しばらく前にベルリンにあるドイツ技術博物館を久しぶりに訪れた。
何度も行っている博物館だが、規模が大きいので一度に全てを見ることはできず、行くたびに発見がある。前回特に興味を引かれたのは航空技術に関する展示だった。その中でドイツの航空パイオニア、オットー・リリエンタールについて知った。
オットー・リリエンタールは一歳違いの弟グスタフと共に知られる19世紀の発明家である。二人は幼少期から空を飛ぶことに強い憧れを持ち、鳥の飛行をつぶさに観察してハングライダーを設計し、無数の飛行実験を行なったことで知られる。緻密な研究と実験の結果をまとめたオットー・リリエンタールの「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)」は世界中で注目を浴び、後に初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟にインスピレーションを与えた。

「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔」。写真はアンクラムの「オットー・リリエンタール博物館」で撮影したものだが、同様のものがベルリンのドイツ技術博物館でも見られる
ワクワクするなあと思いながら帰宅途中に日本食材店に寄り、そこに置いてあった日本語のフリーペーパー、「ドイツニュースダイジェスト」を何気なく手に取ると、偶然にもベルリン在住のライター、中村真人氏によるリリエンタール兄弟についての記事が載っていた。
リリエンタール兄弟と大空へ夢
中村氏の記事を読んで、ますます興味が湧いた。リリエンタール兄弟の生誕地アンクラムにはリリエンタール博物館(Otto Lilienthal Museum)があるという。行ってみよう。
アンクラムはベルリン中央駅から電車で2時間半ほど。小さな町で、第二次世界大戦で町の大部分が破壊されてしまったため、古い建物はほとんど残っていない。正直に言って、それほど魅力的な町とは言えないかもしれない。でも、今回私が見たいのは街並みではなく、リリエンタール博物館だからね。

駅から300メートルくらいのところにあるが、全く目立たない。

中に入ると、受付の前はショップと喫茶スペースになっている。右脇に小さな展示室があり、リリエンタール兄弟の生い立ちやキャリアに関する展示や動画が見られる。テーブルの上にはリリエンタールの写真アルバムなどの資料も置いてあり、面白くて真剣に見てしまった。
オットーと弟のグスタフはとても仲の良い好奇心旺盛な兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。両親はアメリカへの移住を計画していたが、実現する前に父親が急死してしまい、母子家庭となった。母親は教育熱心で、兄弟はアンクラムのギムナジウムを卒業後、オットーはポツダムの工業学校を経てベルリン王立工業アカデミーへ、グスタフはレンガ職人の訓練を受け、ベルリンの建築アカデミーへ進学した。それぞれ技術者と建築士となっても兄弟は幼い頃からの夢を捨てることなく、飛行翼をひたすら作り、空を飛ぶ実験を続けた。その主な資金源となったのはオットーが発明し、特許を取得したボイラーと蒸気機関である。

リリエンタールのボイラーはコンパクトで安全、値段も手頃だったようだ。

オットーの発明品は多岐に渡り、なんと全部で25もの特許を取得している。リリエンタール機械工場の創始者として経営にあたる傍ら、次々とハングライダーを設計・制作し、2000回を超える飛行実験を行なったというのだから、とてつもないエネルギーの持ち主である。
弟のグスタフも兄に負けずとも劣らぬ豊かな才能と創造性の持ち主で、彼のキャリアもものすごく面白いのだが、この記事ではグスタフの偉業には敢えて触れないでおく。グスタフはグスタフで別記事で取り扱いたい。
さて、そろそろ1階の反対側の展示室に進もう。

鳥のように空を飛べたらと夢想したのは、もちろんリリエンタール兄弟が初めてではない。古くはギリシア神話のイカロスに始まり、世界中の様々な場所で多くの人が空を飛ぼうと試みた。しかし、その中で確かな学術的基盤に基づいた観察と実験の蓄積により航空工学の礎を築いたリリエンタールの功績は大きい。
メインの展示室は半地下にあり、吹き抜けの天井にたくさんのリリエンタールのグライダーモデルがかかっている。オリジナルは断片しか残っていないそうで、ここで見られるのはリリエンタールの設計図を元に作ったもの。




これらはほんの一部。
展示室には実験コーナーもあり、いろいろな物理実験ができる。

片っ端からやってみた。


飛行シミュレーターもやってみた。あっさり墜落したけど。

これは「リリエンタールのコックピット」。乗ってみて良いと書いてあったので、もちろん乗ってみる。しかし、これは大変な代物である。両方の木の輪っかに脚を一本づつ通して乗り、両手でハンドルをつかむ。お尻は宙に浮いたまま。膝から下と上体を動かして操作する。こういうのに乗って空を飛ぶ実験をしていたなんて、落ちたら危ないじゃないか、、、。展示室には私の他は誰もいなかったので一人で遊んでいたが、誰かが見たら謎の東洋人のおばさんと思われたかもしれない。

リリエンタールの飛行実験の様子を動画(無音)で見ることもできる。いやー、すごいわ。天才とバカは紙一重と言うけれど、周囲の人々の目にはどう映っていたのだろうか。子どもの頃から兄と一心同体となって空を飛ぶ夢を追いかけていた弟のグスタフも、最後には「もういい加減にしたら。妻も子どももいるんだし」と助言したそうである。しかし、そんなアドバイスには耳を傾けず実験を繰り返したオットーは、1896年、「Normalsegelflug」と名付けたグライダーで250mの飛行に成功しながらも、4回目の飛行中に突風に煽られてバランスを崩し墜落、首の骨を折って亡くなってしまう。48歳だった。アメリカでリリエンタールの訃報を知ったライト兄弟は、後に遺族を訪ね、偉大なる先駆者への敬意の印として未亡人に見舞金を渡したとのこと。
博物館の2階はリリエンタールの飛行実験を撮影し続けた写真家、Ottomar Anschützの作品が展示されている。


家族と共に
簡単な紹介になってしまったが、リリエンタール博物館は小さいながらも情報量が多く、ウェブサイトも大変充実している。
博物館を出た後、アンクラムの町を歩いた。リリエンタール兄弟のゆかりの地を見てから帰ろうと思ったのだ。

父親が亡くなった後、リリエンタール兄弟は母と妹と一緒にこの家に移り住んだ。現在はあまりパッとしない(失礼)肉屋になっている。

リリエンタール兄弟の通ったギムナジウム。現在の校名はもちろん、リリエンタール・ギムナジウム。

校庭に面した建物には空を飛ぶリリエンタールの絵が。

オットー・リリエンタール記念碑。

リリエンタール兄弟モニュメント
この日は寒かったけれど、楽しかった。しかし、私のリリエンタールをめぐる冒険(大袈裟)はここでは終わらない。
リリエンタールが飛行実験を行ったのはベルリンやその近郊の丘である。最初に紹介した中村真人氏の記事にあるように、ベルリン市内のリリエンタール公園にも記念碑が設置されているが、1891年にリリエンタールが記念すべき最初の飛行実験を行ったのはポツダム近郊のDerwitzという小さな村だ。うちから近いので見に行って来た。

Derwitz村

村の中心地(といっても、すごく小さな村なので中心部がほぼ全て)には石碑が建っている
肝心の丘のモニュメントはどこにあるのだろうかとキョロキョロしたが、わからない。自転車に乗って通りかかった住民に尋ね、「あっち」と指さされた方へ向かって歩く。しかし、丘にはそれらしきものは見当たらない。しばらくウロウロし、ようやく探し当てた。

あれだ!

地味すぎて遠くからでは全くわからかった。この記念すべきリリエンタールの初飛行の場を知っている人は、一体どのくらいいるのだろう?

リリエンタールが初めて空に向かって飛んだ場所に私も立って見た。鳥の真似をしようなんて、私にはその発想のかけらすらない。でも、夢を持つこと、夢を追いかけることは素晴らしいことに違いない。自分もやりたいことをもっとやらないとなあ。私にもやりたいことはたくさんあるが、命を賭けたリリエンタールの壮大な夢と比べれば夢のうちにも入らない。リスクだってほとんどない。せっかく生まれて来て、そんな小さな夢すら追わずにどうするのよ、などと言ってみる。
グスタフ・リリエンタールについては後日書きます。
住んでいる地方について知る。ブランデンブルク州考古学博物館
先日、ミュンヘンへ行った帰りにアウトバーン沿いの考古学博物館、Kelten Römer Museum Manchingに寄り、現在、頭の中がプチ考古学ブームである。この「まにあっくドイツ観光」で過去に考古学的観光スポットをいくつか取り上げているが(カテゴリー「考古学」)、私は以前は実はそれほど考古学に興味があったわけではなかった。単なる博物館好きで、「考古学の博物館だから見よう」というよりも、「博物館だから見よう」というノリだ。でも、博物館とは面白いもので、全く知らないジャンルの博物館を一つ二つ見ただけでは今ひとつピンと来なくても、数をこなすに従って「あ、これ前に見た〇〇と関係あるやつだよね?」「前に行ったことのあるあの場所のことでしょ」などと次第にそのテーマが自分ごとになっていく。自分には関係ないと思っていた世界が自分に関係ある世界に変わっていくのだ。
ってことで、今回は自分の住むブランデンブルク州の考古学博物館へ行ってみよう!
ブランデンブルク州の考古学博物館、Archäologisches Landesmuseum Brandenburugは修道院(Paulikloster)の中にある。
いい感じ。この博物館は「ブランデンブルク州考古学博物館」なので、リージョナルミュージアムである。ドイツには博物館がたくさんあるが、特定のテーマについて地域を問わずに幅広く扱う博物館もあれば、地域に根ざした情報を扱う博物館もある。数でいうと後者が圧倒的だ。外国人として訪れる場合は「ドイツ〇〇博物館」と「ドイツ」が付いている博物館の方が全国もしくはユニバーサルな情報を網羅していてとっつきやすいと思う。地域の博物館の場合、その地域の予備知識があるか、そのテーマに特に強い関心があれば楽しめるが、そうでなければあまりピンと来ないかもしれない。しかし最近、私は地域の博物館の魅力をじわじわと感じるようになった。もともと地図好きなので、どこになんという町があるのかなどはだいたい把握しているが、それぞれの地方のイメージが立体感を帯びて来て面白い。
この博物館では約1万年前から近代までのブランデンブルク地方の人類史を知ることができる。
ポツダムのシュラーツという地区で発掘された氷河期の牛の骨。シュラーツというのは東ドイツ時代の高層団地が並ぶ地区なので、そこにかつてはこんな立派な牛がいたのかと思ったら、なんとなく可笑しかった。今自分が知っている世界は今の世界でしかないのだなと。当たり前だけどね。
穴の開いた頭蓋骨。この石器時代の男性は穿頭(trepanation)と呼ばれる脳外科手術を2度受けていたらしい。穿頭のテクニックにはいくつかあるが、この例では下図のように、石器を使って頭蓋骨表面を削って行くSchabertechnikと呼ばれるテクニックが使われた。
石器時代の頭蓋骨にはこのような穿頭の跡が見られるものが結構あるらしい。なぜこのような頭の手術を行ったのかは明らかになっていないが、慢性頭痛などの治療だったと考えられている。図では周囲の人たちが患者の体を押さえつけているが、想像すると恐ろしい。よくも生き延びた人がいるものだ。
青銅器時代の青銅製のボタン。展示室では青銅器作りの実演動画を流していて、それも興味深かった。
考古学ジオラマ。ブランデンブルクの地面を掘るとそれぞれの地層からこういうものが出て来ますよというモデルだ。
最終氷河期の地層から出て来たマンモスの牙。
青銅器時代の地層から見つかったラウジッツ文化(紀元前1400年前ぐらい)の壺。
これは紀元9〜10世紀にスラヴ人がニーダーラウジッツ地方に建設したRaddusch城のモデル。
Raddusch城は再建されて観光スポットになっている。内部直径38 m、外部直径 58 mのこの城の周りには約5.5mの幅の堀。内部には二つのトンネルを通って入る。城の中庭には14mほどの深さの井戸があるそうだ。今度見に行きたい。
スラヴ人が定住していたブランデンブルクだが、12世紀になるとキリスト教徒たちが侵入して来て、ブランデンブルクは「ドイツ化」されていく。1157年に神聖ローマ帝国の領土である「ブランデンブルク辺境伯領」が成立。次々と城や町が作られて行った。この博物館が入っている修道院の建物もブランデンブルクのキリスト教化の流れの中で建てられたものだ。
また頭蓋骨の写真になってしまうけれど(すみません!)この頭蓋骨が被っているのはTotenkronenと呼ばれる死者の冠である。中央ヨーロッパでは16世紀から20世紀にかけて未婚のまま亡くなった女性に冠を被せて埋葬する習慣があった。(こちらの記事でも紹介しています)結婚式を挙げることなく亡くなってしまった女性への慰めと処女性を保ったことへの褒美の意味合いがあったらしい。
今度は近代。
ターラーと呼ばれるプロイセン時代の大型銀貨。フリードリヒ大王の肖像が彫られている。これは硬貨の歴史コーナーで見たものだが、この展示もかなり興味深かった。
ブランデンブルクのボトルマーク。
これを見てかなり前に訪れたガラス作りを見学できるオープンエアミュージアムを思い出した。その時にはなんだかよくわかってなくて記録も取っていないのだけれど、おそらくこういう瓶も生産していた場所なのだろう。気になるので近々また行ってみよう。
特別展ではヨーロッパの古楽器の展示をやっていて、それも面白かった。たくさん写真を撮ったけれど、キリがないので1枚だけ。これは青銅器時代の太鼓。
いつものことながら、このブログで紹介するのは博物館の内容のごく一部でしかなく、それも私個人が特に興味を引かれたものを紹介しているのに過ぎない。見る人が変われば着目点も異なるので、印象もまたそれぞれに違いない。このブログを目にした人が記事をきっかけに紹介した場所またはその人の身近にある観光スポットを訪れ、その人の視点での面白さを発見してくれたらいいなあ。
オッピドゥム跡の残るマンヒンクのケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)
先日、家族の用があってミュンヘンへ行った。ミュンヘンには友人がおり、また見所も多い町なのでじっくり観光をしたかったが、残念ながら諸々の事情でゆっくりしていられずトンボ帰りすることになってしまった。せっかくバイエルンへ行ったのに残念!せめて帰り道にサクッと見られる面白い場所がないものかと車の中からアウトバーンの看板に目を凝らしていた。親切なことにドイツのアウトバーン上には「近くにこんな観光名所がありますよ」という看板がたくさんかかっているのだ。(もしかして日本もそうだっただろうか。すっかり忘れてしまった)
すると、インゴルシュタット近郊に「ケルト・ローマ博物館(Kelten Römer Museum Manching)」なるものを発見!何やら面白そう。しかも、ナビを見るとアウトバーンを降りてすぐのところにあるようだ。家族を説得し、寄ってみることにした。
この博物館のあるドナウ川流域のマンヒンクは古代から交通の要所だった。紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて中央ヨーロッパ最大のケルト人集落、オッピドゥムがあったことがわかっている。1892年から始まった考古学発掘調査でケルト文化の遺物が数多く出土されており、ドイツ国内で最もケルト研究が進んでいる地域の一つであるらしい。特に過去50年の間には非常に多くの遺物が見つかり、そのうち最も重要なものが2006年にオープンしたこの博物館に展示されているとのこと。
メインフロア。広々していて見やすい展示だ。
ケルト人の集落モデル。マンヒンクのオッピドウムは1930年代以降、この地域に空港が建設された際にかなりの部分が破壊されてしまったが、かつては長さ約7.3km、直径2.2〜2.3kmの円形の壁に囲まれていた。博物館はオッピドゥムの西の壁のすぐ外に位置しており、博物館を出発点に壁の跡を歩いて見て回ることもできるという(詳しくはこちら)。しかし、今回はそのための時間もなく、ティーンエイジャーの娘がブツブツ文句を言うので館内の展示を見るだけで満足することにした。マンヒンクのケルト人集落は初期から壁に囲まれていたのではなく、写真のような四角い区画がいくつも集まり、より大きな構造を作っていた。それぞれの区画は特定の機能(農業、手工業、神殿など)を有していたと考えられている。
墓地や神殿跡から出土された多くの装飾品や道具、芸術品から、マンヒンクのケルト人社会は明らかなヒエラルキー構造で、分業が発達していたことがわかっている。オッピドゥムの最盛期には5000〜1万人が住んでいたとされる。
マンヒンクのケルト陶器
焼き物を焼いたオーブンの蓋はこのようにたくさんの穴が開いていた
イノシシやカバは神聖な生き物とされた。
ケルトの樹木信仰を表す黄金の木
紀元前1〜2世紀頃、奴隷を繋いでいた鎖
マンヒンクは交通の要所であったため、経済の中心地として栄えた。鉄器、ガラス製品、陶器などを輸出していたそうだ。
展示の目玉は1999年に発掘された483枚、重さ合計3.72kgの金貨。これはすごい!
経済のハブだったマンヒンクには現在のヘッセン州やフランス、イタリアなど欧州各地からお金が集まって来た。ヘッセン州といえばフランクフルトはドイツの金融の中心地であるが、紀元前に多くの硬貨が作られていたことと関係するのだろうか??
このように紀元前は経済の中心地として栄えたマンヒンクであるが、ケルト社会は次第に衰弱して行き、ついにオッピドゥムは放棄される。北上して来たローマ人が紀元100年頃から定住するようになった。
ローマ人が建設した城塞Kastell Oberstimm
この博物館のもう一つの目玉展示物は、1986年に出土された紀元100〜110年製のローマの軍船だ。ドナウ川の支流の川底に眠っていたらしい。
常設展示には重要なものが他にもたくさんあるのだけれど、全部紹介することはできないのでこのくらいにしておこう。
特別展としてローマ人の生活に関する展示をやっていて、子ども向けだがなかなか面白かった。
見ての通り、ローマのトイレ。

トイレ掃除用ではなく、お尻拭き用のスポンジ。うう、、、、。

ローマの歯医者のペンチ。怖いねー。
ドイツ国内にはローマに関する博物館や遺跡が数多くあり、今までにいくつか見たが、ケルト文化についてはほとんど知らなかった。見学にあまり時間を取れなかった割には新しいことをいろいろ知ることができてよかった。
兄弟揃って多彩過ぎ。オットー・リリエンタールの弟、グスタフの世界
ここのところ仕事が立て込んでいたり、珍しく風邪を引いたりでちょっと間が空いてしまった。前回の記事ではドイツの航空学パイオニア、オットー・リリエンタールを取り上げた。記事でも触れたように、オットー・リリエンタールは航空学の分野で類を見ない功績を残しただけでなく、蒸気機関やボイラーを始めとして数多くの特許を取得するなど、マルチタレントだった。しかし、オットーの溢れる才能の開花には幼少期から一心同体だったとされる弟グスタフも大きく貢献した。オットーの業績のかなりの部分はグスタフとの活動によって生み出されたものだ。グスタフもオットーと並ぶ航空学のパイオニアである。
しかし、前回の記事では主にオットーにスポットを当て、グスタフについてあまり触れなかった。というのも、オットーほどは知られていないが、グスタフもまた、驚くほど才能に恵まれ、その守備範囲の広さではむしろ兄を凌いだのではないかと思われる非常に魅力的な人物なのだ。私はオットーにも感銘を受けたが、より強く惹かれるのはむしろグスタフの方かもしれない。そこで、オットーとセットではなくグスタフはグスタフとして個別に取り上げたかった。
兄と同様、アンクラムのギムナジウムを卒業したグスタフは、ベルリンの建築学アカデミー(現在のベルリン工科大学の前身)に進学した。普仏戦争の勃発のためアカデミーは中退したが、その後、発明家、教育者、建築家、社会改革者など複数の顔を持ち幅広いキャリアを築いた。兄のオットーが蒸気機関やボイラーなど工学分野で活躍したのに対し、グスタフは芸術的な方面で優れた業績を残した。代表的なのは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」と呼ばれる積み木の発明である。(下の写真の一番下。写真が’暗くてすみません)
グスタフはこの積み木の製法を実業家、アドルフ・リヒターに売却し、リヒターは「アンカー石積み木(Anker Steinbaukasten)」の名で商品化した。これが世界的な大ヒットとなり、リヒターは大儲け。残念ながらグスタフ自身はこの積み木からはほとんど利益を得られなかったようだ。しかし、グスタフは今度は次の写真の右のような木製のモジュラーおもちゃを考案し、これまた大ヒットとなる。このモジュラーおもちゃはLEGOやフィッシャーテクニックなど、現代の組み立て系おもちゃの元祖とされているそうだ。
画期的な建物づくりおもちゃを開発したグスタフは、おもちゃではなく本物の建物の設計者としても頭角を現すようになる。当時のドイツは社会が大きな構造変化の最中にあった。産業革命により都市の人口が増え、劣悪な住環境で病気が蔓延するなど都市問題が深刻化していたことから、労働者のために「ジードルンク」と呼ばれる集合住宅が建設されるようになった。グスタフは建築家としてはもちろん、社会改革者としてもこの運動に積極的に関わった。ドイツ、特にベルリンのジードルンク群は現在、観光スポットとして人気があるが、そのうちの一つ、ライニケンドルフドルフ地区のフライエ・ショレ(Freie Scholle)は、グスタフが創始者となった労働者建築協同組合のジードルンクである。このジードルンクは後に建築家ブルーノ・タウトにより拡張され、現在はこんな感じで残っている。(写真はジードルンクのごく一部)
また、グスタフはベルリン近郊オラーニエンブルクに1893年に創設されたドイツ初の菜食主義者ジードルンク「エデン」の建設にも深く関わっている。エデンジードルンクの建物に使われた建材はグスタフの発明品だそう。この「菜食主義者ジードルンク」の話も掘り下げるとかなり面白そうなテーマなので、いつかエデンへも行ってみたい。
と思っていたら、グスタフ・リリエンタールの設計した建物はごく身近にもあった。私はベルリンの隣町、ポツダム市郊外に住んでいるのだが、ある日ポツダムをぶらぶらと散歩中に面白い形の建物を見つけ、なんとなく写真を撮った。家に帰って来てから、「変わった建物だったけど、何の建物なのかな?」と思い調べてみると、なんとグスタフの手によるものだったのだ。
このVilla Lademannは1895年に建てられたもの。なんとも夢のあるお屋敷ではないか。これを発見したことで、ますますグスタフに興味が湧いた。調べたところによると、リリエンタール兄弟が住んでいたベルリン、リヒターフェルデ地区にはグスタフの設計した住宅がたくさん残っているらしい。それは探しに行くしかない!
Lichterfeldeはこの辺り。
グスタフはまず自分の家族用に英国のタウンハウスから発想を得た小さな家を建設した。ベルリンやポツダムで競って豪邸が建てられていた当時、こじんまりとしたグスタフの家は嘲笑の種だった。しかし、身丈に合った家を建てるべきだというのがグスタフの考えだったらしい。
Tauzienwegのリリエンタールの家
個性的な家の多い通りにおいてもひときわ味があるのですぐにわかった。しかし、この家はその後かなりリフォームが加えられており、オリジナルとは随分違ってしまっているらしい。この家にはグスタフ一家は2年半ほどしか住まず、その後はこちらの家に引っ越した。
ここには現在も子孫の方が住んでおられるらしい。グスタフの設計した住居は見た目が魅力的であると同時に実用的な造りだそうだ。見た目が良いだけの高価な建材は使用せず、庶民に手の届く快適な住居をコンセプトにしていたという。リヒターフェルデ地区には全部で22棟を建設したが、現在は残っているのはそのうちの16棟。
では他の建物も見ていこう。数が多いのでコメントなしね。
あ〜、楽しい。逆光だったり木が邪魔だったりで写真が撮れないものもあったけれど、全棟見つけることができた。こんな素敵な建物を考案できるグスタフ・リリエンタールはきっと魅力的な人だったのだろうなと感じる。この記事で紹介したのはグスタフの業績のごく一部である。もっと詳しく知りたいな。今後の課題としよう。
ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館
しばらく前にベルリンにあるドイツ技術博物館を久しぶりに訪れた。
何度も行っている博物館だが、規模が大きいので一度に全てを見ることはできず、行くたびに発見がある。前回特に興味を引かれたのは航空技術に関する展示だった。その中でドイツの航空パイオニア、オットー・リリエンタールについて知った。
オットー・リリエンタールは一歳違いの弟グスタフと共に知られる19世紀の発明家である。二人は幼少期から空を飛ぶことに強い憧れを持ち、鳥の飛行をつぶさに観察してハングライダーを設計し、無数の飛行実験を行なったことで知られる。緻密な研究と実験の結果をまとめたオットー・リリエンタールの「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)」は世界中で注目を浴び、後に初めて有人動力飛行に成功したライト兄弟にインスピレーションを与えた。
「飛行技術の基礎としての鳥の飛翔」。写真はアンクラムの「オットー・リリエンタール博物館」で撮影したものだが、同様のものがベルリンのドイツ技術博物館でも見られる
ワクワクするなあと思いながら帰宅途中に日本食材店に寄り、そこに置いてあった日本語のフリーペーパー、「ドイツニュースダイジェスト」を何気なく手に取ると、偶然にもベルリン在住のライター、中村真人氏によるリリエンタール兄弟についての記事が載っていた。
リリエンタール兄弟と大空へ夢
中村氏の記事を読んで、ますます興味が湧いた。リリエンタール兄弟の生誕地アンクラムにはリリエンタール博物館(Otto Lilienthal Museum)があるという。行ってみよう。
アンクラムはベルリン中央駅から電車で2時間半ほど。小さな町で、第二次世界大戦で町の大部分が破壊されてしまったため、古い建物はほとんど残っていない。正直に言って、それほど魅力的な町とは言えないかもしれない。でも、今回私が見たいのは街並みではなく、リリエンタール博物館だからね。
駅から300メートルくらいのところにあるが、全く目立たない。
中に入ると、受付の前はショップと喫茶スペースになっている。右脇に小さな展示室があり、リリエンタール兄弟の生い立ちやキャリアに関する展示や動画が見られる。テーブルの上にはリリエンタールの写真アルバムなどの資料も置いてあり、面白くて真剣に見てしまった。
オットーと弟のグスタフはとても仲の良い好奇心旺盛な兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。両親はアメリカへの移住を計画していたが、実現する前に父親が急死してしまい、母子家庭となった。母親は教育熱心で、兄弟はアンクラムのギムナジウムを卒業後、オットーはポツダムの工業学校を経てベルリン王立工業アカデミーへ、グスタフはレンガ職人の訓練を受け、ベルリンの建築アカデミーへ進学した。それぞれ技術者と建築士となっても兄弟は幼い頃からの夢を捨てることなく、飛行翼をひたすら作り、空を飛ぶ実験を続けた。その主な資金源となったのはオットーが発明し、特許を取得したボイラーと蒸気機関である。
リリエンタールのボイラーはコンパクトで安全、値段も手頃だったようだ。
オットーの発明品は多岐に渡り、なんと全部で25もの特許を取得している。リリエンタール機械工場の創始者として経営にあたる傍ら、次々とハングライダーを設計・制作し、2000回を超える飛行実験を行なったというのだから、とてつもないエネルギーの持ち主である。
弟のグスタフも兄に負けずとも劣らぬ豊かな才能と創造性の持ち主で、彼のキャリアもものすごく面白いのだが、この記事ではグスタフの偉業には敢えて触れないでおく。グスタフはグスタフで別記事で取り扱いたい。
さて、そろそろ1階の反対側の展示室に進もう。
鳥のように空を飛べたらと夢想したのは、もちろんリリエンタール兄弟が初めてではない。古くはギリシア神話のイカロスに始まり、世界中の様々な場所で多くの人が空を飛ぼうと試みた。しかし、その中で確かな学術的基盤に基づいた観察と実験の蓄積により航空工学の礎を築いたリリエンタールの功績は大きい。
メインの展示室は半地下にあり、吹き抜けの天井にたくさんのリリエンタールのグライダーモデルがかかっている。オリジナルは断片しか残っていないそうで、ここで見られるのはリリエンタールの設計図を元に作ったもの。
これらはほんの一部。
展示室には実験コーナーもあり、いろいろな物理実験ができる。
片っ端からやってみた。
飛行シミュレーターもやってみた。あっさり墜落したけど。
これは「リリエンタールのコックピット」。乗ってみて良いと書いてあったので、もちろん乗ってみる。しかし、これは大変な代物である。両方の木の輪っかに脚を一本づつ通して乗り、両手でハンドルをつかむ。お尻は宙に浮いたまま。膝から下と上体を動かして操作する。こういうのに乗って空を飛ぶ実験をしていたなんて、落ちたら危ないじゃないか、、、。展示室には私の他は誰もいなかったので一人で遊んでいたが、誰かが見たら謎の東洋人のおばさんと思われたかもしれない。
リリエンタールの飛行実験の様子を動画(無音)で見ることもできる。いやー、すごいわ。天才とバカは紙一重と言うけれど、周囲の人々の目にはどう映っていたのだろうか。子どもの頃から兄と一心同体となって空を飛ぶ夢を追いかけていた弟のグスタフも、最後には「もういい加減にしたら。妻も子どももいるんだし」と助言したそうである。しかし、そんなアドバイスには耳を傾けず実験を繰り返したオットーは、1896年、「Normalsegelflug」と名付けたグライダーで250mの飛行に成功しながらも、4回目の飛行中に突風に煽られてバランスを崩し墜落、首の骨を折って亡くなってしまう。48歳だった。アメリカでリリエンタールの訃報を知ったライト兄弟は、後に遺族を訪ね、偉大なる先駆者への敬意の印として未亡人に見舞金を渡したとのこと。
博物館の2階はリリエンタールの飛行実験を撮影し続けた写真家、Ottomar Anschützの作品が展示されている。
家族と共に
簡単な紹介になってしまったが、リリエンタール博物館は小さいながらも情報量が多く、ウェブサイトも大変充実している。
博物館を出た後、アンクラムの町を歩いた。リリエンタール兄弟のゆかりの地を見てから帰ろうと思ったのだ。
父親が亡くなった後、リリエンタール兄弟は母と妹と一緒にこの家に移り住んだ。現在はあまりパッとしない(失礼)肉屋になっている。
リリエンタール兄弟の通ったギムナジウム。現在の校名はもちろん、リリエンタール・ギムナジウム。
校庭に面した建物には空を飛ぶリリエンタールの絵が。
オットー・リリエンタール記念碑。
リリエンタール兄弟モニュメント
この日は寒かったけれど、楽しかった。しかし、私のリリエンタールをめぐる冒険(大袈裟)はここでは終わらない。
リリエンタールが飛行実験を行ったのはベルリンやその近郊の丘である。最初に紹介した中村真人氏の記事にあるように、ベルリン市内のリリエンタール公園にも記念碑が設置されているが、1891年にリリエンタールが記念すべき最初の飛行実験を行ったのはポツダム近郊のDerwitzという小さな村だ。うちから近いので見に行って来た。
Derwitz村
村の中心地(といっても、すごく小さな村なので中心部がほぼ全て)には石碑が建っている
肝心の丘のモニュメントはどこにあるのだろうかとキョロキョロしたが、わからない。自転車に乗って通りかかった住民に尋ね、「あっち」と指さされた方へ向かって歩く。しかし、丘にはそれらしきものは見当たらない。しばらくウロウロし、ようやく探し当てた。
あれだ!
地味すぎて遠くからでは全くわからかった。この記念すべきリリエンタールの初飛行の場を知っている人は、一体どのくらいいるのだろう?
リリエンタールが初めて空に向かって飛んだ場所に私も立って見た。鳥の真似をしようなんて、私にはその発想のかけらすらない。でも、夢を持つこと、夢を追いかけることは素晴らしいことに違いない。自分もやりたいことをもっとやらないとなあ。私にもやりたいことはたくさんあるが、命を賭けたリリエンタールの壮大な夢と比べれば夢のうちにも入らない。リスクだってほとんどない。せっかく生まれて来て、そんな小さな夢すら追わずにどうするのよ、などと言ってみる。
グスタフ・リリエンタールについては後日書きます。
女性の生き方について考えさせられるベルリン工芸博物館の服飾史展示
去年の10月にMeyenburgという町の服飾博物館を見に行った。そこでは1900〜1970年代の女性の服装の歴史を知ることができ、面白かった。似たようなものが他でも見られないかなと検索したところ、ベルリン工芸博物館(Kunstgewerbemuseum Berlin)にもヨーロッパ服飾史の展示があるらしい。工芸博物館は去年の暮れに購入したベルリンの年間ミュージアムパスで入れる。これは行くしかない!
場所はベルリンフィルハーモニーの裏手。
1867年にロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を手本にして建設されたこの博物館では中世から現代に至るまでの工芸品を見ることができるのだが、今回はその中の服飾に的を絞ることにした。
1730年代から1970年代までの女性の衣装及び装飾品が陳列されている。18世紀のヨーロッパではフランスがファッション界を牽引しており、当時の富裕層の女性のドレスといえば優美な「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」。胴部をコルセットで締め付け、スカート部分はパニエで横方向に広げていた。
1770年以降はフランスの啓蒙思想やイギリスの生活様式の影響により、新しいタイプのドレス、ネグリジェドレスが流行した。フランス革命後は簡素なハイウェストのシュミーズドレスに。着やすそう。
しかし、1840年代に入ると再びウエスト締め付け、スカートふんわりスタイルに逆戻り。
イギリスの昼間外出用ドレス。スカートを広げるためにはペチコートを重ね着する必要があったが、クリノリンと呼ばれるフレームが発明されたことでスカートはどんどん大きくなって行った。
舞踏用ドレス。踊りにくそう。
夏用ドレス。布地は薄いけれど、ドレープたっぷりで暑苦しそう。(自分が着ることを想像すると文句ばかり言ってしまう。
こちらは1880年代のインフォーマルなハウスドレス。インフォーマルなハウスドレスって部屋着のこと?それでこの形とは、当時の女性はさぞかし大変だったこと。自分では何もしなくても良い裕福な女性限定だったのだろうが、これでは家でゴロゴロしているわけにもいかない。
何しろ後ろがこれだから、、、。バッスルスタイルと呼ぶのだそう。
ひ〜。振袖の着付けも窮屈で辛いけど、こういう下着を長時間つけていたくはない。
コルセット。
ストッキングまでこんなに紐がついて、、、、。
ギャー。どうやって履いたの?足首部分が細すぎる。
1900年頃のSライン舞踏会用ドレス。少しシンプルになってほっとした。このデザインになると現代のドレスに通じるものがあるね。
でも、靴は妙に小さい。日本の現代のサイズだと22くらいだろうか。
黄金の1920年代のファッション。開放的で躍動的なギャルソンヌスタイルへ。
この頃の靴のデザインはもう現代のものと変わらない。
1940年代オフィスファッション。
あっ、これ可愛い。と思って見ると、イヴ・サン・ローランのデザインだって。こんなのは今着てもおかしくなさそう。
1950年代はやっぱり明るく楽しいね。
1960年代。母親のタンスの奥に眠ってそうなスタイルの服。もうここまで来るとヨーロッパの服飾史というよりもグローバルだろうか。
1970年代。個人的にはこれが一番気に入った。この未来感がいい。現在から見ると未来ではなく過去なんだけれど、それでも未来感があるよね。
展示された衣装や小物は美しかったし、興味深い展示だったけれど、女性とはどうあるべきかという時代の価値観がファッションに反映されていて女性の生き方について考えてしまった。現代でも米国ファーストレディの衣装が云々されたりするが、どうにも複雑である。お洒落は素敵なものではあるけれど、あまり期待されても困るというか、お洒落をするもしないも個人の自由が許される時代と立場でよかったとしみじみ感じた。
戦後から現在までの東ドイツの流れがわかるライプツィヒのZeitgeschichtliches Forum
夫のライプツィヒ日帰り出張に便乗して、またライプツィヒへ行って来た。前回のライプツィヒ訪問では学校博物館でナチスの時代や旧東ドイツの学校教育について知り、とても興味深かった。私がドイツに来たのはベルリンの壁崩壊後だし、旧東ドイツに住むようになったのも10年ちょっと前からなので、旧東ドイツ(DDR)を実際に体験してはいない。しかし、旧西ドイツで生まれた私の夫の両親は西ドイツへ逃げた東出身者で、ときどき会話の中にDDRの話が出ることがある。私自身もごく短期間ではあったが、壁崩壊からまもない頃に東側でホームステイをした経験があり、DDRとはどんなところであったのか、気になってしかたがない。
これまで、ベルリンやその他の町のいろいろなミュージアムでDDR関連の展示を見て少しづつその姿を掴みつつあるのだが、ミュージアムごとにテーマの絞り方が違うので、全体的な戦後の歴史の流れをきちんと把握しているわけではない。そこで、今回はライプツィヒ現代博物館(Zeitgeschichtliches Forum Leipzig)へ行った。
町の中心部にあるので、アクセスがとても楽。
この博物館は、かつて西ドイツ首都だったボンに1994年に開館した歴史博物館、Haus der Geschichteの姉妹博物館の一つ。嬉しいことに入場無料だ。
展示フロアは2階が常設展示スペースで、1945年以降の旧東ドイツの歴史について展示している。年代順展示ではなくテーマ別展示でフロアをテーマごとにパーティションで仕切ってあるので広いのか狭いのかよくわからない。展示の仕方としてはややわかりづらい気がしたが、内容はとても興味深かった。
戦後のドイツ人追放により難民となってドイツ本国へ強制移住させられたドイツ人の数。現在、シリアなど紛争地域からの難民の受け入れを巡ってドイツの政策が国内外で激しく議論されているが、ドイツは他民族を難民として受け入れて来ただけでなく、同胞である難民を受け入れ、社会に統合して来た過去がある。戦後、東欧諸国からの民族ドイツ人を受け入れ、冷戦時代には西ドイツは東ドイツからの避難民を受け入れた。同胞を受け入れることと他民族を受け入れることは同じではないが、流入者の社会への統合という課題に常に向き合って来た歴史があるのだなと考え入ってしまった。戦後のドイツ人の強制移住については、ドイツ在住のギュンターりつこさんがその時代を生きた方へのインタビューに基いた素晴らしいブログ「月は登りぬ」を執筆されている。本当に貴重な体験談で、更新を楽しみにしているブログ。
これは連合国軍政下で行われたドイツの非ナチ化において公務員などの要職につく人々とナチ党との関わりを審査するために使用したアンケート用紙。
戦後、東ドイツはソヴィエトを手本に計画経済への道を進むことになる。私はこの「まにあっくドイツ観光」を始めてから旧東ドイツのいろいろな町へ行くようになったが、あちこちの博物館を眺めていて気づいたことの一つは「DDR時代には町や地域ごとに産業を分担していた」ということだ。例えば、ドイツ光学産業の発祥地、ラーテノウの光学博物館で、「旧東ドイツ時代のメガネはすべてラーテノウで作られていた」という文面を目にして「えええ?100%?それでは独占ではないの?」と一瞬びっくりして、その後に「あっ、そうか。社会主義時代は計画経済だったんだった!」と思い出した。
東ドイツ計画経済のマップ。ドイツ再統一後には旧東ドイツの産業が衰退して多くの失業者を生んだが、設備の老朽化や技術の遅れだけが原因ではなく、産業が地域ごとに固定され、いわゆるリスク分散ができない状態だったことも一因だったのかな。
1953年に東ベルリンで起こり、東ドイツドイツ全国に広がった労働者による政府に対する抗議行動、Volksaufstand。多くの死者を出すことになったこの暴動はソ連軍が出動して鎮圧された。
DDR時代の生活の様子。このような家具は現在はレトロな家具として結構人気があったりする。窓の外にはPlattenbauと呼ばれる高層のアパート群が建ち並ぶ景色。こうした光景は東ドイツだけではなく旧社会主義国の都市部ではどこでも見られるもので、どことなく日本の工業団地に似ていないこともない。最初にPlattenbauに住む夫の親戚を訪ねたとき、子供の頃、従兄弟が住んでいた社宅に遊びに行ったときの記憶がフラッシュバックした。西育ちの夫は「典型的な社会主義建築だよ」と言ったが、私はなんとなく懐かしさを感じたものだ。
ドイツ社会主義統一党(SED)の会議室。
政治犯輸送車。
写真は撮らなかったが、70年代にライプツィヒを中心に高まった平和・環境保護運動、そしてベルリンの壁崩壊を導くことになった反体制運動についてにも大きな重点が置かれていた。ライプツィヒは戦後の東ドイツの歴史において大きな役割を果たした町だ。ここにHaus der Geschichteの分館が置かれているのも頷ける。
「オスタルギーグッズ」。オスタルギーというのは郷愁を意味するドイツ語、ノスタルギーと東を意味するオストを組み合わせた造語だ。東ドイツの人々は日本人にはなかなか想像のできないような体制の下で長い年月を過ごし、そして自らの行動によって体制を打ち破って現在があるわけだが、今となってはDDRの時代をちょっと懐かしく思うという人も多い。もちろん、当時の社会体制を肯定しているわけではないはずだが、辛かった時代もDDRに生きた人たちにとっては大切な人生の一部であり、アイデンティティを形作る要素であることには変わりがないのだろう。
3階の特別展示フロアでは東ドイツのコミックに関する展示をやっていて、これも面白かった。
DDRのコミック、Mosaik。東ドイツでは出版物に対し厳しい検閲が行われていたが、このコミックシリーズだけは正真正銘面白い読み物だと子供達は夢中になった。1955年に初登場してから20年の間に223巻まで出版されるという人気ぶりだったという。
3人の小人Dig とDagと Digedagが繰り広げる冒険旅行は東ドイツ市民が行くことができなかった国々への想像をかき立て、夢を広げてくれた。
アメリカシリーズ、アラビアシリーズ、テクノロジーシリーズなど数多くのシリーズがあり、面白いだけではなく、なかなか勉強にもなる内容らしい。このコミックは現在も東西問わず根強いファンがいる。
しかし、子供達が漫画に夢中になることを好ましく思わない大人がいるのはどこでも同じなようで、旧西ドイツでも旧東ドイツでも「子ども達を漫画の悪影響から守ろう」運動が繰り広げられた時期があったとのこと。漫画のような低俗なものを読むとバカになる、不良になるとコミックを燃やしたり、コミックを持って来たら良い本と交換してあげますというキャンペーンをやったりしていたそうだ。
展示のごく一部しか紹介できなかったが、ドイツの戦後史、旧東ドイツの歴史の概要を知るのに良い博物館だと思う。個々のテーマについて詳しく知りたい場合には、それぞれのテーマについてもっと掘り下げて展示しているミュージアムがたくさんあるので補うと良いだろう。
この博物館は残念ながら1/29からリニューアルのため休館になるので、ギリギリ間に合って良かった。ボンにある現代史博物館の本家、Haus der Geschiteには20年以上前に一度行ったきりだが、また行きたくなった。
全長502mのコンベアブリッジを歩いて渡れる褐炭採掘場オープンエアミュージアム、F60
今年初めてニーダーラウジッツ地方へ行って来た。ニーダーラウジッツはブランデンブルク州南東の旧東ドイツ時代には豊富に埋蔵する褐炭でエネルギー産業を支えていた地方だ。ドイツ再統一により褐炭の採掘場や関連の工場、発電所の多くは閉鎖されたが、いくつかは産業遺産として保存され、観光化が進められている。そうした褐炭産業関連のスポットを巡る250kmに及ぶ観光ルートは「ラウジッツ産業文化・エネルギー街道」と名付けられている。ドイツに150以上ある観光街道の1つなのだ。
私はこれまでにそのうちのプレサ(Plessa)の 発電所ミュージアムやコトブス(Cottbus)のディーゼル発電所ミュージアムを訪れた。また、街道沿いではないが、やはり褐炭関連のオープンエアミュージアムFerropolis、褐炭採掘で掘り起こされた迷子石を集めた公園Findlingspark Nochtenにも行ってみたが、どれもとても面白い。ドイツの観光街道は日本ではロマンチック街道やメルヘン街道が有名だが、ラウジッツは褐炭観光というかなりマニアックで興味深い観光ができるのが魅力なのである。
さて、今回訪れたのは産業文化・エネルギー街道の目玉の一つであるオープンエアミュージアム、F60。なんとこのミュージアムでは褐炭の露天掘り場で実際に使われていた高さ74m、長さ502mという巨大なコンベアブリッジを歩いて渡ることができるのだ。周辺に大きな町はないのでアクセスは結構大変。
Lichterfeldという村が最寄りの村で、こんな感じ。
ドイツの村の作りにはいくつか種類があって、これはシュトラーセンドルフ(Straßendorf)というもので、1本の通りの両脇に民家が並び、一番向こうに教会が建っている。ブランデンブルクではこのタイプの村をよく見かける。過去記事で紹介したが、変わった集落タイプとしては広場を中心に丸く家が並ぶルンドリンクというのもある。
さて、集落のすぐ向こうはもうミュージアムである。視界に巨大なコンベアブリッジ、がどーんと登場した瞬間、思わず歓声を上げてしまった。しかし、あまりに大きすぎて駐車場からは全体像を撮ることができない。
ビジターセンターでガイドツアーに申し込むとこのコンベアブリッジに登ることができる。ツアーには何種類かあり、私たちは90分間のロングツアーに参加することにした。ロングツアーではコンベアブリッジの先端まで歩いて渡れるのだ。しかし、そもそもコンベアブリッジって何?という人は下の図を見て欲しい。
ちょっと見にくいかもしれないが、ビジターセンターに貼ってあった褐炭の露天掘り採掘場の写真だ。地下に埋まっている褐炭を掘り出すためには、まず掘削機で表土を剥ぎ取らなければならない。剥ぎ取った表土はすでに褐炭を掘り出した後の穴に入れて表面を均す。新しく剥ぎ取った表土はそれ以前に掘った穴に入れ、次に剥ぎ取る表土はこれから掘る穴に入れる、という要領で土を掘っては埋め、掘っては埋めしながら採掘用の溝は周辺にどんどん移動して行くのだが、この際に表土をこちらからあちらへと運ぶのがコンベアブリッジである。写真の左側から右に伸びる長い橋のようなものがそれだ。なぜF60という名前がついているかというと、ここで実際に採掘が行われていたときの溝の深さが60mに達していたから。このコンベアブリッジは世界でも最大規模のものなのだが、実際に使われていたのはなんとわずか15ヶ月だったらしい。通常はコンベアの寿命は40年ほどだそうだが、F60が建設が始まったのはベルリンの壁が崩壊する直前の1989年で、このコンベアブリッジが導入された炭田は1992年に閉鎖されたため、ほとんど使われないままお払い箱になってしまったというわけ。しかし、全部で5台建設されたF60のうち残りの4台は現在も稼働中だ。
では、登ってみよう。見学は高いところが平気なら子どもでも大丈夫だが、ヘルメットは必ず着用しなければならない。
コンベアブリッジの上まで登ったら、橋を歩いて先端まで行く。足場の網は目が細かく、左右の柵も結構な高さがあるので怖さは感じなかった。ところどころで立ち止まってガイドさんの説明を聞きながら進んで行く。
途中で後ろを振り返ったところ。このコンベアベルトで表土を運んでいたんだね。
渡っているときには歩くのに忙しくて周辺を眺める余裕があまりなく、先端についてようやく景色を眺めた。
ラウジッツ地方の露天掘り褐炭採掘場の多くは現在、人工湖になっている。このあたりは「ラウジッツ湖水地方(Lauziter Seenland) 」と呼ばれ、リゾート地として開発が進められているのだ。観光を新たな産業にすることで褐炭産業の衰退による人口の減少に歯止めをかけ、地域を活性化させることが狙いだ。
左の地面にソーラーパネルが並び、向こうには風車が見える。リゾート開発だけでなく、褐炭による火力エネルギーから再生可能エネルギーへの転換も進められている。
湖周辺にはビーチ、ボートハーバー、キャンプ場などを整備していく計画で、2005年からは湖での遊泳も解禁となった。(でも、湖水は今のところPH3.2と結構な酸性だそう、、、) また、湖面には宿泊施設としてハウスボートを浮かべる計画である。ハウスボートと言われても日本ではあまりピンと来ないかもしれないけれど、ドイツでは水上で宿泊できるハウスボートが人気で、エネルギー自給自足のハウスボートの開発も進んでいるのだ。
こうした再開発プロジェクトは地域に経済的メリットをもたらすと期待されているが、実はもう一つ大きな意義がある。それは環境保護としての側面だ。褐炭の大規模な採掘でこの地方の自然はすっかり破壊されてしまった。しかし、そのような環境にも「絶滅が危惧される動植物の繁殖地」としてのメリットがあるのだという。人がいなくなった場所には野生が戻って来る。実際、渡り鳥やオオカミなどが多く観察されるようになっており、自然保護団体、Naturschutzverbund Deutschland(通称NABU)が中心となって自然保護プロジェクトを次々と立ち上げているようだ。これについてはまた改めで掘り下げてみたいと思った。
さて、再び橋を渡って地上に降りよう。
晴天とはいえ、1月の寒空の下、90分歩いたらすっかり手が冷たくなってしまった。でも、すごく面白かったので大満足。
ドイツのラジオ放送の発祥地、Königs Wusterhausenの無線技術博物館
近頃、ベルリン周辺の都市の面白さがじわじわとわかって来た。ストーブ生産で栄えたフェルテン、光学産業の発祥地ラーテノウ、旧東ドイツ(DDR)の計画都市アイゼンヒュッテンシュタットなど、特色ある町が多い。たいして何もなさそうに見える場所でも、行ってみると実は歴史的に重要な町だったことが判明するのである。2018年のまにあっくドイツ観光第一回目はベルリン中心部から南西に35kmほどのところにあるケーニッヒ・ヴスターハウゼン(Königs Wusterhausen)へ行って来た。
町の中心部にお城がある以外はそれほど見栄えのしない町だが、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンはドイツの歴史においてかなり重要な役割を果たしている。なぜかというと、ここは「無線の町」で、ドイツのラジオ放送はケーニッヒ・ヴスターハウゼンから始まったのだ。
ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの丘で初めて無線通信実験が行われたのは1911年。デンマークの技術者、ヴォルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen)により開発されたポールセン・アーク送信機を使った送信実験だった。実験がうまく行ったことから1915年に送信所が建てられ、軍事通信が開始される。1919年からは帝国郵便の事業の一つとなり、本格的な設備が建設された。その後、いろいろあって(下で説明します)、現在は事業を行なっていないが、残った送信所の建物が無線技術博物館(Das Sender- und Funktechnikmuseum)として一般公開されている。
博物館入口。
メインの展示室では無線通信技術の発展とケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業の歴史に関する展示が見られる。
軍事通信で始まったケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業は1920年12月22日に歴史的な瞬間を迎える。ローレンツ社製のポールセン・アーク送信機を使い、ラジオ波に音楽の生演奏を乗せて放送したのである。郵便局の職員数名が集まり、ピアノといくつかの弦楽器、クラリネットを演奏し、歌を歌った。このクリスマスコンサートは英国、オランダ、ルクセンブルクや北欧などでも受信され、好評を得た。しかし、この時はまだドイツ国内では一般人がラジオを聴くことは法律で禁じられていたそうだ。
クリスマスコンサートの演奏が行われたスタジオのセット。
1923年にはラジオ放送が解禁となり、1926年からは毎週日曜日に音楽を放送するようになる。これはSonntagskonzerte(サンデーコンサート)として親しまれた。
当時、歌手は音響を良くするため、バスタブの前にマイクを置いて歌った。楽器奏者や歌手にとって、観客のいない状態で本番生演奏をするというのは慣れないことで、最初はなかなか難しかったらしい。
初期のラジオ受信機。
いくらか改良されたもの。
ケーニッヒ・ヴスターハウゼン送信局の設備は急速に拡張され、1926年には近隣のZessenにも新たな送信所が建設された。1929年にはドイツ発の短波放送が開始される。しかし、ナチスが政権を握ると、ラジオ放送は政治的プロパガンダの道具として利用された。
ナチス時代のラジオ受信機、Volksempfänger。「Volks(フォルクス)」というのは「国民の」という意味。
このようにドイツのラジオ放送の発祥地となったケーニッヒ・ヴスターハウゼンであるが、東ドイツのあらゆる産業と同じように、第二次世界大戦敗戦後、ロシア軍によって一旦解体され、旧東ドイツ時代に復活し、そしてドイツ再統一により廃業という運命を辿る。ああ、いつもいつもこのパターン、、、。
展示室は他にもいくつかあり、無線通信の様々な設備が見られる。
機械室にも入ってみよう。
機械室は現在はコンサートホールとして使われている。後ろや横の棚には古いラジオがずらり。
ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの送信所のモデル。
全盛期には全部で22本あった鉄塔のほとんどは、すでに解体されてしまっている。
でも、一番高い243メートルの鉄塔、Mast 17は残されている。真下まで行ってみよう。
近くには古い給水塔も建っている。なかなかいい感じだ。
現在は給水塔としては使われておらず、記念物に指定されている。中はカフェ・ビアガーデンになっているようだ。では、コーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったのだけれど、残念ながら現在、修理中でカフェはお休みだった。残念!
こちらのサイトで給水塔の内部の動画が見られる。
こんなわけで、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンも興味深い町だということがわかり、とても満足。
タイルとストーブ生産で栄えた町、Veltenのストーブ・陶器博物館
2017年度もあとわずか。師走で慌ただしいのと日が短いのとで探索活動が停滞気味なのだが、先週、ベルリン在住のライター、久保田由希(@kubomaga)さんにお誘い頂き、素敵な場所へ行って来た。久保田さんはベルリンを中心にドイツのライフスタイルや都市文化、社会文化について幅広く発信されている。私は久保田さんの豊富な情報からよくヒントを頂いているのであるが、久保田さんによると、ベルリンの郊外には「ストーブの町」なる場所があるらしい。ストーブの町って?
ベルリン中心部から北西に約40kmに位置するフェルテン(Velten)は、19世紀から20世紀の初めにかけカッヘルオーフェン(Kachelofen)と呼ばれる陶製ストーブの生産で栄えた町だという。現在、そこにはドイツ国内でも類を見ない様々なカッヘルオーフェンを集めた博物館、Ofen- und Keramikmuseum Veltenがあるとのこと。カッヘルオーフェンというのは日本人には馴染みが薄いかもしれないが、ヨーロッパのお城などでよく目にする外側にタイルを貼った陶製放熱器(クローズ式のタイル張りストーブ)のことだ。面白そうなので、すでにフェルテンに行かれたことのある久保田さんの案内で博物館を見に行くことにした。
久保田さんとはフェルテンの駅で待ち合わせ。フェルテンは小さな町だが、駅前にはこのような、なかなか立派なベーカリーがあって、中で食事もできる。腹が減っては戦はできぬということで、まずは軽く腹ごしらえをすることに。(このときカメラを車の中に忘れたので、写真は久保田さんが撮影したものをお借りしてます)
©Yuki Kubota
意外にも、と言うのもなんだけれど、このベーカリーのパンはかなりレベルが高かった。他のパン屋では見かけないようなパンもあって、どれも美味しそう。店内の雰囲気も良い。
©Yuki Kubota
キョロキョロ見回すと、店の奥にカッヘルオーフェンがあった!
©Yuki Kubota
グレーの壁の前にあるのがカッヘルオーフェンである。ストーブ生産の全盛期にはフェル店には少なくとも37のストーブ工場があった。このカッヘルオーフェンもその一つで作られたものかもしれない。(未確認情報です)
食事を済ませたら、遅くならないうちに博物館へ行かなくては。なにしろ、今の時期はあっという間に暗くなってしまう。
フェルテン・ストーブ・陶器博物館(Ofen- und Keramikmuseum Velten)は、フェルテンの最後のストーブ工場、Ofenfabrik Schmidt, Lehmann & Co.の建物の中にある。1899年に建設されたこの建物は2012年に記念物に指定されている。
最上階が展示スペースで、そこには様々なスタイルのカッフェルオーフェン75台が展示されている。カッフェルオーフェンは暖房器具であると同時に調度品でもあり、ぱっと眺めただけでも形状や装飾にはその時々の流行があったことが伺える。
そもそもフェルテンでカッフェルオーフェンの生産が盛んになったのは、このあたりの土壌が石灰質を多く含む上質の粘土でレンガやタイル作りに適していたためだ。19世紀後半にドイツが建築ブームに湧くとストーブの需要も増大し、フェルテンに次々とストーブ工場が建てられた。フェルテンの上質な白いホーロータイルを使ったストーブはとても人気で、ベルリンだけでなくドイツ全国、そしてロシアまで運ばれた。
19世紀半ばからドイツでは様々な産業分野で技術革新が起こったが、陶器生産分野も例外ではなかった。1858年に技術士フリードリッヒ・ホフマンが考案し、特許を取得したホフマン窯(Ringofen)という技術は画期的で、釜を環状に配置し順番に利用することでエネルギー効率が大幅に改善した。これによって大量生産が可能となった。
上の写真からわかる通り、カッヘルオーフェンの陶製の放熱面には凝った装飾が施されているが、そもそもなぜこのような形になったのだろうか。このような発達図が貼ってあった。
最初はむき出しだった火床を半球状のフードで覆うことで熱をストーブ内部に蓄えることができるようになった。蓄熱力を高めるようフードが次第に大きくなり、デザイン的・装飾的要素が加味されていったということだろうか。
順不同だが(ミュージアム内では年代順に展示されているのだが、よくわからなくなってしまった)、いろいろなデザインがあって、見ていて楽しい。
Damenzimmerofen(婦人の間のストーブ)。
これは子ども部屋用ストーブ。
子供部屋らしい模様?子ども部屋にこんな立派な暖房器具が置かれたことに現代の庶民の私は唖然としてしまうが、このストーブは表面がそれほど熱くならず、熱風が吹き出して来ることもないので、火傷の危険がなくて子ども部屋に適しているのかもしれない。カッヘルオーフェンは溜めた熱をゆっくりと放射して広い室内も満遍なく暖める。ミュージアム内の煙突部分にはベンチ型の座れるカッヘルオーフェンもあったので、試しに腰掛けてみた。座面と背面のタイルはじんわりと暖かく快適で、ゆっくりと本でも読んでいられそうだ。
これはマイセン産のカッフェルオーフェン。食器であまりに有名なマイセンだが、カッヘルオーフェンも生産していた。短期間のうちにベルリンのタイル市場で大きなシェアを占めるようになり、フェルテンのメーカーにとって強力なライバルとなったが、マイセンの粘土はフェルテンのものよりも耐火性により優れていたが、タイル表面に細かいヒビが入りやすいという特徴があった。
ところで、フェルテンのタイルはストーブに使われていただけではない。ベルリンを訪れた人なら、ベルリンの地下鉄の駅の壁には駅ごとにそれぞれ色の違うタイルが貼られているのを知っているだろう。地下鉄の駅にもフェルテンで製造されたタイルが使われているのだ。
ベルリンの周辺には、第二次世界大戦敗戦とそれに続く旧東ドイツ時代の社会主義体制の中ですっかりと産業が廃れてしまったが、戦前には重要な産業都市だったところが少なくない。小さな町のミュージアムだからたいしたことがないだろうと決めつけずに入ってみると、ベルリンの興隆とともに発展したそれらの町の過去を想像することができて面白い。
実はこのストーブ博物館の隣にはもう一つHedwig Bollhagen Museumというミュージアムがある。20世紀を代表するドイツの陶芸家の一人、ヘートヴィヒ・ボルハーゲンの作品が見られる。せっかくなので、こちらにも寄ってみた。
私はどちらかというと陶器は日本のものが好きで、洋食器にはそれほど魅力を感じないのだけれど、ボルハーゲンの陶器はとても気に入った。このミュージアムではオーディオガイドでボルハーゲンの一生についての説明を聞きながら、彼女の作品の多様なデザインを楽しむことができる。
私は幾何学的な模様が好きなので、写真のような作品が特に気に入ったが、花柄や動物柄など、いろいろなものがある。興味のある方は、こちらのサイトのギャラリーをどうぞ。
ボルハーゲンはその人物像も興味深い。ストーブとは別テーマなのでこの記事では詳しく紹介しないけれど、久保田さんがご自身のブログやNHKドイツ語テキストなどで書いておられるので、例えば、フェルテン近郊マルヴィッツにあるボルハーゲンの工房取材後に書かれたこちらの記事などをお読み頂ければ。
二つのミュージアムを見て外に出たらもう薄暗かったので、町歩きはできなかったが、再びお腹が空いて来たので、町の中心部に見つけたイタリアンレストランでパスタを食べながら久保田さんといろいろお喋りして楽しかった。そんなわけで久保田さんのお誘いで良い観光ができたというのに、記念のツーショットを撮ることをすっかり忘れていた私である。どうも多方面に気が回らないんだよね、、、。
久保田さん、どうもありがとうございました。
さて、いつもは一人寂しく(?)、または夫を付き合わせて実行している「まにあっくドイツ観光」ですが、アイディア提供、コラボのお誘いなど歓迎です。「うちの近くにこんな場所あるよ!」とか「こういうところへ行くけれど、一緒にいかが?」などありましたら、お気軽にツイッター(@chikacaputh)を通してメッセージください。ドイツ国内に限らず、番外編として周辺諸国へも喜んで行きますよ。
オーバーコッヘンのカール・ツァイス博物館、ZEISS Museum der Optik
先日、シュヴェービッシェ・アルプの洞窟群を訪れるため、南ドイツのハイデンハイムという町に1週間ほど滞在した。ハイデンハイムを拠点としてブラウボイレンやローネ渓谷など、考古学的見所を回っていたのだが、地図を眺めていたらハイデンハイムはオーバーコッヘン(Oberkochen)が近いことがわかった。オーバーコッヘンは小さな町だが、光学に関心のある人ならきっと知っているだろう。世界的光学機器メーカー、カール・ツァイス社(Calr Zeiss)の本社のある町だ。
ツァイス社は1846年、旧東ドイツのイェーナに設立されたが、第二次世界大戦でドイツが敗戦すると東の「カール・ツァイス・イェーナ」と西の「カール・ツァイス・オプトン」(オーバーコッヘン)に分断され、それぞれ独自の発展を遂げた。ドイツ再統一後、両社はツァイス・イェーナがツァイス・オプトンに吸収される形で統合された。現在、イェーナとオーバーコッヘンのそれぞれに光学博物館がある。これまでにイェーナのツァイス光学博物館とドイツ光学産業の発祥地であるラーテナウの光学博物館を訪れ、どちらもとても面白かったので、オーバーコッヘンのツァイス博物館、ZEISS Museum der Optikへも行ってみることにした。
光学博物館は独立した建物ではなく、ツァイス社のビルの中にある。1階部分がミュージアムスペース。
見学は無料で、フロアに入ってすぐの場所にツァイス社のプラネタリウム投影機がどーんと置かれている。
イェーナの光学博物館とは異なり、博物館というよりもどちらかというとショールーム的な空間だ。フロア中央部にはツァイス社製の医療機器など、最新のプロダクトも展示されている。
光学や天文学の歴史、技術史のコーナーもあり、中高生の学習にちょうど良さそうだ。
天文学史の展示でザクセン=アンハルト州ネブラで発掘された世界最古の天文盤、ネブラ・ディスクが紹介されていたので嬉しくなった。ネブラ・ディスクについては過去記事で紹介した。
館内にはツァイス製のプラネタリウムもある。
ツァイス製レンズを使用したカメラのディスプレイ。プロター、プラナー、テッサーなどツァイスの名レンズも見られる。
展示を見ていたら、突然「東郷平八郎」の名前が出て来たのでおやっと思った。「東洋のネルソン」と呼ばれた明治時代の海軍指揮官、東郷が日露戦争において日本を勝利に導くことに成功したのには、ツァイス製レンズが一役買っているという。東郷はツァイスの双眼鏡を使っていたそうだ。へえー。
他にも様々なものが展示されていたが、あまり写真を撮らなかったので今回はこれだけで。
ドイツ光学産業の歴史やツァイス社の歴史を詳しく知るにはイェーナのツァイス博物館の方が展示が充実していると感じたが、ツァイス社の歴代プロダクトや最新技術に興味がある場合はこちらが良いのかもしれない。私は光学の知識がほとんどないので技術的内容は消化できないが、これまでラーテノウ、イェーナ、オーバーコッヘンと回って来てドイツの産業史に興味を持つようになった。光学以外の分野の歴史も今後、探ってみたい。
ネルトリンゲン、リース・クレーター内のジオトープで隕石衝突の跡を観察
ネルトリンゲンでは真っ先にリース・クレーター博物館へ行き、リース・クレーターとそれが形成される原因となった1450万年前の隕石落下についての展示を見た。ネルトリンゲンを含む表面積およそ1800km²のリース・クレーターは現在、ジオパークに指定されている(Goepark Ries).
このジオパークには全部で8つのジオトープがあり、散策しながら隕石衝突の跡を観察することができる。個人でも歩いても構わないが、専門のガイドさんに案内してもらうこともできると聞き、ツーリストインフォメーションでガイドさんを手配してもらった。運良く、ネルトリンゲンから約1.5km南のジオトープ・リンドレ(Lindle)を案内してもらえることになった。
リースクレーターは二重のリング構造をしていて、ネルトリンゲンは内側のリング上に位置している。クレーターの形成については前記事に書いたが、今回私たちが歩くことになったジオトープ・リンドレは、上の写真の赤丸の場所で、内と外の両リングに挟まれた「メガブロック・ゾーン」にある。このゾーンは隕石衝突の衝撃で砕けた岩石がクレーターの内側に滑り落ちた崖となっていて、衝撃の跡が観察できる。
ジオトープ・リンドレはかつて採石場として利用されていた。岩肌を見ながら2時間ほどかけてぐるりと回る。

黄土は古くから顔料として使われた。右上に見える赤土はジュラ紀の鉄砂岩。
隕石衝突で斜めや縦にずれた岩石。

衝撃波で粉々に砕けた石灰岩。

この崖ではアポロ14号および17号の宇宙飛行士らが事前訓練を行った。
ジオトープでは岩肌を観察するだけでなく、岩石のかけらをハンマーで叩いて持ち帰ることも許可されている。
私は燧石(火打ち石)を採取することにした。

艶のあるグレーの部分が燧石。石器時代の人々はフリントとも呼ばれるこの石で火を起こしただけでなく、叩いて加工し、道具として使っていた。
ガイドさんがこのジオトープで採集された化石や石をリュックから出して説明してくれた。

真ん中の濃い色をした物体は白亜紀に絶滅したイカ、ベレムナイトの化石だ。バルト海の海岸にはベレムナイトの化石が大量に落ちているので私には馴染みがある。少しピンボケになってしまったが、その下(手前)の物体もやはりベレムナイトで、隕石衝突の衝撃でこのような形に変形してしまったそうだ。
ここの採石場ではスエバイトを切り出していた。前記事でも触れたが、スエバイトとは特殊な角礫岩で、隕石衝突の衝撃で溶融した岩石が急冷してできたガラスの破片がとりこまれている。シュヴァーベンシュタイン(シュヴァーベン地方の石)とも呼ばれ、ローマ時代からこの地方では建築材として利用されて来た。ネルトリンゲンでは市庁舎やゲオルグ教会、バルディンガー門などに使われている。また現代はセメントの強化剤としても使われる。
スエバイトのかけらを採る夫。スエバイトには隕石衝突の瞬間の高温・高圧下で形成された衝突ダイヤモンドが含まれているそうだ。でも、すごく小さい(1mmにも満たない)ので、商業利用価値はないらしい。
博物館で隕石衝突について知るのも興味深いが、やはり現場を見るのはもっと面白い。他の5つのジオトープも全部歩きたかったが、今回は時間の関係でリンドレしか見られなかった。
書ききれなかったこともあるが、シュヴェービッシェ・アルプおよびネルトリンゲンのジオパーク巡りは本当に楽しく、満たされた。ジオ旅行では野外をたくさん歩くので、健康的なのも良い。私は文化にも興味があるが、文化は価値観と結びついているだけにいろいろと考えさせられ、悩ましいこともある。自然には素直な気持ちで接することができるのがいいな。
これから冬に入ると寒くて野外活動は厳しくなるけれど、また春になって他のジオパークを訪れるのが楽しみ。
隕石孔の町、ネルトリンゲンのリース・クレーター博物館
前回の記事ではシュタインハイム・クレーターについて紹介したが、 シュタインハイムの隕石落下とおそらく同時期に、さらに大規模な直径約1000メートルの隕石がそこから40km北東に落下し、直径25kmにも及ぶ巨大なクレーターを作った。リース・クレーターと呼ばれるそのクレーターは、現在ジオパークになっている。クレーターの内側に位置するネルトリンゲンという町にはリース・クレーター博物館(Ries Kratermuseum Nörtlingen)があるらしい。シュタインハイム・クレーターを見たからには、その兄分であるリース・クレーターも是非訪れたかった。ということで、1週間滞在したシュヴェービッシェ・アルプを後にし、ネルトリンゲンへ向かった。
ネルトリンゲンは日本でもよく知られる観光ルート、ロマンチック街道沿いにあり、中世の街並みが人気だ。しかし、今回はまにあっく観光旅行なので、街並みを楽しむのは後回しにして、リース・クレーター博物館へ直行する。
入り口はあまり目立たない。

ネルトリンゲンのリース・クレーターとシュタインハイム・クレーターの位置関係と大きさの比較。両者は二重の小惑星によって形成されたとされている。
ミュージアムではリース・クレーターについてのみでなく、天体や隕石、クレーター全般について知ることができる。かなり充実した内容だけれど、なぜか展示はドイツ語のみだった。他ではなかなか見られない内容なのだから、英語の説明もあったらいいのに。
リース・クレーターはわずか10分の間に形成された。小惑星衝突の衝撃で地面がくぼむと同時に周囲が同心円状に盛り上がり、衝突の衝撃で砕けて溶け、空中に舞い上がった岩石が再び地表に降り積もってがれきの層を作った。この時、この地域の地層の様々な層の岩石が複雑に入り混じり、「ブンテ角礫岩(Bunte Breccie)」と呼ばれる特異な礫岩を形成した。また、ブンテ角礫岩の間には、隕石衝突の衝撃によって溶融した岩石が急冷してできたガラスの破片がとりこまれた「スエバイト(Suevite)」という特殊な角礫岩が混じっている。つまり、一言でいうと、リース・クレーターは「すごく珍しい岩石が見られる場所」なのである。
様々な岩石がリース・クレーター中心部からの距離と方向がわかるように展示されている。
中心部からやや離れた場所。
中心部のスクリーンでクレーター形成についての説明動画を見る。とても面白かった。しかし、リース・クレーターの形成が隕石によるものであることが明らかになったのはわりあい最近のことだそう。それ以前には火山活動によるものではないか、いや氷河によるものだろう、いやテクトニクスだと、様々な仮説が提示されていた。1904年にエルンスト・ヴェルナーが初めて隕石衝突説を唱えたものの相手にされず、1933年には米国アリゾナ州のバリンジャー・クレーターを訪れたオットー・シュトゥッツアーも改めて隕石説を発表したが、やはり笑い者になっただけだった。しかし、1960年、米国の天文学者、ユージン・シューメーカーがアポロ計画で採取された岩石を分析し、リース・クレーターが隕石衝突によって形成されたものであることを証明した。その後、リース・クレーターはミッション前の宇宙飛行士の訓練場にもなっている。
月の石
隕石に関する展示もとても興味深い。隕石のタイプには石質隕石、鉄隕石、石鉄隕石があるが、ネルトリンゲンに落下したのは数の上で最も多い石質隕石である。

これは、1822年にチリのアカタマ砂漠で見つかったイミラックと呼ばれる石鉄隕石。綺麗なので写真を撮ったのだが、あとで調べたところ、かなり希少な石鉄隕石らしい。

これは、2002年4月6日にバイエルン州ノイシュヴァンシュタイン城に落下した隕石。

チェリヤビンスク隕石。私は最近まで大学で自然科学を学んでいたのだが、たまたま小惑星の地球との衝突について学んでいた2013年2月、ふと勉強の合間にツイッターを開けると、「空から何かが降って来た!」と大騒ぎになっていてびっくりした。しばらくするとロシアのチェリヤビンスクに隕石が落下したというニュースが流れて再びびっくりしたのでよく覚えている。
リース・クレーターの形成時期は今から約1450万年前と推定されているが、絶対年代は先に述べたスエバイトに含まれるガラス質中の放射性同位体の崩壊を利用して測定される。それと並行して、堆積物中の化石を元にクレーターの地層の相対年代が測定される。

見事なアンモナイト!!

ボーリングの道具を利用した地層の展示。

シュタインハイムのメテオクレーター博物館でも見たが、ここでもモルダバイトが見られる。
かつてリース・クレーターは水で満たされ、湖となっていが、湖の岸辺だったと思われる場所では鳥の卵の化石が見つかっている。卵の化石は初めて見た。
これは恐竜絶滅をもたらしたとされるメキシコ、ユカタン半島のチュシュクルーブ・クレーター探索において米国ニューメキシコ州ラトン盆地で採取された岩石標本の断面。上部の濃いグレーの層(白亜紀)と下部のグレーの層(第三紀)の間には薄い白っぽい層が見られるが、この境界層には1トンにつき56gという大量のイリジウムが含まれている。イリジウムは地球上にはほとんど存在せず、下のグレーの層(第三紀)には1トンにつきわずか0.03gしか含まれていないことから、この境界の層は隕石が衝突した証拠とみなされるそうだ。
他にも興味深いものがたくさん展示されていたが、紹介しきれないので、このくらいに。リース・クレーター博物館のすぐ脇にはジオパーク・リース・インオメーション(Geopark Ries Infostelle)があり、小さいがこちらもとても面白い。博物館を出て、家で留守番をしている娘に土産でも買おうかと近くのアクセサリーショップに入ったら、店の女主人が「いつネルトリンゲンに来たの?ぜひ、クレーター博物館も見て行ってね!」と言うので、「あ、早速見て来ましたよ」と答えると、「よかったでしょ!やっぱり、ネルトリンゲンに来たらクレーター博物館を見ないと!見ないで帰っちゃう人もいるのよねえ。中世の街並みを見たくて来たって言う人も多いけど、中世の街並みなんて、他のところにもあるでしょう?ネルトリンゲンっていったら、クレーターなのよ」と女主人は力説した。確かにネルトリンゲンに来たならば、クレーター博物館は必見だろう。
しかし、クレーター博物館だけがネルトリンゲンならではの魅力ではない。博物館を見たら、今度は実際にジオパークの中を歩いてみなければこの町がクレーターの中にあることは実感できない。それについては次回の記事に。
1500万年前の隕石のかけらが見つかったシュタインハイム盆地のメテオクレーター博物館
シュヴェービッシェ・アルプ旅行では合計11の洞窟を見て回り、心はすっかり氷河期モードだったが、見たのは洞窟だけというわけでもない。拠点として滞在していたハイデンハイム近郊にはシュタインハイムという名の村がある。人口1万3000人弱の小さな村で、私はこれまで聞いたことがなかったのだが、実は知る人ぞ知る興味深い場所だった。というのも、氷河期からさらに時代をずっとずっと遡ること約1500万年前、隕石がここに落下し、その跡がクレーターとして残っているという。シュタインハイム村にはメテオクレーター博物館(Meteokratermuseum)があるが、毎年、10月31日までしか開館していないと読んで焦った。なぜならその日は10月31日。慌てて車を飛ばし、閉館時間の1時間前にギリギリ滑り込んだ!
Meteokratermuseum in Steinheim am Albuch
シュタインハイムは推定直径80メートル、質量90万トンの隕石が秒速25kmの速度で地球に衝突してできた直径およそ3.5kmのクレーター盆地の内側に位置する。衝撃で周辺が盛り上がって縁を形成し、中央部が隆起して丘となった。以下の図のような目玉焼き型の地形をしている。衝突時に放出されたエネルギー量は2.8 x 1017ジュール。これは、778億kw/hに相当し、シュタインハイム村の消費電力3188年分だというから凄まじい。
Meteokratermuseum in Steinheim am ALbuch
クレーターの内側は、ホワイト・ジュラ紀の地層の上に隕石衝突の衝撃で砕け散った岩石が再び落下して降り積もり、礫岩の層を形成している。その上には第三紀及び第四紀の堆積物が重なっているが、縁と中央丘はジュラ紀の地層がむき出しだ。
衝突でできた凹みにはやがて水が溜まり、湖となった。現在、水はなく主に牧草地となっているが、出土された多くの生き物の化石から写真のモデルのような豊かな生態系であったことがわかっている。
ミュージアムの展示はドイツ語のみだが、シュタインハイム・クレーターの誕生についての動画や隕石落下の条件などの説明を読むことができ、とても興味深い。シュタインハイム・クレーターは北東に約40km離れたネルトリンゲンのメテオクレーター(Nördlinger Ries)と同時期に形成されたと考えられている。ネルトリンゲンのクレーター盆地の方がずっと大きく、一般的によく知られているが、そちらに関しては別記事で改めて書くことにして、ここではシュタインハイマー・クレーターに集中したい。
これは今年(2017)、このミュージアムで偶然に発見された隕石のかけら。展示されていた石灰岩の塊にヒビが入ったため、展示から取り除こうとしたところ、亀裂断面に黒く光るものが見つかった。調べたところ、なんと隕石のかけらだった。
これまで、シュタインハイムに落ちた隕石は蒸発して完全に消滅したと考えられていたため、研究者らも驚いたらしい。
モルダバイト。隕石衝突時の高温と高圧力下で溶けた岩石が数百キロ遠くまでものすごい勢いで吹き飛ばされ、冷えて固まった天然ガラス(テクタイト)。チェコのモルダウ川周辺で最初に発見されたため、モルダバイトと名付けられた。光沢のある緑色をしている。後で知ったことには、パワーストーンだとして人気の石なのだってね。
これは「シャッターコーン」というもの。隕石の衝突時に衝撃波によって岩石表面に形成される円錐状の溝で、1905年にシュタインハイム盆地で初めて発見された。発生のメカニズムについては未だにわからない点があり、研究が続けられている。
展示を一生懸命読んでいたら閉館時間を過ぎてしまったが、「どうぞごゆっくり」と閉館を待ってくれた。ミュージアムを出るとき、「クレーターを一望できる場所はありますか」と聞いたら、すぐそばの小高くなったところから全体を眺められるとのこと。
もうすぐ日が沈みそう。急げ!

いつもと違うカメラだったのでパノラマ機能を素早く探すことができず、うまく全体を撮れなかった。手前の集落がシュタインハイムの村。その向こうのやや高くなっている(50m)ところがクレーター中央の丘だ。米国アリゾナ州のバリンジャー・クレーターを見に行ったことがあるが、バリンジャー・クレーターが「地面にぽっかり空いた穴」でわかりやすいのに対し、シュタインハイムのクレーターは堆積物が積もった上に植物も生えているので、説明されなければクレーターだとはわからない。クレーターに沿って歩くジオハイキングルートがあるので、周辺を観察しながらゆっくり歩いても楽しいかもしれない。
全体像のわかる動画を見つけたので貼っておこう。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その6 ブラウボイレン先史博物館
シュヴェービッシェ・アルプでの休暇でたくさんの洞窟に入り、また、考古学パークで氷河期体験をしたことで、すっかり氷河期ファン(?)になってしまった。中を見学した洞窟のいくつかからは人類史最古の芸術作品が発掘されているが、それら出土品はシュヴァーベン地方のあちこちの博物館や美術館に分散展示されている。ホーレ・フェルス洞窟から掘り出されたヴィーナス像と横笛、そして鳥のフィギュアはウルム近郊のブラウボイレン先史博物館(Urgeschichtliches Museum Blaubeuren)にあると聞き、見に行って来た。
ブラウボイレンは人口1万2000人の小さな町だが、ブラウトップフ(Blautopf)と呼ばれる青い泉があることで有名である。観光パンフレットなどに載っている神秘的な写真を見て、いつか行って見たいと思っていた。
あいにく空は曇っていたけれど、それでも泉の青さははっきりとわかる。このブラウトップフはカルスト泉で、ブラウトップフ洞窟と呼ばれる全長4900メートルにも及ぶ地下洞窟の一部なのだ。ブラウトップフ洞窟内部は水で満たされているため、洞窟ダイバーによる調査が行われている。
泉を見た後は先史博物館に向かう。
規模はそれほど大きくないが、とてもわかりやすい展示をしている良いミュージアムだ。

石器の作り方を詳しく説明するコーナーが合った。いろんな洞窟に入った後にこういうものを見ると、本当に面白く感じる。

出土されたものを深さごとに展示しているのが良い。

氷河期のヨーロッパ。スカンジナビア、英国北部、北東ドイツとシュヴェービッシェ・アルプが氷河に覆われている。丸い印は氷河期の遺物が発掘された場所だ。ドイツに特に多いように見えるが、必ずしもドイツに集中して人が住んでいたというわけではなく、発掘調査がドイツで特に盛んなことが理由らしい。

ローネ渓谷とアハ渓谷周辺から特に多く出土されていることがわかる。

これは最近、ホーレ・フェルス洞窟で見つかった三つ穴の装飾品(Dreilochperlen)。4万2000年〜3万6000年前のものと推定されている。

小さなアンモナイトのピアスと貝のペンダント。アンモナイトピアス、いいなあ〜。
さて、いよいよこの博物館のハイライト。
世界最古のヴィーナス像。「ホーレ・フェルスのヴィーナス」。

横笛。
水鳥。どれもとにかく素晴らしい。
シュヴェービッシェ・アルプに来たなら、洞窟や考古学パークでの生の体験とミュージアムをセットで考古学を堪能するのがおすすめだ。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その5 子どもと楽しめる洞窟、BärenhöhleとNebelhöhle
まだまだ終わらないシュヴェービッシェ・アルプ洞窟探検旅行。今回は、ウルムから西に約60kmの地点にあるベーレンへーレ(Bärenhöhle、熊洞窟の意)とネーベルヘーレ(Nebelhöhle、霧洞窟の意)という二つの洞窟を紹介しよう。
ベーレンヘーレは、中からアナグマの骨が多く出て来たことから「熊の洞窟」と呼ばれる石灰洞窟だ。シュヴェービッシェ・アルプシュヴェービッシェ・アルプの洞窟群の中では特に良く観光化されており、周辺には子どもの遊び場や土産物屋などがあるため、家族連れで賑わっていた。
早速、ガイドツアーに申し込んで中に入ってみる。
洞窟の中は照明を多く使っているため、苔が生えて緑色になっているところが多く見られる。
こんな感じでゾロゾロと見学。保護のため、フェンスで囲まれている部分が多いのも特徴。
つらら石や石筍、ストロー(マカロニとも呼ばれる)などいろいろな鍾乳石がぎっしりだ。洞窟内はカラーLEDでライトアップされていて、少々キッチュな感じがしないでもないが、子どもには魅力的だろう。また、わりあい明るいので、小さな子どもでも安心して歩ける。
これが上下繋がって石柱になるまで、あとどのくらいかかるだろうか。1立方センチメートル成長するのに60〜80年かかるとのこと。
これも見事。
この洞窟からはアナグマだけではなく、様々な動物の骨が発見されたことから、一時期、ハイエナの巣穴だったのではないかとされている。人骨も見つかっており、旧石器時代に人々が生活していたこと、また、その後の人類の歴史においてあらゆる時代の人々がゴミ処理場としても使用していたことがわかっている。
地面には上から滴り落ちる水で濡れ、石筍が形成され始めているところがあった。(右上の丸く盛り上がっているところ)
天井に何か黒いものが見えると思ったら、、、、。
コウモリの死骸だった。冬眠したまま死んでしまったのだろうか。
ベーレンヘーレでは一般ツアーの他に、「宝探しツアー」「メルヘンツアー」など小さな子どもを対象としたガイドツアーもあり、マルチメディアCDも販売されている。ベーレンヘーレのすぐ側には、ネーベルヘーレ(霧の洞窟)がある。ベーレンヘーレは見学できる部分の奥行きが250mだが、ネーベルヘーレは450mとさらに深い。発見は1920年で、シュヴェービッシェ・アルプで最も古くから知られている洞窟の一つだ。ベーレンヘーレほど混んでいなかったのでゆっくりと見学でき、私はどちらかというとネーベルヘーレの方が気に入った。
石筍の断面。初めて見た。
なんとも言えない不思議な光景。
この二つの洞窟は見応えがありながら観光のハードルが低いので、家族でのお出かけにピッタリ。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その4 世界最古のヴィーナス像と笛が出土されたホーレ・フェルス
まだまだ続くシュヴェービッシェ・アルプ洞窟探検旅行、次の目的地はアハ渓谷シェルクリンゲン(Schelklingen)にある洞窟、ホーレ・フェルス(Hohle Fels)だ。ホーレ・フェルス洞窟からは1830年代以降、アナグマやマンモス、野生の馬の骨や石器時代の道具などが発掘されて来たが、2008年の再調査において、考古学的記録を塗り替える約4万2500年前のヴィーナス像と横笛が見つかった。これまでに発見された中で最も古い、人をかたどった芸術作品と楽器である。また、ホモ・サピエンスだけではなく、さらに時代を遡った6万5000年前頃にネアンデルタール人が同じ洞窟には生活していた証拠もあるという。
シュヴェーヴィッシェ・アルプの一般公開されている洞窟群は冬季はコウモリ達が中で冬眠するため、10月末、または11月のはじめに閉鎖される。その洞窟により見学できる期間が多少異なり、私たちは10月の終わりから11月のはじめにかけて休暇を取ったので、ギリギリ入れるか入れないかだった。ホーレ・フェルス洞窟に着くと周りに人影はなく、入り口のフェンスが閉まっていたので「遅かったか」とガッカリしていたところ、地元の人と思われる男性が数名の客人を連れて近づいて来た。声をかけると、今年の一般公開期間は前日に終了したが、自分は管理者の一人で、特別に案内してもいいと言ってくれた。たまたま良いタイミングで洞窟に着いて運が良かった!
洞窟入り口。
入り口はトンネルになっており、その奥にドームのような空間が広がっている。
想像していたよりも大きくて圧倒される。これは下から上部を見上げたところ。空間の大きさは6000立方メートルだそうだ。
出土されたヴィーナス像と横笛はブラウボイレンの先史博物館に展示されている。
後日、博物館で撮影したVenus of Hohle Fels。フォーゲルヘルト洞窟からの出土品同様、マンモスの牙でできている。
シロエリハゲワシの橈骨から作られた20cmほどの長さの横笛。4万年も前の人々が楽器を作り、音楽を奏でていたとは驚きである。
洞窟の上部奥から下を眺める。入り口付近に椅子が並べられているが、こうして見るとまるでベルリンフィルのホールで上部客席からステージを見下ろしているときのようだ。そんなことを考えていたら、案内役の男性が音楽をかけてくれた。プロの演奏家による横笛の演奏を録音したものだそうだ。しばらく聞き入ってしまった。4万年前の人たちがどんなメロディーを奏でていたのかはわからないが、この洞窟の中で同じような音を聴いていたのかと想像すると、とても感動的だった。
最初に発見されて以来、この洞窟ではお祭りのようなイベントがしばしば開催されて来た。戦時中、防空壕や武器の倉庫として使われていたため中断されていたが、1950年からは毎年、洞窟祭りが催されている。ときどき洞窟コンサートも開かれるとのこと。中で火を焚いたら凄いだろうなあ。
コンサート動画。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その3 地下55 mの深さまで潜れる洞窟、 Tiefenhöhle Laichingenで冒険気分を味わう
来る前はそこまで期待していなかったシュヴェービッシェ・アルプだが、どんどんと面白さを増して行く。初日にはCharlottenhöhle、Vogelherdhöhleという二つの洞窟を訪れたが、二日目はハイデンハイムから南西に移動し、地下洞窟Laichinger Tiefenhöhleへ行くことにした。この洞窟は観光客に一般公開されている洞窟としてはドイツ国内で最も大規模なものの一つである。苦灰岩(ドロマイト)が地下水に侵食されてできた迷宮のような洞窟が地下80メートルの深さまで探索調査されている。そのうち55メートルの深さまでは観光客も潜れるように整備されているという。
地下に潜れると言われても、イメージが掴みにくいかもしれない。断面図で見るとこんな感じ。
©Tiefenhöhle Laichingen
図の上部左側に描かれた建物内に洞窟の入り口があり、カルストの通路を伝って地下55メートルの深さまで降りて行く。そこから奥へと移動しながら再び地上に向かって登って行き、最後は右側の建物から地上に出る。一般公開されている通路の長さは約330メートル(洞窟全体の長さは1253メートル)だ。この図を見ただけで、ワクワクして来た。この洞窟にはガイドさんなしで入ることができる。ヘルメット着用は義務付けられていないが、ズボンの裾が濡れないように防水のバンドを脛に巻くように言われた。
入り口。いざ、洞窟内へ。
いきなり狭い!下がどうなっているのか全然わからない。
通路には手すりがついている(水を抜く導管を手すりに利用しているようだ)が、階段はかなり急。足場はしっかりしているので気をつけて降りれば特に危険ではないが、幼児には難しいだろう。閉所恐怖症だったり心臓の弱い人にも向かないかもしれない。
足元に気をつけながらどんどん降りて行く。アドレナリン出まくりである。
ところどころに音声による説明ポイントがあり、ドイツ語、英語またはフランス語のいずれかで洞窟の地質について学べる。こちらの記事にも書いたように、シュヴェービッシェ・アルプはジュラ紀には海水に覆われていた。この洞窟は地表から28mの深さまでは、ジュラ紀に堆積した石灰岩中の炭酸カルシウムが炭酸マグネシウムに変質した(ドロマイト化)と考えられているそうだ。上層の岩はゴツゴツとして硬いが、空洞が多い。それより下に潜ると岩の密度が高くなり、ずっしりとした質感になる。
狭い!!
どのくらいの狭さかというと、この通り。岩の裂け目の中を通るなんて楽しすぎる。
言葉でこの感動を伝えるのはとても難しい。
普段どのくらい観光客が訪れるのかわからないが、このときは洞窟の中は私と夫だけだったので、その分余計にエキサイティングに感じたかもしれない。
うわあーーーーー!!写真では抑揚感を伝えられなくて残念!
これは「カーテン」と呼ばれる鍾乳石だろうか。ガイドさんがいないのではっきりわからないが。
また少しづつ登って行き、外界に出た。所要時間は約40分。面白かったーーーー!!
やはり自然は壮大だ。私はいろんな種類の旅行が好きで、知らない町を街並みを眺めながら散策したり、海で泳いだり、博物館を訪れるのもとても楽しいが、これまで旅して来た中で特に印象に残った場所はどこだったかと思い起こしてみると、そのほとんどはスケールの大きな自然を体感した場所である気がする。このシュヴェービッシェ・アルプ地方は間違いなくこれまでで特に感動的だった場所の一つになった。中でもこの洞窟に潜った体験は後々まで忘れられないものとなりそうだ。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その2 考古学テーマパーク、Archäopark Vogelherdで氷河期の生活を体験
洞窟体験休暇と名付けたシュヴェービッシェ・アルプでの休暇では、まず洞窟、Charlottenhöhleに入った。(その記事はこちら)次に向かうは同じくローネ渓谷にあるフォーゲルヘルト考古学テーマパーク、Archäopark Vogelherdだ。
Archäopark Vögelherdは、2013年にオープンした考古学テーマパークで、フォーゲルヘルト洞窟(Vögelherdhöhle)のすぐ下に位置する。今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに認定されたシュヴェービッシェ・アルプの洞窟群は考古学的に非常に重要な洞窟群である。これらの洞窟からは今から約3万2000年〜4万年前に作られたとみられる芸術作品が複数の洞窟の中から次々と発見されているのだ。フォーゲルヘルト洞窟からは氷河時代の様々な動物をかたどった11個の小さな象牙の彫り物が出土されている。
フォーゲルヘルト考古学パークを洞窟のある丘の上から見たところ。写真の奥に見える細長い建物はビジターセンター。まだオープンして間もないこともあり全体的にシンプルな印象だが、侮ることなかれ。ここは子どもにも大人にも面白いテーマパークなのである。
私たちはガイドツアーに参加することにした。オフシーズンで肌寒い日だったせいか、ツアーは私たち夫婦と二人のティーンエイジャー連れの家族が一家族のみだった。ツアー内容はパーク内の学習ポイントのそれぞれでガイドさんの説明を聞きながら氷河期(旧石器時代)にローネ渓谷に住んでいた人々の生活を体験しながら回るという趣向だ。
最初の学習ポイントでは氷河期に人々が使用していた道具について学ぶ。いろいろなハンドアックス(握斧、ドイツ語ではFaustkeilと呼ぶ)を握らせてもらった。ハンドアックスは氷河期のアーミーナイフのようなもので、一つで切る、叩く、削る、砕くなどのいろいろな手作業を行うことができる。試しに皮を切って見たが、よく切れる。ハンドアックスによく使われるのは主に燧石(フリント、火打ち石)がよく使われる。写真中央に見えるのは木の棒の先に石器を紐でくくりつけた石槍だが、紐で結わえるだけでは取れやすいので、何かで接着しなければならない。
当時は白樺のタールが接着剤として使われていた。(写真の黒い物質)熱して溶かし、熱いうちに道具をくっつけて冷えて固まるのを待つ。ホモ・サピエンスだけでなく、ネアンデルタール人も使っていたという。
次のポイントでは獲物を捕まえる体験。ネアンデルタール式の槍とホモ・サピエンスホモ・サピエンス式の矢の両方を獲物めがけて放ってみる。
ネアンデルタール式投げ槍。投げてみたけど、届きゃしない、、、、。食糧を得るのは大変だね。
こっちはホモ・サピエンス式の矢。矢のお尻の部分にドイツ語でSperrschleuderと呼バレる投槍器を当てて握り、投槍器は握ったまま矢だけを飛ばす。ネアンデルタール式の投げ槍よりははるかに軽く、飛ばしやすいが、これも私は獲物に全然当たらなかった。今日の晩御飯はなしか、、、。
と思ったが、夫は楽々と50メートルほど飛ばし、命中。憎たらしい。が、これで肉鍋が食べられるのだから良しとしよう。

別の学習ポイントではローネ渓谷で見つかった様々な動物の骨を観察した。これはマンモスの臼歯。
パーク内の学習ポイントを回りながら丘を登り、フォーゲルヘルト洞窟へ。
中は外よりずっと暖かい。ここで石器時代の人たちが生活していたのかと思うと、なんだか感動的である。それも、ただ生存していただけではない。3万2000年も前にこの洞窟に住んだ人々は芸術作品まで生み出していたのだ。それらはヨーロッパにおいて最後の氷河期の第1亜間氷期から第2亜間氷期まで続いていたオーリニャック文化の一部をなすもので、シュヴェービッシェ・アルプの他の洞窟で見つかったものと合わせ、これまでに発見された最古の「持ち運べる芸術作品」である。パークの入口のビジターセンターではこの洞窟で出土された11の作品のうち、2つが展示されている。
モンモスの牙で作ったマンモスのフィギュア。大きさ3.7cm、重さ7.5g。石器の道具でこんな小さなフィギュアを作るなんて、作者は手先の器用な人だったのだな。
同じくマンモスの牙で作ったホラアナライオンのフィギュア。この洞窟からは、これら二つの他に野生の馬、トナカイ、バイソン、アナグマ、パンサーなどが見つかっている。(こちらのページに一覧写真がある) その中で特に人気で野生の馬はこのテーマパークが属するNiederstotzingen市のロゴになっており、実物はチュービンゲン大学博物館で見られる。
洞窟を出ると、日没間近になったせいか、さらに寒くなった。ぶるる。でも、この程度の寒さで寒いと言っていたら、氷河期を生きた人には呆れられてしまう。そんなことを考えているとガイドさんが「さあ、みなさん。最後に石器時代の人たちのやり方で火を起こしてツアーはおしまいです」と言った。やった、暖を取れる!
石器時代の焚き火起こしセット。これは後日、先史博物館で見たものだが、当時の人たちは火を起こすのに火打ち石(フリント)、黄鉄鉱(パイライト)、乾燥させたキノコ(火口として使う)、アザミの綿毛などを使っていた。
ガイドさんが火打ち石(フリント)と黄鉄鉱(パイライト)をカチカチと打ち合わせると火花が散った。火花を素早く乾燥キノコに接近させて発火させる。

発火したら素早くアザミの綿毛と藁で包み、巣のようなものを作る。
それを手に持ってフウフウ吹く。結構な肺活量が必要そうだ。
やった!
あったかいねー。
煙たいのですぐに出てしまった。
1時間ほどのツアーだったが、かなり面白かった。子どもも楽しめるのはもちろん、大人にとっても為になる内容だ。まだ新しいテーマパークなので、今後は一層充実していくだろう。私はこれまで石器時代に特別興味を持っていたわけではなく、先史博物館などに石器がずらりと展示されているのを見ても、何がどう違うのか今ひとつピンと来ていなかった。しかし、この考古学パークで石器時代の手ほどきを受けたおかげで、この後訪れた博物館ではハンドアックスなどの道具が急に生き生きとしたものに見えて来た。たとえ真似事ではあっても自分で少しでも体験してみることで、それまで自分とは無関係と思われたものが意味を持ち始めると実感した。
ドイツ語だけれど、関連動画を見つけたので、興味のある方は是非、見てみてください。
ユネスコ世界ジオパーク、シュヴェービッシェ・アルプ その1 洞窟、Charlottenhöhle
夫が秋休みを取ったので、私たちは10月の終わりから11月にかけての一週間を南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプ(Schwäbische Alb)で過ごすことにした。シュヴェービッシェ・アルプとは「シュヴァーベン地方のアルプス」の意味であり、その名が示す通り、山脈を中心に長さ約400km、幅35〜40kmに広がる地帯だ。シュヴェービッシュ・アルプは今年、2017年にユネスコ世界ジオパークに登録された。ゴツゴツとした岩が剥き出しになった山脈のあちこちに約3万5000〜4万3000年前に人類が住んでいたとされる洞窟がいくつもあり、驚くべきことにそのいくつかからは彼らの残した芸術作品や楽器が数多く出土されているのである。
世界最古の芸術作品が出土された洞窟!!
それは何やら凄そうではないか。そこで今回の旅行を「洞窟探検休暇」と名付けて出かけた私たちである。Heidenheim an der Brenzという町を拠点にシュヴェービッシュ・アルプの洞窟を回った。まず最初に訪れたのは、ローネ渓谷(Lonetal)にあるシャーロッテンヘーレ(Charlottenhöhle)だ。
Charlottenhöhleは1893年に発見され、当時のヴュルテンベルク王女、シャルロッテにちなんで名付けられた鍾乳洞で、深さはおよそ地下35m、長さ532mの通路。シュヴェービッシェ・アルプの洞窟には一般公開されているものと研究者しか中に入ることのできないものとがあるが、この洞窟は一般公開されているものの中では最も長さがある。早速ツアーに申し込み、ガイドさんの後をついて中に入った。
鍾乳石や石筍に関する説明を聞きながら奥へと進む。鍾乳洞は日本やその他の国でも何度も見たことがあるが、ドイツでは初めてなので久しぶりだ。
シュヴェービッシュ・アルプはかつては浅いトロピカルな海だった。海の生物の死骸が堆積してできた石灰岩が地殻変動によって隆起し、二酸化炭素を含む雨水や地下水によって長い時間をかけて侵食されカルスト地形を形成している。石灰岩の割れ目から入り込んだ水が炭酸の作用で周辺を溶かして空洞を作る。空洞を満たしていた水がなくなると、歩いて入ることのできる洞窟となる。このCharlottenhöhleはおよそ250〜300万年前のジュラ紀後期に形成されたものだという。
つららがたくさん。
リンゴの木のような形をした鍾乳石。上部の丸いつぶつぶはケイブパール(「洞窟の真珠」の意味)と呼ぶそうだ。
大きな石筍。
これは、フローストーンというものかな。(間違ってたらすみません)
石筍と鍾乳石が繋がって石柱を形成しているところもある。
なっかなか面白い。これが最初に入った洞窟だったので、この時点ではかなり興奮していた。この後もっと凄くなるのだが、、、。
鍾乳洞の近くにはHöhlenSchauLandというビジターセンターがあり、ローネ渓谷の自然史について展示を行なっている。
貝、魚の骨、サンゴ、、、本当にここはかつて海の底だったんだね。現在は国土の最北にしか海のないドイツに住んでいるとなんだか不思議な気がするが。
石筍の断面。縞模様ができているのが見えるだろうか。木の年輪のようなもので、この成長縞を元にウラン-トリウム法という方法を使って石筍の年代を測定する。石筍に取り込まれた放射性アイソトープU234とTh230の半減期がそれぞれ異なるので、両アイソトープの比率を調べることで形成時期を知ることができるのだ。
面白いなあ。でも、これはまだ序の口。これからもっともっと面白くなるのだ!
ビールの貯蔵庫として使われたバイロイトのカタコンベ
バイロイトでビール博物館を見た後はビール博物館から丘を徒歩で数分上がった別のビール醸造所、Bayreuther Bierbrauereiに移動した。この醸造所の地下にあるというカタコンベを見るガイドツアーに参加するためだ。
こちらでも醸造所の娘さんと思われる若い女性が案内してくれた。パブのカウンターでツアー料金を払い、ガイドさんについて地下への階段を降りる。
ツアーではおよそ900メートルある地下トンネルを移動しながらバイロイトの町の歴史やビール鋳造の歴史について話を聞く。カタコンベというのは普通、地下に作られた墓地のことをいうが、このカタコンベは墓地ではない。15〜19世紀に掘られたものと考えられているが、どうしてできたのかはよくわかっていないそうだ。地下資源を掘る際にできたトンネルだという説が有力らしい。中はひんやりとした一定の温度に保たれているため、19世紀にはビールの貯蔵庫として活用されていた。
中にはビール醸造の道具の他にバイロイトの生活文化に関する展示物も並べられている。
第二次世界大戦の終わりにはこの地下トンネルは防空壕としても使われた。1945年4月に投下された3つの爆弾でバイロイト市街地の1/3が破壊されル事になったが、その際、多くの市民がこのカタコンベに避難した。避難者は3日間外に出られず、肉屋のマイスターがカタコンベの中で作ったスープで飢えをしのいだという。
カタコンベの中では負傷兵の緊急手術も行われた。
面白かったのは通路のあちこちにビールやビールを使った料理のレシピが貼ってあることだ。
古代エジプトにおけるビールの作り方や、
ゲルマン民族のビールレシピなど。ゲルマン民族はビールに生姜やキャラウェイなどのスパイスや蜂蜜を入れていたようだ。現在のビールとは随分違う味だったに違いないね。でも、最近はこちらで試したようにいろんな変わったクラフトビールもあるようだから、ゲルマン民族のビールの味と通じるところがあるのかな。ドイツでは19世紀まで大人も子どもも朝食として「ビールスープ」をよく食していたそうだ。パンをビールで煮てバターを入れ、塩や砂糖で味をつけたものが一般的だったらしい。しかし、壁にはもっと凝ったレシピが貼ってあったので紹介したい。
作り方は書いていなかったが上記の材料を煮立てるのだろう。美味しいのだろうか、、、うまく想像ができないが。ガイドツアーの終わりにはパブでこの醸造所のビールが1杯タダで飲める。