十数年前からベルリン近郊、つまりドイツ東部に住んでいるが、東部には東ドイツ人民共和国(DDR)時代に建てられた建物が多くある。社会主義の理想に基づいて設計された建物、とりわけプラッテンバウ (Plattenbau ) と呼ばれる高層の集合住宅は旧西ドイツ側に住む人たちの間ではすこぶる評判が悪い。でも、私にとってはプラッテンバウには昭和の団地風景を思い出させるものがあり、独特の魅力を感じないでもないのである。
“Architektur in der Deutschen Demokratischen Republik (ドイツ民主共和国における建築) ” という資料を見つけたので、手に取ってみた。
Volk und Wissen Verlag(人民と知識出版社)という学校用教材の出版社が1972年に発行した40ページの資料で、美術の副読本として使われていたようである。
この資料では、DDR時代に建てられた建築物だけでなく、それ以前の歴史的建築物の例として中世の街並みを色濃く残すクヴェドリンブルク(Quedlinburg)の教会や木組みの民家、旧東ドイツ各地の都市の市庁舎やマルクト広場、ドレスデンやポツダムの宮殿やベルリンの歴史的地区についてもかなりのページが割かれ、詳しく図解されている。
でも、そこの部分は別の機会にじっくり読むとして、今回集中したいのは27ページからの「ドイツ人民共和国における社会主義的な住宅建築および都市計画」の部分だ。この資料は現在の視点による客観的な資料ではなく、DDR時代の学校教材なので、当時の理想に基づいた記述がなされているという前提で読むことにしよう。
第二次世界大戦で瓦礫の山となった都市を復興するに当たり、社会主義国家となった東ドイツは社会主義的なコンセプトに基づいた都市開発に着手した。資本主義社会の産物である階級格差をなくし、労働者に人間らしい住環境を提供することが社会主義の理想の実現に不可欠であるとのモットーのもと、住宅の建設が特に重視された。この資料によると、「1949年から1975年までの間に190万戸のアパートが新築または改築され、500万人以上の国民の住環境が改善された」そうだ。西ドイツが引き合いに出され、「西ドイツでも低所得者向けの社会福祉住宅が建設されてはいるものの、家賃は最大で収入の50%にも及ぶのだから問題の解決にはなっていない。その点、東ドイツでは光熱費など含めても家賃が収入の8%を超えることはあり得ない」と誇らしげだ。
住宅の建設は当然、都市開発全体の中で行われたわけだが、既存の都市が社会主義の理想に基づいて再設計されただけでなく、産業都市としてアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)やホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の社会主義的ニュータウンなどが新設された。以下の過去記事でレポートした通り、アイゼンヒュッテンシュタットは「ザ・社会主義の町」という感じでとても興味深い。私のお気に入り東ドイツ都市ベスト3の一つ。
トム・ハンクスが絶賛する旧東ドイツの社会主義計画都市、アイゼンヒュッテンシュタット
資料に戻ろう。左上の写真はノイブランデンブルク市の中心部。ノイブランデンブルグは中世の市壁が残る古い小さな町だったが、DDR時代に大掛かりな開発によって拡大されたため、レンガ造りや木組みの古い建造物と社会主義的な建物がほどよくミックスされていてなかなかおもしろい町だ。下の写真はコットブス(Cottbus)中心部に作られたプラッテンバウ団地。
政治的・経済的・文化的中心地となった首都ベルリンの開発には当然のことながら、特別に力が入れられた。ソ連をモデルにして作られた大通りカール・マルクス・アレー(Karl Marx Allee)沿道のスターリン様式建築物を始め、東ベルリンには社会主義建築が密集している。ドイツ再統一から30年近く経った今は東ベルリンの街並みも随分変化したけれど、DDRの面影が完全に消えることはないだろう。
東ドイツではベルリンだけでなく小規模の都市でも中心部の空間づくりが広々としているのが特徴的だと感じる。ちなみに、社会主義の本家ロシアの首都モスクワはもちろんのこと、他の旧社会主義諸国へ行くと首都のデザインがよく似ていて、お揃いの建物も見つかる。
今回紹介した資料はドイツ社会主義統一党(SED) による自画自賛的な出版物なので、基本的に良いことしか書いていないのだけれど、それでもモダンな高層住宅やその他の公共施設が建設された当時の東ドイツ社会の空気感をいくらか想像することができた。高層住宅のデザインやそこでの国民の暮らしについてもっと詳しく知りたいところだけれど、それにはまた別の資料を探すことにしよう。