ドイツゲーム博物館を見終わってから宿にチェックインし、時計を見ると18時。すでにほとんどの博物館は閉館している時刻である。しかし、まだ開いているところがあった!その日は木曜日だったが、ケムニッツの考古学博物館、Staatliches Museum für Archäologie Chemnitzは毎週木曜日、20時まで開いているのだ。

 

ケムニッツの考古学博物館は町の中心部にあって、アクセスがとても良い。博物館らしからぬ雰囲気の建物で、入り口には 「SCHOCKEN」という大きな文字。schockenというのはドイツ語で「ショックを与える」という意味なので、一体何のことだろうかと首を傾げた。

©︎smac

後で知ったことによると、この博物館の建物は元デパートで、Schockenというのは当時のデパート名だそうだ。1930年に建築士エーリヒ・メンデルスゾーンにより設計された。今まで知らなかったのだが、メンデルスゾーンはポツダムにあるアインシュタイン塔も手がけた著名なユダヤ人建築家だという。

 

この博物館には約30万年前にザクセン地方に最初の狩猟・採集社会が形成されてから産業化が始まるまでの間の人類の遺品が展示されている。展示品は約6200点と堂々たる規模である。3フロアに渡って年代順の展示となっている(1階はネアンデルタール人の時代から石器時代初期まで、2階には中世初期まで、3階がスラブ民族の定住から産業革命の前まで)。

 

館内は白で統一されていて、とても綺麗。

 

動物の骨もお洒落にディスプレイされている。デザイン性の高いミュージアムだ。

 

これはsmacの目玉、パノラマギャラリー。

 

考古学的発掘物もこのように飾られると、思わず見とれてしまうね。

 

ドレスデンの聖母教会から発掘されたデスクラウン。未婚の若い女性の遺体が被っていたものだそう。このように繊細で洗練された装飾品がこれほど良い状態で保存されていたことに驚く。

 

マイセンで見つかった紀元前1700〜2200年頃のアクセサリー。うわー、こんな重いものを首につけたら肩が凝りそう、、、。

 

紀元前1000〜1200年ごろの青銅器。

 

とこんな感じで、かなり良い博物館だったのだが、家からケムニッツまで何時間も車を運転し、ほとんど休憩もなく二つの博物館をじっくりと見た後だったので、実はもうヘロヘロの状態だった。オーディオガイドを聞いていてもあまり頭に入って来ない。残念、、、。

 

今回はじっくり味わうことができなかったが、是非もう一度訪れたいミュージアムである。

 

 

 

 

ケムニッツの産業博物館は堂々たるミュージアムだったが、次に向かったのはおそらく存在をほとんど知られていないであろうマイナーなミュージアム、ドイツ・ゲーム博物館(Deutsches SPIELEmuseum Chemnitz) である。

 

というのは、最近、ドイツのボードゲームが気になって仕方がない。ドイツ人は老若男女ボードゲームが好きで、多くの家庭では居間の棚にボードゲームの箱が山積みになっている。子どもだけでなく、大人同士でもシュピールアーベント(ゲームの夕べ)と称して数人が集まり、夜通しゲームをして遊んだりする。

ドイツでは年間400〜600の新しいボードゲームが市場に出るとされ、まさにボードゲーム大国である。国外にもドイツのボードゲームファンは多いようだ。

実は私はこれまでそれほどボードゲームで遊んで来なかった。パズルや数独のようにシングルタスクを一人で黙々とこなすタイプのゲームは大好きなのだが、頭の回転が遅いので複雑なゲームはどちらかというと苦手。クリスマスに義両親の家でトランプや定番のゲームをやるくらいだった。ところが、ドイツ国内の歴史系の博物館を回っているうちに、ドイツ人は政治や歴史上の出来事も、ことごとくボードゲームにしてしまうことに気づいたのだ。例えば、ベルリンの壁ゲーム、冷戦ゲーム、ベルリンの壁崩壊ゲーム。宗教改革から500年の今年は宗教改革ボードゲーム、Lutherがリリースされた。

ゲームで遊びながらドイツを知るっていうのもいいんじゃないか?そんな気がしているのである。そんなことを考えているうちにドイツ・ゲーム博物館に到着。

 

新しいが、倉庫のような建物。

うっかりして会館の20分も前に行ってしまったのだが、館員さんに「本当はまだだけど、どうぞ入って」と中に入れてもらった。おまけに「遠いところから来たのね。じゃ、入館料はいいわ。案内するわね」と無料で中を案内してもらえることに。ドイツ・ゲーム博物館はもともとは1986年、ハンブルクに設立された。しかし、コレクションが膨大となりスペースが足りなくなったため、1995年にケムニッツへ移転。なぜケムニッツかというと、旧東ドイツ時代、ゲームやおもちゃの6割がこの町で生産されていたからだ。現在、このミュージアムには万単位の数のゲームが保管されている。

 

ミュージアムの1階部分は遊ぶスペースで、壁際にボードゲームがぎっしり積み上げられている。

ゲームは実際に遊んでみなければ始まらない。ここでは誰もが気軽にボードゲームで遊ぶことができる。地元のゲームメーカーがこのミュージアムのスポンサーとなっており、最新作を提供しているそうだ。ドイツには各地にシュピールカフェと呼ばれるゲームカフェがあるが、その中でもここが特に多くの種類のゲームを揃えていることは間違いない。子ども向けゲームイベントも頻繁に開催している。

2階の展示スペースへ上がる階段から1階を見下ろす。

 

1979年より毎年、選出されるドイツ年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)を受賞した選りすぐりのゲーム。

 

さて、2階の展示を見てみることにしよう。

ゲームの4つのカテゴリー、スキル系ゲーム、運によるゲーム、戦略系ゲーム、ミックスゲームごとに古いゲームが陳列されている。

スキル系ゲーム。いわゆる知育玩具。

 

これは、、、。KOSMOS社の実験キット!こんなに古くからあったのか。現代版には我が家の子どもたちも随分とお世話になった。

すごろく。

 

 

おそらくどこの家庭にもあるドイツのボードゲームの定番中の定番、Mensch ärgere dich nicht。しかしこのゲーム、インドの国民的ゲームであるパチーシが元祖だという。戦略系ゲームの棚にはチェスなどの他に古い囲碁ゲームも並べられていた。

 

第一次世界大戦ゲーム。

 

さらに、展示室の奥はDDR時代のゲームコーナーとなっていて、これが面白かった。DDR時代に生産されたゲームの80%は子ども向けで、教育効果を狙ったものだった。といっても、政治的プロパガンダの要素は濃くなかったと説明には書かれている。社会主義国家だから、ギャンブル系ゲームや資本主義的なモノポリーゲームなどはもちろん禁じられていた。しかし、それらを真似て作られたゲームが闇で売買されていたらしい。

 

DDRの愛されキャラクター、Sandmännchenのゲーム。

キノコ狩りゲームも定番だったようだ。

スプートニクゲーム。

 

80年代にMartin Böttger氏により考案された国家批判ゲーム、Bürokratopoly。当然、このようなゲームでおおっぴらに遊ぶのは非常に危険だったため、アンダーグラウンドで広がった。DDRが消滅した現在は教育ツールとして学校で使われているらしい。面白そう。遊んでみたい。

このようにドイツのボードゲームは社会を反映している。いろんなゲームをやってみたくなって来た!

 

展示を見終わって1階に戻ると、先ほどの館員さんが「ちょっとあなた、館長が来たから話していったら?」と声をかけてくれた。

「ドイツって、ボードゲームが盛んで種類がたくさんありますね。どうしてドイツではこんなに多くのゲームが発達したんでしょうか?」と聞いてみると、「そうですね。ドイツは職人の国ですからね。職人技を余暇にも活かしたと言えるでしょうね」との答えが返って来た。

「でも、今はコンピュターゲームの時代ですよね。それでもボードゲームは人気ですか」

「もちろん、コンピューターゲームもたくさん作られていますよ。でも、コンピューターゲームが広がってもボードゲームは無くなりません。それどころか、ますますボードゲームの人気は高まっていますよ。やっぱり、人と一緒に同じ空間でゲームをするって楽しいですからね」

さて、どんなボードゲームがあるのか、早速チェックしてみようっと。

 

 

旧東ドイツのマニアック観光スポットはもうずいぶん回っているが、まだまだ未知の領域がたくさんある。特に南部のザクセン州は見所が非常に多く、何度足を運んでも見尽くせない。今回はまだ行ったことのないケムニッツとツヴィッカウ方面を探索することにした。といっても1泊2日の強行軍なので、どれだけ見られるかな。

まずは、あらかじめ目星をつけておいたケムニッツの産業博物館(Industriemuseum Chemnitz)を目指した。

 

ケムニッツはザクセン州でドレスデン、ライプツィヒに次いで3番目に規模の大きな町だ。18世紀、紡績業を中心にドイツ産業革命の重要な拠点として発展を遂げて以来、ザクセン州における工業の中心地である。古くからあった機織り工場から次第に機械工業が発達し、特殊技術を持つ企業が次々と創業した。20世紀初頭にはザクセン州はドイツで最も産業の発達した地域となっていたそうだ。旧東ドイツ時代、「カール=マルクス=シュタット」と呼ばれたケムニッツの街並みは非常に近代的で風情があるとは言い難いのだが、良いミュージアムが多くある。

 

ケムニッツ産業博物館入り口。

 

館内に入るとまず目につくのがこのレーシングカー、eGon。西ザクセン大学ツヴィッカウで開発された電気レーシングカーだそう。

 

名前から想像できるように、この博物館はザクセン州の工業の歴史を伝え、産業遺産を保存・維持することを目的としている。これまで東ドイツの産業博物館をいくつか見て来たが、このケムニッツのミュージアムで展示室に足を踏み入れて真っ先に感じたのは「空間が美的であること」だった。他の産業系ミュージアムではどちらかというと錆びついたり塗装が剥がれたり油にまみれた古い機械や装置を目にすることが多かったが、ここに展示されているものは磨き上げられた美しいものばかりなのだ。

 

 

ザクセン州の工業発展の流れを示すプラットフォーム。

 

 

 

著しいスピードで産業革命の進んだザクセン州だが、急激な工業化は市民の中に階層を生み出した。労働者運動が高まる中、現在のドイツ社会民主党(SPD)の母体となった全ドイツ労働者同盟が創設されたのもザクセン州のライプツィヒである。ザクセン州はドイツの社会変革の歴史において中心的な役割を果たして来たようである。

しかし、第二次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、東側にあったほとんどの産業施設は戦後賠償の過程でソ連に接収されることになる。また、約2万社が西ドイツ側に逃れ、新たな拠点で再出発した。

百科事典出版社のブロックハウス、アウディ、レンズのツァイスなど、日本でも名前をよく知られた多くの企業は元々は東ドイツの企業だった。社会主義国となった東ドイツ(DDR)では、全面的な解体を逃れた工場は国営工場として計画経済を担ったが、1989年、国全体に「平和な革命」が広がり、ついにベルリンの壁が崩壊する。

1989年に反政府デモが起きた場所。ザクセン州は特に密度が高い。なんと163箇所でデモが行われたという。

 

なんとなく革命の中心地はベルリンのように思っていたが、ザクセンの市民らがドイツ統一のために果たした役割は大きかったのだなあ。しかし、東西ドイツが統一されてみると東の産業は西側先進国の基準を満たしておらず急激に衰退することになる。統一からわずか3年のうちにおびただしい数の人々が職を失ってしまう。

 

戦後ほぼ全てを奪われ、そしてドイツ統一が果たされたと思ったら再び産業の大部分を失うことになったとは。大変だったのだなあ。

 

 

さて、見慣れないこの大きな機械。第一次世界大戦ごろまで使われていた刺繍機出そう。刺繍機というものを初めて見た。

 

左側の図面上に針を刺し、レバーやペダルを操作することで布地に同じ模様を色ごとに刺繍して行く。

 

ちょうど担当の技術者がいたので実演してもらった。こうした機械は工場ではなく一般農家で使われていたそうだ。畑仕事のできなくなる冬季、農家はこのような機械をリースして刺繍作業に従事した。

 

 

地下には紡績業で使われて来た様々な機械が展示されている。

 

以前は機械にはほとんど興味がなかった私だけれど、このミュージアムの機械を眺めていると、機械というのも美しいものだなと感じる。機能美にすっかり見とれてしまった。

 

 

 

 

美しいとは思うものの、機械については詳しくないので眺めているだけ。でも、だんだんと産業史が面白くなって来た。この「まにあっくドイツ観光プロジェクト」(と自分で勝手に名付けた)を始めてから産業遺産を見て歩くようになったのがきっかけだが、年を取るにつれ物事を時間の経過の中で考えるようになったことも関係しているかもしれない。若い頃には興味が持てなかったいろいろなものを面白いと思えるようになって来たのは嬉しい。

ということで、ケムニッツ観光の最初のスポットには満足した。この博物館ではガラス張りの展示スペースでロボットが車を作っているところを観察することもできるので、小さな子どもも喜びそう。

 

 

 

 

どちらかというと硬派な分野のスポットを紹介することの多い、この「まにあっくドイツ観光」ブログであるが、たまには趣向を変えて生活文化を扱ってみよう。今回のテーマは服飾である。

そう思いついたのも、ブランデンブルク州の外れも外れ、メクレンブルク=フォルポンメルン州との県境に「マイエンブルク城モード博物館(Modemuseum Schloß Meyenburg)」というものが存在することにたまたま気づいたからである。

日曜の朝、「本日のプログラムはモード博物館に決定!」と高らかに宣言したが、夫はファッションには興味がない、自分はまだ寝ていたいと言う。そこで今回は一人で出かけることにした。

 

 

行ってみると、Meyenburgは眠ったような町であった。メインストリートを通過しても、何か面白そうなものがありそうには見えない。

しかし、探していた城、マイエンブルク城(Schloß Meyenburg)は確かに存在した。

こじんまりとしているが、素敵なお城である。

 

表に小さな看板が出ている。

しかし、入り口のところで「写真撮影はダメですよ」と言われてしまい、軽くショックを受ける。ファッションのミュージアムなのに写真が撮れないとは。そこで、展示が気に入ったらブログで紹介したいのだがと相談したところ、特別に後から写真を何枚か提供して頂けることになった。よかった、よかった。ということで、ここから掲載する全ての写真の著作権はModemuseum Schloß Meyenburgにある。

 

このモード博物館では、東ドイツFürstenwalde出身の服飾デザイナーでありジャーナリストのJosefine Edle von Kreplさんのプライベートコレクションを展示している。コレクションの内容は1900年代から1970年代までのドイツの女性の衣装とアクセサリーだ。

 

展示は年代順に、1900年頃の衣装群から始まっている。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

ヨーロッパでは英国で1881年に”Rational Dress Society”が設立され、女性の服装の改革運動が始まった。きついコルセットで体を締め付けた「女性らしさ」よりも快適さや合理性を重視すべきだという考えが広がりつつあったのだ。しかし、女性たちがそれまでの理想像から解放されるまでには長い時間を要した。1906年、フランスのデザイナー、ポール・ポワレがコルセットを必要としないデザインのドレスを考案したことにより、女性の服装が大きく変化することになる。

モード博物館に展示されているこの時代の衣装は、いわゆる女性的なオーナメントが少なく、男性の服装を連想させるものが多い。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1910年頃のサマードレス。この頃、服飾の世界に初めて実用性と美的要素を組み合わせた「デザイン」という概念が生まれた。ドイツ語圏では1911年に「ウィーン工房」が設立される。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920年代のドレス。この頃にはベルリンがドイツのファッションの中心地となっていた。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

同じく1920年代の服装。この辺りのデザインは現代でも通用しそう。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1920-30年代に流行したオリエンタリズム。

 

ナチスの時代に入ると、ドイツはファッションにおいても「アーリア化」を進めた。ヒトラーはウィーンとベルリンをパリに代わるファッションの発信地にしようと計画したが、成功しなかったようだ。

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のドイツの女性の服装。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1940年代のバッグ。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1950年代のファッションの理想はイタリアのカプリ島のイメージだったそうだ。(といっても、写真のドレスのような服装がカプリ島を連想させるものであるかどうかは私にはよくわからない)

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1960年代の部屋。この時代には技術の進歩により、それまでには使われていなかった素材が使われるようになり、服飾デザインは大きく変化した。ミニスカートのような斬新なアイテムが登場し、ファッション産業のターゲットが若者にも広がった。

 

©Modemuseum Schloß Meyenburg

1970年代。こういう帽子、私も子どもの頃に被っていたなあ。

 

写真で紹介した他にも、多くの衣装やアクセサリーが展示されていて、面白い。まだ行ったことがないのだが、ベルリンにはアール・ヌーボー(ユーゲントシュティール)やアール・デコのインテリアを集めた美術館があるので、このモード博物館と合わせて見ると、より面白いかもしれない。

それにしても感じたのは、女性の服装には実にいろんなスタイルがあるなあということ。現在の流行ではなくても気に入るものはたくさんある。時代など構わずに、みんなそれぞれ好きなものを身につけたらいいのになどと思ってしまった。そんなことをしたらモードというものそのものが消滅してしまうかもしれないが。

 

服飾史に興味のある人は楽しめるミュージアムだと思う。Meyenburgは先に述べたように他にこれといったものがあるわけではないのだが、北に20kmほど行くとメクレンブルク湖沼地帯(Mecklenburg Seenplatte)と呼ばれる大変風光明媚な人気保養地が広がって入る。湖沼地帯での休暇と組み合わせると良いかもしれない。

 

 

 

10月3日は「ドイツ統一の日」で祝日だった。

私は東西に分断されていたドイツが再統一された1990年に日本からドイツへやって来た。8月1日、降り立ったフランクフルト空港は当時まだ「西ドイツ」にあった。到着した1週間後に国境を越えて「東ドイツ」を見に行った。そのときに初めて見た社会主義国の風景が今も脳裏に焼き付いている。

ドイツでの生活を始めたのは西側のケルンだったが、それからわずか2ヶ月後の10月3日、旧東ドイツの州が西ドイツに加入することでドイツは再統一された。再統一のその日、花火でも上がるのではないかと期待して大聖堂付近へ行ったら、多くの人たちが集まって統一を祝おうと待ち構えていたが、結局、花火は上がらなかった。「なあんだ」と少しガッカリしてアパートに戻った。あれからもう27年もの年月が流れたのだなあ。

ドイツ統一の日には首都ベルリンを中心にいろいろなイベントが催される。しかし今年は天気が良くなかったので、どこへも行かなかった。その代わりというわけではないが、その翌日、旧西ベルリンにある連合国博物館(Alliertenmuseum)へ行って来た。

 

 

連合国博物館は西ベルリンのClayalleeという大通りにある。ドイツの道路は歴史上の人物にちなんで名付けられているものが多い。「カール・マルクス通り」など、聞けば誰のことだかすぐにわかるものもあるが、多くはドイツの歴史に通じていないとピンと来ない。恥ずかしいことだが、私はドイツに20年以上住んでも未だにドイツの歴史に疎く、通り名になるほど有名な人物でも「誰それ?」と首を傾げてしまうことがしばしばだが、ClayalleeのClayとは第二次世界大戦後にベルリンが連合国によって分割統治されていた当時、西ベルリンで行政管理に当たっていたルシアス・D・クレイ米陸軍司令官のこと。この通りに残るかつての米軍の映画館、Outpost Theatherの建物が現在、博物館として使われているのだ。

 

外観の写真を撮り忘れてしまったので、見たい方はこちらを。二つのドアの向こうがメインの展示室で、ドアの上に”NATIONAL ANTHEM IS PLAYING NOW   PLEASE WAIT”というサインが掛かっている。これは当時、映画の前に米国の国歌が流れ、遅れて来た人は国歌が流れている間は外で待っていなければならなかったからだそう。

 

メインの展示室。

 

常設展示は4つの部に分かれ、第二次世界大戦における連合国の勝利、連合国によるドイツ及び首都ベルリンの分割統治、戦後の西ベルリンにおける民主主義、そして東西の対立が深まりつつあった1948年のソ連によるベルリン封鎖とそれに続くベルリン大空輸について知ることができる。展示の規模は大きくないが、知らなかったことが結構たくさんあって興味深かった。

 

 

戦後、西ベルリンでは自由と民主主義を標榜するメディアとして、Der Tagesspiegel、Der Abend、Spandauer Volksblatt、Der Kurierといった新聞が相次いで刊行された。

 

特に面白かったのは、当時のアメリカ軍占領セクターのラジオ局、RIAS Berlin (Rundfunk im amerikanischen Sektor)の放送クリップが聞けること。1948年にソ連により西ベルリンへの陸路と水路が断たれ(ベルリン封鎖)、西ベルリンへ空路で物資を運ぶ「ベルリン大空輸(Berliner Luftbrücke)」が始まったが、物資を載せた最初の飛行機がガトウ空港ガトウ空港に降り立つ瞬間やパイロットのインタビュー、7月25日にシェーネベルク空港に飛行機の一機が墜落したことを伝える音声からは当時のベルリンの緊張感が伝わって来る。

 

展示室の奥のステージへは左右にそれぞれ橋がかかっている(全体が写真に入らなかったので右側だけ)。ベルリン大空輸を表すドイツ語、Luftbrücke(エアブリッジの意味)のブリッジを象徴しているのだろうか。橋の手すりにはドイツ、そして世界全体が戦後どのように分断され冷戦へと突入して行ったのかが年代順に示されていて、それを一つ一つ読みながら橋を渡った。

 

大空輸においては食料品や日常雑貨の他、エネルギー源として大量の石炭が運ばれた。石炭から舞い上がる埃で飛行機内部の危機が故障したり、引火することを防ぐために特殊な「石炭袋」が開発されたそうだ。

 

大空輸で西ベルリンへ送られた「Care-Paket」と呼ばれる小包。中身は、コーヒー、ココア、セミミルクチョコレート、ベーコン、ビーフ&グレイビーソース(缶詰?)、レバーペースト、ランチョンミート、砂糖、マーガリン、ラード、ジャム、米、小麦粉、洗濯洗剤、トイレ用石鹸。

 

大空輸開始当初は1日に運ばれた物資は80トンほどだったが、輸送量は月を追うごとに増えて行き、ピーク時の1949年の4月には1万1700トンが運搬されている。上空での混雑を避けるため、飛行高度や着陸時間、停留時間などが細かく規定された。物資の大部分はガトウ空港ガトウに運ばれたが、テンペルホーフ空港も利用された。しかし、それだけでは追いつかなくなり、急遽テーゲル空港がわずか3ヶ月という突貫工事で 建設された。

テーゲル空港って、たった3ヶ月で完成したのか。それに比べて、とっくに終わっているはずのベルリン新国際空港建設工事は何年経っても進まない、、、。

ところで、ガトウ空港の方は現在、軍事史博物館となっている。当ブログでも紹介している。

ガトウ空港についての記事はこちら

 

ベルリン大空輸に関する展示がとても興味深かったのでもう少し引っ張ってしまうが、この空輸作戦にはベルリン空輸回廊(die Luftkorridore)と呼ばれる3つのルートが使われた。南回廊はフランクフルトから、中央回廊はニーダーザクセン州のビュッケブルクから、そして北回廊はハンブルクから西ベルリンへの空路である。航空機の数を確保するため、日本、グアム、ハワイ、カリブ海などの米軍基地からも航空機が調達され、またイギリス軍はかつての植民地からもパイロットを招集していたらしい。この一連の西ベルリン市民救済活動で命を落とした人々も少なからずいた。

常設展示には他にも興味深い内容が多かったが、このくらいに。

一旦、外へ出て今度は別館の特設展示会場へ移動した。

 

二つの建物の間のスペースには大空輸に使われた航空機がどーんと鎮座している。「ロジーネンボンバー(Rosinen-Bomber)」とも呼ばれた英国製軍用輸送機、Hastings TG504機である。

 

特設展示会場では現在(2018年1月28日まで)、冷戦時代のベルリンで使われた様々な物が100点、展示されている。こちらもなかなか面白い。

 

ボードゲーム、Die Mauer(ベルリンの壁ゲーム)。一対一で、それぞれがソ連とアメリカのスパイという設定で遊ぶそうだ。

ドイツは知る人ぞ知るボードゲーム大国で、老若男女、ボードゲームが大好き。しかも、歴史上の出来事はなんでもゲームのネタにしてしまう。冷戦ゲームとか宗教改革ゲームとか原発爆発ゲームまであって、もしかしたら日本人の感覚からするとふざけているとか不謹慎と思うかもしれないが、ゲームは単なる娯楽ではなく学びの要素も大いにあることからドイツでは受け入れられている。

 

戦後、西ドイツはトルコなどから多くの労働者を受け入れた。これはベルリンの占領セクターを示すトルコ語の看板。

 

 

社会主義の東ドイツ(DDR)の積み木おもちゃ。東ベルリンの大通り、カール・マルクスアレーの建物のミニチュアだ。

 

1994年のドイツ駐留ソ連軍撤退時に発行されたテレフォンカード。

 

この博物館は無料だけれど、ゆっくり見ると2時間でも足りないくらいだった。しかし、「連合国博物館」とはなっているものの、この博物館が示すのはあくまでも西側諸国、つまり英米仏側から見たベルリンである。ベルリン封鎖以降、ソ連は「あちら側」となっている。ベルリン市内には「ドイツ・ロシア博物館」というのもあるので、今度はそちらも見に行ってみようと思う。

 

 

日本にしばらく里帰りしていたので、まにあっく観光旅行に出かけるのは久しぶり。今回はなぜか、鉱物をじっくりと眺めたい気分だった。ドイツには多くの鉱物博物館があるが、家からさほど遠くない場所で規模の大きいものはないかと検索したところ、ザクセン州フライベルクのTerra Mineraliaがヒットした。

 

フライベルクはドイツとチェコの国境地帯であるエルツ山地(Erzgebirge)北部に位置する。エルツとは「鉱石」を意味し、一帯は鉱物資源の非常に豊かな地方である。フライベルクは12世紀に銀鉱山が発見されて以来、鉱業で栄えた町だ。現在も、かつての鉱山学校を母体とするフライベルク工科大学(TU Bergakademie Freiberg)があり、鉱山学をはじめ資源開発やエネルギー技術に至るまでの広範囲に渡る地質学教育・研究の中心地だという。ということは、terra mineraliaはかなり見ごたえのある鉱物博物館だと思ってもよいのではないだろうか。鉱物を見にフライベルクへ行く行くと興奮していたら、夫が「オレも行く!」と言うので、私達は大きな期待とともにフライベルクへと向かった。

 

 

Terra Mineraliaは、シュロス・フロイデンシュタイン(Schloss Freudenstein)というお城の中にある。

その日はどんよりと暗い日だったが、博物館をじっくり拝観するにはむしろうってつけの天気である。(ドイツは雨や曇りの日が多いからこそミュージアムが充実しているのではないか、などと思ってしまう)

 

内部はフロア5階分あり、一番上のフロア展示を見ながら降りて行くようにデザインされている。世界中から集めた鉱石標本は地域ごとに展示されている。非常に美的な空間だ。

暗い室内に輝く鉱物のショーケースがずらりと並んでいる。標本を見る前からもうドキドキして来た。

 

陳列されている標本はどれもうっとりするほど見事なものばかり。例えば、、、、。(相変わらず写真が上手でないけれど、どうかご勘弁を)

 

標本数は3500点。写真を撮り出すとキリがない。

 

顕微鏡を覗くのはとても楽しい。

 

また、初めて見るものに、「光る鉱物の部屋」というものがあった。暗室になっていて、中に入るとショーケースに色々な鉱物が並べられている。

一見、それほどどうということのない石のようだが、、、。

 

わっ、光った!

 

色が変わった!!

 

これらは蛍光鉱物と呼ばれるもので、紫外線を当てると発光するのだそうだ。同じ紫外線でも、UV-A(波長 315–380 nm)とUV-C (波長 200–280 nm)、そしてその両方を同時に当てた時とで色が異なって見える。大変魅力的で、結構長いこと眺めていた。

 

ギャラリーは延々と続いて行く。

こんなにも多様な美を生み出すとは、自然とはなんと不思議なのだろう。ここまで見るだけでもその膨大な数と種類に圧倒されていたのだが、さらに続きがあった。なんと1階の「秘宝の間」には驚くほど巨大な標本がいくつも陳列してあったのだ。

 

 

 

今までにあちこちで鉱物コレクションを見たが、自分が見た中ではここのは間違いなく3本の指に入る。標本数ではもっと多いところもあったと記憶しているが、Terra Mineraliaは展示の仕方が非常に魅力的だ。大満足でミュージアムを出た。

 

しかし、これで全てではないのがフライベルクの凄いところ。Terra Mineraliaのすぐ隣には別の鉱物博物館、Krügerhausがある。こちらではドイツ国内で採れた標本が見られる。

世界中から集めた鉱物を見た後だからそれほど感動しないかもしれないと思ったが、コンビチケットで拝観できるので入ってみる。

 

いやー、ここも決して侮れない。いきなり美しい鉱物断面ギャラリーから始まる。断面の模様は様々で、まるでアート作品のようだ。

 

こちらのミュージアムでも標本は地域ごとに展示されている。

 

そしてこれは何!?

 

壁一面にずらりと並んでいるのは結晶モデルだった。

19世紀に製作されたモデルである。すごいね!

 

最後に結晶のアップ写真をいくつか。

 

言葉で形容するのは無理。二つの博物館を見て、とにかく大興奮・大満足である。

 

ところが、まだあるんです、フライベルクには。この他にもさらにフライベルク工科大で鉱物や化石などのコレクションが閲覧できるというのだから、もう気が遠くなりそうだ。さらには数時間に及ぶ銀鉱山見学ツアーなどもあり、とにかく盛りだくさんである。到底一日では足りない。今回は日帰りだったので上記の二つのミュージアムだけで終わってしまったが、是非ともまたフライベルクを訪れて今回断念したものを体験するつもりだ。

 

地学や鉱物学ファンにはもちろんのこと、綺麗なものを見るのが好きな人にはとても楽しい場所だと思う。Terra Mineraliaは子どもも楽しめる工夫がしてあるので家族連れにも良い。また、大聖堂や古い劇場、教会など他の見どころもあり、チェコに近いのでボヘミア料理レストランなどもある。いつもとちょっと違うドイツ観光がしたいと思うときに良いのではないかな。

 

 

今週末はベルリン中心部から40kmほど南下したところにあるツォッセン(Zossen)市の一地区、ヴュンスドルフ(Wünsdorf)へ行って来た。

目的はドイツ最大の秘密基地の一つ、マイバッハI(Maybach I)  とツェッペリン(Zeppelin)を見学するためだ。ヴュンスドルフの静かな森の中には巨大な防空壕の残骸がいくつも並んでいるという。それらの施設は第二次世界大戦直前の1937〜39年に建設され、ドイツ陸軍総司令部がそこに移された。冷戦時代にはロシア軍により再利用されていたが、現在はミュージアムとして一般公開されている。

 

 

「禁じられた町(Verbotene Stadt)」と呼ばれる基地跡を見学するにはガイドツアーに参加しなければならない。いくつかのツアーがあるが、今回は予約なしで参加できる基本的なツアーに申し込んだ。ツアー時間は約90分。

禁じられた町の敷地内に入り、まずはマイバッハIの敷地を見て回る。Maybach Iには大きさと形が同一の防空壕機能を備えた建物(ブンカーハウス)が12棟並んでいる。Maybach Iと、その後隣接する敷地に建設されたMaybach IIは1947〜1948年にロシア軍により爆破され、現在、廃墟の状態で保存されている。

 

ハウスA2。地上3階、地下2階の5階建として設計されたブンカーハウスの大きさはいずれも幅16m、奥行き36m。1階の一部と地下は特に強力な厚さ1mの鉄筋コンクリートの天井と壁で守られたコア部分を成していた。

 

当時はカムフラージュのため屋根や外壁は別の建材で覆われ、ダミーの煙突や窓が取り付けられていた。それぞれの建物には指令棟、調達棟など異なる機能が与えられ、互いに地下9mの深さの地下通路で繋がっていた。業務は通常、地上階のオフィスで行われていたが、空襲警報が発せられるとスタッフは機密文書やタイプライター、無線機、武器、ヘルメットそしてガスマスクなどを持って地下へ避難した。

 

 

6つのブンカーハウスを見て回った後は、通信基地Zeppelinの内部に入る。

 


 

この通信基地は地下20mに及ぶ3階建てで、現在の内部温度は10℃ほど。とても冷んやりとしている。暖房設備はもともとないが、建物が使用されていた当時は常に500人を超える作業員の体と古い機器から発せられる熱気で寒いどころか、むしろ暑かったらしい。

 

長い長い通路。このZeppelinもやはり第二次世界大戦後に爆破されたが、冷戦時代、ソ連軍が修理し、再利用した。

 

ツアーはこれで終わり、敷地の外に出た。しかし、見るべきものはこれだけではない。フェンスで囲まれた敷地の外部にも防空壕がいくつも残っているのだ。

 

Winkelと呼ばれる防空壕。尖っているのでSpitzbunker(尖ったブンカー)とも呼ばれる。「禁じられた町」内部への避難を許可されない警備員や民間作業員の一時避難用に建てられたもの。

 

基地周辺にニョキニョキと巨大なタケノコのように立っている。

 

アパートの庭にもどーんとそびえているのには驚いた。現在ここに住む人はどんな気持ちでこのブンカーを眺めているのだろうか。このようなSpitzbunkerの内部は8階まであり、最高315人を収容できる。こうしたタイプの防空壕は地下に掘るものよりも建設が簡単でコストも安く済むため、多く作られた。地上にあるとその分危険なように感じるが、上から見た面積を小さくすることで空から降ってくる爆弾をうまくよけることができるという。

 

そして、ヴュンスドルフにはさらにいくつかのミュージアムがある。その一つはプロイセンの時代からすでに軍事拠点だったヴュンスドルフの軍事史を知ることのできる駐屯博物館(Garnisonsmuseum)だ。

 

 

展示品は豊富なのだが、年代順に展示されておらず、説明文の大部分は壁ではなく各コーナーに置かれたファイルの中にあるため、軍事史の予備知識がないとちょっとわかりづらいのが残念。

 

 

ヴュンスドルフには第一次世界大戦の捕虜収容施設があった。捕虜の多くはイスラム教徒で、「捕虜には人間的な待遇をしていますよ」という対外アピールのため、敷地内にはモスクが建設された。このモスクは現在は残っていないが、ドイツ国内に初めて建てられたモスクである。

 

野戦病院に関する展示。

 

「赤い星ミュージアム(Roter Stern)」も見学した。こちらではロシア/ソヴィエト軍に関する展示が見られる。

 

 

ロシア語は読めないので、何が書かれているかわからない。残念。

 

ヴュンスドルフはかなり見応えのある観光スポットだ。ベルリンからのアクセスも良い。それにしても、ドイツはどこもかしこも戦争の傷跡だらけだ。暗く悲惨な過去など見たくないと思ったとしても、避けることは到底できない。戦争の恐ろしさを繰り返し繰り返し思い出させられる。

 

 

ここのところ忙しくてすっかり間が空いてしまったが、ようやく時間に余裕ができたので、久しぶりにまにあっく観光に出かけることにした。晴天の今日は野外の観光スポットが目的地としてふさわしい。そこで、かねてから行きたいと思っていたデッサウ近郊の野外ミュージアム、Ferropolisへ。

FerropolisとはFerro(鉄の) + polis(町)、「鉄の町」を意味する。そこはザクセン=アンハルト州Gräfenhainichen近郊の湖にせり出した細長い半島。東ドイツ時代には褐炭の露天掘り場だった場所である。ドイツが再統一の翌年、1991年に採掘場は閉鎖されたが、使われていた5台の掘削機が陳列されているという。このブログでこれまでにいくつか紹介して来たように、旧東ドイツには閉鎖後の産業施設が観光地されているところがたくさんある。褐炭産業関連のミュージアムが特に多いが、このFerropolisもその一つだ。デッサウ・バウハウス基金の発案により建設された。

 

 

国道を降りてFerropolisの案内標識に従って周囲に何もない田舎道を進んで行くと、遠くに掘削機が見えてくる。当時の炭鉱従事者のポートレートが壁面一面に描かれた建物のすぐ向こうがミュージアムだ。

駐車場脇の入り口で入場料を払い、オーディオガイドを首に下げて見学開始。

(Image: Ferropolis)

半島を上空から見たところ。中央のアリーナを取り囲むように5台の掘削機が配置されている。

 

湖に面した位置にあるのはMad Maxと名付けられたバケット掘削り機。稼働中は1時間に1920立方メートルもの土を運んだという。

 

Mosquito(手前)とMedusa(奥)。

 

 

 

5つの掘削機のうち、最大規模のGeminiには上ることができる。

 

 

上からアリーナを見下ろす。

 

 

バケットホイールエクスカベーター、Big Wheel。

 

 

 

敷地には小さなミュージアムもある。しかし、展示からはあまりやる気が感じられなかった。

 

採掘中に氷河時代のマンモスの骨が出て来たらしい。

 

「戸籍課」と書いてある部屋。

 

中はかつてのコントロール室。ここで入籍式が挙げられるらしい。ドイツ人は変わったところで結婚するのが好きなようだ。

 

この野外ミュージアム敷地ではライブコンサートや蚤の市などの催しが頻繁に開催される。

 

Melt Festival 2012 – Der Freitag – 13.7.2012 (Image: Ferropolis)

こんな感じにライトアップされるらしい。野外コンサートの会場としてはかなり良さそうである。

正直なところ、展示室の展示は充実していないので、この野外ミュージアムは学びの場というよりもイベント会場として捉えた方が良い。子ども連れであれば蚤の市などの昼間のイベントに、大人は夜のイベントが楽しめそうだ。

 

 

LüchowのStones Fan Museumは居心地が良かったが、あまり長居もしていられない。Lüchowまで来たからには、まだ他に見ておきたいものがあった。それは、この地方に特徴的なルンドリンクスドルフ(Rundlingsdorf)と呼ばれる集落である。

ドイツには約3万の村がある。集落の形態にはいくつか種類があって、最もよく見られるのはハウフェンドルフ(Haufendorf)というもの。民家やその他の建物が特に規則性なく集まって形成されている集落だ。一本の道路の両脇に建物がすずなりに並ぶ集落は、シュトラーセンドルフ(Straßendorf)と呼ぶ。私が住むブランデンブルク州ではシュトラーセンドルフをよく見かける。

ネットサーチをしていたら、Lüchow周辺はヴェンドラント地方と呼ばれ、この辺りにはRundlingsdorfという特徴的な形態の集落が多いことがわかった。Rundling(ルンドリンク)とは、輪のように丸く民家が立ち並ぶ集落だ。

 

こんな感じ。(Rundlingsmuseumの展示にあったものをカメラで撮影)

 

Lüchow周辺のルンドリンク群。青い家のマークの場所がルンドリンク集落だ。赤いラインはツアールートである。それぞれの村は数kmづつしか離れていないので、自転車でも回ることが可能。Lüchowを出た私は、まずは4km離れたLübeln村(2の番号の場所)へ行くことにした。この村にはルンドリンクミュージアムがあるという。

 

Lübelnのルンドリンク・ミュージアム(Rundlingsmuseum)。この建物はもちろん、ルンドリンクの建物の一つ。

 

この木のある場所を中心として、木組みの建物が輪のように並んでいるのだが、写真はうまく伝えられない。Lübelnのルンドリンクは現在、野外ミュージアムとなっていて、この地方の伝統的な農村の暮らしを知ることができる。

 

村の教会

 

ヴェンドラント地方には古くからスラブ系のヴェンド人が住みついていた。ルンドリンクという形態の集落がいつ、どのように発生したのかについてはっきりはわからないそうだが、遅くとも9世紀には存在という記録があり、スラブ民族の文化と深い関わりがあると考えられている。18世紀末にはヴェンドラント地方には約320の集落があったが、そのうちの2/3はルンドリンクだった。ヴェンド人は西スラブ語に属するポラーブ語を話していた。ポラーブ語は文語を持たなかったことから、18世紀に死滅した。

 

ポラーブ語(ヴェンド語とも呼ばれる)とドイツ語の対照表。ドイツ語とは似ても似つかない。

 

野外ミュージアムの敷地内。

 

工房

 

 

 

Lübelnだけでなく、他のルンドリンクもいくつか見ることにした。

 

 

 

壁の模様は様々。裕福な家ほど飾りが多かったらしい。

 

花のモチーフもこの地方の特徴。

 

いろいろな集落を見たが、特に気に入ったのはSateminという集落。

 

 

ルンドリンクの集落にはホテルやレストラン、ビアガーデンなどもいくつかある。私はSateminのこのカフェで休憩した。

 

ヴェンドラントの多くのルンドリンクがユネスコ文化遺産に登録申請している。

 

関連動画

 


今回で、まにあっくドイツ観光、北ドイツ編はおしまい。まだまだ見足りないが、また改めて北ドイツの面白い場所を探しに行きたい。

 

リューネブルクは塩博物館以外にも見所が多そうだったが、前日の晩、夫から電話があり、「いつ帰って来るの?」と言われてしまったので、サッサと次へ行かなければならない。リューネブルクを後にして向かったのは、Lüchowという小さな町だ。

 

なかなか綺麗な街並み。Lüchowはバウムクーヘンで有名な東ドイツの町、Salzwedelから16km北にある。Lüchowまではギリギリ、ニーダーザクセン州だ。Salzwedelのバウムクーヘンは日本人にも密かな人気で、観光にSalzwedelを訪れる人も結構いると聞いている。しかし、Lüchowまで足を延ばす人はおそらくほとんどいないだろう。ここに何があるのか、知られていないから。

しかし、私は発見してしまった。このニーダーザクセン州の外れの町にあるマニアックな観光スポットを。

 

Stones Fan Museum。そう、ここはローリング・ストーンズのファンのためのミュージアム。ネットサーフィン中に偶然発見した。でも、田舎町のストーンズミュージアムなんて、どうだろう?たいしたことないのでは?と思わないでもなかった。しかし、平均滞在時間1.5時間と書いてあったし、リューネブルクからそう遠くないので、とりあえずやって来た。

 

 

 

中に入ると、すぐにオーナーの男性が近寄って来た。「ハロー!あんたもストーンズファンかい?」

 

オーナーのUlrich Schröder氏(通称、Uli)。ここではウリさんと呼ぶことにする。

 

「あ、ええ、まあ」と曖昧に答えたが、実は私はストーンズファンではないのだ。ローリング・ストーンズは嫌いではないし、気に入りの曲もあるが、特にファンというわけではない。なぜならば、私はビートルズファン、いや、正確にいうと、往年のウィングスマニアなのである。(理由になってない?)ウリさんにはウィングスマニアであることは伏せておくことにしよう。

 

「ゆっくり見て行ってよ。何か知りたいことがあったら、遠慮なく聞いて」

 

ミュージアムの中はストーンズグッズでいっぱい。

 

ほ〜と思いながら見回していると、ウリさんがまた寄って来た。

「6年前にオープンしたの、このミュージアム。すごいでしょ。こんなの世界に二つとないよ」

世界に二つとしかないとはちょっと信じられないが、ドイツ国内で他に知らないのは事実。でも、なぜこの町に?

「オレ、この町の生まれでさあ。若い頃からずっとストーンズコレクションやってたんだよね。だから、Lüchowにこのミュージアムがあるのは偶然ね。まあ、市の協力なんかも得てね。でも、ローリング・ストーンズっていう名前はつけちゃいけないの。ほら、商標だからさ。それで、ストーンズファン・ミュージアムってことにしたよ」

 

「これがうちのステージ。ここで、ストーンズのコピーバンドが演奏するんだ」

 

 

ストーンズと関係あるか知らないが、いい感じ。

 

「このビリヤード台はね、ストーンズのコンサートで楽屋にあったものなんだよ。うちがミュージアムをオープンするっていうことで、お祝いに貰ったんだ。このストーンズ人形は◯◯っていうアーチストの作品で、、、これから色付けするんだけど」(アーチストの名前を聞いたけれど、忘れてしまった)

 

「こっちの小さいストーンズ人形はルール地方の主婦が趣味で作ってんの。似てるでしょ?」

 

「ビリヤード台はメンバー一人一人のサイン付きだよ」

 

「こないだはアルバート・ハモンドのライブやったばかり」

 

「喉乾いてない?なんでもあるよ」

 

ライブ動画が流れている。う〜ん、なんか居心地いいな、このミュージアム。平均滞在時間1.5時間って、わかるきがする。ここに座って何か飲みながらライブ見ていたいよね。

 

「あ、向こうのドア開いてるところ、トイレね。男子トイレだけど、よかったら見てって。写真撮っちゃっても全然、構わないよ」

 

どれどれ、、、。

おーっ。この後ろ姿、ウリさんだね。

 

 

こちらは女子トイレの壁。

 

 

こんなテーブル、欲しい人いるのでは?

 

「そうそう。ここを出てすぐのところにカフェもオープンしたんだ。よかったら寄って行って。メインストリートね。それから、Gartenstraßeの全長40メートルの壁にストーンズのグラフィティがあるよ」

 

ストーンズに詳しくないからグッズを見てもよくわからなかったが、雰囲気は悪くない。近所だったらちょくちょく遊びに来るかもしれないと思いながら、「ありがとう!じゃ!」と言ってミュージアムを出る。

 

ウリさんのカフェを覗いてみた。

 

カフェっていうか、、、。インビス(軽食堂)という感じ。グラフィティも見るつもりが、メインストリートに素敵なカフェを見つけてしまい、ケーキ食べたりしてるうちにすっかり忘れてしまった。(こちらのサイトに画像あり)

 

バウムクーヘンとストーンズ、両方好きな人はSalzwedelとLüchowをセットにして観光すると良さそうだ。

 

 

 

 

まにあっくドイツ観光旅行、北ドイツ編、ブレーマーハーフェンを堪能した後はリューネブルクへ移動した。「ドイツ塩博物館」を訪れるためだ。 さらに読む

ドイツ船舶博物館の中を見た後は、館外の博物館港に展示されている潜水艦、Wilhelm Bauerを見学することにした。この潜水艦は技術博物館として公開されており、内部を見ることができる。

 

 

 

潜水艦を前から見たところ

Wilhelm Bauerは第二次世界大戦末期の1945年に自沈したドイツ海軍のXXI型潜水艦(艦名U2540)である。それ以前の攻撃型潜水艦と比べて桁外れの速度で水中航行し、完全潜水状態での攻撃が可能な画期的技術で、当時、最も危険な兵器だった。幸い、実際に出撃することなく沈められ、戦後引き上げられた後、調査船として使われた。現在は博物館船として一般公開されている。

潜水艦の前先端に入り口があり、中に入ると船首の部分に潜水艦の仕組みなどに関する展示がある(潜水艦の内部構造)。展示の最初には、以下のような文面があった。

 

潜水艦Wilhelm Bauerは無害な技術遺産ではありません。この潜水艦は、古い技術への郷愁に浸るためではなく、技術の利用について冷静に考えるために展示しています。歴史と意識的に向き合い、事実を明確に提示することで批判的な検証が可能となります。

この潜水艦そのものが戦争で実際に使われたわけではないが、こうした攻撃型潜水艦は殺戮の道具であり、中に入って無邪気にはしゃぐような物ではない。

船首の先端部分は魚雷を格納するスペースとなっている。

一通り展示を読んだ後、中に入った。

船首から奥への入り口

艦長室

兵士の寝床

バッテリー

酸素ボンベ

ずっと奥まで入れる

ペリスコープ(潜望鏡)

 

技術の発展は素晴らしいことだが、技術系の博物館では技術開発のモチベーションが往々にして軍事であるという事実に向き合わされる。また、このような潜水艦に乗った兵士の心理などを想像して、なんとも重苦しい気分。でも、潜水艦が沈む仕組みなどは純粋に興味深いし、潜水艦の中を見る機会など滅多にないので、入ってみて良かった。

 

 

 

ブレーマーハーフェン観光の続き。

ブレーマーハーフェン滞在中は雨だったのだが、この町には面白い博物館がたくさんあり、それが海沿いに集中しているので、天気が悪くても問題なく観光を楽しむことができた。Klimahausの次には、すぐ側のドイツ船舶博物館を見学した。

ドイツには数多くの博物館があり、テーマの似通ったものも各地にあるが、「ドイツ◯◯博物館」と「ドイツ」が最初についているところは大体、見応えがある(と思う)。

 

 

名前の通り、ドイツにおける船舶交通の技術史を展示した博物館。この博物館はいわゆるForschungsmuseum(研究博物館)と呼ばれるタイプの博物館で、同時に研究機関でもある。研究の成果を同じ館内で一般公開するため、研究者は直接的に市民の啓蒙に携わることができ、市民の側も研究を間近で知ることができる。

この博物館も内容が非常に濃く、かなりマニアック!(でも、普通に楽しめる。子ども連れがたくさんいた)

展示分野は多岐に渡るが、この博物館の目玉はなんといっても、中世の難破船、Bremer Kogge(ブレーメン・コグ)だ。

 

巨大な展示物!この船は1962年、ブレーメン近郊で北海へ注ぐヴェーザー川沿いの港の拡張工事中、偶然に発見された。調査の結果、1380年頃に建造された帆走商船、Kogge(コグ船)であることがわかった。ブレーメンはハンザ同盟都市の一つであるが、中世における北海やバルト海の貿易にはこの船のようなコグ船が使われていたそうだ。

 

このコグ船の発掘は当時、ドイツ国内のみならず世界的なセンセーションを引き起こし、それがこの博物館の建設にも繋がったとのこと。しかし、600年もの長い間水中に沈んでいたこの大きな船を破壊しないように陸に引き上げ、保存するのは相当に大掛かりな作業で、一般公開されたのは2000年になってから。

 

以下はブレーメン・コグのデジタルモデル。

 

 

難破船と書いたが、実はこのコグ船は実際に後悔に使われたことはなかったとされている。造船後、何かの不具合により使用前にその場で沈んでしまい、そのままになっていたらしい。

 

当時のコグ船の発見者の未亡人が発見時の様子を語るインタビュー。

 

 

このコグ船のインパクトが凄いので、他の展示品がかすんでしまい、あまり他の写真を撮らなかったのだが、これがなかったとしても内容の濃い博物館だ。そして、博物館の建物の中だけでなく、屋外にも現存する世界最古の木造船「ソイテ・デールン号(Seute Deern)」やドイツ海軍の潜水艦などが展示され、博物館港となっている。潜水艦については次の記事に。

 

 

ブレーマーハーフェンでドイツ移民ミュージアムを見た後、今度はそのすぐそばにあるKlimahaus Bremerhaven 8° Ostを見ることにした。「気候」というテーマに特化したミュージアムだ。

 

 

ブレーマーハーフェンに来たら、嫌でも目に入る大きくモダンな建物。

ホール。

 

気候ミュージアムということで、気候について総合的な展示をしているのだろうと想像していたが、入ってみると思ったのとはちょっと違っていて、気候変動に大きなウェイトが置かれていた。

 

 

メインの展示は「Reise(旅行)」と題されている。地球を旅して回り、地球温暖化によって各地域の生活環境がどのように変わるのかを知るというコンセプトだ。この写真に写っているような白いカプセルが全部で9つあり、それぞれスイス、サルディニア、ニジェール、カメルーン、南極、サモア、アラスカ、ランゲネス島(ドイツ)そしてブレーマーハーフェンを表している。旅人として一つ一つのカプセルに入ると、その地域の気候を五感で体験することができ、そこに住む人が「気候変動で変わってしまった生活」について語りかけて来る。とても良く考えられた展示だ。

 

メインの展示の他には気候変動に関して研究者らが行っている研究について展示されている。また、地球の歴史を体験できるブースなどもなかなか面白かった。

 

World Future Labというインタラクティブコーナー。気候変動から地球環境を守るためにはどうすれば良いか。ゲームをしながら学ぶことができる。

 

個人的に面白かったのは洋上風力パークに関するコーナー。

ブレーマーハーフェンはドイツの洋上風力発電の重要な物流拠点であり、2019年にオフショアターミナル・ブレーマーハーフェン(OTB)の開港を予定している。KlimahausのOffshore Centerでは洋上風力パークの展望やファクトを知ることができる。

 

海底ケーブルの断面図。長さがありすぎて写真が撮れなかったが、ブレードのデザイン説明も面白かた。

 

へえ〜と思ったのは、海中に設置する洋上風車の基礎にはこのようにいろいろなタイプがあって、

 

このようなリング状のものもある。Floating foundation(浮体式基礎)と呼ぶそうだ。水深が深すぎて着底式のタービンが建設できない場所ではこのような基礎を使うらしい。

 

この他にも、天気予報士になり切れる「お天気スタジオ」など、子どもも楽しめる仕掛けがいろいろあり、家族連れで訪れるのに良いミュージアムである。

 

Klimahausからは「このままでは地球がまずいことになる。アクションを起こそう!」というメッセージが強く伝わって来た。ドイツのミュージアムというのは一般的に淡々とした展示が多く、Klimahausはドイツのミュージアムとしてはエモーショナルな部類に入ると思う。そういう意味ではちょっと珍しいなと感じたが、オルタナティブ・ファクトなどというものがまかり通る昨今の世界状況を考えれば、このくらい感情に訴えかけてちょうど良いのかもしれない。

自分も何かしなければならないなあという気持ちにさせられた。気候変動を気にしていないわけではないが、旅行好きで車や飛行機を頻繁に利用するので、後ろめたい気持ちが常にある。しかし、旅は自分の生き甲斐だから、「環境のために旅行しない」のはあまりに辛いのである。そこがいつもジレンマ、、、。